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パラリンピックの車椅子ラグビー。華奢な女性プレーヤーが頑強な男性に、強烈なタックルを受けて衝撃を受け、車椅子からぶっ飛びそうになるのを見て、障害を持っているのにそこまでやる姿に、驚きと共に感動して涙が溢れます。しかし本人が評価してほしいのは、そこではなくプレーについてでしょう。タックルを受けるのは当たり前のことで、しかも簡単に怯んではいけないのです。音楽でもよく見られるのは、障害があるのに難曲を見事に弾ききると、その姿に感銘を受ける人が多いでしょう。しかしこれも同じで本人はそこではなく、音楽そのものを評価してほしいと、思っているはずです。最近は美術もその傾向が強いです。幼いこどもが描いた絵や、さらには動物が描いた絵も紹介されます。何をどのように表現したのかが、必ず評価にはつきものですから、それらしいだけで価値はつきません。自分の曲を聴いた人によく言われるのは、簡潔なひと言です。本当にいいと思えば、ひと言では言わないとは思います。それでもありがたい言葉もあります。ここで問題です!次の3つのひと言感想の中で、言われて一番嬉しいのはどれでしょう?①いい曲ですね②おもしろい曲ですね③綺麗な曲ですねごますりで言ったのではないと考えて、主観でしか言えない言葉が正解です。プロたるもの綺麗な曲を書くのは当然、おもしろい曲を書くのも当然です。綺麗と言っても巷の曲の綺麗ではなく、もっともっと綺麗な曲を書けます。よって②と③の感想は当たり前です。むしろ②や③を言った人の感受性は、ちっぽけなのかと逆に疑ってしまいます。①は紛れもなくその人の主観です。何がよかったのか聞きたいところです。SNSでも美しいとか面白いとか言うのは、そもそも言う意味がないのですよ。芸術的な考え方はもはや最低線です。まだ脈のないこどもや若者を讃えて、自らの好感度を上げようとするのは、やめていただきたいものです。大人でも運だけでうまくいっていたり、環境や営業重視で実績を得る人は多く、みっともない姿をSNSに晒しています。言葉がすぎましたがそうなんですよ笑。
2024.09.08
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お経は小さい頃から法事の度に聞くのみで、意味などは何もわからず今日まできました。ただ所々の聞き馴染みの一節は覚え、歳と共に要所要所で感動するようになり、最近は般若心経を練習しています。実際に読んでみるとわかることがあります。唱え方は人によって皆違うと思いますが、意味を抜きにして読みの音だけにすると、実に構成力があって音楽的です。特徴的なことは常に韻を踏んでいて、象徴的な一節が再現することが劇的です。さまざまなジャンルにすることが可能で、現代音楽の素材にすれば鉄板だと思います。実はキッサコという僧侶がポップスで、既に般若心経を音楽に乗せています。ヴァージョンがたくさんあるようです。般若心経は終始同じ音でビートを刻み、和声的には保続音になるので、いかなる音楽にも乗せることができます。バックの音楽はイージーリスニング調で、般若心経がメインと言えるかどうか?このスタイルだと音楽の着想としては、バックの音楽任せでお経の意味が薄く、リラックスして般若心経を聞かせる、BGM感の強い意図を感じます。般若心経の概要音楽用語を当て嵌めながら書きます笑。まず最初に唱えられる第1主題「般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)」要所で再現されます。冒頭で現れた楽節は「舎利子(しゃりーしー)」で締められ、次の楽節では、「色(しき)」の着く言葉が、4連続で韻を踏むと「識(しき)」に変化、盛り上がったところで再び「舎利子」この後、韻を踏む推移が始まります。まずは「不(ふー)」の凄まじい連打です。「不生不滅不垢不浄、不増不減(ふーしょーふーめつふーくーふーじょう、ふーぞうふーげん)」次にはさらに激しい「無(むー)」の連打です。「無色(むーしき)「無限(むーげん)」「無意識界(むーいーしきかい)、無無明亦(むーむみょうやく)無無明尽(むーむーみょうじん)」など、「無」が続き「般若波羅蜜多故」で締められ、「無」から「苦行涅槃(くぎょうねはん)、三世諸仏(さんぜーしょぶつ)」の後、「般若波羅蜜多故」そして有名な一節、「得阿耨多羅三藐三菩提(とくあーのくたーらさんみゃくさんぼーだい)」の後、「般若波羅蜜多」コーダに続きます。「是(ぜー)」で始まる連打の後、「能除一切苦(のうじょいっさいくー)、真実不虚(しんじつふーこー)」の後に最後の、「般若波羅蜜多呪、即説呪曰(そくせつしゅうわつ)」そして何と言っても最後のクライマックス、「羯諦羯諦(ぎゃーてーぎゃーてー)、波羅羯諦(はーらーぎゃーてー)、波羅僧羯諦(はらそーぎゃーてー)。」最後は、「菩提娑婆訶 (ぼーじーそわかー)、般若心経(はんにゃしんぎょう)」何ともかっこいいし、感動的です。良い音がつきそうです。読経だけでも感動的に詠むお坊さんがいそうです。時間と構成力が完全に芸術です。
2024.07.25
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小澤征爾が逝去し、1984年に刊行された、武満徹との対談『音楽』を読み返しました。裏表紙にはこの本の紹介文が載っています。”外国人音楽家の来日ラッシュ、ピアノ教室の繁盛、演奏技術の向上、オーディオ装置の発達など、現在の日本の音楽環境は異様な繁栄を見せている。だがそこには、自ら音楽に関わっていく喜びと、興奮が欠けていないだろうか?あまりに容易に〈音楽〉が手に入るために、感動が稀薄になってはいないだろうか?”小澤と武満の真意を考えたならば現代は、自らの音楽に関わっていく喜びと興奮は、当時よりも確実にあると言えますが、感動はより稀薄になったと言えます。音楽を取り巻く社会や教育、音楽家の批判、師や外国人音楽家へのリスペクトが、全編で語られているのは当時ならでは。全体に海外至上主義が貫かれています。皆が海外を追っているのは今も変わらず、日本を卑下するのも根強いと思われます。年月を経るにつれそれらの考えを検証し、どうなったのかを見るのは興味深いです。目次から見ても辛辣な各章が並びます。受け身の音楽は音楽ではない日本人の耳、西洋人の耳愛がたりない甘ったれた日本の音楽社会日本への愛から批判的なのだとわかります。理解もできますがその侃侃諤諤の様子が、この本を読んでもわからないのは、内心の吐露で終わったのかもしれません。学生の頃、武満の見解は分かれていました。ただ、コンクールで武満そっくりの作品で、入賞している人がいたのは確かで、作曲法や楽器用法では多くの作曲家が、武満から影響を受けたのも事実です。武満は押しも押されぬ大作曲家ですから、海外の演奏家との関わりが多いのも然りで、その素晴らしさを疑う余地はありません。なので日本の音楽社会をリードしていました。小澤も海外での仕事に専念した結果、日本の音楽社会への影は薄いように思います。ただ小澤や武満は日本の音楽社会を、変えることができる立場にはありました。十二音技法が確立された1920年頃から、音楽は細かな言葉の説明が必要になりました。音楽史として語られる音楽の多くは、その語法として称賛されていますが、聴衆が感覚的に共感するものではありません。メシアンは詳細に自分の語法を著しました。3歳年上のジョリヴェは同じフランス人ですが、自らの音楽語法をまったく著しませんでした。結果的にメシアンは現代音楽史上、もっとも重要な作曲家と位置されていますが、感覚的に受け入れられているのはジョリヴェで、その名と演奏頻度は一線を画しています。武満は『音楽』というタイトルの著書でも、自らの語法や音楽はまったく語っていません。しかし、周知されているのは名声であって、音楽に共感している人は一部のマニアです。武満がどんなにリスペクトされていようと、何度か聴いたフランスでのコンサート演奏に、武満のイメージがあるとは思えませんでした。武満の真価はオーケストラにありましたが、今や名声はあっても代表作に挙げられるのは、別のジャンルに変わりつつあるかもしれません。名声が独り歩きしているのです。作曲家は自分の独自性やユニークさを、言葉によって説明する必要があります。そして音楽社会を正しく導く使命があります。武満を始めとする芸術を追求した作曲家は、狡猾な世の中にゴールをすり替えられてしまい、嘗ての崇高な音楽芸術が忘れられつつあります。小澤や武満が自らの音楽をより貪欲に説明し、同じスタイルの後継者を育てていれば、今の音楽社会や自らの地位を、もっと揺るぎないものにできたはずです。小澤が絶賛している「未完成」の旋律美や、武満の「弦楽のためのレクイエム」が、当時よりも認識されないのは説明不足であり、音楽学者や批評家の発信力のなさにもあります。経年劣化もありますが、この本を何度も読み返した結果、壊れてしまいました。この本から得るものはなくなりました。
