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前回掲載した密蔵院、そこから西に5分も歩けば五十三番札所鶴林山安養院の門前に至ります。第4回の梵字カードはこちらで配布されていました。左に「真言宗豊山派 安養院」寺標、右手に沿革が立てられています。当日はボランティアの方がみえ、みちびき地蔵、せき地蔵が霊験あらたかなのでお参りを盛んに勧められました。安養院沿革「当院は白河天皇初定の大御堂寺一山の一院で南ノ坊と称し、江戸時代に安養院と改称。明治になり、意雲院、圓明院、 龍松院を合併し現在に至る。本尊は中心に阿弥陀如来、両脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を従えた弥陀三尊仏である。この地で源義朝公と共に無念の最後を遂げられた第一の郎党、鎌田政清の次男政直が父の菩提を弔う為の念持仏である。降って天正11年(1583)、織田信長公が三男、三七信孝公は、羽柴秀吉との跡目争いに破れ野間の地に敗走し当院にて自刃。根の内にその生涯を終えられた。」 ここには創建等記されていないが、別の沿革には以下のように記されています。「真言宗豊山派 鶴林山 安養院知多四国第53番、開運七ヶ寺第6番創立 永暦年中白河天皇の発願で建立(大御堂寺 中ノ一院)された一院で、建久元年(1190)源頼朝公光考菩提のため創建。本尊阿弥陀如来、観世音菩薩、勢去菩薩(藤原期の作)せき地蔵菩薩 霊験あらたかなり史跡織田信長の三男、三七郎信孝は、羽柴秀吉と再度の戦に敗れ、天正11年(1583)5月2日当院にて自刃。復元された信孝自刃の間、自刃に用いた短刀、血染めの軸、自生の一首「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」織田有楽斎(1547-1622)の書状」信孝の一首はとても深い意味を持っており、前回の密蔵院の「磔の松」は頼朝が父義朝を殺した長田忠致を処刑した曰くのある場所。最後の一首はそこを引用し、「秀吉よ、お前もやがて報いが訪れる」と強烈な怨念が込められている。信孝は自刃の際、自らの内臓を引っ張り出し投げ出したとされ、血染めの軸はその際に出来たものという。いずれも非公開のようですが、ここには信孝の思いが残っている。安養院手水鉢と水かけ地蔵。境内全景。伽藍は右手に庫裏と正面の本堂、左の間が所謂大師堂で、左手に地蔵尊を安置する地蔵堂が主な伽藍。写真左がみちびき地蔵。本堂全景。伽藍の中のどこが自刃の間にあたるのか、その場所は積極的に公開していないようです。知多半島は弘法大師所縁の地であると共に、平安時代の頼朝や安土桃山時代の信孝など、所縁のある土地柄である事が分かります。本堂の中央の間全景。「無量光殿」の額の先に本尊の阿弥陀如来を安置する。左の間全景。ここが所謂大師堂で、手前の木製の数珠を引くと上の滑車に数珠が当たり乾いた音を奏でる。境内左の地蔵堂。梁には古びた鰐口とその先に二体の龍の透かし彫りが施されている。堂内中央のせき地蔵。せき地蔵というだけに、咳や喘息などに御利益のある「お石」や「お地蔵様ののど飴」など販売されています。のまのつき みればこころの ますかがみ おのがじょうどは いかでくもらん今回頂いた梵字カードは薬師如来。三回・四回と二回連続金のカードは出現せず、出現率はまた下がって行った。第4回 歩いて巡拝知多四国 五十三番札所 鶴林山 安養院宗派 / 真言宗開基 / 白河天皇建立 / 永暦年中(1160-1161)創建 / 建久年間(1190-1199)本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 知多郡美浜町野間東畠ケ90-1参拝日 / 2025/04/19密蔵院から安養院徒歩ルート / 密蔵院から西へ250㍍、約5分関連記事・第4回 歩いて巡拝知多四国 内海西御所奥 神明社・第4回 歩いて巡拝知多四国 小野浦 八幡神社・多賀神社・第4回 歩いて巡拝知多四国 四十八番札所 禅林山 良参寺・第4回 歩いて巡拝知多四国 四十九番札所 護国山 吉祥寺・第4回 歩いて巡拝知多四国 五十六番札所 祥雲山 瑞境寺・第4回 歩いて巡拝知多四国 五十二番札所 鶴林山 密蔵院
2025.05.28
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瑞境寺から美浜町野間松下に鎮座する五十二番番札所密蔵院は、北へ300㍍程の位置になります。田んぼ沿いに北に進むと、その先に鮮やかな朱の門を構えた密蔵院が見えてきます。白壁と朱の薬医門が印象的な五十二番札所密蔵院の伽藍全景。密蔵院 沿革「当院は、白河天皇の勅願寺「大御堂寺」の一山十四坊の一つとして、「宝乗坊」と号し、学頭職を勤めていた。一山は建久元年(1190)、源頼朝公により、父義朝公の菩提のために創建された。慶長16年(1611)、大御堂寺一山は徳川家康公より250石を受け、そのうち当院は25石を拝領した。堂宇は度々兵火に焼かれ、本堂は慶安年間(1648年頃)に再建された。江戸時代の宝暦年間(1751年頃)、現在の「密蔵院」と改称した。現在の本堂、弘法堂、山門は平成10年(1998)に新築された。本尊の不動明王は、鎌倉期の作である。」本尊の不動明王は盗難除けのご利益があるとされます。知多郡史に目を通しましたが沿革以上の記述はみられなかった。朱の薬医門から境内に入った先の手水鉢。境内右から本堂、太子堂全景。本堂に掲げられている「鶴林山」の山号額と、堂内に火炎光背のシルエットの不動明王の眺め。寺紋は二つの輪が重なる輪違いと呼ばれるもの。太子堂。厨子の中の弘法大師の姿がうす暗い堂内に浮き上がっている。十王像。愛嬌のある表情の像は製作年代は不明、美浜町文化財一覧には名がなかった。門正面の石段の脇には鎮守社が祀られ、石段の先には舵取り観音へ続いています。石段下から仰ぎ見る「舵取り観音堂」。右手には一艘の船を収めた覆屋と左手に役行者の祠が建てられています。観音堂内の眺め。右膝を立てて坐り頬杖をつく如意輪観音の姿が見られます、本尊の舵取り観音はその奥に安置されているのだろう。観音堂左の役行者の祠。右手に「かじとり観音昭和霊験記」と一艘の木造救命艇。かじとり観音昭和霊験記。「野間の里は千石船の昔より船と共に栄えてきた。明治以後もこの伝統に継承され、数多くの船長や高級船員が輩出した。これらの船員の生命の安全をお護りしたのが、当山にお祭りしてある海上出現の如意輪観音様であった。昼夜の別なく参詣があり、そのため赤門は一度として閉じられる事はなかった。第二次世界大戦末期の昭和19年7月18日。中村汽船所の御用船「第十雲海丸」は小笠原近落で米機の爆撃を受け沈没した。吉田船長以下七名は、一週間分の食料と水を用意して救命艇で脱出した。日本本土まで一千キロメートル、観音様の信者であった船長を始め乗組員たちは、果てしない洋上で「南無観音菩薩」と唱えながら必死に漕いだ。実に三十数日間の漂流した。観音様のお加護があって、日本近海を北上している強い黒潮の流れを突破し、狭い伊勢湾の入口へと見事に入った。更に不思議なことに、船長の家があった野間の沖で、一昼夜も漂っていた。仮死状態で救助された七名は、出来る限りの手当を受けたが、一名は間もなく死亡した。他の六名と話せるようになったのは、救助されてから三日目であった。戦時中のことで、この信じ難い奇跡も限られた者だけが知るのみで公表されないまま終戦を迎え、今日に至ったのでここに霊験記を記す。昭和47年11月生存者船長 吉田富次郎乗組員 原口清見・盛口哲雄・小西哲一・倉田良夫・森川栄一・上床哲夫世話をした人々 役場兵事係・森田進・一色区 在郷軍人・婦人会」この覆屋の後ろから上に向かって道が伸びています。源頼朝が上洛の際、野間に立ち寄り、父義朝を殺した長田父子を松の木に磔にして処刑したという「磔の松」に続きます。第4回 歩いて巡拝知多四国 五十二番札所 鶴林山 密蔵院宗派 / 真言宗創建 / 建久元年(1190)開基 / 源頼朝本尊 / 不動明王境内社 / 稲荷社所在地 / 知多郡美浜町野間松下105参拝日 / 2025/04/19参拝日 / 2025/04/19瑞境寺から密蔵院徒歩ルート / 瑞境寺から北へ300㍍、約5分関連記事・第4回 歩いて巡拝知多四国 内海西御所奥 神明社・第4回 歩いて巡拝知多四国 小野浦 八幡神社・多賀神社・第4回 歩いて巡拝知多四国 四十八番札所 禅林山 良参寺・第4回 歩いて巡拝知多四国 四十九番札所 護国山 吉祥寺・第4回 歩いて巡拝知多四国 五十六番札所 祥雲山 瑞境寺
2025.05.27
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五十六番札所 祥雲山 瑞境寺。四十九番札所吉祥寺から北へ徒歩20分ほど、五十六番札所瑞境寺は、西に広がる水田の中の、小高い岡の上に鎮座します。訪れた時は、田植えを前にして、前準備の農作業に精を出す人の姿があちらこちらで見受けられました。祥雲山瑞境寺門前。右に「祥雲山 瑞境寺」の寺号標、左に「新四国五拾六番札所」の石標が立てられています。本堂はここから右手に進むと南向きに山門を構えています。参道左の小高い岡には稲荷社が祀られています。祥雲山 瑞境寺 沿革。「文禄元年(1592)、真受珠公首座が開基となって創建され、延宝二年(1674)に蘭峰盛曇和尚が法地開山となりました。現在の伽藍は、宝暦7年(1757)に、七世雷渕黙要和尚が建立しました。その後、天宝4年(1833)には諸堂が完備して現在に至っています。本尊の白衣観世音菩薩は、息災除病・諸願成就の菩薩として信仰され、脇侍には不動明王と毘沙門天が祀られています。境内には、弘法大師を中心として、葬師如来・十王などを祀る合祀堂と、片岡聖観師作の聖観音像があります。」【尾張徇行記(1976版)】第6巻(海西郡・知多郡之部)には以下の記述が見られました。「瑞境寺、府志曰、在柿並村、号祥雲山、曹洞宗、属中郷村勢雲寺〇覚書二寺内九献歩備前検除〇当寺書上二寺内一反四献二十歩御除地此寺草創ノ年紀ハ不知、今ハ本寺性海寺ト号ス」【張州府志(1914版)】巻第27知多郡の瑞境寺は以下内容です。「瑞境寺、在柿並村、號祥雲山、曹洞宗、属中郷村勢雲寺」とありました。【尾張志 知多郡(1893)】には「柿並村にあり、祥雲山といひて中之郷村性海寺の末寺なり」府志の「本寺性海寺ト号ス」や尾張志の「性海寺の末寺」はどちらも符合します。しかし、一部web情報に「誓海寺に属す」とする記事もあり、腑に落ちない部分が残ります。因みに、性海寺は内海鍋山に鎮座し、誓海寺は美浜町に鎮座します。本記事は写真の沿革並びに記録を尊重します。山門は妻切瓦葺の薬医門で、軒先には跳ね獅子が飾られています。右脇の小社は社名札もなく詳細が分からなかった。伽藍は門の正面の本堂、右手の庫裏、左手の太子堂主な伽藍。本堂は木造の入母屋瓦葺の平入で、二間ほどの大きな向拝を持っています。本堂内陣の眺め、本尊は縁起にあるように頭から白衣を被った姿の白衣観世音菩薩。美浜町文化財一覧から白衣観世音菩薩を探して見たが登録はなかった。境内左の太子堂。本堂や太子堂は白漆喰も鮮やかで、比較的最近修復の手が入れられたようです。以前、知多四国を回った時に感じたことは、同じ札所でありながら、檀家の減少に伴い修復に手の回らない寺院も見られました。こうした札所が未来永劫存続していけるのか、疑問を感じたのを覚えています。太子堂。堂内には中央の大師像の他に左右に二体の像の姿があります。参道左側の鎮守社。境内の一本の藤の木は幹も太く、大きく枝を張っており、花の時期には紫の花で染まるのでは。参道脇の石段から境内に通じており、一対の狛狐の先にふたつの覆屋と右手に小社が祀られています。中央の覆屋には白い狐が複数安置され、中には三つの社が祀られています、何れも稲荷社のようです。左の覆屋の下に祀られる三社と右手の板宮造りの一社、何れも社名札はなく詳細は分かりません。第4回 歩いて巡拝知多四国 五十六番札所 祥雲山 瑞境寺宗派 / 曹洞宗創建 / 文禄元年(1592)開基 / 真受珠公首座開山 / 蘭峰盛曇和尚本尊 / 白衣観世音菩薩境内社 / 稲荷社所在地 / 知多郡美浜町野間松下85参拝日 / 2025/04/19吉祥寺から瑞境寺徒歩ルート / 北へ約1.4㌔、約20分関連記事・第4回 歩いて巡拝知多四国 内海西御所奥 神明社・第4回 歩いて巡拝知多四国 小野浦 八幡神社・多賀神社・第4回 歩いて巡拝知多四国 四十八番札所 禅林山 良参寺・第4回 歩いて巡拝知多四国 四十九番札所 護国山 吉祥寺
