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俺が晴れて大学に入学し、最初に住んでいたアパートに入居した時のこと。 俺の部屋は二階建てアパートの一階角部屋だったのだが、隣の部屋に引越しの挨拶に行くと、酒瓶片手に玄関に現れた隣人が、ちょっと一杯やっていかないかと奥を指した。大学の入学式まではまだ数日あり、こちらに友人知人の類のいなかった俺は、一も二もなく誘いに乗った。 彼は、俺とは違う大学に通う四回生で、このアパートには一年の時からずっと住んでいるという。しかし、六畳の居住スペースには、備え付けのテレビとローテーブルしかない。昨日引っ越してきた俺の部屋と大差ないというか、俺の部屋より物がなかった。 「もう何ヶ月も人と喋ってなかったんだよね」 眼鏡のブリッジをひとさし指で押し上げながらそう言われて、引きこもりの類かと思ったが、歓迎されたことは単純に嬉しかった。それに、当時のアパートの入居状況を考えると、人と喋っていないのも頷けた。なにせ俺が入る前は、その人しか入居者がいなかったのだ。 部屋に通されて、唯一の家具であるローテーブルの前に座る。埃が玉になって転がっている部屋の隅を見ていると、埃で死ぬ奴はいないと言われた。ハウスダストのアレルギーがある人は死ぬこともあると思うけど。 グラス代わりだろう。彼は空になったワンカップを俺の前に置き、ビールの栓を抜いた。見れば自分もワンカップで飲んでいる。この部屋にはまともなグラスはないのか。俺は訝しく思いつつ、黙ってワンカップを合わせた。 しかし、訝しく思ったのも最初のうちだけで、酒が回るにつれて俺も饒舌になり、妙に盛り上がってしまった。わからない事があれば何でも訊いてと言われて、俺はその人のことを先輩と呼ぶようになった。彼が教えてくれることには、かなりの偏りがあるとも知らずに。 「ここさぁ、安かったでしょ? ぶっちゃけいくらで借りた?」 だいぶ出来上がって来た頃、先輩が訊いてきた。俺は初対面の人間にぶっちゃけるのもどうかと思ったが、同じアパートの住人に隠す必要性も感じなかったので、正直に答えた。 「三万五千円です」 俺は免許を持っていないので必要なかったが、駐車場も借りると四万になる。田舎者なので、こういった物件の相場などよく知らないが、ここいら辺りの駅前物件にしては、安いと聞いた。 ところが、彼はそりゃぼったくられたなと笑う。 「俺は駐車場込みで、八千円で借りてるよ」 「ええ!? 八千円? またぁ、冗談でしょ」 いくら田舎者の俺でも、今どきそんな値段で貸してくれる物件などあるはずがないことはわかる。特にここは駅前だし、築年数だってそんなに経っていない。トイレと浴室だってちゃんと別々に付いてるし、第一、駐車場込みである。床が抜けるか天井が落ちてきそうなくらいのボロ屋でない限り、八千円は有り得ない。 担ごうったってそうはいかないぞというつもりで返した。 「ほんとほんと。まぁ、きみの部屋じゃあ一万にはならないかもしれないけど、二万以下にはなっていいはずだ。部屋に入った時、何か感じなかった?」 何もとかぶりを振る。かぶりを振りながらも、この話はまずいという気がしてきた。急速に酔いが冷めていくのが分かる。 「そっかぁ。じゃあぼったくられても仕方ないか。というか、何も感じないなら、ぼったくられてることにはならないよね」 つまりは訳アリ物件ということなのだろうか。 彼は手酌でビールを注ぎ、旨そうに呷る。 俺は恐る恐る訊いた。 「ここ、何かあったんですか?」 「知りたい?」 彼は左の口の端を上げて、にやりと笑った。眼鏡の奥の瞳が、面白い玩具でも見つけたかのように光っている。人をからかうのが好きなのかもしれない。 わからない事があれば何でも訊いてと言ったくせに焦らすんじゃねーよと思ったけど、知るのも怖い気がする。 俺は迷った挙句、正直な気持ちを言った。 「・・・・・・知りたくはないけど、ぼったくられてるなら、正規の値段にしてもらいたいです」 「だったら大家の前で、無理心中って言ってみな。たぶん安くなるから」 俺はその日、ビビリまくって、彼の部屋に泊めさせてもらった。慣れない部屋に、一人でいるのが怖かったのだ。 しかし、翌朝自室に帰ると、さすがに担がれたのだと自覚した。彼の話が本当だとすれば、彼は俺よりももっとやばい部屋に住んでいることになる。いくら家賃が破格だといっても、あんなに平然と住めるわけがない。 今頃彼は、腹を抱えて笑っていることだろう。 それでも数日後、大家の前で言われたとおりに呟いてみると、三万五千円の家賃が、一万三千円に変更された。 部屋を出て行くことこそしなかったが、詳しいことは怖くて聞けなかった。 隣部屋 終 '07.5.27 先輩後輩で10のお題 4.『わからない事があれば何でも訊いて』 xxx-titles 様より |