Nonsense Story

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ポケットの秘密 9




 帰宅するのがすっかり遅くなってしまった。遅くなったといっても、外はまだ明るい。夏至が近づいていた。
 私は自室に入るとベットに横たわり、ポケットからカッターを取り出した。この間まで感じていた安堵感に代わって、先ほどの興奮が蘇ってくる。
 最後に靴を切ってから半年以上経っていた。でも、昔どんなふうに切っていたのか、手が覚えていた。切っている間のことはあまり記憶にない。だけど、切り終えた残骸は、以前切っていた時と同じような傷跡を残していた。
 体操着がジャージからハーフパンツに変わるこの時期は、いつも憂鬱になる。
 昨日、クラスメート達の擦り傷一つない脚を見せ付けられる体育の授業の後、どうしようもない気持ちで教室に帰ると、藤田君のロッカーが少しだけ開いていた。それを閉めようとした時、中にあるものを思い出したのだ。
 まだ教室には誰も帰ってきていなかった。藤田君ご自慢のナイキはただの獲物となり、私にこの暗闇から連れ去って欲しがっているように見えた。私はその意思に答えて、靴を持ち出した。
 体育の授業は着替えを考慮して早めに切り上げられていた。お蔭で私は、誰にも見咎められることなく、旧校舎脇の焼却炉へたどり着くことができた。
 でも、アクシデントはそこで起こった。カッターの刃が錆び付いて使い物にならなくなっていたのだ。
 仕方なく昨日は焼却炉の近くに靴を隠し、カッターの刃を取り替え、今日改めて切ってきたのだった。
 部屋の扉がノックされ、母が中に入ってもいいかと訊いてきた。私は急いでカッターを枕の下に隠した。




