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〇京都の木屋町通御池通には漱石が詠んだ「春の川を隔てて男女かな」の句碑があります。 「大友」の女将磯田多佳との言葉の行き違いの裏話を知っていないと句の意味が判らないでしょうね。鴨川には夏の風物詩、川床を維持する為に「みそぎ川」が通されたようです。二条通を下る処で高瀬川とみそぎ川に分かれます。高瀬川はすぐ「がんこ」の庭を経て、一之舟入へと続きます。 勤王志士が多く討たれた池田屋事件で有名な池田屋は結構、間口が広かったのが昔の写真で判ります。龍馬の寓居跡である「酢屋」という名の木材屋、土佐藩の稲荷神社・・・。五条通まで来ると、平敦盛の奥さんが考案されたことに起因する扇塚、源融の屋敷跡「河原院」、五条新地歌舞練場、銅製の茶筒で有名な「開花堂」、トランプ・花札でお馴染みの任天堂もありますね。
2024.10.04
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〇江戸時代には、実にいろんな禁止令がありましたが、先ずは菜種油の買占め禁止。それから通行の邪魔、事故防止の為、牛馬の車間距離に関するお触れ。国家的な人物の逝去に伴う鳴り物の禁止や殺生の禁止。この殺生禁止令は十日からひと月余りに及び、魚屋などに大きなダメージを与えたようです。また遊郭移動のお触れでは、秀吉時代は二条柳町でしたが、それが六条柳町へ、更に島原へと移りました。 元禄時代、島原の人口千七百人の内、遊女は千二百人だったのだそうです。島原以外に祇園、北野、二条、七条などにも水茶屋が繁昌していたとのこと。享保十四年(1729)に外国から、はるばる象が献上された時は、てんやわんやの大騒ぎ。 面白いのはタケノコの盗掘を禁じるお触れ。この時代には朱雀村、鷹が峰、九条、大将軍村、下立売通、東洞院、嵯峨道、西院などが筍の名産地だったようだし、松茸も同様に禁令が出ていました。 また京枡の偽造については、寛保二年(1742)の「御定書百箇条」に触れてあって、市中引き回しの上、獄門(さらし首)の極刑と決められていました。
2024.10.03
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〇太閤秀吉に世継ぎの秀頼ができたことで、関白の地位を剥奪され、高野山に追いやられた後、切腹させられた秀次公。太閤の姉で秀次公の母である智が、子や孫の菩提を弔う為、嵯峨二尊院の傍に寺を建て、のち後陽成天皇からの加護もあって村雲「瑞龍寺」と称して日蓮宗では唯一の門跡寺となりました。昭和38年、寺は秀次公ゆかりの近江八幡に移りました。その後、途絶えていた門跡を継いだのが旧小倉藩主小笠原長幹の五女松子(12代、日英尼)。 父が遺した昭和42年1月31日付京都新聞夕刊には、「尼僧姉妹」と題して5枚の写真入りで、近く行われる普山式のことに触れ、また義妹の元宝塚スター桜緋紗子さん(英法尼マタ日 鳳尼)の事にも言及しています。12代日英尼の後を継いだ日鳳尼も9年前の3月20日に遷化(逝去)するまで瑞龍寺の復興に寄与された由。
2024.10.02
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〇豊田都峰「京鹿子」前主宰が大阪俳人クラブの代表の任にあった当時、その機関俳誌(年四回発刊)「大阪俳人クラブ」の話題として、シリーズ「かんさいの変った町名」と銘打って、第130号の淳和院町を皮切りに、弁慶石町、俊成町、道修町(大阪)、京の紹巴町、本塩竃町、二畳半町、黒谷町、垂水町(大阪)、蛸薬師町、兎我野町(大阪)、天使突抜町など、4年間掲載させていただきました。京都市内の街角にある木製やホーロー製の細長縦看板は明治四十三年に郵便配達員が困らないように設置したのが起りで、中でも有名なものが仁丹提供のものですが、上友禅町、或いは虎石町や八瀬かまぶろ温泉の養安町、など多種多様です。
2024.10.01
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〇ガイドの会のメンバーだった頃、大山崎の本陣のあったお宅を拝見させて貰いました。本陣ですから参勤交代時に休憩・宿泊した大名の部屋は一段高くなった書院造りでした。六畳の部屋が四つ組になっていて、内、三つの部屋に床(トコ)があったし、松平右近将監という看板も残っていました。 ここいら一帯は、その昔、宿場町でしたから本陣、脇本陣、旅籠がずらっと並んでいたといわれています。当家は明治以降、代議士をして居られ、そういう方面の古い資料は残っているけれど、古文書などはもう一つの蔵を崩した折に処分された様で、現存していないという話でした。欄間や調度品、雪見障子などに江戸・明治時代の面影をしのぶ風情を感じました。裏庭にはご近所さんが自分で風呂桶を担いで来られていた話や相撲取りを抱えていた話など聞かせて貰いました。 哀しいことに、もうそのお宅は現代風の家に建て替えておられます。
2024.09.30
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〇興津要著『おもしろ雑学日本語』(三笠書房)の中に面白いものを見つけました。 「山の神」 山の神通う神をばこなみじん 捨6<通う神>と言うのは、遊女が客に出す手紙の封じ目に書く文字を指しますが、掲句は怒り狂った女房が粉々に引き裂いている光景を詠んだもの。このように結婚後数年を経て、うるさ型になった女房を<山の神>と称しました。語源その1 いろは説 それは妻を奥と言うが、<憂いのおくやま・・・>と、山の上(カミ)に<おく>があるから<山の神>と推察する説。語源その2 「俚言集覧」説 この書では、上の説を否定し、<とり乱したる姿を喩えて言うなるべし>との見解をとっています。語源その3 柳田国男説 山の神は多くが女性であり、山姥の子育て伝説など、山との関係が深いと説く。語源その4 暉峻康隆説 農村で、山の神を祀るのは女性が司っていたからという説。語源その5 杉本つとむ説 山の神というのは、農民の間での女神で、十二の子を産むと言われ、神への供物であるオコゼ魚を女が食べると、生まれる子が荒っぽくなるとの伝えがあり、この妙に元気の良すぎる女房を、下々で山の神様になぞらえて、山の神と呼んだのでは?とする説もあります。奥さんをして、山の神という表現を耳にするとき、私達は恐妻、嬶殿下といういうイメージを持ってしまいますね。
2024.09.29
