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前回掲載した英比磨が建立した天満宮の拝殿から、右の石段を下りれば、そこは十七番札所 樫木山 観音寺の境内になります、今回はこちらを掲載します。天満宮境内から観音寺境内を見下ろす。 伽藍は左の本堂と手前に手水舎、本堂右が庫裏が主な伽藍になります。境内左に弘法大師を安置した祠と右に手水舎があり、後方に石仏群安置されています。本堂は瓦葺の方形屋根の木造で正面に向拝が設けられ、本堂左側に大師像が安置されています。 境内はそれほど広くないので、普段は静かな境内も、本開催のようなタイミングだと参拝客で溢れます。本堂前の阿久比教育委員会 樫木山 観音寺解説。 「樫木山観音寺は浄土宗に属する。本尊の「十一面観音」は、江戸時代中期の元禄2年(1689)の作で、50年に一度しか開帳されない秘仏になっている。寺伝によれば、開基は蓮随大和尚であるが、創建は不詳である。 観音寺の前身は、この寺の西方にあった樫木田村の「観音堂」で、高岡村の現在地に移されたといわれている。山号の由来もここによるものであり、この寺の西方1kmほどの所に、現在でも「樫木田」という小字名が残っている。 移された年代は定かではないが、安政4年(1857)の文書に「高岡の観音堂新四国十七番」とあり、新四国の霊場の開かれた文政7年(1824)以前であることがわかる。なお、本堂軒下の元禄2年(1689)と刻まれている鰐口も、手がかりの一つである。 昭和23年(1948)「観音堂」から「観音寺」にかわった。平成11年(1999)3月が、秘仏開帳の年に当たり、多くの参詣者は、黒ずんだ木造で、高さ35cm、左手にハスの花を持った本尊を拝することができた。 知多四国八十八か所霊場の第17番札所は昔のままである。」とあった。阿久比町誌の樫木山観音寺沿革は以下のように記されていました。 「観音寺は浄土宗に属し、「尾張殉行記」には「高岡村観音堂、覚書ニ地内一反一畝歩前々除、〇庄屋書上ニ境内反畝同上、此堂草創ノ年紀ハ不伝」と記されている。草創ノ年紀は不明とありますが、慶長13年(1608)の備前検地以前に免祖地として認められた土地であることから、創建はそれ以前のことと思われます。 また寺伝によれば、当初は樫木陀田村にあったものを高岡村に遷されたと伝わる。文亀2年(1502)の「英比谷虫供養縁起記」に念仏供養講番として周辺の村々の順番が示されており、そこに炊田村の名があり、樫木田村は炊田村といったことから、この時代には創建されていたようです。 虫供養とは、知多半島出身の僧侶良忍(1072-1132)の教えを元に、自然の恵みに感謝するとともに、そのために犠牲となった田畑の虫を供養するため、念仏を唱えるもので、平安時代の終わり頃から阿久比町でも行われ、東浦・知多・常滑と共に「知多の虫供養行事」として受け継がれてきた民俗信仰で、愛知県無形民俗文化財に指定されている。現在、阿久比町では町内各地区の持ち回りで当番を受け持ち、当番になる地区では寒干しや土用干しをはじめ1年をかけ、虫供養当日(秋分の日)を迎えます。上は阿久比町史に掲載されている本尊の十一面観世音菩薩、50年に一度御開帳されるそうです。 写真は観音寺参道入口全景で、右手に「新四国 十七番札所 観音寺」の寺標。左に「村社 天満宮」の社号標が立てられ、左側の参道を上れば天満宮境内に至ります。みほとけの そのみちかいも たかおかに しんにょのつきは つねにてらせる納経を終え、境内南側の石段を下りて、今回のゴールとなる十六番札所 鳳凰山 平泉寺に向かいます。 鎮座地はここから東方向にあるアピタの北側の阿久比町椋岡唐松になります。距離は約500㍍ほど、時間にして10分ほどで着けると思います。第六回歩いて巡拝 知多四国 十七番札所 樫木山 観音寺宗派 / 浄土宗開基 / 善随大和尚創建 / 不詳本尊 / 十一面観世音菩薩所在地 / 知多郡阿久比町矢高三ノ山高15天満宮から観音寺 / 天満宮の東石段を下りると境内写真は平泉寺への道中、角前田交差点から東に150㍍ほど先の道路脇で見かけた「唐松の井戸」解説板。「唐松の井戸 平安時代、第53代淳和天皇の御代、天長七年(830)のある夜、天皇は鳳凰という吉鳥が何羽も群れをなして尾張の国へ舞い降りたという夢を見られた。その地こそ知多郡英比の角岡村(現在の椋岡)であった。 そこで早速、天皇は厚く信任されていた比叡山の座主・慈覚大師に「尾張の国へ行き、鳳凰を見てくるように」と命じられた。当時、英比の里は日照りが続き、田畑の作物は枯れ、飲み水さえもなくなるありさまだった。 慈覚大師を見つけた村人の一人が「お坊さま、どうかお助け下さい」とすがりついた。そばの井戸をのぞいてみると、一滴の水もなかった。 大師は道に落ちていた石を拾って、きれいに拭き清め、経文を唱えて井戸の中に投げ入れ、一心不乱に読経された。すると、水がこんこんと湧き出してきて、人々の飢渇を救ったと言われる。 尾張名所図会巻六「唐松井」には「片岡村にあり。里民朝夕是を汲む、その水、はなはだ清し、これ慈覚大師加持し給いし名水なりとぞ。いつも元旦には井中に松影見ゆるとなん。 されども近きあたりに松の木なし。人皆是をあやしむ故、虚松(からまつ)の井なるを、後、終に唐松の井とはよびならわせるべし。」とある。石が組まれた井の中は、慈覚太師が祈祷以来、今も水を湛えていました。 周辺は宅地化され、土壌の乾燥化も進み、この井戸の水もいつまで湧き出るものか。そして、慈覚太師は椋岡に舞い降りた鳳凰を見つけたのだろうか。唐松の井戸所在地 / 知多郡阿久比町椋岡唐松63天満宮・観音寺から唐松の井戸 / 天満宮・観音寺から東へ0.5km、約10分ほど参拝日 / 2025/6/21関連記事・第六回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第六回歩いて巡拝 知多四国 十三番札所 板嶺山 安楽寺・第六回歩いて巡拝 知多四国 十四番札所 圓通山 興昌寺・第六回歩いて巡拝 知多四国 十五番札所 龍渓山 洞雲院・第六回歩いて巡拝 知多四国 阿久比神社・第六回歩いて巡拝 知多四国 天満宮
2025.07.31
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阿久比神社から南に向かい、20分ほどかけて円山公園の西側を通過し、保育園の横を過ぎると正面に交差点が現れます、ここを直進し緩やかな上り坂の先を目指します。坂を上りきった阿久比町矢高平地の辻で見かけた拾七番札所の石標。そのすぐ後ろの二丁石。 この辻から石標の通りに右に進むのが本来のルートなのでしょうが、真っすぐ進めば100メートルほどで観音寺に至ります。直進すると左に観音寺の方形屋根が見えてきます。 ここで右を良く見ると、神社の姿があります。細い参道を上ると、右に小さな鳥居を構えた二つの社が祀られています。祀られているのは多賀社と本宮社です。上は阿久比町史の天満宮の配置で、図中の7番が多賀社と本宮社の位置になります。拝殿南側の眺め。 拝殿正面のこの建物は籠殿と呼ばれ、その右側に鳥居(1906)と、文化3年(1806)に寄進された常夜灯があり、そこから下に参道が伸びています。境内南側に聳える楠の大木が大きな木陰を落としています。拝殿左側から多賀社・本宮社と樹形が美しい桜の眺め。天満宮社殿全景。 左に解説板と道真と深いかかわりのある神使の臥牛が安置されています。台座には、道真が好んだ梅があしらわれています。阿久比町教育委員会による天満宮解説。『天満社 天満社の祭神は、文人・学者であった菅原道真である。社伝の記録として保存されている弘安3年(1280)の「村社天満社御由緒調査書」によると、創建は天暦2年(948)菅原道真公の孫である英比磨は、ここ高尾山の自然と眺望を愛され、亡き祖父の道真公を英比家の守護神として、この地に神殿を造営した。 高尾村の高尾天神と呼ばれたともある。その後、京都の北野天満天神からの分霊を迎え、天満社と称されるようになった。 北野天満天神とは、延喜3年(903)道真が配所の大宰府で没した後、京都の異変災害は道真公の祟りと恐れられた。このため、貴族も民衆も怨霊を鎮めんとして、天暦元年(947)に建てられた神社である。 現在、天満社の境内社として、本殿右に金比羅社、左に大山祇社が祀ってある。境内の獅子館は町指定文化財である。 入母屋造りで切破風を持ち、彫刻は金箔仕上げである。』阿久比を歩いていると、町内の至る所でこうした解説文に出会う。 初めて訪れた人にとっては、単に創建年や祭神の名を並べただけの案内よりも、土地の風土や民俗的背景に触れる記述があることで、その場所の意味をより深く感じ取ることができる。 天満宮や観音寺が鎮座するこの高台は、高尾山というようですね、境内南側からの眺望はなかなかのものでした。小高い高みに祀られた多賀社と本宮社の左手から、天満宮の本殿域が良く見通せます。 本殿は流造で、写真では分かりにくいですが、向拝柱を支える海老虹梁に施された意匠はなかなかのものです。手前の見世棚造の社は大山祇社が祀られています。こちらは本殿左の金比羅社。拝殿右から観音堂境内に続く石段が設けられています。 参拝者が木陰を求め一息つく姿が見られます。境内南側の鳥居から社殿の眺め。 ここから南の斜面に参道が続き、観音寺境内に続く上りの石段の前に続きます。観音寺へは、拝殿右側の短い石段を下れば本堂の前に出れるので、下りきらない方がよいでしょう。境内から南側の眺め。 英比磨も眺めたであろう三ノ山高の岡から眼下を流れる前田川と高岡集落方向の眺め。では、拝殿横から17番札所観音寺に下りていこう。第六回歩いて巡拝 知多四国 天満宮創建 / 天暦2年(948)祭神 / 菅原道真、應神天皇境内社 / 多賀社、本宮社、大山祇社、金比羅社氏子域 / 阿久比町矢高祭礼 / 3月30日所在地 / 知多郡阿久比町矢高三ノ山高16阿久比神社から天満宮 / 阿久比神社から南へ1.2km、約20分ほど参拝日 / 2025/6/21関連記事・第六回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第六回歩いて巡拝 知多四国 十三番札所 板嶺山 安楽寺・第六回歩いて巡拝 知多四国 十四番札所 圓通山 興昌寺・第六回歩いて巡拝 知多四国 十五番札所 龍渓山 洞雲院・第六回歩いて巡拝 知多四国 阿久比神社
2025.07.30
