カテゴリ未分類 0
全18件 (18件中 1-18件目)
1
世界のスポーツがはやると、各国の国歌を聴く機会が増えます。中には子供の頃から知っている、米国やフランスの国歌もあれば、最近初めて聴くものあります。民族性やお国柄を表していると思え、その国の人の気性を想像したりします。そんな中でも韓国国歌が好きです。1948年に制定された新しさもあって、伝統と格式を感じさせながら親しみやすく、クラシック曲の一部分として出てきそうな、美しい旋律や和声は端正です。日本の国歌「君が代」は明治時代の曲。世界でも稀有な独特の文化を有することが、この曲を聴いただけでよくわかります。旋法が特徴的、テンポが遅く、4分音符で動く厳かさが突出していて、他の国にはなくミステリアスです。他にもびっくりするような国歌はありますが、共通しているのは比較的力強いことです。短調はルーマニア、ブルガリア、トルコなど、テンポが遅いのはハンガリーなどです。韓国国歌が参照しているのは、ドイツ国歌ではないかと思われます。米国、フランスに並ぶ名曲だと思います。中国やインドも特徴的で印象に残ります。日本に外国人がたくさん来る要因は、エキゾチックでミステリアスな文化です。謎めいていることが魅力なのだと思います。中には理解に苦しむこともある筈です。ところが日本人は日常を普通だと考えます。元来寡黙で静的、島国で固有の文化が育ち、非言語コミュニケーションの人種でしたが、今の都会では多くの音がたくさん聞かれます。沈黙に堪えられないか景気付けのために、趣味の音楽をお店やVTRで流しています。西欧的には明確な演出目的でなければ、公共の場や空間で音楽を流しません。(今はわかりませんが嘗てはそうでした)最近気になるのは駅の発車ベルです。どんな田舎の駅でも発車ベルはあります。既成曲を使うのは別にいいと思いますが、問題は編曲、音色など音楽の完成度です。もし自分が作ったメロディが使われても、流され方にはとても拘りたいです。夕方5時に流す自治体の音楽放送も、緊急時のための点検の意味があるとは言え、好きではない人にとっては我慢しかなく、日本の昔からの慣習が今だに残ります。スポーツ観戦に行かない理由に、応援の鳴り物や一体感についていけず、静かに観たいので応援方法に拘ります。普通は一体感で熱狂するのだと理解します。西欧人にとって日本の音楽の流し方は、特異に感じるのではないかと想像します。音を流す発想や嗜好についても意外です。日本の特異な文化や喧騒を知った人は、日本古来の静寂文化を求めると思います。文化には皆がやっているからやる、その国の群集心理が働いています。感性や嗜好は人それぞれ異なるわけで、外国と日本の文化の違いについては、常に再考されるべき課題だと思います。
2024.06.10
コメント(0)
よく行く大型スーパーの入口の前が、いきなりチーズ売場になりました。これまでは惣菜売場だったのが変わりました。結構嬉しいですが何故でしょうか?今のところその理由はわかりませんが、売場の人に聞いたところ、「一時的かもしれない」そうです。チーズは材料費、輸送費、円安などの理由で、この数年で値上がりした印象が強いです。中でも牛乳のノーマルな味わいのブリーは、フランス直輸入品が今も主流だと思います。そこに日本産の「ブリ・ド・トカチ」が、より高級品として並べられています。ブリ・ド・トカチはフランス産や他より、内容量が120gと少ないうえ1,130円程です。牛乳が上質なのだろうとの説明でしたが、この物価高で「誰が買うねん?」です。外国人や輸出目的があると想像します。海外で認められるものが良いもの?そう考えるのは一理ありますが、日本人も意志をはっきり表明すべきです。買う権利は誰にもあるので声をあげます。この物価高で日本人のチーズ好きには、そんなに敷居を高くされるのは困ります。これはワインにも言えることです。ボルドー産と同じ品種でワインを造ることは、日本のみならず世界で行われていますが、フランス産の良さは全てが個性的なことです。音楽とも共通していますが、素材を活かし端正に造るだけではつまらなく、まさに唯一無二の味を出してほしいです。南北アメリカや日本に欠けていることです。井上誠耕園のオリーブオイルコンフィと称する、「八朔チーズ」を食べてみました。ネーミングからはどんな味がするのかわからず、コンフィをコンフィチュール(ジャム)と、考えれば想像もつきやすくなります。商品説明からはワインの肴や、焼いたバゲットに塗って食べる想定です。八朔は蜜柑の仲間ですから甘めで、チーズはデンマーク産のクリームチーズ、それらをオリーヴオイルに漬けたもので、これだけでも発想としては新しいです。既存にないのでどんな味かわからない、日本発祥の新しいスプレッドと言えます。では、これはジャムなのか?と言うと、食べた結果はオリーヴオイルでした。チーズや八朔は脇役でオイルの香りが勝り、原材料に記されていたレモン果汁も弱く、精製されたオリーヴオイルが主役です。オリーヴオイル会社製ですから然りです。洗練された味わいであるのは確かですが、八朔やチーズの効果が上品過ぎて、他の物でも代用できそうです。オイル以外の主張が弱いので、酸味のある食物やドレッシングを足すと、さらに味わいが増していいと思います。バゲットに塗ってみましたが、パスタソースとしても試してみました。加熱するとチーズの存在感が出ます。またレモン風味の食材を足すことで、より美味しくなると思いました。ただ100g950円と高価なので、ソースなら元からつくったほうが効率的、お試し程度で一瓶がすぐ無くなりました。外国人にはウケないだろうと思いました。
2024.06.04
コメント(0)
JR南彦根から普通電車に乗りさらに西へ。7駅目の野洲駅で新快速始発に乗り換えます。南彦根ではお客が殆ど載っておらず、4人掛けのボックス席の奥に座れました。荷物が多いのですが、在来線では膝の上に乗せて座ります。ちょうど自分の身体と座席の幅なので、隣の人に迷惑をかけることはありません。途中から大学生らしき若者が乗車し、ボックス席は隣も向いも埋まりました。やがて野洲駅に到着するので立ちましたが、通路側の学生はびくとも反応しません。「降ります」とか言う時もありますが、基本的に若者が好きではないので、気を利かせない、忖度のない若者には、何も言わず足の上を跨いで通ります。「降ります」と言ったとしても、若者の場合は①さっと反応してよける、②だるそうによける、③反応しない、このいずれであっても後味が悪いです。教員時代から学生の反応については、概ね察しがつくようになりました。一応こういう時の対処について、チャットGPT先生に聞いて見ました。チャットGPTは前より優しくなりましたが、優等生の友人のようで嫌いなタイプです笑。1.社会的なマナーの変化個人主義による他人への配慮の不足マナーや礼儀についての教育が、家庭において以前より強調されなくなった2.混雑やスマートフォンの利用で気つかないそのほかにマナー向上のための提案や、配慮を促す方法、若者への共感と理解など、役に立たない提案が書いてありました。チャットGPTに代わって答を書きます。若者は忙しいことに充実感を見出し、優先順位の高いこと以外は切り捨てます。人との関わりにおいては状況でON /OFFをし、OFFの場合は相手への配慮はありません。しかし、相手に威厳がある、ルックスがよい、身体に障害がある、高齢、怖いなどの場合、スイッチが入り行動に移すことがあります。スイッチ発動の根拠は単なるルッキズムで、今の世の中全般に見られる差別です。普通電車内ではスイッチがOFFであっても、新幹線では他のお客への見方が変わり、若者でもある程度紳士的になります。これは目的意識がはっきりしているお客が、ある程度紳士的なので群集心理が働くのです。実際は普通電車に載っているお客も、新幹線に乗っているお客も基本的に同じです。勝手に印象や幻想を持っているだけです。よい能力を発動するスイッチを持つのなら、常にONにしておくべきだと思います。小池都知事の嘘公約にもありましたが、満員電車はできればなくすべきです。欧米人は他者と関わるスイッチが、ある程度常にONであると言えます。知らない人と身体が触れ合ったり自分が降りるために他者を押すことは、モラルとして持ち合わせていません。京都で外国人がたくさん乗ってきました。外国人が隣に座るのを避ける人を見ました。スイッチONの日本人は実に親切でも、OFFの日本人に出会えば外国人も幻滅です。ただでさえ言葉をかけにくく発しない、何を考えているのかわからない、そんな日本人ではなく、機会があればスイッチをONにすべきです。
