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〇豊中市出身、小学5年の時、プールでのターンに失敗して視神経を痛めたことから中学2年にして全盲に。盲学校を経て追手門学院文学部卒、再び日本ライトハウス情報処理学を修められ、日本アイ・ビー・エムの学生研究員を続けながらITによって全盲の方への技術革新を駆使する事によって、白杖に代る便利なものを拵える事に専念されました。彼女の創意工夫は世界的にも認められ、宇宙飛行士として成功された毛利衛さんの跡継ぎとして、日本科学未来館の館長の傍ら、各分野に於て顕著な確約をされています。視覚的障碍者の歩行を補助する機器は、危険な場所に着く前に静止したり、迂回するソフトが埋め込まれていて、そう遠くない将来、更に精度をあげたものが政府公認のもと、商品として市場に出る事でしょう。
2024.05.05
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○長岡京市のイズミヤ駐車場の隅に古書・古新聞の回収コーナーがあって、機器に対応する自分のカードを差し込み、新聞側と古書を別々に入れると、その日の重量がカードに表示され、500キログラム貯まれば、500円の金券が貰えます。本日は夫婦自転車2台で持ち込んで、17キロでした。その折、紙袋が破けて小さな冊子が2つ残りました。明星2月号の第2付録で、クリスマスソング、歌曲、青年歌30曲。表紙は弘田三枝子さん。もう1冊は東芝音楽テープの歌詞集で、日本全国民謡歌詞集。おこさ節、タント節など60曲ほど。
2024.05.04
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〇 三枝子は彼の手を取って、「ほら、永井さん!これが私の心臓の音、ドキドキ元気に動いているでしょう? ほら、これが貴方の心臓の鼓動よ! ドキドキ言ってるわ! ほら、こんなに正確に!・・・ねエ、ほらっ!私と同じように元気に動いているわ!二人共生きているのよ、貴方は生きているのよ、普通の人と同じように、ほらっ!判るでしょ!・・・・・・」三枝子は感極まって泣きながら、懸命に続けた。彼の左手を彼の左の胸に当て、右手はしっかと自分の左の乳に当てがった。三枝子達は雪の上に座っていたのだが、冷たいとは感じなかった。三枝子の左胸に置いた彼の手に、次第に力がこもって来た。彼女はその上に自分の手を重ねて押えた。 どれほどの時間が過ぎたのであろう。突然、彼は三枝子を抱き竦めた。彼女もこれに応えた。乳を通して、彼の胸の鼓動が聞こえるような気がした。彼女の腕に暖かい滴りが落ちた。永井の涙に違いなかった。涙すら浮かべることのできなかった彼が泣いている。感情が甦ったのだ。「永井さん!」そう叫んで、三枝子は夢中でしがみついた。 エピローグ 彼女は、ふと、我に返った。三枝子はフィアンセ、亘の腕に絡みついていたのだった。彼女の頬を軽く指で突きながら、「君の今の涙は美しい。美しいよ。きっと美しい思い出があるんだろ。幸せな人だよ、君は。」亘はそうささやいた。夕日が沈んで風でも呼んだのか、色づいた銀杏の葉がはらはら落ちて行く。三枝子はまるで死んでいった永井を見送るような気持ちで、それを見ていた。白衣を着ていながら永井を誘い、抱き締めたあの爆発的な感情は、永い間、彼女の胸の奥に蓄積されていた愛の炎というべきものであったろう。彼女の愛は、ついに白衣を貫き迸ったのだ。看護婦としては罪を犯したのかも知れない。しかし、恋人として止むに止まれぬ愛の表現であったのだ。その日の永井は再び意識を回復したのであったが、二人の新しい結びつきは、二人の離別を早めるものでもあった。互いに愛していれば一緒になるのが世の常とは言え、このような事情の下では叶えられない恋でしかなかった。二人は求め合いながら、別れが近づいて来るのを、ひしひし感じていた。・・・・・・ そんな訳で、三枝子は勤め先を変えた。今度は大学の付属病院であった。二年の月日は、彼女の胸の中を洗い流してくれた。そして、彼女は叔母の勧めで見合いをした。包容力のありそうな亘は、三枝子には勿体無いほどの人物であった。一方、亘はすっかり三枝子が気に入ったと見え、積極的に話を進めて来た。今、三枝子の胸の何処かに、小さな、新たな炎が燃え始めているのかも知れない。思い出深い白衣に別れを告げる日も遠くない。二人はベンチから離れると、夕食を摂るのだろう、ネオンの街に肩を並べて消えて行った。 昭和44年9月3日 BY陸治
2024.05.03
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〇三枝子は自分の力の無さを嘆いた。また、果たして自分は永井の恋人で有り得たのかと、疑ってもみたが、最後の勇気を絞って、誰も居ない、想い出の杉の木立に彼を連れ出して来た。雪は止んでいた。月の無い星夜であった。明るくはなかったが、雪の白さに変りは無かった。「ねエ、元気を出して頂戴。もう少しの辛抱だわ。雪割草の出る春まで、もう少しよ。」子供をあやすような言葉しか、三枝子には浮かばなかった。それほどの彼は放心状態なのであった。昔、同じこの杉の下で、彼女を励ましてくれたあの力強さは、どこにも見られなかった。「ねエ、何か云って!黙ってないで!」そう言って永井を抱きながら、三枝子は彼を揺さぶった。「・・・・・もう遅い。何もかも・・・・・僕の前には死神が・・・・・もう僕の頭は破裂してしまう・・・死ぬ・・・・死神が取り憑いた・・・・・」到頭、あらぬことを口走る永井であった。
2024.05.02
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〇それに生まれつき、血圧も低いので手術する訳にもいかなかった。なるほど、心細い話である。冬眠の蛙が土の中で、春の訪れを辛抱強く待つように、永井の場合も静養することだけが、回復への近道であった。ただ、蛙のように無神経に寝入ることが人間にはできない。だから永井の辛い気持ちはよく解る。永井をこのような不安に陥れたのは、彼の境遇にある。彼には両親が無い。ひと廻り歳の離れた兄と、婚期の近い姉が居るだけであった。金には縁の薄い兄や姉からのささやかな仕送りと、自分のアルバイトで得た金で、国立大学を目指して勉強してきたものの、三度も失敗したことは、かなり彼を苦しめた。叱咤するような二人の激励がなかったら、彼はその時、受験を断念していただろう。今度こそ最後の機会と剣が峰に立つ思いで、彼はまた、勉強を始めた。一方、兄姉への遠慮も顕著になっていた。その矢先に、長の病に罹ってしまったのである。病人に気遣いはマイナスと聞くから、彼は努めて明るく過ごしてきたのだが、一年半ばの病院生活は、再び彼の心を曇らせてきたのである。兄や姉からの励ましの手紙は、返って彼の心に焦りを生ませるものであったし、三枝子ですら、彼をひ弱にするのを助長させる存在でしかなかった。