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前回掲載した知多四国十五番札所洞雲院から、十七番札所観音寺は、県道55号線を南下した2.5km、約40分ほど先になります。 沿線は日陰もなく、炎天下のアスファルトの照り返しを受けながらの40分はきついものがあります。この日はまた特別暑く、持ってきた水は既に飲み尽くす。 洞雲院から僅か700㍍ほどの阿久比町卯坂城街道の冨士屋本店で水分補給と涼を求め立ち寄ってみた。コース沿いということもあり、道行く参加者は涼を求め立ち寄っていく。かみさんの目当てのものは売り切れ、どら焼きとcoffeeゼリーをおやつに、お店の前の木陰に腰掛けてひとやすみ。 一旦腰かけたら最後、根っこが生えてしまい、炎天下の下に出る気が失せてきてしまう。冨士屋本店所在地 / 知多郡阿久比町卯坂城街道4-1適当なところで覚悟を決めて歩き出す、県道沿いは木陰もなく、2.5kmの長いこと。洞雲院から1.6km地点、阿久比駅の西側にあたる阿久比町阿久比北下川で大きな杜の中に鎮座する阿久比神社が目に止まり木陰を求めて立ち寄りました。 今回はこちらの阿久比神社を掲載します。社頭右手に明治44年(1911)に建立された「郷社 延喜式内社 阿久比神社」の社号標が立てられています。社頭の解説。「阿久比神社阿久比神社は、延長5年(927)「延喜式巻九」神名帳に知多三座の一つとして記され、貞治3年(1364)「尾張国神名帳」には「従二位上英比天神」と記されている。 社伝によれば、第23代顕宗天皇2年(486)に「開闢(あきくい)神」を祭り、創建されたと言われ、大化4年(648)に「猿田彦大神・天津彦命・瓊瓊杵尊」を合祀した。その後、天平神護元年(765)「八幡大神・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命」を合祀した。 延喜20年(920)英比丸(磨)が社殿を造営し、60間四方の社地を寄進した。没後、天徳3年(959)「英比丸命」として合祀された。 長暦4年(1040)に拝殿が建立された。拝殿は幾度かの改築を繰り返し、平成9年に現在の拝殿が完成された。 阿久比神社は、俗称、尾張知多郡の「一宮」と呼ばれているが、これは式内社として知多三座の初めにあげられているからである。明治9年(1876)に「郷社」、明治40年(1907)10月に「神饌幣帛料供進指定神社」となった。 阿久比町教育委員会」英比丸。菅原道真の孫とされる菅原雅規(幼名:英比麿)は、昌泰の変(901)後に一族とともに各地に配流されたと伝えられ、雅規も尾張国知多郡に移され阿久比の地に土着した。延喜20年(920)には阿久比神社の社殿を造営し、天暦2年(948)には久松寺(後の洞雲院)を開基したとされ、地域の寺社建立に尽力した。後の久松氏の祖と伝えられ、阿久比町椋岡には「英比屋敷」という地名が現存し、居館跡と伝承されている。式内社知多三座。・阿久比(英我)神社 知多郡阿久比町阿久比北下川。・入見神社 知多郡南知多町内海中之郷。・羽豆神社 知多郡南知多町師崎明神山。阿久比町年表に由緒に記載された沿革が記載されていますが、創建年代は記載されていない。上は阿久比町誌に挙げられている社殿配置で社務所以外は現状と相違ないものです。 境内左の神楽殿は撮り忘れました。鳥居は大正2年(1913)に建立された明神鳥居です。社殿域入口の常夜灯は大正14年(1925)の先人により寄進されたもの。右手の手水舎には明治27年(1894)に寄進された手水鉢が置かれています。 正面の入母屋瓦葺の拝殿と右手に境内社5社、左に御霊神社が祀られ、その左手に宝蔵庫があります。拝殿前で守護する狛犬は大正7年(1918)に寄進されたもの。 拝殿額は「阿久比神社」とある。拝殿内の祝詞殿の眺め、神紋は五三桐のようです。拝殿右の境内社と本殿の眺め。境内社。右から山の神、松尾社、多賀神社、八幡神社、秋葉神社。本殿は一間社流造。後方の流造の本殿は御霊神社のものです。拝殿左の御霊神社全景。拝殿前から阿久比神社の社頭の眺め。 十七番札所観音寺へは、社頭の前の通りを南に進んだ1.3km先に鎮座します。第六回歩いて巡拝 知多四国 阿久比神社創建 / 顕宗天皇2年(486)祭神 / 開囓神、猿田彦大神、天津彦尊、瓊瓊杵尊、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、英比丸命、應神天皇境内社 / 山の神、松尾社、多賀神社、八幡神社、秋葉神社、御霊神社氏子域 / 阿久比祭礼 / 4月11日所在地 / 知多郡阿久比町阿久比北下川49洞雲院から阿久比神社 / 県道55号線を南下阿久比駅方向へ、1.6km、約20分ほど関連記事・第六回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第六回歩いて巡拝 知多四国 十三番札所 板嶺山 安楽寺・第六回歩いて巡拝 知多四国 十四番札所 圓通山 興昌寺・第六回歩いて巡拝 知多四国 十五番札所 龍渓山 洞雲院
2025.07.29
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第六回歩いて巡拝 知多四国 十五番札所 龍渓山 洞雲院。 洞雲院は家康の生母、於大の方の廟や久松家一族の墓がある寺院として知られる古刹になります。前回掲載した興昌寺の八丁石から、次の目的地十五番札所洞雲院へは福山川を下り、福住新橋交差点で左折し、ふれあいの森交差点を右折し、名鉄河和線坂部駅の横を通過、県道55号線で左折すれば右側に石柱門が見えてきます。 約1.7km、徒歩25分程の道のりです。県道55号線で左折、70㍍ほど進むと写真の龍渓山 洞雲院の石柱門が現れます。石柱門から50㍍ほど進むと、右側に写真の地蔵堂が建っています。季節の花が供えられ、堂内には一体の地蔵が祀られています。堂前には「1町」の石標。 洞雲院へは、堂前の辻を真っすぐ向かい、1町ほど先の右側に山門が現れます。十五番札所 龍渓山 洞雲院門前全景。 とても広い駐車場があり、車で訪れても駐車場に困る事はないでしょう。右に「知多新四国第十五番、尾張三十三観音第六番、徳川家康公生母於大の方菩提所」と刻まれた石碑。 左に「不許葷酒入山門」の石標と解説板が立てられています。【龍渓山 久松寺洞雲院】解説。 「寺伝によれば、平安時代、天暦2年(948)に菅原道真公の孫である菅原雅規が開基となり、天台宗の久松寺(洞雲院の前身)を創建したと言われる。 雅規は幼名を久松磨と言い、後に英比丸と英比(あぐい)殿とも称された。英比殿は天性朴質、極めて聡明、仁恵に厚く善政を敷いた。 没後、いつの頃からか人々はその徳を追慕し、英比殿夫妻の木像を彫刻し、厨子に奉安して英比荘の民家1戸1日の割で廻送迎送し、供養を怠らなかった。世に「廻り地頭信仰」と言われた。 この民俗信仰は明治維新とともに途絶え、現在、木像と扇子は、当山霊廟に安置され、学問上達信仰として祭られている。 室町時代、明応3年(1494)雅規の後裔、久松定益が曹洞宗の洞雲院として再建し、七堂伽藍と四つの塔頭を整備した。 開山には加木屋普済寺在室岱存大和尚を迎えた。天文16年(1547)久松俊勝のもとに徳川家康の生母於大の方が再嫁された。 阿久比在城15年間に三男四女の計7人の子女を出生。俊勝の子は松平姓に改められ、後に桑名城主、松山城主をはじめ多くの大名、旗本として世に出した。 当山の境内墓地には、英比殿をはじめ於大の方等13基の墓がある。また、例年3月16日には於大の方が女性の幸福招来を願って始まった観音講法会、通称「おせんぼ」が行われる。」とある。【阿久比町誌 資料編】に目を通す。 「洞雲院は曹洞宗に属し、東海市加木屋の普済寺の末寺である。「張州雑志」(1788)によれば、 龍渓山洞雲院は曹洞宗に属し、同じ郡の加木屋村にある普済寺の末寺である。 本尊は如意輪観音で、仏師・定朝の作とされている。【寺記】には「本尊如意輪観音は定朝法師の作であり、宇治の平等院宝蔵から出たものである」と記されている。 願主は尾張国の小林氏で、徳寿山清浄寺を建立した人物である。 開基は恢蓮社曠誉廓龍即徃和尚であり、短期間のうちに大仏工を招いて仏像を再興し、金容を整えた。 宝永3年(1706)3月8日当院に寄進された。開山は在室泰存和尚であるが、年月は不詳。 当寺は久松肥前守・定益によって創建されたと伝えられている。 そのため、久松氏の歴代の位牌や家譜一巻が寺に所蔵されている」【寺伝】には「当寺の創建は遠く平安時代の天暦二年(948)に菅原道真公の孫、雅規公が開基となられたのが始まり」とある。 雅規公は童名を久松磨といい祖父道真が罪科によって九州に配され、久松磨も尾州知多郡野間に寓居、のち英比坂部郷に居住し、俗に英比殿と称された。延長二年(924)菅原道真公の罪科が解かれ、その子弟は帰洛しても、英比殿はひとり郷に留まり、其所領をこの地英比荘を里とされ、晩年は白沢郷北原に住居された。 創建当時は、久松寺と号する天台宗であったが、明応二癸丑年(1493)に英比殿の後裔、久松肥前守定益が禅透和尚を開山に迎え、久松寺を改め龍溪山久松寺洞雲院となり曹洞宗の寺院として再建した。久松家歴代の菩提寺であり、家康の生母於大の方の墓や久松・松平家の墓地があり、四国の松山等から縁の久松・松平家の人々が参詣する。 」と記されていた。切妻瓦葺で入口側に軒唐破風の付く威厳のある趣の四脚門です。山号額は龍渓山。山門の木鼻や梁に獏や龍の彫飾りが施されています。上が洞雲院の伽藍配置。山門をくぐって境内左の手水舎、大日堂、太子堂の眺め。手水鉢の子安地蔵。入母屋瓦葺の木造の本堂には大きな向拝が付く。 今回は訪れていませんが、本堂後方に「史跡 久松・松平家僧葬地」があり、坂部城を築城した坂部定益や於大の方の遺髪を納めたとされる伝通院殿の廟があります。向拝梁には金色の宝珠を持った龍の姿がある。本堂に掲げられる額には「大悲殿」とあり、衆生の苦しみを救おうとする仏や菩薩の広大な慈悲の心を表しています。阿久比町誌より【如意輪観世音菩薩之座像】 長 一尺七寸(51.5cm) 、作者 定朝法師作、宝永三丙戌年(1706)、徳寿山清浄寺と同じ作とされます。如意輪観音は、仏教における「六観音」の一尊であり、特に知恵・福徳・救済の象徴とされ崇められます。ここに出てくる徳寿山清浄寺、調べてみたが良く分からなかった。心当たりは、中区大須4に参道脇で一杯飲める徳寿山清浄寺(写真)があります。 そこを指したものか自信はありません。右の唐破風向拝を持つ建物が太子堂で左が大日堂。太子堂内。 中央の厨子に大師像を祀り、両脇に複数の大師像が祀られています。ひょっとすると88の札所と開山所、番外含めた98体あるのかもしれない。大日堂。 内部は窺えなかったが、額からして大日如来を祀るのだろう。山門から坂部集落の眺め。 次の17番札所までは南に2.5km前後、約40分ほどの道のりです。くろくもの をのえ さかべをはなるるとき こころはるをば にょいりんのとく第六回歩いて巡拝 知多四国 十五番札所 龍渓山 洞雲院宗派 / 曹洞宗開基 / 菅原雅規開山 / 在室泰存創建 / 天歴2年(948)本尊 / 如意輪観世音菩薩所在地 / 知多郡阿久比町大字卯坂字英比67番地興昌寺から洞雲院 / 福山川を下流へ、名鉄河和線坂部駅の横を通過、県道55号線で左折、70㍍ほど先に石柱門。1.7km、約25分ほど参拝日 / 2025/6/21関連記事・第六回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第六回歩いて巡拝 知多四国 十三番札所 板嶺山 安楽寺・第六回歩いて巡拝 知多四国 十四番札所 圓通山 興昌寺
2025.07.26