2024.05.27
コメント(0)
磐田を出て西に向かいます。名古屋に着いてからの在来線。大垣までは快速があり快適です。JR東海管内は2人掛け座席が主流です。名古屋で婦人から尋ねられました。「この電車は岐阜に行きますか?」「行きますよ!」地元の人になりすまし笑!名古屋近辺はやはり都会ですから、こんなオジサンの隣にも女性が座ります。喜んでいるのではなく安心します。如実に避ける素振りのオバサンも多く、内心”こちらも助かります”と思います笑。東海道線の中でも最も過疎で不安な区間、それが大垣ー米原間の別路線です。沿線は住宅も少なく人は見かけません。車両が古く状態が美しくありません。ところが今回の車掌さんは女性で、車内アナウンスがすごく丁寧で優しい。なのに、駅を出て加速が始まると、何を話しているかまったく聞き取れません。JR東海管内は昔ながらのクセのある話し方や、異常に声の小さい車掌さんがいますが、この場合は車外からの雑音で消されています。米原の乗換えで車掌さんと偶然会えたので、加速する時は声が消されることを伝えました。音楽人なのでここは譲れないところです笑。米原駅では外国人ツアーがいました。次の駅の彦根で城見学・宿泊のようです。前世紀のパリの日本人ツアーとそっくりで、皆さんとてももの静かでした。なぜか米原駅のみドアの開閉が手動です。寒くも暑過ぎることもない今の時期で、なぜこの駅のみが手動なのかわかりません。当然外国人も理由はわからないでしょう。さて、3月に続いて彦根に立ち寄ります。どうしても小腹が空いたので、駅前のアル・プラザに飛び込み、イートインコーナーで急いで食べました笑。一番好きなスーパーマーケットはどこ?と聞かれれば、アル・プラザと答えます。このお店は(株)平和堂が運営していて、滋賀県を中心に、大阪、京都、愛知、石川、岐阜、福井、兵庫、富山で、165店舗あり関東他にはありません。すごく気に入っています!品揃えや居心地がよくリーズナブル、お店の人も今までとても優しいです。自由に食べられるスペースもよいです。ただ彦根の高校生はあまりよくなく、カップ麺の残り汁を普通の洗面台に流し、手を洗ったと思えばスカートで拭き、今ならではの醜態を披露します。あまり言いたくはありませんが!笑アル・プラザのお気に入りの一品は…食間の小腹を埋める海老カツバーガー!他にいろいろある◯◯バーガーの中でも、売れ行き抜群で少ししか残っていません。
2024.05.25
コメント(0)
最近のテレビで外国人が日本に憧れ、とても喜んでいるように見えますが、多くの外国人は取材拒否をしていて、答えない人は不満もあると思います。清潔さや時間どおりさ、設備の先進性、これらについては正しい見方ですが、観光地であるにも関わらずゴミ箱がない、言葉やコミュニケーションが伝わらない、何よりも意思表現や民度、親切心は、人によって大きく異なります。一部私鉄で新しい改札が加わりました。クレジットカードによるタッチ入札です。この方法で入るには少し勇気がいります。機械の反応が0.5秒ほど遅い気がします。写真奥のような改札でなければ通れず、横浜や渋谷などの大きな駅では、10くらいある改札の1つだけです。通れる改札を常に探す必要があります。通勤や時間が切迫している時は難しく、鉄道会社側がまだ試用期間だと思えます。普通の改札を通る時に鳴る音とは異なり、その音がちょっと快感かもしれません笑。東海道本線の在来線は新幹線と共に、さまざまな区間でよく乗りました。いろいろな電車が走っています。写真は静岡県内を走る普通電車です。パッと見た感じは普通車両には見えず、特急かなと思えるほどよい座席です。残念なことは、最初に乗った時、皆が進行方向ではなく後ろ向きに座り、しばらくはそのまま進んだことです。東海道線はいくつかの区間に分かれ、区間によっては運転手さんが、終点で座席の向きを手動で変えます。しかし、折り返し運転の場合は、乗ったお客が向きを変えなければ、逆向きのまま出発します。そこにお客がそのまま座り出すと、向きを変えることはできなくなります。諦めてしばし後ろ向きでしたが、主要駅で前後のお客がいなくなった隙に、座席を前向きに入れ替えました。その結果この写真のように、反対側の座席とは逆向きになりました。もし地元の人が乗っているのであれば、最初に乗った際に座席の向きを、率先して変えたほうがいいです。それが民度というもので、海外では乗客が進んで相互協力します。座席を進行方向に変えられるのに、平気で後ろ向きに乗っている日本人に、外国人は不思議に感じる気がします。幸いなことに在来線で富士山に行く、外国人観光客はいないようです。ただJR東海管内かJR西日本管内かで、人の気質の違いか状況は変わります。
2024.05.22
コメント(0)
春をも凌ぐ気温上昇と言いますが、気温が上がるのはお昼の数時間、皆が暖かいとは感じていない筈です。暑いか寒いかの感じ方は人によります。20℃まで上がったとしても、真夏の20℃と真冬の20℃では、感じ方も違い、今自分は寒いです。海外から来た人はどこから来たか?それによって感じ方は変わります。人によっては半袖の人もいます。日本人だってたまにいますよね。それを明日は◯℃だからどうこうと、細かく言うのはお節介だと思います。皆が同じように感じるとする、前提がおかしいのです。日本に来る外国人が何に興味を持つか?インタビューを受けた人がそうなだけで、国によって人によって異なる筈です。外国人は日本人と違う視点を持つという、思い込みから取材を進めています。テレビの中の人はなんだかんだ言っても、個人主義を認めず全体の印象にします。雪が降れば車が立ち往生し転ぶ人がいる、もちろん探せばいますがごく一部です。トランプ前大統領が再選されることを、”もしトラ”と揶揄するのもメディアで、米国は他国の自由主義を支えるべきと、理想を押し付けて見ているのです。弱者や一般人からすれば生活のために、トランプ大統領の再選を望むところを、理解しようとしない日本人がいて、貧弱な日本の現状も理解しません。大谷翔平は凄い米国で活躍ということで、これだけいつも報道されるわけですが、日本人はそれだけコンプレックスがあり、日本で活躍しただけでは認めません。自分の推しがいるのであれば、惜しみなく推せばいいわけで、強者の顔色を窺ってばかりいては、いつまで経っても自立できません。
2024.02.11
コメント(0)
