日本のこころ・大和魂はどこへ


“憂えきことのなほこの上に積まれかし
限りある身の力ためさん“

これは山中鹿之助の歌です。

“敷島の大和心を人間はば
朝日に匂う山桜花“

これは本居宣長。

次に
“かくすればこくなるものと知りながら
やむになまれぬ大和魂“

これは吉田松蔭。

この歌の日本人の心を忘れていなければ
三菱も、雪印もその他今も同じ穴のムジナのみなさん、
そして自分中心に生き公義などどこ吹く風と精神のない官僚のある人々、
政治家と言われている人々、
志を失ってただ名声と名誉欲、権勢を求めている人々に
立ち返るところがある。またそうなってほしい。
果たして彼らに希望はあるのだろうかと頭は垂れるが一条の希望は、
彼らもまた武士道のDNAを持って生まれていると言う点である。

道徳は乱れて生が安くなるのは
死がなんであるかを知らなすぎるかだ。

サムライは二つの道に来れば死を選んだ。
それは生きるために。

人のことを云々する前に
わが身にムチ打ち人生あと10年は生きたいと念じている。
昨夜、アイスクリームをたべてお腹を下した。
便所に4回、夜の10時にかけこんで苦しんだ。
もう2度とアイスクリームを夜中に食べないと苦痛から学ぶこのわが身のふがいなさ。
こんな小さなこともできない私だが
体を大事にして
ひとつのことに焦点あてて走りたい。
そのために
武士道は暗闇を照らす生き方のヘッドライトである。

 そのヘッドライトが日本では消えかかっているかもしれない。しかし
その明かりを読みがえらせるためには
織田信長的改革が必要だ。
極端なまでの改革をしたと同時に
彼は経済面で楽市楽座のような自由な取引可能な体制を築き上げた。
また、農民上がりの日吉丸を木下藤吉郎にして羽柴秀吉にしたのは
身分、地位、名誉は自らの力で獲得するものだとすることを実践で教えた。
死にかけた武士道にいのちを吹き入れたのだ。


 その武士道を現時点でよみがえらせようとするには
そのような改革が必要なのである。
 日本に燦然と輝いたその精神の光があまりにもその光沢がみがきあげられていたたために、
西洋のいかなるものをもってしても匹敵するものはない。
西洋のキリスト教しかり、現代のそれは伝道株式会社として
破産状態である。
 キリスト教が会社でないのは当然だが、会社になりそれは
内部欠陥がそこかしこに見え隠れしている。
三菱自動車が氷山の一角であるといわれているように
教会のそこかしこに膿がたまっている。

 100年前に新渡戸稲造が武士道にも劣るキリスト教を見つけ、
クエーカーに真の救いをみつけたように。
また内村鑑三がアメリカのキリスト教に吐き気をもよおし、
アーモスト大学の総長の中にいのちのキリスト教を見出したように。

今も真理を求めてやまない日本の大和魂の持ち主は
日本の神道、仏教、儒教、陽明学、朱子学、ありとあらゆる日本を
精神的に集合させて、かもし出している美の極致を集大成させた
武士道を自由に日本の生活様式に組み入れることを願ってやまないのである。

 武士道をよみがえらせるのは、キリスト教以外にない。
西洋の騎士道がなくなっても、西洋に高い道徳的水準と
小粋な精神が残ったのは、キリスト教が取って代わったからである。
そしてそれは神のみこころであった。

 そのキリスト教化形骸化された、また伝道株式会社的
運営組織が重んじられるものではなかった。
そのようなキリスト教が騎士道にとって代わるなど貧弱すぎるからである。
おなじように、いやそれ以上に完成された武士道をもった日本の
復活は、現所のキリスト教などはとうていその役目を果たせない。

 シンデレラを見つけようとした王子の手にあったのは
ガラスのくつであった。
シンデレラを見つけて呼び戻したのは王子の手のくつであるが
その前に忘れてはならないのは、
王子のシンデレラへの愛である。
そして飽くなき求めであった。

 キリスト教の不純物、付随品、西洋的文化でなくて
むしろ日本的なもの(言いかえるとイスラエル的文化)
原始キリスト教ユダヤ人がもたらしたキリスト教以外にないように思える。
西洋に回ったクリスチャンと言われる人のもたらすキリスト教の
聖なるものは保ちながら、織田信長がやったような
楽市楽座的自由な精神発想を構えて武士道を日本の民に提供するときにこそ
日本人が求めてやまない精神的復興がみられると展望する。


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