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春の訪れを告げる水都大阪の川開きに合わせ「大川さくらクルーズ」がスタート。天満橋から桜ノ宮まで川沿いに咲き誇る桜並木を気軽に船から楽しめる約25分のクルーズ。4月7日(日)、妹と船に乗ってお花見をしてきた。大阪市内を流れる大川の天満橋近くに八軒屋浜という場所がある。この地は、平安の昔から、京都の公家が熊野詣の際にここまで船で来て、ここから歩いたのだそうだ。八軒の宿があったのが、「八軒屋」の地名の由来になった。江戸時代は、京都と大坂を結ぶ水運がさかえ、ここを三十石船が行き来していたという。明治時代に淀川を往来した川蒸気船をモチーフにして造られたひときわ優雅なクルーズ船「ひまわり」。美しい外輪が特徴的な紺色をベースにしたシックな船体。八軒屋浜船着場からはこのひまわり以外に、『大川クルーズ』という予約不要1,200円のクルーズが出ていて、桜のピーク、春休み、日曜日という絶好のクルーズ日和なこの日は大混雑で、2時間以上待った。▲天満橋。天満重ね橋と呼ばれる二重構造の珍しいもの。渋滞緩和のため、2段に分かれて車が通れるようになっています。天満橋、天神橋、なにわ橋が大坂三橋といわれるが、この天満橋だけが、公儀橋(幕府の作った橋)で、天神橋、なにわ橋は、市民の力で造ったものだ。▲「桜宮橋」通称「銀橋」桜宮橋とは、大阪市の大川に架けられた国道1号(曽根崎通)の橋。大阪市北区天満橋1丁目と都島区中野町1丁目を結ぶ。銀色の橋であることから「銀橋」と呼ばれており、こちらの名称の方が有名となっている。設計は武田五一。今日あたりが満開の桜。強い風が吹くと花びらが散る。浪花には八百八橋 桜散る 真理子(俳句友)『 桜咲き らんまんとして さびしかる 』細見綾子桜が咲いて、爛漫としているのにどこか寂しいのだ。咲いた後は、散ると分かっているから、花見はいつも少しさびしい。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.04.09
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●安野光雅展●「ふしぎなえ」、「旅の絵本」、「繪本 三國志」など初期から晩年の作品まで。安野光雅展の決定版!1926年(大正15年)、安野光雅は島根県津和野町に生まれました。画家になるのが少年の頃からの夢だった安野は、23歳で上京し、美術教員のかたわら本の装幀などを手がけます。 42歳のときに出版した「ふしぎなえ」は絵本作家としてのデビュー作になりますが、現実にはありえない構造の図形を描いた、文章のない不思議な絵本は、世界の注目を集めました。以来、2020年(令和2年)12月に亡くなるまで半世紀以上にわたり画家、絵本作家、装幀家、エッセイストとして多彩な活躍を続け、国内外の数々の賞を受賞しました。 本展では、津和野町立安野光雅美術館のコレクションより、1960~70年代の「ふしぎなえ」「さかさま」「ふしぎな さーかす」や、2004年から4年の歳月をかけて中国をスケッチ旅行し完成した大作「繪本 三國志」など、初期から晩年までの代表的な作品を展示。 やさしく、美しく、ユーモアと不思議にあふれた安野ワールドをご覧いただきます。さらに、展覧会の最後の章では、安野が手がけた井上ひさしの本の表紙原画や、劇団「こまつ座」のポスター原画などにより、井上ひさしとコラボした仕事を紹介します。この展覧会は作家存命中の2020年春に新型コロナウイルスの感染拡大を受け中止した企画を改めて開催するものです。 画家・絵本作家にして名エッセイストの安野光雅。著者が30年以上書き継いできたユニークな見聞エッセイ。■絵のある自伝■は、筆者のことをよくあらわしている。その中で、心に残る文章が「子別れ」。●ちょうどその年頃(19歳)が生物としての子別れの時期だったのである。ここは大事なところで、「子別れ」は生物の宿命である。ひところ「親子の断絶ということが新聞でしきりにいわれ、なにか断絶が悪いことのように喧伝(けんでん)されたきらいがあるが、一面祝福すべき意味のある卒業と同じ意味の「子別れ」なのである。生物に「子別れ」のないものはない。そして出征はいみじくもこの「子別れ」の時代に重なるのである。 ♪トラジの歌♪ 韓国民謡 (安野光雅作詞)トラジ トラジ 白い桔梗森の小道 草葉(くさば)の匂いあなたの目をみているとむねは トラジでいっぱいになるトラジ トラジ 白い桔梗トラジの根っこの 薬草採りに二人は山へいっただけなのに見たか聞いたかと うるさいカケストラジ トラジ 白い桔梗トラジのそばの 茨(いばら)がさした傷んだ指を あなたが吸ったあのときカケスが飛んでいったのトラジ トラジ 白い桔梗岩場のかげに 人目をさけてせっかく咲いた トラジの花をカケスよ お願い 見逃して 画家の安野光雅さんの■「絵のある自伝」■で知った「トラジの歌」。若い頃、炭鉱で働いていた時知った韓国の人から習った朝鮮民謡で安野氏の作詞だそうだが、テレビドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』 主題歌「オナラ」 を思い出す。■ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』 主題歌「オナラ」 【フュージョン国楽】■絵の中に動物が何匹も隠されていて、皆夢中で探していた。こんな所もユーモアとサービス精神旺盛な人だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.10.06
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大阪中之島美術館で「民藝 美は暮らしのなかにある」を見てきた。■民藝■民藝運動とは手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動。「民藝」とは「民衆的工藝」の略語で、柳宗悦らによる造語。この運動の始まった1926年(大正15年)には、柳宗悦、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司などきら星のごとく現れた人々によって全国に広がった。展覧会で見て、帰ってから改めて調べると、柳宗悦の偉大さに改めて驚く。●戦前、日本よりも低く見られていた朝鮮の陶磁器を見て、陶磁器を見て宗悦は形の美の感覚が最も発達した民族は古朝鮮人であると認識するようになり、朝鮮の工芸品に注目するようになる。1916年(大正5年)以降、たびたび朝鮮半島を赴き、朝鮮の古仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された。1919年(大正8年)3月1日に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。1920年6月『改造』に「朝鮮の友に贈る書」を発表、総督政治の不正を詫びた。●本土よりも低く見られていた沖縄に行っても、その工芸品の見事さに驚き、自分たちが行くことによってその作風に影響を及ぼしてはいけないと配慮した。●─ 柳宗悦によるライフスタイル提案1941(昭和16)年、柳宗悦は自身が設立した日本民藝館(東京・目黒)で「生活展」を展開。民藝の品々で室内を装飾し、いまでいうテーブルコーディネートを展示しました。暮らしのなかで民藝を活かす手法を提示した、モデルルームのような展示は当時珍しく、画期的でした。今では、モデルルームは当たり前にあるが、当時は画期的なことだった。なにかの本で読んだが、実際の柳宗悦の家には、美しいものしか置いてなかったそうだ。●最初に民藝的ものに美を見つけたのは、茶人だったと柳はいう。