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■グラスゴー大学■富士山を見に、11月2日(火)~11月16日(火)まで旅行した。新幹線で熱海まで行って、そこからレンタカーを借りての旅だった。おりしも、その時、COP26が、英国グラスゴーで開催されていた。10月31日に始まった国連気候変動枠組条約第26回締約国会議 (COP26) は11月13日に終了。毎日のニュースで、グラスゴーの景色がうつっていた。ガソリン車で移動するとCO2が発生する。では、電気自動車は、どうなのかというと、電気を作る時に、CO2を出すし、原発などとなるとそのゴミは、いまだに解決を見ないのだ。せめてと思い、連泊したホテルでは、シーツの変えや掃除はいらない、バイキング形式の食事のさい、自分の食べれる量だけとるなど考えたが、そんなことで出したCO2がチャラになるはずがない。 COPの会場の外では、多くの市民や若者が集まり、デモ行進が行われた。■今も語り継がれる1992年地球サミット・伝説の演説■1992年6月、ブラジルのリオデジャネイロで開催された「国連環境開発会議」(地球サミット)で、現在でも語り継がれるセヴァーン・スズキさん(カナダ、当時12歳)によるスピーチ。このサミットに当時の私は、どれだけ勇気づけられただろう・・・。あれから30年、ぜんぜんよくならないことに、へこむ。若い子たちが、可哀そうでたまらない。■2021年11月見た映画■*茲山魚譜-チャサンオボ*ほんとうのピノッキオ■YouTube:ジュニア感動!フルポン村上と俳句■俳句について語るフルポン村上と千原ジュニア■書き残したネタ■*富士紀行*謎は解けた!「ベジトラグ」というプランター*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*SDGs(エスディージーズ)のバッジ*食器の柄*丁寧語*高師浜*背という言葉*大阪弁*読書ネタ*丁寧すぎる言葉*プラスティックごみ。*白樺のかご*会話力*妄想古民家カフェ「くるり」*漆の木・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.30
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■あきない世傳(せいでん)金と銀11風待ち編■内容紹介(出版社より)湯上りの身拭いにすぎなかった「湯帷子」を、夕涼みや寛ぎ着としての「浴衣」に──そんな思いから売り出した五鈴屋の藍染め浴衣地は、江戸中の支持を集めた。店主の幸は「一時の流行りで終らせないためにはどうすべきか」を考え続ける。折しも宝暦十年、辰の年。かねてよりの予言通り、江戸の街を災禍が襲う。困難を極める状況の中で、「買うての幸い、売っての幸せ」を貫くため、幸のくだす決断とは何か。大海に出るために、風を信じて帆を上げる五鈴屋の主従と仲間たちの奮闘を描く、シリーズ第十一弾!!【目次】◆第一章 咲くやこの花 ◆第二章 十年の辰年(たつどし) ◆日向雨(ひなたあめ)◆第四章 英断 ◆第五章 万里一空 ◆第六章 悪手、妙手◆第七章 錦上添花(きんじょうてんか)◆第八章 天赦日の客 ◆第九章 深川へ◆第十章 土俵際 ◆第十一章 三度の虹 ◆第十二章 触れ太鼓 ●読書メモ● ◎は私の感想。◆第一章 咲くやこの花●勝栗(かちぐり)ぃ、橙ぃ縁起物ぉ、蓬莱飾りぃ天秤棒をしならせて、迎春用の物売りがまだ眠そうな声を上げる。●衣紋かけには、花嫁衣装となる藍染紬の綿入れ。◎冬であれば、花嫁衣裳でも綿入れだった。 ●難波の梅の名にしおう。匂いも四方にあまねく。一花ひらくれば天下みな。春なれや万代の。なお安全ぞ.めでたき。難波津に 咲くやこ の花、と歌われた梅。◎難波津に 咲くやこの花 冬ごもり いまを春べ 咲くや この花 王 仁(わ に)訳:難波津に梅の花が咲いている。冬ごもりをして、今こそ春が来たといって梅の花が咲いている。■この和歌は、■百済から日本に渡来し、儒教や漢字を伝えたという王仁(わに)が仁徳天皇の即位を祝って詠んだ歌といわれています。『古今和歌集』の仮名序で、紀貫之が「歌の父母のようにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と紹介しているように、習字でまず習うものがこの歌でした。平安時代の『源氏物語』にも、光源氏がまだ幼い紫の上に結婚を申し込んだ際、祖母が「まだ難波津の歌さえもちゃんと書けない子ども で す か ら 」 と 答 え る 場 面 が あ り ま す 。 さて、競技かるたでは、試合の始めに、百人一首には入っていない歌を読み、試合開始の合図とします。これを「序 歌」と言います。全日本かるた協会の依頼により、文学博士で歌人でもある佐佐木信綱氏が、この「難波津に」の歌を序歌として選定しました。◆第二章 十年の辰年(たつどし) 「気のせいか、と思うたんだすが、さいでん(先ほど)から、妙な・・・(略)◎「さいでん」とは言わず、「さいぜん」と言うのだがと調べたら、やはり■さいぜん■とあった。「ざ」を「だ」という地方は和歌山などにあって、「ぞう」を「どう」、「どうぞ」を「どうど」などと言う。作者の高田郁氏は、兵庫県出身。●店主と支配人は手分けして集めた帳簿類を、広げた風呂敷包みの真ん中に置いた。漬物石を載せてぎゅっと包むと、二人して庭の井戸てと急ぐ。息を揃えて手を放せば、帳簿類の入った風呂敷包は井戸の底へと吸い込まれ、どぶん、と大きな水音が響いた。◎火事の場合の帳簿の残したか。帳簿に用いる紙は、水に強く破れにくいものを選んでいる。しっかり乾けば水に漬けても文字が滲むことがない。◆第七章 錦上添花(きんじょうてんか)●相撲と同じく、歌舞伎も楽日を千秋楽と呼ぶが、これまで散々、火事で焼失しているため、徹底的に「火」を避けて、「千穐楽」の字を当てる。◆第九章 深川へ●親和文字◎■三井親和(元禄13年(1700)ー天明2年(1782))■深川に住んでいて、深川をとても愛していたということで、深川親和と名乗っていたそうです。当時の江戸では、「どの祭りにも深川の親仁(おやじ)出る」とかの川柳があったりしたほどで、親和の書いた神社や商家などの「のぼり」や「扁額」がそこら中に溢れていて、江戸を代表する書家だったということ。また、親和が書いた筆跡を模様化して着物や帯にした親和染めというのもあったくらい、ブームになった人だったそうです。五鈴屋でも親和文字で浴衣を作り大評判となる。◆第十章 土俵際●「勧進相撲では取り組みの終わったあと、土俵の上には着物や羽織の山ができる」「着物や羽織の山?」何故そんなものが、と幸は眉根を寄せ、首を傾げた。(略)「それが祝儀の代わりなんですよ。興奮のあまり、褌一丁になる客も大勢いる」 ◆第十二章 触れ太鼓●相撲の興行を公に知らせるものは太鼓で、しかも二種類ある。まず、初日前日、棒にぶら下げた太鼓を打ち鳴らして、江戸市中を回り歩く「触れ太鼓」。十五人ほどが一組となり、「江戸太鼓」「深川太鼓」「品川太鼓」「浅草太鼓」「四谷太鼓」の五組で、満遍なく、明日からの興行を知らせて回るのだ。今ひとつは「櫓太鼓」。初日、朝七つ(午前四時)から打ち始めて、勧進大相撲の開催を周囲に知らしめる。この櫓太鼓は興行の間中、朝七つから夕七つ(午後四時)まで打ち続ける。◎♪お江戸日本橋七つ立ち~という歌があるが、朝4時に出発したのか!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.29