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〇先日図書館から借りた宮本常一著『歳時習俗事典』には作句に役立ちそうな記事が満載。<風の名前>東風、貝寄風、涅槃西風、彼岸西風、桜まじ、油まじ、南風、ひかた、だし等等。<正月、子供の遊び>に続いて<新年の習俗>には知らない行事の居籠り、鬼打木、二十日正月等等。<春の風物>には、鯛網、磯菜摘、霜くすべ等等。<夏の風物>には、煮梅、囲い船、虫送り、<秋の風物>には草泊、風祭、渋取、八月大名、鮭打等々。<冬の風物>の棕櫚剝ぐ、神迎え、熊突、鳥柴その他知らない習俗が掲載されています。「居籠」の説明は、一月九日の宵戎の夜、西宮では夷神が広田神社に神幸なさると信じられていて、氏子はこの夜は外へ一歩も出ることがなかった。それは、醜いお姿を見られるのを嫌われる男神を慮るため。祭りの前夜に忌み籠る風習は各地にみられ、高知の一宮(三月十一日から三日)や鳥取県大田市物部神社の十二月六日の居籠など多々あるようです。
2024.09.28
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〇大阪市助役の長女であった母の嫁入り道具は、そこそこ高価なものであったと思われます。一方、木綿問屋の息子と生まれながら、早々に家業は継がずサラリーマンになると宣言した父は、住友財閥に入社、保険部門の仕事に就き、何かと転勤が多いようでした。だから、京都の生家には母の嫁入り道具の桐の箪笥や長持ちなどが倉庫代わりに保管されていました。祖父が亡くなり、それから四半世紀後に祖母が亡くなり、お仏壇をこちらに引き取ると同時に、長年預けたままだった母の桐箪笥もこちらに戻ってきました。最初は焦げ茶色していましたが、 洗いに出すと、新品同様になって、上等だなと思われるものに大変身。抽斗の鍵隠しの金物には家紋が彫金されており、深い草色木綿の覆いにも家紋が白く染められていました。小抽斗を開けて再びそれを押し戻すと、三段の別の抽斗がすうーっと飛び出て来ます。まるで手品のようなので何度も何度もそれを繰り返し、ようやく出っ張りは鎮まりました。現代の桐箪笥と違っているのは、上部の左右の角に丸みをつけてあります。当時の指物師の粋を子供心ながらにも感じたように思います。
2024.09.27
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〇平安貴族に愛された紅花の濃染めは、後年禁じられたので、着物の裏地や襟元から少し覗かせる程度のお洒落という工夫をしていたようです。身の丈五十センチ余もある京保雛の十二単。その襲(かさね)の見事なこと。みちのくの女にとって、妖しい赤いきれはどんなに小さくても大切、まして紅花染をや。最上川を下り、日本海、敦賀、琵琶湖を経て京・大坂へ運ばれた紅花は、袱紗や風呂敷にも応用されました。紅花商人は代わりに京土産を持ち帰りました。摘んだ紅花は籠のなかで揉み洗い、筵に並べ、上からも筵をかぶせ、三日寝かせます。朝昼晩、三度如雨露でたっぷり水をかけ発酵させるのです。それを擂鉢にて砕き、木綿の袋に入れて一夜水に漬け、今度は灰汁を入れると真っ赤に。藍を加えると、緑、紫、赤紫、青紫と自在に豊かな色彩が生まれます。父の親友だった新関一杜氏のふるさと。紅花生産地の故か、お雛様も山形では盛んです。
2024.09.26
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〇某年某日、2メートルほど段差のある隣家から、石垣が壊れそうだから何とかして欲しいとのクレームがあって取り除いたススキ。それでも去年まで寝室の出窓から数本見えていたのに、今年は全て無くなってしまいました。記憶にあるのは、寝室兼書斎の出窓から垣根の方をみると秋の陽を受けて、時には金色に、また銀色に輝く芒がさようならの手を振るかに揺れています。金田一春彦さんの『ことばの歳時記』から拾いますと、<ススキは昔から日本では屋根を葺く材料として重用され、また炭俵などの材料としても使われた。日本人にもっとも親しまれる草の一つで、「芒」という正しい字では足りず、「薄」という中国では全く別の意味に使われる文字まで、いつの間にか当てて使っている。>とあります。また<ススキというのは元来雅語で、口頭語はカヤである。>つまり茅葺の茅、萱のことです。 子供の頃大阪は住吉・帝塚山の社宅は20坪ほどの狭い住まいでしたが、黒塀の隅っこにススキ群れ生い、梅雨には俄かに延び始め、秋の穂が済むと、丈夫な茎をチャンバラごっこの刀として隣の子供たちと遊んでいました。また茎を使って、庭の片隅に秘密基地の小屋を作ったりなどしていました。私にとってススキは少年期を想い起こすものでもあります。
2024.09.25
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〇某年某日、〇NHKホットモーニングで「レトロな絵はがき」を紹介していました。亡父は美的に逸材だと思うデザインや文様に、とても敏感な人でした。具体的に述べますと、デパートの包み紙、和菓子・洋菓子などの包装紙、新聞紙上などのカット絵、弁当の包み紙などをきちんと保存していました。また朝日新聞の日曜特別版の美術画なども大切に残していました。また直線の交錯するデザインや、斬新な図柄などに感銘を受けたようで、亡父が選んだそれらの出来映えは、やはり素晴らしいものが多いのです。タロットカードや美しい図柄のトランプが未使用のままダンボール箱2箱に残されていましたので、姉妹・親戚に分けました。 ところで海外のレトロな絵ハガキ、竹久夢二や中島淳一、中島千尋その他多くの画家の絵はがきは私たちの郷愁を呼び起こし、放しませんね。好き嫌いは別として、個性そのものが作家の主張なのだから、そっくり、そのままの盗作は人間として避けなければなりませんね。
2024.09.24
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〇今から15年も前の話ですが、民主党政権誕生の夜、鳩山首相の呼び出しを受けた多くの大臣。その中でとりわけ注目を浴びたのが、on footつまり徒歩で来られた長妻氏。前代未聞とか。ここで ふと思い起したのが上前淳一郎さんの「読むクスリ 32巻」だったかフランスの大蔵大臣は、船で国民議会に出席するという話。日本の衆議院に相当する国民議会は、パリ、セーヌ川にかかるコンコルド橋の袂にあって、その近在には外務省、国防省、農水省などがひしめいているのですが、ミッテラン大統領の時、ルーブル大改造計画のもと、大蔵省はそこから数キロも離れた場所に移転しました。交通大渋滞で名高いパリ、ブルボン宮までは数時間かかります。名所旧跡保護の為、ヘリコプターも使えません。そこで浮かんだ妙案が船便。大蔵省には船着場が設けられ、大臣専用の船も用意されました。セーヌ川を10分ほど下ればコンコルド橋の袂に到着。先進国の中で大臣が船で国会へ通うというのは、このフランス大蔵大臣だけかも?
