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Nonsense Story
18
エピローグ
「あなたのパパを、私にくれない?」
篤史の母親の一時退院が決まった日、担当看護師だった白石久美子が病院の庭で彼に言った。
いつもひまわりのような笑顔を顔いっぱいに咲かせて、篤史達を励ましてくれたお姉さんが、泣きそうな顔で幼い篤史を見ている。頬に触れる彼女の白い手は、今が夏だとは思えないほど冷たかった。
「ママはきっと良くなるわ。そうしたら、篤史君達はまたママと一緒に暮らせる。でも、私はずっと一人ぼっちなの。だから、パパは私にちょうだい」
この時、篤史の母親は確実に快方へ向かっていた。この数日後に死んでしまうなど、誰が想像できただろう。
久美子は白いワンピースが汚れるのも気にせず芝生に膝をつき、篤史と目線を合わせている。その寂しげなまなざしに、篤史は泣きたいほど悲しくなった。彼女にいつもの笑顔を取り戻して欲しかった。
「いいよ」
篤史はこっくり頷いた。
「でも、お姉さんにあげちゃったら、ぼくと明代のパパがいなくなっちゃうから、貸してあげるね」
篤史は去年のクラスメイトからの電話を切ると、よろける足でトイレに駆け込んだ。
鍵をかけ、様式の便器の前に屈みこむと、右手の人差し指と中指を口に突っ込み、喉の奥がえずくのを待つ。
なかなか吐き気は上がってこなかった。額やこめかみから、汗だけが流れてくる。
飲み込んだ物を再び出そうという行為は、とても気持ちの悪いものだった。
それでも我慢して、一度息を吐いてから、また指を思い切り口の奥に差し入れる。それを数回繰り返していると、やっと食道のあたりがうずいてきた。篤史はそれを促進させるように、更に指を挿入し、便器に突っ伏した。
あの女の顔が浮かぶ。生気のない白く透き通った肌。幸せに潤んだ瞳。
彼女には、駆け落ち生活の悲哀も、長年の貧乏暮らしのくたびれも感じられなかった。あるのはただ、濃密な父の気配だけ。
死に顔は見ていないが、落ちてくる姿は天使のようにさえ見えた。
あの顔に、少しでも生活の疲れが出ていたら、年相応にシミや皺ができていたら。あの瞳に映っていたものが、父との幸福な時間ではなく、未来を憂う不安であったら。自分の取った行動は、違ったものになっていたのではないかと思う。
せめて一瞬でも、彼女の瞳が捕らえていた自分が、父の面影でなく自分自身の姿だったなら。
どれくらい便器に顔をうずめていただろう。何度も嘔吐を繰り返し、体から酸っぱい液体しか出なくなると、篤史はやっと立ち上がった。全身が水を被ったように汗で濡れていた。それでも体は少し寒気がするようだ。
もういいだろう。胃はほとんど空になったと思う。飲み込んだのはほんの一包分くらいだったはずだ。もしまだ体内に残っていたとしても、一日か二日くらい眠気とだるさに悩まされるくらいでなんとかなるだろう。
篤史は洗面所で顔を洗い、ふらつきながら自室まで引き返すと、学習机の上に置いた珈琲の空き瓶を手に取った。中には白い粉が三分の二くらい入っている。篤史が、白石久美子の部屋からくすねてきた睡眠薬の散剤を、包装から取り出して詰めたものだった。
あの日からずっと、白石久美子が死んだらこれを飲み干そうと思っていた。
そして昨夜、彼女は死んだ。
篤史は今日、調子の悪い振りをして、家族が出払ったら決行しようと考えていた。祖父が出勤し、妹が遊びに行き、祖母が買い物に出掛けるのをじっと待っていたのだ。
全てが順調に運び、やがて家には篤史一人になった。彼は用意していた1.5リットルのペットボトルに入った水を冷蔵庫から運び出し、それを水腹になるくらい飲まなければならないと覚悟した。それくらい薬の量は多かった。全て飲み干せるかどうかは不安だったが、そうしなければならないと思っていた。薬の効き目を強める為、アルコールも用意した。
