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海の日といえば、毎年名古屋のみなと祭が開催されます。夕方7時半から、花火大会も開催されます。花火を家からでも見れるのですが、近くの公園に行くともっときれいに見れます。母の一年に一回の楽しみなので、今から着替えさせて花火を見てこようと思っています。お天気もいいので、きれいな花火が見れるでしょう。蚊に刺されないように対策していきます。帰りには、うどん屋さんによって、母の好きなうどんでも食べて帰るとしましょう。
2010.07.19
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昨日今日と雨が続きます。昨日に比べて今日は、雨足も強くかなり雨量になった模様です。しかも昼過ぎから落雷がとどろき始め、母が怯えだしました。母は小さいころ目の前に雷が落ちて以来、雷が嫌いなのです。とうとう近くで雷が落ちた時母が「ギャー」と叫んでいました。「私のおへそは、まずいから雷さんあっち行って」と叫びながら。そうした時はじっと、母の手を握ってやると落ち着きます。雷がなるときの行事みたいなものですね。
2010.06.27
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さあいよいよ、サッカーワールドカップの日本とオランダの一戦が始まります。日本がこの一戦に勝てば、決勝リーグ進出が決まります。なんとしてでも勝って、決勝リーグ進出して欲しいですね。がんばれ!日本。
2010.06.19
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昨日母の受信で病院に行きました。なんとそこで天皇、皇后両陛下にお会いしました。母が受診している病院を天皇、皇后両陛下が視察なされたのです。母が人目みたいと言うので、車椅子を止めてみようとしたら、警備をしている警察官の方が、母を近くまで移動してくださいました。その上なんと、天皇、皇后両陛下が母の近くにおいでになられた上、お言葉までかけて頂きました。母は感激のあまり、泣き出してしまいました。病院の受診が終わり、家に帰る時車の中で「冥土の旅のいいお土産話が出来た」と喜んでいました。本当にいい一日でした。
2010.06.16
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昨日母とサッカーのワールドカップを見ていました。母は眠たくなるのを必死に抑えて、見ていました。南アフリカは、惜しい引き分けでした。これから一ヶ月睡眠不足と戦いながらの、ワールドカップ観戦になりそうです。今から韓国の試合をみます。
2010.06.12
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東京へ行って、ある私塾のセミナーに行ってようやく落ち着きました。1月1日から、20日あまり疾風のごとく過ぎ去りました。今までお付き合いしていただいたお方で、わたしを助けてやろうという奇特なあなた!まだ押していないなら、ぽっちっと愛の一票を!「団塊世代のわたしがサイトで稼ぐリアルタイム報告書」メルマガ登録して、わたしの成長を見守ってくださいませ。お願いします。
2008.01.18
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きのう長寿医療センターで、婦人科を母が受診しました。「こんな年寄りばかりがくる病院で、何で産婦人科があるんだろうね」そんな母だから、受診を嫌がります。「頭は悪くなってるが、産婦人科に何の用があるの」「もうお嫁さんに行くこともないのに、それに私はもう更年期過ぎたのよ!」病院も心得たもので、産婦人科は病院の突き当たりに、あります。しかも対面は眼科。だからその患者さんは、産婦人科にかかるのか、眼科なのかよくわからないように配慮されています。私も母に気遣いするため、こういって受診させます。「今日は主治医の受診前に眼科を受診するよ」「そう、あたまもだけれど、お目めも悪くなってるからね」そしてきのうは、 骨粗鬆症の検査をしたのです。10年振りの検査です。そのときも検査結果がよくありませんでした。だから結果が悪くて、また薬を飲まなくてはいけないのかと思っていました。その薬も今では、一週間に一回飲むだけで効果があるのがでてるそうです。でも今回は「お母様、非常によくて問題がありませんよ。 背骨なんか50代ですよ」「あれ、もう一回お嫁さんにいけますね。子供は産めないけれど」「今日お母様車椅子はどうされました?」