2024.05.01
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永井は三枝子の言葉を待っている。しかし、迂闊なことは言えない。自分の言った言葉から、ややノイローゼ気味の永井が、どんなことを考えるか知れたものでないからである。話題を変えた。変えたと思わせないように・・・「春になると白い雪の中から、雪割草が出て来るっていうけれど、どんな花かしら、知ってる?」「さあ、どんな花か僕は知らないが、薄桃色の花だと聞いたことがある。ここには咲かないのかな。」 「それは分からないけど、春になったら、ここら中歩き回って捜してみるわ。永井さんも探したら?」「そうだね。」やっと、笑ってくれた。三枝子も笑い返して、彼のもとを離れた。この場は巧く収まったが、その雪割草の出る時節まで、永井の笑いは保てなかった。永井は自分の病気が、治らないのではないかと、疑い出したのである。尤も、それなりの理由が無いわけではない。彼はいわゆるアレルギー体質で、パスは勿論、ヒドラもストマイも受け入れないから、穏やかなサルファー剤しか服用できなかったのでである。
2024.04.30
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「雪の所為ではないと思うけど、僕達患者の心次第で、白衣は冷たく見えるものです。山野さん、貴女は本当に優しい。その優しい人が、何故白衣を着なきゃならないのだろ。だからと言って、白衣を脱げなどと言うのではありません。貴女のような温かい人でも、その白衣の為に、冷たい・・・いや違う・・・温かさを表わすことが出来なくなってしまうのではないかと、僕はそれを恐れるのです。雪はなるほど、積もり初めの頃は柔らかくって、軽くって、優しそうに見えるけど、毎日、毎日その白い風景を見たら、見飽きたら、これほど殺風景で冷たいものはないと感じてしまうものです。時々、雪が緑色していたら・・・なんて馬鹿な想像すらするんですよ・・・?」三枝子は永井の言わんとすることが、よく理解できた。白という色ひとつを例にとってみても、このようにいろいろ人の心を揺さぶるのであるから、色彩というものは馬鹿にできないと思った。また、人間ひとり一人を色の組み合わせで表現したら、面白いだろうななどと思った。人間に与えられた五つの感覚ほど、深みのあるものはないと言える。 音の世界、匂いの世界、味覚の世界、皮膚などに感じる世界。自分は未だそれらのほんの一部を知ったに過ぎないのだと三枝子は思った。
2024.04.29
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〇山間部にあるこの療養所に雪が積もって、黒い土を見ることが出来なくなってしまった。いつしか、永井の眸の輝きが消えて行くようであった。「山野さん、雪がすっかり地面を覆い隠してしまったね。僕はこの頃、貴女方看護婦さんが白衣を着ているということが、気になってるんです。普通の病院と違って、此処では貴女達と僕達患者との付き合いが長いから、恐らく、貴女方は白衣を着ていようと居まいと我々に接する態度は同じだとは思うんだけど、どうもその白衣は、患者との境界線になっているように思われて仕方がない。山野さん、貴女は白衣を身に着ける時、どんな気がしますか?」こう聞かれて、三枝子は患者の心理というものが解った気がした。なるほど、自分達看護婦は殆ど無意識に、この白衣を着るのだが、清潔な色に心改まる場合もあれば、つくづく嫌になる時もあるのだ。正しく患者との仕切りであるし、心の隙を隠す衣でもあった。しかし、永井には、「仕事着だけど、私は普段着を着ているような気持ちで居るわ。そして、早く治って下さいって、祈ってるつもり。」と答えて、これは永井だけでなく、皆に対しても同じだと言いたくて、ほかの患者のベッドを見回した。永井の部屋は六人部屋であった。そのうち、二人は風呂に行った様子であり、源さん一味はどうやら、そばの旅館で・・・この療養所の中には、見舞い客や行楽客を一晩泊めるのが建前の旅館が二、三軒あったが、実際には、麻雀の場を提供したり、患者同士の逢引の場所として利用されているのだ・・・麻雀を朝っぱらから打ちに行っているらしい。従って部屋の中には永井の他には二人しか居なかったが、風呂上りの疲れで寝入っているようであった。永井はそれを知って、このようなことを尋ねたのかも知れない。
2024.04.28
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〇それから一年余りの平凡な月日が流れた。二人の間柄は以前と同じで、公明であった。後ろめたいところのない、清いものであった。一体、男女の仲というものは、人前を避けると、すぐ行き着くものなのであろう。しかし、三枝子と永井は、このことを意識していたかどうかは兎も角として、いつも二人っきりになるのを避けて来たから、清いままで過ごせたのであろう。三枝子は永井に対する自分の気持ちを、やはり恋心だと思った。しかし、恋心ならばもっと激しく燃えるものだという考えが、これまで読んだ詩や小説、歌などを通じて、三枝子の頭の中に生きている。では、自分がそれほど激しく燃えないのは何故だろう。毎日顔を合わせているからであり、また、会いたくなれば、いつでも会えるからでもあろうと思った。人目を避けることさえしなければ、自分達はいつまでも信頼し合える恋人で居られるのだ。だが、いつ何時、人目を避けて二人っきりになりたいと思うようになるかも知れない。その時、現在のように、明日という日を恐れず、ゆったりとした日々を送れることができるのかしら・・・。時々、三枝子はそんなことを考えたりしていた。・・・・
2024.04.27