2024.06.06
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クラシック曲が注目され、BGMでも選ばれることが増えました。しかし、本来の曲とは異なり、異なるジャンルに変えられたり、切り取られて使われています。クラシック音楽は美術と同じく、芸術鑑賞として醍醐味を味わうべきで、それには学習することも必要です。解説はわかりやすくするべきですが、その醍醐味を削ぎ落とすことは、クラシックファンとしては悲しいです。その意味で心惹かれる演奏や曲は、本当に少なくなりました。演奏する側も初心者を対象とした、演奏や説明がデフォルトです。クラシック曲の視点を変える工夫も、近年ますます多く見られます。多くが遊びを取り入れた方向で、ジルベスターコンサートもその一つです。昨年末も恒例のテレビ東京系で、チャイコフスキーの交響曲第5番第4楽章、小林研一郎指揮東フィルで観ました。カメラワークや収録の音は、NHK(東京)ほどよくはありませんが、数年前よりは随分良くなっていました。コバケンの演奏は定評があり、今回もとても期待していましたが、じっくり演奏、じっくり聴く、彼のいつものシリアスな熱さにやや欠け、要所を押さえながら進めていく感じで、聴いている側も新年ちょうどに終わるか、ハラハラドキドキ感に満たされます。0時0分0秒に曲がぴったり終われば、確かに爽快で面白いですが、それはうまくいった時です。鑑賞するというよりもはや観戦です。結局惜しくも2拍分被ってしまい、SNSでも賞賛するもその話が出ます。その一点であの年のあの演奏と評され、指揮者の見られ方ができるとすると、割の合わない話ではないでしょうか。さらに有名になるためとは言え、リスクの高さも感じます。昔だったら受けなかっただろう仕事を、今のプレーヤーは内容よりも、ステータスで選ぶようになりました。そこにクラシック界の限界を感じます。
2024.01.03
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また台風が来ました。思い出すのは6月初頭に電車が止まったことで、ひと月に1回はどこかでとんでもない雨が降り、イヴェント関係はその度に大打撃を受けます。6月にたどり着けなかった奈良のホテルに、再度予約を入れようと予算で検索したところ、まったくヒットせず閉館したのかと…。何と6月の4倍の宿泊料になっていたのです。このホテルに限らず、曜日によっては5倍とか、繁茂期は5倍とかという料金設定が増えました。地方でのイヴェントは会場と宿泊が1セット、低予算の開催では台風で交通がマヒしたり、ホテル料金が変動することは大きな障害です。昔は台風の心配など気にしていませんでしたが、今は夏前から秋の終わりまで祈る思いです。旅行はともかく出向くタイプの仕事は減り、地元民だけで成立させる方向に変わるでしょう。イヴェントの場合は1日順延ということができず、ちゃんとした公演ほど中止のダメージが大きく、ちゃんとしたことをするには大きな協賛が必須、資金の少ない主催者はリスクに打ち勝てません。ライヴイヴェントはリスクによって今後は減り、資金力がある大きなものか極低予算の小さなもの、両極端にシフトし格差が生まれそうです。理由は中止になった時の損失回避です。芸術が人類の知性のバロメーターだと確信し、芸術至上主義を貫きたいのですが、世相はそれどころではなく反対の方向に進み、こと日本はさほど得意ではないデジタル化やAIを、泥縄式に慌てて導入しているように見えます。
2023.08.14
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海外にいれば日本にいる時よりも、幸運、ハプニング、アクシデント、トラブルに、何倍も多く出会うと感じないでしょうか?言葉や習慣が違うだけで全くの異文化になります。ウクライナから避難で日本に来た人たち、尋常ではないカルチャーショックがあるのでは?暑い気候、食生活、生活習慣、地理、人の多さのほか、ものの考え方では受け入れにくさもあるのでは?10日〜13日まで「Swan Lake on Water」が、東京国際フォーラムでバレエ・スペクタクルと称して、ウクライナ・グランドバレエによる公演がありました。「白鳥の湖」のステージに水を使った演出です。ハリコフオペラバレエが母体となっているようですが、再結成された新しい団体と受けとめられます。ステージに水を敷きその上で踊り、背景は映像です。前代未聞の試みでBS朝日、朝日新聞などが主催です。この水の公演は誰の発案なのか定かではありません。話題は尽きませんが、だから何?という気もします。土砂降りの雨で溜まった水の上で踊るようなもので、バレエ本来の芸術性を表現できるでしょうか?バレリーナたちはこれを好んでやるかな?とどうしても勘ぐりたくなります。また水によって舞台装置を損傷するリスクがあり、会場でやってみないとわからないことも多い筈です。SNSでは本番に転んだ演者がいたという書込みがあり、怪我をしたり代演もできないリスクもあります。とにかく水は運ぶにも動かすにも想像以上に重く、少しの量の違いでも水圧が変わります。さまざまな保険でもかけておかないと怖しい状況で、会場も出演者もヒヤヒヤの連続なのではないかと。世界の舞台でこの作品を踊ると謳っていますが、他の国や他の会場では許可が降りない気がします。公演にかかる費用も本来よりかかっている気がします。チケット料金のうち500円がウクライナへの寄附ですが、8,000〜15,000円のチケット料金からすれば些少です。この公演を本当にやるべきだったのかは疑問を感じます。今月20日からはウクライナお家元の、キーウクラシックバレエがほぼ毎日10月6日まで、同じ「白鳥の湖」で全国公演を行います。こちらはどこも全席指定で4,500円均一です。比べてしまうとキーウクラシックバレエがまっとうで、バレエを習う子どもたちや愛好家にとっては、全く違うものとして映る気がします。ウクライナから避難して来た人たちが、日本の芸術文化への考え方に違和感を感じたり、カルチャーショックを受けることは絶対避けたいです。
2023.08.13