2024.09.23
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〇働き者の家内が月に二度ほっと一息入れる時間帯はリフォームのサークル活動です。近在の方々が十人ほど集まりJR駅前の部屋を借りて、毎回何かにチャレンジして居られるようです。着物地を利用してコースターを作ってみたり、数年前にはタオル地を使って室内草履を拵えたり。この草履は今や大ブームを引き起こして居、図書館で関係書を借りるにも順番待ちを強いられたこともありました。タオル地で作った草履は部屋履きとして人気を呼んでいます。応接間や廊下など、知らず知らずのうちに磨いていることになり、とても便利な上、小物品としてオリジナルなものが出来るところが人気の所以でしょう。
2024.09.22
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〇平安王朝の衣装を知る上で欠かせないのが、紫式部の『源氏物語』。その「若菜」の下から拾ってみます。六条院の「女楽」は、女性ばかりの弦楽四重奏と言えば解り易いでしょう。とき 旧暦正月二十日ごろ場所 六条院人物 光源氏 四十七歳 紫の上 三十九歳 明石の上 三十八歳 女三の宮 二十一歳 明石女御 十九歳庭の梅の盛りのころ、女三の宮の御殿にて、音楽のわかる厳選した女房などが参集。 表 着 汗ころも 襦 袢紫の上 赤 さくら 薄紫の織物明石女御 青色 蘇芳 山吹の唐のあやぎぬ明石の上 紅梅 桜 青磁 濃紫 薄紫女三の宮 青丹 柳 葡萄染着衣の順序から言えば、表着の上に細長を着るので、紫の上は赤紫、明石女御は紅梅、女三の宮はさくら色(裏が赤、表は白)、明石の上は柳(裏緑、表白)という出立。女三の宮はあえかに美しく、明石女御は藤の花、紫の上は桜の匂い充ちた華やかな姿に気おされず、明石の上は「柳の、織物の細長、萌黄にやあらむ、小打掛、うすものの裳のはかなげなるひきかけて、ことさら卑下したれど、へはひ、思ひなしも、心にくく、あなづらはしからず」と。(参考・近藤富枝著『服装から見た源氏物語』)
2024.09.21
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〇先日寺町三条上ルの其中堂で買い求めた管宗次著『京大坂の文人』の中に六人部の記述がありました。向日神社の神主はもう数代で100代目を迎えるようですが、この六人部(むとべ)家の嗣子の無かった折に、大阪の豪商・室谷家第5代浄友の次男の敬中が六人部を継ぎました。以降室谷家との影響もあって、六人部是香(よしみ)、節香、秀香らは『平安人物伝』に名を連ねる文人を輩出。同様に8代目賀世も大坂の『浪華人物誌』などに名を記され、10代目の賀親も学者肌で、緒方洪庵らと交流。大山崎歴史資料館の常設コーナーには鋭いヘラで刻印された古い瓦が幾枚か展示されていますが、その中のひとつに六人部の名が記されています。
2024.09.20
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○父すばるの元部下で一時は京鹿子の同人だった梶本きくよさんのこの句は忘れられません。昭和40年代の作品かも知れません。以前、この句に寄せた拙文があったので、少し直しながら載せてみましょう。 曼珠沙華折れば返り血浴びさうな きくよ 作者が武家の出ではなかろうかと思わせる句の一つ。現在では園芸用となって居て馴染みがありますが、古来、彼岸花を摘むことはタブーになっていた。どうしても死のイメージ、恨みつらみを伴うような恐ろしい花。あのけばけばしさから返り血とまでは思い及ばなかったけれど、なるほどと納得してしまう。作者の不思議な感性、見事な感性。
2024.09.19
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〇父が遺した新聞記事の切り抜きファイルの中で、『風の盆恋歌』の小説や映画監督の高橋治氏の俳句エッセイが美文でカラーだったので印象に残っている玉章です。今、手元にあるのは朝日または京都新聞のいずれかに連載されたと思われる「きれ」シリーズ。記事は62回に跨っていて、これもカラー刷りだから目を奪われてしまいます。秋田黄八丈、有松絞り、上田紬、絵がすり、江戸どき、大島、お召、甲斐絹、加賀友禅、かすり、葛布(かっぷ)紙子、唐織、間道、黄八丈、きょうけち、錦紗、金襴、御所解き、小紋、紺織木綿、佐賀錦、更紗、ささ織り、絞り、紗、しゅちん、上布、すり箔、仙台平、緞通、縮、まだまだあるのだから、日本の技や匠は世界に誇れるのですね。
2024.09.18
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〇某年某日の日記から。いつもは兼題のほかにも1、2句混ぜて5句出句することが多いのですが、今回は兼題の<虫>に絞ってチャレンジしてみました。 鉦叩きおもてリズムに裏リズム 星子ジャズなどでは裏のリズムの方が重要視されますね。4拍子を例にとれば、1と3拍目が表のリズム、2と4拍目が裏のリズムになります。複数の鉦叩きが相鳴けばこんな状態に。 鈴虫や賢木(サカキ)の巻の草模様 星子先日NHKの番組で源氏物語を屏風や絵巻、その他いろんな物に描いている美術品を紹介していました。この句は螺鈿の世界でよく使われる留守模様(人物抜きにして物語や光景を表現する)の手法を解り易い言葉で表現しました。 すいつちよと鳴かれ些(イササ)か思映ゆし 虫のすいっちょの鳴き声を、九州弁の<好きよ>と言われてくすぐったくなる気持ちを古風に表現しました。 埋め込みの瓦三和土やかまど馬 星子かまど馬は竈馬(イトド)とか、いとどむしと呼ばれる翅の無いこおろぎに似た鳴かない虫。それを意匠的に趣きのある瓦を埋め込んだ土間に見つけたと詠みました。 鈴虫や書院棚なる小龍笛(サリョウテキ) 鈴虫の澄んだ鳴き声と書院造りの違い棚に置いてある横笛とをつき過ぎない程度に詠んでみました。袋に納められ棚に横たえる細身の横笛。
2024.09.17
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〇下の文章は今から20数年前に綴ったものです。<午後2時過ぎに自宅を出、阪急を利用して三宮駅前で同期のM君と合流。バスにて有馬温泉へ到着後、温泉街の薄暗くなった細い道を山頂近くまで上り、漸く「かんぽの宿」に着きました。先着組は40年ぶりに出席のT君や名古屋もK君、山口のY君など数名がロビーで缶ビールを飲み干していました。やがてゴルフ組の仲間も加わって、先ずは温泉にどぼん。丁度良い広さの部屋に会し、2名の物故者を偲びながら献杯。昔の学生時代の談義に花が咲きました。事前に手渡されていた「千の風になって」の2部合唱を始めました。現役時代「牡丹と獅子」を私たちKUグリーの為に作曲していただいた中村茂隆先生に編曲していただいた「千の風になって」ですが、思った以上に綺麗にハモリました。それから懐かしい曲の数々を譜面なしで歌いました。昔取った杵柄は生かされていて、CD録音してデビューしようなどと軽口も飛び出しました。3つの部屋で寝る訳ですが、食後も1番広めの部屋に集まって、焼酎をちびちびやりながら、今後毎年会合を開こう、欠席した半分ほどの仲間にも呼びかけ、盛り上げて行こうという話になりました。趣味を通して知り合った仲間、同じ釜のめしを食った仲間は利害が無いので、学生気分のまま、さらに深い絆に結ばれた同期会でした。>恒例となった17期の集いは名幹事H君の尽力で、今年も10月中旬に、大学の彦根の保養所にて開かれます。悲しいかな、今年も2名が冥界へ。物故者数が増えてきました。励まし合って長生きしよう。