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■ほんとうのピノッキオ■あなたはまだ知らない。木工職人のジェペット爺さんは貧しい生活を送っていた。そんなある日、彼が丸太で作った人形が命を持ったかのように話し始める。彼はその人形に「ピノッキオ」と名前をつけるが、やんちゃなピノッキオはジェペットのもとを飛び出していってしまう。「人間の子どもになりたい」という願いを叶えたいピノッキオは、心優しい妖精やおしゃべりなコオロギの忠告に耳を貸さず、誘われるまま森の奥深くへ進んでいく。 カルロ・コッローディによる世界的児童文学「ピノッキオの冒険」を、『ゴモラ』のマッテオ・ガローネがメガホンをとり映画化。コメディ映画『Viva!公務員』でデビューしたフェデリコ・エラピがピノッキオを演じるほか、ピノッキオの生みの親であるジェペット役に『ライフ・イズ・ビューティフル』のロベルト・ベニーニが出演。共演はロッコ・パパレオ、マッシモ・チェッケリーニら。 ディズニーアニメとは全く違う特殊メイクやファンタジーな映像が素晴らしい映画。特殊メイク(ピノッキオの木目調の肌は4時間の賜物)の質感がこれでもかと襲いかかってきて最初はダークな世界観と次々に現れる。キャラクターが面白くて、カタツムリ婦人や不思議な御者、旅回りの人形たち・・・。どれをみても、すごいメイクだ。2021年 アカデミー賞 2部門ノミネート★衣装デザイン賞 ★メイクアップ&ヘアスタイリング賞と聞いてピノッキオはじめ、出演する人々?の特殊メイクに納得した。■『グランド・ブダペスト・ホテル』(13)■■『ボヘミアン・ラプソディ』(18)■、でも、★メイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞している人。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.27
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今から65年ほど前、子ども時代は、に岡山の田舎で育った。たった二間と土間、風呂、台所などがある普通の農家で、ほとんどどこの家にも、押し入れと床の間がついていた。私の家も同じように床の間があったが、そこに、小さな濃い茶色い牛が置かれていた。私の家だけでなく、どこの家にも、この小さな濃い茶色い牛があった。 隣の町に「田倉の牛神様」とよばれる神社があって、飼っている牛を売ったり、新たに牛を買ったりするとその牛の健康、無事と五穀豊穣を願って牛の人形を買うのだと父が言っていた。「田倉の牛神様」は、隣の駅だけれど、一番近い駅に行くにはバスに乗らなければならないし、そんなお金などなかったので一度も行ったことがない。 昔は、どこの家にも牛を飼っていて、田んぼでトラクター代わりに働いていた。ずーっと思い出すこともなかったが、今年はうし年ですからということで思い出した。■田倉牛神社■どうして田倉牛神社は牛の像を奉納するようになったのか?それは、江戸時代の岡山藩が農業振興策の一つとして、農家に牛を飼うことを推奨し、各村に一カ所ずつ、神様をまつる祠(ほこら)を設けたことが一因とされている。村人たちは、農耕牛の健康を神社で祈願していたという。トラクターなどない時代、牛の健康は農作業に大きな影響を与えていたのだ。田倉牛神社は、徐々に”農耕の神”として信仰を集めていき、備前焼の牛または馬が多く奉納されるようになったと言われている。 コロナ禍にあかべこってピッタリのグッズだ!!■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■■仔牛の俳句■■牛草(ぎしぎし)■■「商いは牛の涎とブログ■■こって牛■■藤原定家の牛の歌■■赤べこ■■生薬「牛黄(ごおう)」■■牛耳る■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.26
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■茲山魚譜-チャサンオボ■最果ての海には、幸せがあった・・・。キリスト教が迫害されていた19世紀初頭の朝鮮時代に、熱心な教徒であった学者の丁若銓は最果ての島、黒山島に流刑になってしまう。しかしそこで丁若銓は、島の豊かな海と自然に感銘を受け、貧しいが親切な人々と交流するなかで、庶民のための“海洋生物学書”を書き記すことを決心。島で出会った海の生き物に詳しい若き漁師の昌大に、学問を教える代わりに海の知識を伝授してほしいと話を持ちかける。 朝鮮王朝時代の韓国で記された海洋生物学書「茲山魚譜(チャサンオボ)」に記されている史実を基に、師弟となった二人の男の絆を描いたドラマ。『王の運命(さだめ)―歴史を変えた八日間―』のイ・ジュニクが監督を務め、主演は『22年目の記憶』のソル・ギョング。また、『太陽は動かない』のピョン・ヨハン、『パラサイト 半地下の家族』のイ・ジョンウンや『エクストリーム・ジョブ』のリュ・スンリョンらが脇を固める。 1801年、朝鮮王朝によるキリスト教弾圧で、多くの信者が刑に処せらる中、学者の丁若銓(チョンヤクチョン)が南西の島へと流刑になる。未経験の新しい日々が始まる。韓国時代劇だが、華麗な韓流ドラマとは趣を異にする。モノクロ画面が素晴らしく独特の魅力に目を奪われる。 若銓(ヤクチョン)は失意の中、海や島の美しさ、島民の素朴さに触れ、口にしたことのない魚の味に感動する。そして、海の生き物についての書物の執筆を思い立つ。若い漁夫の張昌大(ちゃんちゃんで)に協力を頼むが、キリスト教への反感から冷たく拒まれる。若銓は、昌大が読書好きなことを知り、取引を申し出る。文字や学問を教える代わりに、海の生き物について教えてくれ、と。執筆に没頭する中年の学者と、海を生活の場とする若い漁夫。身分も年齢も対照的な男2人の熱い交流が繰り広げられる。 若銓(ヤクチョン)役には名優ソル・ギョング、昌大役は人気の若手ピョン・ヨハン。知力と体力、静と動、二様の葛藤をスリリングに見せる。若銓(ヤクチョン)を冷眼視する島の役人に対し、寄留先の寡婦は純朴な庶民として親身に世話をする。その間、美味しそうな魚料理が次々出てくる。 若銓(ヤクチョン)は支配階級に属するが、島に生きる人々を知るほどに王政反対の考えへ向かう。一方、昌大にとって知識と学問を身に着けるのは、支配階級を目指すに他ならない。2人の心の距離が開いてゆく。監督は時代劇の巨匠イ・ジュニク。実在の人物と書物(題名はその書物)を巡る物語を情感たっぷりに描き、現代人の胸を打つ。韓国映画の幅広さを感じさせる秀作である。(山根貞夫・映画評論家)●学者・若銓(ヤクチョン)は、何も持たずに島に来たが、その知性で島の人々の尊敬を集める。島を治める役人は、権力を持っていても、知性がなく、尊敬されない。●若銓(ヤクチョン)は、少しでも本土の近くにという理由で島を変えるが、そんなことが出来たのか・・・。また、若銓(ヤクチョン)と一緒に行く、島で出来た妻や子にしてみれば、知らない土地に夫の勝手で行かなければならないとは、なんと可哀そうなことか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.25
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■11月6日(土)■♪岬めぐり♪ 山本コータロー■♪あなたがいつか 話してくれた岬を僕は たずねて来たふたりで行くと 約束したが今ではそれも かなわないこと岬めぐりの バスは走る窓にひろがる 青い海よ悲しみ深く 胸に沈めたらこの旅終えて 街に帰ろう岬を海からと陸から巡ってきた。■岬・崎(みさき、さき)は、■丘・山などの陸上の先端部が平地・海・湖などへ突き出した地形を示す名称。半島や島の最先端部に多くあらわれる。海岸の岬は夜間・悪天候時の船舶の航行の障害となるため、灯台が設置されることが多い。日本語で岬を表す表現には、崎、埼、碕、角、鼻がある。石廊崎(いろうざき)は静岡県伊豆半島最南端の賀茂郡南伊豆町にある岬である。荒々しい海岸の景色で観光地になっている。太平洋に突き出たこの岬より西は駿河湾及び遠州灘、東は相模灘である。また、太平洋とフィリピン海の境界でもあり、相模灘側が太平洋、駿河湾側がフィリピン海である。岬の先端付近には石室神社、▼海から見た、下の写真は、ここに続いていた。一帯の地質は、海底火山が噴出した溶岩流で、約700万年前の浅海底に噴出したもの。1969年(昭和44年)から石廊崎ジャングルパークという熱帯植物園があったが、施設の老朽化や入場客の減少に伴い、2003年に(平成15年)閉園。最突端には熊野神社の祠(ほこら)がある。2019年(平成31年)4月1日に敷地内の廃墟を解体したうえで『石廊崎オーシャンパーク』。下田の町に帰ってきて、「下田開国博物館」に行った。なまこ壁が堂々とした風格の建物!! 波に千鳥、鶴や亀の鏝絵が素晴らしい!午後に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.24