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現代音楽の作曲家・松平頼暁氏が逝去されました。学生時代には門下として対局にある氏の理工系の作風に、伝統的な西欧クラシックを学ぶうえで対極に感じていました。しかし、継続的に作品を発表する姿勢は異才を放っていました。30歳の頃に自分の語法を模索したところで批判を受け、反動的に前衛的な作品を発表したことがあり、その時に氏から、「音楽が整い過ぎていて前衛に向かないね。綺麗すぎる。」と。その時に自分自身が所謂前衛的な作曲に向かないと悟りました。松平氏の音楽は作曲するプロセスや方法論に注力を集中し、どんな音がするかは演奏してみてのお楽しみ的な感じで、思い描いている音を実現させるために構成する作り方は逆であって、美しい音を紡ぐことを学んできた自分には合っていないのだと。そんなことを考えながら自分が作るべき音楽に悩みました。昨年の9月に逝去した野田暉行氏は知人がたくさん師事した、藝大作曲科の一時代を担ったアカデミック路線の作曲家でした。直接話したことはありませんが近い存在と意識して尊敬していました。さまざまな現代作曲家の録音物や演奏会に足繁く通いましたが、共通しているのはお二人の音楽に一度も傾倒しなかったことです。どのような音楽か識ることや聴いたことは何度もありました。また当時の日本の現代音楽界の確固な位置をお持ちの二人でした。大学教員をしているような音楽理論に長けたアカデミックな作曲家は、よく「こどものためのピアノ曲集」を単独や共著で出版しました。ただ作曲する方法や作風が顕著なこども用の曲であるにも関わらず、大学で教鞭をとった作曲家の曲はあまり人気がありません。それは、以前にも書きましたがフリーマーケットでわかりました。40年前に作曲家のさまざまな作風を勉強するためと所見視奏の練習で、楽譜屋さんでめぼしい楽譜を買い漁ったことがありました。今、どのようなトレンドがあるかフリーマーケットで売ってみました。大学教員であればピアノレスナーの知り合いもたくさんいるはずで、そんな内輪の仲間も今は振り向かず使わないようですが、同じ条件で出品して数分で売れる他の曲集が結構あるにも関わらず、売れる売れないの違いはどこにあるのか考えてみました。こどものための曲ですごい名曲とかうっとりするような曲は、残念ながらあまりなく、個性だけが明確なことがよくあります。反面、アカデミックな作曲家の出版する曲集は作風が平凡で、メトードとして合理的にするために音楽がかなり論理的です。野田暉行氏のピアノ曲集も拘りが見られ作風はよくあるのものですが、音の扱いは驚くような理論を持っているのではないかと思われます。次の譜例は曲集の第1曲の冒頭ですが、嘗ての理論(和声学)では見られないような音の不協和が見られます。画像クリックで音が聴けるYouTubeにリンクします。do-mi-sol-siの和音で構成されている中で作られている旋律だと解釈でき、このような音の扱いはこれ以降の曲にも見られ敢えて書かれた音です。このスタイルでこの音(不協和)を好むかと言われれば難しいわけですが、他の部分の端正な書法とのギャップが大きく却って斬新に思えます。このシュールな音の扱いを主張できた当時は、日々新しく作られている音楽がヴィヴィッドで楽しかったわけですが、画一的で新しくない音楽が主流の今では、演奏ミスと判断され兼ねません。また、こどもでは如実に「綺麗ではない」と拒絶することもあるでしょう。今は、創作することの個性を重じているようで実際はそうではなく、単に全てが「こどもファースト」なのでしょう。そこで音楽の芸術性が保持されるのかどうかはとても気になります。いろいろな表現に対する感じ方はより柔軟であっていいと思います。この曲集は半年かかって儲けの出ない最安値でしか売れませんでした。今の時代ではこの曲集を選択できる余地はないかもしれません。予想ですが購入された人はピアノレスナーではなく作曲家のようです。現代の作曲家は何を残し語ったのか、どう引き継がれるのか懸念します。
2023.01.13
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今の時代は「…と思いきや」、サプライズ、ギャップなど、所謂ヤラセ演出が日常的になっていてそこに興を見出すようです。一般には本当の姿を見ているのではなく、印象操作された結果、別のものに皆が思い込まされていることは多く見受けられます。以前にもバンクシーについて書きましたが、日本での肩書きである「覆面アーチスト」とは何なのか?それは、覆面レスラーのように顔を隠していることです。しかし、それ以外のことはこれまでの情報で判明できそうです。2019年に新交通システム「ゆりかもめ」日の出駅近くの防潮扉に、バンクシーのステンシルによる絵が発見され話題になりました。描かれた防潮扉は都の持ち物であったために、報せを聞いた小池知事がその部分を切り取って都庁に展示しました。バンクシーは宣伝用に軽いジョークのつもりで遺したかと思われます。しかし、防潮扉が都の持ち物だと知っていたかどうかがポイントで、もし個人所有の壁に描いていれば所有主がオークションに出したり、落書きとして被害届を出していればそれはそれで大事になります。1年後の2020年に「なぜ罪に問われない?」という記事があり、2021年にも「どうして捕まらないの?」という記事が別にあります。この記事にはさまざまな作品も写真で見ることができますが、スタイルが明確と言うよりも全体に奇抜なアイディアによるパロディです。その意味でバンクシーは、芸術家と言うよりも社会活動家に近いです。そう言ってもコロナ禍の2020年3月〜9月に横浜でバンクシー展、その後に渋谷でもデジタル公開展が行われています。つまり、バンクシーは有名芸術家として柔軟に交渉されています。そう考えると防潮扉に描いたのは仕組まれていたとも考えられます。東京では街中にもカメラや人目がとても多いわけですから、正式に立ち会って道路工事のように描くほうが無難です。また、元のステンシルシートとスプレーがあれば誰でも描けるため、ステンシルのバンクシーを描く人は世界に何人もいるとも考えられます。これだけの著名人が世界に渡って捕まるリスクを冒すとは考えにくく、国や人によって芸術と落書きの見方や対処が異なることから、ビジネスかどうかは別として合意のうえで描いているように思います。そうでなければ金銭的な部分や著作権でも問題が起こりえます。作品の価値を見る尺度が元来日本にはないと思います。芸術的価値を問うなら”これは芸術作品””これは落書き”と簡単ではなく、何が優れているのかその作品を検証することが重要ですが、結局描かれた側は概ね器物損壊としての倫理観で対処するでしょう。今は”こどもが描いた”と言えば何でも許しがちな風潮があり、”こどもが描いた”というだけで脳が自ずと愛らしさを見出そうとします。大人でもこどもらしい表現はできますし、夢のある表現もできます。同様に、バンクシーの作品を美術作品として共感している人は少なく、その多くはバンクシーの知名度とコンセプトに共感しているわけで、バンクシーの名前やコンセプトを知らない人には単に落書きなのです。
2022.12.30
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作曲にしろ演奏にしろ目的が明確にあっても、それが音楽としてアカデミックに良いとは言い難いです。音楽にこうでなければならないということはなくても、良い悪いの尺度やこうあるべきという絶対性があります。しかし、それよりも「(コンクールなどに)勝つため」「自分たち(演奏者もしくは作曲者)が楽しむため」「ウケ狙い、人気を得る、聴衆を増やすため」「仕事のため」など、目的がはっきりわかるようになってきました。では、儀礼的な「君が代」や校歌などはどのように演奏するのか?この10年くらいを見ても、「君が代」が演奏される機会は減り、国家的もしくは国際的な催しの演奏をテレビで見る時くらいです。中でもオリンピックを始め、国際的なスポーツ大会が多いです。「君が代」の演奏されるテンポはこの10年でも速くなってきました。旧来の編曲ではスネアドラムが入っていましたがさすがにそれはなく、編曲もいろいろなものが聴かれ、一時期は無伴奏で芸能人が歌うなど、他国の国歌が日本人歌手によって歌われることもありました。他国で演奏される「君が代」の編曲が日本で聴かれるものと違えば、日本人が聴けば違和感を感じるはずで、外人が歌えば尚更です。世界的に機能的な和声が欠片もない「君が代」は個性的です。日本人以外が歌えばかなりの違和感が出るはずです。最近は、テンポの変化だけでなく質の低い編曲や演奏が増えています。「君が代」の音楽的な本質や意味をわからない人は多く、無理やり西洋的な和声を当てはめようとした編曲を聴いた事もあります。「君が代」は日本の特異性を個性的に顕している象徴とも言えるのです。