2024.09.16
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〇初代新七を失って4年も経たない内に、52歳の若さで2代目新次郎が没した高島屋。5男2女を抱えて途方にくれる未亡人歌子、26歳の3代目らと毛利元就の3本の矢に倣うことにしました。木綿の仕入れは長男直次郎。帯地類担当の鉄三郎は血の滲む努力と根気で織屋から直接仕入れる道を開拓しました。高島屋にあった店歌 雲井に高き 比叡の山 小波寄する琵琶の湖 雪の曙 月の夕 ああ、麗しき国近江そしてこの秀麗の地を出でて 建てし心は高島の~~江戸時代の理想の商人象として 主人は大坂、女房は京都 番頭は江州、蔵番は長崎 小僧は江戸とされていました。 粘り強く、全国津々浦々まで足を延ばす近江商人、高島屋は、この根性で地道に発展を遂げるに至っています。
2024.09.15
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〇かぐや姫がいよいよ天に昇ろうとする時、その置き土産として残したのが「不死の薬」で、かぐや姫自身も壺の液体をひと舐めしています。お世話になったお爺さん、お婆さんにも舐めさせてあげれば良いのに、天人の命令で止む無く帝に薬を渡しています。京楽真帆子さんの説明をお借りすると、<帝(天皇)と「不死の薬」というと、史料に出てくる薬が思い起こされます。それは淳和天皇(768~840)や仁明天皇(810~850)が服された「金液丹」です。これはヒ素や水銀を含むもので、現代人の感覚では劇薬です。が、当時は、不老不死をもたらす仙薬だと考えられていました。体の弱かった仁明は、淳和に勧められて飲み始められた、といいます。>医者の制止を振り切ってでも淳和帝は服用され、病気を平癒されましたが、その副作用に苦しまれたとも。淳和帝、仁明帝ともに長生きではありませんでしたので、「金液丹」は不老不死の妙薬ではなかったのではと思われます。 はて扨て、かぐや姫の残した「不死の薬」は燃やされてしまったようです。嗚呼、勿体な~。 (参考文献・京都新聞掲載の京楽真帆子のエッセー「竹取物語の世界」)
2024.09.14
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〇子供の頃、野原で遊んでいて、頬を撫で髪を梳く風の変化には敏感だったような・・・。前師豊田都峰の9部作、野、川、山、木、草、雲、土、風、水の唄、長女澪さんによる遺句集は「林の唄」。風のつく漢字として並べてみると、追風、逆風、風光、風景、風雅、風流、風聞、風刺、風化、風紀、風采、風貌、風情、風格など、実に細やかな世界が広がります。雨や雪は目に見えますが、風は透明人間のよう。枝が揺れ、葉がそよぎ、髪がなびき、紙がぱらぱらめくれたりする時に、その存在がはっきりしてきます。秋は正に、この風を感じる季節で、それが空の澄んだ色と、暮れ行く黄昏と、光の陰翳などと相俟って、人の心にいろんな影響を与えます。頑張って、泣いて、笑って、怒って、打ちひしがれて、落ち込んで・・・・いろんな行い、経験を重ねていくことによって、人の風貌も風格も作られていきます。言葉は一文字違いでいろんなニュアンスの差を生み出しますが、秋の風のように、人をして心の隙間から慰めていくような言葉を選んでいきたいものです。
2024.09.13
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〇藤原定家と言えば大概の人は知っておられるでしょう。その姉妹のひとりが、景勝光院の、梅の花を見に出かけ歌を詠じた話が『本朝古今閨媛略伝』に載っていて、何とその出で立ちは仮装姿だったそうな。だから文書記述による仮装の始まりは、定家の姉妹らの活躍した平安末期と見てもよろしかろ。 かぶき者大将の信長公の仮装癖もさることながら、その後を継いだ豊臣秀吉公の発案による文禄3年(1594)6月28日の仮装大会こそ我が国最初のものと言えそうです。 瓜畑に瓜屋と旅籠屋とを設え、秀吉自らは瓜商人の恰好、家康は畚売り、豊臣秀次は漬物売り、織田信雄は遍参僧、前田利家は高野聖、蒲生氏郷は荷い茶売り、前田玄以は比丘尼という具合。柿帷子を着て藁の腰蓑をまとい、黒い頭巾をかぶり、菅笠を肩にした秀吉は、「味よしの瓜めされ候へ、味よしの瓜めされ候へ」と売り歩いたが、その声色と容姿が抜群だったそうな。氏郷は極上の茶をたてて秀吉にすすめ、うんと高い茶代をねだって一同を笑わせたとか。
2024.09.12
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〇先日図書館から借出した毎日新聞社編「タカラヅカ」の初めの方に、劇画のルーツはタカラヅカと明記してありました。実はこうなんです。大正末期生まれの漫画家・手塚治虫は宝塚育ち。しかも隣人はと言えば、宝塚の象徴とも言える天津乙女その人で、「オサムちゃん」と呼ばれ可愛がられていたそうな。昭和一桁の「パリゼット」「花詩集」のレビュー全盛時代にオサム少年は宝塚風の美意識を育まれたのでしょう。日本敗戦時、彼の纏めた原稿は十五編、三千枚にも及んでいたようです。治虫は歌劇編集部にも籍を置いた時期もあり、「リボンの騎士」の主人公、男装の麗人・サファイア王女のモデルは淡島千景と言われています。 後年、池田理代子作の「ベルサイユの薔薇」の舞台化によって、宝塚が再び脚光を浴びる契機になったことは不思議な縁と言えましょう。
2024.09.11
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〇土岐信吉著『西行花明り』(河出書房新社)。人生の大半を旅で過ごした西行の、若き時代の激しい恋を王朝絵巻のような、それでいて、武家政治の黎明をも匂わせながら綴ってあります。白河法皇縁りの女院(待賢門院璋子との大人の愛を絢爛たる文章で読者を惹き込んでしまいます。本書とは関りがありませんが、古来、日本には一般に地下文庫を呼ばれる艶本がありますが、一流の大家が名を伏せ(別名)て、粋な読み物を遺している(例えば『壇ノ浦合戦記』)のも事実です。 流行作家になる以前に生活の為、こう言ったジャンルの作品を書いていた作家も多々あったようです。そりゃ~、大家の手になる作品は、古典と等しく、流麗な美文、格調の高い美文で綴られていて、読者をして恍惚の世界へと誘うのです。
2024.09.10