2025.05.24
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5/1、岩倉市内を流れる五条川の桜を見に出かけてきました。写真は4月4日、豊国橋周辺の桜。当日は五条川に春を告げる風物詩「のんぼり洗い」が行われていました。大正初期までは、五条川の水を仕込み水として酒造りも行われていたという。今回は五条川沿いの中野津島神社を掲載します。こちらは大正初期とほぼ現在の地図の比較。青マーカーが中野津島神社の鎮座地。茶色の線が名古屋城下と犬山を結ぶ岩倉街道で、青線が五条川です。津島神社は岩倉市東町馬出地内の岩倉街道沿いに社頭を構えています。この地図を明治まで遡って確認しましたが、鎮座地に鳥居の印は見られず、境内にも由緒が見当たらず、創建時期などの詳細は不明です。「岩倉町史(1955)」には、中野津島社の創建を明治40年(1907)としていました。本記事の創建はそちらを引用します。岩倉街道沿いの社頭全景。石柱門の先に神明鳥居を構え、こんもりとした杜の中に舞殿と本殿を南向きに配置します。鳥居から眺める境内の全景。左手に手水舎、提灯櫓の先に舞殿があり、その左側が本殿域が主なもの。左手の建物は地域のコミュニティ センター中野会館。参拝駐車場はないので、車の場合は声掛けした上でこちらに停めさせてもらうしかないでしょう。手水鉢全景。立派な髭をした龍はいますが、張られた水面は鏡のようです。津島神社年間祭礼。1/1 新年祭2/23 天神祭6/2 熱田祭7/21 天王祭10/13 例大祭手水舎軒下の案内。本神殿 津島社。本殿右の境内社二社が祀られており、右側が熱田社で左側に天神社が祀られています。境内南側より社殿全景。舞殿は木造瓦葺で、切妻造の妻入りで四方吹き抜けのもの。社殿全体が杜に包まれているので、炎天下でも境内を吹き抜ける風は心地よく感じます。本殿域正面全景。本殿域前の一対の狛犬。詳細の分からない津島神社、多くの寄進物は大正時代に寄進されたものだった。本殿全景。本殿の前にも小さな白い狛犬が向かい合っています。流造の本殿と右側の境内社。境内社。右が熱田社で左側が天神社。ここには個性的な容姿の狛犬の姿がある。少し痛々しい所もありますが、余程元気がいいのか、どちらも鎖でつながれ、左の狛犬は鉢巻きまでつけられている。こぢんまりとした神社ですが、東町の除災を担う津島神社です。中野津島神社創建 / 明治40年(1907)祭神 / 須佐之男命境内社 / 天神社、熱田社氏子域 / 岩倉市中野町、東町所在地 / 岩倉市東町馬出59参拝日 / 2025/05/01岩倉駅から徒歩アクセス / 北に1.6㌔・約20分
2025.05.23
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前回掲載した良参寺山門から右に進み、三叉路を右に進み目の前の山中に向かいます。次の目的地四十九番札所の吉祥寺までは、山中にある溜池沿いに作られた古道を進みます。普通に国道沿いを冨具崎に歩けば距離にして約2㌔、30分程の道のりです。小野浦や冨具崎は馴染みのある土地柄ですが、一歩中に入ればこんな古道があったのかと思い知らされる。この道は峠を越えて山間にある溜池沿いに冨具崎に通じており、車は勿論、こうしたイベントの際はペースの違う参加者を抜く事すらできない細い道が続いています。道の脇には写真のような丁石もあり、古くは小野浦と冨具崎を結ぶ主要な道だったことがわかります。今では巡礼者以外は通らない道と見えて、一部荒れた部分もあります。音もなく突然足元を通り過ぎる蛇が大嫌いな自分、行列をなして歩いているので一安心。これが一人なら好んで歩かないだろう。峠を越えると幾つかの溜池があり、北垂れの山の斜面に休耕田が見られます。以前はこうした僅かな土地すら田畑として開墾し、それを潤すため溜池が作られる。定年後小さな家庭菜園で野菜を作るようになって、土の有難さと手入れの大切さがわかるようになる。一度荒れてしまうとPCや電化製品のようにリセットしてすぐには戻らない米不足の昨今、こうした光景を見ると考えさせられるものがある。一山超えて野間の集落へ、野間海岸に注ぐ冨具埼川が作ったであろう扇状地に吉祥寺は鎮座地します。社頭に「新四国第四十九番、福住毘沙門天王 霊場」と刻まれた石柱があり、そこから先の山門に参道が伸びています。参道から伽藍全景。左手には方形屋根の大師堂、そして毘沙門堂、本堂が主な建物として並ぶ。薬医門の左に吉祥寺沿革が立てられています。沿革の内容は以下。「曹洞宗護国山吉祥寺 沿革創立慶長十年。 開基関嶺玄通首座。本尊釈迦如来。 別堂に秘仏毘沙門天王。知多四国第四十九番札所弘法大師。 往古源平合戦の落人が、当時部落の屋敷という所に、毘沙門天王を、背負って隠れ住んでいたという。落人の姓を七名字という。中村、片岡、千賀、榊原、奥村、森岡、森田その子孫が、今も受け継がれている。 ある信者により、七武士をまつるために、毘沙門天王の命により、諸願成就塔が建立された。その塔をさすって拝めば、ご利益があるという。」尾張徇行記 第6巻(海西郡・知多郡之部)の吉祥寺では以下のように記されていました。「吉祥寺、府志曰、在細目村、号護国山、曹洞宗、属中郷村勢雲寺、〇寺内有昆沙門像与広目昆沙門同作、然後人彫刻也、里老有説、附会不足信也、〇寺内年貢地卜覚書ニアリ〇当寺書上ニ境内七畝十二歩年貢地、此寺草創ノ由来ハ不知」とあった。尾張徇行記には「二体の像は同一作者とみられるが不明、草創の由来不明」とあるが、ここでは沿革の内容を尊重しよう。切妻瓦葺の薬医門の正面に本堂の山号額が見えている。山号は「護国山」堂内。本尊は釈迦如来。夢違観音。法隆寺の尊像を復刻した像で、悪夢を見ても、良い夢に変えてくれる観音様という。本堂右の成就塔から本堂、毘沙門堂、太子堂の眺め。成就塔は、毘沙門天のお告げから立てられ、病や願い事のある方はこの塔をさすってお願いする。本堂の隣りの毘沙門堂、昭和に入り再建され、扁額は毘沙門天王。本尊は秘仏毘沙門天王。大師堂。こちらも昭和に入って再建されたもので、方形瓦葺の堂。宝形屋根の頂点には宝珠の露盤。拝所側の屋根に唐破風向拝が付けられています。大師堂の格子天井には地蔵や草花の天井絵が描かれています。四十九番太子堂内部。大師像の他に観音様らしき像が数体安置されている。なにごとも きちじょうなれと いのるみは やがてさちよき いんえんぞこん第4回 歩いて巡拝知多四国四十九番札所 護国山 吉祥寺宗派 / 曹洞宗開基 / 関嶺玄通首座開創 / 慶長10年(1605年)本尊 / 釈迦如来所在地 / 知多郡美浜町野間桑名前24参拝日 / 2025/04/19良参寺から吉祥寺徒歩ルート / 北へ約2㌔、約20分関連記事・第4回 歩いて巡拝知多四国 内海西御所奥 神明社・第4回 歩いて巡拝知多四国 小野浦 八幡神社・多賀神社・第4回 歩いて巡拝知多四国 四十八番札所 禅林山 良参寺
2025.05.22
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5月12日~13日大阪・関西万博に出かけてきました。1970年の万博の感動と比較して、今回はあまり見所もなくパッとしない印象。唯一、イタリア館は興味もあり、妻に誘われ、大阪夢洲の万博会場へ向かいました。妻の頑張りで予約やパビリオンの事前予約など形にはなったものの、自分なら煩わしくて恐らく行かなかっただろう。二人の目玉はイタリア館のファルネーゼのアトラスとキリストの埋葬、ダ・ヴィンチのアトランティコ手稿、これだけは何時間並んでも見ておきたかった。個人的に、6500年前に泥に埋まり、腐食せず、化石にもならず亜化石化したオークで作られた文明の森を見れば満足だった。万博初日は早めに大阪に向かい、午前中は観光とホテルへの移動で、夕方の夜間券で会場に入場します。早朝に近鉄名古屋駅から火の鳥で乗り換え駅の鶴橋まで約二時間、そこから乗り換えて大阪駅に到着。万博ムードの漂う大阪の街。ごちゃごちゃした印象の強い大阪だが、ビル街に作られた広大なグラングリーン大阪の芝生広場は、そうした印象を覆す都会のオアシスだった。ある意味大阪らしくない。名古屋にもこうしたスペースが欲しいものだ。・名古屋から大阪へ近鉄火の鳥で、乗り換えを含め約二時間約二時間。グラングリーン大阪から南西に20分ほどの北区曽根崎2の曽根崎お初天神通りへ。時間も早いこともあり、商店街を行き交う人影は少なかったが、さすが大阪、居酒屋は朝飲み客で賑わっていた。曽根崎お初天神通りから脇にそれると「ごて地蔵」が祀られています。解説では昭和のはじめ、梅田界隈に悪疫の流行や災厄が頻発した際、不動寺住職の「この地に埋没放置されている地蔵尊を奉祀せよ」との託宣から、町内の有志で発掘し奉祀したところ霊験がたちどころに現れ、悪疫災厄は霧散した。それ以来「ごて地蔵」として尊称され招福除災の地蔵尊として崇敬されているそうです。「ごて地蔵」から曽根崎お初天神通りを5分程先に進んだ先の北区曽根崎2に鎮座する露(つゆの)天神社。ビル街に囲まれた社地は、北側と西側に脇参道を構え、南側の露天神表通りに社頭を構えています。社伝では、上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り鎮座されたと伝わり、「難波八十島祭」旧跡の一社である。