大名の大名物といわれるものも、昔はただの器だったということだ。私は、ハタと気が付いた。千利休が水指に使ったのは、井戸の普通の釣瓶(木製)だったし、花入れは、漁師の魚籠だった。もっといえば、茶室なども、質素。どれもこれも柳のいう、「用の美」だ。●他にも、民芸館に集めたものについてのエピソードが楽しかった。●柳が亡くなった時、鈴木大拙がよんだ弔辞。「君は天才の人であった。独創の見に富んでいた。それはこの民藝館の形の上でのみ見るべきでない。日本は大なる東洋的「美の法門」の開拓者を失った。これは日本だけの損失でない、実に世界的なものがある。まだまだ生きていて、大成されることを期待したのであったが、世の中は、そう思うようには行かぬ。大きな思想家、大きな愛で包まれている人、このような人格は、普通に死んだといっても、実は死んでいないと、自分はいつも今日のような場合に感ずるのである。不生不死ということは、寞寞寂寂ということではない。無限の創造力がそこに潜在し、現成しつつあるとの義である。これを忘れてはならぬ。これは逝けるものを弔うの言葉でなくて、実は参会の方々と共に自分を励ます言葉である。」 鈴木大拙、「柳君を憶ふ」『民藝』2013年10月号(再掲)▲自在鉤、これ、会場にあった!!■柳宗悦■■バーナード・リーチ 日本絵日記■▲イギリス人のリーチが書いたもので柳は編集している。■リーチ先生■▲《SHIP’S CAT (船の猫)》「旅の守り神」「旅をして福を運ぶ猫」▼▲大阪出身の現代美術家・ヤノベケンジさんの作品《ジャイアント・トらやん》・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2023.08.28
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■アニー■舞台は1933年のニューヨーク。世界大恐慌直後の街は、仕事も住む家もない人であふれていました。誰もが希望を失っているなか、11歳の女の子アニーだけは元気いっぱい。11年前、孤児院の前に置き去りにされたというのに、いつか両親が迎えに来ると信じて、逆境にひるむことなく前向きに生きています。そんなある日、大富豪オリバー・ウォーバックスの秘書グレースに気に入られたアニーは、クリスマスの2週間をウォーバックスのもとで過ごすことに。ウォーバックスは、アニーを養女にしたいと思うようになります。しかしアニーは、本当の両親と暮らすという夢をあきらめきれません。その強い気持ちに打たれたウォーバックスは、懸賞金をかけて彼女の両親を捜すことにします。ところが、それを知った孤児院の院長ハニガンと弟ルースター、その恋人のリリーは、懸賞金目当てに悪だくみを始めて・・・・・。アニーの夢はかなうのでしょうか? 日本では1978年に初めて上演されました。1986年4月に日本テレビ主催による公演が青山劇場でスタート、総上演回数は1,945回。全国で186万人を超える。 一年に一回は、舞台が見たいと思っている。 昨年は、■オペラ座の怪人■■ジャージーボーイズ■を見た。 「アニー」は初めて見たが、子どもの演技が素晴らしすぎる!!歌って踊って芝居して・・・。彼女たちは将来、ミュージカル・スターになるんだろうなと思って見た。「すごいなぁ~」と一緒に行った娘たちにいうと、「すごいなぁ、あの犬!!」と二人は、舞台の犬を絶賛。((´∀`*))犬かぁ~い!!ほんと、犬の演技も凄かったけど・・・。 ミュージカルといえば、歌で、「サウンド・オブ・ミュージック」では「ドレミの歌」や「私のお気に入り」・・・。 「ウエストサイド物語」では「トーナイト」、「アメリカ」などなど歌と踊りのシーンが蘇る。しかし、「アニー」では、ヒット曲は「ツモロー」だけなのがちょっと残念。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.12
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'60年代のアメリカ音楽界を席巻した "ザ・フォー・シーズンズ"。"天使の歌声"と称えられたフランキー・ヴァリをはじめとするオリジナル・メンバーの4人が、それぞれの視点でグループの姿を語り、グループの大ヒット曲である、♪『Sherry(シェリー)』♪『Can't Take my eyes off of you(君の瞳に恋してる)♪『Oh、What a Night(1963年12月(あの素晴らしき夜)』♪『Big Girl Don't Cry(恋のヤセがまん)』■動画『Big Girl Don't Cry』■♪『Walk Like a Man(恋のハリキリ・ボーイ)』・・・ 数多の大ヒットナンバーで構成されたミュージカル『ジャージー・ボーイズ』は、2004年に世界初演、翌年2005年にブロードウェイに進出、瞬く間に人気を博し、同年トニー賞作品賞のほか3部門を受賞しました。2007年には音楽の最高峰 グラミー賞の最優秀ミュージカルアルバム賞も受賞。2008年にはイギリスの舞台の最高峰 ローレンス・オリヴィエ賞の最優秀ミュージカル作品賞を受賞しました。 2014年にはハリウッド映画の名匠クリント・イーストウッド監督による映画化が実現。映画も世界的大ヒットを博し、日本でも高い評価を得ました。成功から一番遠い場所で、伝説は生まれたー。彼らが生まれたのは、犯罪が日常茶飯事の、ニュージャージーで最も貧しい地区。そこから抜け出すには、軍に入るか、ギャングになるか、スターになるか、しか方法がなかった。金も、コネもない彼らにあったのは、神から与えられた歌声と、曲を作る才能、そして見事に息のあったハーモニー。それだけを武器に、4人の若者はスターダムにのし上がった。しかし強い光には濃い影が差す。待っていたのは、栄光の果ての挫折・・・。それでも彼らは歌い続けた。■『JERSEY BOYS』JAPAN 2022Trailer ■を大阪上本町の新歌舞伎座で妹を見てきた。★主役の4人のうちでも一番の主役は、フランキー・ヴァリで中川晃教は、歌いっぱなしだった。小柄だったフランキー・ヴァり、中川晃教は、体格的にも年齢的にも、フランキー・ヴァりに最適な役者だと思った。★ザ・フォーシーズンズのリーダーだったトミー・デヴィート役に、市川右近が!!■『JERSEY BOYS』2022 コメント映像/尾上右近■★■Jersey Boys perform a medley of songs - Let It Shine - BBC One■▲これは、ミュージカルの中のシーンではないけれど、このパフォーマンスが大好き♪見ていたら、観客が手首に光るものをしていて。今回の会場でも沢山の人が手に手に緑の光つものを付けていた。知っていれば私も絶対につけるのに・・・、残念。■映画『ジャージー・ボーイズ』メイキング映像■■映画『ジャージー・ボーイズ』特別映像「Oh! What a Night」2014年9月27日公開■■映画:ジャージーボーイズ★シェーリー■夢、栄光と挫折・・・。それでも僕らは歌い続ける。■映画:ジャージーボーイズ★■成功から一番遠い場所で、伝説は生まれた・・・。■映画:ジャージーボーイズ★■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.11.07
