2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全24件 (24件中 1-24件目)
1
かよさんとこでネパールに学校を作る話しが出たので思い出したんだけど。今年突然の事故で亡くなったI君。彼はお金持ちのいわゆるボンボン。大学卒業後就職はしたものの、将来は父親の会社の跡を継ぐことになっているので、しばらくの間、好きな音楽の修業をしたいとアメリカに行っていた、35歳を過ぎていい加減に日本に帰って来いということで、日本に帰ってきたものの、彼はボランティア活動ばかりしていた。香田さんにせよ、高遠さんにせよ、あんなに批判されるのは、仕事をせずに好きなことが成人になってもできるという彼らの立場に対するやっかみがあるのではと思う。I君も一日中好きなことをやっていた。亡くなってから始めて両親が知った、手話を使ったバンドで病院を慰問していたというのもあった、災害のボランティア活動もかけつけたりしてたな~~。そしてタイに学校をつくるという活動を特に一生懸命やっていた。死後、香典と、寄付金とでタイに彼の名を冠した学校が一つできた。I君のことを働かなくてブラブラしていると非難していた人は多い、なにが悪いんだ!ちゃんと別のことをしてたんだ。もっとすばらしいことを。
October 31, 2004
コメント(10)
人質となった方の安否が交錯している。アジア人らしい死体はこれで2体目、アメリカ軍からみれば、そこらに転がってる死体をとりあえず拾ってきて?ッて感じなのかな?ということは人質にならなくても危ないって事なんだよね。イラク国民全員が人質のようなもんだ。イラク人の死者はもう10万人に達したらしい。そういや捕まったフセインの話しは聞かないけど今どうしてるのかな。フセインはとりあえず死刑が確定するまで、安全なわけだ、逃げ惑うよりずっといいこの戦争の行方はどうなるのだろうか?9.11で殺された20倍殺したんだから、アメリカさんもうそろそろこぶしを納めたらどうだろうか。日本もアメリカが出兵しろっていてるから、とりあえず行く何てことしてると、あとからエライ目に合うよ、やってることは人質になった、香田さんとあんまし変んないんじゃないかな、特に目的もなく、人に言われたからいくのなら、香田さんよひひどい!
October 30, 2004
コメント(8)
ていっても長男なんだけどさ、先週ちょこっと口の聞き方が悪いと因縁付けて兵粮攻めにしてやったら小遣いもらえないと困るもんでえらく胡麻すってきやがったもんで、一緒に買い物なんかいったりしてね!(虐待女と言って下さい、いつも反省するんですが……)明日は5時に起きておばかな高校まで送って行かなくては!実は長男の高校の入学説明会の帰りに、行くときまでは、帰りに美味しいもんでも食べて~~何て思ってたんだけど、むらむらと込み上げて来るものが押えきれずに、車を止めて「ちょっとお母さんがまんできやんワちょっとどつかせてもらうで!生徒があほやと、親まであほにみえるやんか!このワタイにこんな高校来させて、覚えとレよ!むかつくわ!」といって、一発ボカンとぶっ飛ばしたんだ。そしたら「僕はこの高校で満足しとるんやで、怒らんといて」ッてね、けなげなこといいやがって!この根性なしが!とまあ酔った勢いで書いてるのですが。ワタイはそんな母親です。ようまともに子供が育ってるワ。そんでも良くいろいろと相談に来たり、自慢しに来たりする人に言うんです。100回怒っても、どついても、褒めたらんとあかんて言ってるんです。わたしゃ、100回怒るけど、10回褒めとるで~~って言ってやるんです。それができないから困ってる……っていうひとがいました。============================とまあこんな話しは置いといて、今日は朝から大忙し、お昼はお葬式に行ってきたんです。懇意にしてもらってる元県会議員のお父さんが91歳で亡くなりました。その元県会議員の人は、いつも地区のトップ当選をしている方でしたが、前の選挙では出馬しませんでした。私はお父さんの面倒をみるために辞めたのではないかと思ってます。60代後半の男の方が80代後半の方の介護をするんです。「子供が見たらな、誰が面倒みるんや、病院に入れれば、もう2度と出てこれん、そやでわしが面倒みるんや」ッて言ってました。県会議員までした人がですよ、女房ばかりに苦労させたら男がすたると、ぼけ+人工肛門の老人を自宅で介護してたんです!エライ!あんたのような人が議員になとって三重県は幸せやった。そういう子供に育てた親はもっとえらい!わたいもヤス君に面倒見てもらえれるかしら???????