露(つゆの)天神の社名は、昌泰4年(901)菅原道真が大宰府へ配流される途中、この地で「露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば」と都を偲んだ一首を詠んだこと、「梅雨のころに神社の前の井戸から水がわき出た」などが由来するとされます。祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真を祀ります。境内には曽根崎心中でしられる「お初・徳兵衛」の像や開運稲荷、水天宮・金刀比羅宮の境内社があります。露(つゆの)天神社創建 / 不明祭神 / 大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真所在地 / 大阪市北区曽根崎2-5-4露天神社から西の国道25号線を越え、大阪駅前第3ビルの地下2階にある「大衆酒場 スタンド マルカツ 第3ビル店」で昼食兼昼飲み。大阪を訪れたらやはりこうなる、このメニューはせんべろセットの二人前。今の時代、枝豆だけで一盛2000円とも言われる時代、昼の定食にしても1000円でお釣りがくる。大阪は酒好きにとって懐に優しく、居心地の良い町だ大衆酒場 スタンド マルカツ 第3ビル店所在地 / 大阪市北区梅田1-1-3大阪駅前第3ビル 地下2階ここから再び大阪駅に戻り、そちらからエキスポライナーで10分程先のユニバーサルシティ駅に向かう。今夜の宿「ホテルユニバーサルポートヴィータ」にチェックイン。USJ目的の宿としてもいい場所にあります。当ホテルから万博シャトルバス発着ターミナルまでは、徒歩15分程と比較的近くにあります。ホテル代高騰の折、一泊素泊まりで一人9000円以下(ポイント等利用)だった。この金額で安く感じてしまうのが不思議だ因みに、桜島駅近隣の終日駐車場が3000円越えていました、快適に車中泊ができる車であれば、二日間ここに停めるのもありか。大阪駅からホテルユニバーサルポートヴィータ部屋で夜間券入場時間まで一休み、昼のビ―ルで一寝入りしてしまいそうだ。ここからバスターミナルまで徒歩15分、バス待ちを30分、会場までの移動時間も約15分、入場までの時間を約1時間と想定すると約2時間前にはホテルを出る必要があった。西口ゲートを通過したのが16:02。入場の所要時間は意外なほどスムーズ、一番時間を要したのがバス乗車までの待ち時間だった。「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに、160 を超える国や国際機関が参加する大阪・関西万博。会場内に並ぶ多彩なパビリオンは人々を魅了するだろう。まずは大屋根リングに上り、お目当てのパビリオンの混雑状況を確認。写真は手前の白い建物がベルギー館、その先がイタリア館、その先に見える赤い球体がシンガポール館。最後尾は大屋根リングの下にまで伸びており、入場待ちに2時間。予約したパビリオンの時間もあり、これに並ぶ訳にはいけない。イタリア館は予約が取れず、明日の朝一番に真っ先に向かうことにした。初日の最大の目的は、ウォータープラザで開催される「アオと夜の虹のパレード」とドローンショーです。まずは大屋根リングからショーが行われるウォータープラザを偵察。水上に聳える凱旋門のような塔は、それ自体が水煙に投影される巨大スクリーン。この水中には300基を超えるノズルもあり、それらが吹き上げる水煙に照明や映像が投影される。ショーは約30分で19:00、20:30の二回行われます。正面の観覧席は予約エリアがあり、周辺には無料エリアがありますが、既に場所取りも行われています。私達は正面は諦め、大屋根リング側のスクリーン付近で鑑賞する事にしました。ショーまでの時間、バーレーン館隣りの文明の森を訪れる。残念ながら倒木の危険性があることから、内部に立ち入れないので外から見るだけです。6500年前に泥に埋まり、外気から遮断されたことから分解されず、更に長い年月をかけ化石になろうとする過程のもので、亜化石化したオーク(ドングリ)が立ち並ぶ。有機物の性質を多く残した亜炭の巨大版といえるかもしれない。133本の黒色化した森は、樹皮や年輪が生々しく残り、表面の一部は高熱で焼かれたように見えるところもある。6500年前の自然から現代に届けられたタイムカプセルで、この一本一本はチェコの企業により、今回の万博に参加した各国に捧げられたもので、切株の下のQRコードを読み取る事で国名を知ることができる。この森自体が、一つの大地に根を張る地球のつながりを象徴しているように感じられる。フランス館。バッグや服とロダンの彫刻が印象に残る。作品は「手」をモチーフにしたものが展示され、なぜ手なのかなんとなくわかるような気がする。アメリカ館の月の石。疑う事を知らなかった幼い頃、大阪万博で見た月の石は子供ながらに感動したものだ。いま幼少期の子らにはこの石が大きな夢と感動を与えてくれるものだろう。歳を重ね、疑う事を知った今、愛知万博、今回の万博と、こうして月の石を見ても妙に冷めている。ゲーム世代の息子達は、愛知万博の目玉だった冷凍マンモスや月の石など目の当たりにしてもあまり感じるものはなかったようです。両館とも予約なしで1時間ほどの待ちでした。フランス館・アメリカ館すっかり日も落ち、各パビリオンがライトとアップされると、会場は昼間にはない鮮やかな表情に変わります。そろそろ大屋根リングに上るかな。少し外れてしまったが、ここからでも音声と映像は十分に楽しめます。暑い日中より夜の万博会場の方がお勧めかも知れない。ショーが終わると背後から蚊の羽音のような音が聞こえてくる、ドローンショーが始まり。はじめて見たが、なかなか見応えがありました。何基飛ばしているのか定かではないですが、綺麗である事は間違いない。ドローンのペラの音がここまで大きなものとは知らなかった。一連のプログラムを終えると、夜空に←東ゲート・西ゲート→の表示が現れ、会場内に退場アナウンスが流れてきます。パビリオンは21時、閉場は22時なんですが、急かされる様に観客がゲートに動き出します。桜島駅に戻り、長い列の出来たコンビニで軽食を買い求め、ホテルに戻ると23時頃でした。明日の作戦は開場時間と同時に、イタリア館に直行です。万歩計は初日だけで28592歩、足が疲れた。風呂も入らず速攻寝る。二日目、西口ゲートの列に並び9時の開場まで待機。持参した椅子が活躍してくれた、ゲート前は日除けもないので真夏は大変なことになるだろう。作戦通り、入場と同時にイタリア館にまっしぐら。開場直後は昨日の列は嘘のように、流れるように館内に入る事ができた。お目当てのファルネーゼのアトラス。日本初公開のファルネーゼのアトラスは、約2000年前のローマ時代に制作された大理石の彫刻。ギリシャ神話の巨神アトラスを描いた作品です。アトラスは天空を支える宿命を負った存在として知られていますが、この彫刻では彼が丸い天球を背負い、膝を折る姿が表現されています。この像の特筆すべき点は、単なる神話的な筋骨隆々とした像だけでなく、彼が背負う球体にあります。この球体には48の古代星座が精緻に刻まれており、古代の宇宙観そのものを象徴しています。膝を折る姿は、単なる重量の象徴ではなく、大地と天空の秩序を守るアトラスの役割を示すものであり、時代が下るにつれて「天球」として描かれるようになりました。大理石から彫られたアトラス像は、血管が浮き上がり、盛り上がった筋肉の造形など、人体の観察力の高さを感じとることができます。この作品は、紀元2世紀頃に制作されたもので、16世紀のルネサンス期、名門ファルネーゼ家が所有したことから、ファルネーゼの名が付けられました。現在はナポリ国立考古学博物館に所蔵されており、古代ギリシャ・ローマの宇宙観を伝える貴重な芸術作品として知られています。バチカン美術館からミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(1571-1610)の代表作の一つ「キリストの埋葬」光と影の劇的な対比で描かれた作品は後の宗教画に大きな影響を与えた。照明が落とされた館内の闇のなか、絵が織りなす劇的な光景は見る価値がある。キリストの上半身を抱きかかえるのが聖ヨハネ、下半身を抱きかかえるのがニコデモで左上は聖母マリア、中央がマグダラのマリア、右がクロパのマリアの三人のマリアが描かれている。聖母マリアの右手と両腕を広げたクロパのマリアが奥行きと広がりを感じさせる。レオナルド・ダ・ヴィンチのアトランティコ手稿。彼が人間工学、飛行装置、自然観察に情熱を注いだ時期に描いたスケッチを含む貴重な記録です。これは、芸術と科学の融合を体現する重要な資料とされています。この手稿には、手回し糸車や金箔製造機・金箔職人の道具といった技術的な設計が記されており、ダ・ヴィンチの発明への探求心が反映されています。彼の多岐にわたる関心が結集したこの手稿は、全12巻で構成され、1119ページにも及びます。その内容は、武器、楽器、数学、植物学、飛翔など幅広い分野にわたり、彼の知的探求の奥深さを物語っています。このノートは、1478〜1518年頃に執筆され、現在はミラノのアンブロジアーナ図書館に収蔵されています。ダ・ヴィンチの思想や技術革新の過程を知る上で、極めて貴重な歴史的資料であり、オリジナルを見られることに感謝しかない。スペイン館。この地球儀は地球全体の海流が投影され、海洋国家スペインを象徴するもの。一方で海流の変化による気候に与える影響を暗示するように見えるのは自分だけか。左はスペイン館のmahouビール、写真右はイタリア館屋上庭園。NTTパビリオン。Perfumeによる2025年のNTTパビリオンと1970年の電気通信館をリンクした映像と、自分の分身が見られるもので視覚的に楽しめる内容です。チェコ国立レストランの昼食。一階と二階でメニュー内容が違います、二階に通されて一階のメニューはオーダーできません。万博価格でこれで一万越え。ビールは美味しかったな。書道の巻物を広げた形をモチーフにした中国館。昨年6月、無人探査機「 嫦娥じょうが6号」が世界で初めて採取した月の「裏側」の土壌が展示されています。勢いのある中国らしく、建物の外観に留まらず、歴史と最新科学を前面に打ち出した展示内容です。待ち時間は45分ほどだったか。この他にも待ち時間の無いパビリオンを見て回り、二日間で11か国のパビリオンを見ることができました。睡眠時間を削り、事前予約にチャレンジするか、ターゲットを決めて朝一番に並ぶか二択だろうか。印象としては平日の開場直後に人気パビリオンに行くのが効率的かも知れない。あとは入場前に昼食・軽食を買っていった方が無駄な時間がないと思われます。日陰が少ないので日傘と水は必需品です。二日目の万歩計は19880歩、二日間歩き回って右足も痛くなり、ベンチで足を伸ばし休息してから17時に会場を後にした。訪問日 / 2025/05/12・13
2025.05.19