今年のサッカーW杯の「君が代」もテンポが速すぎました。「君が代」は旋律線から強弱の変化が自然に表れるもので、従来の編曲ではフレーズの終わりに下声部の動きがあるため、ディミヌエンドしながらの声部間バランスを取ることが難しいです。テンポを速くすることで演奏はさらに難しくなると同時に雑になります。録音や大きなスタジアムで流すPA装置の問題を加味しても、W杯の「君が代」演奏はよくありませんでした。さまざまなイベントで流される国歌の意味はどこにあるのでしょうか。時に他国の国歌で感動することもあります。それは曲がよいからです。他国の自分がそう感じるのですからその国民としては誇りだと思います。日本人が「君が代」を誇りと感じるのであれば演奏にもこだわるべきです。YouTubeで聴くといろいろな「君が代」を聴くことができます。旧来からの編曲でバランスの良い演奏テンポが速めの2019年のラグビーW杯2021年の東京オリンピック閉会式東京オリンピックの閉会式は宝塚歌劇団メンバーによる歌唱でしたが、アンサンブルや声質で言えば特にいいとは言えません。世界に向けて披露するのであればプロの合唱団を演出して、ヨーロッパのクラシック音楽文化に通用する質にしてほしかったです。「君が代」はテンポが他の国歌に比べて遅いわけですが、諸外国はそもそも国家の演奏時間などは気にしていないと思いますし、日本人が誇りとして世界に発する演奏をしてもらいたいと思います。同じことを考えている日本人はたくさんいる筈ですから。
2022.12.10
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学生の頃、作曲をするための理論、また現代音楽について勉強、そして、それらを振り返って30-40年経った今の状況を考えた時、確かなものを学んだ自負、大きく変わった時代の価値観、さらに同じルーツのことを学んだはずが人によって全然異なる表現、それらは混沌としていますが考えを整理してみようと思います。そう思った手がかりは、学生時代に作風の勉強のために購入した、市販されている日本人作曲家の「こどものためのピアノ曲集」で、今、家の整理をするためにフリーマーケットで売っていますが、すぐに売れてしまうものと全く売れないものに分かれることです。このことが作品としての価値に直結するものではありませんが、元大学教授やアカデミックな知見を重視する作曲家の曲集、また、さまざまな作曲家が入っている曲集が売れません。大学教員の場合、多くの学生に認知されているはずですが、ピアノレスナーになった卒業生にも支持されていないようです。こどものための曲集ですから、曲が親しみにくいと言うわけではなく、現代音楽を専門とする作曲家でもほぼ調性的な作品です。逆に即日売れた曲集は何冊もあり、圧倒的な支持者が買うようです。偉い作曲家を尊敬するよりも、作品の愛着や魅力が勝ると感じられます。また、響きに対して幅広く論理的に解釈した場合でも、元大学教授の作品にはこどもが弾けば音を外したと思われるような、誤解を招く音のぶつかりが見られ、避けられるだろう要因があります。理論を敷衍した大胆な発想かもしれませんが受け入れ難いです。ただ30年以上前に出版された楽譜は即日売れた作曲家の曲集でも、明らかに論理的におかしな動きや稚拙な表現が見られるものもあり、曲のクオリティに関して選ぶ側の見識も問われます。結局、作曲家の知名度、支持者の数が人気に関わっているようです。日本音楽コンクール・作曲部門の演奏審査がなくなって久しいですが、楽譜の審査だけで聴くことなしに順位が決まることは「?」となります。審査員が楽譜を読むことにどれだけ長けていたとしても、自分の見聞きしたことのない譜例がある場合に把握できるでしょうか。その意味から、普通はどんな音がするのか一度音を聴いてみたいと考えます。実際に演奏にかかると演奏不可能の箇所があったり、困難であったりと、譜面を見ただけでそれをわかるには相当入念に時間をかける必要があります。裏を返せば演奏によって印象が変われば、評価への影響もありえます。現代の作曲はこのように楽譜が全ての世界だと言えますが、料理で言えば味わうことなしにレシピで順位を決めるようなものです。どんなに精緻で考えつくされたレシピでも食せずに美味しいと言えるのか?美味しいかどうかは関しないのが今の現代音楽だと言えます。そう考えると、楽譜を見て聴いていない一般聴衆は曲の良さがわかるのか?そんな繰り返しを何十年も続けている気がしているのですが、楽譜や奏法の進化はあっても、聴いた印象はデジャヴや退化を感じます。書いている作曲者もそれをあまり意識していない気がします。狭い中のアカデミーで相互理解を図っている感じが拭えず、より広い尺度がなければ他者の理解は得られないのではないかと思われます。それを解消する手立てが調性の復権、引用などですが、ただ昔のものをリサイクルするだけであれば未来はないと思います。
2022.09.24
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NHK・Eテレの日曜夜のクラシック音楽館。いつものコンサートの収録でこれほど感動することはありません。昨日は「NHKバレエの饗宴2022」と題されたバレエ公演でした。異なるバレエ団から選り抜きのダンサーがハイライトを踊ります。この日にまず良かったのは番組構成・プログラムです。ダンサーのインタビューを少し織り交ぜ、全体の構成が素晴らしいです。特に感動したのは後半に登場した、菅井円加さんです。そして、興味深く観れたのは中盤のスターダンサーズ・バレエ団です。スターダンサーズ・バレエ団はいろいろな種類のレパートリーを持ち、今回のジョージ・バランシン振付「ウエスタン・シンフォニー」も、バレエの技術で踊る集団のダンスで、様式としては新しいバレエです。細かい振付や踊り手が素早く移動していく様は爽快ですが難しそうです。高い技術はすぐに見て取れますが、とにかく楽しい仕立てになっています。残念なことは音楽はテンポが一定で単調、重点が置かれていないかと。その意味では、この後プロコフィエフやチャイコフスキーが出てきますが、バレエ音楽としての気品と拡張の高さを自然と感じてしまいます。バレエに感動するのは伝統に根ざした素晴らしさがあるからです。今、作曲をしたいという人は優れた独創的な作品を作りたいのではなく、料理で言えば大半が「ファストフードを調理したい」という印象です。例えとしてファストフード業の方に失礼かもしれませんがそうなのです。調理師学校に入る意味はあるのか?音楽大学に入る意味はあるのか?「ファストフードならバイトで調理できるんじゃないか?」それを”調理師”と言うなら、作曲でも肩書きに”作曲家”が入ります。美味しいしとても売れているのだから世の中的には充分です。レシピにあまり凝るものではなく、要領を識れば誰でも作れるもの、大方の予想を裏切らず欲した人の期待は裏切らないもの。作曲家としてのハードルはひと昔前よりも格段に下がりました。だからこそ、伝統に根ざし時代と共に進化したものは希少で光ります。
2022.09.19