October 29, 2004
コメント(11)
もう一人紹介したい子がいます。Kちゃんは今高校3年生。Kちゃんのお姉ちゃんと娘が同じ病院で生まれたことから、お母さんとは妊婦の頃からのお友達。Kちゃんはものすごく頭が良くて、中学校の時は5教科とも満点で、先生が合計を505点(5点はご褒美)にしてくれたていうほどで、高校に入っても、進研模試の数学で偏差値80を取ったとお母さんが自慢しに来るほどでした。東大か京大間違いなしといわれていたそうです。(ちょっとこのおかあさん自慢し~で結構嫌われてるのですが)ところが2年生の後半になって、突然、学校にいかなくなったのです。家で好きな美術や文学の本を読んで、学校に行きたくないというのです。(わたしも、美術関係の本たくさん貸してあげました。)体育とか試験に関係のない学科の授業は受けるのです、運動会とか遠足も行くし、友達も沢山いるそうです、だから登校拒否ではないのかな。学校の先生が試験を受けないと卒業できないので、出て来て答案に名前を書いて、後で補習をうけたら、単位を上げるといわれ、名前だけ書いて試験を受けているということです。おかあさんに聞いたので、本当かどうか解りませんよ、でもおかあさんの話しによると、中学校の時に剣道で県大会で優勝したそうです、でも高校になると、これ以上上手くなれないと思い、ピタリと止めたそうです。勉強も中学校で1番がとれ、高校でも1番がとれました、でもこれ以上のこと例えば全国で1番にはなれないと思ったから勉強したくなくなったんじゃないか?と分析していました。またテストをうけると、どうしてもいい成績をとてしまう(いっぺんそんなこと言ってみたい)→先生がいい大学行けという、それが嫌なそうです。それで、学校にいかずに、家でひたすら、読書三昧の生活を送っているそうです。お母さんは、大学へいくなり、好きなようにすればいいと思ってるの、て言ってましたが、まあおかあさんの話しを聞いただけなので。本当のことが判っているわけじゃないけど。世の中にはいろんなことを考える子がいるもんだと思ったね。
October 27, 2004
コメント(12)
こんばんわ!今日は三重県の法人会女性部の連絡協議会があり、一日外出しておりましたが、なんかたくさんコメントいただいて、びっくりしています。教育問題は関心が高いのね。今日の話しは、ダーリンのお兄さんとこの子、Y子ちゃんの話しです。また皆さんの意見をお聞かせくださいね。お兄さんは京都の国立大を出て、お姉さんも国立大を出ています。2人は教科書を作る会社で今も一緒に働いています。こう書くと、一流大学出、共働きの裕福な家庭が目に浮かんでくるでしょ?実際Y子ちゃんが学校に行かなくなるまでは、そうでした。同居のおばあさんも、そんなところを鼻にかけてるみたいなところがありました。Y子ちゃんの面倒はこのおばあちゃんがみていました。おにいちゃんもいます。ところが4年生のころ、仲の良かった近所の子とうまくいかなくなったころから、不登校になり、詳しい話しは聞いていないのですが、結局中学校はほとんど学校にいかないまま卒業したようです。Y子ちゃんは時々遊びに来ますが全く普通の子で、学校に行っていないと聞かされた時は本当に驚いたんです。中学校の修学旅行は沖縄で、行きたいというので学校に行かせたら、バスに乗り込む前に一悶着あり、空港に着いたら行きたくないといって、結局行かなくて、担任の先生は飛行機に乗り遅れたそうです。ところが両親は、仕事に行って学校までも連れていかないし、Y子ちゃんのことを叱らなかったというのです。Y子ちゃんはオツムはいいみたいで、一年遅れて、結構有名な高校に入りましたが、学校には行くものの、保健室までで、試験を受けないので、1年生を2回しています。学校からは辞めて欲しいと言われているのですが、両親が頼み込んで置いてもらってるみたいです。そこから先、最新の情報は、あまり知りません。私は両親が共働きであまり世話をしていない→負い目があるので、叱らずに甘やかしている→Y子ちゃんはお母さんにかまってもらえなかったので寂しいのじゃないかな?と思ってます。確かに家族旅行なんかはよく行っていますが、毎日の生活の中での関わりの積み重ねが大切なんじゃないかな?と思うんですね。お姉さんは会社を辞めて、毎日相手してあげたらいいのに?っておばあさんには言うのですが、おばあさんも、そうは思っているものの、そうすることによる経済的な損失の方が気になるようで、強くは言えないみたいなんだね。それでY子ちゃんも一日中家にいるんだったら、家事とか手伝えばいいのに、あまりやらない。昨日の日記の親子とはちょこっとちがうけどだぶっちゃって、思いだしたので書いてみました。Y子ちゃんどうなるんだろう、一日中家にいるなら、どこかに働きに行けばいいのにって思うのだけど、そんなことさせないんだろうな。だから余計に引き籠る。私だったら、無駄飯食わんと、飯代ぐらい稼いで来い!と罵ると思うけど!そんなことが言える親の子はそうはならんか!
October 26, 2004
コメント(9)
昨日スーパー林道に言ったとき、駐車場のあるところから、白山が一望出来るところまで往復40分程のプチ登山をしました。チャーさんにコメントしてて思い出したんだけど、ちょうど登り始めたとき、小学校6年生くらいの女の子を連れた親子に出会いました。女の子はもう登りたくないっていています。お母さんは登りたくないなら登らなくていいよ。お父さんは、こんな険しいところに連れてきてごめんねって謝っています。後から来た私が、上に登るときっとキレイだよ登ろうよというと、女の子もしぶしぶ登り始めます。お父さんとお母さんは細目だったのですが、ポッチャリ系の女の子はやはりえらいのか、少し登ると、立ち止まって、もう歩かないといいます。その度に両親は少しも怒らず相変わらずおとうさんは謝っています。本当に結構急な道で、途中で諦めて戻って行く人がいましたがついに展望台まで登ることができました。その頃には私が一番ばてて、ほとんど脳貧血状態でしたが。女の子も無事到着しました。着いても女のこは靴がよごれたとか、お腹がすいたとか、ブツブチいってるのですが、お父さんは、○○ちゃんごめんね、を繰り返してます。やさし~~い。女の子の言い様に結構カチンときていたのですが、ご両親の優しさになんだか感動!降りるときも○○ちゃん気をつけてっと声を掛けながら、降りていきました。昨日はダーリンと、Yちゃんを誘って行ったのですが、優しいご両親やったね、と随分話題になりました。一人っ子だとああなるのかな?そんでも、私なんか、一人っ子でもあんなこといわんで~~!あの女の子、叱られたこと一回もないんやろな~~。あの女の子一生あんな調子で暮せるのかな?ブ~~たれながらもちゃんと登ったのはえらい!1時間くらい一緒にいただけなのに、何故か印象に残った親子でした。
October 25, 2004
コメント(13)

今日は早起きして念願の白山スーパー林道にいってまいりました。言葉では言い尽くせないような絶景。黄金色に染まる山肌に日の光があたると、きらきらと耀きを増し、青く透き通る空と、絶妙のコンビネーション。これだけ美しい紅葉は未だかつてみたことがありません。お天気もよく、午前中は白山も見ることができました。もう!最高下の写真は途中にある姥ヶ滝、落差は76mもあります。川の中には温泉が吹きだしていました。滝が見られるところには露天風呂があり、男の方は、紅葉狩りの人の前でスッポッンポンになって入っていました。いやわたしもはいりたかった。なんでもどんな難病でも治るらしいので。 他の滝も先日の大雨で増水してるので見応えがありました。しかし、道路の最高地点あたりのぶなの原生林に、うるしやななかまどが混ざった紅葉は、ちょっと写真ではうまくとれなかったけど、美し過ぎます。歓声の連続でした。
October 24, 2004
コメント(10)
先日の台風で、樋を隠す屋根の一部が飛んでいて、一枚が見つからないので、どこかで悪さしていないかと、ハラハラしていたら、家の前の川の中に沈んでいました。一安心。50センチ×2Mほどのトタンのカバーだから、車にでもあたったら一大事だもんね。よかった。あってもなくてもいいようなもんだから、全て取り外してもらうことにする。ちょっと家は貧弱にみえるけど、まあしゃーない。しかしこのあたりはこれくらいですんだけど、今回の台風はかなりの被害が出てしまった。これで打ち止めにしてもらいたいもんだ。風が強く屋根が飛んだときは、大きな音がして、あわててそれを回収するのに外に出ていったけど、立っていられないほどの風だったもんね。風速35メートルって言ってた。4.5年前これよりもっと強い風が吹いたときは、物置は倒れるは、お隣の屋根は飛んでくは、公園の木は倒れるはすごかった。もっとびっくりなのは、今から10年くらい前、四日市に大雪が降ったことがある。ひと晩で50センチくらい積もって、朝起きたら腰まで雪があって、その時は本当にたまげた。町中大パニックだった。前代未聞の出来事。自然ってなにがおこるか本当にわかんないな。クワバラ、クワバラ!