「先生おかしいこと言いなされますね。私は自分で歩けますよ」「そうでしたね、私が勘違いしてました」「先生人間歩かなくなると、パーになりますよ」女医さんのあたたかい対応に、感謝するばかり。「お母様、もう結果がいいので、漢方薬の処方が決まりました。 私はこれから、三ヶ月に一度お目にかかりますね」「そうですか、少し残念ですが、それまでお体をいたわってくださいませ」「お母様も、お大事に」診察室を出る母が、げんきに歩行器「オリーブ・松永製作所」を、押して出ます。私が購入した車椅子が、要らなくなったのです。。「今度主治医の○○先生に見せなくてはね」「歩くところを、お見せするの」「おばかさんだね。あんたが買ってくれた誕生日プレゼント見せるのだがね」今度は介護保険でレンタルしたのですが、母は誕生日プレゼントと思ってるようです。「ただね色が不満なの。ピンク色のが出たら、最後のお願いだからもう一回買ってね」はいはい、喜んで借金してでも、今度は「ピンク色の歩行器」を、プレゼントします。それまでげんきに長生きしてくださいね。
2007.03.10
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今年からは、リニューアルした気持ちで、日記の公開をします。その意味は、母と私の過去の決別宣言です。過去にいつまでもとらわれていては「前に進めない」でも今までにかかわりあったもので「いい財産は残していこう」上のコンセプトの下に、この二ヶ月動き回りました。そうです、母が去年の12月4日「てんかん発作」を起こしてからです。今度ばかりはだめだと思いました。今でも母のあの姿が、焼きついて離れません。その姿はわたしの頭の中にしかありません。母も幸いなことに、そのことの記憶はありません。でもそのイメージは伝えられます。誰に伝えるかが問題です。「てんかん発作」を見たことのない人には残念ながら、私の能力不足で伝えきれません。わたしは、二人の人にお教えしました。一人は主治医で、もう一人は母の受信日にに応対していただける看護婦さんです。主治医は立派な方で、看護婦さんを○○さん。利用者・患者さんもそう呼びます。医者になって30年過ぎようとしている方です。日野原重明先生と共に、長生きしていただき、多くの方を救っていただき、後継者を育てて欲しいと願う人物です。「今が旬」母が語る先生の、イメージです。看護婦さんは、私たち母子が好きになるタイプです。母も幼いころから太っていて、私もどちらかというと、肥えた方が好きです。しかしその女性は、仕事の間は無駄口を叩きません。出来る範囲で、すばやく動こうとしていらっしゃいます。笑顔もいつも耐えません。昔の私なら、すぐ口説きましたね。今は母がそばにいるので、出来ません。残念!そんな方たちに支えられている、母と子。信頼関係も出来つつあります。主治医は、母と同じ誕生日。看護婦さんは、私たちが今住んでいるところに実家があります。運命を感じます。大きなものがここまで運んでくれた気がします。「大府」主治医・看護婦さんの勤める長寿医療センターが、存在するところです。私たち、親子四人が、元気に・希望にあふれ・明日を信じていた場所です。母は今こういいます。「私は、小さいころからず~っとしあわせだった。 だんなさんが死んでから苦労のしっぱなしだったわ」そうたった、九年だけが、私たち親子の幸せだったときです。大府に引っ越して、父が急死するまでの、九年が私と母の大事な思い出・心の支えです。
2007.01.27
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母が女学校の同窓会に参加した。卒業以来60年は経っています。中部新国際空港脇にあるセントレアホテルでの同窓会。総勢21名でした。二時間あまりだと言うのでわたしは、その間セントレアの探索。あまり興味を引くものがなかったので「宮の湯」で、温泉につかりました。空港が眺められる温泉なのですが、眺望はあまりよくありませんでした。少し早めに会場に戻り、皆様の話を遠くから聞いてました。その多くはだれだれさんが死んだなどと、訃報の話し。母も皆さんも長生きだと感じました。最後にホテルのサービスで写真撮影。足の悪い母は皆さんに支えられての撮影。母が「皆さんチーズですよ」と言ったのには驚いた。またの機会の再開を期して、散会です。皆さん高齢ですので、またあるのかもよくわかりません。母は最初で最期かもしれません。「どうだった?」「来て良かったよ。ありがとうね」「また参加しようね」「うん」「誰が誰よくわかった?」「自己紹介がなかったから、わからない」「それでよく話が出来たね」「懐かしい思い出が、話をさせてくれたのよ」生き生きと笑う母。後何回参加できるのだろうと思うわたしでした。
