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Nonsense Story
8
片岡家の災難 8
「わたしが猫を逃がしてしまったせいなのに、片岡君達に悪いことしちゃった・・・・・・」
街灯がチカチカと灯り始める道を歩きながら、赤松が肩を落として呟いた。ぼくは隣で自転車を押しながら歩いていた。
片岡兄妹に風呂場一泊の刑が宣告されたのを機に、ぼくは挨拶もそこそこに赤松を引っ張って片岡宅を辞去してきたのだった。
「風呂場刑は赤松のせいじゃないって。でも、あの極妻は想像以上に恐ろしい人物らしいからなあ」
ぼくは、以前片岡達が飼っていたというアルジャーノンの顛末を赤松に話して聞かせた。尻尾を切られたという話には赤松も衝撃を受けたようで、信じられないという顔をしていたが、やがてポツリと訊いてきた。
「アルジャーノンって、ネズミ?」
「そうじゃないかな。ネズミ捕りに引っ掛かってたって言ってたから」
「片岡君が付けたんだろうね、その名前」
「なんで?」
片岡がペットに横文字の名前を付けるなんて想像がつかない。奴ならまだ『諭吉』のほうがしっくりくる。
「ダニエル・キイスって人の小説にね、脳の手術をされて天才になったネズミが出てくる話があるんだよ。そのネズミの名前が・・・・・・」
「アルジャーノン」
「そういうこと」
天才のネズミね。片岡らしいといえば、らしいかもしれない。
「俺はてっきり明代ちゃんが付けた名前だと思ってた」
ぼくがそう言うと、赤松は少しだけ微笑んだ。
「かわいかったね、明代ちゃん」
「そうかな。俺はもうちょっと肉付きのいい子の方がいいけどな」
ぼくは明代ちゃんの痩せた子供特有の鉄棒のような脚を思い出しながら言った。それに片岡じゃないけど、あんな子、ぼくだって手に負えそうもない。ギャル文字のメールの解読なんて、英語の長文読解くらい難しそうだ。
「赤松もその眉毛整えれば、もう少しマシになるんじゃない?」
ぼくが全く手入れをされていないと思われる彼女の眉を指差すと、赤松は両手で眉を押さえ、そういう意味じゃないとわめいた。
「外見とかじゃなくて、ああいう妹がいたらかわいいだろうなって思っただけ」
片岡が聞いたら、喜んで明代ちゃんを進呈してくれそうな発言だ。しかし、口にこそ出さないが、ぼくも似たようなことを思っていた。一人っ子のぼくはいつも、生意気だけど憎めない弟妹や、憎たらしいけど優しい兄姉を望んでいる。あそこまでかまびすしいのはごめんだが、やっぱり妹という存在には惹かれるものがあった。
赤松には年の離れたお姉さんがいたが、既にこの世の人ではなくなっている。そのお姉さんに憧れていたということも手伝って、彼女も妹のような存在を持つことに魅力を感じるのかもしれない。街灯に照らされた彼女の横顔は、はるか彼方の届くはずのない星を求めているように見えた。
しかし、何を思ったのか、赤松は急に思い出したように頭を抱えた。
「でもどうしよう。片岡君にどうやって謝ろう。明代ちゃんにも謝れなかったし。そうでなくても、わたし、片岡君にはあまりいい印象持たれてなかったような気がするのに」
「なんで?」
片岡は思い切り赤松を気に入っていると思うけど。
赤松は少しためらった後、遠慮がちに呟いた。
「なんだか、わたしと話す時はいつも怖い顔してるから」
ぼくはそれを聞いて噴き出してしまった。片岡の裏声でギャル文字メールを読むときまで無表情だった顔を思い出したのだ。
「気のせいだって。あれはあいつの地顔。本当に気に入らなかったら、家に上げたりしないって。そういう奴だよ」