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名鉄知多新線内海駅からスタートし、内海峠を経て約3.6㌔西の小野浦海岸までやってきました。ひたむきに歩き、小野浦海水浴場のすぐ東に今回最初の札所良参寺が鎮座します。八幡神社社頭から約10分ほどで前方に良参寺の伽藍が見えてきます。手前の方型の建物は良参寺地蔵堂。大棟に鯱が載る山門と鐘楼。峠を越えてようやく辿り着いた札所。疲れた体を休めるように、参加者は一様にゆっくりと腰を下ろす。その表情には安堵の色が浮かび、静かな境内の空気が彼らを包み込んでいた。山門は切妻瓦葺の木造の薬医門で「禅林山」の大きな山号額が目を引く。良参寺境内は参道正面の本堂、右に庫裏、左に太子堂、金毘羅堂、袴腰が施された鐘楼、その奥に稲荷が祀られ、そこから右に山本音吉・久吉・岩吉はじめ、遭難した宝順丸の乗組員14名の墓石があります。これら伽藍の他に、境内に聳える二本の巨木が印象に残ります。写真は境内の禅林山良参寺沿革、内容は以下。 「良参寺は天正十三年(1585)開創の曹洞宗の寺院です。小野浦の地が千石船で栄えた江戸時代に、現在の庫裡と本堂は再建されました。 当時の面影は航海の無事を祈念した金毘羅堂や雨水桝に刻まれた海上安全の文字にも残っています。境内には樹齡四百年のイブキの巨木が二本そびえ、一本の根元には子供を抱く観音様の姿が現れています。 弘法大師は「御助大師」と呼ばれ、昭和初期に盲目の女性が開眼した霊験等が伝えられています。本堂裏の墓所には初の和訳聖書の制作に協力した「三吉」を含む宝順丸の乗組員の墓碑が立てられています。」八幡神社社頭南側の音吉・久吉・岩吉の三氏を讃える石碑は、墓碑のある良参寺に繋がっていた訳です。彼らは異国の地で一生を終えましたが、故郷である小野浦に戻ってこれた経緯が掲げられています。尾張徇行記(1792-1822)第6巻(海西郡・知多郡之部)に以下の記述が見られました。「良参寺府志曰、在小野浦村、号禅林山、曹洞宗、属中郡村勢雲寺〇堂書三境内八畝十歩前検除〇当寺書上ニ境内八畝十歩前々御除外ニ門外九畝二十歩、山林三反四畝歩共二年貢地、此寺草創ノ由来ハ不知、開山遷化ハ慶長五開山、天相応和尚庚子年ニ当レルト也〇境内ニ十王堂アリ」とある。「山本音吉(乙吉)遺灰の帰郷について 1867(慶應3)年1月18日、シンガポールのシグラップ地区アーサーズ・シートにおいて50歳の生涯を閉じた山本音吉(または乙吉。英語名ジョン・M・オトソン)は、翌19日にブキティマ通りにあったキリスト教徒墓地に埋葬された。1970年に同墓地が都市計画によって公園へと転用された後、遺骨の移転場所は長い間不明のままとなっていた。 2004(平成16)年2月、シンガポール日本人会の杉野一夫事務局長から音吉の話を聞き、並々ならぬ関心を持つに至ったシンガポール土地管理局のリョン・フォクメン(梁福銘)氏は、精力的な調査の末、音吉の遺骨がチョア・チュー・カンにあるシンガポール国立墓地へ移されていることを発見。早速、杉野事務局長から音吉遺骨埋葬場所発見の一報が、齋藤宏一美浜町長(音吉顕彰会会長)へもたらされ、4月26日に齋藤町長が訪星し埋葬場所を確認。 同時に、当時音吉はオーチャード通りに邸宅を構え、大規模に貿易を営んでいた記録、上記の死亡年月日及び死亡場所の記録とともにリョン氏から提供された。その後11月23日、シンガポール日本人会及び同国政府観光局の協力によって、国立墓地を所管するシンガポール環境庁から音吉遺骨の発掘許可を得ることができた。 11月27日には同国立墓地タン・ピンファ所長立ち会いのもと発掘・火葬した後、遺灰をイオ・チュー・カンの日本人墓地公園納骨堂に仮安置。2005(平成17)年2月17日、伊勢湾に開港した中部国際空港からシンガボールへ向かう一番機で、美浜町民を始めとする120人の訪問団が出発、翌18日に日本人墓地公園において音吉遺灰の分霊式が、日星両国関係者多数の参列のもと挙行。 音吉の遺灰は3つに分けられ、シンガポールでは日本人墓地公園納骨堂、日本では音吉の子孫である山本家先祖代々の墓、そして遭難当時、行方不明となった宝順丸14人の乗組員のために建てられた良参寺の墓に納められ、遭難後173年ぶりに帰国を果たした。2006/6吉日」入母屋瓦葺の本堂。大きく枝を張ったイブキが、大きな木陰を作り、巡拝者に心地よい休息の場を与えてくれる。本堂。本尊は聖観世音菩薩。秋葉三尺坊大権現。知多四国四十八番札所、お助け大師。太子堂前のお助け大師の謂れ。体の変調に悩む方々がこちらにお参りし、それにより改善された事例が書き連ねられています。堂内右の間に南無観世音菩薩の提灯と古い奉納額が掛けられています。金毘羅堂の右に安置されている不動明王。金毘羅堂(右)と中央の稲荷社、方形屋根で袴腰の鐘楼の眺め。金毘羅堂内にも複数の奉納額が掛けられています。古くから海運で賑わった町だけに、航海の安全の神は必要不可欠なんだろう。稲荷社。宝珠紋の幟が立つ稲荷社。豊川稲荷系の仏教神が祀られていると思われます、創建時期は不明。山本音吉ら宝順丸乗組員の墓は、ここから右手の墓地に建てられています。庫裏前のイブキの樹。樹齢は400年を超えるとされ、一抱えは優に超える幹の根元には、観音様に似た瘤があり、子宝に恵まれる子抱観音として崇敬されています。よをすくふ ほとけのとくの ぜんりんじ なみよせたらぬ おのうらのさと次は四十九番札所 吉祥寺。ルートは平坦な国道沿いではなく、良参寺北側の山間を越え冨具崎方向に抜ける1.5㌔の古道を進みます。Gマップでは表示してくれません。第4回 歩いて巡拝知多四国四十八番札所 禅林山 良参寺宗派 / 曹洞宗開基 / 融山祝公首座開山 / 天祖順応禅師開創 / 天正13年(1585)本尊 / 聖観世音菩薩所在地 / 知多郡美浜町小野浦清水18参拝日 / 2025/04/19小野浦八幡神社から良参寺徒歩ルート / 北へ約0.5㌔、約7分関連記事・第4回 歩いて巡拝知多四国 内海西御所奥 神明社・第4回 歩いて巡拝知多四国 小野浦 八幡神社・多賀神社
2025.05.18
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内海トンネルから約1㌔ほど道なりに下った美浜町小野浦。ここまで丘陵地を歩いてきました、小野浦キャンプ場を過ぎると海岸線が近くなり、平坦な道に変わります。今回掲載する小野浦八幡神社・多賀神社は内海峠を越えた、伊勢湾海岸線の山裾に鎮座します。山を下り、集落の入口近付くと右手に八幡神社の社頭が現れます。社頭は「村社 八幡神社」の社号標と神明鳥居を構え、参道がその先の拝殿に真っすぐに伸びています。鳥居をくぐると左に手水舎があり、更にその奥は多賀神社の境内が作られています。多賀神社の境内全景。広い社地には八幡神社・多賀神社の二社が並んで祀られています。まずは参道を進み、正面の八幡神社を参拝しよう。真っすぐに伸びる参道の先、緩やかな石段を上れば社殿域です。社殿の全景が見えてきました。手前に狛犬が守護し、その先には拝殿・本殿、両脇に境内社が祀られています。社殿はほぼ西を向いて建てられています。拝殿は木造の入母屋瓦葺の妻入りで四方吹き抜けのもの。大きな鬼板ですが社紋は入っていない様でした。拝殿から本殿の眺め。内部に棟札又は由緒が掛けられていないか探して見ましたが、何も見当たりませんでした。・知多郡史(1972)では祭神の大鷦鷯命、気長足姫命。・尾張徇行記(1792-1822)第6巻(海西郡・知多郡之部)に以下の記述が見られました。「野間庄小野浦村一社六区、覚書ニ若宮八幡、諏訪明神、恵比須山神三社境内三町四反八献歩前々除称宜助左衛門持〇祠官斎藤助太夫書上ニ若宮八幡社内一町四反歩、勧請ノ由来ハ不知、元禄十六年未五月再建ノ棟札アリ、恵比須社内二献十歩、諏訪大明神社内一町此社勧請ノ由来ハ不知、正徳元年卯十二月再建ノ棟札アリ、山神社内二献歩又山神社内二十八歩、州原大明神社内三献歩、三社共ニ勧請ノ年紀ハ不知、何レモ御除地ナリ」再建時の棟札の年代や若宮八幡と呼ばれた事など、他の資料と整合するので八幡神社を指しているようです。本殿左の境内社は津島神社、祭神は須佐之男命。右側の境内社は社名札があったが、撮り忘れてしまい社名は不明です。多賀神社社頭全景。八幡神社参道左に隣接しており、社頭には鳥居手前に二社が祀られ、その先に社殿が建てられています。鳥居の額には「多賀神社」と彫られています。拝殿から流造の本殿の眺め。当社について尾張徇行記には記述がなく、祭神・創建等は不明。社名から祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊かと思われます。本殿右側に一抱えほどの岩が安置されていました。文字が刻まれているようですが読み取れなかった、山神だろうか。多賀神社境内から社頭の眺め。多賀神社が八幡神社の境内社なのか、単独の神社か分からず、合わせて掲載しました。鎮座地の小野浦は、古来より千石船による廻船業で栄え、小野浦の八幡神社の秋祭りでは、千石船の形をした2台の山車(町指定文化財)が曳かれたそうです。江戸時代、小野浦出身で千石船「宝順丸」の船乗りだった音吉(山本音吉)、久吉、岩吉らは、遠州灘で難破し1年2か月漂流しアメリカに漂着した。音吉(1817-1867)は海外生活の中で、聖書を日本語に翻訳したはじめての人物で、英国で帰化を許され生涯を異国で過ごした。社頭南側には音吉、久吉、岩吉の三氏を讃える石碑や山本音吉像が建てられています。第4回 歩いて巡拝知多四国 小野浦 八幡神社・多賀神社創建 / 不明、元禄16年(1703)再建祭神 / 大鷦鷯命、気長定姫命境内社 / 津島社他氏子域 / 小野浦例祭 / 10月15日 所在地 / 知多郡美浜町小野浦福島2参拝日 / 2025/04/19内海神明社から小野浦八幡神社徒歩ルート / 西へ約1.1㌔、約15分関連記事・第4回 歩いて巡拝知多四国 内海西御所奥 神明社
2025.05.17
