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僕にとって大切な人の49日と新盆を迎えるためふるさとに帰省します。8/6~8/23の長い日程です。そのため、明日から、8月末までブログの更新はありません。またのご訪問をお待ち致します。長崎・西海市
2015年07月25日
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40年もの間友でいてくれ、今なお友でいてくれる北国で暮らす大切な友に捧げる【津軽平野】出版へ!青春の真っただ中で出会い、 いつも励ましたくれた友へ!歌集【津軽平野】より『きょうの日はさよなら』とふ歌ありて吾が青春は輝きのなか友がある暗き道ゆく吾の手に差し伸べくれる友の手がある黒髪の君と出逢えし青春は褪せることなくこころ暖む真っ先に君に見せたきものありて子供の頃の吾の如くに逢えるなら君に伝へる言葉あり君に出逢えし幸せ今もよき詩のひとつふたつの詠みし日はワイン飲みつつ君をぞ想ふ雲間より一瞬ぬ見ゆる津軽なる半島の景色弓なりの湾こころには花を咲かせて歩みゆけ今日も明日もいのちの限りに放浪の旅路の果てに辿り着く君といふひと吾にはありき教会の鐘鳴り響く昨日とは違う今日を明日も生きむ黒髪の君の写真を胸に抱き南の国をひとり旅する君といた日々君といた青春のページ刻みて生きゆく吾は静かなる水面に春は訪ね来て白魚(しらうお)のごと若かり君は永遠といふいのちはなけれど永遠に残れる君のこころは本棚に積み重ねたる山手帳青春いまだ色あせずある雪原のみちのく一人旅すれば青春時代は懐かしくあるいつの日かきっとあるを信じる出逢いし頃の君に逢へるを四〇年友から届く便りありひとつひとつの吾のたからの梅雨空を見上げて思ふ君がいて君と歩きし日々はある安らかなこころ満ち来る真向ひし白きノートに詩を綴れば雲の上蒼い空はどこまでも広がりてある悲しきときも一首でも君のこころに留まるなば本望とせり吾の短歌は駆け抜けしわが青春は永遠の時空刻みて誇らしくある人として生きてきた道これからもこの道をゆくなかまとともに友思いなかまを信じあゆみ来て今日を迎えるよろこびの朝歓びも悲しみも乗り越えて来し明日の希望の明かり灯して肩をくみ「友よ」の歌を思い切り歌ったあの日の笑顔眩しい新しき時代はいつかきっとくる信じて歌を歌わんなかまとともに冬の日に君がしあわせ祈りいるわれを見守る寒紅梅はかまくらの雪の積もりし冬の日に君が幸せ願かけ巡るきっとくる苦しい日々を乗り越えて朝日迎える歓びの日が青春の息吹き薫らせ集いくる友と語らん我らが道を君の名をノートに書いた青春の熱き思いは今もこころに悲しみを抱いて越える長い道君がいたから君がいるから明日という希望の朝の満ち満ちる光浴びたい初夏を迎えてきのうより今日今日よりあした輝いて強く生きたい君がいるから君がいて僕がいた春ぼくがいてきみがいた季節は今も胸深くある青春の輝く季節今もなおわが胸熱く涙流して遅い春待ちわびるように一斉に花咲き誇る北国の町悲しいことも苦しいこともあるだろう泣いていいんだそんなときには北国の友より届く再会の便りこころに染みる人のまごころ「元気だよ」聞きなれた声受話器より聞こえくる北国の友の雨風に打たれてもなお紫陽花は明日を信じて美しく咲く君がいて僕がいた夏歳月は待ってはくれない40年目の夏青春の真っただ中に君がいて瞼閉じれば蘇えりくる20150326 初版より 46首
2015年07月24日
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この夏久しぶりに鉄道の旅を楽しればいいな。最近は飛行機ばかり使っていたから、青春時代を思い出してゆっくり 青春切符を使って のんびり!今一番訪ねたいところはみすずの生誕地・仙崎。どんな感動が待っているだろうか。どんなドラマと出会えるだろうか。エッセイ集【この人・この言の葉】 金子みすず 私の本棚の最前列に『金子みすず童謡集』が置かれている。悲しいとき、苦しいとき、わたしがいつも開く本だ。 青いお空の底ふかく、 海の小石のそのように、 夜がくるまで沈んでる、 昼のお星は眼にみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 みえぬものでもあるんだよ。 散ってすがれたたんぽぽの、 瓦のすきに、だアまって、 春のくるまでかくれてる、 つよいその根は眼にみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。 ( 星とたんぽぽ ) 金子テルは明治三六年山口県長門市仙崎に生まれた。三才のとき父と死別、四才のとき養子になった弟と、一六才のとき再婚した母とは離れて暮すこととなる。 二〇才のとき転機が訪れる。ペンネームみすずで童謡を書き、雑誌に投稿を始め、すぐに西条八十に認められる。 しかし、母の再婚先の当主によって二三才で結婚させられ、同年出産したのを境にみすずの人生は暗転していく。夫の放蕩、病気さえも夫に移され、離婚、愛する子供さえ夫に奪われるというその日、二六才の生涯を自ら閉じることになる。 わずか三才六ヶ月の子供を守るために自らの命を投げ出さなければならなかった悲しみ、それほどまでに愛しい子供を残していかねばならない悲しみ。みすずの心の中は推測するに余りある。 詩人矢崎節夫の永年の労により、みすずの残した手書きの童謡集がみすずの実弟の手にあることがわかったのがみすず没後五十三年後の昭和五七年のことである。 その二年後に『金子みすず全集』が刊行された。 上の雪 さむかろな。 つめたい月がさしていて。 下の雪 重かろな。 何百人ものせていて。 中の雪 さみしかろな。 空も地面もみえないで。 ( 積もった雪 ) 私の父も母もみすずと同時代を生きた。みすずの辿らなければならなかった人生を通して、父の人生,、母の人生を想うとき、みすずの残した童謡は深く深くこころに染み込んでいく。 昨年四月、生誕一〇〇年を期して開設されたみすず記念館には、みすずを慕う入館者が十七万人にも達したと朝日新聞は伝えた。思わず快活の声をあげた。 新年の賀状を開いていたら、友からの便りの中に嬉しい書き込みがあった。【 仙崎を旅してきました。みすずのこころに思いっきり触れてきました。 】 20040101きのしたよしみ
2015年07月23日
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川柳句集【エール】(41)生きている それだけでいい それだけできのしたよしみ
2015年07月22日
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句集【曼珠沙華】(40)祈る夏アンゼラスの鐘カーンカーンときのしたよしみ長崎市:大浦天主堂
2015年07月21日
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歌集【ロード】(41)真っ直ぐにこの道信じ歩き来て今辿りつく夢の舞台にきのしたよしみ
2015年07月20日
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川柳句集【エール】(40)僕がいる ひとりじゃないよ 君がいるきのしたよしみ
2015年07月19日
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句集【曼珠沙華】(39)初盆や悲し悲しと海越えてきのしたよしみ鎌倉の海
2015年07月18日
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歌集【ロード】(40)君の声耳に残っているけれど君に会いたい台風の朝きのしたよしみ
2015年07月17日
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昨日は山で逝った友の22回忌でした。22年を経た今でも、友を亡くした悲しみは癒えることがありません。今日は友に捧げたエッセイの初稿を特別公開します。絶唱(1) 今日も 心に 花を咲かせて生きたい (清) 今年の夏、友が山で遭難した。あまりに突然のことで、遭難の知らせの電話を握ったまま、しばらく立ちつくしていた。 山に魅せられ、山を愛し、こころに花を咲かせて、いつも笑顔の絶えぬ人だった。 トムラウシ山は北海道の尾根、大雪山系の最奥にある。山頂には巨大な岩が累々と重なり、山麓にはお花畑が広がり、瞳のような湖沼が点在する。 その山に友と登ったのは九〇年八月の事であった。 雄大な山の広がり、山麓を埋め尽くす高山植物の群生は、友の山への想いを募らせるのに充分だった。 その後、友は、海外の山々をはじめ、国内の山々にも次々と足跡を印してきた。近年は、ご子息が海外青年協力隊員として活躍されているケニヤに聳えるアフリカ最高峰キリマンジェロに登頂することが夢なんですと、明るく語っていた。 