コンビニのファミリマートには、日常的にお世話になっています。そのファミリーマートが、プラスチック製のスプーン、フォーク、ストロー有料化を、今月29日から実施すると報じました。売物にすれば購入する人が減り、プラスチック削減に繋がると考えられ、”買うくらいなら自分で用意しよう”と感じるかもしれません。また、無料で毎回もらえると、食べ終わるとすぐに捨ててしまいます。それを洗って再利用する習慣ができ、捨てられなくなるかもしれません。1994年頃フランスに留学していた時、出来合いのパスタやサラダを買っても、フォークを無料でもらえることはなく、プラスチック製のフォークは、30本をまとまったものしか売っておらず、それを買うのは抵抗があったので、フォークやスプーンが必要な食べ物は、家で食べる時しか買いませんでした。その時に日本のコンビニはなんて親切で、便利だったのだろうと感じました。逆に食べ歩くための紙ナプキンは、パン、ピザ、ケーキなどを買えば、必ずついてきます。フランスの食べ物はかじるものが多く、口元が汚れた時に拭くために必要です。日本でも洋食屋さんにはありましたが、2000年まではほとんどの飲食店で、テーブルにはまだ置かれていませんでした。因みにウエットティッシュは、布製のおしぼりの代わりに使われ、手を拭くためで用途が分かれています。機内食で葡萄などが出て手が汚れる時に、ついていたことを想い出します。いずれにしてもそれぞれの考え方で、食べるには必要なものですから、なければ不便に感じるのは否めません。パスタやサラダを買ったら、もれなく無料で箸やフォークを渡すという、マニュアルは日本のコンビニが発祥で、お客が希望するかどうかに関わらず、サービスとして渡されたために、家には溜まることもありました笑。ただフランスでは無料でも希望を聞くか、自ら”要らない”と言う人も多いと思います。ですから希望者のみに無料で渡す方法で、じゅうぶん成り立つと思います。日本人特有の弱点は、「任意ですよ」と言われると消極的で、ルールや指示に従うことを好みます。また有料か無料かに拘るのも日本的で、サービスチップに慣れている西欧人は、必要か不必要かが問題であって、有料であっても気にしないと思います。結局、有料にすることが、プラスチック削減に貢献すると言いますが、それは考え方によってはおこがましく、”必要な人には無料で渡す”方法で、プラスチック削減の協力を呼びかけるのが、やはりよかったのではないかと思います。昨今は外国人店員さんも増えていて、いろいろな考え方や意見があるでしょうし、無料であることの弊害もあると思います。ただSDGsの積極性を引き出すためには、日本のサービスを犠牲にするのではなく、日本人の考え方が問われていると思います。
2024.01.19
コメント(0)
日本人は論理的な気質ではなく、融通を利かせることに美徳を見出し、「ご贔屓(ひいき)に」という言葉どおり、人によって付き合い方を変えてきました。今では良い意味で使われることが少ない、贔屓は昔ではあたりまえだったかも知れず、身分や職業で接し方は大きく変わりました。日本ではまさに真逆の方向になりました。例えば日本語は論理性のなさを表しています。外来語を多く取り入れているにも関わらず、的確な日本語に訳すことは常に難しく、原因は意味や用法が多い日本語にあります。類語が多いのに人によって曖昧に使い、語彙の幅が人によって異なっています。「R」と「L」は全く異なる言葉と発音でも、日本語では同じカタカナになってしまいます。「B」と「V」は発音を変える人はおらず、カタカナは変わるはずが極めて曖昧です。以前にも書きました。正しいカタカナ遣いは、シルバー → シルヴァーバイオリン → ヴァイオリンフェスティバル → フェスティヴァルボーカル → ヴォーカルなどですが、ベートーヴェン、ラヴェル、ヴィ・ド・フランス、ヴィンテージなど、正しく馴染まれている言葉も多いです。また、日本人は複数形を意識しない人と、意識する人が完全に分かれています。また所有を表す「's」は発音が必要ですが、意味に関係なく省略が好きなようです。ファミリーレストランの「ジョナサン」は、Jonathan'sと書いてジョナサンズではなく、コーヒーショップの「タリーズ」は、Tully's coffeeと書いてタリーではありません。いちばん呆れているのは来日外国人でしょう。日本語を話せても書くのは難しい所以です。ルールがあっても一貫した理論がなく、結局慣習やその場の同調性で変わるのです。これはルール、規則についても同じで、一般的な事柄について大筋は守られますが、土地柄や関係性で所謂「鶴の一声」で、特例措置が大好きな国民性だと思います。政治パーティ裏金問題が話題になっています。一般的に宴会を開いてお金が余れば、多く出資した人に返すのが普通ですが、政治家はそれが許されないし額が大きいです。政治資金収支報告書に記載しないのなぜか?ということが問題なのですが、キックバックがあった政治家は大物が多く、たくさん人を呼べる人望もあります。一般に親分や大物にお世話になっていれば、下っ端から「やめましょう」とは言えず、昔からズルズルと慣習として続くのは、ありそうな話と思えます。規則はとても長文で読むのが苦痛で面倒、スマホのアプリで規約への同意が必要で、すぐに使いたい時に全部読むのは無理です。紙ではないので同意したら二度と出てこず、事細かに憶えている人はいるでしょうか?ルールが役に立つのは競技やゲームで、他のシチュエーションでは憶えていません。何か違反した時の証明にされるためで、規則は利用者にとって楽しくないのです。まずはルールが状況に合っているのか?例えそのルールに反してもまず事情を聴き、悪質とか鬼の首をとったように批判せずに、穏やかに追求していいのではないか?と思いに耽ります。日本人は論理的な気質ではなく、融通を利かせることに美徳を見出し、「ご贔屓(ひいき)に」という言葉どおり、人によって付き合い方を変えてきました。今では良い意味で使われることが少ない、贔屓は昔ではあたりまえだったかも知れず、身分や職業で接し方は大きく変わりました。日本ではまさに真逆の方向になりました。例えば日本語は論理性のなさを表しています。外来語を多く取り入れているにも関わらず、的確な日本語に訳すことは常に難しく、原因は意味や用法が多い日本語にあります。類語が多いのに人によって曖昧に使い、語彙の幅が人によって異なっています。「R」と「L」は全く異なる言葉と発音でも、日本語では同じカタカナになってしまいます。「B」と「V」は発音を変える人はおらず、カタカナは変わるはずが極めて曖昧です。以前にも書きました。正しいカタカナ遣いは、シルバー → シルヴァーバイオリン → ヴァイオリンフェスティバル → フェスティヴァルボーカル → ヴォーカルなどですが、ベートーヴェン、ラヴェル、ヴィ・ド・フランス、ヴィンテージなど、正しく馴染まれている言葉も多いです。また、日本人は複数形を意識しない人と、意識する人が完全に分かれています。ファミリーレストランの「ジョナサン」は、Jonathan'sと書いてジョナサンズではなく、コーヒーショップの「タリーズ」は、Tully's coffeeと書いてタリーではありません。いちばん呆れているのは来日外国人でしょう。日本語を話せても書くのは難しい所以です。ルールがあっても一貫した理論がなく、結局慣習やその場の同調性で変わるのです。これはルール、規則についても同じで、一般的な事柄について大筋は守られますが、土地柄や関係性で所謂「鶴の一声」で、特例措置が大好きな国民性だと思います。政治パーティ裏金問題が話題になっています。一般的に宴会を開いてお金が余れば、多く出資した人に返すのが普通ですが、政治家はそれが許されないし額が大きいです。政治資金収支報告書に記載しないのなぜか?ということが問題なのですが、キックバックがあった政治家は大物が多く、たくさん人を呼べる人望もあります。一般に親分や大物にお世話になっていれば、下っ端から「やめましょう」とは言えず、昔からズルズルと慣習として続くのは、ありそうな話と思えます。規則はとても長文で読むのが苦痛で面倒、スマホのアプリで規約への同意が必要で、すぐに使いたい時に全部読むのは無理です。紙ではないので同意したら二度と出てこず、事細かに憶えている人はいるでしょうか?