自分の玉手箱

自分の玉手箱

My life without me


普通の人が一生かけて成し遂げられるかどうか、という課題を短時間に集中的にもれなく行うために冷静にリストを作ってみただけで、実際には達せられなかったこと(タバコとお酒を好きなだけ、とか)もあるし、すべて達成できたかどうかなんて問題じゃない。
"My life without me"の方がはるかに優れたタイトルだと思います。
彼女の肉体がこの世からいなくなっても、彼女は残された人々の世界にちゃんと存在する。
そういう自分の存在を用意周到にこの世に残しただけ、なんだと思います。
それに、他人の評を読んで辟易とするのが、夫以外の男性…の部分に批判的な人のなんと多いことか。
まあ、世の中にまだまだ健全な倫理観が存在するのだという点では安心できますが、この映画の最も重要な要素の一つを真っ向から否定するなんて。
この映画でアンが求めたことは、不倫によって得られるスリルや快楽とかそういうものとは程遠く、自分が主体的に行動した場合の自分の女としての可能性を知ってみたかっただけなのでは。
なんといっても、アンは若くして、自分が考えて選択する以前に夫と子供との生活に収まってしまっていたのだから。
彼女と知り合ったことで、リーは人生の闇から這い上がりました。
彼女の存在があったからこそ、彼はこれから先も前向きに生きていくことができるでしょう。
彼女への愛、彼女の彼に対する愛が、彼の人生に対する姿勢を変えた。
こんなにも女冥利に尽きる出来事はないのではないでしょうか。
それに、彼女はある意味夫に対して背徳を働いたけれども、別の観点からすれば、彼女の夫に対する愛は不動のもので、リーに対して愛情を抱くことによってこれっぽっちも天秤にかけられてはいない。
彼女のように家族を、夫を、男性を愛し、また担当医のように信頼のおける人物と出会えたというのはすばらしいことで、この映画において彼女が幸せな人生をまっとうするために無駄な要素は一つもなかった、と私は思います。
この映画は淡々としすぎているし、最後も苦しみの部分を描くことなくきれいに終わっている、という批判に対しては、これだけの内容を呈する映画においてそういった部分を描くことになんの意味があるでしょうか。
そんなのは、普通に想像すればわかることで、彼女は当然愛する夫と家族と、おそらく子供達の新しいお母さんに見守られながら苦痛の時間を過ごし、最後を看取られたことでしょう。
自分は死んでしまえば苦しくもなんともないのだから、そんなことはどうでもよく、それよりも残された自分の愛する人たちに精一杯の幸せを望み与えようとする生き方。
この映画はむしろ、淡々と描かれているからこそ悲しいのであって、あえて観客の同情を買うための悲壮なシーンを入れる必要はないと思います。
また、お父さんの言葉の重さも見逃せません。
この世には、本当は家族のことを愛しているんだけど、家族が望むような形で愛せない、そうしたくてもできない人間がいるんだ、という発言。
この部分は、実際に私の父がそういう人で、死を目前にした病床でやっとのこと父を素直に受け入れることができた私だからこそ強く反応してしまうのかもしれませんが、映画の中でアンとお父さんにとっても、大切な意味を持つ最初で最後の再会だったと思います。

繰り返し観るに耐える、奥の深い名画だと思いました。



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