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前回掲載した十三番札所安楽寺から、福山川右岸を500㍍ほど下れば、右手に知多四国 十四番札所興昌寺が見えてきます、今回はこちらを掲載します。陽射しを遮るものの無い福山川沿い、小さな川が流れているだけで暑さも和らいで感じる。草むらの先に見えてくる瓦葺の建物が目的地になります。山門前の駐車場付近で見かけた八丁石。1丁は109㍍、ここから872㍍先が次の十四番札所洞雲院を示すのだろうが、Gマップでは優に1kmを越えるのだが、名鉄河和線が敷設される以前は八丁で行けたのだろう。興昌寺伽藍全景。 以前は山門の左に岡戸半蔵行者像を安置する開山堂があったが、老朽化に伴い堂は解体、岡戸半蔵行者像は現在弘法堂内に安置されています。【岡戸半蔵行者】 安楽寺の「尾張國知多郡 新四國開創由緒」にも記載されている。宝暦2年(1752)興昌寺が鎮座する福住村に生まれる。 妻子に先立たれ、発心して諸国遍歴の旅に出た、そして文政2年(1819)、四国遍路の最中の妙楽寺住職亮山阿闍梨に出会い、霊場開創の大願に感銘し、私財を投げ打ち知多四国霊場の開創に尽力し、文政7年(1824)知多新四国霊場開創と同じ年に誓海寺禅林堂にて没した。福住の地には岡戸半蔵行者に因んだ蔵田・半蔵屋敷の地名が今も残っています。【圓通山興昌寺】解説。 「圓通山興昌寺は寺伝によると「今川勢の家臣 岡戸祢宜左衛門が永禄3年(1560)、桶狭間の戦いの後、福住に住み、知多郡東浦町緒川にある曹洞宗の乾坤院四世 亨隠慶泉大和尚を拝請し、開山した」といわれている。現在も乾坤院の末寺で、本尊は「華厳釈迦牟尼如来座像」である。 興昌寺の門前には、福住出身者の岡戸半蔵の像が行者堂にまつられている。岡戸半蔵は、文政2年(1819)に四国霊場巡拝の途中、知多市古見の妙楽寺十三世亮山和尚と出逢い、香川県の行者、武田安兵衛らと共に、知多四国八十八所霊場の開設に全力を尽くした。 知多地方の寺々に弘法大師像を奉安し、文政7年(1824)念願がかない、開設に至った。敷地内には、福住出身者で尾張藩校明倫堂の最後の教授であった大村橘三郎楚山(1843~1907)のお墓がある。阿久比町教育委員会」【阿久比町誌 資料編(1994)】は興昌寺沿革を以下のように纏めています。興昌寺は曹洞宗に属し、東浦町緒川の乾坤院末寺である。 『張州雑志』(天明8年=1788)によると「福住山興昌寺、曹洞宗属緒川村乾坤院二、本尊釈迦作不知、常一宇三十三所観音、開基瑶山王公 天正二甲戌十月朔日朔寂、開山不詳」とある。 『尾張向行記』(文政5年=1822)によれば「興昌寺、府志日、在福住村、号福住山、曹洞宗、 属緒川村乾坤院○覚書二此寺へ僧瑶山玉公ノ開基也、天正2甲戌年12月歿ス、境内観音堂享保11丙午年創建ス」と記されている。 また、『知多土産』(安政4年=1857)には「興昌寺新四国十四番福住山といひて、創建年月日詳ならず、中頃一たび廃せしを宝暦13未年再建したり。 本尊釈迦の座像、鎮守白山社観音堂あり。又、当所の氏神ハ此寺の扣ニテ神躰ハ翁假面なり、もと今川家の浪人三州牛窪の岡戸祢宜左衛門といへる士、当所に来り住しが、子孫数家ニなりて、今猶連綿たり、此祢宜左衛門ある時海中より、此面を得たるが是龍宮城より授いう所ならんと持帰りて神にあがめたるハ、後当寺に寄附したりしを中興鱗堂、享保18年9月社内江納め神体とせり、日照りに此面を洗へハ忽ち雨ふる事、古今かハらず」とある。 寺伝によると桶狭間の戦(永禄3年=1560)5月19日、織田信長が今川義元を奇襲し首級をかかげた時、今川勢の部下岡戸祢宜左衛門が福住に住み、亨隠慶泉大和尚をむかえて開山したといわれている。 また、文献に山号は「福住山」とあり、「圓通山」に改めたのは明治初期である。上が圓通山興昌寺伽藍配置。阿久比町誌が編纂された1994年当時には、山門に行者堂が建っていたようですが、現在は取り壊され存在せず、岡戸半蔵行者像は境内左の弘法堂に安置されています。写真左が岡戸半蔵行者像で右が本尊の釈迦牟尼如来座像で『張州雑志』では作者は不明とされています。山門の先の境内で聖観世音菩薩像が出迎えてくれる。本堂。 銅葺屋根の入母屋平入で、昭和35年までの本堂は茅葺屋根の趣のある建物でしたが、子供らの花火により焼失し建替えられたもの。これを契機に村の雑貨屋の店頭から花火は消えたという。本堂内陣の眺め。右の観音堂は享保11年(1726)に建造された入母屋瓦葺の建物。左の重層屋根の建物が十四番札所弘法堂。写真は観音堂に架けられていた「観世音」の奉納額。写真は弘法堂の左の間に安置されている賓頭盧尊者像。のりのかぜ ふくすみわたる こうしょうじ すえのよまでも りやくのこせり第六回歩いて巡拝 知多四国 十四番札所 圓通山 興昌寺宗派 / 曹洞宗開山 / 亨隠慶泉大和尚開基 / 瑶山玉公首座本尊 / 釈迦牟尼仏所在地 / 知多郡阿久比町福住東脇10安楽寺から興昌寺 / 福山川右岸を下流へ0.5km、約7分ほど参拝日 / 2025/6/21関連記事・第六回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第六回歩いて巡拝 知多四国 十三番札所 板嶺山 安楽寺
2025.07.25
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第六回歩いて巡拝知多四国の最初の札所、十三番札所安楽寺は、熊野神社の社頭から左に2分もあれば門前に至ります。門前には大きなクスとイチョウが聳えており、この二本の巨樹が安楽寺のシンボルツリーだ。門前全景。 阿久比駅から炎天下の中、ひたすら3.3km歩いて辿り着く最初の札所。大きな木陰がここまでの火照った体を優しく冷ましてくれます。 安楽寺も熊野神社同様に門前に福山川が流れ、山門へは安楽橋を渡り参詣する事になります。山門は切妻瓦葺で、丸柱二本と、その前後に角柱二本の控え柱を配した四脚門です。 木鼻などの意匠は簡素で落ち着いた印象を与えます。門の右に鎮守社と二体の石仏を安置します。門の左の板嶺山安楽寺の由緒。「板嶺山安楽寺は曹洞宗で、本尊は「無量寿如来」である。 寺伝によると、文禄2年(1593)に洞雲院二世 久山昌察大和尚を開山として創建された。慶安元年(1648)現在地に堂宇を移し、今日に至っている。 現在の本堂は、江戸時代の慶安・享保・文化年間の三度の改築を経て、昭和57年(1982)9月に建立されたものである。 本堂の西隣には「聖観音」をまつった観音堂がある。 この本尊は、9年に一度の開帳の時にしか目にすることができない秘仏である。境内の地蔵堂には、耳の遠い人が穴のあいた柄杓を供え、お祈りをするとよく耳が聞こえるようになるといわれている「天台地蔵」が安置されている。 明治(1868-1912)・大正(1912-1926)時代には、三河地方や伊勢方面の地名のある柄杓をよく見られたといわれている。知多四国八十八か所霊場の第13番札所になっている。 阿久比町教育委員会」山門から正面に見える観音堂の眺望。 山門は平成17年(2005)に建立されたもので、山号額には「板嶺山」と記されている。境内右から本堂、観音堂の眺め。 昭和57年(1982)に最新工法で作られた、入母屋造の瓦葺の本堂で、無量寿如来を本尊とします。左の観音堂は木造瓦葺の入母屋造で秘仏聖観音像が祀られています。本堂のお前立。観音堂(右)と太子堂全景。 左の太子堂は入母屋妻入りのコンクリート造で本堂と同時期に建て替えられたように見受けられます。こちらは観音堂内の眺め。 お前立や眷属は写りはしたが、不鮮明で何がなんやら分からない。知多四国霊場第十三番札所安楽寺太子堂。 向拝の下で弘法大師が迎えてくれます、堂内は近寄れる状況ではありませんでした。境内南の鐘楼と方形屋根の建物は経蔵だろうか。経蔵には大正5年(1916)に書かれた「尾張國知多郡 新四國開創由緒」と当時の札所案内図が掲げられています。 文化6年、亮山阿闍梨と岡戸半蔵行者、武田安兵衛行者により形作られた知多四国霊場。四国八十八ヶ所霊場の「写し霊場」として始まりながらも、地域の地形・信仰・交通事情に応じて独自の発展を遂げてきました。 特に三開祖の尽力と、地域住民の協力によって築かれた霊場は、単なる模倣ではなく、知多半島の文化と信仰の核として根付いています。現在では、巡礼が信仰だけでなく観光・健康・地域交流の手段としても機能しており、知多四国霊場は時代を超えて人々を惹きつけています。いたやまの みだにまいれば まつがえおとなふかぜも ねんぶつのこえさて次の十四番札所興昌寺は福山川沿いを500㍍ほど下った右側になります。第六回歩いて巡拝 知多四国 十三番札所 板嶺山 安楽寺宗派 / 曹洞宗開山 / 久山昌察大和尚開創 / 文禄2年(1593)本尊 / 無量寿如来所在地 / 知多郡阿久比町板山川向21熊野神社から安楽寺 / 西に0.1km、約2分程参拝日 / 2025/6/21関連記事・第六回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社
2025.07.24
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6月21日、歩いて巡拝知多四国 第6回本開催に参加してきました。第7回は秋からとなり、真夏の間のイベントはなくなります。今回のルートは名鉄河和線阿久比駅からスタート、13・14・15・17・16番札所を回り阿久比駅に戻る全長約10kmのコースとなります。気温を考慮し、夏場のイベントは見合わせているのでしょうが、6月ですら油断すると脱水症の危険を感じる気候となっており、水分・塩分の補給は必須です。今回最初に訪れる13番札所安楽寺までは、駅から北東方向に3.1km、45分の移動になります。写真は阿久比町板山前田から13番札所安楽寺の伽藍の眺め。田圃の中を通り中央の大きなイチョウの樹を目指しますが、今回は右手に見えている森の中に鎮座する熊野神社を取り上げます。強烈な陽射しの下ですが、田圃を吹き抜ける風は心地いいものです。ここから板山公民館の脇を過ぎ、福山川を渡れば目的地です。公民館前から、熊野神社と安楽寺の眺め。熊野神社社頭全景。車道の先に福山川に架けられた熊野橋があり、この橋から先が社地になるようです。境内は楠木の巨木が生み出す大きな木陰に包まれ、ひんやりとした空気が漂っています熊野橋から参道・拝殿方向の眺め。境内には古そうな燈籠が建てられています。右手に「村社 熊野神社」の社号標(1908)や手水舎左に文政7年(1824)に寄進された燈籠など見られます。参道左の手水舎、手水鉢は明治時代に寄進されたものです。大正時代に寄進された燈籠の先に拝殿が建てられています。熊野神社由緒。「熊野神社は、建武年間(1334-1336)に奉祀されたと伝えられ、「伊弉冊命」「速玉男命」「事解男命」を祀っている。神社文書によると、楠木正成(1294-1336)の家臣・沢田氏が湊川の戦い(1336)での敗戦後に、山城国宇治郡の三宝院へ入って修験道の山法師となった。 のちに枳豆志庄(現在の武豊町一帯付近)の安喰が、三宝院に寄進された時、枳豆志の司役として派遣された石田某に従って当地に来て、紀州熊野三所権現を分祀したのが神社の始まりとされている。神社の宝物として「甲割りの宝剣」があり、これは楠木正成の剣であったと伝えられている。 本殿の東の丘には酒造神である松尾大明神の石碑が建てられ、この地から多くの人々が杜氏として出稼ぎに出ていたことを物語っている。社標は、熱田神宮宮司・角田忠行の筆によるもの。 角田忠行(1834-1918)は幕末の勤王志士の一人であり、島崎藤村の小説『夜明け前』では暮田正香として登場する人物である。」因みに、阿久比町誌(1993)の年表によれば「建武3年(1336)、板山の熊野神社 紀伊熊野より勧請(板山郷士史)」とあった。 その他尾張名所図会、尾張志知多郡篇に目を通すが目立った記述は見られなかった。