ルールが役に立つのは競技やゲームで、他のシチュエーションでは憶えていません。何か違反した時の証明にされるためで、規則は利用者にとって楽しくないのです。まずはルールが状況に合っているのか?例えそのルールに反してもまず事情を聴き、悪質とか鬼の首をとったように批判せずに、穏やかに追求していいのではないか?と思いに耽ります。日本人は論理的な気質ではなく、融通を利かせることに美徳を見出し、「ご贔屓(ひいき)に」という言葉どおり、人によって付き合い方を変えてきました。今では良い意味で使われることが少ない、贔屓は昔ではあたりまえだったかも知れず、身分や職業で接し方は大きく変わりました。日本ではまさに真逆の方向になりました。例えば日本語は論理性のなさを表しています。外来語を多く取り入れているにも関わらず、的確な日本語に訳すことは常に難しく、原因は意味や用法が多い日本語にあります。類語が多いのに人によって曖昧に使い、語彙の幅が人によって異なっています。「R」と「L」は全く異なる言葉と発音でも、日本語では同じカタカナになってしまいます。「B」と「V」は発音を変える人はおらず、カタカナは変わるはずが極めて曖昧です。以前にも書きました。正しいカタカナ遣いは、シルバー → シルヴァーバイオリン → ヴァイオリンフェスティバル → フェスティヴァルボーカル → ヴォーカルなどですが、ベートーヴェン、ラヴェル、ヴィ・ド・フランス、ヴィンテージなど、正しく馴染まれている言葉も多いです。また、日本人は複数形を意識しない人と、意識する人が完全に分かれています。ファミリーレストランの「ジョナサン」は、Jonathan'sと書いてジョナサンズではなく、コーヒーショップの「タリーズ」は、Tully's coffeeと書いてタリーではありません。いちばん呆れているのは来日外国人でしょう。日本語を話せても書くのは難しい所以です。ルールがあっても一貫した理論がなく、結局慣習やその場の同調性で変わるのです。これはルール、規則についても同じで、一般的な事柄について大筋は守られますが、土地柄や関係性で所謂「鶴の一声」で、特例措置が大好きな国民性だと思います。政治パーティ裏金問題が話題になっています。一般的に宴会を開いてお金が余れば、多く出資した人に返すのが普通ですが、政治家はそれが許されないし額が大きいです。政治資金収支報告書に記載しないのなぜか?ということが問題なのですが、キックバックがあった政治家は大物が多く、たくさん人を呼べる人望もあります。一般に親分や大物にお世話になっていれば、下っ端から「やめましょう」とは言えず、昔からズルズルと慣習として続くのは、ありそうな話と思えます。規則はとても長文で読むのが苦痛で面倒、スマホのアプリで規約への同意が必要で、すぐに使いたい時に全部読むのは無理です。紙ではないので同意したら二度と出てこず、事細かに憶えている人はいるでしょうか?ルールが役に立つのは競技やゲームで、他のシチュエーションでは憶えていません。何か違反した時の証明にされるためで、規則は利用者にとってそもそも形式的です。まずはルールが状況に合っているのか?例えそのルールに反してもまず事情を聴き、悪質とか鬼の首をとったように批判せずに、穏やかに追求していいのではないか?と思いに耽ります。
2023.12.08
コメント(0)
日本人って関連ができた人には優しいけれども、関連ができていない人にはやけに冷たいです。しかも、感情的で同情を誘うような要因で、自己をいい人だと演出するさまは気持ち悪いです。例えば満員電車でぎゅうぎゅうに押されることは、日本人にとっては普通で押されたら誰かを押します。そうしなければ成り立たないので暗黙の了解です。しかし、それに慣れない人だっているのです。欧米人は押されたからと言って他を押す理屈はなく、それが合理的であっても本意ではないと感じます。日本人でも仮に知っている人を押していたとすれば、極端に遠慮や気遣いをするのではないでしょうか。テニスの加藤未唯選手が失格処分を受けたことで、処分が行き過ぎなのではないかとの批判が多いです。真相は危険行為などではなく、ボールパーソンに球を送ったら当たってしまったと。日本的な感覚では事情がよく分かりますが、ボールパーソンへの意志伝達が欠けていたことが問題で、そんなことは暗黙の了解ということは通じません。世界ではコミュニケーションが全てなのです。日本は難民を受け入れられるほどいい国なのでしょうか。難民の事情は過酷であってできれば受け入れるべきです。しかし、難民でなくとも移民をたくさん受け入れれば、自国民の失業者が増えるのは世界が周知していることです。日本が世界におけるポジションなど難民受入では全然なく、お互いの幸せのことを考えるなら日本に来なくていいです。まして、本当に難民かどうかを見極めることは必須で、難民よりも日本で生活困窮している人をまず救うべきです。岸田首相が衆院解散についての会見で笑みを浮かべた件、笑みを浮かべたからどうのこうの推測する稚拙な風潮、それを取り上げ批判する野党の党首には呆れ果てます。日本はどんどん幼稚になっている気がしています。「差別」という言葉が独り歩きしている気がしています。「差別」が行為を対象とするのであれば抑制できますが、観念については人それぞれの自由なのでなくなりません。観念までをも制限しようとするのは無理があります。LGBTQの人達の権利を認めることはできます。しかし、それをはっきりすることはリスクでもあります。だから揉めることがあるのは当然で慎重になるでしょう。言動では認められても感じ方は自由だからです。
2023.06.14
コメント(0)
今の人が昔より個性的と見るのは間違いだと思います。再三書いている同調圧力に支配されなければ生きづらく、真に個性的な言動はやはり打たれるように感じます。結局、仕掛けられた流行に乗ることしか方策がありません。人々は異なる考えや感性を持っています。どんなに流行ったとしても皆が同じ趣味は持ちません。嘗てない野球選手やサッカー選手、棋士が現れて、人々の関心が高いとしても世の中はよくなりません。全く関心のない人はむしろ反感を抱くようになります。ニュースは客観的に世相を知るために見るのであって、一部の人の趣味の追求を見たいわけではありません。また、同じ事件の話題を推定で検証するのも同様です。師は1950-60年代にパリに留学していましたが、日々新鮮な体験に満ちた日常を連載をしていました。興味深いのは今にはないだろう個性的な文章表現です。時を経ても文化は大きく変わらないこともわかります。冒頭部「そのうち君の伏せておく事を書かして貰いますぜ。」同時期にパリに留学していた三善晃氏からの年賀状の一節。三善晃氏と言えば、桐朋学園の学長時代に、学生にも丁寧な敬語を話していたイメージなので驚きです。しかも師の下宿から2、3分の所に住んでいたことから考えても、しょっちゅう飲んでいた親しい友人ということになります。また、親しい友人には性別関係なく行う挨拶である「ビズ」を、「悪友のギーが自分の頬にキスをしてくる」と面白いです。師は日本でも不愛想で母親にも優しい言葉一つ言わなかったため、「今更ギーのほっぺたなどナメたりできない」と。また、曲をジョリヴェに見せるためにピアノを弾いていた時に、苦情を言ってきた隣人の一言「音楽を弾いてくれませんか?」笑えます。友人のボブが酒の飲み過ぎで車が大破する事故を起こしたが、カスリ傷一つ負わなかったこと。そしてノルマンディへのひとり人旅。バスの停留所を中心に7、8軒の店と農家が点在する寒村で、一軒しかない安ホテルに唯一人の客として夏休みを過ごす。かなりドキドキワクワクするジブリ映画のような設定ですが、心細さを感じさせつつも小説のような語り口がそそります。鰯を焼く匂いに惹かれた店で鰯とご飯をナイフとフォークで食べ、農家の方と軍人さんに誘われて安いラム酒で和に入る話。海岸に行った時の表現が最高です。「なんだか泣きたいような、何かよいことがこれからあるような、ゾクっとおしっこのしたいような淋しさに襲われて、はなはだだらしなのない状態である。」非日常感が心地よい中に人生の機微を感じさせる話は面白いです。留学時に起きたいろいろな出来事や経験は自分にもたくさんあり、日本で無難に生きるよりも遥かに生きている実感が強いです。自由な意志をもって人生の機微を備えた生き方をしたいです。