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■11月5日(金)下田の歴史的な場所をガイドさんの案内で歩いた。■下田は海の関所だった。■江戸時代の船は、帆船でしたので、風向きが悪いと、途中の港にはいって、風待ちをしなくてはなりませんでした。江戸に向かう船は、波のあらい遠州灘を、無事にのりきって、下田港にはいると、ほっとひと息しました。ところが、相模灘は、遠州灘と風向きが違うことが多いので、下田港で、いく日も、風待ちをすることがありました。下田港は、江戸に出入りする船にとって、たいへんよい風待港でした。やがて、年貢米や特産品を、大阪と江戸に運ぶために、江戸と大坂の間を、回船(定期船)がかようようになりました。1636年(寛永13年)になると、名前も船改番所(御番所)と変わって、江戸に出入りする船は、かならず、下田港にはいって、御番所の調べをうけるようになりました。このころは、とくに江戸を出ていく女の人や子どもと、江戸にはいる武器のとりしまりがきびしかったのです。こうして、御番所の置かれた下田港は、「海の関所」の役目をしました。 江戸時代には、江戸・大坂間、あるいは東・西廻海運の風待ち湊として栄え、「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」(下田ぶし1番)と唄われた。東海道の三島宿から伊豆半島中央部を南北に縦断する下田街道の終点。1854年(嘉永7年)、日米和親条約が締結されると、箱館とともに開港(下田は即時開港)。吉田松陰の米渡航失敗、ロシア使節エフィム・プチャーチン提督乗船のディアナ号遭難、米国領事タウンゼント・ハリスと唐人お吉、商業写真の祖下岡蓮杖など、数々のエピソードを生んだ。南伊豆の観光拠点、静岡県「下田市」。この地は幕末に200年以上続いた鎖国時代から、マシュー・ペリー率いる黒船来航によって開国へと向かう大きな歴史の舞台になった場所であり、また坂本龍馬が脱藩を許され飛躍するきっかけとなった地でもあるのです。(ちなみに、坂本龍馬の元藩主・山之内容堂に龍馬を許してくれと頼んだのは、偶然、下田にいて風待ちをしていた、勝海舟だった!!)■幕末開国の舞台 玉泉寺■嘉永7年(1854年)3月、日米和親条約の締結、同年5月の付録13ヶ条の締結により、当寺は米国黒船乗員の休息所・埋葬所に指定されました。その2年後、安政3年(1856年)タウンゼンド・ハリス総領事、通訳官ヒュースケンが下田に着任し、同年8月玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設しました。(▲壁に煙突を出した跡が残っていた。)境内に星条旗が掲揚され、以来2年10カ月、玉泉寺は幕末開国史の中心舞台となりました。又、それ以前は日露和親条約の交渉の場となり、プチャーチン提督やディアナ号高官の滞在等、開国の歴史を彩る貴重な寺歴があります。境内には、米国黒船乗員5名、露国黒船乗員4名が眠る墓地があります。幕末当時に建立された墓石がそのままに現存しており、条約に則った日本最初の公式外人墓地となります。「松陰とお吉 下田の裏表」川柳中興の祖 井上剣花坊師は、下田に遊び この句を残す■井上剣花坊■ガイドさんと別れて、黒船で湾内一周。最後に、ロープウェイで、寝姿山に登った。見晴らしのいいのを利用して、黒船来航前の1849年英国の測量船マリナ号が入港したのを機に「黒船見張り所」がつくられた。この日の宿は、弓ヶ浜という弧を描いた浜の近くだった。(連泊) この日も富士山は見えなかった。10936歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.23
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■11月4日(木)伊東市にある大室山(おおむろやま)に向かった。■大室山(おおむろやま)■は、静岡県伊東市にある標高580mの火山。独立峰で、700年以上続く山焼きが毎年早春に行われるため一年生植物で覆われてよく目立ち、伊東市のシンボル的存在である。山体は国の天然記念物および富士箱根伊豆国立公園に指定されている。北麓からの大室山登山リフト(有料)に乗れば6分ほどで山頂に着く。火口縁には遊歩道が整備され周遊(お鉢周り)することもできる。かつては徒歩でも登れたが、現在では禁止されている。火口底は長らく観光アーチェリー場として利用されてきた。大室山の山焼きは、700年以上継承されてきた良質のカヤを育てるための行事だった。大室山で採取された茅は、屋根を葺いたり、牛馬の餌、堆肥、炭俵の材料として利用され、地元だけでなく江戸へも出荷された。▲八丁櫓とは、櫓が八本ある高速船のこと。▲その後、城ケ崎海岸へ。■城ケ崎海岸とは■静岡県伊東市の南西に位置する「城ケ崎海岸」。溶岩流と海の侵食作用でできた、断崖絶壁の海岸です。伊東市市街地から車で約30分。壮大な景色が眺められるんですよ。城ケ崎海岸を訪れたらここは外せない!約9kmにわたる城ヶ崎海岸で、最も有名なポイントが「門脇つり橋」です。荒波に削られた海蝕洞の間に長さ48m、海面からの高さ23mの通称「海のつり橋」が架かり、スリルとサスペンスを味わうことができます。まさに数々のサスペンスドラマや特撮ヒーローの撮影地にもなった迫力満点の絶景です。「穴口」という標識あり。道の横に、穴があいていて、海へと続いていた!!この日の宿は、熱川にあった。熱川といえば、私の世代は、■銭の花 細腕繫盛記■。熱川が舞台だ。『細うで繁盛記』は、1970年1月8日から1971年4月1日まで、よみうりテレビで製作され、日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ。近畿地区では最高視聴率38.0%を記録した。オープニングで「銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血がにじんだように赤く、その香りは汗の匂いがする」という主人公・加代役の新珠三千代のナレーションが入った。正子役の冨士眞奈美は牛乳瓶の底のような近眼鏡をかけ、静岡弁で「ちょっくら! 加代、おみゃーの出る幕じゃあ にゃーズラよ!」「加代!おみゃーの言うとおりにゃさせにゃーで!」「犬にやる飯はあってもおみゃーにやる飯はにゃーだで!」というようなセリフを口にして、視聴者に強烈な印象を与えた。本作では「憎まれ役」だが意外にも視聴者の人気を得て、これらをパロディーにしたテレビCMも製作された。冨士がCMの最後ににっこり微笑みながら眼鏡を外すシーンを見て、意外に美人なのがまた話題になった。私の勤めていた会社では、よくパロディをして笑った。かよちゃんという女性が来ると「かよ~」と呼びかけ、儲けた話を聞くと「「細腕繫盛記」やな、いや腕、太いがな・・・」((´∀`))ケラケラと必ず言った。 富士山は今日も見えない。●8032歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.22
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■11月3日(水)ー後半熱海を後に、伊東に向かう。合併で、伊豆の東にあるから市の名前を「伊東」と付けたのかなと思っていたら、「伊東何某」という人物が古くから治めていたかららしい。■湯の町エレジー■♪音が出ます!伊豆の山々 月あわく灯りにむせぶ 湯のけむりああ 初恋の君を尋ねて 今宵またギター妻弾く 旅の鳥「湯の町エレジー」の舞台は、伊東だとどこかで読んだ。ガイドさんと伊東観光番であって、市内を案内してもらった。■伊東観光番■昭和33年(1958)に建てられた静岡県内で最古の交番「旧伊東警察署松原交番」をそのまま利用した観光案内所で、静岡県伊東市渚町にある。施設内には配布用の観光パンフレットが置かれ、ボランティアスタッフが常駐。近隣の観光案内や散策のアドバイスが受けられるほか、予約制で有料の観光ガイドツアーも実施している。▲観光案内書のすぐそばにあった、昭和の流し!!伊東を流れる松川沿いに約1km続く遊歩道。しだれ柳や瀟洒な街灯が続き、「東海館」や「いな葉」といった木造の老舗旅館が建ち並ぶ様子は、まさに温泉情緒たっぷり。春は桜並木も美しくで、四季折々の風情を感じながら散策できる。この松川でタライ競争があるそうだ。