西隣りの四国88ヶ所第13番札所安楽寺の創建が文禄2年(1593)なので、熊野神社の方が創建は先になります。境内社殿、境内社全景。 拝殿右に神饌所があり、境内右に神楽殿もあります。拝殿は入母屋平入の木造拝殿で、普段は戸板がはめ込まれ内部の様子は窺えません。 拝殿左には複数の境内社あります。熊野神社の建物の配置は阿久比町誌資料編のレイアウトを参照してください。神楽殿から神饌所と拝殿の眺め。拝殿左の境内社全景。 ここにも文政5年(1822)寄進の燈籠が建てられています。正面の三社。 左から多賀神社と八幡宮・秋葉神社・松尾神社・御嶽神社・御芳神社を合祀した神明造の社、板宮造の津島神社。松尾神社は酒の神さまとして知られますが、古来よりこの地では杜氏が多く住まい、半田や亀崎、多治見にまで出稼ぎに行ったようで、その際にはこちらにお参りしてから各地に向かったそうです。 拝殿と神饌所の間の奥に酒造りの神の碑があるそうです。津島神社と熊野神社本殿域の眺め。左の境内社。 左から読み取りできなかった石標、祖尾(?)皇太神、板宮造の天駒駒大明神が祀られています。天駒駒大明神は別名虫歯明神として崇敬されているそうです。拝殿前から社頭方向の眺め。 そろそろ熊野神社を後にしなければ、右手の道からかみさんの待つ安楽寺に向かいます。これは社地西側で見かけた、東南海地震で倒壊した鳥居の遺構。そこには解説があり以下のように記されていました。「巨大地震の爪痕 昭和19年12月7日午前1時30分、突然の激しい揺れに思わず外に走り出す。台地の振動は立っていられない程の激震、熊野灘を震源とする海洋型大地震「東南海地震」(マグニチュード8)である。名古屋地方気象台の観測史上最大で、地震計の針が吹っ飛ぶものでした。 各地の震度は津、御前崎で震度6(烈震)、名古屋、尾鷲、浜松、岐阜、福井などが震度5というものでした。ここに残された遺構は当時熊野神社に建てられていた鳥居で、地震により倒壊した一部で、その破壊力の凄まじさがうかがえるものです。 昼下がり時ということもあり境内で遊ぶ子供も多く、崩落する鳥居の下敷きとなり幼い命が失われた。この地震による愛知県下の死者数は438名、負傷者は1148名を数え、住宅の全半壊は91戸、工場・学校46棟、その他54棟に上った。 翌、昭和20年1月3日には三河を震源とする内陸型直下地震(三河地震)(マグニチュード7.1)が発生、被害は13都道府県におよび、愛知県下の死者は2252名、負傷者は3181名、全壊住宅は5233戸に上った。当時の日本は太平洋戦争の只中で、日本軍の報道管制から事実は報道される事無く、震災資料も極秘扱いとされ「隠された二大地震」であった。 天災は避けられなくとも、人災は避けることができる。二つの地震は我々に幾つかの教訓を残してくれた、我々はこのことに耳を傾けなければならない。」その解説板の裏側には阪神・淡路大震災 被災地からのメッセージが書かれています。 「平成7年1月17日 午前5時46分51.9秒 地震名:兵庫県南部地震 震源地:淡路島北部 北緯34度36分・東経135度3分 規模:マグニチュード7.2 死者:6432人行方不明:3名 不詳者:43793名建物全壊:104906棟 建物葉半壊:144274棟中略 20秒で崩壊しないまちを 私たちは築いているだろうか20秒で奪われないものを どれだけ心に築いているだろう あの日 崩壊したものあの日 悟らされたもの あの日 心に誓ったこともう一度みつめ直そう そこからまた共に歩いていこう」心構えは出来ているだろうか?熊野神社祭神 / 伊弉册命、速玉男命、事解之男命創建 / 建武年間(1334~36)境内社 / 津島神社、天駒駒大明神、多賀神社、八幡宮・秋葉神社・松尾神社・御嶽神社・御芳神社相殿氏子域 / 阿久比町板山祭礼 / 4月第2日曜日所在地 / 知多郡阿久比町板山川向38名鉄河和線阿久比駅から徒歩で熊野神社 / 県道464号線沿いに東へ向かい、オアシス大橋東交差点を通過し阿久比宮津郵便局方向へ直進。3.1km、約45分程。参拝日 / 2025/6/21
2025.07.21
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日吉社社頭の前を走る県道158号線を400㍍ほど北に進むと、今回掲載する宇都宮社の社頭に至ります。日吉社からここに至るまでの道は宇都宮社の参道です。社頭全景。 社頭は注連柱と右に「宇都宮社」社標(明治45)、少し先に鳥居を構えており、ここから先は、玉砂利が敷き詰められた参道になります。大正元年寄進の神明鳥居、常夜灯の連なる参道の先には定番の蕃塀を構えています。境内全景。 三方を社叢で包むように社殿が建てられており、正面の蕃塀の左に手水舎、その先に拝殿、祭文殿、本殿と続きます。手水舎と左の歌碑には「飛車山」と刻まれ、平安時代の歌人在原業平(825-880)がこき(小木)を読んだ歌が刻まれています。 この「飛車山」を何と読むか、古来小牧の山を「ひこやま」と呼んだと聞きます。間々観音(龍音寺)の山号としても飛車山(読み不明)が使われており、かつて寺があった小牧山の古名の一つと思われます。木造蕃塀。 8本の鰹木と内削ぎの千木が載る三間ほどの木造蕃塀で、拝殿を背にしたこの光景は格式を感じさせます。蕃塀左の稲荷大明神と西参道。拝殿正面全景。 一対の常夜灯の先に狛犬が拝殿を守護しています。拝殿は銅葺屋根で切妻木造の妻入りで四方吹き抜けのもの、宇都宮の大きな額が印象に残ります。宇都宮神社由緒より一部抜粋。「御祭神 大名持神、天照皇大神、少彦名神創建は第15代応神天皇の御代と伝わる。 元々は現在地より西方へ一粁(キロ)足らずの榊の地に荢生天神の名で鎮座していた。 応永5年(1398)越前国二宮劔神社神官で織田氏の祖とされる織田常昌が、仕えていた室町幕府管領斯波義重の尾張国守護の兼務により尾張に派遣され小木に来住、永享元年(1429)元日の夢想により下野国宇都宮の神を本社に勧請した。 その後、平手義英が小木に移城の際に神社を城の東南の現在地に遷した。天正年中灯明の火により拝殿、廻廊、神饌所、神楽殿、神輿舎など全て焼失したとされる。 昭和4年(1929)10月御大典記念事業として本殿、祭文殿、瑞垣を改築し、昭和9年10月拝殿、手水舎を改築した。末社が十六社鎮座。 境内に十五社と境外に日吉社があり、此所は10月例祭神輿渡御の御旅所となっている。」現在の地図には地名として「榊の池」は残っていないが、ここから西の巾下川を越え、矢戸川左岸に、「さかき運動場」の名が見られることから、恐らくこの周辺が旧鎮座地ではないだろうか。永享元年(1429)当地に移るにあたっては、二つの川に挟まれた立地の問題もあったのではないだろうか。頭部が小さく、胸板の厚い凛々しい姿の狛犬です。拝殿に掲げられた大きな「宇都宮」の扁額には、黒地に揮毫者名が記されているようでしたが、風化のため判読が困難でした。拝殿右側から祭文殿・本殿方向の眺め。 祭文殿に続く石段の右側に境内社4社と忠魂碑が建てられています。石段右の4社。 中央の社は小木神社、右が織田神社、左手前が熊野社で後方が八幡社。石段脇には三対の狛犬。中段の狛犬。上段の狛犬、形も様々で寄進年代も其々違いがありそうです。祭文殿正面全景。 石段の左にも複数の境内社が祀られています。石段左の境内社は十二柱社の他3社が祀られ、ここだけで8社が祀られています。 社殿左の境内社。拝殿左の「愛知県指定史跡 宇都宮神社古墳」。 古墳とは言っても、こうやって見る限り、小高い丘にしか見えない。石段が上に続き、斜面にふたつの社が祀られています。古墳解説。「愛知県指定史跡 宇都宮神社古墳 昭和62年9月9日指定 墳長59mの前方後方墳である。昭和4年、本殿建立の際、後方部の墳頂やや南東寄りで、小口割石積の竪穴式石槨発見され、二角縁獣文帯、二神三獣鏡が出土した。 鏡は、仿製(国産)鏡としては、きわめて鋳上がりの良好な秀品で、岐阜県長塚古墳、佐賀県谷口古墳出土の鏡と同型式である。宇都宮神社古墳の近くには、淨音寺古墳や甲屋敷古墳などがあり、小木古墳群を形成している。 この中で最大で、古墳群の中心的位置を占めていたと推定され、また、同氾関係の認められる鏡を出土した前期古墳のひとつとして、尾張平野中央部における古墳文化の発祥と展開を考察するにあたって、その学術的価値はきわめて高い。愛知県教育委員会 小牧市教育委員会」ここには記載がないが尾張地方最大級の前方後方墳で、3世紀末から4世紀に作られたとされます。 規模は全長は59m、高さは約6.5m。後方部の一辺は、約35mあります。この地図で見る限り社殿は後円部の墳丘に建っているのが分かります。祀られている社は左が稲荷社、右が庚申社の二社。墳丘沿いに右に進むと、こちらにも墳丘へ続く石段が作られ、その先に3社祀られています。その先の左に祀られている金刀比羅神社。右に祀られているのが秋葉社。秋葉社の右に少し離れて津島社が祀られている。 日吉社を除いて15社あるとのことなので、蕃塀横の稲荷社、幣殿前に8社、墳丘の2社、そしてこの3社、あれ!?1社見落としているようです。社地の西側の県道158号線を挟んだ先に浄音寺古墳がある。 相当姿を変えているようですが、もともとは前方後円墳だといわれています。気付かなかったが、もう一つの甲屋敷古墳はここから5分ほど北にあり、宇都宮社に向かう道筋にあったようです、こちらは円墳のようです。境内から社頭と日吉社に続く県道158号線の眺め。 今回の徘徊はここまで。ここから北に5分ほどの県道25号線沿いの名鉄バス「小木」から岩倉駅に向かい帰途に着きます。宇都宮社祭神 / 大名持神、天照皇大神、少彦名神創建 / 第15代応神天皇の御代境内社 / 15社氏子域 / 小木、小木西、小木東、小木南、新小木祭礼 / 10月第2日曜日所在地 / 小牧市小木3-229日吉社から徒歩で宇都宮社 / 県道158号線沿いに北に400㍍、約6分参拝日 / 2025/6/9関連記事・七面山古墳と不明社・石仏 八剱社・金毘羅大権現・御嶽神社・天神社・秋葉神社・八劔社・日吉社
2025.07.20