夢を実現する前に、もう一度、山への想いを募らせてくれた山、トムラウシ山への再登を思い立ったのだろうか。雪渓のまだ残る七月、トムラウシ山に続くクワウンナイ川を遡行、横断中転倒し、雪解け水に二〇〇メートルも流され、帰らぬ人となった。 悲しみのなか、友が青春時代によく登ったと言っていた北アルプスに入ったのは告別式から一〇日目のことである。 信濃大町から高瀬ダムを抜け、鳥帽子岳、野口五郎岳、水晶岳、鷲羽岳を越え、槍ケ岳の山頂に立った。強い風が谷から吹きつけ、岩肌は冷たかった。友が幾度となく立った山頂からは、友が幾度となく踏んだ山々が俯瞰できた。その山々のいたるところ、砂礫地にも、崖っぷちまでも、僅かばかりの土に根を張り、小さい葉や茎に水滴をつけ、雪にも、風にも、嵐にも耐えて、花が咲いている。友が愛した花が今日も咲いている。 君の分まで生きるよ、そう、つぶやいたら、とめどもなく涙が溢れてきた。 1904・12・19絶唱(二) 友が逝って四年になる今夏、クワウンナイ川を訪れた。 クワウンナイ川は北海道の尾根、大雪山山系のなかでも最奥の山、トムラウシ山に源流を有し、天人峡で忠別川と合流し、更に旭川で石狩川と合流し、大河となって海に注ぐ。 源流一帯には夏でも雪渓が残り、源流を登り詰めると広大なお花畑になる。 友と初めてトムラウシ山を訪れたのは八年も前のことだ。大雪山からトムラウシ山までの縦走路は高山植物との触れ合いの道でもあった。余りの素晴らしさに、友と再登を誓い合った。 友はこの登山を契機に、子育てのために中断していた山登りを再開し、海外にも活動を広げていった。誓いが実現しないまま数年がたち、友からの海外遠征の便りが溜まっていった。 日本第二位の高峰、北岳を登り終えて帰宅した私を待っていたのは悲しい知らせだった。 帰宅の翌日、告別式に参列した。遺体は現地で荼毘に付され、お骨となって白布に包まれていた。余りに突然の別れだった。 天人峡温泉でバスを降り、来た道を少し戻るとクワウンナイ川の入口だった。そこには登山禁止の標識が立てられていた。友が遭難して以来だと地元の人が教えてくれた。 友が流されたクワウンナイ川に手を差し入れた。冷たい水だった。大きいザックを背負い、この川を遡行する友の姿が浮かんできた。振り向いた友は、満面の笑顔だった。瞳は子供のようにキラキラと輝いていた。 《あなたの瞳には、この大雪山山系のたおやかな峰々と、海外青年協力隊に勤務するご子息の赴任地、ケニアに聳えるキリマンジェロが、いつも映っていたのですね。》 そうつぶやくと涙が次から次と溢れてきた。 《文集を出そう、友の生きていた証しの文集を。さわやかに、そして、ひたむきに生きた友を心に刻み込むためにも。》 1998・09・19
2015年07月16日
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川柳句集【エール】(39)天地人雲の上にも青い空きのしたよしみ
2015年07月15日
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句集【曼珠沙華】(38)古寺やノーゼンカズラ咲きにけりきのしたよしみ
2015年07月14日
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歌集【ロード】(39)友がいるひとりじゃないよ見上げればちちははがいる一番星のきのしたよしみ
2015年07月13日
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このたびこれまでに書き溜めた作品の中から40年近く友好していただいた友への感謝をこめた【津軽平野】を上梓しました歌集【津軽平野】北国の友へ第1部・ 青春『きょうの日はさよなら』という歌ありて我が青春は輝きのなか
2015年07月12日