「そうかなぁ」
ぼくはなおも自信なさげにうなだれる赤松の背中を思い切り叩いた。
「おばあさんが言ってたじゃん。マイセンのティーセットは大事な客にしか出しちゃいけないって。あれはちゃんと赤松の分も用意してあった。それって、そういうことじゃない?」
赤松は大きく瞳を見開いてぼくを見ると、へへっと笑ってありがとうと呟いた。
ぼく達はその後、あの二人にカイロを差し入れすることを思いつき、コンビニに寄ってから片岡家にUターンした。
松の木の下をくぐると、風呂場の窓が細く開いていて、そこから明かりと湯気が漏れていた。二人のうちのどちらかが入浴中なのかもしれない。ぼく達はその窓の下に身を潜めた。
「赤松、お前ちょっと覗いて来いよ」
ぼくは赤松の袖を引っ張った。
「どうしてわたしが?」
「俺が覗いて、中にいるのが明代ちゃんだったら問題になるだろ」
「そんなの、わたしが覗いて片岡君だった時も問題になるよ」
「男はいいんだよ」
「わたしがよくないよ」
そんなやり取りをしていると、中から窓がガラリと開いた。
「お前ら、何ごちゃごちゃ言ってるんだ?」
「わっ、片岡」
ぼくは立ち上がり、赤松はしゃがんだまま顔を覆った。しかし、赤松が顔を覆う必要はなかったのだ。片岡はしっかり服を着ていたのだから。
片岡は浴槽の中に立っていた。その中には明代ちゃんもいて、猫を泡だらけにしていた。
洗われている猫はまるでハイエナだった。濡れた毛が体に張り付いて、あばら骨が浮いて見えそうなほど華奢な体の線を露出させてしまっており、綿菓子のようだった容姿は見る影もない。そして、鈴のような目だけがランランと輝いていた。
そんな憐れな姿になってもなお闘争本能丸出しで、明代ちゃんにパンチやキックを繰り出している。この猫に限って、借りてきた猫という言葉は別の意味になるらしい。
「あの、さっきは猫を逃がしちゃってごめんなさい!」
入浴中だったのが猫だと分かると、赤松も立ち上がり、カイロを渡して謝った。中から見ると、窓から顔だけ覗かせているぼく達は、さらし首のようかもしれない。
片岡も明代ちゃんも全く気にしていた様子はなく、それどころか、片岡は明代ちゃんのせい、明代ちゃんは片岡のせいだと言って、兄妹喧嘩を勃発させそうになっていた。
「とにかく、あれは明代が悪いんであって、赤松さんのせいじゃないから」
「違うもん。お兄ちゃんがしっかりしてないからあんなことになったんだもん」
「途中でトンズラしたのはどこのどいつだ」
「必要なものを貰ってたんじゃない」
「必要だから買いに行った障子紙は忘れてな」
「まぁでも、その猫がいつぞやのネズミみたいにならなくて良かったじゃん」
ぼくは延々と続きそうな責任の擦り合いを制するように言った。このままじゃ、いつまで経っても帰れそうにない。
しかし、片岡は不思議そうな顔で訊き返してきた。
「ネズミ?」
「アルジャーノンとかってやつ。ネズミ捕りにかかってたって言ってたじゃん。名前もナントカって外人の小説に出てくるネズミからお前が付けたんだろ?」
赤松がその小説を書いた外人の名前とタイトルを付け足す。片岡はやっと何のことだか分かったようで、ああ、と小さく呟いた。そして、呆れたようにこう続けた。
「たしかにネズミ捕りにかかっていたし、名前もあの小説から取ったけど、誰がネズミだなんて言った?」
「違うのか?」
片岡は違う、と重々しく頷いた。
「アルジャーノンはトカゲよ」
明代ちゃんが楽しそうに教えてくれた。ね? と片岡と頷きあう。
「トカゲ? ってことは、尻尾は極妻が切ったんじゃなくて・・・・・・」