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4月19日「名鉄電車 歩いて巡拝 知多四国」の四回目に参加しました。天候は晴れ、歩くと汗ばむ陽気。上は四回目のコースマップです。スタートは名鉄知多新線内海駅。そこから四十八番札所良参寺、四十九番、五十六番、五十二番、五十三番、五十一番、五十番、五十五番、五十七番札所報恩時の九寺を巡拝、ゴールの名鉄河和線知多奥田駅までの10.5kmのコース。スタート直後はフラットなコースですが、野間までは三つの峠越えが続くコース。コースは一部細い旧道を歩くので履物はしっかりしたものがいい。新緑の中の細い峠道や樹々の隙間から見える海など、個人的には歩いていても楽しいコースでした。スタートの内海駅から県道52号線沿いに7分程歩いた南知多町内海松田地内の光景。西側の田畑の先に見える小高い山々、コースはあの山々を越え、3.6㌔先の小野浦に鎮座する四十八番札所良参寺までひたすら歩く。いつものようにスタート直後の人波を避けるため、コースの県道から離れ、松田地内に鎮座する神明社を訪れました。県道から分かれるこの道を500㍍程進んだ先の山裾に神明社は鎮座します。5分程歩くと神明社の社頭に到着。山裾の傾斜地を切り開き境内が作られ、入口には「村社 神明社」の社号標と石段の入口に石造の明神鳥居。石段の先は石造の新明鳥居を構えています。境内右の木造舞殿。田畑がある風呂谷を見下ろす高台にあり、南側の風呂谷に氏子集落と田畑が広がる。舞殿北側の社殿全景。背後は壁のように山肌が迫り、本殿の左右には複数の境内社が祀られています。社殿正面全景。木造瓦葺の切妻造の拝殿は、中央の屋根が一段高く上げられ、見た目に重厚感があり、軒が伸ばされて向拝の役割も兼ねているようだ。拝殿右側から本殿と境内社の眺め。本殿は一間社流造で拝殿から渡廊で結ばれています。中央の境内社は五男三女神、右は社名札が切れてしまい分かりません。更に右の境内社。左が山神社、右の社は社名札を拡大するも読み取れなかった。左側の境内社と社殿全景。こには三社祀られ、左側は御前社と読めますが、右の二社の社名は読み取れなかった。神明社境内には由緒は見られず、大正12年に出版された「知多郡史下巻」に西御所奥神明社として以下のように記載されていました。「祭神は天照皇大神・伊弉冉命・伊弉諾命。創建は寛永2年(1625)。氏子数154世帯」と記されていました。境内社までは分からなかったが、これが分かっただけでも良しとしよう。神社南側の小高い山は城山と呼ばれ、そこには内海佐治氏が大永年間(1521-1527)に築城した岡部城があり、神明社の鎮座地を含めた馬蹄形の丘陵地を治めていたようです。境内から風呂谷の田畑の眺め。神社から更に奥に進むと、灌漑用の大きな溜池があり、その水が田畑を潤している。水の乏しい半島にはこうした灌漑用の溜池が無数に点在します。歩いて巡拝知多四国のルートは、岡部城址の北側沿いを内海峠に向け西側に続きます。これまでの経験では、車の往来の多い道や住宅の多い所を歩かされます。今回のルートは多少アップダウンはありますが、自然を感じられる長閑な風景の中を歩け、車で廻ったのでは見逃してしまう見所もあり、いいルート選択だと思います。第4回 歩いて巡拝知多四国 内海西御所奥 神明社創建 / 寛永2年(1625)祭神 / 天照皇大神・伊弉冉命・伊弉諾命。境内社 / 御前社、山神社、五男三女神他氏子域 / 内海 例祭 / 4月第1日曜日 所在地 / 知多郡南知多町内海西御所奥18参拝日 / 2025/04/19内海駅から神明社徒歩ルート / 西へ約1.1㌔、約15分さてルートに戻り札所に向かいます。ルートからは馬蹄形の内側に鎮座する神明社と灌漑用の溜池の堰堤が望めます。内海峠に続く道は樹々に包まれた簡易舗装の細い道が続きます。この左手の高みが岡部城址になります。東木場ルート左側の山肌に忽然と現れる切割で、昭和35年頃まで使われていた古道。所在地 / 知多郡南知多町内海東木庭神明社から東木場 / 徒歩12分程内海峠。かつては内海と小野浦を結ぶ主要道として使われ、この切通を通って物資を運んでいた。ここから先は下りになります。時代劇のロケに使われてもいいようなひと昔前の趣が残っています。車の進入は禁止されていませんが、行かない事を勧めます。所在地 / 知多郡南知多町内海東木庭東木場から内海峠 / 徒歩6分程内海トンネル。内海峠を下った三叉路の突き当りにあるトンネル。昭和3年、ここから海岸へ下る歩道として私費で作られたトンネル、現在は通行不可となっています。札所へはこの三叉路を右に進みます。内海峠から内海トンネル / 道なりに5分程
2025.05.14
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堀の内2「神明社」鎮座地の堀の内は昭和59年に、それ以前の小牧市小牧、市之久田、間々本町、曙町の一部から誕生した町のようで、堀の内1はほぼ小牧山全域、今回の掲載する神明社は堀の内2に鎮座します。 小牧山南側のこの辺りは明治の一時期、八幡前と山前の二つに分かれていたようで、鎮座地はその八幡前にあたります。上は天保15年(1844)に編纂された尾張志付図から、小牧山周辺を拡大したもの。 神社の鎮座地は、当時元小牧として表記されています。永禄年間、信長が清州から小牧山へ居城を移した際、小牧山南側に城下町を整備し、一時は栄えたようです。 しかし、信長が岐阜城へ移るとともに城は廃城となり、城下町も徐々に衰退。さらに、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、小牧山が再び戦略的拠点となり、小牧山南側の様相も変化し、土居や豪が形成されていった。上は天保12年(1842)の小牧村絵図で、かつての町割の地名は残っているものの、多くは田畑へ姿を変え、小さな集落が点在する程度に見えます。 鎮座地は集落北側の赤丸部分と思えますが、鳥居の印ははっきりと確認できません。旧城下の移り変わりは、元和9年(1623)に徳川義直の命により、小牧山東側の上街道沿いへ町筋が移されたことから、この地域の集落は更に田畑へと変わっていったと思われます。上の明治期中期の地図では、小牧元町集落の北側に神社の鳥居が記され、城下町から田畑へと変遷した痕跡が見て取れる。 神社は江戸時代にはすでに鎮座していた可能性が高い。昭和48年(1973)に発行された『小牧町史』の無各社に八幡前の神明社として「祭神を天照大御神とし、社伝不詳。 大正2年天道社の祭神天照大御神と合祀し二柱を祀る。境内神社に秋葉社、金刀比羅社、稲荷社等がある」の記述を見付ける、「八幡前」から当神社を指していると思いたいが、境内社の記述と現状が違うようにも思える。 尾張志から当神社の記述も探したが見当たらず、1977年に出版された『小牧市史』には、小牧の神明社として二社が記されていました。一社は小牧神明社、もう一社は堀の内2の神明社と思われます、しかし、創建などの詳細な記述はなく、別途「小牧の神社」として纏められているようです。 国立公文書館で公開されているのを期待したが、Web上では確認できず、小牧図書館で閲覧可能なので、詳細を調べるには実際に訪れる必要がありそうです。全く分からないでは気持ちも悪い。 愛知県神社庁には、祭神・氏子域・祭礼日だけ掲載されていました。それによれば氏子域は小牧山北側の入鹿出新田とあった、更に地名の入鹿も気も気になりはじめ、結局堀の内2の神明社の縁起は分からずじまいです。写真は堀の内2の神明社社頭全景。 鳥居はなく石柱門と参道の先に木造蕃塀を構えています。境内右には堀の内会館が建てられています。参道正面に蕃塀と左に手水舎が建てられています。コンクリート造りの入母屋妻入り拝殿と本殿域の全景。一対の狛犬が守護する本殿域は板塀の玉垣が一周し神門とつながっている。本殿前の狛犬(寄進年未確認)。本殿域。 本殿は神明造、千木は内削ぎで鰹木は6本飾られています。本殿域右の朱の鳥居を構える境内社。 稲荷社だろうか。右の板宮造りの社は社名札がなく分からない、左は秋葉大権現。 『小牧町史』の記述に近いものですが、境内に金刀比羅社の姿はない。境内右端は金刀比羅社・・・と思ったが、こちらは水神、田畑を潤す神様です。 全て参拝を済ませたが、結局もやもやとしたスモークが残ったままでした。境内上空をスモークを焚いて飛び去るブルーインパルス、これはさすがに気持ちいいものだ。堀の内2「神明社」創建 / 不明祭神 / 天照大御神祭礼 / 4月第2日曜日境内社 / 秋葉大権現、不明社、水神氏子域 / 入鹿出新田所在地 / 小牧市堀の内2小牧山吉五郎稲荷から神明社 / 県道197号線小牧山西交差点を左折。徒歩10分程関連記事・0301 小牧山へ・小牧駅西口周辺の屋根神さま・小牧神明社・小牧山 「愛宕社・八幡神社・白山神社・御嶽神社」・徳川宗睦源明公墓碑・小牧山稲荷神社・小牧山初里姫龍王神社・吉五郎稲荷
2025.05.13
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吉五郎稲荷。小牧山には山中を周遊する散策コースが幾つかあり、今回掲載する吉五郎稲荷は、大手道から左に伸びる自然満喫コースの途中に鳥居を構えています。地図上では少し離れた印象ですが、小牧山稲荷神社の社頭右に鳥居が見える距離にあります。社頭全景。朱の鳥居と右に「吉五郎稲荷保安林」の石標が立てられています。鳥居をくぐり、陽光が降り注ぐ明るい森の中に伸びる参道を少し上れば、左の斜面に赤い社殿が見えてきます。この森は杉が多く植えられているようで、花粉症の方は時期によっては迂闊に近づかない方がいい。ここが市内中心部とは思えない緑豊かな光景が広がっています。どことなく猿投神社の境外摂社広沢神社を訪れた時の静寂に包まれた雰囲気に通じるものがあります。小牧山南斜面に建てられた小さな社殿。社殿はこの拝殿とその先の本殿を収める覆屋のこぢんまりとしたもの。ここに祀られているのが尾北一圓に住む狐の総大将で小牧山の主の吉五郎狐。小牧山稲荷神社でも触れましたが、吉五郎狐は美しい娘に化けるのが得意だったようです。小牧市の昔話の中に吉五郎狐に纏わる話がありますが、総大将らしい傲慢な内容の話も見られます。樹々に包まれた吉五郎稲荷の朱塗られた本殿、吉五郎稲荷は小牧山稲荷神社の奥の院的存在なのかもしれない。いかにも狐の巣穴がありそうな雰囲気が漂っています。小牧山には、現在も吉五郎狐や物語に登場する狐の子孫達が生息しているようです。街の中心にポツンと残された緑溢れる小牧山、細々と世代を繋ぐ生きものを育んでいます。私の住む名古屋市内では、アライグマや韓国イタチ、狸は見たことがありますが、狐は見たことがない。身近な森も、昨今は樹々の伐採が進むにつれ緑が失せ、巣作りができなくなったカラスは大騒ぎし、森に住むムカデまでも避難をはじめる。森が消えた跡にはグレー一色の集合住宅に置き換わり、そうした光景も見られなくなってきました。そのうち夢枕に立つかもしれない。吉五郎稲荷創建 / 不明祭神 / 吉五郎狐祭礼 / 不明所在地 / 小牧市堀の内小牧山稲荷神社から吉五郎稲荷 / 小牧山稲荷神社右、徒歩1~2分程関連記事・0301 小牧山へ・小牧駅西口周辺の屋根神さま・小牧神明社・小牧山 「愛宕社・八幡神社・白山神社・御嶽神社」・徳川宗睦源明公墓碑・小牧山稲荷神社・小牧山初里姫龍王神社過去記事・猿投神社境外摂社 廣澤神社
2025.05.12
