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「レコード芸術」誌が7月からの休刊を発表しました。中学から大学に入ってから暫くまで毎月読んでいました。レコード評では2人の批評家が講評と推薦かどうかを記します。2人共が推薦すると特選盤として讃えられます。特選盤を毎月チェックして好き嫌いに関わらず記録し、次に買いたいレコードをノートにしていましたが、特選盤が毎月何枚も出るわけですから買い切れるわけもなく、買いたいものがどんどん増えていって20歳くらいでやめました。この時に、演奏をどのように褒め評するかを学びました。着眼点や表現としてはたいへん勉強になりました。ただ、自分が好きな演奏は推薦されることがほぼなく、何が足りないのかという疑問と評論家の趣味も知りました。「レコード芸術」の「レコード」は記録という意味ではなく、SPやLPレコードの意味でしょうから世の中はCDに変わり、今やCDも廃れデータを聴いたりレコードが再版される時代となり、むしろレコード芸術という名前でよく今日まで続いたと思います。雑誌のレビューをクラシックファンの多くが信用した時代、特選盤が名演だと信じましたが今は趣味も多様化しました。若かった頃に推奨された演奏を懐かしがるのは中高年だけで、今では馴染みのない演奏家やオーケストラのほうが主流です。結果的には新譜レコードの宣伝情報誌のような意味しかなく、演奏家や団体がレコード芸術誌で紹介されることに意義を感じ、そこで爆発的にその録音物が売れるかと言うとそれほどでもなく、海外で定評のある演奏家や団体がそのまま紹介されています。音楽評論家とは何者なのか?人によって差があり過ぎます。昔大好きだったレコードジャケットのライナーノートを読み返すと、わかりにくく拙い文章表現があり参考にならないこともあります。あくまで文献を集めてまとめた机上で考えられた評論です。殆どが楽譜や演奏、制作過程を踏まえたレビューではないため、情報収集の結果による価値観を言っているわけですから、一般聴衆が好むかどうかは別だと言えます。例えば、日本のオーケストラを振りに来日する指揮者は、レコード芸術誌でよく推薦される指揮者とは限りません。自分が好きだった指揮者は全く推薦されませんでしたが、NHK交響楽団ほか日本のオーケストラにはよく来日しました。ロシアや東欧諸国のオーケストラは個人主義的なプレーが目立ち、協調性の意味で好感されませんでしたがファンは多い筈です。結果として、整然とした演奏が高く評価されますが、それだけであればAIでも評価・評論できると思います。クラシックの演奏もカラオケのように採点できてしまいます。芸術的な視点がどこにあるのか再度考えるべき時なのです。音楽に限らず伝統的に積み上げられてきた美学が危うい時代です。メディアで演出家や放送作家がゲストとして話す機会を見ますが、気持ちだけで何を話しているのか視聴者に伝わらないことが多いです。専門家なのですから、自分に対する演出や台本も考えるべきです。最近作曲家が自作の解説でどんな気持ちを表現したかを言いますが、実はその気持ちをどのように音に置き換えたのかという解説が必要で、一般にイメージを限定して曲を聴くことはなく聴き手の自由なのです。音自体の説明ができない作曲家は本物ではないと思います。
2023.03.30
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第9回〈柴田南雄音楽評論賞〉奨励賞を受賞した、ー「新しさ」の分析論:現代の音楽における差異、価値付け、そして魅力ーを音楽雑誌「音楽現代」11月号に掲載されたので読みました。「新しさ」の概念や意味付けについて切り込む評論はたいへん興味深く、このことの捉え方次第で音楽史自体に大きな影響を与えると考えたからです。前世紀までは新しい音楽として意味付けされてきたことが音楽の価値に関わり、その音楽の質が担保された時に比較される対象となってきたと感じます。しかしそれが現代では『聴き手は新旧とは異なる価値基準において、ある作品が既存の作品に勝ると判断した時だけ、「新しさ」の認定に繋がる要素を比較要素をして選び出す』と言います。『本来ならば差異は比較行為によって浮き彫りにされるべきだが、実際には、連想と価値判断の循環によって支配されている』『歴史的「新しさ」を際立たせる物語(それは作曲家自身による解説や、後の音楽史記述によって伝えられる)を知らずに、単に演奏のみを聴いた場合、なんら「新しさ」が感じ取られないことがあるのだ』過去の作曲家の所業は、『歴史的「新しさ」を得るためには、絶え間ない音楽史の吟味と自己批判が求められる。それを通して作曲家は、作品の音響、構造、内容、語法、書法を陶治する。』でした。『作曲家の個性は自ずと歴史性を帯びるが、あらゆる作品に認めれば、歴史性の意義が絶えてしまうことは想像に難くない』『個人が持つ歴史性を過度に強調すれば、もはや芸術音楽は、ポピュラー音楽の論理に飲み込まれてしまうだろう』『現代の音楽が規模の縮小と衰退を経験しているのはなぜだろうか』『現代の音楽の魅力が不可視になっているのだ。「新しさ」概念は現代の音楽の魅力に適した形に鋳直されなくてはならない。』ここで本稿は音楽そのものよりも、評論に対する評論だとも認識できます。『耳だけを通して音楽を享受するという態度は、過度に禁欲的である。あらゆる方法を通して作品の魅力に迫る必要があるのだ。』歴史的「新しさ」を持つ音楽ですら、まさしく音よりも言葉として残っていて、音楽的な魅力を感じなくとも言葉によって「新しさ」が語られています。また、これまでレクチャーコンサートなどさまざまなアプローチを見て、音以外のことを識るほどにその価値判断や「新しさ」に疑問を持つこともあり、『音楽批評は、音楽的魅力をズバリ見極めるという設定をするべきではなく、架空の音楽的魅力を設定すればよいのだ。』となるのでしょう。音楽批判に関して今更そのソリューションを出されてもなぁと感じます。しかし、これまでの音楽批判に対して言いたいことはたくさんあるので、1993年生まれというまだまだ若い著者の音楽芸術に対する気概や、その若さでこのテーマを取り上げたことに驚き興味をもった次第です。
2022.10.24
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