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友人の誘いで、大阪市平野区にある大念佛寺の「万部おねり」という大法会に行ってきた。大阪市平野区。天王寺からJR大和路線各駅で二駅目の平野は、今は大阪の街に飲み込まれてしまっているが、戦国時代に形成された摂津の自治都市、環濠集落平野郷であった。平野の町は、周囲を濠(ごう)と呼ばれる堀と、その内側を土塁(どるい)と呼ばれる土盛りで囲まれていて、碁盤目状の町割りになっていました。出入口には惣門(そうもん)が13カ所あって、そこには地蔵尊が祀られていました。このような環濠(かんごう)集落になったのは、16世紀末頃の戦国時代だと言われています。■大念佛寺と「万部おねり」■大念佛寺は、融通念佛宗の総本山。大治2年(1127)、良忍上人が四天王寺に立ち寄った際に、聖徳太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願によって根本道場として創建したのが始まりといいます。日本最初の念仏道場で、平安末期以降、我が国に広まった念仏信仰の先駆けとなりました。本堂は国指定重要文化財で、大阪府内最大の木造建築です。毎年5月1日~5日に行われる「万部おねり」(二十五菩薩聖聚来迎阿弥陀経万部法要)は、大阪市の無形民俗文化財に指定されていて、25人の菩薩が娑婆(外側)から極楽浄土(本堂)に練り歩き、豪華絢爛な来迎世界を体現するというものです。▲境内にあった一茶の句碑。春風や 順禮ともか ねり供養 一茶 一茶は信濃国:(現在の長野県)の生まれで、25歳のときに、俳諧を学び、寛政四年(1792)30歳の頃より、36歳まで、俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊。ここ大念佛寺に来たのは、寛政七年三月二十七日 一茶 三十三歳の時でした。二十七日天王寺を詣り吟行しながら平野を経て藤井寺(葛井寺:ふじいでら)・誉田八幡(誉田八幡宮:こんだはちまんぐう)へ向かった。 この時大念佛寺を詣でた際に詠んだ句である。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「万部おねり」の前後に平野の町をまわった。案内してくれた人は、18歳までこの町に住んでいたというので、ガイドしてくれた。全長260メートルのアーケードのある商店街を進むと、明治22年(1889)創業と大阪市内で最古の朝日新聞販売店である小林新聞舗があります。当建築は昭和4年(1929)の竣工で、商店街に面して鉄筋コンクリート2階の店舗と、その奥に木造平屋の住居が接続する。外観は柱形を造り出して4間に区切ってアーチ窓を並べる特徴的な意匠である。建物はモダンなアーチ型の窓がある大正風で、毎月第4日曜は「新聞屋さん博物館」として、明治からの新聞や号外等の資料を見ることができます。▲大阪市の旧平野寺内町にある小林新聞舗本店兼住宅(登録有形文化財)。小林新聞舗の斜め前にあった古い建物。調べてみたが、なんという商店だったか分からない。格子についた傷?も意味があってつけたのか?誰かのいたずらにしては手が込んでいる?謎だ・・・。ここは、平野郷の行政事を行い政所(まんどころ)と称された。牢屋敷や、郷の米蔵も立ち並び平野郷の年貢も、一旦ここに納められた。「綿安」という名のモータープール。江戸時代から木綿の産地だったこの地方の名残りがうかがえる名前だ。1915年に阪堺電気軌道(初代)は南海鉄道と合併し、南海平野線となり平野を走っていた。1980年11月27日に地下鉄谷町線の天王寺~八尾南が開業し、平野線は同日の営業を最後に翌28日に廃止。その空き地が小さな公園となっていた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.05.06
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4月2日(土)大阪・八尾市を流れる小さな川、玉串川には50年以上前に市民が植えた桜の並木がある。自転車で1時間ほどかかるが見に行ってきた。■玉串川の桜並木■八尾市東部の住宅地を南北に貫いて流れる玉串川。昭和40年ごろから周辺住民が協力して植えた桜の苗木が成長し、春には約1000本のソメイヨシノが5キロメートルにわたって桜のトンネルを演出します。桜並木は、近鉄河内山本駅から北側2キロメートルと南側3キロメートルの川沿いに続いています。この桜は、1960年代前半、工場排水などで汚染が進んでいた玉串川の再生を図り、当時の住民や自治会の寄付によって、1965年1月から徐々に植樹されていったものである。玉串川にかかる橋。☝昭和40年とあるから、この頃から、桜が植樹されたのだろう。◎玉串川◎玉串川は、大和川を源とし、中河内地域の農地に用水を供給している本市の基幹的な用水路であり、また、地域の貴重な水辺として広く市民に親しまれるとともに、桜並木や石積み護岸といった、昔ながらの風景を残している由緒ある農業用水路(土地改良施設)です。(この方向から見ると、右、長瀬川、左、玉串川)この地は旧大和川が、いまの玉串川と長瀬川に分水するところである。宝永元年(一七〇四)十月今米村(旧河内市、現東大阪市)の中甚兵衛らによって四十数年にわたる請願が遂に幕府を動かし、いまの大和川へ川筋が付替えられた。その後、この地一帯の旧河川敷は東弓削、弓削の人々によって開墾されて、「二俣新田」と名付けられ地名となった。【出典:『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】地名が「二俣」というが、ここで川がふたつに分かれているから。二またに流れる川あり桜(はな)の下 はるな(☝長瀬川)八尾市二俣に至り流れを左右に分かち、左方は長瀬川、右方は玉串川となって流れてゆく。この川の現況は、柏原市上市二丁目の大和川築留堤防下の水門からの取水を水源とする用水路様のものである。写真、上部の緑色のラインは、大和川の堤防。堤防を築いたから「築留・つきとめ」。そこから、玉串川の水を取り込んでいる。(☝大和川)高度経済成長期には上流の大和川と同様に玉串川の水質が悪化していたが、流域の各所において遊歩道の整備、水生植物の植栽や簡易式の曝気施設が設けられ、環境改善や水質浄化がなされている。また、これらの整備が行なわれた頃にコイやフナの稚魚が放流された。この日も、鯉の大群に出会った。 玉串川は、■アニメ映画「ジョゼと虎と魚たち」■で、主人公ジョゼの家のある場所として映画に登場している。●時期 春(3月下旬~4月中旬)●所在地 八尾市二俣2丁目~山本町北8丁目●交通ルート 近鉄「河内山本」駅すぐ/近鉄「高安」駅から西へ150メートル/JR「志紀」駅から徒歩約5分●最寄駅 近鉄「河内山本」駅/近鉄「高安」駅/JR「志紀」駅・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.04.04
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■オペラ座の怪人■妖しい調べが支配する。そこは愛の迷宮。【ストーリー】19世紀のパリ・オペラ座。そこでは、“オペラ座の怪人"の仕業とされる奇怪な事件が人びとを震撼させていた。醜く歪んだ顔を仮面に隠し、オペラ座の地下深くにすんでいた怪人は、コーラスガールのクリスティーヌに心を寄せる。そして「音楽の天使」として彼女に近づき、夜ごと歌を教えていた。彼女をプリマドンナに仕立て上げ、自分の音楽を歌わせたいとの願いからだった。だがクリスティーヌは、再会した幼なじみのラウル子爵と愛し合うようになる。それを知り嫉妬に狂った怪人は…。 劇団四季のミュージカル、「オペラ座の怪人」を見てきた。豪華な舞台装置と沢山の俳優、名曲の数々は、さすが、1988年から30年以上、各地で上演された大ヒットミュージカルだけのことはある。「オペラ座の怪人」といえば思い浮かべる♪じゃーんじゃじゃじゃじゃ~ん・・・という印象的なオーバーチュアが劇場に鳴りひびくと、いっきに舞台に引き込まれる。 「オペラ座の怪人」は、ガストン・ルルーによって1909年に発表さらた作品だそうだ。