水無月

水無月

塹壕の中の兵士


野村さんという方の話です。
この人が第二次大戦の時、日本軍の兵隊として、南方で戦っていたんです。
かつて日本軍は、殖民地と資源を求めて東南アジアへ侵攻していたんですね。
フィリピン、インドネシア、マレーシア、ビルマ、あらゆるところで激しい戦闘を繰り返したんです。インドネシアで起こった出来事なんですがね
その日は昼間、凄まじい戦闘が繰り広げられたんです
でも昼を過ぎたら、なぜか互いの攻撃がピタッ、と止んだんです
戦場の最中で、急に静寂が辺りを包んだんです。
戦場では時々あるらしいんです。
激しい闘いの最中、フッと信じられないような静寂が訪れるんです。
相手方では、それは天使の時間とか天使の羽ばたく時間と呼ばれているんです。
それがたまたま昼過ぎに訪れたんですね。
空は次第に夕日で赤く染まり始めた。
南国特有木々が、シルエットに染まり、ジャングルも真っ暗なシルエットに染まる
野村さんは、その景色をボーッ、としながら見つめていたんですね。
すると、どこからともなく鼻歌が聞こえてきたんです。
「うん?」
「誰かが鼻歌を歌っているな」
「どこだろう」
見渡すと、自分の回りには幾重にも掘り進んでいる塹壕があるんです。
穴を幾つも掘り、その中に兵士が入り、ライフルとか機関銃で応戦するための穴です。その中から、鼻歌が聞こえてくるんです。
野村さん、これといった用事があるわけでもないんですが、
なんとなく引き込まれるように、
その鼻歌のする塹壕に近づいて行ったんです。
塹壕の中には30代半ばの痩せ細った兵隊さんが、ボ-ッと空を
見上げながら鼻歌を歌っていたんです。
なんとなく懐かしい気分になった野村さんも、
兵隊さんの横に並んでいたんでですね。
その兵隊さん、「日本はどっちだろうなぁ?」
と野村さんに聞いたので、
「日が沈んでゆくのが西、東は反対側だから」
夕日の反対側を指差して、「多分あっちの方じゃないかな」と言ったんです。
「ふーん」
兵隊さんは、そっちの方向を眺めながら、
「今、何時かなぁ?」
と聞いてきたんです。
時計はすでに壊れていたんで、空の様子を見ながら、
「18時ぐらいじゃないかな」
そう言ったんです。
すると兵隊さん、うっすらと笑って、
「じゃあ今頃、国じゃ女房が仏壇に手を合わせて、自分の無事を祈っているなぁ」
ふたりとも空を眺めて、ボンヤリ日本のことを思い浮かべていたんです。
そこへ、別の兵隊が、走ってきたんです。
「野村、おまえ、誰と話しているんだ?」
「ええ?この人ですよ」
隣の兵隊を指差したんです。
そしたら、その兵隊さんが、キョトン、としているんですよ
口ごもって、何も言おうとしないんです。
「なんだよ、おかしなことを聞くなぁ?」
と思ったんです。
別の兵隊さん、
「お前、何言ってんだよ」
「えっ?」
もう一度、野村さんは横を見たんです。
よく見るとその兵隊さん、ちっとも動かないんです。
様子がおかしいんです。
塹壕の中はかなり暗くなっているんです。
「はてな?」
野村さん、改めて見直したんです。
よく見るとその兵隊さん両足を投げ出して、
戦闘服を真っ赤に血で染めて、
穴ぼこだけの目玉を見開いて、夕焼け空を見つめていたんです。
そうです、すでに死んでいる兵隊さんの姿だったんです。
野村さんは、死んでいる兵隊さんと話していたんですね。
戦争という極限の状態では、我々が感じることが出来ないような、
未知の世界が存在するのかもしれませんね。
でも、この兵隊さん、懐かしい故郷や、
奥さんのことを思い浮かべていたんじゃないでしょうか。
瀕死の状態でもなお、目を開いて夕焼け空を見上げながら、
遥か彼方の故郷や、奥さんのことを思いながら亡くなったんじゃないでしょうか。


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