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〇「大阪さかいに京どすえ、兵庫神戸は何ぞいな」という関西地区の特徴をあらわした言葉がありますね。わたしは俳句仲間やガイド仲間(既に現在は退会)としゃべる時、冗談で、「どっしゃろ」、「どすえ」、「ほな おおきに」といった<京の花街ことば>を故意に使います。これは数人居る座に和やかな雰囲気をかもし出すには都合のいい<やわらかい言葉づかい>だと信じて自然に口から出ているのです。この花街言葉を一般の関西おんなが使ったら少々嫌味たらしい雰囲気になりますが、むくつけき男児たる者が冗談まじりに使うと案外効果的なのです。極めつきは、「どすんどす」。
2024.09.09
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〇丸谷才一著『日本語相談』は、言葉やその用法について読者の質問に答える形式になっています。そこで<昔から口論などの際、「〇〇もへちまもあるものか」と悪いイメージに引き出されるのは何故?」>に答え、説明された趣旨を略記すれば、<「日本語で一番大事なもの」という連載対談の席で、大野晋さんから教わったことの受売りですが>との但し書きがあって、二千年以上も前のうんと古い日本語では、エ、ケ、セ、テ、ネ、ヘ、メ、ヱの音で始まる言葉はほとんど無かった。(中略)以前から存在するア列、イ列、ウ列、オ列で始まる言葉がみなまともな意味を占めてしまったので、遅れて使われ出したエ列音始まりの語が悪い方を引き受けた。そのエ列音始まりの中で、特に変なのを受け持ったのが「ヘ」音で始まる語で、もちろんおならのヘが代表挌。「ヘ」は相手の言を信用しない気持ちや軽蔑などを表す感動詞で、へり下って言う「へい」、「へいこらする」、「下手」や「へなちょこ」、「へま」「へろへろ武者」極め付けが嫌われNO1の「蛇」。「へなへな」や「へらへら」、「べらべら」、「ぺろり」と来て、風に吹かれれてぶらぶらの「へちま」という具合なんだそうです。
2024.09.08
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〇某日、図書館から借出した中の1冊に地球儀に触れている文章を発見しました。平面的な地図では北方、南方が巨大に拡大される不便さ、ラグビー球の形に表記した等積図法の地図も頭の中で継ぎ足さなくてはならないので不都合。そこで團伊玖磨さんは専門店のリブルーグル社に出かけ社長、専務の案内でショールームに入られたそうな。国別に色が強調して変えてある政治区分地球儀山や谷のでこぼこが鮮明な地球儀渋いクラシック調の色合いの地球儀中に電灯が点くプラチック製の地球儀など大小いろんなサイズの地球儀が展示してあって、最大級の直径81.2センチのものは90万円。團さんはさんざん迷った挙句、直径50.8センチ、中に電灯が点き、木目の美しい果樹材の木枠製の、政治区分と海流が鮮やかに描かれた逸品を買われた由。なおインターネットでリブルーグル社、地球儀で検索されたら、幾種類もの地球儀がお分りになりますよ。
2024.09.07
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〇「芸能界550社ベストセレクション」という本を梅田の旭日屋書店で買ったのが30年ほど前ですから、既につぶれているプロダクションや廃業しているタレントさんも多いように思います。サンミュージックには森田健作、牧村三枝子はそのまま所属していますが、酒井法子(スマイル社)、安達祐美(30年間在籍後独立)浜崎あゆみはエーベックスへ、香坂みゆきはフリーランス、川中美幸はテイチクへ。永島敏行、石田純一の所属する事務所に丸山弁護士も一緒でしたが・・・。スタッフアップには岡江久美子(故人)、酒井和歌子、秋本奈緒美、三船美佳らはそのまま在籍。スターダストには常盤貴子、松雪泰子、山口もえ、といった美女軍団のほか、現在も売れっ子の男児や美女タレントが活躍中。
2024.09.06
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〇秋の気配が日増しに濃厚になるにつれ、落ち着きを取り戻して来た感が致します。秋を彩るものは多々ありますが、一番ポピュラーなものは所謂「秋の七草」。七種類の名前を覚える方法を思いついてから、すらすら言えるようになりました。「お好きな服は?」→女郎花、薄、桔梗、撫子、藤袴、葛、萩。 源氏物語の手習いの巻には、<垣根のあたりに植ゑてあります撫子もおもしろく、女郎花、桔梗なども咲き初めてゐるのでしたが、色々の狩衣姿の若い男共を大勢連れて、・・・>と書かれていたり、みのりの巻には紫の上の御歌 おくと見る程ぞはかなきともすれば かぜにみだるゝ萩のうはつゆまた桐壺の巻では桐壺帝の 宮城野の露ふき結ぶ風のおとに 小萩がもとをおもひこそやれやどりぎの巻では中の君の 秋はつる野辺のけしきもしのすゝき ほのめく風につけてこそ知れ夕霧の巻では一条御息所の 女郎花しをるゝ野辺をいづことて ひと夜ばかりのやどをかりけんあげまきの巻の中宮大夫の 見し人もなき山里の岩がきに こゝろながくもはへる葛かなそして藤袴の巻には夕霧の おなじ野のつゆにやつるゝ藤袴 あはれはかけよかごとばかりもなどの歌が添えられてあります。少しは雅の世界に浸っていただけましたか?
2024.09.05
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〇京都府乙訓郡大山崎町の天王山山麓にある宝積寺の十一面観音さまの話題です。聖武天皇の行幸に際して、流されていた山崎橋を架け直す工事をしている折、川の流れの勢いに、なかなか捗らない時、一人の老人が工事に加わり、水際立った働きをしてくれたお蔭で無事橋を架けることができたので、村人がその後をついていくと宝積寺の本殿辺りで姿を見失いました。そこで本殿に立っておられる十一面観音の裳裾に触れてみると、明かに濡れていました。ああ、あの老人はこの十一面観音さまの化身だったのだと村人は感謝し、爾来、「橋架け観音」と呼ぶようになりました。 ところで、私が一番美しいと思う十一面観音さまは、近江の国は渡岸寺の観音さま。<鶴林寺のそれに較べると、いかにも貞観時代の豊満さ、むっくりとよくふとった足の指、右足をふみだしたひざの肉、それにくきっとひきしまったウエストのくびれ、ほどよくはりきったおなかに、美しいくぼみをみせたこのまろい腹部の、なんというあったかさ、うるわしさであろう。おもわず頬ずりしたくなるような十分の蟲惑をひそめ、見事な充実を示す腹部は、女ながらも眺め入って飽きない。>とは随筆家・岡部伊都子著「観光バスの行かない・・・」(新潮文庫)にある感想です。
2024.09.04
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〇全国的に今年は類を見ない猛暑でしたが、反面、秋は確実にやって来ています。秋来ぬと目にはさやかに見えねども・・・余りにも有名な敏行の歌ですが、頬に触れる風の存在のほかに、日暮れ時の灯りにも秋の気配を感じます。光の裏には必ず翳りがあるのですが、提灯の揺らぎの中にもかすかな光の陰影があります。この微妙な翳りこそ日本人の感性を表わすものではないでしょうか。初秋の日暮れに点灯された門灯の橙いろ。それは哀調や過去への郷愁を想い起こさせ、心静かに落ち着きを取り戻します。この家をリフォームする際、いろんなお家の門灯、玄関の灯りを参考にさせていただきました。暗闇を照らす灯りは、平和のシンボル。各家庭に灯る明かりの中に安定した家族の絆や、やさしい息遣いすら感じるのです。夜の帳に在る光は、たとえそれが小さなものであっても途切れることなく遠くの人の目にとまります。秋の灯火は母の懐に包まれる感覚に似て暖かで、心和ませてくれるものですね。