ここ数十年前に、ミュージカルとして書かれた作品だと思っていたのでビックリ!!■映画化作品■ 1916年版 1925年版 1943年版 1962年版 1988年版 1989年版 1991年版 1998年版 2004年版 と9回も映画化されている。知らなかった!! 物語の始まりは、1905年、それから遡ること半世紀のオペラ座で起こったことという物語だから、今、パリの観光地となっている、オペラ・ガルニエの前の建物ではない。今のオペラ座は、1875年に出来たものだから、その前の建物ということになる。■劇団四季:オペラ座の怪人■「オペラ座の怪人」は見どころが沢山あるが、もらったチラシに「オペラ座の怪人」の魅力として載っていたのは次の3点。★絢爛と、妖しく、迷宮にいざなう装置。そこはまさに19世紀のパリオペラ座。3万4000個のクリスタルが輝く巨大なシャンデリア、地底の水路に揺らめく無数のキャンドル。驚愕の仕掛けも必見でる。★目も心も虜にする、贅を極めた衣装。200着以上の豪華な衣装も見どころのひとつ。ヨーロッパの本格的な伝統衣装を再現したもので、全員が仮面姿で終結する「マスカレード」の場面は圧巻です。★甘美に、激しく。心を揺さぶる続ける音楽。「キャッツ」、「エビータ」などミュージカル史上に残る名作を生みだしたアンドリュー・ロイド=ウェバーの珠玉の旋律が、甘く、激しく、陶酔の極みへと誘います。舞台が終わるとスタンディングオベーションの大拍手!カーテンコールが何度も何度も何度も繰り返された。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.03.19
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■グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生■モーゼスおばあさん(グランマ・モーゼス)の愛称で親しまれ、アメリカ人なら誰もが知る国民的画家、アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860-1961)。無名の農婦から、70代で本格的に絵を描き始め、80歳の時ニューヨークで初めての個展を開きました。今回、生誕160年を機に特別に企画された本展は、国内で開催される回顧展としては16年ぶり。最初期の作品から100歳で描いた絶筆、また愛用品ほか関連資料まで、日本初来日を含む約130点を展示します。自然や素朴な暮らしを愛し、たくましく誠実に、素敵な100年を生きたモーゼスおばあさんの世界を紹介します。 キルト、石鹸を作り、馬車に収穫の作物を積んだ馬車、メイプルシロップを集めたり・・・。「大草原の小さな家」の世界の世界だ。それもそのはず、「大草原の小さな家」の作者、★ローラ・インガルス・ワイルダーは、 1867年2月7日 - 1957年2月10日★グランマ・モーゼスは1860年9月7日 - 1961年12月13日とほぼ、同じ時代を生きている。グランマ・モーゼスの描く絵は、20世紀以前のアメリカの姿で、1980年代に日本でもブームをよんだ。そんな、「グランマ・モーゼス展」が大阪であったので、見に行った。■グランマ・モーゼスは■1860年9月7日 - 1961年12月13日と101歳まで生きた人。そして100歳まで絵を描いていた。絵は誰にも習ったわけではなく独学。それも最初は、絵を描くのではなく、刺繍で絵を描いていたが、リュウマチで細かい針仕事が出来なくなりリハビリで、描いた絵が認められた。絵を描き始めて3年後、ひとりのコレクターが彼女の絵に目をつけ、1940年に80歳にて個展を開く。この個展に大手デパートが注目して一躍名画家となる。89歳の時には当時の大統領ハリー・S・トルーマンによってホワイトハウスに招待されるほどである。70歳過ぎて絵を描き始めるってすごいけどローラ・インガルス・ワイルダーが「小さな家」シリーズを書き始めてのが、60歳過ぎてからといわれる。 グランマ・モーゼスの子どもの頃の仕事は、今の比ではなく多かった。まず、農業は当たり前だがそれ以外のも、家事の洗濯、料理も今のように簡単ではない。その上、キルト作り、石鹸、ロウソクづくり、メイプルシロップ作りなどがあった。しかし、それは、楽しい仕事だったという。なぜなら、それらの仕事は、大勢で協力してする仕事で、仕事の間中、楽しい会話に溢れていた。また仕事が終われば、御馳走もあったのだった。仕事=暮らし、という仕事は、体的にはきつかっただろうが、楽しみや、やりがいを感じていたのだと思う。だから、グランマ・モーゼスは、100歳まで、昔の懐かしい思い出を描き続けたのだろう。 金髪のジェニー■テーマ曲は「金髪のジェニー」で、この曲が作られたのが1954年。グランマ・モーゼスの生まれる6年前!■グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生■☚詳しい日程などはここに。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.06.17
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9月22日(秋分の日)に、彼岸花の咲く、■奈良県営馬見丘陵公園■に行ってきた。■奈良県営馬見丘陵公園は、■日本でも有数の古墳群と豊かな自然を保全・活用するためにつくられたとても広い公園です。園内のあちこちに見どころがあり、散策を楽しみながら1日ゆったり過ごすことができます。春はチューリップ、初夏は花菖蒲など四季折々の花々が楽しめます。ダリア園もあり、秋になると約120品種1,000株のダリアが一斉に咲き誇ります。 奈良県はダリアの球根生産量が日本一だそうです!広い敷地内を、電気カートが2台、ゆっくりと走っている。「チューリップ号」と「ダリア号」。上の写真は、私たちの乗ったチューリップ号がダリア号にすれ違う様子。いろんな花が植えてあるが、圧巻は、コキア(ほうき草)のあるエリア。■コキアは■主にヨーロッパを始めとする北半球で栽培されており、日本には約1000年以上前に中国から伝わったといわれています。 枯れたコキアの枝を刈り取って、ホウキに利用していたことから「ほうき草」という別名もあります。かわいらしいモコモコとしたコキアの草姿は、沢山の細い茎葉から形成されています。花も咲きますが、1〜2mmくらいの小さな花なので目立たず、茎葉の紅葉の方が有名です。(☝紅葉前の青いコキア。)砂質のやせた土壌でも育つ丈夫な植物で、日本のどの地方でも育てることができます。公園などで見かけるコキアは、観賞用の品種がほとんどですが、これとは別に実を食用にする品種もあります。植物の名前で「シモツケ」というのがあった。下野(しもつけ)の国、現在の栃木県で最初に見つかった植物だそうだ。☟公園に植える植物っていったい、誰がどういう基準で決めるのだろうといつも思っている。ずーっと以前、■みどり学講座■という緑についての学習会に参加した。その時の講師が大阪府立公園を設計した人で、公園の植物の基本方針は、その土地に合ったもの=植生を一番に考えたという。■公園のプランを考える。■この人のように、きちんとした緑に対する思いがある人が設計者になってほしい。彼岸花や紅葉したコキア(ほうき草)を見ていると、秋だな・・・と思う。*花壇より子の駆け降りる豊(とよ)の秋 はるな ■奈良県営・馬見(うまみ)丘陵公園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.09.24
