カルト(キリスト教会に感染)


2004年3月11日の日記からその日記をしるしつつ、
実例を記するがここに再度強調しすぎてやまないことは
私はこの教会のみならず世にあるキリスト教会を愛するが故に
旅の必需品と考えるのでこれをシリース化して記してみようと考えたのである。

その中から出て来れない真実でまじめで神を愛してやまない羊の群れが
再び自由と言う空気を吸うために記す。それだけが動機である。


 私のニュージーランドの友人に初孫がイギリスにいる息子夫婦に生まれた。そこで友人夫妻は息子の妻つまり義理の娘である母を助けに出かけた。帝王切開で彼女は手術後お乳をあげたり、オムツを変えたりすることもままならなかったから手伝いのために地球を半周して出かけたのである。

 彼はニュージーランドでも屈指の大教会の牧師の片腕として活躍している長老ででもあり聖書の講義では教理的な点でも指折りの教師でもある。
世界的ウェブサイトに求められカルトへの危険を実に見事に論破している論客でもある。
 この夫婦がNZに帰国する間際に、妻の母が危篤と言うニュースを耳にした。日本の私の教会で礼拝メッセージをしてくれる約束であったが、
私は彼が妻といっしょに帰国すると思った。
それが西洋の人がとる両親や子への普通の態度だからだ。
どんなことがあっても彼らは家族の愛をないがしろにはしない。
仕事も友情も義理もそこに立ち入る隙間はない。
私にはそれが手にとるようにわかる。
彼らは日本人ではない。武士の魂や日本人の義理を理解できないといえば言いすぎか?どちらが良くてどちらが悪いと言う問題ではない。これは彼らと日本人の文化や歴史の相違であるだけであり、その根源の言わんとするところは同じである。(この問題は機会があれば後ほど新渡戸稲造博士の「武士道」から説明をしたい)

 私は沖縄での2泊3日の間の5回にわたるキリスト教の集会の奉仕から帰ってきてその悲しいニュースを聞いた。
彼は妻と一緒に帰らないと言った。
何ヶ月も前から大阪でその日曜日夕方、イスラエルと聖書に関する講義をする案内をしていたために、
妻を帰国させr日本に残ってくれたのだ。
私はこれをどんなに感謝したことか。自分の仕事のためにいや彼が仕えていると自他認めている神への忠誠のためのこの態度に感激した。
また、これはことばでは言い表せない彼の約束を守り通す固い友情でもあると感じて頭を垂れるよりほかなかった。
彼は日本人の要請で招かれたので日本の人々への奉仕だと信じて、妻を一足先にひとり帰したのだ。
妻は、ひとり寂しくそれでも笑顔で手を振って関空を発っていったのが木曜日の夜であった。
彼女がオークランドについたとき母はすでに亡くなっていた。彼が土曜日に電話をしたとき彼の妻は、母が亡くなっていたことを告げ月曜日、告別式だと言った。
それでも彼は帰国するとは私には言わなかった。

 私は宣教師の心を垣間見た。自分に課せられた務めのために命をかける。これこそ日本男子があがめてやまない武士道ではないか。

これに後日談があるがそれをここに記する。
特にカルト的集団の性質の関連した記事なので熟慮して読んでもらいたい。
このことは、シリーズものとしてこの人生の旅のリュックにもいれておかねばならないと思うから。
人生の旅で必需品だと思う人は続きを読んで考えてもらえれば幸いである。

 私はこのうるわしい宣教師である友人の行為を自分勝手に解釈して自らの群れを養うのではなく、
自分の群れに閉じ込めるために捻じ曲げて会衆に説教する教会のあることを話さなければならない。
名ばかりのキリスト教会が世に存在することを世が知らねばならないから。
世の人々だけではなく、
その真っ只中にいるいわゆるクリスチャンと言う人種にも
今一度、熟考してもらわなければならないからと思うから。

 友人と私はある教会(以前私たちが属していた教会)を月曜日の朝訪問した。
彼の飛行機は夕方5時に離陸する。
3時は関空に行かねばならない。
2時には私の家を出なければならないので、
その直前時間をやりくりしてぜひ旧知の知り合いのその教会の牧師を訪ねた。

 久しぶりの再会をよろこび握手をした。そして数日したある日曜日、
その牧師が礼拝で会衆にこう言った。
「自分の妻の母が亡くなったのに、日本に残って彼は何をしているのか。変人じゃないですか」
と言う意味のことを語ったと言うのである。
一度教会を離れた者はすべて忠誠を捨てたものとして除外することを旨とする教会が世に存するのである。
神に仕えるためにそれを第一とする務めを果たすために、
「昨日の日曜日は1日忙しくしておりました。そして今日すぐに帰るのです」、
と我が友人のサムライは、その牧師に話していた、にもかかわらず。
 日本人として感謝して手厚くその献身に礼を尽くさねばならない者の筆頭の牧師が、
礼拝で同じ神を信じる民に言うことばなのだろうか?
 私は耳を疑った。それを聞いたとき私はめまいがした。
妻もその夜は、眠れず何度も寝返りをうっていた。

 世には、羊の群れを巧にあやつり、
自分の群れが外の世界に出ないように真綿で首をしめるようにコントロールする技巧を駆使する羊飼いがいる。
その教会のひとりの男性が、今この教会に残っている男性は皆イエスマンだ、と言ったことが最近あった。
するとその牧師は、次の集会でその発言をした人を指して、「悪魔の使いです」と公言した。

 私は真実を語っていると自負している。
偽りでないことを証言するものもいる。
このような教会は世に存在してはならないし、もしそこに安住の地を見出していると思い込んでいる羊は、しっかりと目を覚まさねばならない。
 一日も早くそこから抜け出て真理を求めてやまない群れを探すこと始めねば、恐れと不安、自己の不完全を自ら攻めて自滅を待つだけになる。

 真理が人を自由にするのであって、偽りは人をその話し手の奴隷と化せさせる。

私は世の人々が真理を求めていることを知っている。
キリスト教会で真理が話されていないとすると、
人はどこでそれを聞く機会があるのだろう。
世の終わりには、人は神のことばを聞きたいと願ってもどこへ行ってもそれを聞くことができないときが来ると聖書に預言されているが、
こわいことだ。
本当におそろしいことだ。


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