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自分を信じ自分の詩を信じ自然体で歩いていきたいエッセイ集【この人・この言の葉】竹山 広 孫よわが幼きものよこの国の喉元は 熱きものを忘れき われらまことに豊かなる国の民なりや 思ひを重ねをれば梅咲く 竹山広全歌集より 二年前、骨のある歌集に出会った。竹山広歌集である。愛読している雑誌『短歌』に広の短歌五〇首が掲載されていたのが出会いの最初だった。 すぐに広の短歌が好きになった。広が私の故郷から山一つ越えた村の出身であったこともあるが、その経歴が凄かった。 竹山広は一九二〇年(大正九年)、長崎県の片田舎の禁教時代からのキリシタンの家に生まれる。結核に罹患して長崎市内に入院しているまさにその時、一九四五年(昭和二〇年)八月九日、原子爆弾に被爆する。二六歳だった。 長崎における禁教時代のキリシタンの《受難》は、殉教と同意語ほどの過酷なものだった。あるものは百度の熱湯が沸き立つ雲仙地獄に突き落とされ、あるものは人間が考えたとは思われない拷問でいのちを絶たれた。 逃れるみちは、棄教か、隠れキリシタンとなって、県内に点在する島にわたり、断崖絶壁に守られた海岸沿いの僅かばかりの地に住みつくほかなかった。そこでの生活は凄まじいものがあっただろうことは容易に推測できる。外国の圧力によって禁教廃止になったのは一八七三年(明治六年)のことである。 一〇〇年も経たないうちに彼等の子孫である広は世界最初の原子爆弾を浴びたのである。 その広にして原爆を歌に読みはじめたのは被爆から一〇年を経ていた。処女歌集は一九八一年、原爆の記憶を詠った『とこしへの川』である。そのとき広、六一才だった。 以来、『葉桜の丘』『残響』『一脚の椅子』『千日千夜』を上梓していたが、二〇〇〇年を期して刊行した六冊目の『射祷』までを全歌集とした。 その全業績に対し、第三六回『迢空賞』を始め、短歌大賞三冠に輝いた。八二歳であった。 その年令になったとき、私は歌を詠っているだろうか。そう思うと広の歌集から目が離せなくなった。その彼の受賞の言葉は印象深い。『自分を信じ、自分の歌を信じて慌てず騒がず、常に自然体で歌うことに努めてきた』 あくまで謙虚である。しかし、広の歌は強烈な個性を放つ。 反核の座り込みのたびに被りたる 帽子をかぶりきて投票す 原爆を産みたる世紀末年の ほこりをゆふべにほほせし雨 八二歳にしてこの情熱。黙って頭が下がってしまう。 私も幾ばくかの歌を読んできた。母、友への挽歌、息子、娘の誕生などの祝歌として、粗末な歌を詠ってきた。詠うことで癒され、その時の歌を読み直せば数十年前の出来事も、心境も思い出されてくる。しかし、ここ数年、歌を詠むことが少なくなっていた。苦しいこと、悲しいこと、喜びや幸せはたくさんあるのに。 そんな私のようなものにもエールを送ってくれていた。 うたふ何もなき日常と侮るな何もなきあいたゆふべこそうた 迫力に圧倒されながら、読み進んでいったら『射祷』の最後には次の一首が据えられていた。 病み重る地球の声のきこゆると 言わしめてただ神はみたまふ この歌集に出会って、再び歌を詠みだした私は、幸せ者だとつくづく思う。きのしたよしみ 2004.3.3 のいちごつうしんより
2015年07月11日
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告別の詩 (2)義母に捧げる西海の岩に打ち寄す荒波の真っ赤に染まる初夏の夕日に
2015年07月10日
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告別の詩 (1)義母に捧げるふるさとの紫陽花咲きし初夏の朝瞳を閉じて永久の眠りに
2015年07月09日
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川柳句集【エール】(38)負けないで昨日と違う今日があるきのしたよしみ
2015年07月08日
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句集【曼珠沙華】(37)七夕や君に会いたい黒髪のきのしたよしみ鎌倉・安国論寺
2015年07月07日
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歌集【ロード】(38)追悼・おばあちゃんへ六人のいのち育てて天上の光輝く星になりたりきのしたよしみ
2015年07月06日