■東海館■昭和3年(1928)に創業した、昭和初期の建築様式の面影を色濃く残す木造3階建ての温泉旅館。平成9年(1997)の廃館後は伊東市に寄贈され、その貴重な木造建築を後世に伝えるため、平成13年(2001)、観光・文化施設として新しく生まれ変わった。廊下や階段、客間の入り口、飾り窓などは、随所に職人達の技巧が凝らされており必見。入浴可能日は、 毎週土曜、日曜日と祝祭日である。障子の桟▲マツバ▼帆掛け船▲波に千鳥▲格天井(ごうてんじょう)の大広間▼玄関。松川沿いに下って海岸で出るところ、なぎさ橋際に日本初洋式帆船を建造した三浦按針(英国名ウィリアム・アダムス)の事績を記念した小さな公園「按針メモリアルパーク」があります。公園の中には昭和24年〈1949年〉7月15日に建立除幕されたE・ブランデン碑と按針の胸像(昭和62年〈1987年〉8月10日除幕)と帆船建造400周年に建てられた標柱(平成16年〈2004年〉12月23日除幕)があります。■家康江戸を建てる■を読んで、江戸城の石垣は伊豆の石が使われていると知った。この石も切り出された石で、マークがある。 この日も富士山は見えなかった。●12308歩■熱海■2021.11.3(午前中)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.20
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■11月3日(水)10時にガイドさんと駅前の足湯で待ち合わせ。熱海の名所を案内してもらった。JR熱海駅から徒歩で7分ほどの温泉宿泊施設の「大江戸温泉物語あたみ」の入口付近にトロッコを押す人のレリーフがあった。■人車鉄道■かつての日本には人が自ら車両を押す「人車鉄道」というものもありました。人車はトロッコに2〜4人用の椅子を取り付けた簡易なつくりになっており、これを押し屋が動かしてレールの上を走らせます。人車鉄道は、その多くの路線が静岡県以東の地域に見られました。「豆相人車(ずそうじんしゃ)鉄道」は明治29年、小田原から熱海に敷かれました。その後は人力ではない軽便鉄道になりましたが、大正12年の関東大震災まで温泉地への交通手段として多くの人に利用されたそうです。熱海の街の中には、温泉があちこちにわいている。伊豆に流された源頼朝も熱海に来たのか歌があった。都より巽にあたり出湯あり 名をあづま路の熱海といふ 源頼朝こんなところにも、温泉が・・・。温泉、イチオシの熱海である。熱海に来たら絶対に行くだろう観光名所、熱海の海岸は「金色夜叉」の舞台。■『金色夜叉』(こんじきやしゃ)は、■尾崎紅葉が書いた明治時代の代表的な小説。読売新聞に1897年(明治30年)1月1日 - 1902年(明治35年)5月11日まで連載された。前編、中編、後編、続金色夜叉、続続金色夜叉、新続金色夜叉の6編からなっている。執筆中に作者が死亡したため未完成である。紅葉門下の小栗風葉が1909年(明治42年)に「終編金色夜叉」を書き継いだ。昭和に入って、映画、ドラマ化されるようになった。●ガイドさんの話。●お宮の結婚相手となった金持ちの富山唯継(とみやま ただつぐ)という名前。富の山をただ継ぐ→富山ただ継ぐ→富山唯継・・・バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!!!明治時代から多くの文豪たちが居を構え、名作を執筆した熱海。 その中でもひときわ有名なのが、 明治30年より6年間「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載された 尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(こんじきやしゃ)です。この小説にちなむ「お宮の松」と、「熱海の海岸散歩する・・・」で始まる歌謡が一体となり、爆発的に流布し、主人公「貫一・お宮」はあたかも実在の人物のように 国民の心をとらえて離さない存在となりました。■「金色夜叉」映画とカラオケ■熱海の海岸散歩する寛一お宮の二人連れ共に歩むも今日限り共に語るも今日限り僕が学校終わるまで何故に宮さん待たなんだ夫に不足が出来たのかさもなきゃお金が欲しいのか夫に不足はないけれどあなたを洋行さすが為父母の教えに従って富山一家に嫁(か)しづかん(以下、略)宮さんは、寛一の洋行のために富山と結婚するのか・・・。▲熱海市内に残る和菓子屋。▼ 11月3日(水)は、熱海の後、伊東へと移動した。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.19
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■11月2日(火)富士山が見たい!しかし、関西からは、富士山は見えない。なんせ、富士山の本場、静岡県の西部は、遠江(とおとうみ)の国とよばれる。■「遠淡海」とは■都(当時の奈良)から見て遠くにある淡水湖という意味。静岡県東部は、伊豆の国とよばれ、流刑地となっていたくらい遠いのだ。なら見に行こうというわけで11月2日(火)から11月16日の15日間富士山のまわりを廻ってきた。11月2日(火)新幹線で熱海に。新幹線の途中で富士が見えるのではと思い、進行方向左に座るも富士は見えず。熱海に着いた。レンタカーを借りて、さっそく廻る。■起雲閣■1919年(大正8年)に別荘として築かれ「熱海の三大別荘」と賞賛された名邸が基となる起雲閣。 1947年(昭和22年)に旅館として生まれ変わり、熱海を代表する宿として数多くの宿泊客を迎え、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、舟橋聖一、武田泰淳など、日本を代表する文豪たちにも愛されてきました。今は熱海市の文化財として一般公開されています。市街地とは思えない緑豊かな庭園。 日本家屋の美しさをとどめる本館(和館)と離れ。日本、中国、欧州などの装飾や様式を融合させた独特の雰囲気を持つ洋館。優美な気品を醸し出すこれらの施設は、歴史的・文化的遺産として未来に継承されます。▲ローマ風呂▲天井のガラスや▼床のタイルも美しい。▲小さな細工も丁寧な仕事。▲手斧(ちょうな)とよばれるもので削っているので荒々しさの残る作りだ。商店街は、少し淋しかった。■熱海で逢ってね■♪熱海で会ってね、それまで待ってねこの町の中に五月みどりの店があった。この歌が流行って頃が熱海が最も栄えていた時期で五月みどりの黄金時代がピッタリ合わさっているのだろう。 この日は、これだけで宿に行った。宿は、斜面に建っていた。熱海で斜面といえば、7月に起きた土砂災害。宿から数百メートルの所だったようだ。そのせいで、風呂の湯など違うところから取っていた。明日は富士が見えるかな・・・。●4465歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.18
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■小説日本芸譚:松本清張■【内容情報】(「BOOK」データベースより)日本美術史に燦然と輝く芸術家十人が、血の通った人間として甦るー。新進気鋭の快慶の評判に心乱される運慶。命を懸けて、秀吉と対峙する千利休。将軍義教に憎まれ、虐げられる世阿弥。将軍家、公卿、富商の間を巧みに渡り歩く光悦。栄華を極めながらも、滲み出る不安、嫉妬、苛立ち、そして虚しさー美を追い求める者たちが煩悩に囚われる禍々しい姿を描く、異色の歴史短編小説十編。【目次】(「BOOK」データベースより)運慶/世阿弥/■千利休■/雪舟/古田織部/岩佐又兵衛/小堀遠州/光悦/写楽/止利仏師【著者情報】(「BOOK」データベースより)松本清張(マツモトセイチョウ)1909-1992。小倉市(現・北九州市小倉北区)生れ。給仕、印刷工など種々の職を経て朝日新聞西部本社に入社。41歳で懸賞小説に応募、入選した■『西郷札』■が直木賞候補となり、1953(昭和28)年、『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞。’58年の『点と線』は推理小説界に“社会派”の新風を生む。生涯を通じて旺盛な創作活動を展開し、その守備範囲は古代から現代まで多岐に亘った(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)●読書メモ● ◎は私の感想など。