2023.04.03
コメント(0)
今日の正午頃は自由が丘にいましたが、殆どの人がマスクをしていました。30℃は超えていたと思いますので、汗が滴り落ちる状況でした。自分の場合は身体の都合上1日の歩数を稼がなければなりません(笑)から、マスクをしていたら2-3枚必要なのでしないで歩くことにしました。厚労省が屋外でマスクを外すことを推奨し始めたのは6月末のことです。自国が規制することに反発する外国人はたくさん知っていますが、国が規制を弛めているのに自粛を続ける国民性は理解されるでしょうか?それは日本人が物事の本質ではなく建前で行動するからだと思われます。日本人が海外でマスクをしないことを批判すること以上に、海外から見れば日本人の行動は以前から不可思議なことが多いはずです。日本のメディアは考え方が正しいかのように言いますが決してそうではなく、愛国心が強すぎて他国の文化をわかろうとしない人が多いのです。「世界で最もマスクをしなかった国」オランダ、逆に日本人はなぜマスクをするのか?マスクをして街中を歩いていて、うっかり外して会話でもすれば、相手から感染したり、自分が感染させたりすると思うでしょうか?そんなリスクをまだ感じている人はコロナ脳に洗脳されていると思います。皆が待ち望んでいるのは、マスクを外せる同調圧力を待っているのです。同調圧力と印象操作を絶えず受け続け、日本人は麻痺しているのです。信念や本質で行動するよりも、同調圧力に屈するほうが楽で無難ですから。ビジネスで言えば、品質の良いものを一から作り出すよりも、良い悪いに拘らずすでに売れているものを真似たり乗っかるのと似ています。日本へのウクライナからの避難民は1,600人を超えているそうです。日本の立場から人道的な配慮として受け入れるべきとの声が大きいですが、日本に来てよかったと幸せを感じられるかどうかは人によります。言葉、食物、習慣、文化、気候だけでも慣れるには時間がかかります。キエフの気温は年間-7℃〜26℃で、日本の湿度と酷暑はまず滅入るでしょうし、それでも屋外でマスクをする日本人に合わせるのはたいへんでしょう。ただ本質より建前の強いこういう時の日本は他の行事同様に手厚いのです。ウクライナ避難民の65%は状況が落ち着くまで日本滞在を希望しています。ネットでは「日本人の仕事探しもままならないのに避難民まで手が回るのか?」という発信が見られます。また、日本に来ても「言葉と仕事探しの壁が厚い」と、29歳の避難民の男性は語り「支援はとても手厚い、あとは自分の問題」と。ただ選択肢は、日本に留まるかウクライナに帰るしかないのだろうと想像できます。大戦に負けた日本は、戦争があってはならないとこの時期しきりと言われますが、それはウクライナ侵攻を見て戦争体験あるなしに関わらず皆わかってきています。なぜ起こるのか、どのような集団心理、同調圧力、印象操作が働いたのか、本来は勃発する前にそれを止める会話が必要なのだと思います。あまり聞かれなくなりましたが、1908-1993に政府が進めたブラジル移住、1959-1984に在日朝鮮人とその家族を対象に9万3千人が日本から北朝鮮に渡航、当時は北朝鮮は無償治療、無償教育の「地上の楽園」だと宣伝しましたが、極貧と差別に苦しめられる日々が待っていた史実があります。何事も後になって検証されるわけですが、ポイントとなるのは、集団心理、同調圧力、印象操作による意識の支配を受けないことが肝心で、常に自由・平等・博愛(フランス革命の標語)を訴え守ることなんだと思います。ただ、ちょっとした思い込みでもこれらはすぐに侵されてしまいます。
2022.08.16
コメント(0)
学生の頃、「Noと言えない日本人」「縦社会の日本文化」など、日本人の特性を表す本を社会学の授業で読むように課されました。これからは日本人も変わるだろうと期待していたところが、何年経っても社会全体は結局変わっていない気がします。しかし、子供たちや若者たちはNoと言え、大人に寄り添うことも少ないです。Noとは言わずにスルー(選別)したりうまく意思表示しようとしますが、傾向として小さい頃から自分の好みのものを選んでいくことが信条です。0から何かを生み出すことは苦手で教わっていないことには指示待ちです。その意味で自由を制限されることは極めて苦手だと思います。コロナ禍でも日本ではデモや暴動が起きたりすることはありませんが、協力的でまじめそうな国民性に見えても皆思ったほど言うことを聞かず、多くの人は指示を仰ぎながらも様子を見て無難な方向性を窺っています。自由を制限するには論理的でわかりやすい理由が必要です。古市憲寿氏は、世の中に一石を投じられる唯一まともなコメンテーターです。この度もコロナについてメディアが煽ったことについて言及しました。マスコミとして政府の有識者会議に参加しているのは然りです。メディア側としてはなぜ彼が呼ばれたのかと言いたいようです。メディアの著名人、林修氏はコロナ関連の話題を進んで話していないと思われ、池上彰氏は当初率直な物言いをしていましたが、すぐにテレビ側になり、GACKT氏はコロナを茶番として発信し続けたところ活動休止しました。最近「マスクはいつ外せるようになるのか?」と聞くようになりました。マスクを着けなければ非難を受けるまでになった習慣をやめるには、マスクをつけた効用、着けなかったらどうなるのかを明確に理解することで、理由を実感できている人が極めて少ない現状は決断できないでしょう。マスクはコロナに限らず感染症のためには着けたほうがいいのは確かです。どんな小さな風邪であっても罹らないほうがいいに決まっています。しかし、それを言い始めたら日本では永久にマスク着用になってしまいます。こう言う時こそ、海外ではなぜマスクをしなくなったのかを学ぶべきです。マスクをすると表情が見えずコミュニケーションに支障が出ることが理由です。日本の世代間におけるコミュニケーションは今や殆ど形骸化してしまいました。コミュニケーションすることを簡略化し、面倒と考える人が増えた気さえします。欧米ではマスクをしないことが生きるうえでそれほど重要なことなのです。映画やドラマでマスクをしていないのは表情がわからなくなるからと思われます。しかし、検査やワクチンを受けているから着けなくてもいいという法はない筈です。会議やお祭りですらマスクをしていますが、職業や目的が理由にもならない筈です。本当に感染力が強くて罹ると怖いと言うならばマスク云々ではなく自粛すべきです。コミュニケーションできないのではなく、する意志がないのは問題です。皆がマスクをして生きる社会は明るい未来にならない気がします。休憩時間やお昼休みにひとりでいてひとりで昼食をとる学生をよく見ましたが、黙食を推奨してSNSの交流で、好みで他人を察したりスルーしたりする習慣で、リアルに話すとアポからギクシャクして、この先大丈夫なのかと心配になります。
2022.05.16
コメント(0)