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小牧山稲荷神社。前回掲載した徳川宗睦源明公墓碑、そこから1・2分ほど大手道を上ると左側に小牧山稲荷神社の赤い奉納幟が見えてきます。鎮座地は標高86㍍の小牧山南麗の大手道左に鎮座します。小牧山稲荷神社社頭全景。石の明神鳥居を構え、社頭右に「小牧山稲荷神社」社標と縁起が建てられています。写真右上の朱の鳥居は吉五郎稲荷の社頭。小牧山吉五郎 稲荷社緣記「天正(1573-1593)の昔より小牧山は樹木鬱蒼と茂り数万羽のゴイサギの棲息地で、又附近一帯は森林竹林が続き狐狸が多く棲息していた。そして小牧山には老狐吉五郎、又山中藪には藤九郎、お林山のお梅、下津山の助五郎、岩崎山の勘八、二子山の文治郎、下原山の銀九郎等々色々面白い名のついた狐がいた。就中小牧山の吉五郎は尾北一圓の大親分格で、魅力妖力、霊力ともに勝れ、近在の里人もその神通力に心服す、さきに郷党の人人相計り、小牧山吉五郎稲荷社を創建しこれを祀る、事後霊験あらたかに崇敬するもの、更に多く参拝者日々絶えることなく今日に至る。」とあります。その昔、小牧山に住んでいた狐をお祀りする神社です。現在の小牧山は山全体が豊かな杜に包まれていますが、信長、家康時代に戦略的拠点として整備された小牧山は、絵図のように森すら無いはげ山であったことがわかります。信長が小牧城を築城したのが永禄6年(1563)と言われます。縁起にあるような鷺や狐の楽園だったのは、城として整備される以前の小牧山と思えます。この狐伝説は口伝だけでなく、江戸時代前期の寛永年間(1624-1644)、小牧に住んでいた尾張藩士の津田房勝が書いた「正事記」に吉五郎狐が登場します。吉五郎狐は小牧山に住み、尾張北部一帯の狐の総大将として卓越した妖力を持っていたそうです。特に娘に化けるのが吉五郎狐の得意技だったようで、ころころと男衆を誑かしていたようだ。そんな吉五郎狐が五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄などにご利益があるとして祀られたのは意外に最近の事です。お稲荷様は明治時代、市街地の民家に家の守り神として祀られました。昭和10年(1935)のある夜、婦人会役員三人の夢枕に狐が現れ、「小牧の守護神として小牧山に鎮座したい」と告げたことを契機として、当時の町長や住民らの協力により、翌年の昭和11年(1936)に小牧山のこの地に神社が建立されました。祭礼は毎月21日、毎年4月21日には大祭が執り行われるそうです。興味本位から「小牧市史本文編の俗言と巷談」に吉五郎狐が記されていないか調べてみるが、縁起に登場する狐の名の逸話はみられなかった。社頭から境内の眺め。鳥居の先から奉納鳥居が立ち並び、その先に拝殿・本殿、社殿の左側には小牧山初里姫龍王神社が鎮座します。小牧山稲荷神社の鳥居扁額。鳥居は創建当時に奉納されたものでした。朱のトンネルの先の社殿。鳥居を抜けた先の一対の狛狐と拝殿・本殿。左には「小牧山初里姫龍王神社」の白い奉納幟が奥に続いています。拝殿前の狛狐。切妻瓦葺の平入拝殿と妻入り幣殿が本殿の覆屋に続いています。森の中に佇む社殿(左)と小牧山初里姫龍王神社の全景。尾張徳川家から小牧町へ小牧山が寄付されたのが昭和5年(1930)のことなので、山中にこうして建てられたものの多くはこの年代以降になってくるのだろう。覆屋に納まる本殿は流造、昭和初期に有志により建立されたとは思えない立派なものだ。境内の手水鉢。小牧山初里姫龍王神社本殿。詳細は良く分からなかったが、恐らくこちらも昭和に入ってから祀られたものと思われます。小牧山稲荷神社創建 / 昭和11年祭神 / 吉五郎狐祭礼 / 毎月21日、大祭 / 4月21日小牧山初里姫龍王神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 小牧市堀の内徳川宗睦源明公墓碑から小牧山稲荷神社 / 碑から大手道を上った左、徒歩1~2分程関連記事・0301 小牧山へ・小牧駅西口周辺の屋根神さま・小牧神明社・小牧山 「愛宕社・八幡神社・白山神社・御嶽神社」・徳川宗睦源明公墓碑
2025.05.09
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ポジショニングクルーズのベリッシマで台湾から東京へ 2に続き、最終回のポジショニングクルーズのベリッシマで台湾から東京へ 3となります。想定外の天候やアクシデントに見舞われながら乗り込んだクルーズ船ベリッシマ。結局クルーズ期間中には一度もスカッと晴れることなく、雨と共に日本へ向かいました。今回乗船したMSCベリッシマの模型。 2019年に就航したこの船は、日本発着のクルーズ船として最大規模を誇るそうです。自分史上最大の船への乗船ということになります。MSCベリッシマの大きさは以下の通りです。全長:315メートル全幅:43メートル高さ:75.5メートル(近鉄新名古屋ビルに匹敵する高さ)さらに、乗客定員は5655名で、乗員を含めると総勢7000名以上が収容可能です。この船はまるで小さな町を丸ごと浮かべたような規模を誇っています。船首と船中央のメインエレベーターは19階まであり、高層マンション並みの高さがあります。巨大な船のメインとなるのがこれらのデッキで、其々に多様な施設が集められています。私達はこの船の11階でバルコニー付きの部屋を選択しました。船内はルームキーも兼ねたクルーズカード(クレジットと紐づけ)があれば、手ぶらで徘徊できます。また、クルーズ期間中のディナーの時間・メインダイニング・テーブルは予め指定されます、私達の場合はデッキ5のポジドニアで17:00、テーブルNo269。広い船内、慣れるまでは自分の部屋を見失うこともありますが、カードにはデッキNoとキャビンNoも書かれており、デッキと右舷と左舷側の長い二本の通路を間違えなければ迷子になることもないので安心。ただ、メインエレベーター以外のエレベーターを使うと混乱する場面もあります。私達のキャビン。船体中央の右舷のバルコニー付きの部屋。ビジネスホテルと同程度の広さがあり、バスタブがないくらいで窓があるので解放感がありました。バルコニーで水平線に沈む夕陽や朝焼けをのんびり眺める、そんな予定でした。しかし台湾から低気圧が追いかけてきて、まともにバルコニーでくつろぐことはできず、クルーズ中は一度しか外に出られなかった。こうなると揺れの少ない船体中央の窓の無い部屋の方が良かった気もする、こればっかりは運次第。こんな巨大な船なので、多少の波では揺れないだろう、船酔いもないだろうと思っていました。しかし実際は地に足が付かないというのか、軽く二日酔いした時のように微妙に足元がふらつく感じを覚えます。揺れに弱い方は船酔いの薬を持って行った方がいいかもしれません。船体中央のデッキ5からデッキ7を貫くインフィニティ・アトリウム。揺れはこうしたフロアでも感じられました。スワロフスキー階段。ドレスアップして思い思いのポーズで記念の一枚を収めるこの船のフォトスポット。ガッレリア・ベリッシマ。インフィニティ・アトリウムから船首に続く全長80㍍超のLEDスクリーンの天井を持つプロムナードで免税店や有料レストランなどが連なり、広場では毎日ストレッチやエクササイズ、催しが行われます。日々届けられる船内デイリープログラムで、どのデッキで何が行われているのかは一目瞭然。カジュアル船のベリッシマ、船内の服装はパジャマでなければ浮く事はありません。メインダイニングのドレスコードも緩く、カジュアルシャツにネクタイ、ブレザーで問題ない。むしろ厳格なフォーマルだと浮いてしまう、そんな印象を受けました。上は船首側のMSCヨットクラブ専用エリア。下は最上階のアトモスフィア・プールとスカイラウンジ。海水プールでジャグジーもある、海が荒れる時はさながら波の出るプール状態になる。クルーズ中、優雅にプールで泳いだり、デッキでくつろぐ人影は殆ど見る事がなかった。後方デッキにウオータースライダーやヒマラヤンブリッジなどがあり、クルーズ中はデッキのウオーキングとヒマラヤンブリッジを楽しみにしていましたが雨天ではそれも中止。ロンドンシアター。こんな天気なのでクルーズ中一番通ったところがここ。船内アプリで予約が取れればライブショーやマジックなど無料で見られる。船内には他にもシアター、ジム、ボーリング施設などあり、天候が悪くて屋外のアトラクションが使えなくても楽しませてくれる施設が用意されています、ないものと言えは展望風呂くらいだろうか。デッキ7のインペリアルカジノ。ルーレット、カード、スロットなど一攫千金も夢ではない・・・、同じツアー客で勝ったと聞くことはなく、現実は厳しいかもしれない。妻にはクルーズカードにクレジットを紐づけしてらえず、一度もチャレンジしなかったが別のお楽しみもあります。中央のバーカウンターで酒を飲みながら人様の喜怒哀楽を眺めて楽しんでいられる。また、愛煙家には船内で喫煙できる数少ない場所です。デッキ18のスカイラウンジ。お子様が入れない、落ち着いた雰囲気のラウンジ。ライトアップされたアトモスフィア・プールを眺めながら、静かな空間で酒を楽しめる。船内各所にバーカウンターがあり、朝から晩まで多様な酒を堪能できます。メインダイニングはデッキ5、6にあり写真はデッキ6のライトハウス。その他にもデッキ15にはビュッフェレストランもあり、深夜12時まで多様な料理を提供しており、夜食や酒のつまみとしてトレイのまま部屋に持ち帰る事も出来る、当然アルコールも同様です。メインダイニングの料理一例。ロブスターが名物と聞いていたので、とりあえず頼んでみた。ビュッフェレストランの一例。大概のものがあり、その気になれば一日中食べ続けることもできる。これはランチだったかな。雨のクルーズ。楽しみと言えば食事になります。体も動かさず食べてばかり。これでは家に帰って体重計を見るのは恐怖。クルーズで一度だけ、お日様が少し顔を出す。漸くバルコニーの出番。この時はビュッフェレストランから持ってきた食事と酒、ルームサービスを頼み、バルコニーで食事を楽しめました。この後、再び雲に包まれ徐々に風雨が強くなる。そしてまたこうなる。風雨の中、九份土産のカッパを着て屋外デッキを歩く。海も空もこの色合い、東京が近づくにつれ雨脚も強くなってきた気がします。この旅行、クルーズ開始前に急遽予定より一日早く東京に到着する計画に変更された。それは一日早くカジノや免税店が閉まってしまう。想定外続きの旅行にあって、これが第三の想定外。部屋から人工物が見えてくる。カッパを纏いデッキに出て見ると三角形の建造物がはっきりと視界に入ってきました。上は4/11 14:00東京湾アクアラインの換気口風の塔。下はアクアライン海ほたると千葉県に繋がる橋梁。となると東京国際クルーズターミナルも近い。やがてタグボートが現れ、船体に寄り添うように航行を始める。14:35 小さな船だが、あのターミナルに巨大な客船を優しく接岸させる。ここで第四の想定外。明日が下船予定ですが、接岸後全乗船客は一旦入国審査を行い、全員が下船して欲しいとのSMC側からの通告。旅行社も想定外の出来事で、なんでも不法入国者がいないか、入管による船内検査が行われるという。不定期に行われ、旅行社側も存在は知っていたが体験するのは初めてのことだとという。なるほど、だからクルーズが一日短縮された訳だなぁ。しかも夕食前に到着し、5000名が全員下船し、船内検査が終わるまで食事や酒も飲めない。さりとて、荷物もないので帰宅もできやしない。下船前にメインダイニングで慌ただしく食事を済ませる。漸く船外に出る、更にこの後入国検査を受けなければならない。18:40入管検査を終えターミナルから外を眺める。