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4月3日、自転車で桜の花を見に行った。ついでに、■大津神社■で花見。いつもの年なら、多くの人で賑わう神社も、私以外に人はチラホラ。人が少ないので、ゆっくりと見て回った。いつもは見逃すところも見ることができた。大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇の御代に編纂された延喜式神名帳の河内国丹比郡に「大津神社三座鍬・靱」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていた。古い時代は、どこまで遡れるのかと見て回った。▲神社の周りはぐるりと石の柱が立っている。▼「氏子中」の文字。「中」とは、志を同じくするものという意味。▲手水舎(てみずしゃ)があったので、さっそく、手を清めた。▼▲水の神様の龍から水。境内の中にも石の鳥居がいくつかあった。この鳥居は古そうだ。よく見ると一本の石ではなく、継ぎ合わせている!どうしてだろう、継ぐのって難しいと思うけど・・・。▲井戸と「奉納」の文字がある手水鉢。▼災害時には、ここが使えるようになっている。▲この灯篭は、元文年間。「元文」1736年~1741年▼▲石灯籠には、▼「明和三年」の文字。明和は、 1764年から1772年。寄進したのは、「泉州・堺 鰯屋利右衛門」。どんな人だったのだろう。この近くの出身者だとか・・・妄想が膨らむ・・・。▲「天保九年」。天保とは、1831年から1845年。ちなみに、明治は、西暦1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日まで。▲この神社の由緒が書いてある。▼寛永と書いてある。寛永は、1624年から1645年江戸幕府の将軍は、3代・徳川家光の時代。その裏には、昭和と平成の文字が・・・。寛永のものを修理したののようだ。▲お百度石が2か所に。▼病気になった時、昔の人は、この、お百度石に快癒の願いを込めたのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.04.09
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■”Osaka Metroまちさんぽ" Metroに乗ってまちを歩こう!■(要予約)[大阪あそ歩]と[Osaka Metro]がタイアップしました―――—〝Osaka Metro まちさんぽ" この春はまず10駅から。●3月29日(日)〈東梅田〉 東梅田の繁華街の社寺巡り東梅田の東の繁華街には古代から伝わる興味深い名前がついています。曽根崎、兎我野町、神山町、小松原町、堂山町。人ごみを抜けるとそこには由緒ある社寺が。 ●4月5日(日)〈西中島南方〉 桜満開の大阪水源地と摩天楼の遠望 ●4月18日(土)〈玉川〉 野田藤の雅びと田辺聖子の少女時代●4月26日(日)〈松屋町〉 オランダ人も訪れた住友銅吹所と松屋町のあれこれ●5月1日(金)〈平野〉 環濠自治都市・平野郷めぐり●5月7日(木)〈玉造〉 真田幸村の真田丸を歩く●5月30日(土)〈新深江〉 新天皇の大嘗祭にも使われた菅笠●6月14日(日)〈あびこ〉 古代豪族・依羅吾彦(よさみのあびこ)の里めぐり●6月21日(日)〈桜川〉 西道頓堀川の橋と周辺の歴史を訪ねて●6月27日(土)〈千林大宮〉 裏道に土蔵が残る主婦の商店街★Osaka Metroタイアップ記念のみ参加費は1000円です。★コースの詳細は「まち歩き予約」でお確かめください。★マップチラシはMetroの駅に順次、配架されます。各コース定員で締め切りますので、早めにご予約ください。キャンセルの場合はお手数ですがご連絡下さい。歩きやすい服装と靴でご参加下さい。車などに十分注意し、各自で責任をもって行動してください。キャンセルについてスケジュールは天候や都合により変更・中止する場合があります。詳しくは、■受付中コース■で確認。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.03.21
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5月18日(土)、古い町並みの残る奈良県・五條市に行き、ガイドさんの案内でまち並みを見てきた。奈良県五條市は大阪府との県境の金剛山の南麓の小さな盆地の町。(▲吉野川) ■五條・地名■五條市は盆地で北の金剛山の南斜面から多くの谷の水が五條市を東西に横断する吉野川に流れ込んでいます。その吉野川の支流が上流から宇智川、内の川、 西川、東浄川、寿命川と5本あり、これがわずか1.5kmほどの間に並んでいます。金剛山から5本の小川が流れ込んでいる、ということから五條の地名がつけられたのではないかと思われます。なお、市内にたくさんある御霊(ごりょう)神社がなまって五條になったという説もあります。五條市全体の古代からの地名は宇智で、50年前の町村合併の前は宇智郡であったのが、その時の中心の五條町の名前が今の五條市の名前になったのです。宇智に似たような「宇」のつく地名に、宇冶、宇陀、宇佐、宇部、宇品などがありますが、これらはすべて谷間から川が流れ出す盆地や三角洲の地名のようです。 ■吉野川の近くにあり、そこへ流れ込む水路のような小さな川が何本もあることも■五條新町の景観を面白いものにしています。この時は、川にはほとんど水が流れていませんでしたが、川ギリギリまで建物が立ち、足場を作って川面にせり出すように家を広げていたりするのが楽しいですね。今は、吉野川は、この向こう(階段の所が堤防)に流れているが、昔は、手前まで水が来ていた。かつては石垣のところまで水が来ていた。吉野川には三十石船や奥吉野から木材を運ぶ筏(いかだ)流しも見られ、水陸交通の要地でもありました。▲道路のすぐそばに船着き場があった。▼西川にかかる6鐵屋橋のすぐそばにあるのが、「餅商 一橋」。大正時代から続く、いかにも古そうな、このお店、最近閉店されました。「新町橋」と「しんまちばし」。東にあたる方に漢字を西にはひらがなであらわしたそうだ。そうすることで、夜暗い時でも、方角が分かるからだそうだ。■五條は古来さまざまな土地への交通の要でした。■奈良、和歌山、河内長野、十津川、あらゆる場所へ続く旧街道が、現在の五條の本陣交差点で交差しました。交差点にはかつての繁栄を偲ばせる立派な道標が残されています。交通の要衝地だったゆえに、数々の歴史の舞台ともなりました。なかでも幕末には、天誅組が尊王攘夷を掲げ、徳川幕府に対して武装蜂起した場所としても知られています。五條から南へ鉄路を伸ばす五新線の計画も、多くの人々の期待を集めたものでした。しかし昭和57年、開通することなく工事は全面中止に。新町通りを横切る高架跡は、鉄路に夢を馳せた人々の思いを静かに今に伝えています。 幻の「五新鉄道」風光る はるな(▲右部分、広い格子)商いをしていた町家には、通りに面して設けられた格子の形にも特徴がある。多くの町家に、間隔が広い格子、狭い格子、その中間にあたる幅の格子と、3種類の格子が存在している。幅が広い格子は店先部分にあたり、その奥に並べられた商品が見えやすい構造に。(▲左、狭い格子右側、中間の格子)また間隔が狭い格子の向こう側は住居部分にあたり、生活の様子が通りから見えにくいようになっている。そして、店先部分の格子と住居部分の格子との、ちょうど中間ほどの幅の格子は、勘定をする帳場に用いられた格子である。(▲五條代官所跡)1870年(明治3年)、宇智郡五條村(現五條市)に置かれていた五條代官所に五條県が設置された。その後、紀伊国内の高野山領、大和国吉野郡十津川郷を管轄した。しかし、翌年の第1次府県統合により廃止された。五條という町を今回初めて知ったが、昔は大いに繁栄していたようだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・
2019.05.29
