眠民の人生向上委員会

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眠民の自己紹介その1

眠民の自己紹介その1

プロフィール には書ききれない、自己紹介をここに書きますね♪

ルンルン♪癒され~♪紅茶の美味しい喫茶店♪

■なぜ眠民か?
苗字をローマ字表記にして、最初の3つが「MIN」。で、僕が中学生の頃にアイドルしていた、小泉今日子は、KYOKOでキョンキョン。じゃぁ、僕はMINMINだなってことで「みんみん」になった。多分10年以上前(1993年?)くらいから使っていると思う。
1997年くらいから、漢字表記の 「眠民」にした。これは、 死せる詩人たちの会 で詩のようなものを公開している関係。ひらがなの「みんみん」より漢字の「眠民」の方が、なんか締まるよね。
■好きな事
ぼ~っとする事。 読書。
■嫌いな事
急ぐ事。自分のテンポを乱される事。トレンディドラマ(今、言わないよねぇ)。人と同じ事をする事。
■好きな音楽
ジャンルは特に問わないなぁ。気に入った曲が好きな曲。好きなアーティストはTAKING HEADS、明和電機など。昔は坂本龍一、135、東京少年(ハイスクールディズが好きだった)、B’z等も好きだった。マイケルジャクソン、マドンナ(RAINが良いね)、元プリンス、カーペンターズもいいねえ。ピアノ曲ではエリックサティのジムノペティがいいね。
■ネットについて
多分1993年頃から、パソコン通信をしていた。その頃は2400bpsのモデムを使っていた。しばらくして38400bpsになって「早っ」と喜んでいた。最初パソコンは、NECのPC-9801VXを使っていた。MS-DOSの時代だね。オフ会などにもよく参加していたなぁ。(今、光で100MB(メガビット)とかいってるよね。1MBは1024KB(キロビット)、1KBは1024B(ビット)。2400Bってどれだけ遅いか計算してみて~)

1996年5月ごろからインターネットを始め、ホームページ 「ぱんどらの箱」 を作る。ネットを通じて、人との出会い・別れをいくつか経験し、今に至る。最近はあまり更新していないね。楽天広場に注力することに(楽だしねぇ)。
■自分史(ってたいしたことじゃないけど(^-^;)
・誕生
大阪万博の年、東京の五反田で生まれる。そのまま過ごしていれば、シティーボーイになって、今とは違う人生を歩んでいただろうなぁ。すぐに、大阪に引っ越す。大阪市大正区に住んでいた。
幼稚園は2年保育に通っていた。かすかな記憶しかないけどね。お昼ごはんに牛乳が出るんだけど、少しお金を上乗せすることで、コーヒー牛乳を飲むことができた。僕としてはコーヒー牛乳を飲みたかったので、母親によくねだっていたと思う。この頃は、もう脱脂粉乳の時代じゃなかったね。
・高槻へ
4歳の頃、大阪の高槻市に引っ越す。高槻は京都府のすぐ隣になり、大阪・京都どっちに行くにも便利な位置にある。当時は田んぼばっかりだったようだけど、全然記憶に無い。西部百貨店が唯一の大きなデパートだった。今の高槻しか知らない人は、きっと想像できないだろうなぁ。凄く都会になったもんね。高槻には、途中家出した時期もあったが、29歳まで住んでいた。

家の近くに川が流れていて、川の両端は、民家より少し高い堤防になっている。川で遊んだりザリガニを取ったりできる、程よい自然が身近にあった(川は、護岸工事で人の手がかかっていたけどね)。

今でもそうだと思うんだけど、大阪市内よりは空気が綺麗だと思う。星空は高槻の方が綺麗だった。夜中に星を見ながら帰宅すると、多少は心が洗われる気がしたものだ。

高槻に来てからは2年保育ではなく、普通に幼稚園に通うことに。工作とか好きだったなぁ。幼稚園が一番楽しかったような気がする。そしてそのまま、地元の小中学校に通って育つ。理科や図工が好きだった。中学になって、数学が嫌いになる。
「こんなの将来、何の役にたつねん!」

高校受験前だけは、塾に通ったね。

高校は隣の市にある、工業高校電子化に入る。普通科の学校は学区というものがあり、決められた範囲の高校にしか受験できない。ただし、工業高校は学区に関係なく受験できた。今はどうかは知らないけどね。
そもそも、工業高校に入ったのは、卒業後すぐ就職できるから。中学でかなり勉強嫌いになったのも原因だね。家の経済力も関係するけど、大学に行くつもりはまったく無かった。

高校では、空手道部に入る。中学の頃テレビで見ていた「空手バカ一代」の影響だ(^-^;
直接打撃の実践空手の流派のクラブだった。2年生がいなかった為、3年生対1年生ってことで、毎日ボコボコになる。高校まで自転車で通っていたのだけど、ローキックのやられすぎで、こぐのが辛い日々もあった。

肝心の勉強の方は、嫌いに磨きがかかり、専門科目で欠点になり補習を受けるハメに。なんとか卒業できたね(^-^;
・就職
1989年、バブルの絶頂期に就職。求人は1人に10社割り当たるほど。つまり進学しない限り、ほぼ100%就職できるという、とても恵まれた時代だった。通常4月1日の入社が多いと思う。だけど3月16日に入社という、2週間程損した気分だった。栃木県の何も無いところで3ヶ月の研修。栃木おろしという、3月なのに凄く寒い風が吹く頃だった。新大阪駅まで見送りに来た母親は、3ヶ月も離れるということが無かったせいか、涙したと後から聞いた。

18歳のエネルギーあふれる男ばかりが、3ヶ月もひとつ屋根の下でいると、色々なことが起こる。専門高校卒・大卒の人もいたけどね。研修所の裏がラブホテルで、車が入った~と大騒ぎして注意を受けたとか、毎朝のラジオ体操の後、全速力で走ってガラス戸にぶつかって壊したとか…。ああ、そういえば、数少ない女子社員の部屋に忍び込んだとかしなかったとかそういう話もあったなぁ。

僕はそれほどエネルギッシュでも無かったね。特に事件を起こすことなく、毎日毎日チップスターを食べて、まじめに勉強していたよ♪

同年7月に正式配属。この時から14年間お世話になったわけだ。
事務所には、普通のカバンと、資料を詰め込む為の大きな巾着袋を持ちこんでいたので、変なヤツだなぁと思われていたらしい。僕はいまだに手ぶらで通勤することには、不安があるよ(^-^;

社会人として、この会社では様々なことを教わり、経験したと思う。2回程辞めてやる!と切れたこともあるが、今となってはいい思い出だ。上司からしたら、難儀な思い出だろうけど(^-^;


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