2024.09.03
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〇いつか果たしてみようと思いながら何らかの事情で未遂のまま繰越していることが多々ありますね。今なお果たせそうで果たせていないのが、富山県八尾の「風の盆」の見物です。高橋治氏の小説と亡父すばるの俳句によって、伝統的な田舎の盆行事の雰囲気は知っています。影絵のような男舞い・女舞い、空の暗さと奔流する水音などが既に脳裏にインプットされているのですが・・・。 風誘ふ手振りとも見ゆ風の盆 風の盆権現立ちの男振り 風の盆反り身で決まる女振り 暮れんとす空濃く濃く濃く風の盆 天界に風の盆あり戻りバス平成5年にすばるが詠んだ「風の盆」30数句の一部です。ところで、このエッセイは俳句から音楽へ。石川さゆりさんの「風の盆」はカラオケでは十八番(おはこ)の一つ。少しキーを落とせば、女性の声でも歌います。最近は、島津亜矢さんの「八尾恋歌」も歌詞に風情があって好きな曲。出前ガイドで声優の真似をした経験からセリフ付きの「おつう」は説得力があるのかも?美空ひばる程の歌唱力と評される亜矢さんの歌に嵌りつつあります。異色なところでは、ブラザーズフォーの「グリーン フィールズ」など、グリーの先輩が歌ってらしたもにもtチャレンジして参ります。
2024.09.02
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〇尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』巻の七、筆頭にあるのは崇徳院さん。私の想念にいつも在す崇徳院さん。四国坂出からしまなみ吟旅にいった折の崇徳天皇白峰御陵の質素な気配。こんな遠くに祀られる皇室は他に淳仁帝、後鳥羽帝父子。怨霊の代表格に挙げられるのは崇徳院で、丹精込めてお写しになった「五部大乗経」を都で拒まれたことへの憤懣を、舌の血糊にて記されたとする説もありますが、実際には都への恋慕尽きぬままお亡くなりになったものと推察します。御製の 瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふを落語に変えたのが初代桂文治。米朝師匠や枝雀師弟、三木助や馬生師匠の十八番。兎に角、わたしは祇園歌舞練場真裏の崇徳社近くに来た時は、必ずと言ってよい程、手を合わせています。
2024.09.01
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〇法師蝉と言えば、夏休みの宿題をやり遂げる作業追われた日々を思い出します。 宿題に追ひかけられし法師蝉 星 子有難い事に、第二の職場の出会った先輩のお蔭で、今では<嫌な事を先に済ませる>性格に変りました。 水道の蛇口をフルに開けてステンレス製の桶に水を流してから、仏檀に供える水を汲み、昨日のお礼と本日の家族の無事、数十人に及ぶ人々の無事と健康などの祈願。ポット用の湯沸かしや麦茶用の湯沸かし、6枚切のトーストに蕩けるチーズを貼ってオン。ミニトマト、キウイ、豚ハム、レタス等を挟んだサンドイッチ。長浜のガラス工房で購入した青色と紫色の脚付グラス2客にコーヒを注ぎ氷も入れた頃に家内を起こします。冷蔵庫のドアに張り付けた(長岡京市)のこちゃん体重日記に昨夜の体重その他のデータ、今朝の結果をグラフ記入します。食事が終われば、朝刊とにらめっこ、テレビ番組のビデオ予約、家内は洗濯などの家事に、私はブログの更新などから一日の始まり・・・。
2024.08.31
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〇何とも奇妙な名の温泉。わが国の温泉という温泉、秘湯という秘湯すべてを浸かってきたプロでさえ、辿り着いたことの無い名湯だというのです。東北本線黒勝田駅からバス25分で死出路へ。そこから乗合馬車で1時間。車では到底行けない難所。良質 硫酸。55度。効能 機敏性強化。度胸満点。宿 1軒「卒塔婆館」 cランク、収容10人。経営者が不気味。 岩風呂に満々とある湯はきれいな碧いろ。よく見れば湯の表面に、羽虫や小動物の死骸らしきものが浮いている。参考図書は清水義範著『秘湯中の秘湯』で、北海道の骨壺温泉、秋田の風呂湯温泉、山形の迷子谷温泉、福島の湯気蒸温泉、群馬の空中温泉、山梨の極道温泉、長野の泥沼化温泉、愛知の端曝温泉、大分の湯雨温泉、シベリアのオユ湖温泉、面白可笑しく書かれています。
2024.08.30
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〇某日、先代が残している陶器・食器類の一部を家内が物置から出して来ました。幾つかの掘り出し物の中に、木箱と中身の不釣合いの宜興紫砂壺(中国急須)と湯呑がありました。桐箱の蓋表の草書は読めません。青□山水壺? 湯□。蓋の裏側には、右側に川崎銀行神戸支店、左側に應需 栄珠堂製そして印。箱の右面には支那焼茶碗とあります。煉瓦色した急須は小さなもので、蓋の摘み部分の中央に小さな穴が空いて居り、急須そのものはやや平べったく、底には”煙村四五 孟臣”という落款が刻まれています。二人用の湯呑みの内側と底は鮮やかな薄翠色地に濃い目の斑点が散りばめられて居、表はれんが色地に「石泉竹炉」という白釉薬の文字が付されています。さして上等では無いと思われますが、箱の深さと現物とが不釣合いで、推測するに明治大正年間に財閥銀行から記念品として渡された支那焼茶碗はそこそこ上等だったのでは?余談ながら、家内がバザーで購入した煎茶用の急須は、龍と鯉の模様、蓋には遊び心の、顔と舌まで出す獅子頭がついていて、上場企業の社長夫人の出品だったとか。これこそ、「爆笑、何でも鑑定団」の対象にならないかと愚考しています。
2024.08.29
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〇地球上の恐竜が小惑星の衝突による天候異変の為に絶滅したのだろうという知識をわたし達は持っています。直径1キロメートル級の小惑星が地球に衝突したと仮定したら、超高速による障害で地球には直径20キロ、深さ数キロのクレーターが出来ます。これは広島に落とされた原子爆弾500発分のエネルギーに相当します。月の表面にある「あばた」そっくりのクレーター分の土砂が細かい粒子になって舞い上がり、 太陽光は地球に届かず、地球は寒冷化して世界の平均気温はセ氏マイナス20度まで急降下します。つまり赤道であってもシベリア並みの寒さになり、数年それが続くので植物が枯れ、動物も餓死します。 この寒冷化の次には、大気中にまき散らされた二酸化炭素の層ができる為、逆に世界気温が平均セ氏60~80度になってしまいます。賢い人間の知恵で乗り切ることが出来るのかな?