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このエッセイは20年前に書きました。このたびの妻の母の突然の他界に際し、大切な人への告別の辞を書かなければなりませんが、衝撃が深く、ペンを持つことができません。このエッセイをもって、告別の辞に代えます。おばあちゃん、ごめんね!早く立ち直ってきっと正式な送別の辞を書くからね! 少年人若し我に従はんと欲せば己を捨て十字架をとりて我に従ふべし (マルコ第8章) 西坂の記念碑に寄り添うように、資料館がひっそりと建っていた。展示の多くは二六聖人に関する資料であったが、背景説明としてイエズス会の資料も展示されていたので、もしやと思い、丹念に一点一点に目を凝らしていたら、中浦ジュリアンの資料が飛び込んできた。幸運だった。同時に、これまで、何度もこの地を訪れながら、全然気付かなかった自分の不明を恥じた。 ジュリアンは天正遣欧少年使節の副使としてヨーロッパに向かった。ザビエルがキリスト教を伝えてから三三年後の一五八二年のことである。その六年前の一五七六年、信長は安土に城を築き、天下人であった。その信長はキリスト教に寛大であった。特に九州の大名は熱心で、教会を設置したり、港を開港し、土地を競って寄進したりしていた。長崎はそのひとつであった。そのような時代の雰囲気のなかで、ジュリアンもセミナリヨで学び、イエズス会の巡察師バリニヤーノに認められた。 一行はゴア、リスボン、マドリード、フィレンツエを経てローマに入り、教皇グレゴリウス一三世と謁した。 しかし、ヨーロッパに向かった同年、信長が暗殺され、時代は暗転する。信長の後に天下人となった秀吉は、一五八七年、伴天連追放令を発し、キリスト教を禁止、長崎も収公した。さらにその十年後には日本最初のキリスト教殉教となった二六聖人の殉教へと突き進んで行った。少年使節が帰崎したのは禁令から三年後のことである。 ジュリアンは帰崎の翌年イエズス会に入り、その一〇年後の一六〇一年マカオに赴き神学を修めた。一六〇八年司祭に叙階され、布教活動しているところを捕らえられ、長崎で処刑された。島原の乱の四年前のことである。 資料館に展示されていたのは、処刑の十二年前にジュリアンが立てた最終誓願の文書と手紙で、流暢なラテン語で認められていた。 私の息子は今年十四才になる。少年たちが旅立ったとされる年令である。この年令で、八年余の海外への旅に赴いたとは。しかも、当時の都、京から遥かに離れた辺境の地から。 今般の洋行と違い、当時の航海の技術水準では、決死の覚悟が要ったであろうことは容易に想像がつく。命がけの訪欧に少年たちを駆り立てたものはなんであったのだろう。今の時代を生きる私には不明であるが、少年の純真さ、旺盛な冒険心がなければなしえなかったのではなかろうか。 その足でジュリアンの生誕地に向かった。日本の最西端にある妻の故郷にはジュリアンの顕彰碑がひっそりと建っている。ジュリアンの生家の跡といわれるその一角に立ち、少年ジュリアンの生涯を辿ると、いつも目頭があつくなる。 村のどこからでも海が見えた。ゆっくり歩いて浜に下りた。日本海の荒波が繰り返し繰り返し岩にぶつかり、飛沫する。その度ごとに潮の香りが風に乗ってやってくる。《 たじろぐことはない。自分に正直に生きよ。人として生きよ。 自分のためにではなく人のために、愛する人のために生きよ 》そう呼びかける海鳴りがいつまでも耳に残った。 95.5.5 初稿長崎・西海市
2015年07月05日
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まだ悲しみが癒えませんが、悲しんでばかりいられません。私にできること!私にしかできないこと!すこしづつ始めます人は生まれたときから死に向かって歩いていると先人はいうけれどそうかもしれないそうでないかもしれないいつも死を思っていたら一歩も前に進めないし死を思っていなかったら人生を振り返ったときに後悔をするかもしれないただこれだけは言えるそのときまでは一日一日を大切にして今日という日を精一杯自分らしく生きていかねばならない!そのことがいのちがけで産んでくれたいのちがけで守ってくれた一番大切な人への贈り物になると!☆ ☆ ☆ ☆うた詠みがうたを詠まずになんとする悲しさを詠め苦しいことも夜明け前が一番暗い今日よりも輝く明日信じて生きるなにごともなきかのように一日は過ぎゆくけれど悲しみ深し生きていてもむなしくなるときがあるそれでも人は生きてゆかねばどんなに長く淋しい夜もきっと来る朝陽の昇る希望の朝が悲しみはいつも突然やってくるこころの準備できないうちに生きるんだ前向き歩め冬に咲く水仙のごと強く清らに限りあるいのち燃やして生きてゆけ今日という日を胸に刻んでいつの日かきっとくるだろう泣きながら君とふたりであるくふるさと生きるとはただ生きるだけではなくて人を愛して生きること 今歌集【君よ】より10首長崎・西海市 日没
2015年07月04日
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