クレームに対応する日本語がそもそもないと言うことで、日本では昔から苦情とクレームが一緒になっているとのことです。クレームや苦情をSNSで発信し、それをメディアが取り上げ、話が一方的となり苦情を受けたほうが謝る例が絶えません。吉野家が採用説明会に予約した大学生に対して、外国籍と勝手に判断し拒否したことから、学生がSNSに書き込み吉野家に非難が殺到したとのことです。またかと言う気がしますが、一連のこの流れは解せない部分もあります。まず、この場合は明らかに誤解を受けているわけですから、すぐに「自分は日本国籍である」ことを吉野家に言えたはずです。ましてや自分を採用して欲しいほどの会社であればなおさらです。企業担当者に直接言わずに、報復のようにSNSに晒すのは当世風に思えます。次に、企業の採用条件で記されていることは一般的には参考であって、実際にどんな人材を募集しているかはタイミングや事情で異なるはずです。これはいかなる企業であってもあるわけで人権とは関係ありません。採用条件について採用される側がクレームを唱えることに無理があります。コンビニや吉野家などは庶民的なイメージが原因で叩かれやすいです。店舗で働くアルバイト店員ではなく社員の募集ですから狭き門の筈です。因みに吉野家は全国で1,200店舗ありますが従業員は333人ということです。1980年に一度倒産していて、今のようになったのは凄いなぁと思います。27年ほど前にパリに住んでいた時のことです。当時、空港にはdéclamation(申告)というクレーム窓口がありました。空港でスーツケースを受け取り家に着いて壊れていることに気がつきました。補償を受けたかったのですが、空港に行くには遠いと感じ少し迷っていました。迷った理由は、当時はクレームを言うことに慣れていなかったからです。フランス語で苦情を言うだけなら泣き寝入りも考えられますが、フランスでは何につけても相手がわかるように説明できるかどうかが鍵でした。この時も事情を話せたら修理代を航空会社が出してくれることは知っていました。そこで電話をしたところ、「修理はさせてもらう」とは快く言われたものの、「なぜもっと早く知らせなかったのか怪しい」とも言われました。ごもっともです。ただ言い換えれば「誰が壊したか分からなくなるからクレームは早く言え」となり、この時は言い分を信じてもらえた喜びと同時に教訓もいただいたと言えます。その後、パリ市内の鞄修理の店を紹介され持って行き、無事に無償で直りました。今は日本にも大きな企業にはカスタマーセンターがあり、その会社との取引において不利益なことが生じたら申し出る窓口です。会社の対応についてお客側に立って話を聴く会社の専用窓口ですから、そこを飛び越えて苦情のためにSNSを使うのはやはり余程のことです。社会的制裁を与えるためや誹謗中傷としてSNSを使うと傷つく人が出ます。今回の件は吉野家に直接交渉して説明会に参加させてもらうことが得策で、ここまで話題になると、仮に外国人が入社できたとしても禍根を残しかねません。権利を主張するのは大事ですが、相手を尊重する見方や謙虚さも大切です。
2022.05.09
コメント(0)
期待されて入社したものの、想像と違ったり問題に直面して、新卒社員が3年くらいで退職してしまうことが取り沙汰されています。音楽では大学に入ってきた時点でも似たようなことが起こることがあり、高校時代の部活で味わった栄華が忘れられず自己を見失うようです。高校生が華やかに取り沙汰され、特に部活に力を入れる時代です。部活目当てかさらにその先の大学進学を見据えて中学高校を選ぶわけですから、目ぼしい学校は綿密なカリキュラムを組み生徒の日々の予定が決められます。そんなレールの上を指示どおりに進めば華やかな高校生活を送れる筈なのです。そして、生徒の個性や発想を育むよりも指導者の自己実現が実践され、生徒はその指導者に憧れを持つものの卒業して一人になった時に何ができるか、大学で専門科目や授業科目になった場合は個の競争となり評価が加わります。各々が異なりレールは敷かれず、好きだからという理由だけでは続きません。レールの上を歩む意識は個の責任感が薄いとも言えます。今求められていることはこれまで考えられてきた然るべき道理を識ることで、安易な個人主義に対して識者がきちんと指摘や説明しなければダメです。昔はよく居たいちいち叱言の多い人にはそれなりの意味があったと言えます。SNSは人々を感化し良くないツールだと感じてしまいます。見たくもない人の裏側を見るばかり。見なければ良かったと。子供みたいなことを言ったり、出してはいけない感情の吐露、直接的な物言いをせず婉曲表現とか本当に勘弁してほしいと思います。それは今やテレビのニュース番組も同じようなレヴェルです。アナウンサーやVTRナレーションの原稿は酷いと感じています。Twitterでいうところの中の人の意見や感性を出しもはや客観性がありません。音楽をつけること、いつも同じ語彙による上書き的な演出で拙さを感じます。今は、極めて深刻な戦争の問題を取り扱っています。プーチン大統領がショイグ国防相と話をした記事について、後から出したFNNのニュース記事は普通ですが、先のANNのニュース記事には、7行の記事の中に何故か二人がマスクをしていない話が入っています。この1文のみが前後と脈絡なく後から差し込まれたかのように見えますが、「マスクをしないで話をするのは悪」というような擦り込みにも見えます。戦時下で大統領と国防相の会談でマスク云々は余計なお世話です。ANNは当初からコロナ報道をスクープとして持続したい一面が窺われます。こういった擦り込みが多くの人を惑わせています。最近になってレジ袋有料化が推奨で義務ではなかった記事が出ましたが、義務だと思い込んだ原因は政府ではなく義務のように伝えたメディアです。これはマスクも同様で日本のメディアはどうしてもさせたいことが窺われます。これまで日本は消費税に対しても上がる時はきっちり価格に反映させますが、実は全ての値札を変える必要はなく、そんなに律儀に一斉に上げるのは稀です。日本の倍ほどもある消費税を数十年前から導入しているフランスなどの国では、あからさまに税金分高いと感じさせることがなく良い意味で柔軟でした。律儀なのかきっちり感を出しているのかわかりませんが、皆で無個性で右向け右をやっているような融通の利かない国民性を感じます。意見には多様性があって当然で、一方的に否定するような擦り込みや、またすぐに忖度して迎合する世の中が結局世界に遅れていると思います。
2022.04.22
コメント(0)
多分日本で区別されていないのは、「もったいない」「節約」「エコ」の違い。もったいない…物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表している節約…むだを省いて切り詰めることエコ…自然環境保全。また、それらへの関心や意識昔はゴミを海外に売っていたことがあり、その頃は全てエコだったのですが、2019年からは売ることができなくなり国内で燃やすか処分するしかなくなりました。そこから急速にプラスチックを減らす取り組みが世界で増えました。買い物でもらうストローやスプーンをプラスチック以外に替えたくらいで減るのか?1990年頃までにヨーロッパではサンドウィッチやピザ1ピースを買うと、口を拭いたり持つためにもれなく紙のナプキンがついてきました。ただ、バゲットなどの長いパンは高級店で買わない限り手で持つだけの紙しか巻かれず、買ってからずっとほとんどの部分は剥き出しのままでした。バゲットを買ったままショッピングモールをうろちょろしている有閑マダムもいて、先の方をつまみ食いしながら歩いていたりしますから、今の世の中であれば、ウイルスや感染などの発想すらなかったでしょう。日本では、昔から買う弁当には必ず箸がついていましたが、紙ナプキンが飲食店で確実に置かれた出したのは1990年代からです。高級洋食店にしか紙ナプキンはなく、ファミレスができた頃から普及し始めました。