October 22, 2004
コメント(7)
兵庫県で氾濫した、円山川について 古代の円山川は、但馬平野一体が泥の入江湖であったと古事記に記されています。今から約2000年前、垂仁天皇の時代に、新羅の王子「天日槍(あめのひぼこ)」によって日本海に泥水が流れ出るよう、円山川河口である瀬戸と津居山の間の岩石が切り開かれ、入江湖が平野となり、円山川の原形が出現したと伝えられています。という記載が国土交通省のペーじにあった。新羅の王子がやって来て治水工事を行ったのか。当時からよく氾濫していたってこですね。。2000年近くたっても、克服出来ないのかと思うと、人間のやれることはなんて小さい。自然の持つ力に対抗するのではなく、もっと畏怖の念を抱くべきだと思うのだけど。四日市でも、20年くらい前に堤防が決壊したところが造成されて住宅地になってるけど、あんなの大丈夫かしらんと思ってしまう。大垣の洗堰にしても、もともと水が溢れるように作ってある堰であることは、地元の人なら知ってると思うんだけどな。長良川にしても、必ず伊勢の方に被害が出るようにしてある。これは克服すべき問題ではなくて、生活の知恵だと思うけど。被害にあった当事者にすれば深刻な問題だし。台風が来ないのが一番なんだけどな。
October 21, 2004
コメント(8)
台風もうピークは過ぎみたいだわ!マミさんとこにカキコした4時過ぎくらいが一番ひどかったみたい。風速35mだって言ってたもん。家がゆらゆらゆれて、屋根の飾りみたいなのが飛んでったわ。もっとひどくなったらどうなるのかしらと思っていたけど、あの時が一番ひどかったみたい。近鉄線止まっているから、帰れない人いっぱいいるよね。まだ来るのかな、もう勘弁して欲しいな。
October 20, 2004
コメント(8)
談山神社に行ったもんだから、明日香の地図をみていると、こんなに狭いところで、日本史が作られていたのかと思う。大伯皇女が 「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背と我が見む」と歌った二上山と談山神社のある多武峰に囲まれた地域。そこで起った今なお謎に包まれた陰謀と権力闘争。特に大伯皇女の大津皇子とか、有馬皇子、そして聖徳太子。天武天皇と天智天皇が兄弟なのはおかしいと思っていたら、面白いことが書いてあるページを発見した。(昨日の日記にコピペ)いやいや色々研究している人がいるもんだ。そうすると、大化の改新の立役者中大兄皇子も、失意の内に亡くなったことになる。明日香からどうして急に近江に都を移したのか、わからないことまるけだけど、いろんな解釈があるわけだ。御陵を発掘すれば、アッと驚くような新発見があるのだろうな。この秋は万葉ロマンにひたってみよう!