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愛知県小牧市小木五丁目。 宇都宮神社へ続く参道の入口の静かな住宅街の一角に日吉社が鎮座します。社頭には右に「日吉社」社標と神社由緒が立てられ、注連柱の先に一対の常夜灯と明神鳥居を構え、玉砂利の敷かれた参道が蕃塀に続きます。社頭の由緒。 由緒書きによれば、日吉社は宇都宮神社の飛地末社であり、秋季例大祭では神幸祭の御旅所の役割を果たしています。創立年は不詳ですが、ご祭神は大名持命。国土形成の神として知られ、地域の暮らしに安寧と繁栄をもたらす神徳が得られます。境内には、樹齢三百年、高さ十五メートルを超える御神木の大楠がそびえ、近年火災に見舞われながらも 枯れることなく、生き続ける姿が今も信仰の対象として息づいています。 明治24年の濃尾地震で社殿が全壊する被害を受けながらも、29年に再建され、さらに昭和9年には修繕改築が施されました。境内には津島社(祭神 須佐之男命)、秋葉社(祭神 火具土命)を祀ります。鳥居(1934)の額束は「日吉社」境内に佇む石造の常夜灯の竿部に刻まれた元号は文化3年(1806)と刻まれています。 江戸後期、将軍家斉の時代にあたるこの頃、地域の篤信者が奉納したもので、地域の歴史と人々の崇敬の歴史を刻む象徴です。参道の先の木造蕃塀、左手に手水舎があります。手水鉢の側面に文字が刻まれていますが、内容は読み取れなかった。拝殿は切妻造瓦葺きの妻入りで四方吹き抜けのもので、装飾は素朴な意匠で、控えめながらも落ち着いた雰囲気を醸し出しています。 過度な装飾を排し、地域に寄り添う神社の姿が印象的です。主な建物は先程の蕃塀とこの拝殿に大楠の下に祀られた本殿が主なものになります。 日吉社の創建年代は不詳ですが、濃尾地震で社殿が全壊、明治末期から昭和初期にかけて再建・修繕が施され、現在の姿に至っています。自然災害を乗り越え、再び立ち上がった姿は、神社と地域の人々とのつながりの深さを感じられます。「日吉社」の大きな拝殿額と巨大な御神木の楠の幹を背にして三つの社が並んでいます。玉垣で御神木と社を囲った本殿域は覆屋はなく、大きく枝を張った御神木そのものが覆屋です。小牧市指定天然記念物「日吉神社のクスノキ」 指定区域、樹を中心に175.5㎡ 昭和53年3月25日指定。日吉神社境内にそびえる神木の楠木は根本周囲10.3メートル、胸高周囲7.5メートル、樹高22メートルで樹齢約500年とされる。 市内には楠木の大樹はあるが、当社の楠木は市内最大のものである。狛犬。 小型ながら、巻き毛をたたえた勇ましい姿と表情は、本殿前を見守る守護者の貫禄が漂います。本殿域の三社。 中央が日吉社で、左が秋葉社(火具土命)、右が津島社(須佐之男命)になります。太い幹から無数の枝が空を覆うように広がり、幹の表皮は長年の風雨に耐えてきた痕跡が刻まれています。神木の西側は幹われの大きな樹洞があり、何かが宿っている雰囲気を漂わせています。 樹としては今も勢いがあり、火災に遭った樹とは思えない生命力が伝わってきます。西側の住宅街から眺める御神木の全景。御神木と本殿域、拝殿の眺め、この神社の中心的存在は間違いなくこの大楠だろう。日吉社祭神 / 大名持命創建 / 不明境内社 / 秋葉社・津島社氏子域 / 小木祭礼 / ・・・所在地 / 小牧市小木5八劔神社から日吉社まで徒歩 / 南に向かい巾下川を越え、小木小学校の南側に鎮座する日吉社まで1.6km、約25分ほど。参拝日 / 2025/6/9関連記事・七面山古墳と不明社・石仏 八剱社・金毘羅大権現・御嶽神社・天神社・秋葉神社・八劔社
2025.07.19
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前回の小牧市舟津の秋葉神社から、今回は同じ舟津に鎮座する八劔社を掲載します。 鎮座地は小牧市舟津1338で、秋葉神社からだと東に進み、境川を越えて300㍍ほど先にニノ鳥居を構えています。八劔社参道口全景。 二ノ鳥から参道を150㍍ほど南に向かった先になり、ここから南にも道が続きますが、その先には巾下川が迫っており、社号標や常夜灯も見られないので、参道口で間違いないでしょう。参道の少し先に注連柱と「八劔社」社標、神明鳥居を構えています。 小さく見えているのがニノ鳥居です。参道口の西側に赤い社が祀られています。 社名札はなく、詳細は不明ですが、外観から秋葉神社か天王社と思われます。ニノ鳥居と境内全景。 宅地化が進んだ舟津地区にあって八劔社の杜は貴重な存在かも知れません。写真の明神鳥居(1994)の左に手水舎・社務所、少し右寄りに蕃塀・拝殿などの社殿が主な建物になります。鳥居扁額は「八幡宮」社殿全景。 このあたりでは典型的ともいえる蕃塀を構えた社殿配置です。蕃塀の額束には読み取りにくいが八劔社と彫られています。拝殿全景。 入母屋銅葺屋根の妻入りで四方吹き向けの拝殿。鬼板や大棟に施された黄金色に輝く神紋は見慣れないものです。 八劔社の由緒を語る案内板は見当たらず調べることになります。尾張徇行記(1822)の八劔社記述は以下のようなものでした。「一 前条社 三ヶ所村中 中村祠官 木全藤太夫 書上二 八劔社内 一段一畝六歩、此社内ニ弁天社アリ・・・此三社、永仁二午年(1294)勧請ナリ○府志曰、八幡祠在船津村 永仁甲午年建之 ○摂社弁天祠○府志二 八劔ヲ以テ八幡二作ル誤ナラン」とありました。これによれば永仁2年(1294)建之の八劔社の摂社弁天社も同年に勧請された神社であり、「府志」の中で「八劔」を「八幡」とするのは誤記であろうとしています。今昔マップの明治24年(1891)当時の舟津集落に鳥居の印は八劔神社神社以外にはみあたりません。 小牧市史本文篇の神社一覧では「八劔神社 舟津 創建永仁2年」と書かれていました。祭神について記述されていないが、愛知県神社庁では日本武尊となっています。境内には改築記念碑が立てられており、氏子らにより長年にわたり受け継がれてきた神社です。 寄進物の寄進年は社頭の社号標や二つの鳥居、注連柱など大正時代に寄進されたものが多い様でした。境内は手水舎・蕃塀・拝殿・祭文殿・本殿が主な建物で、本殿左に境内社津島社、右手に伏見稲荷、弁天社が祀られています。拝殿前の白い狛犬は平成元年(1984)に寄進されたもの。拝殿額は「八劔社」。 揮毫は熱田神宮宮司の野田菅麻呂(1858-1945)によるもの。拝殿から高く築かれた基壇の上の祭文殿の眺め。 拝殿の先には常夜灯と一対の狛犬が安置されています。拝殿左から祭文殿と境内社の眺め。 切妻平入の祭文殿の棟には鰹木と外削ぎの千木が施されています、右の間に切株が飾られているようです。祭文殿前の狛犬。 これまで見てきた寄進物より古い物のように見受けられますが台座は見ることができなかった。「蘇る神木」 村の安泰と神社を見守り続けてきた御神木で、伊勢湾台風(1954)で倒れたものを一部を安置したようです。本殿左の境内社二社の役行者像。 燈籠の竿には津嶋神社とあり、推測ですが赤い社がそれなのかもしれません。右の社は詳細不明です。このあたりから八劔社の本殿の眺め。 恐らく神明造の本殿で祭文殿とは渡廊で繋がっている様に見えます。本殿域右の境内社伏見稲荷と改築記念碑。大きな狛狐が守護する伏見稲荷本殿。境内の東外れの社。 小さな池の中ほどに祀られた流造の社は、尾張徇行記に書かれている永仁2年(1294)勧請の弁天社と思われます。ここから右は生活道路が走っており、道路際からも社が見渡せます。 車道から舟津八劔社の社叢全景。 田畑から宅地・物流倉庫が建つ地域に変貌し、現在の舟津にあって貴重な杜が残されています。八劔社祭神 / 日本武尊創建 / 永仁2年(1294)境内社 / 伏見稲荷・弁天社・津島神社・不明社氏子域 / 舟津祭礼 / 10月第二日曜日所在地 / 小牧市舟津1338秋葉神社から八劔神社社頭 / 東に向かい境川を越え、100㍍ほど先の交差点を南下。徒歩10分前後 参拝日 / 2025/6/9関連記事・七面山古墳と不明社・石仏 八剱社・金毘羅大権現・御嶽神社・天神社・秋葉神社
2025.07.16
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参院選挙投票日も迫ってきました。 閉塞感、疑念、不透明な国政に対し、有権者の意志を現す唯一の行動です。三連休中日に当てつけのようにセットして来ただけに、「暑い・遊びに行って欲しい」狙いが見え見えです。 手取りは増えず、子育て支援も薄く、年金記録消失、人口減少が叫ばれ、100年安心年金制度など「失われた30年」に生きてきた世代。古い体質・金権・癒着・自助能力の欠如している自民党をはじめとする与党には一度も投じていません。 それが自分の意志表示でした。自分は既に期日前投票を済ませました。 今を生きる若い世代にとっては自分の将来を決める選挙です。アイドルやメダリストも結構ですが、良く吟味して投じるべきです。 投票に行こう。
2025.07.15
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梅雨らしい季節感もなく、毎日毎日経験のない猛暑が続く毎日。こうも暑いとどこか涼しいところでキャンプして涼みに行きたいところです。毎年キャンプに行きますが、ここまで全国的に暑く、熊情報も多いと今一つ気分は重くなります。車も変わり、キャンプの使い勝手も知りたくて6月30・7月1日と伊那谷にある駒ケ根キャンプセンターへ一泊で訪れました。名古屋からキャンプ場まで、高速で2時間もあれば到着でき、チェックインが13:00ということもあり、名古屋を9:00頃出発。これでも少し早いけれど、昼ご飯にソースカツ丼を食べる予定なのでこんな時間となりました。10:30神坂PA到着。このPAは初めて利用しましたが、こぢんまりとして混雑する事もなく、フードコートやトイレは物足りないかもしれないが意外に利用しやすいPAです。ここから旧中山道馬籠宿までは約1kmと近い。かみさんはここまでバスで来て、中山道馬籠・妻籠を歩くプランを練っていたが、これなら苦にならない、秋になったら実行してみよう。少し休憩している間にもハイキング客が通り過ぎていきます、その多くは3000年の歴史を誇る大陸の方が多かった。なかにはキャリーバッグを転がしながら歩き出した光景も見られ、なんとも不思議な光景だった。他人事とはいえ歩けるのだろうか?11:45駒ヶ根ICから車で2分程の駒ヶ根市赤穂北割一区にある明治亭 駒ヶ根本店到着。昼食はスタンダードなロースソースカツ丼をオーダー。御飯に同じ量の千切りキャベツが乗り、その上にロースソースカツが横たわる。蓋を皿代わりにして取り分けないと御飯には到達しない、昼にこれ食べると晩御飯に影響が出るボリュームがあり、しかも美味しいものでした。明治亭 駒ヶ根本店所在地 / 駒ヶ根市赤穂北割一区598-6ここから駒ヶ根キャンプセンターまでは、中央アルプス通り方向へ5分程と着いたようなもの。12:55駒ヶ根キャンプセンター到着。少し早いがチェックインを済ませ、予約したサイトへ。選んだのは大田切川右岸の川沿いのサイト。駒ケ岳から流れ出た澄んだ流れは、水温も冷たく周辺も涼しいだろうとの思惑から選びました。そうした環境なので、夜は渓流の音が耳障りに感じる方もあり、好き嫌いが分かれるところかもしれません。今夜は誰も宿泊予定がないので自由に使って構わないとのこと。この車でテント・タープ・ヘキサやテーブル・椅子など荷室に収納、クーラー・寝袋・マット類は後席の半分を倒して収納可能できます。DIYで作ったラゲッジボードも、今回はじめてテーブル脚を付けてテーブルとして使ってみましたが、使い勝手はなかなか良かった。今回、ロゴスの遮光ヘキサの初デビューです、メッシュタープやテント内の室温と比較すると体感温度は明らかに涼しく感じ、虫さえいなければこれだけで事足りる、これは買ってよかった。UVカットも必要ですが断熱性も考える時代になってきた。これなら連泊でも二人なら余裕でキャンプに行けそうです。只、二駆なので迂闊に草むらに突っ込む事はできない。サイト周辺では猿に注意の看板が目立ちました、滞在中姿は見かけなかったが、何がいてもおかしくはないので、食べ物・残飯は外に放置しない方が賢明です。このサイトの魅力のひとつ、大田切川と沈下橋の先に見えるマルス駒ヶ岳蒸溜所。水量が少なければ沈下橋を渡り、ウイスキーの有料試飲や南信州ビールが飲めますが、沈下橋の下は土砂が堆積し渡れる状況ではなく、上流のこまくさ橋から対岸に渡りました。天候は雷雲が流れ込み、傘を持って大田切川の散策路を歩き出しました。こまくさ橋。ここから駒ヶ岳蒸溜所は徒歩で15分ほど、橋に着いた頃には冷たい空気も流れ込み、遠くに雷鳴も聞こえてきた。