 昨日登校してきた時、すでに靴が並べてあったので、今日は更に三十分早く家を出た。運動場では、まだ運動部の朝練も始まっておらず、一年生らしい生徒がちらほら準備をしているのが見受けられるだけだった。
 今にも泣き出しそうな空を見上げて、泣きたいのはこっちだとひとりごちる。
 昨日の朝は自主的に早く来たのだが、今日は藤田に強制されて来たのだ。携帯には先ほどから、まだかまだかという奴からの催促メールが何通も届いている。彼は朝練を休み、もう昇降口前のトイレに身を潜めているらしい。靴はまだ並べられておらず、犯人らしい人物も現われていないという。今日こそチャンスだというわけだ。
 燕が地面すれすれを滑空していく。腹が道路にくっつきそうだ。ぼくが自転車で近づくと、直角に曲がって上に飛んでいった。
 自転車を置いて昇降口へ向かっていると、犬の吼え声がした。タカヨシだとピンときたが、いつもの彼女らしくないかなり興奮した吼え方に尋常でないものを感じ、声のする方へ身を向けた。
 すると、一人の女子生徒が走ってくるのが見えた。重そうな荷物と傘を両手で抱えて、つんのめるように走っている。その後ろを鬼気迫る勢いで、タカヨシが追っていた。
 あの様子だと、女子生徒が転ぶのは時間の問題だな、そう思った時、彼女は見事に転倒した。何もないはずのコンクリートの地面で、だ。こんな転び方をする人間を、ぼくは一人だけ知っている。
「赤松」
 ぼくが声をかけるのと、タカヨシが赤松に飛びかかろうとしたのは同時だった。
 犬は彼女を飛び越え、赤松の手から転がり落ちた鞄の端を咬んで引っ張っている。牙を剥いて唸っているところをみると、何か怒っているようだ。
 ぼくはタカヨシに駆け寄り、おとなしくするようなだめた。なかなか鞄を口から放さないタカヨシに、仕方なくさっきコンビニで買ったパンを進呈する。少し千切って犬の鼻先に持っていくと、眉間から鼻にかけて寄っていた皺が薄れ、タカヨシの目がいつもの優しいものに戻った。
「何かあったの?」
「ん。なんでもないよ」
 へらへらと笑いながら、赤松が立ち上がった。左足の膝が少し擦り剥けて、血が滲んでいる。
 なんでもなくて、タカヨシがいつも餌をくれる赤松に襲い掛かるわけがない。昨日の朝も同じように追いかけっこをしていたが、あの時もじゃれ合っていたわけではなさそうだ。
 しかし、何事もなかったように鞄を拾っている赤松の表情には、何も言わないぞという意志が表れているようだった。こうなったら、こいつに何を言っても無駄だ。赤松はぼーっとしているくせに、妙に頑固なところがあるのだ。
 赤松の擦り傷から流れる血は、洗ってもなかなか止まりそうになかった。ぼくも彼女も絆創膏を持っていなかったので、藤田に事情を話し、一人で行けると言い張る赤松を引っ張って保健室へ向かった。
 保険医がまだ来ておらず、やっと絆創膏を貰って保健室を出た時には、すでに始業十分前になっていた。
 昇降口の前を通ると、藤田の姿はもうなかった。生徒達の話を小耳に挟んだ限りでは、今朝は盗まれた靴は返ってこなかったようだ。
 ぼくは断る赤松の荷物を無理矢理取り上げ、彼女の教室へ運んだ。赤松は抗議の声を上げつつも、びっこを引きながら付いてきた。
 教室の扉を開けると、何故かその場にいた全員がこちらを注目した。皆後ろのロッカーの辺りに集まっている。
「赤松さん・・・・・・」
 そんな誰かの呟きが聞こえるや否や、藤田が整列している机を押し倒しそうになりながら、ぼく達のいる教室前方のドアの所へやって来た。先ほどのタカヨシに負けないほどの剣幕だ。
「なんてことするんだよ! この前、こいつと手を切れって言ったのを根に持ってたのか!?」
 藤田はぼくを指差し、掴みかからんばかりの勢いで赤松に怒鳴った。赤松は目を白黒させて彼を見つめるばかりだ。ぼくも彼女同様、ことの成り行きが把握できずに呆然としてしまう。
「もうバレてんだぞ! 赤松さんがしたこと!」
「赤松が何したってんだよ?」
 あまりのことに頭が付いていけず、何も喋ることのできないでいるであろう赤松に変わって、ぼくが訊いた。
 藤田は、ぼくの問いに口で答える代わりに、教室の後ろへ顎をしゃくった。ロッカーの前に集まっていた生徒達が教室の両端に分かれて、扉の開かれた箱が露わになる。中にはズタズタに切れ目の入ったスニーカーが横たわっていた。
「あれ、お前の靴?」
 ぼくの問いに、藤田が大きく頷く。見付かって良かったな、などと言える状態ではなさそうだ。
「・・・・・・あれって、わたしのロッカー?」
 赤松が聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「俺の机の中にこの紙が入ってたんだ」
 藤田が差し出した紙を広げると『あなたの靴は赤松二枝のロッカーの中』とワープロの文字で書かれていた。
「この学校に、他に赤松二枝なんて人いないだろ。悪いと思ったけど、ロッカーの中を勝手にあらためさせてもらったんだ。そうしたら、あの通り俺の靴が出てきたってわけ」
 藤田は赤松にではなく、ぼくに説明するように話した。そして赤松に向き直ると、詰問口調で言った。
「赤松さんがやったってことだろ?」
「そんなわけないだろう」
 思わずぼくが声を上げていた。
「おまえじゃなく、赤松さんに訊いてる」
 藤田は赤松を睨んだまま、ぼくを制した。ぼくも赤松を見る。彼女は放心したように突っ立っていた。
 流されるな、赤松。心の中で呟く。
 ふいに赤松が顔を上げ、教室内を見回した。彼女の視線を追うと、杉本と田口のデコボココンビにぶち当たった。
 杉本は怯えたような表情で、田口は責めるような表情で、それぞれに赤松を見つめている。どちらの表情も、赤松の無実を信じているというものとは程遠かった。
 赤松は肩を落とし、両手を握り締めた。俯いてポツリと言葉を漏らす。
「・・・・・・めんなさい」
「は?」
 藤田が大げさに聞き返す。赤松は震える声で答えた。
「ごめんなさい。全部わたしがやったんだ」
 彼女の代わりに、六月の空が泣き始めていた。


つづく



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