October 19, 2004
コメント(9)
談山神社に行ったこともあって、当時の飛鳥のことを思い浮かべて、いろいろとネッとサーフィンをしていたら、天智天皇の真相というページがあり興味深いことが書いてあったから、覚えに、コピペしておこう!中大兄皇子・天智天皇の時代(645~671の27年間)中国では唐の拡大(東突厥、高晶国の征服)、朝鮮では百済、高句麗の滅亡と統一新羅の誕生という出来事が起きた。 唐と新羅の軍事同盟を成立させた金春秋(後の新羅の太宗武烈王)が647年に、金多遂とともに日本を訪れて帰国している。日本書紀には「人質として金春秋が日本に来た」と書いてあるが、金春秋が何らかの意図を持って、日本に来た。 前年、高向玄理が新羅に訪問しているので、唐・新羅・日本の三国軍事同盟の成立を目指して、日本政府と交渉したものと思われる。(注意)金春秋は、日本滞在9ヶ月で、帰国しているが、金多遂が帰国したという記録はない。後の天武天皇は、金多遂でないかと思っている。推古天皇が崩御して以来、本当の意味での倭国王は、いなかったものと思われる。欽明王朝の血筋は、聖徳太子の息子である山背大兄皇子が最後と思われる。 そこで、思いついたのが、舒明天皇(新羅王族:在位628-641年)、皇極天皇(百済王族:在位641-645年)と新羅と百済の王族を迎える方法であった。欽明王朝(欽明、敏達、用明、崇峻、推古)が朝鮮の金官国の王族であることを考えると新羅王族や百済王族の人が蘇我氏の傀儡ではあるが、倭国王になることは当時の豪族達にとしては、受け入れられない話ではなかった。 孝徳天皇や中大兄皇子を中心とする日本の多くの豪族は、百済・高句麗と共に唐・新羅との交戦路線を進めようとしていた。 高句麗は、唐の軍隊を追い返している。日本から見ると高句麗は軍事的強国に見えたのである。すなわち、高句麗・百済の連合は、唐・新羅連合に匹敵するほどの勢力と見ていた。 ところで、日本書紀では、大化改新(乙巳の変)の推進者として、中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂などを挙げているが、乙巳の変後、倭国王になった孝徳天皇や中大兄皇子の弟と言われている大海人皇子については、この時期は、なにも記述していない。 百済出身の皇族は、当時、皇極女帝、中大兄皇子、余豊璋(当時の百済王の子、中大兄皇子と同一人物と見られる)などがいた。また、新羅出身の人(皇族でなく軍人か)としては、乙巳の変後、大海人皇子が新羅から来たものと思われる。 このことは、当時の遣唐使の航路から推察される。この時期、630年~669年まで6回に亘り遣唐使を送っているが、倭国王としては、舒明天皇(遣唐使1回)、孝徳天皇(同、1回)、斉明天皇(同、1回)、天智天皇(同、3回)の時代であり、1回目から5回目までは、百済、高句麗の領海を通って、唐に至っている。 ところが、669年に天智天皇が送った6回目の遣唐使は、奄美大島経由で、今の上海付近に上陸している。これは、669年には、すでに百済・高句麗は、新羅によって滅ぼされていたためで、従来の航路は、敵国新羅の支配下に入っていたのである。 乙巳の変により、唐・新羅連合軍に対して、高句麗・百済・日本の連合軍ができたことになる。日本は、孝徳天皇(高句麗出身)、中大兄皇子(百済出身)の二頭政治となったが、月日が経つにつれて、孝徳天皇と中大兄皇子が不仲になった。 不仲の原因が何であるかは判らないが、先の新羅の金春秋の提案に対する取り扱いの違いが、原因とも思われる。また、俗説ではあるが、孝徳天皇の妃は、中大兄皇子の同母の妹の間人皇女であったが、この妹と中大兄皇子は、不倫関係にあったとも言われている。当時、この関係は、公然の秘密であったが、同母兄・妹の恋愛関係であったため、周囲から非難の的になった。 こうした中、654年、とうとう中大兄皇子一派は、孝徳天皇に見切りを着け、難波宮を出て、飛鳥に戻ってしまう。中大兄皇子の2度目のクーデターである。このときは、乙巳の変とは違い無血クーデターであった。 中大兄皇子としては、乙巳の変とは違い、高句麗を代表する孝徳天皇を殺すことはできなかったのである。難波宮に取り残さた孝徳天皇は、翌年、655年、病死する。(暗殺か)中大兄皇子は、百済の皇族である母を再度、天皇にすることで、高句麗との関係や百済との関係を維持した。 ここで、中大兄皇子が天皇になれなかったのは、高句麗からの指示により中大兄皇子が天皇になることが拒否されたためと思われる。(孝徳天皇が新羅出身とみる人は、新羅の指示により、天皇になれなかったと見ている) ところが、それから3年後、658年、さらに悲劇が起きた。当時、孝徳天皇の子に有馬皇子がいた。中大兄皇子は、有馬皇子に帝位を奪われるのを畏れるあまり、有馬皇子を無実の罪(反逆罪)で捕らえ処刑したのである。乙巳の変を起こした中大兄皇子でも658年の時点で、必ずしも天皇になれる保証はなかったということである。要するに、高句麗や百済の意向によっては、有馬皇子が天皇になる状態であったことを物語っている。 その翌年、659年、ついに唐・新羅の連合軍は、百済を攻撃することになるが、百済は翌年の660年には、唐の大軍の前に破れる。これにより百済王は死ぬことになるが、残った百済の将軍達は、九州に住んでいた百済王の子・余豊璋を百済の王に迎え、再度新羅との決戦に臨んだ。日本は、662年、阿倍野比羅夫を将軍として、百済に援軍を出している。 日本書紀によれば、このとき、斉明天皇は、奇妙なことをしている。余豊璋を百済王に斉明天皇自身が任命しているのである。見ようによっては、百済が日本の属国になるような光景である。 しかし、余豊璋と中大兄皇子が同一人物としたならば、この不可思議な任命式も問題にならない。百済出身の斉明天皇が、空位となった百済王に我が子を据えただけなのである。日本書紀では、この時期、余豊璋が百済王になり、中大兄皇子が天皇になったと記している。 余豊璋が百済に入り、新羅と戦いをするが、戦局はうまくゆかず、日本の豪族に援軍を頼むことになる。これに対し、日本側は、2万5,000人の軍隊を送ることになるが、この軍隊が朝鮮に着いたときは、すでに余豊璋の百済軍は破れていた。 援軍は、663年、白村江で唐・新羅連合軍と戦うことになるが、軍略的なまずさもあって敗戦となり、多くの日本軍が新羅の捕虜となった。このとき余豊璋は高句麗に逃げたと日本書紀や朝鮮の三国史記には書いてあるが、これは疑わしい。九州で育った余豊璋は、九州に帰えると思われるからである。 余豊璋こと中大兄皇子は、大和に帰ったものの、その後、立場が非常に弱いものになってゆく。ここで(663年)、百済の国は完全に滅んだ。667年、天智天皇は、妃の実家である大友氏を頼って、琵琶湖畔の大津に都(近江京)を移し、唐・新羅の日本進出に備える日々となった。 日本書紀ではこのころから大海人皇子が登場して活躍する。