2024.08.28
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〇豊田満夫さんが収集されたものは江戸から現代までの手紙約七千本、風呂敷三千枚、のれん三百枚のほか、ぽち袋、のし紙、木綿裂や着物など。 恋みくじに〆の封印のついた艶なぽち袋、利休鼠に紋入りの芸妓のぽち。中尾彬さんそっくりの怖い奴貌のぽち。読経の僧の後ろでクスンと笑う髷をんな。 ステッキた一本と羽つきの月給袋には佐良利満殿と書かれた「げっきゅう鳥 すてっ木」というぽち袋やススキをあしらったぽち。「のろけたいづくし」は鯛の逆さ画のぽち、わすれたい苦は忘れずに 夢にも忘れぬ人は来ぬ、逢ひたい見たい、飛んでゆきたい、志ん世帯、みせてやりたい、飲みたいやまひ、などみんな粋。(参考図書・京都書院アーツコレクション)
2024.08.27
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〇大山崎山荘に因む加賀正太郎の叔父、加賀豊三郎の集めた蔵書庫が東京都立図書館内にある「加賀文庫」(洗雲亭文庫)で、凡そ2万4千点を数える貴重な収集品が所蔵されています。その目録を木版刷りのものに纏めたのが『洗雲亭清賞』で、戦前における木版印刷技術の最高水準を示す美しい書物で、表紙などには京都竜村に特注した布を使用、装丁も凝っているとか。題字等は清浦奎吾・市島春城、序は徳富蘇峰という著名人が参画しています。例えば『箔の考』山東京伝自筆・・・深川生れの本名岩 瀬醒。浮世絵を学び、黄表紙の画工を皮切りに 黄表紙の作者に転じました。谷文晁の直筆画・・・”なんでも鑑定団”でお馴染 み。柳亭翁雑録・・・『偐田舎源氏』の著者、柳亭種 彦の日記や雑録2冊。 元は3代目種彦(高畠藍泉)が所蔵していたも のです。 画工歌川国貞と一緒に隅田川花やしきへ出かけ た様子など。『南総里見八犬伝』曲亭馬琴自筆。あの壮大な物 語の稿本。全9輯106冊の大作は、その執筆 途中で馬琴は失明、 一子宗伯の未亡人お路に口述筆記させ、完成ま で28年もの時を要したようです。図書館だから、ここで挙げきれないほどの貴重な文献の集積庫なのです。
2024.08.26
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〇誰でも知っている唱歌「月の砂漠」、作詞・加藤まさを、作曲・佐々木すぐる。実にロマンチックな歌詞で、メロディと見事に融合した名曲の一つですね。 広島県三次市の元音楽教師・河本正治氏が同好の仲間15人と結成された「赤とんぼの会」が発行した全8集、594曲も掲載された、絵本のような童謡集を8冊とも父が遺していました。カットの絵が明治・大正・昭和への郷愁を呼び起こさせる図柄で、1冊1,200円。直接河本さんから取り寄せていました。 1.月の砂漠を はるばると 旅の駱駝が 行きました 金と銀との 鞍おいて 二つ仲良く 行きました 2. 金の鞍には 銀の甕 銀の鞍には 金の甕 二つの甕は それぞれに 紐で結んで ありました 3.前の鞍には 王子さま あとの鞍には お姫さま 乗った二人は お揃いの 白い上着を 着てました 4.広い砂漠を ひとすじに 二人はどこへ ゆくのでしょう 朧にけぶる 月の夜を 対の駱駝は とぼとぼと 砂丘をこえて ゆきました 黙ってこえて ゆきました日本で言う駆け落ち、道行。哀切が漂いますね。
2024.08.25
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〇京の嵯峨、清凉寺すぐ近くの宝筐院は平安時代に白河法皇の勅願寺(旧名は善入寺)として創建され、数代にわたり皇族が入寺、一旦荒廃していたのを夢窓国師の弟子:黙庵が復興。また足利2代将軍義詮が黙庵に帰依、善入寺の伽藍整備に尽力。義詮没後、その院号を採り宝筐院と改めました。楠正行(正成の子で小楠公と称されます)が四条畷にて高師直の率いる北朝軍に負けた際、生前彼と交誼のあった黙庵が、その首級を持ち帰り此処に葬りました。北朝の将軍・義詮の墓が左に仲良く並んでいます。寺はその後再び荒廃、天竜寺の高木管長や川崎芳太郎によって再興されました。初夏の楓、深秋の紅葉の名所として知る人ぞしる由緒あるところです。
2024.08.24
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〇季刊「銀花」1975年の第21号春の話題は「おもちゃ絵」で、中でも目を惹くのは、掲題の「志ん版おび結様種々」で、おたいこ(16才以上の女云々)、ふくら雀(文久慶応の頃、下町の娘用で武家の娘はせず)、この他に、踊りの師匠結、文庫結、立て矢の字結(お初結び)、だらりと垂らす結い方など。 ついでにインターネットで検索するといろんな名所巡り等が見つかり、ふっと江戸時代に戻った感がしました。
2024.08.23
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〇江戸城には男子だけの表御殿と、将軍の居住地となる中奥と、そして女性だけの居住地・大奥とに、はっきり分かれていて、八百人も住む「女の園」でした。大奥傷心の順序は、呉服の間から御広座敷、御産の間からお次というように出世していきました。御広座敷の間詰(十人)からが「お目見え」以上の身分で、それより下の、お末頭や三の間詰、中居、御使番、 お犬子供、お末というクラスは全て「お目見え」以下。御次まで昇進するとかなり上のランクになり、その上が表使、御錠口となり、年寄に近づいてきます。ところで、呉服の間で針の先が一寸、一分でも紛失すれば、着替えも出来ぬまま、針探しをさせられ、自室には戻れない掟になっていました。(参考・邦光史郎著『大奥の謎』)
2024.08.22
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〇月刊誌「京都」通巻110号の特集は「通りを歩いてみたい」で、物語のある通り、川のある通り、商いの通りなどに分類して紹介しています。<物語の通り>として写真では六角通りの六角堂の赤提灯を載せています。正式名は紫雲山頂法寺。本堂の右手には京の中心といわれる「へそ石」があります。 寺町通りは平安京の東の端つまり東京極通りでしたが、後年、秀吉公によってこの通りの東側に市中の寺院を寄せ集められました。賀茂川~堀川間の御池通りは並木の映える広い通りです。それは戦時中の立ち退きと家屋取り壊しがその背景にありました。御池通りを堀川通りより西に行くと職司町など古い町並みがあって、北側には古き池、神泉苑があります。祇園祭の発祥にも関わってきます。<商いの通り>として薬屋の多い二条通り、家具の街である夷川通りは古来の冷泉小路。江戸末期は古道具・建具の街だったようです。武具・具足そして錦を商う通りだった錦小路通りは、高倉~寺町間、鮮魚・川魚・乾物・野菜・菓子・漬物など食の宝庫として人気を博しています。表千家、裏千家などの由緒ある通りが小川通り。幕末の志士が闊歩したであろう木屋町通り、お茶屋にからむ新橋通り界隈も京の魅力の一端ですね。
2024.08.21