2006.05.24
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禁煙トライして80日過ぎました。体の主だった変化。呼吸が軽くなった。白い舌苔が消えた。もうこれで主だった変化は、ないでしょう。後は10年禁煙して、肺ガンにならないことです。そうすれば、タバコを吸わなかった人と同じくらいの健康体になれるということです。無事10年過ぎろ!禁煙期間中タバコを吸った夢を見ました。夢の中でも迷っていました。悪魔のささやきが聞こえてきました。「一本いっとく」悩んだ末自動販売機に行きました。買って一本思いっきり吸いました。すごくうまかった。やはり長年の恋人。二ヶ月ぐらいの別れでは引き裂かれないのだと思った。そこで目が覚めました。仏壇に父の好きだったタバコが供えてあります。悩んだ末一本吸ってしまいました。でもまずかった。ここが運命の分かれ目です。またタバコがうまくなる前に、途中でタバコを消しました。まだ何度となく悪魔のささやきが聞こえると思います。そのたび何とか乗り越え、禁煙したいと思います。
2005.10.17
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母は父の死のストレスから糖尿病を発症した。そのころの母の楽しみは読書と寝る前に食べる甘栗。糖尿病がわかって、母がこんな日記をつけていた。先生がこれから長生きしたかったら、体重を10キロ落とすこと。運動をすること。間食をしないことを守るようにとのこと。まだ子供が小さいし、長生きして育てなければ。定年退職するまで、甘栗はヤメにしよう。日記をつけてからはや30年。母は間食をやめ、夕食を7時にはとるようにし、早寝を心がけた。運動は苦手なのであまりしなかったが、間食はよく辞めたと思う。血糖値も落ち着いてきたし、体重も10キロ落ちた。主治医も間食してもいいでしょうという。「母さん好きな甘栗買って来たよ」「わたしこれ好きだった?」「ずーっと、食べなかったから忘れたかな」「先生が間食していいと言ってたよ」「そう、うれしい。今度焼き芋買ってきてね」本当にうれしそうに笑う母。それを見て心がなごむわたし。幸せって何だっけ?少し答えが見えてきた最近です。
2005.10.15
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とうとう長渕剛が年末にコンサート始動します。名古屋→福岡→大阪→東京の四箇所。いままで海外・国内の大物アーチストのライブは、東京・大阪・福岡の三箇所が定番で何度か悔しい思いをしました。名古屋は、大いなる田舎なのだと。最近は少しですが、名古屋にも来てくれるようになりました。今日久しぶりに暇ができたので、ホームページをあちこち見ていました。長渕も見てみようかなと思い見ました。なんとお待たせしましたの文字が。しかも名古屋にも来るし、その会場は全席指定席なので、母もゆっくり見れます。これは絶対切符を取るしかない。今月の30日朝10時から、電話掛け捲ります。
2005.07.14
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いまもガソリンの値段が高くなっています。30年ほど前、ガソリンやトイレットペーパーなどが不足していたころの話です。寮母をしていた母。お盆休み、正月休みにはほとんどの寮生が帰省します。一人母が気になった寮生がいました。彼は学校卒業後一度も帰省していません。履歴書などから彼が継母なのを知っていました。寮生にえこひいきをしない、皆に慕われる母でした。しかし母も人の子。彼が気になってきたのでしょう。皆が帰省しているとき、時々家に招いては手料理を食べさせていたそうです。彼は北海道の出身でしたので、生まれて初めてマトンを料理したこともあったそうです。「その子はね、お前と違っていい子だったよ。わたしの出した料理をうそでも、おいしいおいしいと言ってくれたもの」その彼が同室の沖縄のこと仲がよくなり、一緒に北海道にお盆に帰ることになりました。母は一人で帰りづらいので、友達を誘ったのだろうと思ったそうです。「ガソリンないのに、大丈夫?」「ポリ容器に入れて車に積めるだけ積むから大丈夫」「そう、でも危ないから気をつけてね」「おばさんに木彫りの熊の土産かって来るね」うれしそうに笑う彼の顔と、真新しい白のジーンズ。彼の最期の姿が今でも忘れられないそうです。二人が北海道から帰ってくる途中、秋田のおおまがりで事故に合い、彼だけが焼死しました。積んでいたガソリンに引火したからです。地元の人でもかなり危ない峠道。行きとは違う道を帰り、事故に遭遇しました。彼の遺品を泣きながら梱包し、発送しました。「言っては悪いけど、継母で苦労したんだね」「わたしが送ったのに、届いたとも、ありがとうの連絡もないものだもの」「ガソリンを積んで走るのは違反だと言って、きつく止めればよかった」「遺骨ぐらいは、ちゃんとお墓に入れてくれただろうね」お盆が近くなると、母の心を苦しめる出来事です。