だが、なぜかこの大海人皇子は出生、年齢が不明である。しかも乙巳の変や朝鮮出兵の時に名前すら出ていなかった皇子である。 日本書紀は、720年持統上皇の統治時代に完成した歴史書である。発案は、天武天皇であった。日本書紀には、神武天皇から持統天皇まで41代の天皇が記述されているが、年齢が判らないのは天武天皇(大海人皇子)だけである。 多くの歴史家の見方は、天武天皇は、天智天皇の弟どころか、全く血縁関係のない人と見ている。ところが、日本書紀では、無理に天武天皇を天智天皇の弟と設定したため、もともと年上であった天武天皇の年齢が書けなかったと見られている。 それもそのはずで、大海人皇子は、戦勝国の新羅から戦後処理のため、日本に派遣された新羅の人なのである。ここで、大海人皇子が、新羅の皇子かどうかという問題がある。新羅の皇子であれば、当時のしきたりから見て、日本で天皇になることができるが、皇子でなければ天皇になれない。 大海人皇子が新羅の皇族か否かということは、今でも判っていない。ただ、天武天皇は、日本書紀30巻の内、2巻を使って、天武天皇が正当な天皇の継承者であることを累々と述べている。ということは、逆に、天武天皇は、天皇になれる血筋ではなかったとも推測できるのである。ここでは、天武天皇は新羅の皇族ではなく軍人との説を採る。 この時期、天智天皇は、政権を「近江京」で維持していたが、唐から新羅征伐に参加するように再三催促された。中大兄皇子にとって新羅は、祖国百済を滅ぼした敵国ではあったが、当時の日本は、新羅出身の大海人皇子が勢力をもっていた時期であり、天智天皇一人では、どうしょうもない提案であった。 そうこうしているうちに671年、太宰府に唐の使節・郭務宗が、3000人の軍隊とともにやってきた。天智天皇としても、唐に付くか新羅に付くか最終的な決断をしなければならなかった。おそらくその決断は、唐とともに新羅と戦うことであったろうと思われる。ここにいたり新羅派の大海人皇子も新羅擁護のため、天智天皇と戦かわなければならなかった。大海人皇子側の作戦は天智天皇が唐に返事をする前に天智天皇を暗殺することにあった。そのことは、唐の使節が来てから1ヶ月後(671年11月か12月)、京都山科で天智天皇を誘拐殺害という形で現れたのである。 このことは、「扶桑略記」に三井寺(園城寺)の伝承として今に伝えられている。 当然天智天皇の息子・大友皇子は、直ちに即位して天智天皇の政策を継承したが、ことは朝鮮への出兵だけに国内の安定が第一の条件となり、父天智天皇を殺害した大海人皇子を放置しておくわけにはいかなかった。 大海人皇子としても目的は天智天皇の殺害でなく朝鮮出兵の阻止であるから、大友皇子が天智天皇の政策を遂行する限り、戦いはさけられなかったものである。すなわち、壬申の乱の勃発である。 扶桑略記によれば、天智天皇は、ある日、山科に馬で出かけた。ところが、いつまで経っても帰りがなかったので、山科一帯を探したところ、天智天皇の靴のみが落ちていた。 そこで、靴が落ちていたところに墓を作ったというものである。この墓は、今でも、東海道線「やましな」駅の近くにある。要するに、天智天皇は、拉致されて殺害されたと見られるのである。 日本書紀による天智天皇の最後は、枕元に大海人皇子を呼び、事後を託したと記されている。しかし、大海人皇子は、身の危険を感じて、次期天皇に天智天皇の息子である大友皇子を推薦して、自身は吉野に僧として隠遁生活をしたことになっている。 そして、大友皇子が、大海人皇子討伐軍を編成しているとことを知った大海人皇子は、吉野で兵を募り、吉野から三重県側に出て、関ヶ原に進み、そこで、地方豪族の兵達と合流して、近江京を攻めたとされている。要するに、大海人皇子は、天智天皇の禅譲を辞退し、隠遁生活をしたにもか拘わらず、大友皇子が戦を仕掛けてきたので、やむをえず挙兵したという作り話を日本書記に書かせたのである。 そのうえ、天智天皇亡き後、大友皇子は、すぐに天皇になったと思われるが、日本書紀では、大友皇子は、天皇になっていないことにした。大海人皇子が天皇と戦禍を交えるのを避けるために、大友皇子を皇子のまま、壬申の乱に登場させたのである。壬申の乱は、1カ月ほどで終わるが、結末は東国、美濃、大和地方の豪族から多くの支持を得た大海人皇子の勝利となり、大友皇子派は大友皇子の自害とともの解体した。ここにいたり日本の実力者となった大海人皇子は、天武天皇となり、親新羅政策を柱として政権を発足させた。 674年には、唐と新羅の全面戦争になった。唐と新羅との全面戦争は2年間続いたが、676年、ついに、新羅は朝鮮半島から唐を追い出し、「統一新羅国」を作りあげた。
October 18, 2004
コメント(7)

今日は紅葉の名所、談山神社に行って来ました。といっても紅葉はもちろんまだですが。朝、あまりの天気のよさにじっとしていられなくて、またまたさくらちゃんに電話すると二つ返事、ということで夫と、私とさくらちゃんの3人で出発。途中、日本一美しいといわれる聖林寺の十一面観世音菩薩を見て行こうということで、聖林寺へ、すばらしく美しい仏像。眼福眼福。フェノロサによって秘仏の禁が解かれるまでは、夢殿の救世観音のように人の目にふれることはなかったのでしょうね。その後、談山神社に中臣鎌足(後の藤原鎌足)が西暦645年の5月に藤の咲き乱れる多武峰に登って「大化の改新」の談合を行ったことから、後にこの山を談い山、談所ヶ森と呼びまた神社の社号の起こりとなりました。とあります。談山神社はこれが始めてではなく何回か来たことが有り、石舞台古墳まで歩いて降りたことも有ります。いまから1400年前はこの辺りが日本の中心であったことを考えるとロマンを感じますね。
October 17, 2004
コメント(9)
昨日サークルKに行き雑誌のところを見ていたら目に付いたので買ってきたコミック。読んでみるとおもしろい。釣り吉三平の作者なんだこの人。秋田県出身の矢口が、みちのくの部分だけ漫画にしたもので、一番最初の出発からではなく、高館のところから始まる。芭蕉46才の時だから、おっと同じ年くらいだ。平泉の金色堂は昔行ったことが有る、覆堂は芭蕉が訪れた時にはすでにあったのか。有名な「五月雨の降りのこしてや光堂」は最初は「五月雨や年々降りて五百たび」と詠んだのを、旅の途中に推敲に推敲を重ねて完成させたとあるけど、うんなるほどだな。歩きながら、自分の作った句をいろいろと考えてたんだ。山寺や石にしみつく蝉の声→さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ→閑かさや岩にしみいる蝉の声 なるほどなるほど。五月雨をあつめて涼し最上川→五月雨をあつめて早し最上川フムフム。思ったままを適当に詠んでいたのじゃなく、頭のなかで、ず~~と考えていただ。簡単にちょこっと賢くなれた。ようちゃん2号さんみたいに書いては推敲する、ってのは正しい方法かもしれないな!