川の水は澄んでおり、上流で雨は降ってなさそうですが行くのは諦めました。周辺の観光マップ。ここで左の駒ケ岳ファームスに向かい、そこの味わい工房でも南信州ビールが飲めるのでそちらに向かいました。16:00に着いたのですが味わい工房は閉店。土産売り場を物色すると南信州ビールを販売しており、こちらのテラスで味わう事に。このタイミングで遂に雨が降り出し、しばらくビールを飲みつつ雨宿り。味わいはドイツビールに通じるもので、飲みごたえのあるものでした。ここから5分も歩けば入浴施設「早太郎温泉 こまくさの湯」もあるので、汗を流すにはありがたい。キャンプ場からだと約25分程です。Gマップのリンクを貼りますが、涼しい川沿いの道は表示されていません。10分ほど雨宿りしてサイトに戻り、沈下橋まで行ってみました。空は夏の雲、通り雨程度では水は濁る事もなく、川筋を吹き抜ける風は心地いい。椅子に座りこんで涼むのには最適かもしれない。川幅は開け、毛鉤を振るには最高ですが魚影は薄いようです。釣れないにしても、この環境で思いきりラインが伸ばせるだけでリフレッシュできるのでは。火をおこして晩御飯に取りかかる。食材はインター付近にスーパーもあり手ぶらでも調達可能なので問題ありません。我家の晩御飯は焼き鳥とサラダ、漬物に鯵のナメロウのみ、クーラーは酒ばかり。二人だけのキャンプ、手の込んだダッジオーブンやスモーカー、焼き肉なんてもう何年もやっていない気がする。最近は殆ど居酒屋メニューばかり、昼もボリュームがあったのでこれで十分。地元スーパーで買った今錦の特別純米と天龍濁り。焼き鳥と今錦の相性は良かった。薪はウッドデッキ解体廃材で作ったスウェーデントーチと管理棟で売られていた針葉樹の薪(@500)。これで廃材は3年がかりで全て焚き尽くした。キャンプ場炊事棟。当日の宿泊は我が家だけですが、場内にあるトイレを含めた複数の施設は照明が灯されていました。洗い場には金属たわし、洗剤も用意されており良心的。女性トイレに関しては、綺麗に清掃されていますが・・・なんだかなの評価でした。この時だけかもしれませんが、不快な羽虫の少ないサイトで、ハサミムシなども生息しておらず、虫に怯える事はない印象です。サイトは10㌢ほど下に石が入れられており、軟なペグでは深くは入らなかった。翌朝5:45の大田切川。冷たい渓流の水で顔をすすぎ、一日がはじまる。ますば朝御飯、前日駒ケ岳ファームスで買っておいたパンとサラダにレトルトのポトフで軽く済ませる。西の空の黒雲が気になるが、チェックアウトは10:00、なんとか夜露に濡れたテント類を乾燥させ積み込むことができました。一泊だとテント設営と撤収だけになりかねない、せめて二泊しないと落ち着けない、二泊あれば千畳敷カールから宝剣にも行ける。駒ヶ根キャンプセンター所在地 / 駒ヶ根市赤穂北割一区7599:15。二日目はキャンプ場から車で南に5分程の駒ヶ根市赤穂29に鎮座する「天台宗 別格本山 宝積山 光前寺」に参拝する。上は境内の伽藍マップ。空木岳の東麗の麓に位置し、深い森と苔の美しい寺としてしられてます。宗派は天台宗(比叡山延暦寺末)開基は本聖上人(ほんじょうしょうにん)開基年代は貞観2年(860)本聖上人は比叡山の修行の後、太田切黒川の瀑の中から不動明王の尊像を授かり、この地に寺を開いたのがはじまりとされます。古くは武田・羽柴家等の武将の保護を受け、特に徳川家から六十石の寺領と十万石の大名格を与えられるなど、隆盛をきわめたそうです。仁王門から本堂に続く長い参道脇は奥に向かうほど苔の美しさを増していきます。特に、参道脇の石垣の隙間には光苔が自生しているそうですが、雨が少ないせいか苔に勢いはなく、石垣の隙間も乾燥が進み光苔の姿はみることができなかった。仁王門からしばらく進んだ右側の杉林の中に、客殿に続く参道が伸びています。その参道と並行するように、緑の絨毯を敷き詰めた様に一面苔生した苔の古道があります。ここは全面立ち入り禁止となっています。杉並木の長い参道の先に三門が現れます。現在の三門は嘉永元年(1848)に再建されたもので、上層に十六羅漢像が安置されている。三門から本殿の眺め。手前右手には弁天堂・経堂があり、左手に十王堂が建てられています。本堂。入母屋檜皮葺で唐破風向拝の彫飾の意匠は必見の価値があります。現在の本堂は嘉永4年(1851)に再建されたもので、本尊の不動明王(秘仏)・八大童子を安置します。本聖上人が貞観二年(860)に開いたもので、当初は更に北側に建てられていたという。伽藍は幾度か火災に遭っており、寺伝などは焼失しているらしい。また、光前寺には怪物退治で知られた山犬「霊犬早太郎伝説」が伝わります。本堂左に、三重塔に続く小幹があり、この先に早太郎墓や、大阪城における大阪冬の陣で真田幸村とともに徳川と対峙した千村氏の家臣「上穂十一騎之碑」があります。霊犬早太郎墓。その昔、現在の静岡県地方では神前に人身御供を供える風習があったそうです。それを光前寺で飼われていた山犬が、神を語る怪物を退治したのが伝説のはじまりのようです。文化5年(1808)に再建された三重塔と霊犬早太郎像。井月句碑。光前寺自然探勝園。木陰には一面に苔が自生しています、園内は紫陽花が見頃を迎えていました。散策路はサル・クマの出没があり、現在は通行禁止になっています、奥深くまで踏み込まないようにしたい。参拝は9:00から16:30までで、開門直後が閉門近くがお勧めします。光前寺所在地 / 駒ヶ根市赤穂2910:00光前寺を後にして、ここから中央アルプス通りを5分ほど走り、「早太郎温泉 こまくさの湯」(営業開始は10:00)でひと汗流す。蕎麦を食べにJR小町屋駅方向に向け走り出す。11:30。駒ヶ根市下市場28「とみ八」JR小町屋駅の東に位置し、駅からだと徒歩5分ほどと近く、店舗前には4台ほどの駐車場があります。はじめて訪れましたが、店内は梁が剥き出しで、拘りのオーディオから、青春時代に口ずさんだ懐かしい音楽が流されています。ガラス越しに駒ケ岳、懐かしの音楽に美味しい蕎麦、落ち着けるお店です。天ざる(大盛)に小鉢が付いて1600円、蕎麦の味は個人差があるので評価はしない。料理の良し悪しは、お店の雰囲気と応対、魅せ方ひとつで大きく印象は変わります。ゆっくり蕎麦と音楽を楽しめ、個人的にいいお店に出逢えたと思っています。とみ八所在地 / 長野県駒ヶ根市下市場2812:30に市内のスーパー2軒をはしごして帰途に着く。今回のルートはGマップ上では330km。上の写真は出発前の燃料計と216kmを示す走行可能距離。往復では給油が必要になる情報で、帰途心配になれば岐阜県の中津川あたりで給油すればいいと思っていましたが、春日井に入っても走行可能距離を越えているにもかかわらず、燃料計はEにも至らなかった。走行可能距離は燃料計とは乖離があり過ぎ、残量警告灯を信用すべきなんだろう。せっかくなので守山スマートインターで降りて、コストコで給油(33.5L×148円)して市内に向かう。長野は県境を越えただけで、今もなおどこに行ってもガソリン価格が約10~20円は高い。補助金政策も結構だが、消費者には詳細が見えない。物価高騰のおり、なんでも値上がりしているが、TVで明日から価格改定、スーパーでは値札の貼り変えに大忙し」と報道されるが、既に店頭に並んでいるものは、仕入れ価格が違うはず、ガソリンも同じだと思うのですがねぇ。そうした貼り変えの光景に違和感を覚えるの自分だけかな。詳細の見えないステルス値上げで潤う企業もあるのだろうね。今回駒ヶ根で買って来た信濃鶴。さっぱりとした甘みを感じる酒で美味しかった。
2025.07.14
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小牧市舟津「秋葉神社」舟津の沿革舟津村は、江戸期から明治22年(1889)まで尾張国春日井郡に属し、尾張藩領で小牧代官所の支配下にあった。弘化2年(1845)の村内は本郷・蓮華寺・東島の三区に分かれ、枝郷として蓮華寺島も存在していた。村内には岩倉に通じる小牧道・岩倉道・正願寺があった。慶応4年(1868)の入鹿池決壊による洪水では、舟津一帯の全戸が浸水、田畑は冠水した。明治13年(1880)には東春日井郡に編入され、明治22年(1889)に和多里村の大字「舟津」、明治39年(1906)から昭和30年(1955)にかけて小牧町を経て小牧市の一部となった。昭和35年頃から工場誘致・宅地造成が進み、田畑の広がっていた舟津の光景は様変わりした。本題の小牧市舟津「秋葉神社」、神社の詳細は小牧市史本文篇、尾張徇行記、尾張名所図会など目を通しましたが舟津「秋葉神社」についての記載は見られず、詳細は不明です。写真は三ツ渕小学校南交差点を200㍍ほど南に進んだ交差点。秋葉神社はこの交差点を右に曲がります。路地に入るとこんな感じで、50㍍ほど先の蓮華嶋集会所の左に鎮座します。左右の見通しは悪く、道幅も狭いので、あまり車で立ち入るのはお勧めしません。蓮華寺嶋集会所と秋葉神社全景。道路際に観音堂があり、右の基壇上に赤い社と素木の社が祀られており、常夜灯が建てられています。手前の観音堂。堂内には二体の石仏が安置されています。左は、大きな前掛けがかけられた地蔵尊、顔の輪郭は薄れ銘文の有無が確認できません。右は如意輪観音、光背に文字が刻まれていますが、制作年度に繋がるものではありません。基壇全景。左に庚申塔が立てられ、右側に板宮造りの社が二社祀られています。目を通した地史からはこの社が秋葉神社である記述は見つからなかった。朱塗られた社の外観は津島神社か天王社の印象を受けてしまうが、Gマップでは秋葉神社とあるので、なんらかの裏付けがあるのだろう。境内右の常夜灯の竿には「文化2年(1805)」の寄進年と「寒念仏講」の文字が刻まれていました。沿革で記載した「弘化2年(1845)村内の枝郷 蓮華寺島」と集会所の「蓮華寺」の地名。ここから東の国道41号線方向の舟津228に鎮座する、天台宗の寺院で蓮華寺を指しているようで、創建は寛仁元年(1017)とされます、この寺を中核として枝郷 蓮華寺島は形成されていたようです。写真は弘化2年(1845)の村内図。古い土地柄なので、念仏講や庚申信仰が根付いていたようです。また、明治の地図を見ると、鎮座地は境川右岸の小規模な集落の西外れに位置し、この集落の除災として防火の神を祀ったものかもしれません。連日猛暑が続いています。涼しい図書館でweb非公開の小牧の神社を調べに行くのも暑気払いのひとつかな。秋葉神社祭神 / 不明創建 / 不明境内社 / ・・・氏子域 / ・・・祭礼 / ・・・所在地 / 小牧市舟津天神社から秋葉神社 / 三ツ渕小学校方面に向かい、信号を直進、その先の交差点を右折、蓮華寺嶋集会所左脇。徒歩10分 参拝日 / 2025/6/9関連記事・七面山古墳と不明社・石仏 八剱社・金毘羅大権現・御嶽神社・天神社
2025.07.11