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〇この日を境にして、三枝子は傍目にも感じられるほど、永井に尽した。永井は迷惑がりもしないで、三枝子の好きなままに任せているようであった。永井は大変な読書家であった。彼のベッドの傍の本棚には、分厚い本がずらりと並んでいた。歴史書や哲学が主だった。聞けば、社会科専攻の教師になるつもりで大学を目指していたのだが、元々、ひ弱わな身体に受験勉強が祟って、この病気に負けたのだと言う。三度も滑ったと言って、彼は不自然に笑った。三枝子は、ただ気の毒に思うばかりで、慰める言葉も持ち合わせなかった。読書に疲れると、中庭の花壇の世話や鉢物の世話をしていた。 三枝子が花の苗を買って来てやることもあった。郵送のみに頼っていた書物すら、三枝子の手を借りることもあった。二人の噂は療養所という狭い世界では行き渡っていた。二人ともそんな噂や冷やかしにムキになりはしなかった。広がってしまえば、後は逃げ隠れする必要もない。お互いに尊敬し合えたので、淫らな冷やかしにも「ええ、ひょっとしたら、そうかもね」とか「もう相当なもんよ」とか言って、平気の平左で済ませてしまう。三枝子はこんな面構えで居られるのも、すべて永井のお蔭だと感謝していた。
2024.04.26
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〇厄介な人達だと心の中で溜め息をつきながら、次の部屋を見る。何だか様子がおかしいので、電灯をベッドの方へあててみると、ベッドの上には誰ひとりとして寝ていない。キョロキョロと見回すのを、男達はベッドの下から笑ったりした。若いエネルギーを抑制されている患者達は、時々、卑猥なことを言って、三枝子の顔が赤くなるのを喜んだ。永井という男は、彼らとは別の人種であった。派手なところのないことが、一層、三枝子の目についた。顔色も蒼く、頬骨の出た彼であったが、その清潔な眼の輝きは、結核菌に侵されている病人とは思われないほど、美しかった。 彼の眼を長く見つめることは、三枝子には出来なかった。三枝子よりも三月ほど前にこの療養所に来ていたことや、自分と同い歳であることが、カルテから知れた。 そんな或る日のことであった。三枝子は源さん達から、女の秘密の日をあてられてしまった。その場はなんとか繕ったものの、後から恥ずかしさと悔しさとが、一度にこみ上げて来た。気づいた時には、かなかなの鳴く、杉の木立の下に来て、溢れる涙を細い指で拭っていた。・・・・あんまりだわ!ひどすぎるわ!・・・・何度、そう口に出して言ったか知れない。「山野さん、どうかしたのですか?」と尋ねる声がした。誰だか判らないが、まさか涙でヨレヨレになってしまった顔を、男性に見せる訳にはいかない。杉の木に尚更もたれるようにして、しゃくり上げた。「どんなことを、皆が言ったか知りませんが、それは貴女に対する甘えなんですよ。どれほど貴女の評判が良いか知れません。可愛いて言ってます。貴女への悪戯、それは一つの挨拶なんです。それを軽く受け流して、乗り越えてごらんなさい。きっと楽しい勤務に変ります。まるで、みんな、子供のように従順になってしまいます。」その忠告者が立ち去るのを感じながら、三枝子は、そうっと指の間から、その後姿を追った。見覚えのある、大切な後姿であった。永井はすべてを知っていたのかも知れない。いや、偶然に彼女を見つけたのかも知れない。いずれにせよ、彼は三枝子の日頃の悩みに気づいていたのだ。振り向きもしないで、小さく消えていく彼の後姿を三枝子はいつまでも見送っていた。
2024.04.25
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〇結核療養所というところは、俗世間から無理強いに隔絶されているだけに、ニュースらしいものに乏しかった。そんな中に新しい看護婦が来たということは一大ニュースであった。永い闘病生活に甘んじなければならない彼ら患者にとって、美人に越したことは無いが、それ以上に思いやりのある、明るい、そして融通性のある看護婦が望まれた。第七病棟では最古参といわれるバクチ打ちの名人の源さんは、三枝子に百点満点という途方も無い点をつけた。若い男達は源さんの直感的な評価を信じて疑わなかった。彼らは親しみや甘えを、からかうことによって表現するのだ。皆、自分を知って欲しいのだ。早く名前を覚えて欲しいのだ。検温は朝の十時と午後の二時であった。いつも寝た振りをして、三枝子を困らせた。三枝子は彼らの冗談にすぐ乗ってしまって、初めの内は、おろおろするばかりであった。夜の見回りの時なども、懐中電灯を天井に向け、板張りの廊下を音のしないように歩くのには、少しコツが要る。慣れない三枝子は、気にすればするほど、音を立ててしまう。すると、うるさいという声が暗い病室から聞こえて来る。三枝子にはそれが嫌がらせに聞こえるのだ。
2024.04.24
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<本日から幾日かに分けて、昭和44年ころの作品をご披露させていただきます>〇 (一) 銀杏が黄金の色に輝く公園の青いベンチに、美枝子はフィアンセと座っていた。「どうしたんだい?今日はすっかりおとなしいんだね。何か心配ごとでもあったのかい・・・?」そう聞かれても、真相を明かす訳にも行かなかった。なるべく相手の眼を避けて、「女性って、秋にはセンチになるって言うわ。」「君は戦後の生まれだろう、信じられないよ。まあ、いいや。秋の淋しさに浸りなさい、僕は黙っているよ。」思いやりのある言葉であった。彼の手は彼女の髪をそっと撫でていた。彼の吸う煙草の煙の中で、美枝子は目を瞑った。 実を言えば、今日は、昔勤めていた療養所の友達から、ひょっこりと手紙が来たのだった。それは四日かかって彼女の手許に届いたことが、スタンプから知れた。永い間、便りを出さなかった詫びの言葉や、柿のうまいことや、婦長の代わったことなど、ごくありきたりの内容であったが、最後に永井の死んだことが記してあった。書いた人からすれば、親切心から付け加えたものであろうけれど、美枝子にとって、それはかなりショックな追伸であった。
2024.04.23
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○1575年(天正3年)五月二十日付戦国史新聞には、掲題の文言のほか、「信長三千挺の鉄砲を投入」「戦勝の秘密は三段撃ちと馬防柵」という号外も出され、一面二面に渡って、「織田信長 武田騎馬軍団をせん滅」という大見出し、同じく横書きにて「三千挺の鉄砲に武田軍の死傷者一万を超える」の中見出し、縦書きにて、「内藤・馬場・山県ら 武田の猛将全員戦死」の見出し、序に次いで、「激突!設楽ヶ原 武田騎馬軍団、地上から消滅」の小見出し。また中段には、「武田軍 五百人の長篠城落とせず」や「情報戦を制した織田信長の炯眼」等の小見出しも散見されます。尚序文は、織田信長が三河設楽ヶ原で武田勝頼と戦い、敵方に死傷者一万余の損害を与えて大勝利した。勝頼は内藤、馬場、山県ら歴代の重臣を失っ潰走走。この合戦では三千挺という前代未聞の数の鉄砲が集められ、信長軍に勝利をもたらした。この大勝により、信長の天下布武構想は仕上げの段階に入ったといえる。