2005.07.09
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晩御飯を食べ、ベットでテレビを見ながら母と話す。今日の出来事はほとんど話せないから、昔話になる。テレビをつけながら話すのは、ニュースを見ながらしゃべっていると、ふと昔を思い出し、わたしの知らないことを話すからである。昨日あちこちでの集中豪雨を見ていたときである。「わたしの実家の前の川に飛び込んだ教え子が、流されたことがあったの」「警察の話だと、一度海へ流された遺体ももう一度川に戻り、そこで見つからないと海に出て、もう見つからないと言ってたの」「父親に頼んで、商売に使っていた船を、三隻川に縦に並べたの」「そこから網を錘につけて、川底に投げたの。それに引っ掛てくれないかと思ったの」夜を徹して母の家族、従業員の作業が続いたそうだ。明け方母は、学校に行くためその場を離れた。昼ごろ教え子の父親から遺体発見の連絡があった。母はすぐに駆けつけた。母がそばによって、頭をなでようとしたとき、その子が鼻血を出したそうです。父親が「本当に心配してくれたり、気をかけたりした人が近づくと、鼻血を流す話を聞いたことがあります」「先生に手をかけた子ですが、本当に心配してもらったことがこの子にわかったのでしょう」私の住んでいる階下に、脳梗塞のご主人を介護されている少し姉さまの主婦がいます。いつも花を育て、笑顔でわたしの大好きな人です。今朝その話をしました。「本当よ。わたしも伊勢湾台風のとき死んだ弟を探し回ったの」「あちこち死体だらけで、あきらめようと思ったの」「家からかなりはなれたところで、ふと見ると鼻血を急に流した遺体があったの」「それが弟だったの」生命の神秘を知った日であり、また生命の可能性を知った日です。まだまだ人類は自分たちの力を知っていません。いつの日か、母の病気も笑って暮らせる日が来る。そんな希望を抱いた日でもありました。
2005.07.05
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母の入院以来、部屋の整理をしている。病院でのリハビリ室を模倣して、一部屋リハビリ室にしている。痴呆になった母は、新しいことが覚えられない。リハビリには、母の思い出の詰まったもので行う。この精神で、母の思い出の詰まったものを一室に集めた。兄弟の学校で作った作品。母の女学校時代の思い出の品。母が寮母勤めをしていたときの寮生のお土産。楽しい母の思い出を集めて、日常目に触れるようにする。すると何かのときに記憶がよみがえるらしく、楽しそうに話をする。わたしの小さいころの記憶にない話を、うれしそうにする事もある。「あんたは手のかからない、いい子だった」「この品はおじいさんが苦労してお前に買ってくれたものだよ」わたしが母と話をする、至福のときである。母の介護をして得られる、密度の濃い時間である。「ず~と、お金には恵まれなかったけれど、それなりに幸せだったよね」「そう言ってくれるとうれしいよ」「母さん、これからもできるだけいい思い出を作ろうね」「うん、お父さん・弟にはもう少し待ってもらって、楽しく過ごそうね」今までなかった光景です。ひたすら金を稼ぐことに終始し、幸せを見失っていた気がします。笑いのある家庭。家庭が憩いの場でならなくて、何の幸せでしょうか。ずいぶん遠回りした気がしますが、気付かないまま母を看取る不幸だけは避けられた気がします。リハビリ室が完成したので、その他の整理をしています。最大の問題は、母の衣服です。こんなにもあるかと思うほどあります。うんざりします。どんなときに着ていたのか、母も私もわからない。母は記憶を失っているし、男のわたしに婦人ものはわからない。だから最近の母は、ほとんど同じものを着ている。こんなとき女手があれば、母に季節に合ったものを着せてあげられるのにと思う。悲しくなるときです。少しずつ整理しながら、母のお出かけに着せるものをみつくろうと思います。とにかく暑くなったから、夏物の発見とコーデイネイトです。今日のデイにはとにかく、それらしきものを着せました。「今日はいつもの服と違うね。涼しくて、おしゃれでいいね」楽しそうに笑って、出かけた母です。
2005.06.28
