武士道といふは死ぬことと見付けたり


 封建時代の遺物のように思っているのは、もってのほか。
今の時代にこれほど必要なものなない。
 暗い山の中を走るときのヘッドライトを消すならば
運転など問題外。

 つい3日前私は暗闇の森の中を車で走った。
その不安はヘッドライトのおかげで半減されたが、薄気味悪い。

戦後60年間、日本の現暗き世相を照らす
そのヘッドライトはなんだったのか、
それはうまく機能していたのかなどを考えるとき、
「ハイ」という返事はなかなか戻ってこない。
 ヘッドライトが武士道であるなどと言うと
「時代遅れよ」という人は、
三島由紀夫の「葉隠れ入門」、
李登輝前総統の「武士道解題」、
飯島正久の「武士道日本人の魂」などの本に
目を通してみたらいかが。

 『生死のふたつのうち、
いずれを取るかといえば、早く死ぬ方を選ぶということにすぎない。
これといってめんどうなことはないのだ。
腹を据えて、よけいなことは考えず、邁進するだけ。
“事を貫徹しないうちに死ねば犬死だ”などというのは、
せいぜい上方ふうの思いあがった打算的武士道といえる。』

 この「葉隠」思考は、なぜか心を安堵させてくれる。
目標をめざして走るものへのこれほどの慰めに満ちた思いやりのあることばはない。
なぜなら今日一日しっかりやることをやれば、
それで死ぬことも益なりとする死を直視してこそ
生きる意味と意義の素晴らしさを思い知らされるからである。

死を見つめない人がどうして今日生きる充実感を得ながら
生をまっとうできるのかと武士道は言う。

 パウロは言っている。
「私がどういう場合にも恥じることなく、
いつものように今も大胆に語って、
生きるにしても、死ぬにしても、
私の身によって、キリストのすばらしさが
表されることを求める私の切なる願いと望みにかなっている。」
そして彼の仕える殿様への忠誠をつぎのように締めくくっている。
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益。」

 クラーク博士は札幌で若い日本人の将来を見据えながら、
ものごとを貫徹することよりその過程のいかに真摯に生きていくかが重要なのだと語りながら、
別れ際に「イエスにあって、少年よ大志を抱け」と言われたのである。
 これは武士道の精神があってこそ価値あることばであると、
新渡戸稲造や内村鑑三の魂を振り動かした。
そして明るく輝くヘッドライトの光を
その激動の時代の転換期に投げかけたのである。

 『生と死を選ぶとき、死を選らんでおきさえすれば
ことを仕損じたとしても、それは犬死ではない。
あいつは気ちがいだとか変人だとかそしられることがあったとしても恥ではない。
武士道の本質は、死を覚悟することである。
常に死を覚悟しているときに武士道は自分のものとなり、
一生誤りなくご奉公し尽くすことができるものだと、』
その精神の明確さが現代の日本の官僚のみならず、
大会社の傘に雨をしのいでいる連中に
もし山本常朝が生きて入れば何と言うだろう。

 私は晩年に向かって今走ってある計画を
ライフワークとして掲げていて、
伊勢の大王町に間もなく引越しをする。
これが挫折すると、どうなるかと考え始めると
脳みそも内蔵もその昨日を停止し、
精神を照らすヘッドライトが掻き消えて真っ暗になる。
「終わりよければすべて良し」というような、
通り一遍の慣用句がプレッシャーとしてのしかかる。
それを武士道は、くだらんと一括するのである。

そして今日を生きよとひげ面の武者が笑顔で兜の中から優しく笑ってくれているようだ。




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