October 15, 2004
コメント(7)
今日、音楽会のプログラムを頼みにきた近所のピアノの先生に、「夕方ピアノの先生をなっさってるけど昼間はどうしてらっしゃるの?」て訪ねたら、子どもが手がかからなくなったから(1人目のお嬢さんは大阪外語でペルシア語を専攻していて、昨年はイラク政府の招きを受けてテヘランに、次男も国立大学、3番目もお子さんはワタイのボーヤと同じ中学校ということでよくお顔を合わす。)大学に通って心理学を勉強して、いま小学校でスクールカウンセラーをしているとのこと。そして今、得意のピアノを生かして音楽療法士の資格を取るために勉強しているのよ。オオーすごいということで、いろいろお話を聞かせてもらった。昨晩に続いていろんな情報が。それで話していたんだけどさ、「答~~え~など、どこにもない」(平井堅)なのよね。私も妹の子がちょっとひどいときがあったから、朝起きれなくて、不登校になるとか、すごい不眠症になるとか、ちょっとおかしいなって思う場合は、心療内科に行くことをお薦めしてるの。だって、行くとね、結構同じような人がたくさん居るって安心するし、それにちゃんと治るのよね。思春期のちょこっとした歯車のずれって、誰にも起るからね。昨日は、無理やり勉強させすぎて、医者から、絶対に勉強させないで下さいとドクタースットップがかかった子の、話や、センター試験の前の日に風邪で突然死んだ(多分自殺?)子の話。今日は心療内科に行くことを進めたけど、ガンとして行かないで(うちの子はおかしくなっていって)小学校1年行っただけで、もう高校生くらいになるのに、ずーと引きこもりの子の話とかもういっぱい、いっぱい聞いて、本当になんとかならないのかな?って思いました。実はそういったことを考えるNPOの組織を立ち上げにお声を掛けていただいてるのでちょこっとお手伝いしようかな?って思う秋の夜でした。
October 14, 2004
コメント(3)
今日は朝からてんてこ舞い、いつもならちょこと仕事して楽天見て、って感じなのだけど、朝からみんながワーワーいってくるうえに、あわてて、カッターでグサッテって指まで切ってしまって、その上、6時から3月に一度の「ほろにが会」ってのがあって、それに行くことにしていたもんだから、もう本当に大変。6時になっても電話がかかってくる。誘った友達が中に入らないで外で待ってるっていうもんだから、会場まで仕方がない自転車でぶっ飛ばす。ゼーゼー。この会は、アサヒビールを励ます会ということで、結構なお料理が出て、女性は飲み物が飲み放題でナナナんと¥2,000円という会。大学の同級生の紹介でメンバーに入れてもらっている。ビジターを2人まで連れて行けるので、私はお世話になった方をご招待して、2回に1度くらい顔を出す。(弥な屋さん今度行こうね!)私はタバコの煙が苦手なので、こういう場に行くのはあんまり好きじゃないが、今回行って思ったことは、たばこを吸う人がすごく少なくなった。帰ってきても、おエルメスのブラウスにたばこの臭いがついていない!それはいいとして、今日は結構楽しかった、一緒にいったのが、まりちゃん。彼女との出会いがまた面白い。まりちゃんが中学校の広報の役員になったときに、これまで使っていた印刷屋さんの対応が悪かったので、何軒かの印刷屋に電話して、私のところにも電話してきて、私が「なんでもいいから持ってきたら、適当に作るよ!」てて言ってくれたからっということで、お仕事を持ってきてくれたのだ。ありがたや~~!それから京都に一緒にいったりお食事会にいったりしている。おっと、台湾で写真集を作ってきたのは彼女だ!まりちゃんも、よーコと同じ年のお嬢ちゃんと、アキ君と同じ男の子が居る。そして、3人とも、チャーさんと同じように悩んでいる!(チャーさん悩んでるのはあんただけじゃない、みんなよ!)おっと何の話しとったかな?今日の話しだ。会場にテレビ局の名札をつけた30才くらいの女性がいたので、2人で引っぱってきて、「どうやって、テレビ局にはいったの?」なんて質問したら、就職活動の時は200社ぐらいアタックした、ス~~スゴーーイ、私は負け犬の典型よ!…って具合に結構おもしろいおはなしを聴くことができた。ウンためになった。そのあと場所を喫茶店に移して、教育論議。おっといまからヨーコとチャットタイム!