全て飲むには、一度にたくさん口に含まない方がいい。粉だからあまり口に入れるとむせてしまう。そう考えた篤史は、面倒でも少しずつ飲み込むように、粉薬をスプーンですくって口に運ぶことにした。アルコールは一緒に飲もうかとも思ったが、途中で眠りこけてしまわないように終わりの方で口にすることにしていた。
去年のクラスメイトからの電話は、ティースプーン一杯分を飲み下したところでかかってきたのだった。
篤史は壁に手をつきながら、おぼつかない足取りで再びトイレに行った。そして珈琲瓶の蓋を開け、便器の中に睡眠薬を流し込む。
白い粉がさらさらと音を立てて水の中へ落ちていく。まるで、昨夜の久美子のように。
上から見ると、落下する久美子はこんな風に見えたのかもしれない。
白い残像が、まだ脳裏に焼き付いている。
彼女は踊るように空から舞い降りてきた。藍色の空に白い女のコントラストが、網膜から離れない。
頭がくらりとして、自分も吸い込まれそうになる。
まだ薬が残っているのだろうか。このままこの粉と一緒に自分も――。
もう致死量は残っていないと分かっていながらも、そんな考えが頭を過ぎる。どうせ目撃もされているのだ。
去年のクラスメイトには、昨夜は誰にも見られなかったと言ったが、実際には植え込みで人とぶつかっていた。すぐに立ち去ったので相手の顔は見ていないが、肩まである髪に華奢な体つき、そしてその人物が発した声によって、自分とそう変らない年齢の少女であっただろうと推測している。
ぶつかったのは、あの女が倒れている現場といくらも離れていない場所だった。彼女は一部始終を見ていたに違いない。今頃、警察に駆け込んでいるかもしれない。
篤史は粉を流す手を止め、目を瞑った。そのまま瓶を傍らに置くと、例の少女の言葉が蘇った。
――死なせない、絶対に。
彼女は篤史に向かってそう叫んだ。
瞼の裏に、肩より少し上で髪を切りそろえた少女の姿が像を結ぶ。その顔には見覚えがあった。
知っている人間を当てはめているのだろうか。回らない頭で彼は考える。暗闇の少女は、何かを訴えるように篤史を見つめていた。
いや、違う。あれはやはり彼女だったのだ。大声を出すはずがないと思っていた人間が叫んだから、声を聞いても同一人物だと気付かなかった。死なせないというのは、あの女をということだと思っていたけれど、そうではなく俺を死なせないということだったのだ。だからあいつが電話をしてきた。
そう結論づけると少女の姿は消え、何もない暗闇に別の声が聞えてきた。
――死ぬな。
今度は幻聴かと思い、重い瞼を上げる。案の定、そこには誰もいなかった。
それでも声は続いている。
――一人で抱え込むのが嫌なら、俺が一緒に背負ってやる。お前の代わりに覚えてやっててもいい。
狭いトイレに響いているのか、自分の頭の中だけで響いているのか、よく分からない。壁にある魚形のシミが、茶色い水溜りのようにぼやけている。蝉の声がとても遠くから聞えてくるような気がする。格子のついた小さな窓から入る日の光だけが、今が昼間で、あの夜の病院ではないことを物語っている。
次に聞えた声は、まだあどけなさの残る少年の声から野太い大人の男のそれへと変化していた。
――幸せになれ、篤史。
篤史はもう一度目を閉じた。
――幸せになれ、誰よりも。
今度は瞼に力を入れ、くっきりと目をこじ開ける。ぼやけていた壁のしみが、カメラのピントを合わせたように、きちんとした魚の形として目に映った。
瓶を持つ手に力を込め、思い切って便器の上で逆さにする。ザッと空気を切る音に続き、ボッチャンと情けない音を残して瓶が空になった。
水を流すレバーに手をかけながら、篤史は呟いた。
「生きてやる」
思い切りレバーを回すと、自分を殺すための道具はあっけなく溶解した。
「生きてやる」
目をカッと見開き、白い最期を見届ける。昨夜下から見たものを、今度は上から確認するように。
「生きてやる。でも、あんた達大人に言われたからじゃない。あいつらに言われたからだ。いや、俺自身のためだ」
水音に掻き消されるくらいの小さな声で、篤史は呟き続ける。
白い粉に、白い屍に、宣言するように。
「生きて、生きて、生きて、絶対に幸せになってやる」
父よりも、母よりも、あの女よりも――!