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〇世界に知れ渡った勇者ナポレオンとポーリーヌとの出会いを略記します。お針子・召使だった母に生まれたポーリーヌは、やがて召使としてサル家に奉公している時、猟騎兵の中将に見初められ結婚。 一方あのナポレオンはエジプト遠征にあったとき、最愛の妻・ジョゼフィーヌと某青年将校との浮気を全世界に報じられ、落ち込んでいた時、気力を取り戻す上で戦中時の愛人探しを部下から薦められ、そこで出会ったのがポーリーヌ。 プロポーズを一旦断ったものの、ナポレオンの熱心な宝石・ラブレター作戦に、平穏な結婚生活よりも当時の権力者との晴れの舞台を彼女は選択しました。余談ながら、ナポレオンは身長167センチでしたが、頭回りは60センチ、足は極めて短かったようですが、そんな負の要望よりも夢に目がくらんでしまったようです。 ナポレオンは彼女の夫にパリ出張を命じ、その留守に乗じて彼女との甘い生活に溺れました。が好事魔多し、パリにゆく途中夫はイギリス軍に捕まり、エジプトへ送り返されました。そこで夫が耳にしたのは、妻と将軍閣下との不倫の噂。激高した彼は妻に暴力を働きました。そのドメスティック・バイオレンスを理由に離婚訴訟が認められ、堂々と愛人生活を送るに至りました。 間もなくナポレオンは一部の軍を率いて密かにパリに外征。同行することを彼に拒まれたポーリーヌは、後を追いかけてパリに向かうのでしたが、運の悪いことに、ペストが流行中で、永らくマルセイユで時を無駄にしました。一方ナポレオンはクーデターを興し新政府の第一人者となっていました。結婚を望みましたが受け入れられなかった代わり、生活の面倒は一生みると約束され、新しい家を買い、恋から恋へと飛び歩きながら、2年後には結婚しました。それを聞いたナポレオンは新しい夫に副領事の地位を与えました。平凡な結婚から権力者の愛人の道を選び、最後には副領事の妻に納まった彼女はしたたかな女性だったようですね。
2024.08.20
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〇秋気を感じるこの季の季語には、星月夜、星明り、秋の星や天の川、銀河・銀漢とか流星、夜這い星、流れ星、星飛ぶ、星流るなどのロマンチックなものがあります。 流星の使ひきれざる空の丈 鷹羽 狩行 ところで、倉敷出身の御年79才、佐治天文台に関わりの深い香西洋樹さんは、永年、国立天文台に於いて天体観測に携われ、50個ほどの小惑星の発見と(今は行方不明になっていますが)彗星一つを発見しておられ、吉備、難波、瀬戸内など40個もの小惑星命名者でもある方なのです。 小惑星とは太陽系が出来た折、惑星に成り損ねた、言わば星屑のことですが、1999年の時点で、世界中に登録されているその数は10257個、うち2030個が日本人の登録、つまり約2割を発見した日本は世界1の<星持ち国>なんだとか。しかも直径1キロ級の小惑星の内、発見されているのは僅か5%ですから、あなたが<お星持ち>になれる可能性は十分なんです。また、他の国では天文台に勤める職員がほとんどですが、日本の場合はほぼアマチュアというのが特徴なんです。 発見してから命名までの段取りは以下のようです。1)新小惑星の発見 → 国際天文学連合へ連絡、仮符号を付与して貰う。2)公の場で、この小惑星の軌道を観測、計算の上確定まで数年を要し、許可が降りる。3)名前はアルバベットにて16文字以内、政治家や軍人は死後百年以上経過が条件です。 シェクスピア、ピカソ、バッハ、ジョン・レノン、ソクラテス・・・・地名、人名、文学者、画家、音楽家など。面白いことに、日本の人物名を利用したものは、平清盛、源義経、坂本竜馬、夏目漱石、手塚治虫、坂本九など。 日本を含む北半球では、秋から冬にかけてが観測に向いているとか、あなたも<お星持ち>にチャレンジなさいませんか?
2024.08.19
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〇NHK大河ドラマ「光る君」が現代人に解り易いようなタッチでお茶の間に届けられているので、往時にも女性が職業婦人として活躍しておられた史実が生ま生ましく感じ取れますね。文学にみる「日本女性の歴史」(吉川弘文館)の中の、黒田弘子さんの「女性職人の活躍」七十一番職人歌合の論評を見ると、「職人歌合」なる史料が鎌倉期に二点、戦国期が二点残されていて、戦国時代の七十一番職人歌合には、 右:ー紺掻koukaki 壺こうの只一しほのそら色に 光そへたる秋の夜の月 shikama左ー機織hataori 飾磨川逢瀬もいつとちぎらぬに あながち人の恋しかるらん前者の歌意~一度だけ染汁に浸して染める一しお染 のそら色が秋の月夜に映えて美しい。後者の歌意~いつ逢いましょうと約束したわけでは ないのに、何故あの人が恋しいの?これらは働く女性を観て、貴族たちが詠んだ歌なのです。男女比は男百三人、女性はその約四分の一の三十四人。第一グループに 縫物師、機織、紺掻などの衣料関係第二グループは 魚売、米売、豆腐売、素麺売など食品関係第三グループには 炭売(大原女)、灯芯売などの日常生活物資第四グループは 白物売などの化粧関係第五には、 白拍子や巫などの芸能関係さてさて驚くなかれ、亀屋五位女という女性は帯座の座頭職というトップの座に居ましたし、布袋屋玄了尼という後家さんは、扇の販売の専売権の半分を掌握していたという事です。更に宣教師ルイス・フロイスは、日本では妻が夫に金を貸して利息を取っていると記述していて、中世の女性たちが自己の労働の主人公であり得たことを証しているのです。
2024.08.18
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〇『今昔物語』は逸話、民話、法話の宝庫ですが、阿倍晴明に関わる話も興味あります。 いつの世も政治に携わると権力争いの渦につい巻き込まれてしまうとか。陰陽師・安倍晴明が活躍した件では宇治捨遺物語から採り出せば、藤原道長と道魔法師の話や晴明の力量を試す老師との張合いでは葉っぱで蛙を押し潰す話、青年貴公子を狙う烏の呪いを夜っぴき祈祷して助けた話などがあります。 晴明とは別の逸話ですが、<月が大将星を殺す>という勘文が出されるような天文上の異変があった時、右大将だった藤原実頼は方々の社寺に祈祷させているのに、左大将の仲平は東大寺の法蔵僧都に祈祷を頼もうとしなかったので、僧都が不審に思い尋ねたところ、かの仲平曰く、<私は老い先短い六十前、右大将は三十半ばの若さの甥っ子、私が祈祷を頼み、万が一、彼に禍が及んではまずいので祈祷を頼むのは避けるべき>と答えたので僧都は思わず落涙、<その清いお心は何より、百万の祈りに勝りましょう>と申し上げたそうな。事実、仲平は難なく暮らし、大臣まで昇格し、七十余年まで生きることが出来たと言います。
2024.08.17
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〇他所から大山崎に引越してまで大山崎の歴史を研究された吉川一郎さんの『大山崎史叢考』は氏の真面目な探究心がひしひしと読者に伝わってくる名著で、数年ぶりに読み、感動を新たにしました。宝積寺蔵として掲載されている「山崎架橋図」はこれまで心に留めていませんでしたが、本尊の十一面観音像が「橋架け観音」と称された伝説を意識して天安3(859)年に描かれたもの。 一方「観音寺日譜」によれば娯楽と興行物として、元旦、節句、端午、七夕、盂蘭盆会、八朔、重陽、玄猪、節分はもとより、春の土筆摘みには狐浜や外島へ、蕨取りには天王山に登ったことなどが記されています。盂蘭盆の経木流しには淀の本流に流すのですが、その帰途には必ず西観音寺(現サントリー蒸留所)の閻魔堂に参詣していたようです。盆の放生会の頃には、離宮八幡では相撲が神事として行われていたことが記されています。観音寺山主と聞法寺住職が仲良く観ていたようです。
2024.08.16
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