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天神社。先回の金毘羅大権現・御嶽神社の300㍍ほど東の小牧市三ツ渕468に鎮座します。今回はその天神社についてご紹介します。金毘羅大権現・御嶽神社から北側の路地を東に向かうと写真の潜龍山専立寺の山門前に至ります。ここで山門の写真を撮っていた際、住職に声を掛けて頂き、少しお話を伺いました。「この辺りは大正時代の創建の寺が多く、専立寺も大正時代に創建(1923)されたお寺で、時に山門や本堂の木鼻の写真を撮りに訪れる方がある。」とのお話で、山門や本堂の木鼻の意匠は手の込んだものでした。ここから三叉路を右手に進むと左側に天神社の社頭があります。天神社社頭全景。この社頭の向かいの道路の南側も天神社参道です。100㍍ほど先の参道口まで行きましたが、鳥居や社標は立てられていなかった。社頭は常夜灯と右手には観音堂があり、左に三角形の自然石の碑が建てられていますが、社標は見当たりません。社頭右の観音堂。内部には一体の馬頭観音坐像が安置されています。年代は不明ですが光背の右には「右正眼寺道」、左に「たつみなごや道」と刻まれています。正眼寺は、現在の名神高速を越えた北側の三ツ渕原新田に鎮座する曹洞宗の寺院で、元禄2年(1689)に遷ってきた寺院で、そこへの道標の役割を持って祀られたものでしょう。左側の石碑。碑文には「貮〇三歩」と刻まれているように見えましたが、全文は読み取れなかった。大正8年(1919)に奉納されたものです。社殿全景。瓦葺切妻造で平入のもので、手前に一対の狛犬が安置されています。子持ち、毬持ちの狛犬。拝殿全景。格子戸の先に本殿のシルエットが浮かんでいます。右手の献灯台は大正時代に奉納されたものでした。三ツ渕468の天神社について東春日井郡誌と小牧市史から調べてみました。東春日井郡誌(1987)の旧村社に三ツ渕74の天神社は記録されていたが、当、三ツ渕468の天神社については無格社を見ても記されていなかった。小牧市史 本文編(1977)の神社一覧に三ツ渕の天神社として創建慶長12年とあったが、これは三ツ渕468の天神社の創建年で、当神社のものではないと思われ、当社についての記述は見つからなかった。今昔マップでは大正9年以前の地図に鳥居の印は確認できなかった。大正以前の寄進物も見当たらず、創建時期は不明です。愛知県神社庁から祭神が分かるかと確認するも登録はないようです。祭神も定かにならず、恐らく菅原道真かと思われます。覆屋の下の本殿は流造。拝殿から南側の社頭、参道の眺め。このすぐ裏手に、享保10年(1725)に遷された曹洞宗寺院圓通寺があります。境内の寄進物に大正以前のものがないことなどから、神社は明治政府誕生以降なのかもしれません。明治24年当時の和多里村三ツ渕集落の中心に圓通寺があり、境内東に天神社の参道や境内とも取れる空白地帯が見られますが、これが天神社のはじまりか。当時この参道の先には田圃が広がっていましたが、今は工場や物流倉庫、住宅に姿を変えています。天神社祭神 / 不明創建 / 不明境内社 / ・・・氏子域 / ・・・祭礼 / ・・・所在地 / 小牧市三ツ渕468金毘羅大権現から天神社 / 東へ300㍍、徒歩4分 参拝日 / 2025/6/9関連記事・七面山古墳と不明社・石仏 八剱社・金毘羅大権現・御嶽神社
2025.07.10
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前回掲載した石仏八剱社から国道155号線を東進し、明治橋を渡って八劔神社を左に見ながら三ツ淵西交差点で右折。一筋目の細い道を左折し、田畑と民家が点在する三ツ淵集落の一角に、金毘羅大権現・御嶽神社が鎮座しています。金毘羅大権現・御嶽神社 全景国道から一歩入ったこの辺りの道は、幅員の狭い対面通行のため、車で訪れる際は少し気を遣うかもしれません。右手には「大杉会場」と書かれた集会場らしき施設があり、車の駐車が可能かもしれません。大きな杉がそびえる境内には、左手に一対の常夜灯を構えた金毘羅大権現が、そしてその木陰に御嶽神社の社が静かに祀られています。緑に包まれた空間は、どこか凛とした気配が漂い、訪れる人を穏やかな心持ちにさせてくれます。鎮座地である三淵(現・小牧市三ツ渕)は、江戸時代には尾張藩領として小牧代官所の支配下に置かれた農村で、「寛文郷帳」には約798石の村高として記録されています。江戸中後期には人口や家数も増加し、文化年間には家数184戸・人口696人に達するなど、村としての基盤が整いつつありました。神社では天神宮や弁才天、山神が祀られ、周辺には正眼寺や円通寺をはじめとする寺院も所在していたことから、宗教的にも地域の中心を担っていたことがうかがえます。明治以降の行政再編や交通網の整備、さらに昭和期にかけて進んだ都市化の波は、三ツ渕の風景と暮らしに大きな変化をもたらしました。昭和39年(1964)頃には物流拠点としての整備が進み、東名高速北側には三ツ渕原団地の造成も始まります。かつては水田が広がり、社寺の甍が点在していた穏やかな農村の風景も、現在では住宅地や物流施設、幹線道路が交差する近郊型の景観へと移り変わってきました。写真は金毘羅大権現の常夜灯。常夜灯の竿には、寄進年の文政6年(1823)と金毘羅大権現と刻まれており、村の成長とともに芽生えた庶民信仰の広まりを物語るもので、商業や安全への祈願とともに、経済的・精神的な充足を願う村人たちの思いがこの常夜灯に宿っているようです。覆屋の下に祀られる金毘羅大権現社全景。金毘羅大権現は、もとは寺院に属する神仏習合の尊格であり、よく知られる“導きの神”としての側面にとどまらず、水や山、旅、商い、農業といった人々の暮らしの根幹に深く関わる存在として、その信仰は幅広く浸透してきました。社殿は神明造で4本の鰹木と内削ぎの千木が施されています。三ツ渕においても、江戸時代後期には金毘羅信仰が地域に根付き、講を通じてその信仰が広がっていたことがうかがえます。祭神は大物主命でいいのかな、今も地域住民の暮らしを支える神として崇められています。金刀比羅大権現の右に御嶽神社と春日井出身の修験者 覚明霊神像などが安置されています。右手の行者は役行者。その右の小社、社名札はありませんが、右手にも御嶽神社の石碑があることから、御嶽神社と思われます。社脇に安置されていた不動明王像。小牧市史から金毘羅大権現・御嶽神社を調べてみましたが詳細は分かりませんでした。金毘羅大権現祭神 / 大物主命創建 / 不明境内社 / 御嶽神社氏子域 / ・・・祭礼 / ・・・所在地 / 小牧市三ツ渕6石仏八剱社から御嶽神社 / 国道155号線を東進、三ツ淵西交差点で右折、一筋目を左折し250㍍東の三ツ淵南公園方向へ。1.9km・約30分参拝日 / 2025/6/9関連記事・七面山古墳と不明社・石仏 八剱社
2025.07.09
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石仏 八剱社。前回掲載した七面山古墳から西に向かい、五条川を越え、石仏町往還東南地内に鎮座する神社です。名鉄犬山線「石仏駅」からだと東に1分ほど先に位置します。八剱社社頭全景。右に八剱社(1929)の社標が立てられ、石柱門(1927)の先に神明鳥居を構えています。境内は鳥居の先から左に社殿が広がります。社頭付近の八剱社年中行事。境内左の社殿を望む。左手の手水舎と右手の拝殿と祭文殿、本殿が主な建物になります。八剱社の角が立派な龍口。鳥居から社殿の眺め。石造蕃塀の先に二対の狛犬が拝殿前を守護しています。狛犬の間に立つ一対の常夜灯は大正初期の寄進。二対の狛犬。手前のものは随分黒ずみ、年季の入り方は奥の狛犬(1989)とは年代が違うと思われますが、黒ずんだ台座の寄進年は分からなかった。拝殿額は「八劔社」で、その下に龍の彫飾りが施されています。妻壁の獅子の彫飾りも見事なものです、右の獅子の背面に鱗のようなものが見えるが正体は分からなかった。拝殿から本殿域の眺め。拝殿から続く渡廊が祭文殿へと連なっています。祭神は須佐之男命を祀り、家内安全・無病息災・五穀豊穣の御利益がある。岩倉町史(1955)では当社について以下のように記録されていました。「八剣社は大字石仏字往還東北33番地にあって、境内は五百坪九五。『寛文覚書』に「社内壱反六畝廿六歩前々除」天保12年村地図に「村除一反三畝八歩」とある。祭神は須佐之男命、創立の年月はわからない。岩倉尋常高等小学校の記録には万治元年(1658) 9月1日再建の棟札があったことを記していたけれども、いまは見あたらない。例祭はもとは九月九日、現在は新曆10月16日、氏子は六十戸。現本殿は昭和2年旧9月8日改造のものである。明治24年、明治31年、大正元年、昭和2年の棟札が残る。」とあった。また同誌の神社年代表は万治元年(1658)としている。拝殿は四方吹き抜けの切妻瓦葺で内部には多くの奉納絵馬が架けられています。祭文殿は複雑な屋根構造で両脇の間に本殿域を囲む透塀が結ばれています。本殿域後方から本殿、祭文殿の全景。本殿は流造とみられますが、高い石垣と透塀のため本殿はなかなか見通せません。この辺りでは、こうした蕃塀と拝殿、渡廊から祭文殿・本殿へ続く配置を良く見かけます。コンパクトに纏めながら、風格を感じさせるもので個人的には好きな神社です。八剱社祭神 / 須佐之男命創建 / 万治元年(1658)境内社 / 不明氏子域 / 石仏祭礼 / 10月第2日曜日所在地 / 岩倉市石仏町往還東南33七面山古墳から石仏八剱社 / 西に向かい五条川を越え徒歩7分参拝日 / 2025/6/9関連記事・七面山古墳と不明社
2025.07.06
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過去に掲載した長要山 長遠寺から五条川沿いに5分程遡った岩倉市八剱町城屋敷、ここに今回掲載する七面山古墳と墳丘の上に祀られた祠があります。今回はこちらを掲載します。名神高速道路の南側の岩倉市八剱町城屋敷。都市化も進み、静かな住宅街が立ち並ぶ細い路地を抜けた先に、時の流れから取り残されたようにひっそりと佇む小さな古墳があります。この辺りは、矢戸川と五条川に挟まれた扇状地で、写真の名神高速道路と南に国道155号線が東西に延び交通の要衝です。町名の八剱は八剱神社社(大字八剱字郷)からきているともいわれ、岩倉町誕生以前のこの辺りは幼村で、五条川も幼川と呼ばれていました。高速沿いから彷徨いながらたどり着いたのは、正面ではなく古墳背面からでした。入口は見当たらず、気づけばここに立っていたという感じです。住宅に囲まれた一角に、こんもりとした墳丘と、その上に祀られた祠が突如現れます。こちらからは古墳に入る事は出来ず、一回りして反対側に向かってみました。東側の住宅街に写真の細い入口がありました。目印は月極駐車場とカーブミラー。その奥にわずかに見える緑が七面山古墳です。所在地は岩倉市八剱町城屋敷3427番地、地図上では古墳は簡単に見つかっても、入口はこのような路地の先にあり、ちょっとした探索気分を味わえます。細い舗道を進んだ先に、ふっと開ける空間がありました。正面には、わずかな高まりをもった墳丘と、その上に祀られた小さな祠が目に入ります。墳丘の直径は目測で10メートル、高さ2メートルほどの円墳です。周囲を家々に囲まれるなか、開けたこの空間で円墳の全景はくっきりと浮かび上がります。想像していた以上に存在感を放っていました。背後にはフェンスや住宅の壁が迫っているにもかかわらず、この一角だけが時間の流れをゆるやかにたたえているようで、ふと、かつてこの地で重ねられてきた営みが浮かんできます。古墳の前には、岩倉市教育委員会による解説板が設置されています。そこには、この地に残る七面山古墳の概要と、市内に点在する他の古墳群についての記述が簡潔にまとめられていました。「七面山古墳 市域は、この七面山古墳のほか、下本町新溝古墳、中本町古市場古墳、天神塚古墳、曽野城址古墳、大山寺町居屋敷古墳、稲荷宮寺古墳、川井町ノンベ古墳などがある。