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音楽史において、音楽であるか単なる構造物か問われる転換期があります。音楽にも構造はありますが、それが音楽を離れて構造のみが残る状態、もちろん材料は音ですから何かが生まれますが従来の音楽ではありません。完全な構造物になった瞬間に演奏するうえで楽譜のみが手掛かりとなります。パリにいた頃に楽譜にエモーショナルな要素は不要だと教わりました。セリーなどの数学的なセオリーを使うと音楽的要素は薄まり構造物と化します。演奏者における想像力はもはや不要で書いてある音をいかにエモーショナルに奏するか、それが現代の音楽だと1995年頃に言われましたが、今はどうでしょうか。1曲の中で調性的な瞬間や古い様式感が一瞬もない曲はかなり減りました。調性的な瞬間が入っただけでエモーショナルと言えます。そうなったのは時代が変わり、生き残りがかかったからだと言えます。アイデアと構造のみで勝負していた現代音楽が袋小路に入ったからです。新しさを競っていた音楽芸術が新しさを見失ってしまったこと、個別の理論で作曲家が作曲家を評価し、周りがその良さを認識できなくなったこと、現代音楽が本来の音楽性を失いクラシック音楽と異なるものに発展したこと、芸術と感じられる要素が減り、人気の高い曲がよいとされやすくなったことが要因です。これは音楽より時代の先を行っていた美術全般に関しても同様のことが言えると思います。今は写実的な技術や艶やかな色彩感で人目を惹く絵画が目を惹きますが新しいとは言えません。過去の技術が幅広く伝播し若くして才能が開花することは良いことである一方、歴史的な技術の進化や幅広い芸術を識ることによる真の個性や深みは少ないと言えます。今の状態は芸術の普遍性よりも人目を惹き人気(数字)の取れるものが注目されます。フォロワー数、売り上げ、視聴率などの数は大衆性に直結していると言えます。その中にあっても、今もっとも芸術的アピールのある分野が漫才ではないかと思います。漫才は二人のテンポや間の取り方が言葉の意味と相俟って音楽に近いと感じられます。M-1上位の漫才はかなり以前からスタイルが明確でその比較による勝負が熾烈でした。そして、スタイルの秀逸さでは2019年のミルクボーイ、ぺこぱがとても高いです。台本にもよりますが完成されたかたちが見てとれました。さらに、2020年のマヂカルラブリーとおいでやすこがは漫才のスタイルを超えています。これは、審査員の上沼恵美子氏の言うところの漫才の領域を破った芸術性と言えます。それまでの漫才も芸術性の高さはあったと感じられますが、マヂカルラブリーが「これが漫才か?」と揶揄されることこそが革新的で、例えば美術界で画家のL.フォンタナがキャンバスを切り裂いた絵画を作ったこと、それがまさに「これが絵画か?」と言われ、音楽会では I.ストラヴィンスキー「春の祭典」、S.プロコフィエフの初期の管弦楽、そしてA.ジョリヴェ のピアノ協奏曲などが「これが音楽か?」とブーイングされたごとく、従来の枠を超える表現が今の漫才にはあり、まさに芸術的活況を迎えています。次にはさらに新しい表現が期待されていること、それが芸術だと感じます。
2021.04.13
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若い頃は著名な作曲の作品がどのようにできているのか、なぜいいと言われているのか、そんなことばかりを考えて自分のものとして吸収しようとしていました。しかし、今考えることは一世を風靡した音楽の背景とその後のこと、さらには音楽における日本の現状で何ができるのかということに変わりました。音楽史や作曲家の伝記などいろいろと読んでいましたが、その多くが他の人の研究や伝えられている話をまとめたものですが、あくまで他の人とは異なる逸話が切り取られたことで、音楽に限らず史実を辿れば成功者として描かれ美化されていることが多いと思われます。音楽において芸術的な発想が明確に意識され始めたのは古典派時代と考えています。その後、ベートーヴェン時代に確立された調性音楽の手法がどんどん変えられ、遂に完全な無調音楽である12音技法が世に知れ渡るまでにおよそ100年を要し、音楽はさらに前衛的で不確定や偶然性、環境音、噪音を交えて今日までまた100年です。これが美術界を追随して今日までの発展は納得できるものでした。しかしここ40年くらいは多様化?と言われて混沌としてきています。歴史を見直し経過を考えるとある行き止まりに到達し何もかもが溢れ出しているのではないか、さらなる道を開かなければクラシック音楽の歴史は終わるかポップスになるのではないか、歴史の見られ方と今の世の中を符合させ自己分析の下に分岐点について考えてみました。ベートーヴェン(1770−1827)までの古典派時代に調性による機能和声が確立され、著名なところではメンデルスゾーン(1809−47)がロマン派への橋渡し的な位置にあり、和声の規範が拡張され、旋法や民族性との融合に至る後期ロマン派までが、クラシック音楽としてもっともよく聴かれている時代様式かと思われます。さてここから、従来の和声の機能性をなくし、それまでのルールに徹底的に抗ったのが、ドビュッシー(1862-1918)とラヴェル(1875-1937)を代表する印象主義です。ドビュッシーの音楽はフレーズの構造や強弱の概念がそれまでとは異なり、ラヴェルは古典的な音楽を踏襲した新古典主義的な作風の作品が多いです。当時はロマン派の名だたる作曲家のさまざまな作曲スタイルが知られていたとは思われますが、ドビュッシーを初めて聴いた聴衆は異文化をとおり越して異星人の音楽に感じたでしょうし、ラヴェルの音楽は一見古典的な装いをしていたことで、それまでとの違和感がなおさら大きく、部分的に音が間違っているのではないかとさまざまな反響があったと想像できます。こののちの音楽は不協和音の扱いにスタイルの特徴を成しさらに無調に近づきます。ストラヴィンスキー(1882−1971)やバルトーク(1881−1945)は、特定の調性にない音を共存させたり、シェーンベルク(1874-1951)は、1オクターヴの12の音に順番をつけそれを繰り返して作曲する12音技法を編み出します。シェーンベルクはアルバン・ベルク(1885-1935)やウェーベルン(1883-1945)と共に、新ウイーン楽派として最初期の12音技法の使い手として知られますが、ウェーベルンがより構造的な12音技法を操り現代音楽への影響をもっとも残しましたが、ベルクは12音を調性的に聴こえる配列にしたりすることによって叙情性を醸しました。理論上で完全な無調音楽を目指し、その後の前衛に引き継がれた12音技法ですが、ベルクは独特な世界観を持つ晩年の傑作ヴァイオリン協奏曲(1935)を始め、無調を進める身辺とは逆行したことから独自のスタイルを獲得したと言えます。しかし、考え方から言えばベルクが完全な無調を推奨しなかったとも言えます。ちょうど100年前に事実上の現代音楽の始まりとなった12音技法による無調に対して、調性的な手法をとったフランス6人組や新古典主義、ジャズ的な要素など反対勢力もいて、今の世の中の多様性よりももっと熾烈な活動であったと思われます。斯くしてこの時も多様な音楽が林立していたと考えられます。ジョリヴェ(1905-74)やメシアン(1908-92)は無調とはまた別のモードを用いた、独特の世界観を追求した作曲家で混迷した1930年以降の重要な作曲家だと思います。この二人は近い関係でありながら作曲家としてのタイプがまったく異なり、メシアンは少なからずジョリヴェの影響を受けたと考えられ興味深いものがあります。論理的で後進に対して大きな影響を残したメシアンは音楽史上重要な位置にありますが、ジョリヴェの音楽は異国趣味を土俗的、本能的に表すことによって演奏される機会が多く、嘗ては少なかった日本の音大学生レパートリーとしてよく知られた存在になりました。とは言え、ジョリヴェに関する文献は少なく理論的な意味があまり知られていません。その後1960年頃から前衛音楽と言われる分野が発達しましたが、ジョン・ケージ(1912-92)を見ても作品を演奏したり鑑賞することよりも、何をした人か、どんな考えを持っているかが重要な観点になりました。同時に調性的な部分を残す近代音楽や、無調や前衛とは無縁の作品も作られていましたが、少なくとも日本では海外のそのような音楽はあまり取りざたされていませんでした。1980年代は盛んに海外の新しい音楽が紹介され続け現代音楽を特集する企画がありました。それは今でもかたちを変え続いていますが、少しずつ縮小されてきてもいるとも思えます。今日では1960年以降の作品が演奏家自らの意志で演奏されることがかなり少なく、自治体や企業が主催する企画や作曲主催によるコンサートで演奏されることが殆どです。