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■澤田八幡神社■国府八幡神社由緒書によると、国府八幡神社を除く近隣の八幡神社(古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社)と同じく、江戸時代初期に誉田八幡宮から勧請されたものとされている。拝殿の棟札には、1655年(明暦元年)11月に旧地の一町西へ遷宮したと伝えられ、次いで1777年(安永6年)の棟札からこれらの時期に建直しが行われている。沢田の氏神として機能し、かつては「先度社」という宮座も存在した。境内には近鉄南大阪線が横切っており、踏切が設けられている。これは1922年大阪鉄道が布忍駅 - 道明寺駅間を開通した際、町内の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って走らせることにした結果、陵の堤に続く斜面にあった神社を横切ることになったものと考えられる。当時の住民は線路敷設に肯定的であり、公有地の一部が無償提供されている。澤田八幡神社と線路は高低差がある。澤田八幡神社までが、羽曳野(はびきの)丘陵で、澤田神社は、その「台地のへり」にあるというわけだ。(「台地のへり」って、よく「ブラタモリ」で言っている。) ■澤田八幡神社■所在地大阪府藤井寺市沢田4-2-3交通アクセス最寄駅:近鉄南大阪線土師ノ里駅下車後、徒歩約6分(西へ約400m)■2019.3.2■■道明寺天満宮■■赤面山古墳■■大鳥塚古墳・別名質屋山古墳■■道明寺盾塚古墳公園■■津堂城山古墳■などをボランティアの方の説明を聞きながら歩いてきた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.03.30
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■津堂城山古墳■この津堂城山古墳は、実は明治が終わる頃までは、前方後円墳であること自体が地元の人々にもよく認識されていなかったようです。名前のとおり、戦国時代に三好氏の砦として城が築かれたことで墳丘の形が大きく崩れてしまい、見た目にはただの小山にしか見えない姿になってしまいました。しかも、周濠部分の多くは農地として利用されていて、残った部分もよくある小さな池にしか見えない様子でした。全体が大きいために、横から見ただけでは古墳だとは気づきにくい姿です。いつしか、ここが古墳であったことさえ忘れ去られていったようです。明治時代の中頃に作成された地籍図を見ると、古墳域内の土地には城跡であったことを示す小字(こあざ)名が載っています。「本丸・二の丸・三の丸・四の丸」です。つまり、この場所は、古墳としてではなく、「城跡」のままそのイメージが長年伝承されてきたことがわかります。1912年(明治45年)、地元津堂村の人々が、この古墳の後円部頂から石材を掘り出したときに、その下から巨大な石棺が現れて、人々を驚かせました。この長持形石棺は、それまで知られていた石棺の中でも最大で、しかも非常に精巧な造りのものでした。今までの調査・研究から、津堂城山古墳は、二重の濠と堤をそなえた巨大な前方後円墳であり、出土物などから4世紀の末頃に造られたことが分かってきました。津堂城山古墳以後の大王の古墳とされる巨大前方後円墳の多くに、二重の濠と堤が造られていることや、その他の資料などから考えると、津堂城山古墳は、河内平野に初めて造られた大王級の古墳であると考えられるのです。 かつて農地だった内濠部分は保存のために整備が進められ、ちょっとした古墳公園となっています。また、内濠跡部分には、菖蒲園(しょうぶえん)や草花園(そうかえん)が造られ、四季折々の花が古墳を彩ってくれています。■2019.3.2■道明寺天満宮■■赤面山古墳■■大鳥塚古墳・別名質屋山古墳■■道明寺盾塚古墳公園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.03.22
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■道明寺盾塚(たてづか)古墳公園■写真は、府営・藤井寺道明寺住宅の中央部にある公園です。公営住宅地内の公園としては、全体の面積の割には、広い公園だと言えるでしょう。この公園中心部で緑におおわれた広場が、少し盛り上がっているのがわかりますか?ゆるやかな階段もありますね。公園内の広場にしては、ちょっと変わっていると思いませんか。この公園は、「道明寺盾塚(たてづか)古墳公園といいます。ではこの広場は古墳なのでしょうか。残念ながら、実は盾塚古墳そのものは、かなり以前に姿を消してしまっているのです。昭和30年代に入って、大阪府内の人口増加に対応するために、各地に公営住宅が造られていきました。藤井寺市内にもいくつかの府営住宅や公団住宅が建設されていきました。この場所にも、「道明寺南住宅」として、平屋の戸建て住宅が並ぶ府営住宅が造られました。この建設に伴って、盾塚古墳は姿を消してしまったのです。古墳の跡地にも住宅が建ち並びました。盾塚古墳は、総長110m、後円部の直径46mという前方後円墳です。古市古墳群の中では、最も古い時期、4世紀末~5世紀初めに造られた古墳です。後円部に比べて前方部が小さいことから、「帆立貝形前方後円墳」とされています。今となっては、発掘調査記録としてしか存在しない古墳です。 ■盾塚古墳■大阪府藤井寺市道明寺6丁目築造年代:5世紀初頭墳形:帆立貝形、楕円形周濠規模:全長110m、墳長64、73、88m *正確な数字を確認できません。 方幅20m、方高1.8m、円径46m、円高7.5m、内部構造:後円部粘土槨、長大な割竹形木棺副葬品:盾10枚、銅鏡、玉類、短甲、衝角付冑、鉄製刀剣、鉄製鏃、 筒形銅器、碧玉製釧、竹櫛、前方部から鉄製刀、 剣、矛61本・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.03.21
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■大鳥塚古墳■大鳥塚古墳は墳長110m、高さ12.3mの前方後円墳で、5世紀前半に築造されたと考えられています。1956年に国の史跡に指定。大鳥塚古墳が築造された頃から「陪塚」が築造され始めています。陪塚とは埋葬者と関係が深かった人や物が、メインの古墳の周辺に埋葬される小さな古墳を意味します。(▲赤面山古墳)大鳥塚古墳のすぐ北側に■赤面山古墳■と言う1辺15mの方墳が存在します。赤面山古墳は大鳥塚古墳の陪塚と考えられており、大鳥塚古墳と赤面山古墳の埋葬者はお互い密接な関係があったようです。この古墳の別名は、質屋山古墳という。今でこそ、古墳はありがたがられているが、明治までは、里山的な扱いだった。中には■古墳の中に村まであったものある。■大鳥山古墳も個人の持ち物で、お金に困った持ち主が質に入れた。そして、質流れとなったという今から思えば嘘みたいな本当の話だ。■大鳥塚古墳データ■古 墳:大鳥塚古墳墳 形:前方後円墳築造の時期:5世紀前半 所 在 地:大阪府藤井寺市古室2丁目4−58全 長:110m高 さ:12.3m埋 葬:不明大鳥塚古墳のすぐ北側に赤面山古墳は、大鳥塚古墳の陪塚。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.03.16