★運慶●運慶の父康慶までは、いや、彼自身が中年過ぎまでは、彼らは奈良仏師という名で京都三条仏所派からは地方作家として一段低く見られていた。それが鎌倉幕府の援助の下に運慶が一門を率いて活動し、遂には主流となって三条派を衰微させ、この京の七条に仏所を構えてからは、完全に相手を蹴落としたのであった。★世阿弥●別に申楽(さるがく)に似たものに田楽(でんがく)があった。田楽は、猿楽が中央の神社や寺院で興行されるのを真似て、田舎の神社の祭に催された。田舎猿楽であるから、略して田楽といった。◎■佐渡島に島流しになった。■1434年、世阿弥もまた、佐渡へ島流しになっていた。世阿弥って誰?という人も、結婚式でうたわれる「♪高砂や~~この浦舟に帆を上げて・・・」と言えば、ぴんと来るはず。そんな人がなぜ島流しの刑に?と思うけれど、昔は、上に気に入られなければ、島流しはいい方で、千利休などは、切腹させられた。足利義教に嫌われたというのが島流しの原因。ああ、今に生まれてよかった・・・。★雪舟●雪舟が周防の大内教弘(のりひろ)に寄ったのは、京を去れば次に繁盛の地は西方の山口しかなかった理由による。幸い此処は生まれ在社の備中の近くでもある。大内氏は勘合の印を得て対明貿易を壟断(ろうだん)していた。山口の殷賑(いんしん)は京に勝るものがある。京都は折から応仁の乱が起り、物情騒然たるものがあった。◎■大内氏の繁栄■★古田織部●織部は利休の茶道に挑んだ。茶室では、貴人口を復活した。利休の創意した庶民風の躙り口だけのものをまともにかえした。彼はこれを武家風と考えた。その躙り口も利休のときまでは茶席の隅にあったものを、彼は中央に移した。そのことによって、秀吉のいう、利休の「陰気さ」を明るくした。◎この人も切腹した。★小堀遠州慶長十二年十二月、家康は風邪気味で駿府城に引き籠っていたが、夜中に出火して城が焼けた。その再建に諸大名が務めたが、政一も作事奉行をうけもった。その巧で従五位下遠江守(とおとうみのかみ)となった。彼が世間から「遠州」と呼ばれた所以である。●利休や織部も多才だったが、政一はもっと多芸であった。建築、造庭、書、生花、和歌といった風である。★本阿弥光悦(光悦の父)光二が東海道を下って今川家に参ったとき、権現様はまだ幼く、竹千代さまといって人質でありました。光二は竹千代さまのために小刀をといでさし上げたり、御膳のお相伴さえ仰せ付けられたり、脇差の仕立拵(こしらえ)も仕(つかまつり)ました。そんな訳で、光二の子の光悦のことをお忘れなかったのでございましょう。★止利仏師●馬子(うまこ)は物部氏を滅亡させると、その支配下にあった帰化人を己のものにした。これらは河内平野に多くいた。いわゆる西史(かわちのふひと)と呼ばれるもので、無論、史ばかりではない。大和の方は東史(やまとのふひと)と呼んだ。生駒山脈によって東西に岐れていても同じ帰化人であることに変わりはない同族である。この同族間に婚姻さえあった。◎■史(ふひと)とは「小説日本芸譚」は、昭和32年新年号から12月号まで「芸術新潮」誌に載った。昭和32年といえば、「点と線」「目の壁」が連載された年。まさにベストセラー作家に駆け上がろうとする清張の筆力と幅の広さを物語る作品だ。(解説より)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.17
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■八十島祭(やそしまさい)とは■新しい天皇の即位の際、大嘗祭を行なった翌年に難波津にて斎行された、かつての即位儀礼の1つである。今は行われていない。 新天皇の乳母の内侍司典侍が必ず祭使に任命され、それに神祇官官人・御巫・生島巫らが従い、一行は難波津に赴く。そして祭使は祭場の祭壇で天皇の衣の入った箱を開き、 これを琴の音に合わせて揺り動かしたのち、最後には祭物を海に投じる次第であった。祭の目的は諸説あるが、生島巫が参加することから生島神・足島神(宮中で生島巫が常時奉斎した神々が主神であったとする説が有力視される。その説の中では、国土の神格化である生島神・足島神の2神を祀ることにより、国土の神霊を天皇の衣に付着(招魂)させて天皇の身体に取り入れ、天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀であったとされる。その後時が下るにつれて祭りの性格は次第に変化し、中宮使・東宮使も参加するようになったほか、女性らによる華美な行列で下向するようになり、二条天皇の祭の時(永暦元年・1160年)には平清盛の娘が祭使となって豪華な行列が形成されたという。■八十島役(やそしまやく)■八十島祭の費用にあてるため賦課された租税。八十島祭は熊川尻すなわち淀川の河口で、即位儀礼の一環として行なわれたみそぎの祭儀で、文献にあらわれるのは「文徳実録」の嘉祥3年(850)9月条が最初であるが、古くから行なわれていたと推測されている。 その費用は国庫から支出されていたと思われるが、平安時代に入って国家財政が困難になってくると、その費用を捻出するため荘園・公領一律に、臨時の租税を八十島役として賦課するようになる。1191年(建久2)11月に行なわれた後鳥羽天皇のための八十島祭にさいして、摂津の国司が、国内の荘園の八十島役徴収には官使を派遣して厳しく督促して欲しいと要求したことが「玉葉」にみえている。このとき尼崎市域にあった東大寺領猪名荘も同役を負担したらしいが、のち1198年(建久9)10月にいたって免除の権利を獲得したことが、「東大寺文書」の断片から推測される。 ■八十島祭は、ここに詳しい。■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.15
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■私の生い立ち■【内容情報】(「BOOK」データベースより)「私の生い立ち」は、与謝野晶子が少女時代を思い出して書いた知られざる自伝。生家、家族、遊び友だち、あるいは学校のことなど、堺ですごした幼少期の生活とその心情が、素直に、細やかに綴られている。晶子が身近に接して記憶に鮮やかだった少女の姿を描いた「私の見た少女」を併収。大歌人を育んだ時代の風景を、竹久夢二による挿画とともに深く味わう。【目次】(「BOOK」データベースより)私の生い立ち(狸の安兵衛/お歌ちゃん/お師匠さん/屏風と障子/西瓜燈籠/夏祭/嘘/火事 ほか)/私の見た少女(南さん/おとくの奉公ぶり/商家に生れたあや子さん/巴里のエレンヌさん/楠さん ほか)●読書メモ● ◎は私のコメント。●水谷(男の子)は子供のくせに千筋縞の双子織の着物を着ていました。帯は黒い毛繻子(けじゅす)のくけ帯を貝の口に結んでいました。紺木綿の前掛けをしていました。◎晶子は明治11年(1878)生まれで小学校に行きだしたのは、明治17年くらいだろうか。当時の小学生の男の子の様子。まったく想像がつかない。●私は毎朝お歌ちゃんを誘いに寄りました。「お歌ちゃん おていらへ。」こう呼ぶのです。寺子屋へ行く子供の習慣が、まだ私の小さいころまで残っていたのです。●南さんは、(学校に行くとき)いつも一人の女中がついていました。茶番さんと云った小使の部屋で女中はお嬢さんの人形を造ったりしていつも待っていました。●ある時に先生は、「あなた方 室暖(まぬく)めというものを知っていますか。」と云うことから暖炉(ストーブ)の話をして下さいましたが(略)◎ストーブを「室暖(まぬく)め」って、「すゑひろがりず」か!!海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家 晶子●与謝野晶子は、明治11年(1878)12月7日、堺県堺区(現大阪府堺市堺区)に生まれた。戸籍名は「しょう」志ようで届けられ、その時代、女の子は仮名で届けられ、日常においては、「子」をつけて呼ぶことが多かった。われの名に太陽を三つ重ねたる親ありしかど淋し末の日 晶子◎私の祖母は、明治21年生まれだが、「りやう」と書いて「りょう」と読んだ。森鴎外は、短歌を生涯はなさなかった。「みだれ髪」が刊行され評判が定着すると、戦地に本を取り寄せて読みふけった。そのうち、晶子の作品に焦点をしぼりしきりに探り始める。 (晶子の歌をこきおろし)なぜこうも着物のあれこればかりが多いのかといぶかるのだ。 浅黄地、扇ながし、都染、九尺のしごき、など出てきても男の自分に理解できないことがシャクでたまらない、というかのように。しかし、そのうち鴎外はそれこそが晶子の「絢爛」のゆえんなのだと結論づけるにいたる。そして、その「絢爛」を実践すべく、晶子の歌をなぞるように真似て、得意顔で妹に書き送るのであった。(略) 晶子を模倣した鴎外の歌には、緋綸子、函迫(はこせこ)、羽二重、錆茶金襴などが詠み入れられ・・・(略)鴎外も認めた与謝野晶子。■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.13