2024.04.22
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○京都生まれの私、京都が古い街であることを殊更に自慢するわけではありませんが、五条通から上って行く道々には仏具店は勿論、やれ袱紗屋だの掛軸屋だの弓屋、シャツ屋など、いろんな店が地味な店構えで散在していました。一方驚いたのは、或る1軒でした。一階の屋根にも二階の大屋根にも三枚のプロペラをつけた自家発電装置もさること乍ら、「ひまわり」とローマ字を附した特殊な装置(まるで超大型の真空管のような装置)を発見した時です。おそらくあれは、日本の宇宙衛星「ひまわり号」から直接、気象映像をキャッチする装置なのかなと推測しました。個人の家でそう言う事に興味を持ち、自分で気象予報などして居られるのだと思いました。昔ながらの古い商い屋もあれば、このような未来すら掴もうとする家もあって、京都の散策は観光地よりもむしろ、こういうそぞろ歩きをお薦めしたいのです。 最近、この稀有な装置を探して四条通から松原通間の道を歩きましたが、近代的なビルに替わったようで、見つける事はできませんでした。
2024.04.21
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〇かくれんぼ 豆の畑にみいさんと ふたりかくれてまつてゐた。 とほくで鬼のよぶ声が 風のまにまにするけれど ちらちらとぶは鳥の影。 まてどくらせど鬼はこず。 森のうへから月がでた。〇まゝごと ままごとするのもよいけれど いつでもわたしは子供役 子供が子供になつたとて なんのおかしいことがあろどちらも感性ゆたかな詩情が溢れていますね。
2024.04.20
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○20年ほど前に仲間が詠まれた句。 遠かすみ宙空にある島と舟 一英昔の屏風は金泥が施されていて、霞とも雲ともつかないぼかしが幾つか描かれています。世界をおおう空間を宇、時間の広がりを宙というらしいのですが、遠近感と不変的な景色が詠まれていますね。 花霞比叡がくしとなりにけり 政利京都市内から見て比叡山を彩る花の霞を「比叡がくし」という季語にしようという動きもあるのだそうです。 霞立つ備前備中安芸を行く 薫 遠霞威容を誇る貨物船 美智子 延々とただ延々と花筏 一英 花冷えや太夫の鼻緒紅うして 美智子 燈ともれば曲がりたくなる春の宵 真隆 山独活(ウド)を放つや水の色青む あさ子 昭和錆ぶひしゃげ背負籠よもぎ摘む 政利 山門を閉ぢて無言の遅桜 正 己が影踏めば泣く砂啄木忌 興作 盛衰の寺歴もろとも藪椿 星子 花疲れ靴もハの字に脱ぎすてて 千恵子 腰高の風城門を花の冷 健二これらは18年も前に詠まれた作品。既にお二人は鬼籍のお方です。
2024.04.19
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〇京鹿子例会等、参加者署名簿について先日記事にしました。スマホにてフェイスブックに挙げた記事に誤りがありました。村上春樹氏の尊父が安養寺の住職だったという一文は誤り、それは春樹氏の祖父にあたる人。父の村上千秋氏は安養寺の住職:村上弁識の次男で乙訓郡光明寺傍の西山専門学校(ここで野風呂先師との接触→京鹿子)、京都帝大文学部在学中に日中戦争に関わり、戦争の惨たらしさに心に深い傷をもたれました。のち甲陽学院中学校に赴任した都合で、京都生まれの春樹氏は神戸高校、早稲田大学へと進まれました。千秋氏は昭和12年10月~昭和17年2月まで京鹿子の句会に出席されていました。昭和24年4月17日泉湧寺来迎院での句会には余瓶、蕗葉子、野風呂記念館近くの下大路在住の飛騨桃十・夏子夫人・息子道弘の署名があり、5月15日三船祭には高桑義生、久保まさじ、加田とし女(ゆかり)、小林仙太郎、山田耕子らも。昭和24年7月9日鞍馬寺大宿坊での句会にには谷口八星、荻野五百枝(千枝)、内藤十夜など。
2024.04.18
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〇亡父は夥しい量の「新聞の切り抜き」を残して居、その中にはセピア色どころか、読むにも難儀するほど日焼けしてしまったものもありますが、数十回ものシリーズ記事は、新聞社ならではの切り口で、興味が尽きません。虎は皮を残し、亡父は「切り抜き」を残してくれたのでした。
2024.04.17
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〇半と書いて、なからいと読めばお上品。電子辞書には①なかば、まんなか、なかほど、たけなわ②かたはし、はしきれ、はんぱ。③わける、二分する。④わずか、すこし。ほかに中途半端、ちいさい、なかばする。そして丁半の奇数の半。と説明されています。 ところで日本人は概して態度がはっきりしないで、ぼかします。上品=奥ゆかしい=奥にいかまほし。奥に何かあるので、そこへ行ってみたいという曖昧な表現。「大半の人がそう考えています」これは一体何人を指しているのかと更に調べてみます。すると、中国に於ては、大半=九割、多半=七割、一半=五割、小半=四割という事らしいです。こうして結論を出してみると、日本人は曖昧なんですね。
2024.04.16
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〇書物はこころのビタミン剤、手元に置いて時々、眺めているだけで雅な世界への憧れを充たします。父が買ったのでしょう、昭和59年2月再版、角川文庫の『絵草紙 源氏物語』(490円)。解り易く、読み易い田辺文子さんの文と個性的なかんばせながら、流麗な線に特色のある岡田嘉夫さんの絵の織り成す紫式部の世界。物語の巻同様、桐壷、箒木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花・・・・と続きます。旅行の友に、大病院の治療・検査などの折には、携えたい文庫本です。
2024.04.15