都内につなぐバスが手配され、船内検査が終わるまで街に出られたし、外を歩いてペリッシマの全景も撮れたのだろうが、この雨ではそんな気にもならない。ターミナルで乗船許可が出るまでじっと待機した。検査が終わり乗船が始まると再び5000名が一斉に出国検査・乗船検査を受ける事になり、基隆港でのドタバタが再来する。部屋に戻れたのはなんやかんやで21時は過ぎていただろうか。旅行社はともかく、SMC側には事前に連絡があったのでは、ついつい勘繰りたくなる。そこから23時までに荷物を纏め部屋の前に出す下船準備もある。この日は午後からこんな無駄な作業に追われ、非日常から一気に日常に戻されました。予約していたロンドンシアターのショーも行く気力を失った。落ち着いてからカジノのバーカウンターに行くとそこも閉鎖。酒は他でも飲めるので大きな問題ではないが、喫煙も出来ない状態で愛煙家は困ったことだろう。メインダイニングも時間延長されていたが、長い列ができていました。ペリッシマ最終日、明日が本当の下船です。今夜は早く寝て、朝一番にメインダイニングの朝食の列に並ぼう。明日の下船後は東京で観光してから新幹線に乗るか考えたが、潔く直帰する事にしました。人込みと長い列に並ぶのはどうしても苦手だ。結論として・天気さえよければ窓際の部屋は開放的なクルージングを堪能できます、荒れた時は割高なコストに見合うものはないので、船内中央の部屋で十分、その分で有料レストランや免税店で何か買った方がいいかもしれない。・食事や施設はクルージングを退屈させないものが提供されています。・私達だけかもしれないが、船内で日本人クルーに出逢わなかった。・外国語が苦手な方でも心配しなくてもコミュニケ―ションが取れる。関連記事関連記事・ポジショニングクルーズのベリッシマで台湾から東京へ 1・ポジショニングクルーズのベリッシマで台湾から東京へ 2
2025.05.08
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知多四国 二十一番札所 天龍山 常楽寺。第三回本開催のゴールとなります。龍台寺からは、国道247号線沿いに10分程の南下した半田市東郷町地内に常楽寺は鎮座します。写真は天龍山常楽寺の山門入口に建てられた寺号標。そこには「御本尊国宝」、「家康公遺蹟」と刻まれています。「常楽寺と家康の所縁は、第八世典空顕朗上人の時、桶狭間の戦い(1560)で敗れた家康が岡崎に向かう途中、従兄弟の顕朗上人を頼って当寺を訪れ岡崎に帰られた。その折に家康から頂いた鐙と鞍は今も寺宝として残されている。その後、家康は当寺を2度訪れており、徳川家との縁は現在まで続いている。」天龍山 常楽寺山門。入母屋瓦葺の八脚楼門で、左右の間には大きな像の姿があります。最初は仁王門かなと思っていましたが、近づくにつれ間違いだった事が分かります。左右の間に安置されていたのは四天王の廣目天、増長天の二躯が安置されており、これは仁王門ではなく二天門。四天王とは仏教の神々で仏法僧を守護し、東方を守護する持国天、西方を守護する廣目天、南方を守護する増長天、北方を守護する多聞天の四神を指します。これら四神を安置する門は四天門と呼ばれます。年代や作者までは調べきれなかった。現在の門は老朽化により取り壊され、昭和62年(1987)に再建されたもの。境内から二天門と境内塔頭のひとつ超世院の朱塗りの薬井門の眺め。二十一番札所 天龍山 常楽寺は文明16年(1484)に創建された西山浄土宗の寺院で、参道には4つの塔頭寺院と薬師堂、観音堂、本堂、庫裏・鐘楼が主な伽藍で、本堂左に鎮守社が祀られていました。大正13年(1924)、火災により伽藍の多くを焼失したが、昭和15年(1940)に再建されたものが現在の姿。参道左の手水舎。手水舎後方の薬師堂で右の火灯窓の付く建物が観音堂になります。参道右側の法然上人ちご像と鐘楼。浄土宗を開いた法然上人の幼名は勢至丸と言われます。本堂の全景。大きな向拝を持ち、滑らかな屋根の勾配が美しい入母屋瓦葺の平入で、威厳を感じさせるもの。上は本堂前の由緒。當山由緒・御本尊 阿弥陀如来(木立像)弘長3年(1263)法橋円覚作(国指定重要文化財)・宗派 西山浄土宗総本山 栗生光明寺(京都長岡京市)・教義 阿弥陀仏の本願を信じ、つねに名号を称え、歓㐂報謝の生活にいそしむ。・開山 法然上人第八世法孫 空観栄覚上人立本大和尚(1403-1492)・開創 文明16甲辰年(1484)・塔頭 超世院、遣浄院、真如院、来迎院・寺域 6000坪抑々当山は人皇第百三代後土御門帝の御空、文明16年、空観栄覚上人当地に来り、当時天台宗仏性寺なる古寺を山内修造し、浄土宗西山流の常楽寺と称したことに創る。尔耒法水分流して郡内三十余ヶ寺あり。第八世典空顕朗上人は家康公從弟たる因縁をもって、公自ら永禄3年、天正10年、同17年の三度にわたり当山に逗留。その後、歴代藩主もつねに参詣あり、慶長7年住職京都に召されて寺領五十石の御朱印拝領。大正13年不慮の災火に諸堂焼失。尔未衆力を請いて本堂(十二間四面)をはじめ諸堂復興。時に昭和15年3月、仏恩の広大を思ふものなり。・御詠歌 常楽のひがんに やがていたらまし み名となふるは報恩のため山主合掌 」下は本尊の阿弥陀如来立像の半田市教育委員会解説。「国指定重要有形文化財(彫刻)木造阿弥陀如来立像 天龍山 常楽寺常楽寺の本尊で高さ70㌢の寄木造り、漆箔、玉眼がはめこまれ、衣の上に截金文様がほどこされている。手は来迎印を結び、左足をやや前にだして、生きているものすべてを救うために一歩を踏み出そうとする姿を表している。頭部の肉髻はやや低平で宋朝様式の影響を受けていたことを示す。頭部内の墨書きから弘長3年(1263)法橋円覚の作であることが判明しており、鎌倉時代の仏像の典型例とされる。昭和6年12月14日 指定」本堂の寺号額。尾張徳川家19代当主徳川義親公(1886-1976)の揮毫。写真に撮り忘れましたが、本堂内の「天龍山」の額は、徳川宗家第16代当主徳川家達公(1863-1940)の揮毫。本堂内部。葵の紋の入った「普照無際土」の額の揮毫や本尊、もう少し寄りたかったが当日のレンズではこれが精一杯だった。観音堂。入母屋瓦葺の妻入で本堂から渡り廊下で結ばれています。堂内全景。本尊の観音菩薩と左に太師像が安置されています。本堂右側の境内から本堂、観音堂の眺め。渡廊をくぐり本堂左から境内を眺める。本堂左に朱の鳥居を構える鎮守社が祀られていました。今回の第3回歩いて巡拝知多四国、二十一番札所常楽寺をもってゴールとなります、心配していた空模様もなんとかゴールまで持ってくれました。普段なら、地元で知られたお店を探し、昼ご飯するのが楽しみなんですが、今日はこの後予定もある。久し振りにうどんをかっ込んで急ぎ名古屋に帰る。物価高のご時世、うどんも高くなったものです。第3回 歩いて巡拝知多四国 二十一番札所 天龍山 常楽寺宗派 / 西山浄土宗開基 / 空観栄覚開創 / 文明16年(1484)本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 半田市東郷町2-41参拝日 / 2025/03/15龍台院から常楽寺徒歩ルート / 国道247号線を南へ約2㌔、約30分参拝日 / 2025/03/15関連記事・第3回 歩いて巡拝知多四国 五十四番札所 亀嶺山 海潮院・第3回 歩いて巡拝知多四国 番外 亀宝山 東光寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 番外 清涼山 海蔵寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 十八番札所 光照寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 斐芽(ひめ)の祠と業葉(なりは)神社・第3回 歩いて巡拝知多四国 十九番札所 前明山 光照院・第3回 歩いて巡拝知多四国 二十番札所 萬松山 龍台院
2025.05.07
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前回掲載した十九番札所光照院から約1㌔西の半田市前崎東町へ。名鉄河和線住吉駅と知多半田駅の中間に位置し、古くはこの辺りまで波打ち際があったと記されていますが、今は閑静な住宅が広がる半田市の中心にあたります。二十番札所 萬松山 龍台院は南北に細長い境内で、南側に入口となる石柱門を構えています。住宅街にありながら、境内の大きく育った楠など、境内は緑に溢れています。本堂へ続く石畳。龍台院は曹洞宗の寺院で、天文年間(1532-1554)に松隠巌和尚により現在地に移転、真言宗の萬松山 龍臺寺としてはじまったようです。明暦4年(1658)、曹洞宗に改宗、常滑村天沢院末寺となり龍臺院へ改号された寺院です。伽藍は参道左に弘法堂・観音堂、正面の本堂と右側に納経所のある庫裏が主な伽藍になります。参道左には稲荷社が祀られ、参道両脇に地蔵像が多数安置されています。webサイトの多くが以下内容で記されています。「龍台院は天正元年(1573)、当地の土豪だった吉田禎輔が堂宇を建立し、珠嵓大和尚を第一世として開創された。当時は観音堂と呼ばれていましたが、慶応元年(1865)、甘雨為霖大和尚によって曹洞宗として法地が開かれ、 堂も整備されていきました。昭和20年、道路拡張のため境内は大きく削られ、弘法堂も取り壊されたが、 同63年、知多四国霊場開創180年を記念し再建されています。弘法堂の左に祀られた「萬松稲荷」は、元は横須賀町(現東海市) の玉林斎にあったもの。その住職の夢枕に神様が立たれ「巽にあたる半田の龍台院に祀ってくれよ。衆生の済度がしたい」と告げられたため、龍台院に譲られました。明治30年のことといいます。」正面の本堂は瓦葺寄棟造の木造建築。自分には先述したwebサイトの情報の引用先が分からず、知多四国公式サイトからも定かにできなかった。そこで「尾張志知多郡」・「尾張名所図会」の龍台院からこれらに結びつく記述を探したが見つけられなかった。次に「半田市誌本文偏」の龍台院の記述を見ると「宗派 曹洞宗・開創年 明暦4年(1658)・本尊 観世音菩薩」。「半田市誌宗教篇」では張州雑志(1780)を引用し、「龍臺(たい)院、曹洞宗に属し、常滑村天沢院末寺、客殿本尊釈迦・堂本尊観音(弘法作)、開山松隠珠巌大和尚」。また、尾張徇行記(1822)から引用し「永禄6年亥年僧松隠珠開基也」と記しています。読み進めると、様々な文献記録をもとに以下のように龍台院を纏めていました。萬松山 龍台院・創立年月不詳。・境内別堂安置の十一面観世音は興教大師(1095-1143)作、康治年間(1142-1144)に字長老山付近の草庵の本尊。・天文年間(1532-1554)、松隠珠巌和尚により現在地に移転、真言宗の萬松山 龍臺寺と号した。・山号の萬松山は周辺が松林であったことに由来。・明暦4年(1658)、曹洞宗に改宗、常滑村天沢院末寺となり龍臺院へ改号。