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■ルードウィッヒ・B(1巻)■天才的な音楽の才能を持つ少年・ルードウィヒは、あこがれのモーツァルトに会いにウィーンへ旅立った!! ルードウィヒを不倶戴天の敵とする貴族・フランツと、ルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの半生を描く第一弾。ルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、クラヴサンの名手・シュターケル僧院長の前で演奏する機会に恵まれた。だが、尊敬するモーツァルトが死亡したことを知ったベートーヴェンは、悲しみのあまりに放心状態に陥る!!■ルードウィッヒ・B(2巻)■ルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、クラヴサンの名手・シュターケル僧院長の前で演奏する機会に恵まれた。だが、尊敬するモーツァルトが死亡したことを知ったベートーヴェンは、悲しみのあまりに放心状態に陥る!!●ベートーヴェンは鼻歌を歌っているが♪そぉらぁを越えて星のかぁなた・・・って「鉄腕アトム」だ!!●ベートーヴェンが散歩に田園を歩くことが好きだったというのは世間でよくいわれているように耳の患いのため人目をきらって孤独に親しんだからではない。ベートーヴェンはなにか曲想を思い浮かべる時に自然界のたたずまい・・・小川や小鳥や花や木の間の日光や風などに強い触発を受けていたのである。*小学校の頃の音楽室に森の中を散歩する絵が描いてあった。●モーツァルトの死を聞いて驚き悲しむベートーヴェン。●ウイーンに住むハイドンがベートーヴェンに会いに、ドイツのボンにやってくる。●ベートーヴェンは、ハイドンの元で音楽の勉強をすべく、馬車でウイーンに向かう。●ボンからウイーンの間は、馬車で八日間。●ベートーヴェンの記録としてビデオテープがあった。として17ページにわたって、簡単なコマワリにしている。これは手塚治虫が病気でこういう対処をしなければ描けなかったのではないだろうか。と思っていたが、(1)の解説に下記のように書かれていた。(略)おそらく手塚氏は病室のベッドの上で点滴の管や心電図のコードでがんじがらめにされていたのではなかったか。したがって、絵を描きたくても、ビデオのファインダーから覗いたような地さな画しか描くことができなかったのであろう。「コミックトム」に、1987年6月号より、1989年2月号まで連載されました。手塚治虫氏が1989年2月9日に逝去され、「ルードウィヒ・B」未完の絶筆になりました。■あらすじ■ ウィーンに生まれた貴族のフランツは父親に「ルードウィヒという名前の奴を許すな。お前の母親の仇だから」と教え込まれる。その8年後の1770年、ドイツの小さな町ボンにルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは生まれる。数年後、2人は出会い、事あるごとに因縁を重ねていく。■概要■ドイツ古典派の音楽家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを主人公に、その生涯を作者の観点を加えた人物史的に著した音楽漫画である。★ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン主人公。音楽史に名を残す天才音楽家。幼少より父親にピアノの教育を受けるが、ある日フランツに耳を殴られたことで耳が聞こえなくなる。非常に気難しい性格で、町の人からは変わり者といわれている。モーツァルトやハイドンら音楽家との交流や、ワルトシュタイン、エレオノーレらボン時代の仲間との交流を経て、次第に音楽家として頭角を現していくこととなる。親しい家族や友人からはルイという愛称で呼ばれている。★フランツ・フォン・クロイツシュタインオーストリアの貴族。出生時、母がペットの孔雀のルードウィヒが出した大声と、父が放った猟銃の銃声のショックで亡くなってしまい、それ以降、父にルードウィヒという名前の人間・動物を憎むように教え込まれた。数年後、ある事件で人を刺してしまい、父に勘当されてボンに行くことになる。そこでベートーヴェンと出会うことになり、以降彼を生涯の仇として因縁を重ねていく。手塚の音楽好きは有名であり、自身でもピアノが弾けてプロ並みの腕を持っていた。仕事部屋にはピアノを置き、時々仕事の気分転換に弾いていたといわれる。■陽だまりの樹■■バンビ:復刻版■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.11
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秋の収穫が終わった後に、田の神を送る祭である。東日本では冬が早いので10月にするところが多いが、西日本では大抵11月にその祭を行っている。山の神は、春2月、または3月に山から里に下りて田の神となり、秋の取入れが終わると、また山へ帰るという信仰が全国的に見られる。 その日取りは、月の7日、9日、12日、16日など、土地によって違っているが、春と秋とは同じ日に決まっている。霜月祭は、部落の山の中で行われることが珍しくない。家々でまつる例もあるが、部落共同でまつる例が多い。木立をそのまま神木として祀っているところもあり、また、小さな石祠を設けているところもある。(▲プリントに描いてあるイラストは、上の写真のようなものだった。■阿蘇山の草千里■)しかし多くは藁や木や竹で簡単な祠をつくり、御幣を立て、神酒を供えてまつる。神酒は、折掛樽といって、竹を二つに折って木に掛けるようにした筒の中に入れて供えることが多い。山の神は、女で嫉妬深いことからとて、男子だけでまつる。北九州では、一般に、霜月の初丑の日をこの祭日にしている。 これをお丑様とも丑様ともいって、田の神を田から餅を搗き、臼の上に蓑を乗せ、その上でまつりをするのが多い。 霜月丑の日の祭には、大黒様に二股大根をあげるところがある。東北地方の大黒まつりは12月9日であるが、九州や四国では田の神としての大黒様を丑の日にまつっている。 「北海道開拓の村」より■12月9日大黒様のお歳夜■「霜月祭」って、関西では、亥の子だ!!■亥の子■■北海道歳時記:秋の彼岸■■北海道歳時記:秋じまい・庭じまい■■北海道歳時記:餅つき■■北海道歳時記:節分、豆占い■■北海道歳時記:ひなまつり■■北海道歳時記:半夏生(はんげしょう)■■北海道歳時記:北海道の七夕■■北海道歳時記:竹細工■■北海道歳時記:盆踊り■ コロナ禍にあかべこってピッタリのグッズだ!!■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■■仔牛の俳句■■牛草(ぎしぎし)■■「商いは牛の涎とブログ■■こって牛■■藤原定家の牛の歌■■赤べこ■■生薬「牛黄(ごおう)」■■牛耳る■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.09
