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一人で食事をしていても、テーブルのレイアウト上で、どうしても見えてしまう光景があります。ここから先は妄想ですので悪しからず笑。セレブな女社長らしき人が、一人で4人テーブルに付きました。ソワソワと何やらテーブルメイクをし、いろいろと注文をし始めました。すると、一人でこんなに食べるのか?と思うほどいろいろな料理が並びますが、何故か手をつける様子はありません。すると、そこに紳士的な男性が登場。しばし談笑するのかと思えば、鞄から書類の束が所狭しと並べられます。旨そうな食べ物が端に追いやられ、打ち合わせと言うより確認作業です。瞬く間に確認は終了。するとすぐさまアルコールを注文。軽くもてなす小宴の始まりです。もてなされる方も気を遣うものですが、会計事務所の紳士は慣れたものです。経費で落とせる宴はこのくらい…これは打ち合わせですから。2月は商談よりも確定申告の季節です。昭和から続く羨ましい慣習を横目に眺め、カロリー減の自分の食事を進めます。
2024.02.14
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年齢と共に親類の少なさが気になり、その少ない親類が入院を繰り返し、容態があまりよくないと聞くと、居た堪れない気持ちになります。遠方にいるために会えていませんが、最後に話した言葉や表情が印象的で、それまで見たことがないものでした。様子を聞いてお見舞いに行きます。一生の中で人の居場所は変わっても、中身はそんなに変わらないようです。その人の周りが変わっていくことで、生まれ持った使命や宿命が示されます。それには抗えない気がします。なのでたとえ夢や憧れが叶わなくても、自分を責める必要はありません。できる限り周りをよく見ることです。常に”できることをする”わけですが、主に自分のためにするのか、他者のためにするのかは、人によって分かれている気がします。結局競っても仕方がないし、うまくできるからと言って、驕ることはよくありません。今生が恵まれていたということです。いつの世にも”古き佳き時代”が回顧され、今も昭和が再評価されているようです。共生からバラバラになりつつある今、未来は”新しき悪き時代”になるのか、これからの人たちを案じてしまいます。
2023.12.16
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自分なりの人の見方があります。これは自分もあてはまることがあることから、かなり当たっている気がします。しかも話さずして会ってひと目で予測できます。現状が絶好調だと見える人、注目度が高い人ほどわかりやすいです。それは、その人の宣材写真、プロフィール写真を見て、実物のその人とどれだけ違うかということです。よく見るのは演奏会のチラシやSNSのプロフィール写真で、SNSの記事投稿に使っている日常的な写真は除外します。その人が今が絶好調だと思っていれば最近の写真を使い、頻繁に写真を差し替えることもあり実物に近いです。若い人は写真で着飾って構えていても概ね実物のまま、歳をとると共に実物よりも写真のほうがよくなるものです。もちろん若い時の写真だからということもありますが、それは若い時のほうが今より輝いていた自覚の表れです。今が絶好調であればその時の自分に見合った写真を撮り、むしろ過去からの脱却や再生を表したいものです。要注意なのは写真と実物が同じ人物に見えない時で、相手や状況によって言動を使い分けているかもしれません。また、多くは実物より写真のほうがよく見えるのが普通で、自分の自信や利発さを何らかの方法で演出しています。実物より見劣る写真を使う人は無頓着な部分がある反面、内面に自信がありプライドが高く尊大かもしれません。これらはテレビ番組HPで出演者の写真にも顕れています。タレント、俳優、アナウンサーは実物どおりですが、コメンテーターなどの写真は似ても似つかぬことがあり、場に応じて空気を読んで見解を変えていると解せられます。写真と実物の印象が変わらない人が何事にも素直で率直、印象が違えば別の一面を持っている人というわけです。一概にどちらがいいというわけではありませんが、予め接し方に留意しておいたほうが得策かもしれません。
2023.05.01
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20-30代までは明らかに自分のことに興味が向いていたのですが、世間や人を見ているうちに40代は自分への執着がなくなり、何かしら人のためになっていないと行動できなくなりました。ただ、特定の人のために動くと他の人は反感を持つことがあります。30代頃から自分に対する周りの見方がはっきりわかるようになり、宿命や使命、頑張ってもできることとできないことを達観しました。どんな信念を持っても味方がいなければ忍耐を強いられ、ストイックな状態を保たなければ足下を掬われてしまいます。仮に力をうまく発揮できてもリスペクトを得られない時は、利用はされても信頼関係は得られません。うまくいったり目標を達成できたとしてもリセットがかかり、踏ん張り続けるには強い忍耐と癒されるものが必要です。癒されるもの。小さい頃からなぜか、こぶたが大好きで笑、本物も、写真も、イラストも、置物も小物も全てに和みます。駒沢公園内にある「ぶた公園」はたまに行きたくなります。中央のぶたの滑り台を囲む円形の椅子に書かれたイラストは、昭和のラーメン鉢の縁に描かれたカラフルな四角い渦巻きです。つまり、中央のぶたさんはチャーシューという設定です。看板やフォントもとてもかわいくてハイセンスだと思います。駒沢オリンピック公園内の「ぶた公園」 2023年4月現在 工事中下の画像にあるラーメン鉢の縁の四角い渦巻き模様が、左の奥に微かに見えます。
2023.04.14