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〇青空を覆い隠していた無数の花びらが散り初めると、齢い65の桜大樹さえ気のせいか、スリムになっていくような気持ちになります。さくらは優しさを教えてくれますが、どうも国の政治を預かる人々は謝り方をご存知でないような・・・。「おわび申し上げなければならない」や「夢を与えたことを謝罪しなければならない」これらに共通する部分、もし~~ならば謝ら「なければならない」という言い回しです。謝る気持ちがあるのなら、もっと素直に「~~しまして申し訳ありませんでした。ここに謹んでお詫び申し上げます」で反省の気持ちが言葉として伝わる筈であるのに・・・。 感謝の言葉やお詫びの言葉は、朝夕の挨拶同様、世に暮していく上での必須の言葉ではないでしょうか。彼らは謝りたくないから「おわび申し上げなければならない」と逸らせているように聞こえます。散り際の潔いさくらに寄せる日本人本来のころを、施政者がないがしろにするようでは「やさしい平和日本」を世界に発信できないように思うのです。
2024.04.14
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〇16年も前の記事です。小学新3年生のガイドをしてきました。長岡京市の小学校さん、どうやら早めに進んだらしく、集合時間が10時15分なのに9時半頃には現場に到着しそうな勢いでした。ガイドの会のメンバーが全員揃うまで待って、それでも予定より早めに出発。ひと組5~7人の隊を全部で12組、生徒72人先生ら4人、ガイドは14人。歩きながら自己紹介をしつつ観音寺の緩めの坂と急な階段を登りました。聖天さんのお堂まえでのお話では「腕白で乱暴な人でもうまく諭せば善人になって役に立つ人になるんだよ」と覚えやすいように説明しました。山荘近くへ出て宝積寺では閻魔堂の閻魔さん5体とご対面。16人ほど一まとめにして閻魔さんの表の恐い顔と裏の優しい顔を写真を使いながら説明、「先生も生徒に注意したり怒ったりしはるけど、本当は心の中では泣いてはるのだよ」と説明すると先生は嬉しそうなお顔をしておられました。山頂では全員が集まるまで待って、生徒も先生もガイドも一緒に仲良く昼食。食後15分ほど子供たちは山頂でお遊びなど。それから小倉神社へと行進。途中で山を切り開いたところがあって、生徒たちの学校が眺望できました。記念写真も班毎に撮って貰いました。怪我人もなく無事小倉神社まで辿ることができました。3年生は本当に愛らしい、良い子達でした。最後は一人一人握手して別れました。
2024.04.13
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〇日本歌手協会7代目会長に就かれていたペギー葉山さんは、幼少の頃から歌が大好きで、当初は音大を狙っておられたましたが、ラジオから流れ来るアメリカポピュラー音楽に惹かれ、クラシックからポピュラーを選択、進駐軍のキャンプで歌っておられましたが、学校卒業するやキングレコードから「ドミノ」をリリース。1958年の「南国土佐を後にして」が空前の大ヒット。「サウンドオブミュージック」の中のドレミの歌を日本語に訳詞され、日本全国に流行らせたのも、ペギー葉山さんのお陰。私が深夜ラジオを聴きながら感心したのは、音程の捉え方の正確性と、ソフトボイスの素晴らしさ。会場の遠くまで届く飯沼京子さんのテクニックを思い出しました。
2024.04.12
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〇幼い頃は小倉百人一首の坊主めくりに姉妹たちと興じていました。坊主頭が12名、姫17名、高貴な姫4名それとどんな場面でもオールマイティになる蝉丸。蝉丸が早く出てしまうと、その回の遊びの興味は半減します。いつまで経っても蝉丸が出ず、独り占め状態の山積みの人以外の人は数枚ずつ。その時独り占めさんが坊主を引いたら、場の中央に置き、姫が出尽くしていたら、蝉丸頼りの大波乱ストーリーになりました。この他、銀行屋さんごっこ、一種のカジノゲームとして、普通の男=1円、姫=5円、坊主=10円、弓矢帯刀の男=50円ゲーム参加者3名に各自30円分の札を配布、残りの札から掛札用20数枚抜き、残りは吟行の支払い用資産。伏せ札20数枚を使って4組か5組の列を作り、各人がこれはという列に自分の札を賭けます。各伏せ札の客に近い部分の札1枚のの身分で銀行側の選んだ列の1札との勝ち負けを決めるという趣向。人生ゲームのように資産争いの遊び。
2024.04.11
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〇編集責任者だった当時、手伝っていただいた伊﨑氏は松尾大社の氏子総代でした。お亡くなりになった時の葬儀には、びっくりするほどの参拝者の数でした。松尾大社といえば、酒の神、そして山吹の花の美しい境内を想起します。『源氏物語』 胡蝶の巻には、秋好中宮の御歌 こてふにも誘はれなまし心ありて 八重やまぶきをへだてざりせば おしべが全部花にびらに特化したものが八重山吹で、実ができません。太田道灌と賢い少女の話。みのひとつだになきぞの和歌の源は、万葉集巻10, 花さきて実はならねども長けきけに 思はゆるかも山吹の花 この歌のようです。
2024.04.10
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〇「戦国史新聞」の1585年3月24日の記事大見出しは、<羽柴秀吉、雑賀・根来を制圧><大坂城攻撃の意趣返しか> <根来寺も焼き討ちされる> 今月21日に紀伊に出兵を開始した秀吉は、この日までに紀伊を8割方制圧した・・・・>その下段には、長宗我部元親の反羽柴戦線記事で軍事評論家の間では、今回の紀伊出兵には・・・という軍事記事。次ページは<新検地まっぴらとと農民ボイコット山城・近江の領民に帰村命令。或いはその下段に、 ギャンブル公卿・山科言継が正親町天皇の逆鱗に触れるという見出しや、~お悔やみ~コーナーには丹羽長秀(駅全北の庄城主)51歳。織田家の重臣で、かつて「米五郎左」の異名をとった武将。ワールドナウの記事では、天正遣欧使節がローマ教皇に謁見した記事が添えられています。
2024.04.09