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11月8日の行事である。鍛冶屋たちが、この日を祝う慣例が各地にある。 町方では鍛冶屋は業を休み、子どもに蜜柑などをまいてやる風が多かった。石川県や広島県では、昔、この日の卯の刻に天からたたらが降ってきたので、その記念に祭りをするのだといっている。茨城県の山村では、この日鍛冶屋はふいごのおもしを取り去り、仕事場を清め、しめ縄を張り、近隣の者を招いて宴をはる。 この祭には蜜柑がつきもので、これは、ふいごが天から降ってきたとき蜜柑の木にひっかかた記念だという。丹後の中郡では、この日をミヨウタンといい、鍛冶屋のみでなく、紺屋も蕎麦屋も祭日としていた。ふいご祭を、金山講の名で行っているところが多い。鍛冶職では金山金毘羅神・金山比売神を主神としてまつり、別に稲荷神をも鍛冶の神として、この日にまつっているのがある。長野県では11月7日または8日を金山講といって、鍛冶屋、石屋、屋根屋、理髪店の祝日としているところがある。 この日は、赤飯をふかしたり、餅をついたりして金山様にあげる。鍛冶屋では小剣をつくり、戸口または金山様をまつってある前へ打ちつけて火災除けにする。 普通の家では戸口に、粉糠、胡椒、蒜をつるす。喜界島では、昔、鍛冶屋を商売にしていた家では金山様をまつっている家が多かった。金山様の祠は、自然石を建ててまつる。 祭日は11月8日であるが、毎月の1日、15日及び折り目の日には焼酎や線香を上げ、花立の花を変えている。金山様はアラガミで、まつりを怠ると家のたたりがあるとされている。金山様の脇に植えてある蜜柑も、熟して落ちることがあってもまつりが済むまで、とって食べてはいけない。もし食べると家の子どもにできものができるという。■「北海道開拓の村」より■■18日間北海道ドライブ旅行■■北海道歳時記:秋の彼岸■■北海道歳時記:秋じまい・庭じまい■■北海道歳時記:餅つき■■北海道歳時記:節分、豆占い■■北海道歳時記:ひなまつり■■北海道歳時記:半夏生(はんげしょう)■■北海道歳時記:北海道の七夕■■北海道歳時記:竹細工■■北海道歳時記:盆踊り■■北海道歳時記:節分ヤイカガシ■■北海道歳時記:雛祭■■北海道歳時記:雛おくり■■北海道歳時記:八十八夜■■北海道歳時記:ローソクもらい■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.08
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石ノ森章太郎先生に憧れた郷里・徳島での少女時代。高校時代にマンガ家デビューし、上京した時に待っていた、出版社からの「缶詰」という極限状況。のちに「大泉サロン」と呼ばれる東京都練馬区大泉のアパートで「少女マンガで革命を起こす!」と仲間と語り合った日々。当時、まだタブー視されていた少年同士の恋愛を見事に描ききり、現在のBL(ボーイズ・ラブ)の礎を築く大ヒット作品『風と木の詩』執筆秘話。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆●読書メモ● ◎私のメモ◆缶詰旅館◆一人暮らし◆少年愛の美学●とある夜。10時頃だったことは、よく覚えている。私の部屋に飾られた「ダフニスとクロエ」のポスターを眺めながら、頭のなかに現れる妄想をなんとか絵にしようと必死になった。「これ・・・これは何なのかな。・・・すごく自分にぴったりくる!」「このキャラクター、今まで描いたこともない顔なのに、自分のキャラって気がする」「少年の名はジルベール。絶対に、それ以外じゃない」◎本のタイトルになっている「少年の名はジルベール」、そしてその元は「風と木の詩」でその主人公の名前が決まった瞬間だ。竹宮恵子は、この時の興奮を友人の増山に8時間電話したという。しかし、これが発表されるまでに数年かかる。◆大泉サロン◆少女たちの革命●私や萩尾さんは1回観ただけで、映像をそのまま丸ごと、視覚的に記憶できたので、互いに興味を持った画面構成の面白さを確認し合うことができる。◎すごい!!音楽の才能がある人が、一回聞いたら音符を覚える、ダンスの才能がある人は、短時間で振り付けを覚えるっていうのは知っていたけど、漫画家にはそんな才能があったのか!!●まずはマンガ雑誌の原稿料の問題。男性作家より、1枚の原稿料単価が安い!次いで単行本の印税の問題。これも男性作家よりも、なぜか低いことがあった。(略)編集現場の女性社員の少なさ、労働条件の悪さも目についた。(略)1970年代の初頭には、こんな理不尽なことがまだひどい形で存在していた。◆不満と焦り◆男の子、女の子●特にYさんが直接仕切る「別冊少女コミック」では、「何ページであろうと、萩尾には自由に描かせる。ページ数が少なかろうが、多かろうが、とにかく毎月、萩尾だけは載せる」という方針を立てていた。(略)これは「萩尾のためにうちの雑誌はある」と言っているのと同じだ。●「前にも言ったかもしれないけどな、萩尾は売りやすいんだよ。彼女はいつも安定した個性を持っている。毎月その色があるんだってわかっていると、読者に毎月読んでもらうにしても、単行本を作るにしてもやりやすいの」◎竹宮恵子は、ショックだっただろう。いくら頑張っても才能の差は頑張りではなくならないから・・・。◆ライフワーク●「(男の子は)半ズボン派?長ズボン派?」「ああ、それなら短いほう。私、金田正太郎が大好きだったんだけど、あれは半ズボンが原因だったのかな」とささやさん。◎半ズボンと白い靴下を履いた童顔の少年の代表として 『鉄人28号』の主人公・金田正太郎が挙げられ、 その名を取って“ショウタロウ・コンプレックス(ショタコン)”とされたのが語源とされる。やがて、ショタコンからショタのみが抜き出され、ショタコンの対象となる少年という意味で用いられるようになった。元々、ショタコンは ロリータ・コンプレックスの反対語として発案されたもの。◆悲観◆ヨーロッパ旅行●行程は、ソ連船ナホトカ号で横浜港から出港、2泊3日で津軽海峡を抜け、シベリア鉄道の起点・ナホトカ着。ハバロフスクまでちょっと(1泊2日)だけシベリア鉄道を経験し、ハバロフスクからモスクワまでソ連機で飛ぶ。モスクワ1泊・観光込みで、翌日ようやくヨーロッパへの空路に就く。当時はソ連の空港や港でカメラを出すと官憲にフィルムを抜かれるという噂さえあってドキドキした。◎私も同じ年の春に同じナホトカ経由でヨーロッパまで行ったので懐かしくよんだ。まったく同じ、と言いたいところだが、モスクワから空路ヨーロッパに向かった竹宮組と違って、列車でフランスに向かい、そこから船でドーバーを渡り、ドーバーで一泊。次の日にロンドンに着いた。当時、ヨーロッパは、本当に遠かったのだ。竹宮は、70万円を旅行費用に当てた。給料が3~4万の当時、70万円は、5倍の価値があったのではないかと思う。それを最後の一円まで使おうと決めていたという。私は、50万円ほどためて10万円を家に置いて行った。送って欲しいものがある時は、そこから使ってもらうためだった。●成田に着いて、タクシーのドアが自動的に開くことに、まるで自分が外国人のようにびっくりしたとき、ああヨーロッパに慣れてしまうほど長くいたんだと、満足感が広がった。◎私は実家に帰った時、鼻に飛び込んだのは、醤油のにおいだった。海外に行くまでは感じなかった醤油のにおいが、数か月のうちに忘れてしまっていたのだった。◆契約更新◆プロデューサーの仕事◆新担当編集者◆読者アンケート◆大学でマンガを教えるということ◎ヨーロッパ旅行を竹宮恵子は、45日間といい■萩尾望都は44日間という。■どうでもいいことだけれど、小さな違いが友情の亀裂になったことがあるのではないだろうか。もちろん、竹宮の嫉妬が一番の原因なのだけれど、萩尾望都のように才能がある人は、それだけで凡人を悲しくさせることがおおいのだ。■萩尾望都の「一度きりの大泉の話」■と合わせて読むと余計に面白い。★竹宮/惠子★1950年徳島市生まれ。マンガ家。1968年マンガ家デビュー。1970年上京し、後に「大泉サロン」と呼ばれる東京都練馬区大泉にあるアパートに住み始める。1980年小学館漫画賞受賞。2000年より京都精華大学教授、2014年学長に就任。同2014年紫綬褒章を受章。2018年任期満了により学長を退任。同年、日本マンガ学会会長、国際マンガ研究センター長に就任。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.06