このうち発掘調査がなされたのは、西出古墳一基のみで、他の古墳やこの七面山古墳は未調査である。須恵器壺・杯などが確認されている。この出土品からみて六世紀頃に築造されたと推定されている。本市の古墳は、いつの時代かに墳丘が取り壊されたものが多いなかで、ほぼ完全の墳丘を残しているこの古墳は貴重なものである。岩倉市教育委員会」この説明が示すように、七面山古墳は岩倉市の中でも、築造当時のかたちを比較的よく残している貴重な例のひとつで、現在は住宅に囲まれた小さな一角に過ぎませんが、かつてこのあたり一帯には大小の古墳が点在していたことがうかがえます。また、江戸時代の地誌にはこの辺りが「城屋敷」と記されており、戦国期に築かれた八剱砦とのつながりを物語っているとされます。砦跡そのものは現存していませんが、地域の地名として今も息づいています。又、八剱町郷東には「山神」と刻まれた石碑が今も残されており、その背面には「天正の頃 八剱之城主 北畠中将織田信雄云々」と記され、歴史の痕跡を伝えています。墳丘に設けられた石段の下から見上げると、緩やかな高まりの上に小さな祠が据えられていました。こうして下から仰ぎ見ると、祠の佇まいがより印象的に映ります。社名や創建時期などは分かりませんが、長い年月を経て積み重ねられてきた祈りの場として感じられます。この古墳の墳丘は小牧・長久手の戦いの際、近隣に築かれた八剱砦の見張り台として活用されたという話もあります。以前はこの高さでも十分に機能したのでしょうが、今は家並みの中に埋没しています。墳丘の頂には、石の台座の上に小さな祠が据えられています。木造瓦葺の素朴な造りで、鳥居や玉垣はなく、社名や祭神を示す札も風化していて判読できませんでした。地元ではこの祠を親しみを込めて「七面山さん」と呼ぶとも云われます。正式な社名や祭神は不詳ながら、こうして呼び名が残っていること自体、古くからこの地域に寄り添ってきた証なのかもしれません。屋根を支える梁や木鼻の意匠はシンプルなものですが、住民の思いが込められた“かたち”です。祠の正面に掲げられた社名札は、風雨にさらされ文字がほとんど判読できなくなっていました。その前には、色を失い乾いた花が手向けられていました。誰がいつ手向けたものなのかはわかりませんが、この花には“祈りの痕跡”が宿っているように思えました。住宅が広がる現代に古代と中世が静かに交差するこの古墳と祠は、これからも人びとの暮らしを見守っていくのかもしれません。七面山古墳と墳丘の上の祠七面山古墳古墳形状 / 円墳築造年代 / 6世紀頃埋葬者 / 不明不明社創建 / 不明祭神 / 不明 所在地 / 岩倉市八剱町城屋敷3427長遠寺から七面山古墳 / 北に300㍍、約5分訪問日 / 2025/6/9過去記事・長要山 長遠寺 ・八劔(はっけん)神社
2025.07.05
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布土神明社から第五回歩いて巡拝 知多四国のゴール葦航寺へは、神明社から左に進み、名鉄河和線の高架を通り抜けた左の小高い岡に鎮座します。所在地は美浜町布土平井で、名鉄河和線を隔て神明社の東に鎮座します。移動時間は2分もあれば十分だと思います。知多四国開山所 葦航寺入口全景。左側の名鉄河和線の線路脇に鎮座し、入口には山門はありませんが、右の石段を上って境内に進みます。入口から見上げる伽藍全景。左の方型の建物と中央の蘇鉄が印象的な外観です。知多四国八十八ヶ所霊場は、今から約200年以上前、弘法大師のお告げを受けた知多市・妙楽寺の一三世住職・亮山阿闍梨によって開創されました。亮山はその巡礼の旅のなかで、岡戸半蔵、武田安兵衛という2人の行者と出会い、共に霊場の整備に尽力し、新四国八十八ケ所の各寺に仏像を奉安、開眼行事を終えたのは文政7年(1824)で、亮山が発願して16年目の事です。文政8年(1825)には道中記 (里程案内記)も出版され、版木も妙楽寺に残っていますが、開創当初は巡拝道も整わず巡拝者も少なかったいわれます。開山所は八十八ケ所を整えた3人とゆかりの地を開山所としたものです。亮山阿闍梨は妙楽寺(知多市)、半蔵行者は誓海寺(美浜町古布)、安兵衛行者は文政8年(1825)、ここ布土の十王堂で38歳の生涯を閉じ、葦航寺に祀られています。葦航寺開創について美浜町誌には伝承として元亀元年(1570)とあります。尾張徇行記知多郡篇の葦航寺記述は以下。「府志曰、号達磨山、曹洞宗、属同村心月斎○覚書=寺内二畝歩前々除◯此寺草創/由来へ不伝卜也、境内一反二畝歩御除 」石段の中央に逞しく育ち、花を付けたアマリリス、踏まないように注意したい。葦航寺の主な伽藍はこの本堂と左の太子堂が主なものとなります。山号額は達磨山。当日は引き戸が閉じられ内部の様子は見ることができなかったが、寄棟瓦葺の本堂は近年補修されたようで綺麗な外観を保っていました。本堂左の太子堂。寄棟瓦葺の建物で堂の右側が納経所です。手前の石像は開山所の由縁となった武田安兵衛像。中央に弘法大師像が安置されています。今からさてこの扁額何と読めばいいのだろう、無理くり読んで開山所かな、読めません。太子堂左の祠は恐らく稲荷社、右の亀は甲羅の上に福寿法亀龍王菩薩を乗せている。一心大師堂。昭和62年に建てられた方形の堂で、内部に人の像と二体の犬の石像が安置されています。火燈窓から一心大師像、傍らの二匹の犬には首輪が付けられていました。一心大師堂の正面の手水舎と右手は宝筐印塔だろうか。納経印も頂き、時計を見れば15:30。あとは南に1km程南下した名鉄河和線「河和口駅」から電車に揺られて帰途につく、今日一日で歩いた距離は約10km。コースは比較的平坦な道が多く、尚且つ曇天だったため、人の多い本開催時のような疲れを感じなかった。自分のペースで歩けるのは後開催ならではだろう。第五回歩いて巡拝 知多四国開山所 達磨山 葦航寺宗派 / 曹洞宗開基 / 玄光和尚開創 / 元亀元年(1570)本尊 / 釈迦牟尼仏所在地 / 知多郡美浜町布土平井131布土神明神社から萱航寺 / 圓観寺から名鉄河和線沿いに2.9Km南下・約40分ほど参拝日 / 2025/05/23関連記事・第五回歩いて巡拝知多四国(後開催) 二十二番札所 大日寺・第五回歩いて巡拝知多四国 二十三番札所 意龍山 蓮花院・第五回歩いて巡拝知多四国 武雄神社・第五回歩いて巡拝知多四国 武豊停車場跡地と不明社・第五回歩いて巡拝知多四国 二十四番札所 慶亀山 徳正寺・第五回歩いて巡拝知多四国 知里付神社・第五回歩いて巡拝知多四国 白山神社・第五回歩いて巡拝知多四国 二十五番札所 法輪山 圓観寺・第五回歩いて巡拝知多四国 布土神明神社
2025.07.04
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圓観寺から田園地帯を走る名鉄河和線の西沿いを、約3km、時間にして約40分ほど歩く。 ここまで歩いてきた線路沿いの道は、正面でいかにも心細い道となるため、そこで右折し、すぐに左に進んで正面の森に向けて歩いて行くと、第5回「歩いて巡拝・知多四国」のゴール、番外札所の達磨山・葦航寺も近い。森沿いに坂を下っていくと、木立の中に神社の姿が見えてくる。 坂を下り切ると正面には田んぼが広がり、三叉路となる。そこを左に進めば、葦航寺まではあと2〜3分ほどで辿り着く。 森を境に、それまでの武豊町から美浜町布土地内へと入ります。時刻は15時。ここで少し寄り道をして、布土の神明神社へ立ち寄ってみよう。写真は、布土神明神社の社頭全景。 道は神明神社の社標の脇へと繋がっており、その隣が社頭です。一の鳥居からは、石段が杜の中へと続いており、途中にもいくつかの鳥居の姿が見られます。写真は、ニノ鳥居(1943)から社頭を望んだもの。 正面には田植えを終えた田圃が広がり、左手には名鉄河和線の土手が南へと続いている。布土神明神社の祭礼について調べてみると、毎年4月の第一日曜日に「布土祭」が催され、近隣の平田、上村、大池の各組から三両の山車が曳き廻されるという。 山車は各地区を巡った後、神明神社に集結し、そこでからくり人形芝居と三番叟が奉納され、さらに、神明神社の西に鎮座する津島神社の広場まで曳行されるとのこと。鳥居前の広場は、こうした山車の勢揃いの場として設けられたのかもしれない。三ノ鳥居から社殿を望む。鳥居前に一対の狛犬が安置されていますが寄進年は見忘れました。社殿は、正面の拝殿と左手の社務所が主な建物で、石段の右側には「村社 神明神社」の社号標が立てられている。本殿の左には御嶽社が、右には七社の境内社が祀られていました。布土神明神社について、美浜町誌(1983)の神明神社の紹介は以下内容でした。「神明神社(布土村・11級社・ 旧指定村社) 。当神社は、神明宮と称し、慶安元年(1648)社殿修繕の棟札がある。明治3年(1870)、神明社と社号訂正。明治42年神明神社と社号訂正許可。」祭神は豊受姫命を祀ります。明治までは「神明宮」と称されていたことから、社頭の社号標や鳥居の寄進年がいずれも昭和期である点から、当初はそれほど古くない神社かと思っていたが、棟札の存在を踏まえると、その起源は安土桃山時代、あるいはそれ以前に遡る可能性もある。 境内のどこかに、かつての「神明宮」と刻まれた古い社号標が残されていたのかもしれない。拝殿は、入母屋造・瓦葺の平入形式で建てられており、拝殿前には一対の狛犬が鎮座している。この狛犬は全体に黒ずんでおり、風化の痕跡からも時代を感じさせるものですが、たしか昭和初期の寄進であったと記憶しています。扁額は「神明神社」。拝殿右側の境内社。鳥居正面に位置する鞘殿は秋葉社で、右手には山之神社が祀られています。江戸時代のこのあたりでは、各村ごとに「山の神」を祀る社が点在しており、農作業や山の安全を祈る身近な信仰の対象として崇敬を集めていたようです。しかし、これらの社を支える講員も時代と共に減少し、やがて地域の氏神に合祀されたり、あるいは廃社となった社も多く、数は次第に少なくなっています。秋葉社の左の5社。右から金刀比羅社、津島社、伊勢社、多賀社、御鍬社。布土神明神社本殿は鰹木4本、内削ぎの千木が載せられた神明造。この本殿の左側の境内に御嶽社がありましたが撮り忘れていました。拝殿前から三ノ鳥居(1954)と社頭の眺め。さて、ゴールの葦航寺を目指すか。第五回歩いて巡拝知多四国 布土神明神社創建 / 不明 (慶安元年 1648西暦の棟札)祭神 / 豊受姫命境内社 / 秋葉社、山之神社、金刀比羅社、津島社、伊勢社、多賀社、御鍬社、御嶽社氏子域 / 美浜町:布土例祭 / 4月第1日曜日所在地 / 知多郡美浜町布土平井39圓観寺から神明神社 / 圓観寺から名鉄河和線沿いに2.9Km南下・約40分ほど参拝日 / 2025/05/23関連記事・第五回歩いて巡拝知多四国(後開催) 二十二番札所 大日寺・第五回歩いて巡拝知多四国 二十三番札所 意龍山 蓮花院・第五回歩いて巡拝知多四国 武雄神社・第五回歩いて巡拝知多四国 武豊停車場跡地と不明社・第五回歩いて巡拝知多四国 二十四番札所 慶亀山 徳正寺・第五回歩いて巡拝知多四国 知里付神社・第五回歩いて巡拝知多四国 白山神社・第五回歩いて巡拝知多四国 二十五番札所 法輪山 圓観寺
2025.07.01
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