「やっぱり誤解していたのか。いくらうちのばあさんでもそこまではしない。第一、爬虫類なんて素手で触るのも嫌な人なんだからな。アルジャーノンはきっと、ばあさんに見つかって追いたてられるかどうかして、自分で尻尾を切り離して逃げたんだろう」
ぼくは開いた口が塞がらなくなった。こいつは本当は、とんでもない大ボラ吹きか大馬鹿かのどちらかなんじゃないだろうか。襖の引っかき傷を、トカゲのせいにしようとしていたなんて。
ぼくが唖然としていると、赤松がぼくのポケットを指差した。
「何か紙が落ちそうになってるよ」
「ああ、これ」
ぼくはやっと正気に戻ると、ポケットから紙片を出して明代ちゃんに呼びかけた。「明代ちゃん、これ、明代ちゃんがおばあさんの部屋で探してたものじゃない?」
明代ちゃんは猫を片手で押さえつけたまま紙片を受け取ると、顔を輝かせた。
「あ、竹中先輩の写真」
あの葉書大の紙には、先程の少年の顔が写っていたのだ。ポケットに突っ込んだ時のぼくの勘に間違いはなかった。
「いつの間に見つけたんだ? こんなもの」
片岡がまたもや呆れる。
「おばあさんの部屋を片付けてた時。ティッシュにくるまって畳の上に落ちてたんだ。気付かなくて握りつぶしちゃったんだけど、明代ちゃんのだと思って取っといた。しわくちゃにしちゃってごめんな」
「ううん。ありがとう!・・・・・・でも、これ、皺よりも顔が・・・・・・」
明代ちゃんは満面の笑みでお礼を言った後、写真を見つめて目を細め眉間に皺を寄せた。そうすると、兄そっくりの顔になる。しかも片岡が同じように眉間に皺を寄せながら写真を覗き込むからたまらない。
ぼくは必死で笑いを堪えながらも、やっぱり片岡達が少し羨ましくなった。ふと隣を見ると、赤松も二人をまぶしそうに見つめている。きっとぼくと同じ気持ちなのだろう。
ぼくや赤松が風呂場の刑になったら絶対に一人きりで風呂場に一泊しなくてはならないけれど、この二人は一緒に罰を受けてくれる相手がいる。家族に隠れて動物を飼うのだって一人じゃない。思い切り喧嘩をすることもできる。友人とも恋人とも親子とも違う、きょうだいという絆。
ぼくと赤松が顔を見合わせて笑っていると、片岡が盛大に笑い出した。
「ざまあないな。これじゃあ台無しじゃないか」
片岡はそう言うと、明代ちゃんから写真を取って唖然とするぼく達に見せた。
体育祭の時の写真らしく、日焼けした少年が頭にハチマキを付けて白い歯を見せている。そのちょうど目にあたる部分に、ひっかいたような四本の白い線が入っていた。まるで、何か凶悪事件を起こした未成年の目にモザイクがかけてあるかのように。
「諭吉! あんたの仕業ね! このバカ猫ー!!!」
わなわなと体を震わせていた明代ちゃんが、勢いよく猫を放り投げた。泡ぶくまみれの猫はきれいな放物線を描いて窓枠に着地すると、格子の隙間からひょいと顔を出し、そこで一つぶるんと身を震わせて泡をぼく達に浴びせかけた。そして、泡で面食らっている赤松の頭を踏み台にすると、見事な跳躍で庭へ飛び出していった。
泡で目をやられた上に頭に蹴りを喰らった赤松は尻餅をつき、片岡は明代ちゃんを冷たく一瞥した。
「明代、馬鹿はお前だ」
――午後六時三十分。再び真犯人逃亡。
それでも何とか片岡に責任を押し付けようとする明代ちゃんを見て、やっぱり妹なんていなくてもいいかもしれないと思う、今日この頃である。
終わり
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あとがき
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