ヤコブとエサウ




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 老年になり、目の見えなくなった父イサクが、長男エサウに
「祝福を与えるから食事をしよう。狩りをして、食事をつくってくれ。」
と言う。それを聞いたエサウは、もちろん勇んで狩りに行く。

 さて、その話を(次男ヤコブを愛していた)母リベカがこっそり聞いており、ヤコブに料理を持たせ、兄のふりをして、父の祝福を受けてくるように指示する。ヤコブは一度は拒否するも、母の言うとおり、(毛深い兄に合わせて子羊の毛皮を体に着け、兄のにおいのする兄の晴れ着を着て)兄のふりをしてイサクのもとへ行く。声が違ったので少し疑われ、質問されたり体を触られたりされる。が、結局だまし通し、祝福を受けてしまう。


 ヤコブが祝福を受け終え、部屋を出て行くか行かないかのうちに、エサウが猟から帰ってきた。彼は獲物を料理し、父の部屋へもって行き、そして
「さあ私と食事をし、私を祝福してください。」
と言う。しかし先ほど祝福を済ませたイサクは
「お前は誰だ?」
と、いぶかしげに彼に聞き返す。
「私はあなたの長男エサウです。」
とエサウが返すと、イサクはようやくだまされたことを知り、エサウに祝福できないことを嘆きつつ、告げる。

 怒ったエサウは父の死後にヤコブを殺そうとたくらむが、それに気づいたリベカが、(リベカの兄・ヤコブにとってはおじの)ラバンの所に逃がしてしまう。

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というお話だ。ページにして3ページ足らず。
しかし、大げさではなく、この話は(ひょっとすると)僕の信仰の枠組みを決めてしまったのではないかと思っている。

 キリスト教には道徳的・努力的な面(善行をすれば救われて、天で神様が恵みを下さる)と、絶対主義的・予定論的な面(救いは神の選びであって、自分の努力や善行とは無関係)の両面があるが、僕の思想は圧倒的に後者である。
 つまりどんなに僕が足掻いてみても神様の意図にはかなわない、と思っているのだ。マザーテレサのように世の為、人の為、全人生を費やしたとしても、選ばれていないなら、選ばれていない。例え冒涜するような言動があっても、選ばれていれば、選ばれている。

 ヤコブは嘘を重ねて祝福を奪い、兄を裏切り、父の真剣な祝福の言葉を聞いても良心の痛みなど全く感じてない。しかも「母親に促されて仕方なく・・」というかっこ悪ささえ漂わせている。料理が余りに早く出てきたので怪しんでいる父親をだまし通す為には
「あなたの神、主が私のために、そうさせて下さった。」(創27;20)
と答える。「神の御名」を使ってまで、絶対にだましきらねばならないほど、真剣そのものなのだ。これ以上冒涜的な言動があるだろうか?



しかし、聖書の神はヤコブを選ばれた。




 聖書はいわゆる「善い話」が語られている、と一般に思われているようだ。「清く、正しく、美しく」生きるようなことが書かれていると思っている人は多い。もちろん十戒とか、マタイ5章からの「山上の説教」なども重要なキリスト教の部分である。(それらについても今後何かしら書いて行きたい。)しかしそれはあくまで、一側面であって、それだけでは何かが足りない。



僕は今でもときどきこのヤコブの話を思い出す。
 それは中途半端で、疑い深くてどうしようもない自分に希望を持たせる為に、全ての思いを超えた絶対的な神に思いを馳せることによる、自己正当化なのだろう。

 しかし、同時にこうも思う。「自分の思いを超えた事に思いを馳せることが、何にもアプリオリ(先んじて)に必要なのだ。」と。


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