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退院した病院の帰り、水族館に寄った。シャチもいる、大型の名古屋水族館です。ライブのテレビカメラもついていて、子供さんの明るい笑顔も映し出されます。若いお嬢さんの合図でイルカが、飛び跳ねます。「わーすごい、イルカさんはオリコウさん。私はお馬鹿さん」歯のない口を広げて、大騒ぎ。「パチ、パチ。いっぱいご褒美のえさをもらいなさいね」「イルカさんも、飛びたくない日もあるだろうに。 寝てたい日もあるだろうに。えらいね」「花も、動物も、子供もうそをつかないから好き」「誰が一番うそつきなの?」「おまえ。大学卒業して親孝行するといったのに」あらま、まだ許してくれないか。
2005.05.29
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昨日の母の日に、カーネーッションを送った。カリフォルニア・ロマンスというネーミングと、きれいな黄色に引かれて、鉢植えを買った。照れ隠ししながら「やるよ」「めずらしい。ありがとう」目を大きく開いて、びっくりした母。トイレの前に飾ってやった。用を足しながら「花はいいね。うそをつかないから」私に対する皮肉かなとも思ったが、しょうがない。母に一度も感謝の意味で、花など贈ったことがないのだから。団塊世代の、苦手なことである。飯がうまい、感謝している、ありがとうの言葉を素直に出せないのです。団塊世代の男を夫にした奥様。団塊世代の男を父親に持った、子供さんたち。どうかご理解を!決して感謝知らずではないのです。どう表現して良いのか、わからないのです。団塊世代の男たちに、愛の手を!
2005.05.09
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朝方まで母と、私の小さいころの話をしていた。そこへ一本の電話。「もしもし、○○だけど、亭主とお宅に伺っていい?」母の一番下の叔母である。朝の7時に急に電話して、遊びに来るという。思い立ったら行動する、叔母らしい。年の近い姉弟のように育った私たち。乳飲み子を抱えて、わたしたち母子のもとに逃げ込んだ30年前。一度結婚に失敗し、実家に帰りづらくなっていた、叔母。母のもう一人の叔母と一緒に、だんな様に会った。「もう二度と酒は飲まない。妻子に暴力は振るわない」その言葉通りに、もう30年断酒している。その乳飲み子も、今年嫁ぐ。それらのからみがあって、だんなさまと、顔をだすという。30年ぶりにあうだんな様。昔のぎらぎらした面影はなく、いいおじいさんになっていた。いい笑顔である。来年定年退職する叔母のほうが、やつれた感じである。久しぶりの再開。そして父と弟の位牌に二人で手を合わせていただいた。今名古屋は万博でにぎわっている。夫婦二人で、もう二回も行ったという。それと近くでイタリア村も、オープンしている。だから二人は、イタリア村か、金の鯱を見に行きたいという。私が名古屋城なら母も、みにいけるから、一緒に行こうといった。四人で、金鯱を触った。別れ際、「義姉さん、金鯱触れてよかったね」「ああおかげさまで、冥土の土産ができたわ」再開を祝して、分かれた。帰り道「母さんよかったね。娘さんの結婚式にも出ようよ」「ところで、妹のとなりにいたお人。あれ誰?親切な人だったが、よくわからんわ」あれあれ、この話は永久に秘密にしなければ・・・
2005.05.06
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昨日母と近くの藤前干潟に行ってきた。あいにく満潮で、野鳥はほとんど見えなかった。祭日なのでボランテイアの野鳥の会の方が親切に母が見えるように望遠鏡をセットしてくれる。ただ認知のためか、目が悪くなっているのか、見えないといって寂しそうに、下を向いてしまった。「あんたは見たいのだから、見なさいよ」という。近くの公園で、母と赤いボール玉でキャッチボールをする。国立長寿医療センターでやっていた、リハビリからヒントをもらったものだ。母は生まれてからこんな遊びをやったことがなく、ボールを力いっぱい投げつける。「ごめんね、運動音痴だから。目も見えないし」家に帰って、母と寝ながらテレビを見る。「明日の、デイサービス休んでいけない?」「疲れるのかい」「それもあるけど、こうしてお前と手をつないでいられるのが後どれだけかと考えると、 寂しくなるから」退院後、私が仕事に出かけれるよう、新しいデイで週二日増やした。でも仕事が決まらず、まだ家にいる。「私のわがままだとわかっているけど、寂しいから。 お前といるのが一番いい」母のやさしさに触れた一日でした。
2005.05.04