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■僕の人生には事件が起きない■日常に潜む違和感に芸人が狂気の牙をむく、ハライチ岩井の初エッセイ集! 段ボール箱をカッターで一心不乱に切り刻んだかと思えば、組み立て式の棚は完成できぬまま放置。「食べログ」低評価店の惨状に驚愕しつつ、歯医者の予約はことごとく忘れ、野球場で予想外のアクシデントに遭遇する……事件が起きないはずの「ありふれた人生」に何かが起こる、人気エッセイがついに単行本化! 自筆イラストも満載。 朝日新聞に書評が載っていて読んでみたいと思っていたら偶然図書館で発見!早速読んでみたが、面白かった。「僕の人生には事件が起きない」は、10万部を超えるヒットで、2冊目の「どうやら僕の日常生活はまちがっている」が発売された。ピース・又吉、 オードリー・若林そして、ハライチ・岩井・・・。お笑い芸人は、文章が上手い!◆がタイトル●が文章◎が私の感想。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆目次(「BOOK」データベースより)◆コーヒーマシーンに振り回される●(略)コーヒーマシーンの抽出ボタンを押すと、聞いたこともない異音を立て出した。マシーンは震え、狂ったような大きな奇声をあげた後、血反吐を吐くようにどす黒い少量のコーヒーを出して動かなくなった。マグカップに抽出されたそのコーヒーからは、ものすごく芳醇な香りがした。(略)このコーヒーマシーンは、死に際に最高傑作を生み出し、今、まさに事切れたのだと確信した。●(略)待っている最中、足もとを何かが通るのが視界にちらついたので下を見ると、どこからともなくルンバが来て足もとを掃除していた。掃除機のコーナーから解き放たれたのか、野良ルンバが彷徨っていたので「危ないから元いた場所へお帰り」と手で掃除機のコーナーの方向へ導いてやると、ルンバは素直に帰って行った。◆おわりに●(略)母親が「見て。あの店ね、明石焼きを卵たこ焼きとかいって売っているのよ(略)」と僕に言った。◎惜しい!!少し違う。明石焼きは、明石の名物だけれど、明石では「たまご焼き」という。●芸能の世界で仕事をするようになってからずっと思っていた。僕の人生には事件が起きない。が、それと同じように皆さんの人生にもそんなに事件など起きていない。そして、テレビで見る芸能人の人生にもどうせ本当は事件など起きていないだろうと。それを皆、化学調味料で元の味などわからなくなるくらいの嘘のような濃い味付けにして提供してくるのだ。(略)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆目次(「BOOK」データベースより)メゾネットタイプの一人暮らしでの出来事/家の庭を“死の庭”にしてしまうところだった/自分の生い立ちを話せない訳/ほとんど後輩と連まない僕と仲の良かった後輩/「ショッピングモール満喫ツアー」の暗闇に潜む化け物/マニュアル至上主義の店/忘れる、という能力者/コーヒーマシーンに振り回される/組み立て式の棚からの精神攻撃/あんかけラーメンの汁を持ち歩くと/珪藻土と自然薯にハマった/食べログ信者の僕が3・04の店に行ってみた/ルイ・ヴィトンの7階にいる白いペンギンを見張る人/『叫び』に魅了されて理解したアイドルファンの心理/リアル型脱出ゲームで出会ったオタク/麻雀の不吉な上がりのせいで死に怯える羽目になる/野球嫌いの僕が落合福嗣と神宮球場へ行った/通販の段ボールを切り刻んで感じた後味の悪さ/組み立て式の棚、ふたたび/仕方なく会った昔の同級生にイラつかされる/恐怖に怯えたタクシー運転手の怪談話/空虚な誕生日パーティ会場に“魚雷”を落とす/VIPも楽ではない/親戚の葬儀での面倒くささから救ってくれた父の一言/澤部と僕と■ハライチ・岩井のCM「キッチリ夫と、テキトウ妻」篇■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.04
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■地帝国の怪人■地上征服をたくらむ地底国人と少年科学者ジョンたちの戦いを描いたSFマンガです。少年科学者のジョンは、飛行機事故で死んだ父親の遺言を守って、安全で高速な「地底貫通列車」を発明しました。ある日ジョンは、人間なみの知能をもつウサギの耳男(みみお)と出会い、ふたりは完成したばかりのロケット列車で地底へと向かいました。しかし、彼らがたどりついた地球の中心には、地上征服をたくらむ女王の支配する、地底国があったのです。ジョンや、ジョンを救出に向かったビルおじさんたちは、なんとか地上へ逃げもどり、ロケット列車第2号を造って、再び地底国へと向かいました。 1948/02/20 単行本(不二書房)手塚治虫の描き下ろし長編単行本の第3作目です。 哲学的・文学的な要素を盛りこみ、主要人物が死ぬアンチ・ハッピーエンドにするなど、この当時の手塚治虫の、マンガの可能性に賭ける熱い意欲がうかがえる作品です。 その結果、現代のストーリマンガへと続く、本格的ストーリーマンガの第1号となりました。 手術によって人間並みの知能を持った兎・耳男(みみお)というのは、鉄腕アトムを思わせる。■ロストワールド■太古の地球からちぎれ、宇宙の彼方へと飛び去ったママンゴ星が、500万年ぶりに地球に大接近してきました。ある夜、私立探偵の伴俊作ことヒゲオヤジは殺人事件に出くわし、事件のカギをにぎる少年博士の敷島健一と出会います。敷島博士は、ママンゴ星から落ちてきた石が、大きなエネルギーを出すことを発見し、それをエネルギー石と名付けました。敷島博士は、エネルギー石を利用してロケットを作り、探検隊を組織してママンゴ星へと向かいました。やがてロケットはママンゴ星へと着陸。するとそこは、恐竜たちがのし歩き、羊歯(しだ)や蘇鉄(そてつ)が生いしげる太古の世界、すなわち前世紀(ロストワールド)だったのです。●手塚漫画に必ずといっていいほど出てくるヒゲオヤジは、この頃からすでに出ていた。本名が伴俊作って初めて知った。(^▽^)●手塚漫画によく出てくる、ギャグのようなキャラクターに、■ヒョウタンツギ■というのがある。マニアにとっては手塚漫画最大のスターでしょう。妹さんのイタズラ描きから誕生し、画面に常に突然現われる、わけのわからない一種のギャグ生物。赤塚不二夫氏のケムンパスや谷岡ヤスジ氏のムジドリなどに影響を与えたのかもしれません。そんな意味でも日本漫画史上に残る貴重なキャラクターだと言えるでしょう。 この「ロストワールド」は、手塚治虫が北野中学に書いたものだそうだ。その後、描き直し、子ども向けになるとまた部分的に描き直ししたという。 解説に「ポールとヴィルジニ」のたとえが出ていて、久しぶりに思い出した。内容は覚えていないけど、子どもの頃に読んだ。今度、読んでみよう。 漫画の最後にそれぞれ、1947年(昭和22年)、1948年(23年)というに描いたものがあるので作者の20代前半のもの。■手塚治虫年表■ 20代前半で、やはり絵が稚拙なのはいなめないが、ストーリーのアイデアなどは、流石だ!■陽だまりの樹■■バンビ:復刻版■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.03
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■牛耳る■団体や党派などの頭となる。仲間の上に立って思うままに指図する。昔、中国の諸侯が集まって同盟を結んだとき、 その同盟の中心となるものが、刀で牛の耳を切り、皆でその血をすすって誓った、という故事による。「牛耳る」て言葉には、なんか悪い感じを持っているのは私だけだろうか・・・。「専有する」「独占する」ということと同じ意味だからやはり感じ悪いわ・・・。■YouTube:ドーナッツを独り占めするという1歳児■「ドーナチュ ひとりじめしゅる」という1歳児がドーナツをじぃじにあげる事に決めた瞬間。■結局ひとりじめする1歳児■独占といっても、これは皆にっこりの動画。 コロナ禍にあかべこってピッタリのグッズだ!!■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■■仔牛の俳句■■牛草(ぎしぎし)■■「商いは牛の涎とブログ■■こって牛■■藤原定家の牛の歌■■赤べこ■■生薬「牛黄(ごおう)」■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.01
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