October 13, 2004
コメント(8)
ライオンおじさんは、授産施設の所長さん。中学の先生をしていたころから障害児の学級で、漆塗りやら軽印刷の作業を生徒と一緒にしていた。25年くらい前、障害児学級といってもちょこっと知恵遅れの子がいて、そういった作業は十分こなせたし、仕事もあった。学校の先生の名刺作りや、成績表作り。退職後、授産所を作り、卒業後の知的障害の子どもたちの働ける場を作った。髪の毛がボーボーでライオンのようになっていたからライオンおじさん。わたいのボーヤはそう読んでいた。仕事の関係でライオンおじさんとこによくいった。おじさんは言った、知的障害のというのは病気ではなく、1000人に1人はだれでもそうなるんや、障害児の学級に入るということは、自分で障害児と宣言したんやで、手厚うしたらんとあかん。そんでも同情とは違うで、自立していかんとあかんでな。夏はクーラーなしのすててこ一丁、冬は暖房なし。みんな体、弱くなるで、暖房も冷房もなしや!そういって、いつも子どもたち(といってもかなりの年の子もいた)と一緒に働いていた。おじさんは肝臓がんで、体調の悪いのをだましながら、授産所の為に働いていた…といってもまったくのボランティアだたけど。病気がひどくなって一時的に授産所を締めた。ライオンおじさんを通じて、障害児学級の先生と知りあえた。ライオンおじさんの弟子たち。ところが授産所を締めたあたりからから、軽印刷の仕事がなくなってきた。年賀状や挨拶状などを自分で作る人が多くなり、簡単な印刷は学校にある印刷機で出来るようになった上に、一昔は障害児学級に入っていた子は普通のクラスにはいり、もっと重度の子が障害児学級に入ってくるので、作業をすることが以前に比べて困難になったということで、おつき合いもだんだんとなくなってしまった。わたしが、ライオンおじさんと関わっていたのは、ちょうど自分の子どもが小学校くらいの時だった。何日もかかって、挨拶状の文字を並べる子、それを根気よく教えるライオンおじさん。そんなもの自分でやったほうが速いに決まっとるがな。名刺でも一枚一枚刷って、台の上で乾かす。あっと驚くような前近代方式の印刷をやっていた。あの子らは今どんな仕事しとるのかな?今でも、スーパーですれ違うとにっこりしてくれる子がいる。チャーさんと教育論議していたら思いだしちゃった。(不適切な表現があるかもしれませんが私的な日記ということでご容赦下さい。)
October 12, 2004
コメント(4)
今日は、お昼からちょこっとお昼ね、台風疲れかな。その間に夫がビデオを借りてきて見ていた「初恋のきた道」、チャン・イーモウ監督の作品。めちゃ良かったから、見たらといわれて、ワタイも一人で鑑賞。そんでもって、爆涙。中国の美しい四季の映像が時に印象的。最近の映画は荒唐無稽すぎて、ハリウッドバリのハデなアクションばかりが目立つけど、「菊豆」とか「活きる」のように目線で、歴史物を作って欲しいな。土曜の夜はニコールキッドマン主演のコールドマウンテン。南北戦争を背景に、一途な愛を貫く男女を壮大なスケールで描いたラブ・ストーリー。ありがちなラブストーリーだけど、人は何かの目的を持って生まれて来ていると感じさせる映画でした。南北戦争は、本当に悲惨な戦争だった。アメリカ建国の一面をかいま見た映画。
October 10, 2004
コメント(10)
楽天仲間のかよさんや、はなさんも、マミさんも、四日市ってどこかよくわかって無いみたいね。わたいが京都や奈良方面に良くでかけるので、きっと大阪の近くだと思ってるかな?四日市はワタイが小学校の頃、コンビナートがニョキニョキできて、一躍四日市ぜんそくで有名になったけど、それ以来あんまり名前が出て来ない町だから皆知らないかもね。以前にも書いたけど、実はジャスコの発祥の地で、駅前には創業のジャスコがあったのだけど、駅前の空洞化で、今は更地になってます。位置的には、名古屋から30分、わたいも大学は名古屋にあったので、通ってました。お買い物も名古屋まで良く行きます。名古屋経済圏に入っているので、名古屋に対する横浜とまではいかないけど、プチ横浜って行った感じかな。F1が開催される、鈴鹿は隣町で、合併しようと猛烈なラブコールをしたのだけど、断られてしまいました。鈴鹿は四日市より少し規模は小さいのですが、ホンダの工場があって、結構景気がいいんです。四日市はというと、味の素、東芝、JSR、と結構大手の工場があって、港も、横浜や神戸に次ぐ大きい港があります。対外的に、四日市より鈴鹿の方が知名度が高いですね。言葉は、木曽川を越えると、関西風の言葉になります、名古屋弁とは全く違います。ですから、文化圏的には関西の文化圏になるのでしょうね。この前大奥で家康は名古屋弁を話していましたが、あれはちょことおかしい、家康は三河弁のはずです、言葉尻が「~だら」てなるのが三河弁「~だがね」となるのが名古屋弁です。大きな都市以外は地名本当にわかりませんね。
October 9, 2004
コメント(16)
チャーさんの日記で息子さんのことで盛り上がっている。ワタイもちょこっと。小皇帝のアキ君は今中3、いよいよ高校受験だ。体も小さく、やっと声変りをした彼は、同級生から比べるとまだまだ幼い。昨年テストの時に国語のテストを白紙で出した。一度書いたのを全部消したそうだ。担任の国語の先生が呼びだして事情を聞いたら、「書いているうちに死にたくなった」と言ったという。フェ~~と思ったんだけど、まあそんなこともあるかな、と思って、わたいは適当に怒っておいた。最近結構がんばってるけど、本来のオツムの悪さでは如何ともしがたく、おねえちゃんの行っていた高校は土台無理で、次ぎのランクの高校に手が届くか届かないかの瀬戸際だ。おにいちゃんのヤス君が行っている高校はその次ぎのランク。そんでも、まあ、そこいらの無名大学には行ける。自分では、おにいちゃんよりは頭がいいと思っているみたいで、どうしても、次のちょこっと上に高校に行きたいみたいだが、わたいは無理と見ている。中間テストが帰って来て、微妙な成績だったので、「ア~~おれ、鬱病になる」とか「登校拒否したい」なんて冗談まじりでいっているけど、きっと彼の中では、すごい葛藤があるんじゃないかな。大体、中学校で、勉強しなくては、よい成績が取れないようななオツムではしれている、というのが私の考えなので、あんまし期待はしていないんだけど、けなげにがんばっている彼をみると、思わず頑張れって言いたくなるね。頑張れアキ君!