・寺宝、本尊観世音、天海僧正作の聖徳太子、弘法大師作の地蔵菩薩、観世音菩薩は10年毎に開帳。本記事では創建等の内容をこちらの情報に基づいて引用しているので、検索でヒットする情報とは異なった内容となるかもしれません。向拝の額には山号の萬松…山と書かれているのだろうか?「山」というより「閣」に見える、本殿額「吉祥林」の意味は分からなかった。観音堂。というより以前は旧弘法堂として建てられたもののように見られます。別堂本尊の十一面観音菩薩像はこちらに安置されています。観音堂入口に賓頭盧尊者像。堂の内部は昼間でも薄暗く、右手に阿弥陀如来の掛軸と梵字、左に小さな地蔵や観音像が安置されています。格子戸の先には本尊の十一面観音菩薩坐像、弘法大師作の地蔵菩薩が安置されている。観音堂の左の方形屋根の建物が二十番弘法大師堂、格子戸が閉じられ堂内部は見られなかった。外観から建立時期は比較的新しい様に見受けられ、道路拡張により取り壊され、昭和63年に再建されたものと言われると頷けます。龍台院の弘法さまは「手足弘法」と呼ばれ、堂の前に置かれた手・足をかたどった木の棒で患部をさすり「南無大師遍照金剛」と唱え平癒を祈願するもの。弘法堂の左の境内に祀られている「萬松稲荷」。本殿の台座の上に白い子狐が置かれ、稲荷であることを物語っています。以前は東海市横須賀町で祀られていたが縁あってこちらに遷されたようです。道路拡張により境内が縮小されたと知ると、広いとは言えないかも知れないが、そのことを知らなければ、半田の中心に鎮座する龍台院は、立派な伽藍を持つ寺院です。ちとせふる つるのはやしのだいひかく えんぶだごんのひかりかがやく第3回 歩いて巡拝知多四国 二十番札所 龍台院宗派 / 真言宗⇒明暦4年曹洞宗に改宗開基 / 松隠珠巌和尚開創 / 明暦4年本尊 / 十一面観世音菩薩所在地 / 半田市前崎東町35参拝日 / 2025/03/15光照院から龍台院徒歩ルート / 西へ約1㌔、約10分参拝日 / 2025/03/15関連記事・第3回 歩いて巡拝知多四国 五十四番札所 亀嶺山 海潮院・第3回 歩いて巡拝知多四国 番外 亀宝山 東光寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 番外 清涼山 海蔵寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 十八番札所 光照寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 斐芽(ひめ)の祠と業葉(なりは)神社・第3回 歩いて巡拝知多四国 十九番札所 前明山 光照院
2025.05.04
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前回の業葉(なりは)神社の西側が十九番札所 光照院。境内はひと続きといっても過言ではありません。写真は、一旦公道に出てから光照院観音堂参道を眺めたもの。右側に「御本尊聖観世音菩薩」の石標、左に本尊の解説が立てられています。半田町史には観音堂について以下のように書かれています。「慶長(1596-1615)以前には創立されていたものとされ、本尊聖観世音菩薩は八幡宮(業葉神社)の地佛として社と同時期に建立し、当初は八幡社の社務を務めていたが、徳川時代に光照院の付属となった。天保6年(1836)12月、光照院は観音堂と山門を除き焼失、この際に書類や什器なども悉く灰と化した。その後、伽藍が再建されるのは弘化4年(1847)という、伽藍にあって最も古いのがこの観音堂である。」秘仏聖観世音菩薩立像の解説。「聖観世音菩薩像」について、聖徳太子作や漁師の網にかかったものなど口伝があるようですが、その部分に関して、半田市誌・半田町史にはそうした記録はなかった。この解説には藤原期から鎌倉期の作とあるので、聖徳太子作とするには少し無理がありそうです。寄棟瓦葺平入の木造建築で、正面に一間向拝が付くもの。手前には「南無観世音菩薩」の赤い幟と南無阿弥陀仏と刻まれた石標が立てられています。堂の左には宝珠を持つ赤い大師像、更に左には前鬼と後鬼を従えた役行者像が安置されています。観音堂から19番札所 前明山 光照院へ。右が本堂で、左の方形重層造りの建物が弘法堂。「半田市誌」、「半田町史」によれば、光照院は浄土宗浄楽寺の末寺で、創建は安土桃山時代の慶長10年(1605年)、空念専慶上人により開創され、本尊は阿弥陀如来。伽藍は弘化4年(1847)に再建、明治40年(1907)弘法堂建立、平成23年(2011)には庫裏をはじめとした伽藍整備が行われている。広い芝生の庭にはイスやテーブルが置かれ、歩き疲れた体を癒してくれます。山号額の先の本堂内の眺め。弘法堂。方形瓦葺の木造の重層建築で正面に一間向拝が付く、右手に「抱き大師」が安置されています。光照寺のものと外観は似ていますが、この堂は明治時代に立てられたものなので、光照寺のように寺格が問われる事はなかったことだろう。薬井門全景。天保6年(1836)の火災では観音堂とこの薬井門だけが難を逃れたという。今回頂いた阿弥陀如来の梵字カード。1回・2回と連続で出たゴールドカード、さすがに今回は続かなかった。だいじひの ひかりをてらす じぞうそん たすけたまへよ このよのちのよ第3回 歩いて巡拝知多四国 十九番札所 前明山 光照院宗派 / 西山浄土宗 開創 / 空念専慶上人開創年 / 慶長10年(1605)5月本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 半田市東本町2-16参拝日 / 2025/03/15業葉神社から光照寺徒歩ルート / 南へ1.7㌔、約20分参拝日 / 2025/03/15関連記事・第3回 歩いて巡拝知多四国 五十四番札所 亀嶺山 海潮院・第3回 歩いて巡拝知多四国 番外 亀宝山 東光寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 番外 清涼山 海蔵寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 十八番札所 光照寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 斐芽(ひめ)の祠と業葉(なりは)神社
2025.05.03
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光照寺からJR武豊線乙川駅付近を通過し、半田大橋を渡り阿久比川と十ヶ川を越えます。十ヶ川右岸堤防道路を南下し国盛酒の文化館を目指します。今回掲載する斐芽(ひめ)の祠と業葉(なりは)神社は、黒壁の倉が連なる半田運河右岸にあります。この辺りは江戸時代から海運が栄え、ここで作られた酢や酒は遠く江戸まで運ばれていました。今回の目的地は国盛酒の文化館の西側に鎮座します。国盛酒の文化館には一度訪れたことがあります。しかし、その西隣にある斐芽の祠と業葉神社や境内西隣の十九番札所光照院も今回初めて訪れます。国盛酒の文化館西側から業葉神社境内の眺め。境内東側の赤い鳥居は斐芽の祠のもので、左が業葉神社の鳥居になります。春日造り風の朱色の覆屋、中には注連縄の張られた一抱えほどの岩が安置されています。社頭の解説を要約すると以下のような謂れがあります。業葉神社の境内にある「力石」は、かつて江戸の大相撲の関取が奉納したとされる大石で、子の健やかな成長を願って人々がなでたり座らせたりしてきた。力石は、戦後の混乱で忘れられかけたが、近年再び注目され、人々がご利益を求めて訪れるようになった。神社は半田の繁華街に位置する歴史ある社で春祭には雅楽が奏ぜられ賑わう。覆屋の中の大岩。大岩に注連縄が巻かれた姿は、どことなく力士の姿にも見えてくる。左手の業葉神社鳥居から拝殿の眺め。業葉神社の創建は定かではないですが、社伝によれば、当神社は山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)を勧請したもの。古来より八幡宮と尊称され、神宝の古面裏書に「業葉天神」と記されていたことから、本国神名帳にある従三位業葉天神であることを知り、天保8年(1837)11月、官許を得て改称した。このことは、神社が所蔵する棟札からもうかがえる。棟札は寛文3年(1663)から文化12年(1815)までの10枚に、「八幡宮」とあり、天保10年(1839)以降の棟札には「業葉神社」とある。明治5年に「村社は一村一社に限る」との達により、住吉神社が村社となり、当社は無格社となったが明治15年村社に列せられた。祭神:応神天皇配祀:仲哀天皇、神功皇后、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、天照大神境内神社:金刀比羅社、船玉社、津嶋社、松尾社、秋葉社、子安社例祭:4月15、16日氏子域:半田市東本町、荒古町、泉町、勘内町、北末広町、銀座本町、源平町、古浜町、幸町、東雲町、新川町、新栄町、十一号地、東洋町、中村町、西端町、浜町、東天王町、東浜町、東本町、日ノ出町、広小路町、船入町、本町、瑞穂町、南本町、御幸町、妙見町、山崎町、山ノ神町上がその古面(文化遺産DBより引用)。「制作者、正確な年代は不明、芸能化される以前の古い神事面と考えられ、およそ室町時代に信仰の対象として制作されたものと推定されている。面相は意図的に大きくゆがめられ、ひび割れたクスノキ材をそのまま利用し制作されている。左右の頬は左が墨書き、右が線刻と技法に変化が加えられ、彩色や眉の植毛の痕跡がみられる。」右手の裏面に業葉天神と記されている。(有形民俗文化財)実物は半田市立博物館で所蔵されています。参道右の手水舎と斐芽の祠。拝殿右には境内社が纏められています。入母屋瓦葺木造の平入拝殿。拝殿前を守護する狛犬と業葉神社拝殿額、揮毫は岩津天満宮宮司による揮毫。三つ巴の紋が入る木目が美しい賽銭箱と本殿方向の眺め。拝殿右の境内社。手前に板宮造りの三社、後方に一社の四社が祀られています。津島社、船玉社、秋葉社。後方に神明造の松尾社。流造と思われる本殿、本殿域の様子は窺えなかった。斐芽(ひめ)の祠と業葉(なりは)神社創建 / 不明(寛文3年の棟札)祭神 / 応神天皇境内社 / 金刀比羅社、船玉社、津嶋社、松尾社、秋葉社、子安社例祭 / 4月15、16日所在地 / 半田市東本町2-18光照寺から業葉(なりは)神社徒歩ルート / 南へ1.7㌔、約20分参拝日 / 2025/03/15関連記事・第3回 歩いて巡拝知多四国 五十四番札所 亀嶺山 海潮院・第3回 歩いて巡拝知多四国 番外 亀宝山 東光寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 番外 清涼山 海蔵寺・第3回 歩いて巡拝知多四国 十八番札所 光照寺
2025.05.02
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