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クラシック音楽をたくさん聴くとさまざまな音楽形態に遭遇し、「好きな曲は?」と聞かれても答に困ることが多いです。それぞれの曲で違った感動があり、違った良さがあり、その時の心境や関心で聴きたい曲が変わります。最近、音楽や演劇の有名人が「かっこいいところを見せる」「感動をを与えたい」と言っているのを見かけます。ただそう聞いても自分はかっこいいとは思わないだろうし、感動もしないだろうと冷ややかに見てしまうことがあります。SNSなどで「かっこいい!」とか「感動した!」声が届くために、そのようなファンへの言葉として言うのでしょう。また、有名人からそのような言葉を引き出したいメディア側の、ルーティーンな誘導尋問への模範回答なのだと思います。若い頃、どんな曲を作っても「聴いた人を感動させたい」などと言った日には「人はそんな簡単に感動しない」「いいかどうかはお客(視聴者)の決めることだ」など、皆が同じ感性と決めつけることを嗜められたことがあります。今でも良いと思うかどうかはお客様が決めることで、売り手が自分から「これはいい」と吹聴するのは憚れたり、自惚れと受け止められるような話は慎むべきと考えられ、日本的な謙虚さ、ストイックさを佳しとする文化は多いです。「かっこいいでしょ」「感動したでしょ」と発言できるのは、有名人の特権とも言え皆がSNSの中で真似をし始めました。どのようなスポーツでも昔はガッツポーズをしなかったことは、勝負に優ったとしても礼儀や精神性を重んじたのだと思います。WBCの確かポーランド戦に日本が勝利した後の、栗山監督への勝利インタビューの最中に、大谷選手がポーランドの選手と記念撮影したために、観衆がそちらに惹かれインタビューを監督自ら中断しました。この出来事はその後どこにも記事として触れられていません。昔ならば勝利者インタビューという誇らしいセレモニー中に、無視して記念撮影をするなど失礼千万と言われたかもしれず、大谷選手の一挙手一投足を美麗化するメディアも触れません。しかし、これは海外で生活する大谷選手ならではの配慮です。日本語でインタビューしても対戦相手のポーランドには通じず、意味のわからないセレモニーに敗戦チームはすることがなく、その状況を察することができる大谷選手だからこその気遣いです。インタビューとは答を想定した誘導尋問です。秒単位で時間に収めようとするテレビでは仕方ないのでしょう。しかし、誰もが予想のつく答を改めて話していることが大部分で、想定外のことを答えると記事として抜かれる可能性もあります。よくある例:「意気込みを聞かせてください!」の質問に、「勝つことだけを意識して臨みます!」「金メダルを目指します」などが想定回答で、嫌が上にも日本を背負っている感が出ます。これを回避する答が「楽しみたいと思います」などです。大谷選手はあまりにも注目され過ぎ話題をつくられ過ぎています。もはやメディアの欲しい要求に応えることが大きな仕事で、周りのつくるヒーロー像に応える演者のようになっています。だからこそインタビューに関心が薄いのかもしれません。また、負けたポーランドチームに配慮する優しさこそが想定外で、本当の大谷選手らしい振舞いであったように思います。テレビはその様子を一瞬も映さず記事になりませんでしたが、この優しさこそ逆にメディアに求めたい気がします。
2023.03.28
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買物をする時にお店にある消毒用アルコール、それが切れてなくなっている状況に時々遭遇します。その場に店の人がいたのでそのことを知らせると、無言でアルコールを出してきて継ぎ足します。店の人が年配だと謝る、お礼を言う、事情を言うなど、何らかのコミュニケーションを計ると思います。若い男性の店員は一言も発せず、目も合わせず用を済ませて去りました。考えられることは、自分の仕事分担ではないことをした、指摘されたり責められることが嫌で回避した、内向的で会話をすることが苦手などです。この場合の成り行きとしては、店員が事情を説明することで、アルコールが継ぎ足された時点でこちらがお礼を言う流れです。コミュニケーションとは流れがわかりきっていたとしても、言動に表すことによって気持ちを通わせる働きがあります。昔であれば上司や客から接客に対する叱責されたでしょうが、今はその接客にクレームを言う人は誰もいないのでしょう。ただ、理由が何であれこの店員が接客に向いていないわけで、お客と接しない部署に着くか改善するべきだと思います。対面による宅配の仕事や買物のレジも同様で、全く無言で品物を渡されると、お客であるこちらが「ありがとう」とは言いにくく、慣例的でも何かの言葉を投げかけられたらこちらも返せます。インターネット上ではこれらのやりとりはなく、人のコミュニケーションはますます失われつつあります。正確には形式的なやり取りしかできなくなり、気持ちのこもらない慣例的な文字が伝達手段になりました。もちろん文字化したほうが明確であるなど長所もあります。しかし、顔を見て言葉を交わす信頼は何ものにも変え難く、インターネット上の物や文言を全て信用することに問題があり、重要なタスクであればまず顔を突き合わせて話をするものです。「ものは言いよう」と言う説得の術がありますが、「ものは書きよう」と言うならばその比ではないほど多様で、例えば、商品の「第1位」と言えるカテゴリーを後付けしたり、出品物の半数が金賞を取るコンペの「金賞受賞」などです。最近、人生の機微は何を残したかではなく、どれだけ多くの人とどれだけ気持ちを通わせたかだと感じ、真に信頼できる関係があってこそ成しえることがあります。しかし、外見や肩書きだけで人を決めつけられてしまいます。人と細かく関わりを持つことは面倒なことかもしれませんが、その行程を省けば表面的に取り繕った強制成功しか生まれません。短い時間で成果を出そうとしても結局その多くは一時的です。よく言われるように、結果よりも過程が重要なのです。
2023.02.19
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