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〇東京気象台が赤坂葵町に設置されたのが明治8年、9年後の同17年6月1日、わが国初めての天気予報が発表されました。警察所や巡査派出所には「全国一般風ノ向キハナシ、天気ハ変リ易シ。但シ雨天勝チ。」現在は気象図や降雨確率を示されるので、降雨50%を超えそうなら折り畳み傘持参しますね。当時は長袖の木綿シャツを洗濯し、2分間脱水し、午前9時~午後2時まで干し、シャツに残った水分量を基にして、複雑な算式を割り出し、洗濯指数を公表していた由。(『雑学おもしろ歳時記』樋口清之著参照)
2024.04.08
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〇鍾馗さんは、ひげ面のこわいお顔で、邪気を払うてくれはる神さんやそうな。右手には剣を持って、長い靴をはいてござる。焼きものの鍾馗さんは京の町をぶらつくと方々の家の屋根に陣どって居やはる。町歩きで見つけた鍾馗さんだけで写真集ができそうです。なかなか同じものには巡り合えません。
2024.04.07
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〇幼い頃は人見知りする子でしたが、長じてクラブ活動を通じて積極的な性格に変遷。八雲高校在学中にモデルにスカウトされ、その後高橋圭三事務所に入り、「おのろけ夫婦合戦」のアシスタントを務めた事がきっかけで日活に入社。主役を貰い、梶芽衣子の名前は広く知られるようになりましたが、日活から卒業するにつけ、これまで彼女の良き相談役の大先輩、名脇役(準主役)の山岡久乃さんに挨拶かたがたアドバイスを請いました。ところが日活を出てフリーになる事=山岡久乃と絶縁状態、全て自分ひとりで解決する事に等しいと言われ、「媚びない、めげない、くじけない」を座右の銘として頑張り通して来られました。しかもドラマの進行と同時に歌唱もあって、その方面も全力で闘っておられます。
2024.04.06
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〇私は哀調・「月の沙漠」の歌詞が大好きです。初恋の人の夢を観たのも沙漠の景色で浪漫チックでした。月の沙漠 作詞:加藤まさを 作曲:佐々木すぐる1 月の沙漠を はるばると 旅の駱駝が ゆきました 金と銀との置いて 二つならんで ゆきました2 金の鞍には 銀の甕 銀の鞍には 金の甕 二つの甕は それぞれに 紐(ひも)で結んで ありました3 さきの鞍には 王子様 あとの鞍には お姫様 乗った二人は おそろいの 白い上衣(うわぎ)を 着てました4 広い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ ゆくのでしょう 朧(おぼろ)にけぶる 月の夜を 対(つい)の駱駝は とぼとぼと 砂丘を越えて ゆきました 黙って越えて ゆきました
2024.04.05
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〇今から18年前の4月後半は、リフォームによる実家の引越しを控えてバタバタと忙しい毎日だったようです。<明日19日(水)は昼から京都市内で句会、翌20日午後は仏具店から仏壇洗い直しの見積もりに、金曜日は再度句会、日曜の23日は工務店さんと朝9時半からご近所12軒への挨拶回り、24日(月曜)は午後から引越し、25日は句会。26日はガイドの会の懇親会。翌日はガイドホームページ委員会。28日(金曜)はいよいよ生家の鍵を工務店さんに渡す日・・・、とスケージュールいっぱいです。片付けは最終段階に入りました。でぇ 投扇興の道具などが出て来ましたので、こういう類いは使い古した桐箪笥に格納します。こまごましたものは全て軒下の桐の箪笥へ。鉄製の書棚二つは、結局ネジを外して畳み、東側の空いたスペースには不要な応接テーブルや大正・昭和ロマンの下駄箱などを、家屋の東の隅に積み重ねることにしました。無駄な余白を作らない方針です。>
2024.04.04
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〇標準の管長が一尺八寸であるところから尺八と称された真竹で作られた楽器の奏でる世界は実に幽玄。その起源は唐時代、奈良朝に伝わりましたが、直ぐに廃れ、その後、15世紀に一節切(その名の通り、竹の長い節を利用)が流行したものの、19世紀には廃絶。16世紀に考案された晋化尺八は晋化宗の虚無僧が使っていましたが、明治新政府により解体されました。中尾都山が大阪にて都山流を興し、竹の切り口の形状がことなる豊田古童作・琴古流の二つの派が今日に至っています。良質な根本の竹を掘り起こし切断、数年間寝かせて乾かしたものから漸く作業を始め、筒中お節を壊し、竹筒内を何度も研磨、半年以上様々な工程を経て制作され、蘇の額、数十万円に至ります。初心者コースの水道管塩ビニール製の尺八でも、プロが奏すれば、幾通りもの音色が楽しめます。
2024.04.03
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〇17年ほど前、野暮用で京に出たついでに、枳殻邸に寄りました。本願寺13代宣如上東本願寺13代宣如上人が家光より賜った土地に隠居所を造り、陶淵明の詩から渉成園と名づけたようです。当時、周囲にカラタチを生垣として植えたことから枳穀亭とも呼ばれました。また12代の教如上人が千利休と親交があったことから10600坪の庭園内には蘆庵など幾つかの茶室が設けられています。しかし何といっても広大な印月池を中心とした遠景が壮観です。庭園内には幾つかの小山を拵え、疎水から引いた水で滝を設けるなど、変化を凝らしています。僅か500円支払えばA4版26頁の立派な案内書が貰え、且つ静かな庭園でゆっくり寛ぐことが出来るのですから、有り難い穴場的な名勝地と言えましょう。京都駅から北へ徒歩15分以内、東本願寺の東側の飛び地にあります。桜は葉桜になっていましたが、春の桜は勿論、新緑の頃、或いは秋の紅葉の頃も素敵だろうと思われます。
2024.04.02
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〇2000年に父が没し、5年後に母が亡くなり、1年間を置いてから実家母屋の全面リフォームの為、その明け渡しまで凡そ十日となり、一日たりとて無駄に過せないようになってきました。東面軒下のうち、プラスチック波板の屋根を葺いてある部分は、既に不要なタンスをベースにして、野猫が入り込む余地の無いほど見事に積み上げ完了しています。東側軒下の南寄り部分は庇が浅いのですが、少々風雨の被害は覚悟の上で、廃棄しても良い桐箪笥一棹、鉄製書棚を2つ配置しました。中には割れても可の瀬戸物・台所器具などを中心に、箱詰めしていないものをビニールなどに包んで格納する予定です。一旦物置に格納したお仏壇は「洗い直し」するつもりなので部屋に戻し、その空いた部分を他のもので埋め、最終日にテレビを格納して物置は完了となります。その他のものは、4カ月の間、向日町の自宅で保管する予定ですので、明日、京都生協の運送部門と交渉します。