その現代音楽シーンを20-30代当初は欠かさず聴きに行っていましたが、まずは自分の周りの演奏家の現代音楽に対する見方、海外と日本との温度差など、新しく紹介されている海外の音楽がさほど歓迎されているわけでもなくなり、さほど好きになれない海外の音楽をあてどもなく追うことに飽きてしまいました。日本人は自分の職として他者との立場を守るためや周りとの協調を重んじるあまり、自ら判断せず海外の事象や肩書きを重んじ、話題になった日本人を良しとすることが多く、内容について検証したり嗜好が入らないために、周りには説得力が欠けているのです。音楽を含めて日本人が好む日本のものを海外に発信することは限られていると言えます。アニメなど一部の文化は日本から海外に発信しているわけですが、クラシック音楽や現代音楽は海外での実績を基に日本での評価がなされています。しかし、それが日本人の嗜好する音楽ではないということがこの30年に思うことです。現代音楽として演奏される曲は武満徹のようなひと昔前のもので今のものではありません。YouTubeに音楽動画を誰もがアップできる時代において、音楽のアカデミズムや正当性、優れた音楽を世界の最先端として紹介されても、YouTubeの再生回数が世界レヴェルで多くなければ信用されないのではないでしょうか。知的好奇心や知り合いでコンサートに行く人がいても愛聴する人は少ないことを表しています。この要因は作曲者側に海外で認められるためのプライドが音楽に出てしまうためで、現代音楽としてのジャンルを外れても愛されるポストモダンを目指すことが必要です。それは無調を貫くか調性音楽を書くか混ぜるかというようなことよりもより決断を強いられ、それでも今までを捨てる勢いでポストモダンを目指すことであると考えています。
2021.02.23
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11月にヴァレリー・ゲルギエフ指揮のウイーンフィルが来日しました。ウイーンフィルの熱狂的なファンや久しくなかった贅沢が再び戻ってきました。今の状況下でこの公演をすることは多大な尽力とリスクがあったことでしょう。主催がサントリーホール、協賛がダイワハウスで、制作する側としては偉業レヴェルです。ウイーンフィル、ベルリンフィル、アメリカのオーケストラが素晴らしいなど、若い頃にさまざまな批評を読み、生で聴いてみたいと憧れたこともよくありました。また、同じ曲の異なる演奏の聴き比べるためレコードや CDを聴きあさりました。そして、いつしか世界のオーケストラ・ランキングのような意識が根付きました。日本人はヨーロッパから伝来したクラシック音楽をずっと学ぶ立場でここまできました。今も指揮者、ソリスト、楽団など音楽時事の中心である来日するプレーヤーは、名前が知られていなくてもステイタスが高く外国人というだけで見方が変わります。今の世の中は批判的なレビューが極めて少なく美化されるためにこの価値観は変わりません。これまで演奏家としては演奏する場を手にすること、主催者側は聴衆人気を求めてきました。「いい音楽を提供すればいつか報われる時がくる」こう言われて学生の時から研鑽を積んでもそれだけでは仕事になりません。質が求められているのではなく外国由来とブランド力が求められています。外国由来とは海外の演奏家や海外における実績は日本より上だということ、海外のコンクールなどで認められることが日本のそれより上だという認識です。ブランド力とは人気のある組織に所属していることで、音楽の質と言うよりもこれらの人そのものが今のトレンドということになります。今年は外来演奏家の来日がほぼキャンセルとなりコンサートすら実現しにくい状態、しかし在京オーケストラは来シーズンも外国人指揮者の招聘が中心です。こんな状況だから元に戻したいという意識が働くことは意義深いことですが、逆に今こそ新しい日本人が独自の音楽を発信していく好機だと思います。日本は音楽に限らず無条件に欧米のものを良しとする風潮があります。欧米を規範とし紹介することを好み、人々は異なる文化を新鮮に感じるのです。日本のメディアも海外と比較して日本のものをあえて推奨しない傾向があります。日本が素晴らしいと自負されているものは、日本独自の文化、ものづくり産業、最近ではアニメもその仲間入りをしている気がします。音楽においてはこの20〜30年間のトレンドは大きく変わっていません日本の音楽家の中には人知れずとても優秀な人がとてもたくさんいます。しかし、盛んに取り沙汰される音楽家は旧来から活動している重鎮か、海外での功績を判断基準として、演奏内容の検証や批判されることはなくなりました。世の中の風潮として、過大に美化することはあってもネガティヴな発信をしないことで、批評家のポジションが形骸化してしまい、宣伝の一環としての発信に同化しています。絶対的な価値観を検証しなくなったことが音楽文化全体の衰退に結びつくと思われます。それでも、口には出さないとしても審査や評価は歴然とあるわけで社会の表裏を感じさせます。もっともクラシック音楽文化を継承しているオーケストラの世界でも、名演の例として目にするのは今だにカラヤンやバーンスタインだったりしますが、これまでに曲ごとの名演がなかったわけではなく取り沙汰されなくなってきたと思われます。いかに多くの聴衆を集め、多くのステージを順当に消化することに集中してきたのです。1970年くらいまでの現代音楽には深く日本のアイデンティティを感じさせ、海外の現代音楽にはない和の良さを共有できるものが多かったと思います。しかし、そのような方向性が楽壇にはあまり好まれず欧米で認められたものに向きました。ヨーロッパとの関係は密接ですが、音楽で西欧に日本的な感性が認められたことは少なく、西欧ナイズされた音楽でコンクールに通るなどして活動の幅を広げた現代音楽が、音楽を志す若者の興味の対象にはなっても聴衆層から支持を得ているとは思えません。それでも、海外から指揮者を招聘して日本の曲を演奏する場合は、海外で認められた邦人作曲家の作品が挙げられますが日本の聴衆には好まれていません。日本の指揮者が日本の現代作品を選曲する場合は逆に日本のアイデンティティを持つ、嘗ての日本の名曲、伊福部昭、武満徹、矢代秋雄、三善晃などなどです。ここからわかることは最近は日本的な価値観で発信されている音楽がないことです。新たな音楽が紹介されて聴衆が集まったとしてもポップス的にシフトされている曲や、調性的な部分が増えている曲でなければ再演、再聴の余地はありません。この行き詰まりは以前からのもので、新たな方向性が欠けていると思われます。新型コロナウイルスで海外からの招聘が難しくリスクが高い現在、宝がたくさん埋まっている日本の人材やクラシック音楽の真髄を取り戻すべく、新たな発信が今こそ必要なのだと思います。クラシック音楽の初心者や若者への啓蒙活動よりも深さを取り戻すべきです。ちょうど100年前、クラシック音楽界は無調と調性音楽に分かれる節目でした。以降、12音技法による無調音楽が発展し更なる前衛音楽がつくり出されましたが、フランス6人組を始めとして調性を有する音楽も反主流としてつくり続けられました。音楽史を勉強するなかで調性を有する音楽の多くは当初知られていませんでした。しかし、2000年に入り知られていなかった調性を有した1930年以降の音楽が、留学生の増加やインターネットにより海を越えて盛んに採り上げられるようになりました。演奏する人の増加によりレパートリーが多く必要になったこともこの要因ですが、いかなる用途であっても無調の現代音楽が演奏されることは滅多にありません。経験上、ほとんどの演奏家は音楽を分析したり意味を紐解くことを好きではなく、理論を考えて演奏するのは古典やロマン派くらいでまでだと思われます。大学院で研究することを除けば普段は分析までは行わない人がほとんどです。一般的に理論から音楽に入ることはなく、理論に勝る共感がまず先決になります。以前にも書きましたが、純然な無調音楽を自ら演奏する人はごく稀で、学術上紹介されることはありますが、聴く対象は専門的な音楽教育を受けた人です。現代の日本では海外に支持されることよりも、まず日本人に支持されるポストモダンを独自に発信すべきで、それは既存の現代音楽風ではなく今までの調性音楽にただ戻すことでもありません。