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トレンドマイクロの、事件に憤慨しているころ。いつも行く喫茶店で、お年寄りと話していた。「こうも、大阪・神戸でいろいろいやな事件がおきる」「やはり地震の影響かな?」「まだなにかあるかな」お年寄りの素直な感想です。家に帰ると、母が興奮している。「お兄ちゃん、あんたの住んでいたとこでしょう。伊丹って」「私の大好きな、田辺聖子さんも住んでるよね」テレビを見ると信じられない光景が。一瞬テロかも、と思った。でも次第にこれが脱線事故だとわかる。10年前に、おきた地震で復興に協力させてもらった土地である。しかも伊丹は私たちが、常宿した宿屋のある思い出の土地。尼崎はよく遊んだ、ダウンタウンの生まれ故郷。23人の死者とのそのときの発表。地震のときと同じように、死者数の増加が予想される。私が深い悲しみに襲われたのは、それだけではない。地震を生き延びた方で、その傷がいえないまま、今回の事件で、尊い命を落とされた方がいるのだろうとの思いだ。私が神の存在を疑う、瞬間だ。母には、列車脱線事故での原体験がある。高等女学校に通っているころの話。母が通学で使っていた私鉄。当時も今も単線です。違うのは当時は、最高でも二両編成だったことです。母の通っていた女学校の近くには、男子の通う高等学校がありました。二両編成の先頭には、女学生。後ろには男子学生。非常時には女子が身を挺して、男子を守る。当時の社会制度を垣間見る、配慮です。ある日母の学校帰りの電車。母の故郷の駅に近づいたとき、ポイント切り替えが行われました。新米の駅員がしたため、ポイントの切り替えのタイミングを間違えました。「ボン・ボン・ボンと体が浮いて、そのうち列車が傾いたのよ」そのとき偶然地方巡業に来ていた、お相撲さんが母のそばに何人かいました。「夢中でお相撲さんの浴衣にしがみついたのよ」当時は女学生が男子の体に触れる。ご法度の世界でした。でもそのお相撲さんはいやな顔もせず、母のするがままにしてくれたそうです。列車は、脱線し傾きました。皆が次々と飛び降りました。母も飛び降りようとしました。でも思ったより窓が高い場所にある。自転車にも、乗れなかった運動音痴の母。「足がすくんで飛び降りれなかったのよ」同級生が励まします。「○○さん、かばんをほかって。そうして思いっきり飛んで」「もうじき列車が倒れるから、早くして」それからの母は、どうなったか覚えていないそうです。ただ無事だったのは確かです。私がこうして生まれたのだから。
2005.04.26
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もう彼がこの世を去り13年たとうとしています。彼のこの世で過ごした時間はあまりにも短いが、その影響力は今でもすごいと思います。15のよる。この歌は、前に紹介したフィリッピンバーのマスターが大好きでした。今ではかなりの財産を残しています。でもこの歌の強烈なメッセージに引かれ酔うとこの歌を口ずさみます。ある日のこと。家に帰ると彼とその歌を歌う母がいました。初対面なのにかれは、「母さん」と呼んでいました。その後何年かは、家に母を訪れ楽しそうにしていました。母も私と違って、あちこち連れて行ってくれる彼が大好きでした。彼が若いお嫁さんをもらったことが、母との別れでした。店が忙しくなったからと、母にはいって置きました。最近記憶を取り戻しつつある母。二、三日前に彼のことを急に語り始めました。私の知らない彼の一面もしゃべってくれました。幼いころ母をなくし、尾崎豊を好きになったわけも知りました。「ねえ、尾崎豊のビデオある?」「死んじゃったから、もうないのかな?」「じゃ、尾崎豊も頼んでおくよ」「パソコンで?」「そう」「じゃ、今日留守番して待ってるわ」今日は消防署で「救命講習」を受けてきます。母を父と同じ死に方をさせないためです。
2005.04.19
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母の退院が決まりました。4月11日の大安です。今の病院では、看護士長が、入院患者の退院を決めます。国立では入院を心待ちにしている人が多い中、ご無理を言って、少し延ばしてもらいました。今まで母は、仏滅も気にしたことなく退院していました。今回の入院は、母子の新しい旅立ちです。大安を狙って退院を決めたので少し伸びました。大府というのは、わたしたち親子四人がつつましくも楽しく暮らした土地です。母はまえから大府の病院に来るのを嫌がりました。わたしの同級生に会う恐れがあるからです。世間に背を向けたような、息子を恥じていたからでしょう。