それでもラーメン店や和食店には紙ナプキンは普通置いてありませんでした。しかし、1980年代からコンビニはが普及していましたので、飲食店ではなくとも、パスタを買えばフォーク、ピラフを買えばスプーン、寿司を買えば醤油がつきました。ヨーロッパではポテトにつけるケチャップはつく程度のサービスでした。日本からの観光客が、スーパーで惣菜を買った際に箸やフォークが無料でもらえず、後でプラスチック製のフォークやスプーン20本組みたいなのをよく買っていました。日本のサービスで恵まれているのは安いホテルのアメニティでも同じで、全てが海外の4つ星ホテル級のサービスを普通のおもてなしとしていました。しかし、その気の利くサービスが2000年代に当たり前と思われるようになり、室料を安くする代わりにサービスの質を落とす方向に流れ始めました。個人店で買い物をした時の包装も同様に過剰だと言われ簡易化していきました。しかし、どんな形の品物でも綺麗に包むことのできるラッピング技術は、日本人の器用なおもてなしとしては内外で喜ばれていたように思います。デパートなどの丁寧なラッピングは日本文化の象徴でした。過剰で包装紙が無駄だということでラッピングが減りましたが、今のように簡素で無地のレジ袋や店の紙袋を購入するのは逆に世知辛さを感じます。店員と客が心を通わせることがあるから買物が楽しいと感じることは多いです。過剰であっても使われた包装紙をさらに有効活用すればエコは成立するのです。箸やフォーク、スプーン、特に使い捨て濡れおしぼりは日本中のサービスですから、必要な人だけがもらうシステムにすればいいのではないでしょうか。実際にわざわざもらわなくてもいいものは箸袋の中の爪楊枝ではないでしょうか。1995年頃にエールフランスの機内食で、葡萄が何粒かデザートに入っていましたが、小さな濡れナプキンが入っておらず客室乗務員の方にオーダーしました。そもそもフランスでは珍しいものでしたから単語がわからず不便でした。昨日・今日は電力の逼迫警報が出ました。ワイドショーのスタジオや店の照明を落とす様子がニュースで報じられていましたが、個人環境でどのように節約するかは各々が考えればいいことで、一律に◯◯はやってはいけないと言える理由はありません。世の中にはそれぞれの環境でさまざまな人がいて、各々の思いがありますから、鶴の一声で一律に変えさせることのできることとできないことがあると思います。日本の政治家は自分の偏った感覚を基にモノを言うことが多いようです。理想の日本のゴールイメージがなく、おざなりの対処では文化が犠牲になるのです。
2022.03.23
コメント(0)
子供の頃、阪神ファンでテレビで応援していました。ここというところでホームランを打っても打者はガッツポーズはおろか、笑顔のかけらも見せずブスっとして塁を周る様子に、なぜ喜んだりガッツポーズをしないのだろうと不思議に感じていました。プロ意識が強いのか武士の精神なのか当時はそれが普通でした。当然ながら大人が「ありがとう」「ごめんなさい」というのは、お店の人がお客に対していう以外で聞くことはあまりなかったと思います。これが昭和文化ということだろうと思います。それから時代の流れで状況は変わっていくわけですが、今の50代以上の人が寡黙で「ありがとう」「ごめんなさい」を言わないのは、子供の頃に大人からは言うように言われていても、照れ臭さが残っていて変われない人であろうと思われます。昭和では「ありがとう」の代わりに「どうも」と言っていました。「どうも」は感謝や「よろしく」も表したりして適当に便利な言葉でした。しかし、言葉としては「どうも」だけでは訳しても意味をなさず、「よろしく」も日本独自の言葉でちょうどよく訳すことができない言葉です。言葉遣いが変わったのは国際化が進んだからだと思います。留学したフランスでは、売る側と買う側の立場が同等で、小さな物でもお客が店員に礼を言って店を出る様子が印象的でした。今でも日本の都会ではあまり見られないと言えるでしょう。このように礼を言わなくても済むのに言うことは気持ちの表れと感じられます。ただ、儀礼的になって皆が言うから言っておこうと考える人もいます。例えば「こんにちは」は儀礼的ですが、「お元気ですか?」と挨拶すると、少なくても気にかけている証となり会話が続きます。返答として「元気です」「疲れています」などお互いの今の関係が推し測れ、万一無言であれば自分に良い気はしていないのだと判断できます。いずれにせよ、コミュニケーションを大事にしている海外の文化が感じられ、外国語を学ぶだけでも定例文からもよく感じられます。しかし、デジタル化が進み電話から要件だけの文字メッセージのやり取りとなり、余計な言葉を省くばかりか返答をしないと言う選択肢が加わってしまいました。昔から考えるとコミュニケーション欠落の大きな要因が既読スルーと言えます。メッセージでは挨拶が儀礼的となりもはやスタンプを楽しむためのものです。さて、外国人が日本で働く場合、日本人の友人を作りたいと考えるでしょう。しかし、例えばコンビニでレジをしたとしても都会ほど儀礼的な接客です。質問かクレームくらいしか会話がなく、話しているのに目も合いません。もはや人でなくてもセルフレジや非接触でいいと考える人が多いでしょう。少し前よりも挨拶や感謝を表すことが若者を中心に減ったと思います。言わなくても支障のないことや、相手に向けての言葉が全般に減りました。言う時は相手より自分のために「こんにちは(何かいい話はありませんか?)」「ありがとう(また、お願いしますね)」などの意味が含まれることが多いです。挨拶・言葉をかけることは、相手に受ける様子がなければアクションを起こしません。受ける側がされたら返す気があっても、相手に向く素振りがなければ何も起きません。打算なくコミュニケーションをすることがこれからの時代は必要だと思います。日本人がウクライナ避難民を受け入れるポーランドのようになるにはまだまだです。
2022.03.17
コメント(0)
21世紀アメリカ文化の特徴はファスト(fast)だろうと思っています。代表されるのがファストフード店です。経済活性化のためにランチの時間を短くして働く文化です。日本では立ち食い蕎麦、回転寿司など客の回転を重視しています。日本でも少なくとも昭和の中期までは立って食事をすることは、行儀が悪いと言われまずあり得なかった文化でした。フランスを始めヨーロッパはランチであろうとそんなに早く食べる習慣はなく、語り合いながら時間をかけて休息をとることがメインだったと思います。夜に至っては3時間くらいかけて食べるのが日常で、例え1人でレストランに入っても前菜からメインが出てくるまでの時間を持て余し、急いでいたとしても事情を言わなければ時間がかかるのは自明の理でした。そんな習慣の中でもアメリカ・日本文化に染まっていったと考えられます。西欧では美の特権は大人にあって子供にないものでしたが、日本人観光客のブランド店で発する「かわいい」から、「かわいい」文化が広がり「かわいい」ものが売れると認識されたと考えています。さらにアニメ文化の普及で、ぬいぐるみや着ぐるみが見られるようになりました。近年は日本文化が世界に影響したことが大きい気がします。しかし、アメリカ文化はヨーロッパ文化とは相反する部分がありました。ヨーロッパは食、料理、音楽などどれをとっても労作が伝統であって、いわゆるファストでできるものを評価しません。今では仕事であれば期限を守るのは常識ですが、締切などあってないようなもの、いいものができるまで妥協せず、どちらかと言えば目的・本質が達成できなければ遅延は仕方ない発想だと思います。また、家具などは利便性よりもデザイン美を優先するなど価値観が違うと思います。シンプル化されたのは音楽でも言えます。