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藤井寺市の古墳や神社を市民ボランティアの案内で廻って来た。■道明寺天満宮■数多くの古墳を見て回ったが、特に印象に残ったのが「赤面山(せきめんやま)古墳」。■藤井寺市:赤面山古墳は残った。■大阪府松原市と奈良県天理市を結び、名古屋市へとつながっていく西名阪自動車道の脇下を通る北行きの側道です。西名阪自動車道の高架下に小さな土の高まりがあります。なんと、高速道路の下にまたがって古墳があります。この古墳の名は赤面山(せきめんやま)古墳といいます。一見したところでは単なる土の山のようにも見え、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。この建設工事は、昭和40年前後の時期でした。古代史ブームよりも6,7年前のことです。当時としては、この古墳の保存にかけたエネルギーのすごさを感じます。側道を曲げるために買収用地を増やしただけでなく、もう一つ設計上の尽力の跡を見ることができます。 写真は、高速道路の高架の下側と橋脚の様子です。右が本来の設計通りの造りです。左は、古墳の位置に橋脚がぶつかるため、橋脚の間隔を長くして、古墳を完全にまたぐように造られています。長くなった分、強度を高めるために、コンクリートの橋桁の下部にアールを付けて、この部分だけ特別な造りになっています。一部に特別な設計をするということは、当然、余分に手間と費用がかかるということです。このように手厚く保存の措置がとられた赤面山古墳ですが、本来どのような古墳だったのか、実は、よくわかっていなかったのです。赤面山古墳は、古市古墳群の現存古墳の中では最も小規模なものの一つですが、そうであるが故に、古墳の保護・保存を考える上で象徴的な存在となっている古墳でもあります。高速道路という、都市化や現代インフラを象徴する建造物と、見事に共存できた貴重な例として、もっと注目されてよい古墳だと思います。 【赤面山古墳】近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約1.1km 徒歩約17分 ■古市古墳群■東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成される古墳群である。古墳造営には豪族の土師氏などが関与していたと考えられている。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.03.13
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道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪府藤井寺市道明寺にある神社。そこに、3月2日(土)友人と散策してきた。■道明寺天満宮■●もともとは天満宮ではなく、土師神社であった。●隣りの駅が土師ノ里であることからもわかる通り、このあたりは古墳時代に大活躍した「土師氏」の所領であり、土師氏の祖「野見宿禰」が、かつて遠祖であるところの「天穂日命」を祀った氏神「土師神社」(はじ じんじゃ)を創建した。これが道明寺天満宮のそもそもの始まり。●「野見宿禰」は相撲の祖とされつつ、垂仁天皇の御代に埴輪を発明して、天皇崩御に際する「殉死」という悪しき慣習をストップさせた人物。道真公死後の947年、道真公が残した木像を安置し、遺品をご神体として祀ったことから、土師寺は道明寺へと寺名を改めた。●道明は道真公の号「道明」に因む。●道明寺天満宮の門の横には土師氏の窯の跡がある。この丘の角度が登り窯にピッタリのようだ。道明寺天満宮は丘の上にあります。ここから西に高台が続き、その斜面から登り窯跡が発見されています。▲▼近鉄、道明寺駅から道明寺天満宮への道は、細く、参詣のための道だったのだろう。道明寺天満宮の石段を登って広い境内へ。埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年に野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の姓とこの地を与えられた。そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社を建立した。仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏が分流していく。 平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この寺を訪れている。この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。901年(延喜元年)、道真は大宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しみ、和歌を詠んだ。 鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もかな 菅原道真■意味■鶏が鳴いてつらい別れがきた。夜明けに、(夜明けを告げる)鶏の声が聞こえない里であればよいのに・・・。以後、道明寺では、鶏を飼わなくなったとか・・・。1633年(寛永10年)には石川が氾濫したため、道明寺が天満宮境内に移転し、両者はやがて一体化していく。 1952年(昭和27年)に土師神社は道明寺天満宮と改称する。現在も学問の神として地元の人々に親しまれている。また境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所として知られているとともに大阪みどりの百選に選定されている。▲道明寺天満宮への道には、梅のデザインのマンホールが。真ん中の丸の中は、古墳と耳飾り。▲▼境内には、しゅらのレプリカが置いてあった。■大阪天満宮■ ■道明寺天満宮への道■〒583-0012大阪府藤井寺市道明寺1-16-40•電車 近鉄南大阪線・道明寺駅から徒歩3分・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.03.08
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■天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)は、■大阪府大阪市北区天神橋二丁目にある寄席。上方落語の定席の一つで、落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸の興行が連日執り行われている。通称「繁昌亭」。 繁昌亭は、2003年に上方落語協会会長に就任した桂三枝(後の6代桂文枝)が、天神橋筋商店街で落語会を行える空き店舗の提供を商店街側に依頼したことに始まる。商店街はこの提案を大阪天満宮に持ち込み、上方落語協会も交えて話し合いを重ねた結果、天満宮用地に落語専門の定席を新設することで合意。用地は大阪天満宮の寺井種伯宮司の厚意により、無料で提供された。1957年に戎橋松竹が閉場して以来、半世紀ぶりに大阪に寄席が復活することになった。 座席は1、2階の216席。昼席の開場時には、若手の落語家が太鼓で一番太鼓(開場を告げる太鼓)を打つ。劇場内外の天井には、募金をした人々の名前や団体約4,500件分の名前の書かれた提灯が並べられている。 上方落語隆盛の時代の象徴として語り継がれている「赤い人力車」が復活した。この人力車は、初代桂春團治が多忙のために移動の手段として使用したとされるものを復元しており、多額の借金による「火の車」の洒落になっている。 春団治の奇行は有名だが、他の芸人も破天荒だったようだ。 吉本興行の舞台でのこと。真打の松鶴が舞台に上がったが、十八番(おはこ)の話「天王寺詣り」をやらない。客は怒って総立ちになっている。 客の一人の機転でやっと事なきを得たが、松鶴は、十八番の「天王寺詣り」を二千円で質に入れたのだった。