奉公人の心構え

教会奉仕人であってイエスの弟子ではない

『ただ保身ばかり考えているので、精神が萎縮してしまう。
おまえだって、自分でかちとった俸禄ではなく、親の苦労によって
得たものを、養子にきてだめにしたのでは申し訳ないと思うだろうが、
それは世上とおりいっぺんの考えなのだ。
 私の考えはまた別である。奉公しているあいだは、身の上のことなど
考えもしなかった。はじめから俸禄などというものは主人のものであれば、
大事がり惜しむべき性質のものではない。
むしろ生きているうちに、浪人し切腹させられるようなことがあれば、
かえって望むところである。奉公人の終着点は、この二つのことに決まっている。』

 私はこの「葉隠」の山本常朝のことばを読んだときに、驚いてしまった。
常朝が養子権之丞殿に話されたこととして記されていた。
なぜならイエスのたとえ話にあまりにも似ているからである。
それはルカが17章で書いている。
「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、
そのしもべが野から帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』
としもべに言うでしょうか。
かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。
あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。
 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するででしょうか。
 あなたがたもそのとおりです。自分にいいつけられたことをみな、してしまったら、
『私たちは役に経たないしもべです。なずべきことをしただけです。』と言いなさい。

 常朝がイエスのこのたとえ話をどこかから聞いていて、そのしもべとしての奉公精神を
培われていたのであるという証拠はない。
日本の学校で習う歴史からの常識的には、
福音書が1700年頃にはもうすでに入ってきていたのではあるので
その教えのルーツは福音書であるとするのがそんなに危険性があるとも思えない。しかも、
イエスの教えは武士道が確立される以前からのものなのだし、
その武士道が教えとして構築されてきたものではなく、
そのものの形を生活様式から作り上げられてきたものであるところから考えるなら、
なおさら武士道の「葉隠」がどこからやってきたかを常朝に会って、
「あなたのその考えは、ほんまに孔子や孟子や仏教の教えからなんですか?」
と聞きたい衝動にかられる。

 仏教の教えやたとえのほとんどが、
トマスがインドへの宣教後に作られたものである史実は、
仏教の教えや例話はそのルーツもイエスの福音書である可能性のほうが
多いと言わざるを得ないのは、
もう神学生のあいだでもその専門家のあいだでも常識でもあるので、
私は武士道がイエスの例えを実践しているものしか昨今考えられなくなっている。

 教会の信徒が、牧師の言われるままに忠実なしもべとして教会で奉仕をしていると
その務めが非常にありがたく思えてくる。
神さまに用いられているという光栄と身に余るもったいないなさが交差して、
生きがいにまで変身する。
ここで念のために生きがいは、
天に自分の名が記されていることであって奉仕の中にあるのではないし、
ましてや奉仕によって他の人が幸せになると言うよろこびのなかにあるのでもない。
そのことをイエスは弟子に警告しておられる。

 日曜学校やまして講壇で時々、
自分のあかし(神さま体験)などを話できるたり、
また聖書の教えを解き明かす立場などに立たされたりすると、
もう内心は有頂天になったりするものだ。
その奉仕に報いがあるなどと洗脳されてしまうなら、
もうとりかえしがつかない。
なぜなら恵みとまことは姿を消し去り宗教的なパリサイ人、
律法的宗教儀式からの自己価値を作り上げる愚かなガラテヤ人に成り下がるだけだからである。

 自分の地位と立場の保身に身を削るためだけの信徒が多くなるのもそのときである。
牧師の言いなりならなければ、
その地位を失う恐れがあるなどとなると、
その人は武士でなくなるのである。
イエスの武士でなくなる。
牧師や人の奴隷となりイエスの焼印をはがしていることになる。

キリスト信者は、
「葉隠」を読んでそこにイエスの真理を慕っている武士をみてほしい。



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