October 7, 2004
コメント(11)
昨日の日記に書いたSさん、約束通り、今日キハチでお食事をしてきてくれた。ヨーコは水曜日は学校お休みにして、アルバイトの日にしたで、今日も仕事だ。「ヨーコちゃんのとこ行ってきたよ、一生懸命働いていて、お店の方も喜んでたよ」なんて電話してきてくれた。ご夫婦で、今夜、尾崎咢堂没後50周年記念パーティーとやらに出席するのに上京したそうだけど、はったりかましのSさんのことだ、店にも大きなことを言ってるだろうから、あとで、なんて報告があるか、ちょこっと心配。「制服姿の写真も撮ったからね」なんて言ってたから、なんか姿が目に浮かぶな。そんでもなにかとっても嬉しくって、ウルウルきちゃった、ありがとうSさん。ホンでもってまた今、Hちゃんから、今晩ヨーコちゃんご飯を食べに来てくれるんだけど、って電話があった。みんねありがとうね。良くしてくれて。Hちゃんワタイが行ったときにも、頼むわネ!
October 6, 2004
コメント(3)
娘ねたばかりで、すんません。今月から銀座のキハチでバイトを始めたヨーコ。といっても、まだ2回しか行ってないのだけど、先週の情報収集ランチでちょこっと話したら、会計事務所をしているKさんが早速、事務所の旅行で来月東京に、行くのでということで7名で予約を取ってくれた。そんでもって、今日、たまたま遊びにきてくれた、Sさんも明日、東京に行く(小泉首相が出席するパーティーに出るといっていた)のでお昼に様子を見がてら行ってくるワ!て言ってくれた。まあみんな、なんか、それがどうしたって言われれば、なんてことないことなんだけど、そうやって気を使ってくれるのがうれしいな~~!そんでもってついでに、東京の友人が「もうそろそろ、ヨーコちゃん東京にもどってきとるやろ、寒くなったで、明日豚汁でも食べに来たら?」って電話してきてくれた。ありがとうね、Hちゃん。そしたら、ヨーコから電話があって,今日はフルブライトの奨学金で日本に来ている、外国人の方と一緒にお食事をするボランティア活動に行ってきて、初めての参加で戸惑っていたら、日本人のオブザーバーのおじいさん(元フルブライト奨学生)が助けてくれて、オータニの傍の串揚げやさんに連れていってもらった。ところがそのおじいさん、元石油会社の社長さんで、「昔はオータニにを出るときはいつも黒塗りが止まって、みんな頭を下げてくれた」って言っとたよ!。誰やろな~~、きっと有名な人やな!来月もおいでていてもらった。」と楽しそうに電話してきてくれた。楽しいね~。そんでもって、楽しい話しを聞くとハッピーネ。
October 5, 2004
コメント(4)
一応有限会社なので、決算書を作らなくてはならない。ナナナんと朝から会計ソフトに1年分の売上とか通帳とかの数字を打ち込んでいる。いやもう疲れた!疲れた!まあたいしたことないけどね。あしたの夕方には出来上る予定。月曜日に入力したデータを会計事務所に届けることになってるから。約束したことは律義に守る正確なんだけど、ひょっとしてお天気がいいとわかんないな~~。内職に毛が生えたみたいなもんだけどさ、まあ一日中家にいれるし、あっちこっちからお誘いがあるランチにも、飲み会にも行けるし、仕事を持ってきてもらえるうちはボチボチやろううかと思ってる。始めたころは本当に忙しくて、ゆっくりしていられなかったけど、最近は、役所の経費削減のあおりを受けて、仕事がもろに減っているから、潰れそうだけどゆっくりやっていられる。最近は、一日中ズ~~っと機械の前に座って楽天をしながら、ひたすら仕事が来るのを待っている。こちらから仕事を探しに行ったことがないので、はっきり言えばどうやって営業したらいのかわかんないいのよね、そんな勇気も根性もないし、チャーさんなんかのを読んでいるとすごい!って思っちゃうのよね。ズボラな人間なので、いつも一反仕事しか出来ないのよ。ランチばっかりいっとらんと、普段からきちんとしておけばいいんだけどね。税金を払うためにこんなにえらいことしなくちゃいけないの、本当にいやだわ、最低限は払わなくっちゃいけないもんね。それに今回は消費税も払わんといけないし、突然日記やめたら、夜逃げしていったと思ってね。酷税だわ!
October 2, 2004
コメント(16)
今日は、中学校ののPTAの役員OBのランチ会。といっても4人しか集まらなかったのだけど。なんか秋になってお誘いが多い。今日はフレンチ。白亜館という名古屋ではこれまた結構有名なレストランの四日市支店。最初の頃はランチでも5000円していたのだが、さすがにここでは5000円のランチでは人が来ないらしく、2500円に値下がっていた。オードブルは紋甲イカを細切りにしたものと野菜の取りあわせ、じゃがいもの暖かいスープ、真鯛のグリル、デザート。だったのだけど。料理が出る前からおしゃべり、おしゃべりで、今日も何を食べたか良く覚えていない。この前の台風で、中学校にお迎えに行った時にの車が冠水して、何台かがおしゃかになった話し、高校の話し、ゴシップ話し……う~~んおもしろい。だからみなさんにPTA活動は積極的にとアピールしてるんだけど、なかなかみんな参加しないね。出て来ていろんな機会に情報交換すると、世界が広がって楽しい!
October 1, 2004
コメント(6)
全24件 (24件中 1-24件目)
1