今回この病院に連れてくるとき聞きました。「誰かに会うことを恐れるより、病気のことを考えようよ」「うん、○○ちゃん、頭が馬鹿になったからね」「それは俺にもわからない。先生に聞いてみよう」「うん、それがいいね」そしてこうも聞きました。「おれの同級生で誰に会いたい?」「○○君と、××君と、○×君」みんな医者の息子で、親のあとをついで、医者になっているものばかりです。わたしが小学校のころ彼らと仲良く、将来は医者になろうといっていたのを覚えていたのです。でもわたしの学力では、国立の医学部に受かるのは難しく、彼らが親の金で医者になっていくのをみながら、疎遠になりました。○○君の父親も医者です。わたしの父が急性心不全で亡くなったとき、看取ってくれて、死亡診断書も書いてくれました。彼は親の残した土地ではなく、25年前に違う土地で開業していました。近所の年寄りに聞くと、「あんな良い先生はいなさらんよ」それを聞いて、うれしくなりました。わたしは彼に手紙を書きました。35年に及ぶ音信不通を素直にわびました。しかも郵便ポストに投函したのではなく、玄関のポストに自分で入れました。返事がなければ、許してくれないものと思い、会うのをあきらめようと思いました。でも彼から返事が来ました。そして今年の末に同窓会をやるから来ないかとの誘いでした。彼の友達から聞いた話があります。彼が親の金で、医者になることを悩んでいたときのことです。「丸まる君、おれ医者になるのをあきらめるわ。君みたいに頭がよくないし、どうせ医者になっても、親の金でなったといわれるのがつらいし」「何を言っているのだ。親の金でなっても医者は医者だ。そんなことで後ろめたさを感じることはない。将来お年寄りに慕われる医者になれば、誰も何にも言わなくなるよ」彼は心が軽くなり、医者を目指したという。この話は、わたしは忘れてしまっています。彼の作り話かもしれません。でもわたしは、大変うれしいです。俺もずいぶんかっこいいやつだったんだな、と思えるからです。
2005.04.09
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今日は、このテーマで書くつもりでした。明日、優勝でも、準優勝でもこのことに触れます。わたしの予想では、また準優勝か、それとも、歓喜の雄たけびを上げるか。予想を交えながら書くつもりでしたが辞めます。その理由を今から書きます。母の入院している病院は、国立です。今全国の国立を普通の病院をしていくなか、二年前に、国立としてスタートしました。病院の入り口には、これからの高齢者社会を支えるべくの理念が書かれています。涙が出るほどの言葉が書かれています。医者・看護士・作業療法士・・・などの医療経験者が、利用者を支え、その家族を支えようとの理念です。母の入院している痴呆病棟は、電子ロックがかかります。閉ざされた社会です。でもそのなかで、退院したあとも、なるべく利用者がそのひとなりの普通の生活ができるよう、試みがなされています。わたしは母の入院する病院に毎日通っています。もうそろそろ一ヶ月になろうとしています。病院は、24時間動いています。入院患者がいるからです。土曜日も、日曜日も、夜間も動いています。国立なので、基本的に、土日は休みです。少ない人数でやりくりしています。だから病院での、土日・夜間は大変です。言い換えればそのときが手薄なのです。土日に出てくる介護士は、若い人か・定年まじかの人しかいません。若い人はよくやってくれています。年寄りがだめです。太っていて、根が生えたようです。今日母と、名電の勝ちが決まった瞬間、万歳をしました。根の生えた・太った・根性悪そうな看護士が言います。「ほかの利用者さんがいますので、静かにしてください!」鬼のような顔をしていました。それならあなたは、自分のよく知っている、利用者と毎日大きな声で雑談しているのは何だ。切れかけたわたしを、母がそっと手を握りました。やめました。でもわたしは、明日匿名で、病院の意見箱に、そのことは、要望として書きます。苦情ではなく。その看護士は前に、母と同室の人にこんな話をしていました。「○○さん、どこの歯医者にかかっているの?」「××です」「あそこは、やぶでしょう、行かないほうがいいよ」○○さんは、あとでこんなことを言っていました。「あすこに、行けといったのは、嫁だ!やはり嫁が悪かったのだ!」こんな馬鹿看護士は、早くやめてしまえ。前のわたしならそういうでしょう。でもその人もかわいそうな人だと考えるようにします。でも要望だけは、病院に伝えます。母に利害が及ばない程度に。
2005.04.03
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