2020.12.07
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演奏会実習ゼミを担当した2004年から2018年までコンサートの他に、毎年録音を行い自主制作のCDをコンサートで売っていました。自分が若かった頃には全て合わせれば何百万円もかかっていた録音が、今や大学内で会場も機材も録音技師も揃い、録音の著名な先生がマスタリング(編集)作業をして下さっていたのです。初めは、コンサートではなくレコーディングの貴重な体験をできれば素晴らしい、楽譜に忠実に演奏することの重要性、コンサートの緊張ではない緊張感、残すからには完成度の高さはもとより、その意義や役割など、まだまだ考えや経験の少ない学生相手に気軽に行うことの危険性もありましたが、CDのジャケットまでつくり全てを考えることに意義はあったと思います。その先駆け的なことをクラシック音楽で行なったわけですが、今でこそ誰でもが行うようになり、このコロナ禍においてはリモート演奏と言う、現代的なテクノロジーではあってもお手軽な音楽が増え、あたかもそれが新しい音楽のあり方であるかのような風潮が心配です。クラシックでは、よく知られていて生演奏はされる曲であっても、お手本となるような演奏は有料サービスでなければ聴けないことも多く、YouTubeなどでも楽譜どおりではない、録音が悪いものが散見されます。ゼミの演奏はもともと動画用ではありませんので映像はありませんが、音源としてのクオリティが高く、なぜ録音したかと言うコンセプトも明確です。最近アップしたものに、9年前のダリウス・ミヨー作曲「ルネ王の暖炉」があります。木管五重奏のスタンダードですが、かなり素晴らしい演奏と考えています。当時はゼミ生のベストメンバーでこの編成が組め、この曲を含めてさまざまな会場でこの編成を目玉にコンサートをしていました。楽譜に書かれているコンセプトが見事に再現されていることや、楽器感の音色のバランスや入替などがとてもよく美しいことが特徴です。フルート 千田淑生 オーボエ 久下あずさ クラリネット 安本夏海 ホルン 舟橋有紀 ファゴット 荒木千尋それぞれが卓越した技術を持っていることもありますが、ホルン、ファゴットの的確な発音とバランスが全体的な効果を上げています。もう1曲は、これぞクラリネットというフランス近代の作品、クロード・パスカル作曲「3つの伝説」より第1曲です。クラリネットの多彩な機能性、音色を感じさせる曲ですが、ピアノパートも雄弁で二つの楽器のつくる音楽性が聴きどころです。ちょっとしたリタルダンドや曲調の変化がウイットに富み、フランス音楽のエスプリやお洒落なムードが感じ取れる演奏になりました。この曲の「伝説」の内容が文献を調べても見つからないため、動画に使う画像はシュルレアリスティックなもので構成もシュールにしました。画像と音楽の関連性がなく同時的に別の物語を想像させる試みです。録音から10年が経ちましたが、今も録音物が少なく、この曲のお手本となる演奏になったと思います。クラリネット 安本夏海ピアノ 初鹿早菜クラシック音楽の特徴を音楽の授業程度のことで説明したり、一部分を誇張して知らない人や子供にウケを狙うテレビ番組がある一方、本当のクラシックファンが見ておもしろい番組はFMラジオなのかもしれません。音楽的内容が本当によくわかるようにリードしてくれる番組が望まれるところです。藤井聡太棋聖のニュースが多いこの頃ですが、彼の偉業はわかっても将棋の中味はよくわからず、勝負飯の親しみやすさで人気が出ていく様子は、クラシック音楽の今の状況とよく似ているのではないでしょうか。
2020.08.06
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自分の習慣として、今聞こえてくる音楽や流れている音楽が、どういう部類のものであるかということを軽く分析することがあります。これは、小中高生の時にクラシック音楽を聴き漁り、当時FMラジオから流れてくる海外のライヴコンサートを聴いたり、レコード芸術誌の特選盤、準特選盤、選外は何が違うのかと考えたり、知らない曲を聴いてはこの曲の何がいいのかと考えたりしていました。自分の好きな作曲家や曲、演奏は皆がいいと言うのか、なぜいいと言われないのかなどを他人事ながらよく考えていました。(笑)知らない言葉や曲が出てきたら興味が起き、フランスの「エスプリ」とはこの感覚か!とか、FM誌で事前に聴きたい番組内容を調べて、知らない曲は必ずエアチェック(ラジオからカセットテープに録音)しました。例えばチャイコフスキーに未完だった交響曲第7番を誰かが完成させた録音があると聞けば、高校の帰りにあるレコード屋さんに取り寄せの注文をしたりしました。珍しいレコードばかり発注するので廃盤が多く、レコード屋さんの店の人も手を焼いていたと思います。(笑)なので、高校の音楽の授業、特に鑑賞が退屈だったのはよく憶えています。(笑)大学受験のために上京した際の楽しみは神田の輸入盤専門店に行くことでした。当時、クラシックオタクの話では歳と共に聴きたいものや好きなものが変わり、最初は派手なロマン派から近現代の管弦楽曲、交響曲、そして次に協奏曲、独奏曲、最終的には中高年になって室内楽にハマると。もちろん作曲の勉強のために当時から室内楽も聴いていたのですが、何気に聴きたい曲はそのとおりかと思います。そんなかたちで20代を過ごし、テレビや街中の音楽も聞けば勝手に分析していました。テレビなどのメディアから聞こえてくる音楽としては、90年代後半から2000年代前半までクオリティが高かったように思います。その後はクオリティは徐々に関係なくなりアマチュア的な音楽が増えました。これは聴く人口よりも演奏したい人口のほうが急速に増え、アマチュアとして演奏したい曲や人気のある演奏家が良いとされるようになりました。また、編成が元来のポップスのものではなく吹奏楽やオーケストラにまで及んできたため、聴く側の好みよりも、演奏する側の考えのほうが優先されるようになってきました。作曲もその例に洩れず、いい曲というより作りたい曲、ひいては作れる曲が優先されるようになってきました。音大におけるアカデミズムはプロの演奏者選びに有効なだけかもしれません。結果として現在、作曲作品は和声学や対位法という手法があっても、それをポップス由来の音楽構成としてつくることに用いられることが目に付きます。つまり、オーケストラであってもクラシック由来の表現ではないのです。表現が限定されていて、クラシックとは別のルールということになりますが、個人的には音楽の多様さに欠け芸術性に乏しいと感じています。クラシックを基調とする音大で音楽理論を学んでも、作ったり演奏したい音楽はクラシック由来のものではない人も多い状況です。機能和声を基に現代のマーチなどに連続5度の禁則の指摘をする人などもいて、クラシックの理論を学んではいてもクラシックの時代様式や曲はあまり知らず、ルールの意味をよく理解していない人がたくさんいることも確かです。一方で現代音楽を好み勉強している若者もいますが、その作曲をする場合は中途半端な過程ではなく自身のスタイルを打ち出した時に、コンクールや公に出したほうがいいと感じます。しかし、先生のほうが弟子を出したがるのは演奏も同じかもしれません。その理由は、14年間の演奏会実習ゼミで学生にやりたい曲を選ばせ、月1回以上の演奏会で採り上げた経験からの結果です。優秀な学生が中心で時にはクラシックに限らずざっと1600曲以上採り上げましたが、シェーンベルクや後の12音技法の作品は一度も挙げらなかったことです。それは院の試験やオーディション、作曲専攻の発表会として演奏したりすることはあっても、通常のお客相手の演奏会では一度もありません。因みにジョン・ケージやそれ以降の現代曲は何度も採り上げています。もっと優秀な学生や大学であれば採り上げるかもしれませんが、この事実は如何に12音技法が好まれていないかということです。好んでいなくても課題曲になったりそこに生業が発生すれば人は演奏します。しかし、今の時代は「人の演奏を批判するのはあり得ない」とSNSで豪語するアマチュアも多く、評論家がプロに対しても批判的なレビューが書けない時代かもしれません。音楽が精査されないことによって、クラシック本来の芸術性を失われていくのが不安です。自分自身は作曲を志した時に、何よりクラシックが好きで、その伝統上の音楽が書きたかった思いがあります。クラシック音楽の伝統が培われることなく、単に西洋古典音楽というジャンルになってしまわないかと心配しています。
