仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2024.05.08
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カテゴリ: 宮城



■今回のシリーズ
利府線(山線)の跡を訪ねて(その1) (2024年05月08日)
利府線(山線)の跡を訪ねて(その2) (2024年05月10日)
利府線(山線)の跡を訪ねて(その3) (2024年05月10日)
利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)
利府線(山線)の跡を訪ねて(その5) (2024年05月12日)
利府線(山線)の跡を訪ねて(その6) (2024年05月15日)
利府線(山線)の跡を訪ねて(その7) (2024年05月17日)
利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場 (2024年05月18日)
利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標 (2024年05月26日)
東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原
東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅 (2024年06月02日)
東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋 (2024年06月03日)

まずは現在の利府駅の外から、レール終端とホームを眺める。遠方は新利府駅、岩切駅方面だ。





駐車場わきの道を、その住宅の辺りまで進んでみると、下の画のように、住宅の先に建物が見え、SENKEN(仙建工業)とある。緩やかに曲がった区画の雰囲気は、ルート跡の名残だ。


さらに北側に回ってみて建物を撮ったのが次の画で、遠方は利府駅になる。仙建工業(株)仙台新幹線出張所、との看板があった。私有地につき関係者以外の立ち入りは固くお断りします、防犯カメラ作動中、と書かれているので、立ち入らず道路を挟んで(利府自動車学校・森郷児童遊園の側)から撮影。


さて、さらに旧線の先を望む(道路の仙建工業寄りから撮影)と、割とわかりやすく、ルートが森郷児童遊園に包まれるように伸びていく。


その森郷児童遊園(SL公園)の中に、鉄道についての解説板が、SLの動輪のモニュメントの両脇にある。比較的新しい。実は最近まではSLの機関車が置いてあったのだが、維持管理ができなくなって置き換えたようだ。以前あった機関車は、C58-354で、東北新幹線仙台総合車両基地の建設を記念して、利府町が誘致して昭和50年8月に設置されたが、当該機関車は昭和19年製造、走行距離は125万キロで昭和48年12月まで現役として活躍していた。


看板の説明を読もう。



 現在の利府町域に現東北本線が姿を現したのは、1890(明治23)年のことです。現在の県道8号線(利府街道)に沿うように現町域を縦貫し、松島町の愛宕駅付近からは現在と同じ経路を走っていました。
 開業当初、赤沼に信号場が置かれましたが、利府に駅はなく、1894(明治27)年に利府駅が開業しています。敷地を加瀬村の佐々木佐太郎氏が寄贈するなど、地元の力が実現した駅の開業でした。
1944- 並走する「山線」と「海線」
 1944(昭和19)年、東北本線の岩切~品井沼間を海沿いで結ぶ、新しい線路が敷かれます。すでに大正年間から、従来のルート上にある急勾配区間が輸送上問題視されており、昭和初期には仙塩地方の工業化も構想されていました。これに戦時中の軍需物資の輸送強化という要請もあって敷設に至ったようです。
 以後、東北本線の岩切~品井沼間は、従来の線路「山線」が主に旅客、新しい海側の線路「海線」が主に貨物を取り扱いながら並走し、東北と関東を結びつけたのです。
1956- 「海線」の複線化と「山線」の廃止
 「海線」登場と同時期、東北本線の複線化も計画されました。戦中の資材事情で遅れていましたが、1953(昭和28)年から工事が再開され、1957(昭和32)年には陸前山王~品井沼間を除いて複線化されます。この間、1956(昭和31)年には「海線」に塩釜駅や新松島駅が設置され、列車の運行割合も「海線」が多くなるなど、「海線」の東北本線「本線」化が進行します。輸送力を強めたい国鉄(当時の日本国有鉄道)は、残る陸前山王~品井沼間の複線化を進め、これが完了した1962(昭和37)年に「山線」は廃止されました。
1962- 支線の終点として利府駅は残った
 「山線」の廃止後も、「山線」の駅である利府駅が残った背景には、利府住民の強い請願がありました。 利府町教育委員会の資料によれば、「山線」の廃止計画は、1949(昭和24)年に発表されました。すると利府では、翌年から「山線」と利府駅存続の請願活動がはじまっています。
 利府駅廃止反対期成同盟を結成して仙台鉄道局や東京へ陳情をし、その年のうちに衆議院で利府駅の維持が決定されました。その後も存続を望む活動は続けられ、列車運行数を減らさないために貨物を取り扱い、村民へ駅の利用を呼び掛けるなど、利用者側の努力で利府駅の重要性を示そうともしています。このように、開業時と同様、住民の強い思いと行動が、いまに利府駅を残したのです。
(年表)
1984 利府駅開業
1944 「海線」開通 従来の路線は「山線」に
1945 太平洋戦争終結
1949 「山線」廃止計画発表
1950 「山線」と利府駅存続の請願活動がはじまる
1956 「海線」に塩釜駅や新松島駅が設置
1957 一部を除き複線化
1962 全面複線化完了と同時に「山線」廃止 利府駅は残り、支線の終着駅となる
1964 東京オリンピック開催
1975 東北新幹線の建設を記念して SL・ELを本町へ展示
1982 東北新幹線が大宮-盛岡間で開通
1986 駅舎改築
1987 国鉄分割民営化
2022 SL・EL老朽化により SLのみ動輪をモニュメント化




また、この公園にはSLとともに電気機関車ED91-11も屋外展示されていた。1954年に始まった仙山線の交流電化試験に使われた試作機4両のうちの唯一現存した1両だったそうだ。試験は成功し、57年9月国内初の交流電化営業運転が、仙台-作並間で実現。4両は引き続き仙山線で活躍した。鉄道の電化は直流が早く進んだが、交流は変電所の数が少ないなど経済性に優れ、トンネルの多い区間でも導入が可能で東北の幹線の電化が飛躍的に進んだ。また、試験の知見は高速化に貢献し、交流方式の東海道新幹線が東京五輪開幕の9日前に開業できた。
(2021年7月24日の河北新報記事から。保存を訴える元技術者のインタビュー記事だ。)

利府線(山線)の跡を訪ねて(その2) (2024年05月10日)に続きます。
■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト 鉄道敷設史 をご覧ください)
仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」 (2016年2月11日)
宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか) (2012年1月1日)
やっぱり当初は角田か 東北本線ルート (2011年9月15日)
東北本線ルート 白石か角田か (2011年9月5日)
宮城県北の東北本線ルート(再び) (2011年8月24日)
宮城県北の東北本線ルート (2011年8月20日)
塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史 (10年5月11日)
大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力 (07年1月5日)
宮城県内の東北本線のルートの話 (05年11月27日)





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最終更新日  2024.06.03 23:20:18
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