篤史くん、今日は私に付き合ってくれてありがとう。
あなたに伝えるべきだった言葉があります。でも、とても口では伝えられそうにないので手紙にさせてもらいました。
私があなたにしたことを考えれば、あなたがこれを破ってしまわずに読んでくれるかどうか心配だけれど、これしか方法を思いつきませんでした。ごめんなさい。
あなたのためにも、あの人のためにも、あなたがこの手紙を読んでくれることを祈っています。
あなたがうちに来てくれた時、私はあの人の最期の言葉について偽りを言ってしまいました。本当は私が病院に駆けつけた時、彼はもうほとんど意識がなくて、来たのが私だということも分かっていなかったの。私が手を握っても気付いていないみたいでした。そしてうわごとのように、ずっと同じ言葉を繰り返していました。
あなたは私の集めていた睡眠薬を持っていってしまったようだけど、私はもうそれを使う気はなくなっていました。あの人のところへ逝きたいと思って溜めていたものだけど、いざとなったらとても自分では決行できなかった。生き残ってしまった場合に待っている辛い治療や、死の恐怖を考えると、どうしても躊躇ってしまって。
それで、あなたたちに訃報の葉書を出し、もしも来てくれたら手伝ってもらおうと考えたのです。
そうです。私は、あなたたち兄妹のどちらかに死神になってもらうために待っていたのです。
もう二人とも来てくれないと諦めかけていた時にあなたが来てくれて、とても嬉しかった。しかもあなたはお父さんにそっくりになっていて、これ以上ないほど理想の死神でした。
でも、いくら外見が理想でも、本当に死をもたらしてくれないと目的は達成できません。それで私はあの時、わざとあなたを挑発するようなことを言ったのです。
私たちの生活がいかに幸福で、いかに愛に満ち溢れていたか、私は切々と語りましたね。あれは、あなたの嫉妬心を引き出し、煽る為でした。実は、部屋もあなた達が来るまではいじらないようにしていたのです。あの人の匂いをわざと残しておくために。
あの人と私が愛し合っていたのは本当です。でも、あの人が一番大切にしていたのは私じゃなかった。私は、幼いあなたに言われたとおり、あの人を借りていたに過ぎなかったのです。
あの人は、一人の男性である前に、あなた達の父親でありたいと思っていたようでした。もちろん、私との生活でそのことを口にされたことはありません。でも、私はずっとあの人の中で二番目の存在であることを感じていました。あの人が、私の中に元気だった頃のあなた達のお母さんを見ていたことも承知していました。病気は人を変えてしまうから。
卑怯だと、とても浅ましい女だと思うでしょう。私はあなたに殺してもらうために、世界一幸福な女を演じていたのです。
でも、あんな演技であなたの嫉妬を掻き立て、本当に殺してくれるかは不安でした。あなたはとても利口そうだったし。あなたの思いつく方法なら、どんなことにでも身を委ねるつもりでしたが、何もしてくれないのでは意味がありません。
だから、薬が入れ替わっているのを見た時には、涙が出るほど嬉しかった。きちんと死ねるかどうかは疑問でしたが、絶対に入れ替えてある分だけは服用しつづけようと思いました。
その薬もあと四日分です。私はこのまま生き延びてしまうかもしれません。でも、もし私が死んでも、あなたに罪はありません。これは、私自身が作り出した死神がやったこと。あなたがやったことではないのですから。
だから、あなたは罪の意識など感じないでください。殺人まがいのことをしたと思って、命を断とうなんて思わないで。どうか、私の部屋から持ち帰った睡眠薬は、全て捨ててしまってください。
これは私だけでなく、あなたのお父さんとお母さんのためでもあるのです。
あなたのお母さんも、病院でよく仰っていました。あなた達には、自分のような辛い思いをすることなく、幸せに長生きをして欲しいと。
最後に、あなたに伝えるべきだった言葉を聞いてください。あの人がずっとうわごとのように繰り返していた言葉。あなたのお父さんの最期の言葉です。
篤史、明代、幸せになれ。
誰よりも。
誰よりも幸せに。
平成××年八月一日
白石久美子
片岡篤史様
追伸 おこがましいとは思いますが、私も篤史君の幸せを祈っています。
心から。
―終わり―
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あとがき
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