2020.01.31
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AIがさまざまな仕事に台頭し多くの人が失業するだろうと言われる中、人類は本当にAIに託せることをすべて託すのでしょうか。人はそれぞれに得意とすることが異なり個性も異なるわけです。単純作業が得意な人、計算が得意な人はそれを活かして個性を発揮してきたわけです。人の尊い才能をAIが肩代わりした時、その才能を持つ人の育んだ努力はどうなるのでしょう。この半世紀で世の中の発展は著しかったわけですが価値観も大きく変わりました。以前は価値が高かったことの価値がなくなり、善悪ですら反転しました。例えば、原子力が生まれた時に発電に役立つと共に兵器にもなりました。兵器としては規制ができましたが、発電にも規制が加わろうとしています。しかし、原子力と共に電力が生活に何よりも重要なインフラとして発展しました。何が起ころうと今すぐに原子力をなくすことはもうできないのです。さらに、問題として地球温暖化が加わり、二酸化炭素を排出してはいけない、日本の発電は火力ではなく現状原子力しかないのです。5G、6Gの世界は医療を始めざまざまな局面で世の中に進化をもたらすでしょう。しかし、AIは本当に人類を良い方向に導くのでしょうか。人が働かなくなる、働けなくなる世の中が良いとは思えません。コミュニケーションが問題化される現代で、さらに人同士の触れ合いがなくなります。また、AIがどのようにプログラミングされるのか、間違いは起こさないのか、世の中の機智や芸術性が削ぎ落とされるのではないかと危惧を感じます。おそらくAIに不具合が出たとしても、すぐにAIなしには成り立たない社会になるのです。自らの発展で自らの新たな問題を起こしている人類に学習能力はないのでしょうか。でも、世界の国々を見渡してみると意外なことに気がつきます。発展と権力を争っている国のことが目立つのは確かですがそれだけではありません。例えば、昔のままの生活を営みながらもスマホが普及している民族もあります。つまり、便利なものは採り入れるが生活は昔のままのあり方を守っていたりするのです。発展させることに夢中になり、人々の本来の生活や営みに浸透しないまま広がっていくこと、それは一部の人たちの企てや思惑によって広がっていくことかもしれません。しかし、その発展や可能性を美徳と感じて賞賛する人があまりにも多いのです。このことはクラシック音楽の発展も同じことが言えるかもしれません。音楽の中で芸術が培われ、アカデミックな理論として確立されていったことまでは、美学として認識でき実際の音として、効果として確認できます。ただ音楽史の上で、途中で現れた12音技法やミュージック・セリエルは数学的な音楽で、AIのもっとも得意とする音楽、AIがとって変われる音楽ではないでしょうか。シェーンベルクや最近ではイサン・ユンの作品においては、ひとつの作品の中で1%程度のイレギュラーなセリーの用法が見られますが、そのイレギュラーな箇所がなぜ起こりえたのか、聴いても確認することは不可能で、その意味を解明することはタイムマシーンでも作られない限り解明されず、今の音楽事情や音大の内情から考えてそれが研究されることはまずありえません。それほどに、世の中の音楽シーンは12音技法と離れてきているとも言えます。では、調性音楽に目を向けた場合はどうか?これもAIにとって変わられる可能性が高いと考えられます。子供や若者が音楽を嗜むことが増え、それに合わせた音楽が多いからです。曲にはイメージを想わせる体裁の良いタイトルが付いていますが、音楽的な内容や構造はどの曲もあまり大差のない大衆向け音楽が増産されているようです。没個性による音楽のパターン化はひとつの様式やジャンルを形成しつつある勢いですが、それがクラシック音楽の芸術性や尊さと比較しうるほどのものではないと考えます。画一化された音楽や表現の中では、人の創造力を真に育むことにはならず、AIでも作曲できるものになってしまいます。
2020.01.24
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表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。インターネットで「芸術」を調べるとこんな説明が載っています。「芸術」は言葉にはできなくても多くの人と共感できているもの、そう思っていたのですが、人によってかなり異なるという結論です。自分なりにより易しい言葉で説明すると次のようになります。「芸術」とは、高度に鍛錬したものと高度に鍛錬したものが精神性と共に合わさった時、それが1+1=2ではなく1+1=100くらいの、通常では考えられない想定以上の別のものに到達する現象、それは奇跡やイリュージョンのようなことで、そこに立ち会った聴衆や観衆に必ず驚きを与える。ちょっとした瞬間から、そのものの細部全てが芸術性に満ちたものまでさまざまある。例えば、音階をゆっくり奏すれば楽器のウォーミングアップを思い起こさせますが、とても速く奏すればそれはグリッサンドという効果を持つ素材になります。前半のテンポは♩=48、それを後半は♩=1000にしています。今では当たり前のことですが、グリッサンドが現れた時は驚かれたに違いありません。初演であまりに驚かれてブーイングされたエピソードのある曲は多いですが、今では普通に聴かれていても名曲が登場する時には常に驚きがあったと思います。これから後のことは文献に書いてあることではなく長年音楽に関わり感じたことです。いつの時代も人気の高いチャイコフスキーはごく普通に聴かれていますが、あの弦楽セレナードも驚きのチャイコフスキー和声が感じられるのです。まず、この曲はハ長調でありながらⅥの短三和音から始まりますが、これも意表を突いたチャイコフスキーの特徴とは言えます。しかし、チャイコフスキーの抒情性やロマンを表したのはその次の和音です。最初のⅥから3番目のⅣの和音の極々シンプルな古典的な進行の間に、それをソプラノとバスが経過音で繋いだ偶成和音は長7和音です。通常であればsi音に♭が付きへ長調の属7和音になるはずが、2番目の和音でsiとdoが長7度でぶつかる、当時として聴かれることが稀な長7和音が美しいと感じられた瞬間です。ドビュッシーやラヴェルもそれまでの和声法の真反対を行った意味で極めて斬新、不協和音程による付加音、解決しない第7音、第9音、また連続5度、8度の連続使用など、それまでの音楽史の流れとは一線を画していました。その後1900年に入り、ストラヴィンスキー、バルトーク、プロコフィエフなどが、その斬新さゆえ驚きやブーイングがあったわけで、それはジョリヴェなど1960年くらいまでは続いたと思われます。しかし、同時に12音技法を発展させた作風の作曲家がいたわけですが、その作品は驚きやブーイングを超えてしまった、つまりそれまでの聴衆が聴いて着いていけるものではなくなったと言えます。数学的、構造的な音楽、またコンセプト(イデー)と楽譜(ノーテーション)の一致が、極めて論理的ではありますが、1+1=2にしてしまいそれまでの音楽史の流れと隔絶してしまう、それだけの音楽になることは避けなければならないと思うのです。
2019.09.11
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