2024.04.01
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〇『後撰集』巻15・雑に、「あふさかの関に庵室をつくりてすみ侍りけるに、ゆきかふ人見て」として出ています。 蝉丸というのは伝説的な人物で、『今昔物語』では、敦実親王(宇多天皇の皇子)に仕えた身分の従者となっています。親王は琵琶の名手として知られていますが、蝉丸は永らく務めるうちに、彼も上達。蝉丸の琵琶の調べを聴きたい望んでいたのは、源博雅。名曲の流泉・啄木を奏でる人物は、もう蝉丸ただひとり。この名曲が絶えてしまう前に蝉丸を招こうとしましたが、「世の中はとてもかくても過ごしてむ 宮もわら屋も果しなければ」と返歌しただけ。そこで博雅は、毎夜毎夜逢坂まででかけ、こっそり聞き耳を立てていて、3年後に成就した由。
2024.03.31
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〇「芸能きわみ堂」では、黙阿弥脚本の「三人吉三」について、悪者の妙な魅力を紹介。お嬢吉三の名台詞をラップの世界に準え、フロウ=節回し、ライム=律詩のような韻、そしてリリック=歌詞、この三要素を懇切丁寧に説明していました。所謂七五調でまとめてあるから、リズムに乗って台詞が言い易い。>月も朧に 白魚の 篝も霞む 春の空に 冷てえ風に ほろ酔いに 心持よくうかうかと 浮かれ烏の只一羽 ねぐらへ帰る川端で 竿の雫か 濡れ手で泡 思いがけなく 手に入る百両・・・。
2024.03.30
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〇豊中市出身、小学5年の時、プールでのターンに失敗して視神経を痛めたことから中学2年にして全盲に。盲学校を経て追手門学院文学部卒、再び日本ライトハウス情報処理学を修められ、日本アイ・ビー・エムの学生研究員を続けながらITによって全盲の方への技術革新を駆使する事によって、白杖に代る便利なものを拵える事に専念されました。彼女の創意工夫は世界的にも認められ、宇宙飛行士として成功された毛利衛さんの跡継ぎとして、日本科学未来館の館長の傍ら、各分野に於て顕著な確約をされています。視覚的障碍者の歩行を補助する機器は、危険な場所に着く前に静止したり、迂回するソフトが埋め込まれていて、そう遠くない将来、更に精度をあげたものが政府公認のもと、商品として市場に出る事でしょう。 〇
2024.03.29
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〇 チラリズム→ 私はチラリチラリのチラリズ ムの日本的なお色気でいってや ろう(「女剣劇」浅香光代) アルバイト→ 竜子を夏休みのアルバイトに雇 うことを(「白い魔魚」舟橋聖一) アルサロ→ 英文の中退で、銀座のアル・サ ロンにいたこともあるんです(同) 貧乏人は麦を食え→ 池田蔵相 三八度線→ 隠語:越えてはいけない線。 老兵は死なず、ただ消え去るのみ→ 米国議会 にてマッカーサ卿の発言。わが祖 父も遺言書にこの言葉を。(参考図書:「流行語カタログ」<泰流社>)
2024.03.29
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〇一冊のカタログがあって、「ベルエポックの巴里展」と題して19世紀末のフランスにおけるポスター作品を集めたもので、1982年京都は高島屋の6階ホールにて、読売新聞大阪発刊30周年を記念した催し物で、カタログ製作者は株式会社アート・ライフでした。父が残した京都新聞の切り抜きでは、<パリに集まっていた芸術家たちが、産業や興業界の要請に呼応してC・M分野に独自の美を築いたものだ。・・・いかにも爛熟した甘美の情緒と装飾性を備え、ベル・エポック(最も良き時代)の雰囲気を今に伝える。ミューシャ、グラッセ、ティリらアール・ヌーボーの画家、ポスターの父とされるシェレ、ロートレック、ドニー、ボナールらナビ派の画家、ウイレットらモンマルトルに生きた画家らの作品約90点である。> 日本にも竹久夢二を初めポスターなどに秀逸な作品を残した作家が多く居て、某年、テレビの「お宝鑑定団」では、大正ロマン漂う麦酒のポスターやその他の作品が一点當り数万円の値がついていました。
2024.03.28
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〇28年も昔、先祖以来の京の仏具屋さんが我が家の仏壇を観に来て下さいました。決して大ぶりではなく平均的な大きさなのですが、値打ちは中ぐらいのもののようです。我が家族が成仏する時にお迎えに来て下さる阿弥陀如来様の出来映えは、すこぶる良いものらしいです。そう言えば、祖父はもう68年前に老衰、祖母も認知症発症から91歳で大往生。父はリンパ腺の癌でしたが、さして苦しみもせず、また母は病気一つしないでぽっくり逝くことが出来ましたのも、ひとえにこの阿弥陀様のご尊顔のお陰なのでしょうか。
2024.03.27
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〇初めてタコを喰ったのは、海で遭難し海岸へ漂流した人で、空腹のあまりグロテスクなタコを掴んで口に入れたのです。それを見て驚いたのは土地の人々で、「一体あれは何や?」「あれは土地の人間とは違う、他国の人や」「たこくの人」「たこ喰う人」、段々それが訛って「タコ」になっていったそうな。その内、親しみのある存在として扱われ、「タコには足が8本あると言うけどあれは嘘で、正確には足は6本、手が2本なんや」「本当かぁ?」「本当やとも、6本の足で泳いだり、歩いたりし、2本の手で魚や獲物を掴んで食べよんねん」「そんなら、どれが手?どれが足?どう見分けんねん」「何でもあれへん。タコの油断を見すまして、あの頭をポンと一つ殴んねん。タコはびっくりして、あっ痛っ!言うて慌てて両手で頭を押さえよる。それが2本の手や、すぐ分る。」嘘か本当か、面白い話どっしゃろ?