ジョン・ケージやミニマルミュージックの音楽は作曲時間が大幅に短くすみます。現代音楽の複雑さや音そのものよりも、理念が後世に最も影響を与えました。音楽の考え方が明快にはなったたものの、残念ながら浅くなってしまいました。そんな中、2010年くらいから個性やその人らしさを尊重する風潮が高まりましたが、反面人を登用、起用、選出する方法は昔からそんなに変わっていません。結局は選ばれた人が選んだ人の価値観を引き継ぐことになり、多くの見方が反映されているかと言えば、選ぶ側の資質や意識の高さによると言えます。つまり、オーデションに例えると、受ける側ではなく評価する側の資質が問題なのです。最新の東京ガスのCMは、黒柳徹子さんがオファーによって起用されたと思われます。しかし、SNSでも何を言っているか聞き取れない部分があると話題になっていました。これは日本語のイントネーションとシラブルや節が合っていないことが原因で、早口なことがさらに助長して「あ〜ら、お引越し◯◯東京ガス」と聞こえました。音節上は◯◯に想定されるのは「は」や「には」だと、聞き手の脳が予想してしまい、黒柳さんの滑舌が悪いと判断される可能性もあり、3月8日から字幕が入りました。そうしたら何と「あ〜ら、お引越し、じゃあ東京ガス」だったわけで、そう聞こえさせるためには「じゃあ」に大きなアクセントが必要ですが、それには早口すぎて「お引越し」が聞き取りにくくなる可能性があります。結局、台詞と節が合っていないのです。例えば詞を大事にする歌の作曲家が考えれば、こんなことはあり得ません。これは制作側の問題で、聞き取れないという配慮に欠ける資質を疑ってしまいます。CMとしてはかなり長い期間流れていますが、字幕入りに差し替えられたことは、印刷物で言えば刷り直しに匹敵、東京ガスとしても出費が嵩んだのではないか?ガス代が高いご時世に何と言うことをしてくれているのかと消費者は感じます。
2022.03.14
コメント(0)
マクドナルドがロシアで一時閉鎖になると報道されました。中学生だった気がするのですが、神戸の塾に通うようになり、唯一の楽しみはそのビルに新しくできたマクドナルドに寄ることでした。塾が終わると腹ペコすぎて、ハンバーガーやシェイクがそれは旨かったのです。それは日本マクドナルドの創業期に近い頃でそれまでなかったものでした。1990年代後半日本マクドナルドは全盛期をなし全国3,000店舗に迫りました。それ以降店舗数では伸びておらずライバルが増えていきました。1990年代半ばにはパリに住みましたが、マクドナルドは少なかったのです。知る限り、シャンゼリゼ、プラス・ディタリ(Place d’Italie)、サン=ミシェル大通り(Bd.Saint-Michel)そして最寄りのパッシー(Passy)で、パッシー通り(rue de Passy)の店は赤と黄ではなく茶色の店舗でした。若干違和感がありましたが、パリの景観を見出さないためのようでした。開店したてで行きましたが商品の発音がフランス語のままで違い過ぎることや、日本に比べるとマニュアル的な対応はなく店員の個性が全開だった気がします。当時はビザをとるために警察に行っても日本人と韓国人について、コミュニケーションができないとぼやかれていたほどで苦い思い出が多いです。日本の習慣としては、当時注文の際に店員の前で考えることが許されましたが、フランスでは「こんにちは」からすぐに注文を言わなければなりませんでした。ベーシックな商品以外は日本であるものがなかったり、ソースの種類も違いました。店員は皆若いので客を早く捌きたいのが見え見えで苛立っているように見えました。日本人としてはいろいろな先入観でなぜあんな対応だろうと考えますが、当時はお互い英語に不慣れでマニュアル的な対応にも不慣れだったと思います。まして、フランスでは「Quick」が最も多く次に「バーガーキング」でした。アメリカをすぐ受け入れるのは日本で、20年も差があったのです。当時は、新しい日本文化としてはラーメン、カラオケをよく目にし、アニメが知られ始め、日本語に興味を持っているフランス人は多かったです。よく大学の日本語学科に行っているというフランス人から話しかけられました。ただそういう時でも日本語で話しかけられたことはなくフランス語でした。高価でなければフランスの食材やメニューを進んで食べていました。ある時郊外のレストランで日本人同士で前菜にアンティチョークを注文しました。野菜というより植物がそのまま、日本で言えば枝豆が枝付きで出てきたような、いや、それより驚きの食物で「どうやって食べる」と試行錯誤していました。そこで「食べ方が違いますよ」と隣のテーブルから日本語が聞こえてきました。何とフランス人ファミリーでお父さんは日本語がわかるとのことでした。こちらの会話ややることを興味津々で見ていたかと想像すると何とも恥ずかしい、そんなことが毎日のように起こり、海外はそれを楽しいと思えるかどうかです。これらはインターネットが普及する前の話ですから今とは全く違うわけです。日本は如何にすぐにアメリカの影響を受け、伝統を守る意味がやや異なります。ロシアで閉鎖したマクドナルドの話、あの広い国土で850店舗しかないのです。人口は1億4千万人でマクドナルドに出会う確率はかなり低いです。パリに行く方法はいくつかありますが、シベリア鉄道でロシアから入れます。そんな日本人の友人もいます。鉄道そのものは極めて安価でロマンを感じます。しかし、実際は過酷でまず中国などの他国に入るためビザがたくさん必要です。当時は途中で降りた駅に食品が少なく、賞味期限が切れたものが多かったようです。ロシア語の案内も理解できず何が起きるかわからない緊張感があったようです。何日も昔の寝台列車に乗るわけですから疲れも尋常ではなかったでしょう。ところで、プーチン大統領は2016年に日露首脳会談の経済協力案で、シベリア鉄道をまず樺太まで延ばし、さらに北海道へという提案をしていました。日本では北方領土の件が知らされますが、この提案は一笑に付されたと言います。とは言え、ロシアがウクライナに侵攻をしたことは許されることではありません。プーチン大統領は勢力を広げることが好きなのかもしれません。また、昔からの伝統を重んじ、2000年以降に進めた歩みが好きではないようです。各国の経済制裁が進められていますが、彼はおそらく構わないのではないでしょうか。ロシアにとっては少し前に戻るくらいの感覚で、西側諸国に追随しない気を感じます。世界でも高い年齢層は声は上げないものの「昔は良かった」と感じる人は少なくなく、「子供たちため」という号令のもとに我慢を強いられていることもあるでしょう。西側諸国には文化や遺産があまりにも尊く偉大で素晴らしいと考えていて、新しいから良いとはせず、方向性についても拘る人が多いと感じます。情報化社会になって発信力の強いものがいいものとされるようになり、過去の歴史や伝統の由来から外れても、結果的に経済を優先する国際性が感じられます。そんな考えは、アメリカや日本の主な価値観とは完全にかけ違っています。戦争という暴挙に出るのではなくもっと早く話をして理解を深めてほしかったです。テレビを見ると、悪者と味方をはっきりした途端に悪者のネガティヴな推測ばかり語り、事実を評価することも偏りがあるうえ、無駄な推測ばかりでは和解はあり得ません。情報を得るのはメディアからで、情報の真偽が問われるのもメディアの責任です。人気者をインフルエンサーにして言いたいことを代弁させるのではなく、専門的に識者や研究者が利害に関係なく意見をまとめる土壌が必要なのです。中国やロシアが情報統制をする真意がそこにあるのは確かです。
2022.03.12
コメント(0)
全18件 (18件中 1-18件目)
1