明治の町家   姫路の春霜堂  

明治の町家   姫路の春霜堂  

中井竹山 儒学者 1730-1804 330ht



江戸中期の儒者。通称と本名は善太積善,字は子慶,竹山は号。父は誠之,甃庵(しゅうあん)と号し懐徳堂の第2代学生。母は龍野市の出。弟は積徳(号は履軒)。大坂尼崎町の懐徳堂内で生まれる。五井蘭洲(懐徳堂助教)に朱子学を学ぶ。1782年(天明2),第3代学主三宅春樓のあとを受けて第4代学生となる。竹山は朱子学を正学として重んじたが,学説を固定的にとらえることをしなかった。

寛政改革のとき,首席老中松平定信が来坂した際に竹山に政治上の諮問を行ったが,これに答えて『草芽危言』を著す。また,徳川家康の伝記である『逸史』を著して幕府に上呈した。主著は上記のほか,『易断』『詩律兆』『非徴』『社倉私議』など。

頼山陽の父・春水は、子供の頃から神童と言われ、大阪で片山北海という有名な学者の弟子になり、そこで「寛政の三博士」と呼ばれた尾藤二洲・柴野栗山・古賀精里や中井竹山・篠崎三島・亀井南溟など大勢の学者と知り合い、
28歳の時には、独立して大阪江戸堀に「青山塾」という塾を開きました。
34歳の時には、中井竹山の仲立ちで静子という夫人を貰いました。
翌年、安永9年・1780年・12月27日、山陽が生まれ、 亨翁によって久太郎と名づけられたのです。


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