2024.03.26
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○ポーランド出身の著名な映画監督・アンジェイ・ワイダは大野初子の人形に感銘、「立体の浮世絵」と評価しました。後年、彼女の人形を総動員し、浮世絵風な世界を演出しました。1915年大阪に生まれた初子は16才の時、東京の岡田三郎助洋画研究所に通い、2年後には銀座の洋装店で服飾を研究しつつ、様々な人形を製作。また調度品等のデザインも。のち、家里美智子の塾生となり、単なるお人形から、芸術性の高い作品へと導きました。和装の「お出かけ」という代表作は、出かける折に、「私綺麗?」と後ろを振り返る動きのあるポーズをとっているので、人形に魂が宿る感じに見えます。ファイスブックフレンドの堀之内千恵子さんは塑像作品を通して美を追求されています。
2024.03.25
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○小・中学校の自由研究、壁新聞、或いは製図、催事の正面に掲げる式次第など上質で使用頻度の高い模造紙について触れるなら実は日本の紙(局紙)を他国が真似たものを日本が逆輸入した経緯があります。1878年のパリ万博に出品した大蔵省印刷局特製の三椏を原料とした局紙は、紙質が滑らかで紙の腰も強く、ち密な印刷も可能で評判を博したけれど、価格的に問題がありました。そこでヨーロッパでは亜硫酸パルプを原料にして、局紙に似せた紙を開発しました。オーストリアの製紙会社は「ジャパン・シミリ」とのネーイングで商品化。それを1913年、九州製紙会社が光沢をつけた模造紙を開発したという経緯があります。
2024.03.24
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○小学5年生の頃、大相撲に栃錦、若乃花の良きライバルが競い合うようになると、二人の取り組み時間は大人も子供も日本の全国で手に汗を掻くほどの人気になって行きました。プロレスは力道山の出現で人気を博しました。負けそうになると強烈な空手チョップが飛び出し判官ひいきみたいに日本選手は善人、外国のレスラーは全て悪役でした。この構図は今も同じようですね? 小川アナウンサー司会による金語楼・ターキー(水之江滝子)の「ゼスチャー」、高橋圭三アナの「私の秘密」、木島則夫アナの「危険信号」というスリリングな番組、推理番組の「私だけが知っている」だったでしょうか。 民放では三国一朗司会の「何でもやりましょう」(バヤリスオレンジ提供)少し遅れて、いとし・こいし司会の「がっちり買いましょう」「アップダウンクイズ」「ヤングオーオー」、サ・ピーナツの「シャボン玉ホリデー」、11時には大人向け番組「11PM」が人気をさらいました。また一目合ったその日から恋の花咲くという番組、山口百恵などを輩出した「スター誕生」、宇津井健の「ザ・ガードマン」など目白押しで茶の間の人気番組が誕生しました。
2024.03.23
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○昨今は愛玩動物にとって、まるで天国のような様相を呈していますね。 栄養分を計算された餌を定期的に与えられ、清潔な日々を飼い主と一緒に暮らしています。箱入り娘(息子)のように重宝され、老年になっても手厚い介抱、看取られながら昇天。ずっと前の猫は餌だけ与えられ、後は自由に戸外で一日を過ごし、死期を悟ったら家を出て、飼い主の前から姿を消します。地方では「ネコ岳に登った」とか「ネコ岳参り」と称して、飼い主たちは受け入れていました。野生動物は、身体が弱ってきて死期が近づくと、敵に襲われることを本能的に恐れ、身を隠す行動をおこします。最近の外歩きする猫はの死因のトップを占めるのは、交通事故。死期を悟らず急逝する宿命。
2024.03.22
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○親父の遺物の後片づけ3年目。居間には背高のっぽの桐箪笥があって、いよいよ小引出の中身を整理する段階になりました。二つ並んだ小引出には硬貨容れが幾つもあって、バッグ提げ、やシャープ・ボールペンのセットやカフスボタン、上等のペーパー・ナイフなどの他に、古い手紙・ハガキが出て来ました。昭和17年東京市牛込区から早稲田大学在学中の叔父から本籍地である京都市高辻通の住所あてに、同じく祖母からの葉書(昭和18年6月)、叔父からの葉書(朝鮮の軍駐屯地から)、神戸市灘区の住所あてに母の二番目の弟からの葉書(昭和18年)、昭和21年祖父から京大病院入院中の父あてに、葉書の切手代は2銭、3銭、5銭と変化していました。それでも戦後は物価が急上昇していたのでしょう、昭和25年には2円に上っていました。葉書の中身は、二番目の姉の命名のことや、弟が亡くなったことへの見舞いなど、私には記憶にないことばかりでした。また母の父が大阪市の第三助役に抜擢された内容の大阪市政ニュース(昭和10年6月)のコピーや、この祖父の葬式の刷り物が残されていました。当時の助役の方々が葬儀委員をして下さり、中馬市長や大島市長、佐藤義詮知事など、錚錚たる方々が焼香して下さる段取りが印刷されていました。このように、捨てきれないものが出てきますので、整理には慎重を期さざるを得ないのです。
2024.03.21
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(この石敢當の真東辺りに大名クラスの泊まる本陣)○某年某日、ガイドの会Uさんが親しくして居られる誼で、大山崎、東の黒門傍にある旧本陣をガイド四期生一同が見せて貰いました。蝋梅が綺麗な頃、家内とこの辺りを自転車で徘徊した時、満開になれば綺麗だろうなぁと思っていた梅林は紅白の梅が満開。また由緒ありそうに思っていた大木のあるところが本陣の裏庭でした。本陣ですから参勤交代時に休憩・宿泊した大名の部屋は一段高くなった書院造りでした。同じ大きさ(六畳)の部屋が四つ組になっていて、内、三つの部屋に床(トコ)がありました。松平右近将監(ショウゲン)という看板も残っていました。ここいら一帯は、その昔、宿場町でしたから本陣、脇本陣、旅籠(ハタゴ)がずらっと並んでいたといわれています。當家は明治以降、代議士をして居られ、そういう方面の古い資料は残っているけれど、古文書などはもう一つの蔵を崩した折に処分したらしく現存していないという話でした。欄間や調度品、雪見障子などに江戸・明治時代の面影をしのぶ風情を感じました。裏庭にはご近所さんが自分で風呂桶を担いで来られていた話や相撲取りを抱えていた話など聞かせて貰いました。今は田圃でなく草地になっている場所には土筆が数え切れないほど群生していました。
2024.03.20
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○子供ころ、明るい陽の下、庭を一本線で結んだように一列になって進む蟻を何気なく見ていました。理科の学習では、瓶詰にした蟻の巣の観察をした記憶も朧げにあります。蟻が一本線の上を行進するのは、学術書に拠れば特殊なフェロモンの分泌が起因しているらしい。先を行く蟻が同じ集団の蟻たちにだけ判るように、フェロモンを撒き散らかせて進みます。それだけでなく、匂いが失せてしまわないよう、地面などを予めコーティングする物質も塗りつけているのだとか。
2024.03.19
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○随分むかし、女優・4藤村志保さんが盲目の旅芸人を演じて居られたのですが、その相手役はことごとく複数の「操り人形たち」でした。人間の大きさに較べ遥かに小さな人形たち。しかし、目を閉じた虚ろな志保さんの視線の先の小さな人形たちとは、ぴったり呼吸が合っていました。音楽は三味線、太鼓、笛、胡弓などで全て生演奏。相手役の人形たちのセリフは本当の役者さんが暗い舞台の上手に陣取り大きな声で演じられていたし、人形の使い手の絶妙さにも素晴らしいものがありました。操り人形遣いの名は田中純さんその人で、この道5歳の初舞台から60年という年季の入った大ベテランでした。主役の志保さんは「相手役の人形から、まるで魂の入った人間の意思そのものものが伝わって来る」という感想を述べられ、予めその役柄の境遇や性格を理解して置き、あとは「人形に魂が入って、諸々の動きが生まれて来るのを”待つ”」という田中さんのひと言に感心しました。正しく之は俳句の道に通じることです。或る対象から感銘を受けた時、それを巧みに詠もうと意識すると、良い言葉は生まれて来ません。その対象物と”心を一つ”に、或いは”無”にするよう自分を置いた時点にして初めて、素晴らしい”言葉の連なり”が生まれて来るように私は思っています
2024.03.18
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