ナポレオン



毒殺されたナポレオン(1769~1821)

1840年10月18日(死後19年後)にセントヘレナ島の墓地から掘り出された。

ナポレオンの遺体は、フランスの国民の強い要望によりパリにい向けて出発した。

この英雄の帰国を一目見ようと、沿道をうめつくしたパリ市民は、数万人にものぼった。

帰国した遺体は、アンヴァリッド廃兵院の教会の中に安置された。


1789年フランス革命後の混乱の中、突如登場し、

またたく間にヨーロッパの大半をしちゅうに、治めたナポレオンは、

シーザーの再来として軍師的な天才だった大学の設立などを含む教育設備や司法行政の設置など

国内の社会基盤を整え、フランスを近代化させた。


国民の圧倒的支持を受け、フランス皇帝まで登りつめた。しかし、栄光も長くは続かなかった。

1815年ワーテルローの戦いでイギリス・プロシア・オランダの連合軍に負け、皇帝の座を追われ、

イギリスによって、絶海の孤島セントヘレナへ流刑。

2度とヨーロッパの地を踏むことなく、1821年5月5日52歳で、死んだ。

死んだ翌日、遺言によって、検死解剖が行われたが直接な死因は、発見できず

わずかな胃の腫瘍を、胃ガンとするかで、医師の意見がわかれた。


死ぬ2ヶ月前のナポレオンの絵はお腹がプクと出ていて、胃ガンで死んだとは思えない。

胃ガンの兆候を見せることもなかったナポレオンの死は、その後様々な疑惑をよび、

彼の死から1世紀以上もたった1955年新たな展開をみせることになった。


それが、セントヘレナ島でナポレオンの傍で、最後まで寄りそうように仕えていた

召使い頭の ルイ・マルシャンの日記の出版だった。

マルシャン回想録の中にこう記してあった

『ナポレオンは、次第に日の光を嫌うようになり、消化不良と便秘を繰返し、体毛が脱毛
 脚のむくみから歩行が困難になることさえあった。』


この事実を知った ステン・フォシュフーヴド医学博士は、その症状がヒ素中毒と同様であることを注目。

博士は、ナポレオンの遺髪を手に入れ

毒物学の検医であるグラスコー大学のハミルトン・スミス教授に検査を依頼。

結果ナポレオンの遺髪から通常の13倍もの数値が検出された。


セントヘレナ島に流刑されるあたり、イギリスがナポレオンに同行を許可したのは、将校とその家族。

医者や召使いを含めても数十名だけ、その中でもナポレオンに近づけたのは、ごくわすかだった。

1815年10月17日 ナポレオン、セントヘレナ島に上陸。ロングウッド(ナポレオンの住処)の生活

毎朝6時に起床。身の回りの世話をしていたのは、召使い頭のマルシャン。

毎朝 マルシャンが作るコーヒーを口にしていた。服装を整え、馬で散歩するのが日課だった。


召使い頭 ルイ・マルシャン グルゴー将軍  モントロン伯爵 ベルトラン伯爵 ラス・カーズ


ナポレオンの崇拝者であり、自らすすんで、セントヘレナ島に来たグルゴー将軍は、

ナポレオンの寵愛をモントロンに、奪われていく日々は、耐えがたいものになっていった。


こうした経緯を常に冷ややかに見ていたのが、内大臣を務めたベルトラン伯爵だった。

ナポレオンに無理やり連れて来られたベルトランは、フランスに帰ることばかり考えていた


午後になり、ラス・カーズがやってくる。彼は、軍師司官学校のナポレオンの先輩だった。

彼がセントヘレナ島にやって来た理由は、誰よりも早くナポレオンの回想録を出版し
印税による収入を目論んでいた


ナポレオンのイギリス人医師オマーラ。ナポレオンの薬の処方をやっていた。

毎晩8時、全員が食堂に集まる。料理から飲み物まで、取りしきる給仕長のチプリアーニ。

セントヘレナ島の流刑生活に終止符を打つには、ナポレオンから、島を出るよう命令されるか
ナポレオンが死ぬかどちらかだった。


最初に島から出るように命じられたのが、ラス・カーズだった。

ラス・カーズ著 セントヘレナ回想録には、

「私は、ある皇帝に忠告する声を聞いた。
“ワインを飲んで少しでも変な味がしたら、すぐに吐き捨てて下さい”」

とワインに毒が入っていたとしたら、チプリアーニがアヤシイ。

ところが、チプリアーニは、急に倒れあっけなく死んだ。

その夜、恋人だった召し使いの女性も同じ症状で死んだ。結局、死因をつきとめることはできなかった。


そして、このナゾの死の翌月、1818年3月14日失意のうちに、この島を出ることになった。

この頃から、ナポレオンの体は、異常をきしはじめていた。

マルシャン回想録の中には、オマーラ医師の様子が記されていた。

激しい痛み、粘膜の炎症、のどの渇き、右肋下部の重苦しい感じ、消化不良と便秘。

体調が悪化するにつれ、ナポレオンは、ますますオマーラ医師を頼るようになっていった。

1818年7月25日に、オマーラ医師は、解雇された。

実は、ナポレオンにあらわれはじめたヒ素中毒の症状をオマーラ医師に悟られることを
恐れたある人物が当時島を管理していたイギリス総督を尋ね、
「ナポレオンとオマーラが脱走を計画している」と告げた。

毒殺の邪魔になる人物オマーラ医師を追放した人物こそが暗殺犯?


1821年4月29日死期を悟ったナポレオンは、彼を見守る人々にこうつぶやいた。

「死後、私の体を解剖し、死因を調べてもらいたい」そして、6日後亡くなった。
1821年5月5日 ナポレオン永眠(52歳)

ナポレオンに毒を飲ませたのは、誰だ?
残った容疑者は、
召し使いのマルシャン
内大臣をも務めた ベルトラン伯爵
そして、最もナポレオンの寵愛を受けている モントロン伯爵


マルシャンからの推理
毎朝、ナポレオンが口にするコーヒーを入れていた彼が誰にも怪しまれずに毒を盛ることはできたが、
彼が犯人なら疑惑を持つことを日記に書くでしょうか?
とすると、残り2人


ブランヴィリエ夫人の物語

それは、17世紀中頃、フランスで実際に起こった遺産相続を巡る殺人事件をえがいたものだった

本には、ヒ素の使用方法が詳細に説明されていた。


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