質入れ中は絶対に語れないのが、この世界の掟だそうだ。 俳優の東出昌大は■『ごちそうさん』■では、慣れない大阪弁での演技に備え、撮影開始1か月前に大阪市へ引っ越し、天満天神繁昌亭や近くの喫茶店でアルバイトしたり、上方落語を聴くなどして役作りに務めた。繁盛亭のある場所は、もともとは、天満の天神さんの敷地だった所。天満宮旧敷地という石灯篭がある。■もともと江戸時代の天満宮境内では、■歌舞伎や人形浄瑠璃などあらゆる芸能が上演されていたという記録もあり、明治時代の天満周辺には「天満八軒」といって8軒程の寄席があった。”芸どころ”として、歴史的にもゆかりのある土地だった。■NHK朝ドラ:わろてんか■は、吉本興行の吉本せいがモデルで、吉本の寄席もここにあった。吉本せいを描いた山崎豊子の「花のれん」に、天満の寄席を見つけた時の文章がある。***「旦那(だん)はん、おました、ええのおましたわ、御寮人(ごりょうん)さんのいいはるとおり風呂屋にでもしたろかいうような寄席見つかりましてん」「どこや」「天神橋筋をちょっと入ったとこの、ちょうど天満の天神さんの裏でんねん。」***●■天満の天神さん■とセットで行く、大阪名所だと思う。●広島出身という若手落語家の言葉が見事に関西弁だった。 ■天満天神繁盛亭■〒530-0041大阪市北区天神橋2丁目1番8号地下鉄谷町線・堺筋線「南森町駅」下車4番出口JR東西線「大阪天満宮駅」下車3番出口・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.02.27
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■舞台:コーラスライン■幾つもの涙の先に、輝くひとつの夢がある。N.Y.ブロードウェイ。幕が上がると、新作のためのオーディションの真っ最中。新進演出家ザックの元に集まった大勢のダンサーの中には、ザックの元恋人・キャシーの姿もあった。彼女はかつてスポットライトを浴びたこともあるもののハリウッドに進出して挫折、一からやり直すつもりで再びブロードウェイに戻ったのだった。 厳しいオーディションに合格したとしても手に入るのは「コーラス」、つまり無名の脇役。「君たちはスターを彩る額縁、誰も僕の目を惹いてはいけない」とザックに宣告され、それでもダンサーたちはたった8人の採用枠に残るために自分のすべてを賭ける。「君たち自身を知りたい」というザックの問いかけに、躊躇しながらも赤裸々に自分の人生について語り始める。 ミュージカルといえば、「ライオンキング」、■「美女と野獣」、■■キャッツ■など、背景や役者のメイクなど華やかなものが多い。「コーラスライン」は、「ライオンキング」や「美女と野獣」と違って、豪華なセットはない。内容も主役ではなく”その他大勢のキャスト”のオーディション会場での物語。なんにもないただ、白い線が一本だけの舞台と稽古着の出演者たち。コーラスラインというのは、舞台後方に引いてある”線”のこと。主役と違って”そのた大勢”の出演者は、コーラスラインから前に出てはいけない。 冒頭のダンスシーンが終わると、長い単調な舞台が続く。音楽も、聞き覚えのあるのは、「ワン」のみ。この作品は、舞台上では目立たない、その他大勢組のダンサーたちの物語。仕事を得るために整形した人、 同性愛者、身長が低い悩みの人、バレエだけが自分の支えだという人、さまざまな悩みや不安を持って、オーディションに集まってきた ダンサーたちが自分の人生を赤裸々に語っていきます。いろんな悩みがあるが、思春期の悩みは共通。地味な舞台だけに、 フィナーレの、金色のえんび服とシルクハット姿が華やかで素晴らしい!!英語の舞台だったので、舞台のそでの両側に字幕がついていた。 オリックス劇場のそばの公園で娘のレイと待っていたら舞台の役者さんたちと見られる人が数人歩いていた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.03
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■江戸の戯画-鳥羽絵から北斎・国芳・暁斎まで■太平の世が続いた江戸時代には、多くの戯画(ぎが)が描かれました。一口に戯画といっても多種多様なものがありますが、本展では「鳥羽絵」をキーワードに江戸時代の戯画をご紹介します。鳥羽絵は、広く戯画や漫画を指す言葉として使われることもありますが、より限られた意味では、18世紀に大坂を中心に流行した軽妙な筆致の戯画を指します。そこに描かれる人物は、目が小さく、鼻が低く、口が大きく、極端に手足が細長いという特徴を持ち、その名は国宝「鳥獣人物戯画」の筆者と伝えられてきた鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)に由来するものとされます。鳥羽絵は、18世紀の大坂で鳥羽絵本として出版され、その人気は明治にまで及びました。また、上方に留まらず、江戸の浮世絵などにも影響を与えています。鳥羽絵を洗練させたとされる大坂の「耳鳥斎(にちょうさい)」はもちろん、鳥羽絵本の影響を受けたと考えられる江戸の「北斎(ほくさい)」や「国芳(くによし)」、そしてその流れをくむ「暁斎(きょうさい)」など、時代や地域により変化しながらも、笑いの感覚は脈々と受け継がれてきました。本展では、そのような流れを追いつつ江戸時代の戯画のエッセンスをご覧いただきます。また、歌川国芳の「金魚づくしシリーズ」全9点がそろうのも見どころの一つです(前期のみ)。 笑いを文化として発展させてきた大阪の地で、多彩な笑いの世界をご紹介します。(出品予定作品:約280点)■場所:大阪市立美術館 所在地〒543-0063大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-82電話 06-6771-4874■会期:【後期】5月15日(火)~6月10日(日)※会期中展示替えあり。■時間:午前9時30分〜午後5時(入館は午後4時30分まで)休館日月曜日(ただし、4月30日(月)は開館)。■料金:一般 1,400円(1,200円)、高大生1,000円(800円)※( )内は、20名以上の団体料金※中学生以下、障がい者手帳などをお持ちの方(介護者1名を含む)は無料(要証明)。※本展は、大阪市内在住の65歳以上の方も一般料金が必要です。この日は雨で、雨上がりの緑が美しかった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.06.01
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4月13日、友人とランチに行った。行った先は、■Keitto Ruokala ケイット ルオカラ■。北欧風のおしゃれなカフェ。■Keitto Ruokala ケイット ルオカラ■ 毎日の食事を自分らしくKeitto=スープ、Ruokala=食堂を意味するフィンランド語。からだと心にやさしい日々の食事を、気軽に楽しんでいただきたいという想いを込めました。north object de petit...のものづくりでは北欧の人々の暮らしをヒントに、「時代に流されない自分らしさ」と「暮らしを彩る小さな工夫」を大切にしています。そんなヒントを取り入れながら心地良く過ごせる空間で、自分らしくいられる時間、からだも心も喜ぶ食事をお届けしたいと考えています。爽やかな色づかいの食器や温かみのある木材など、北欧の暮らしと自然の恵みを感じながら、おいしくてからだにやさしい食堂の味をゆったりとお楽しみください。 ケーキ付の「北欧ランチ」1000円也をごちそうしてもらった。(^▽^)/コーヒーカップは、「アラビア」。■Keitto Ruokala ケイット ルオカラ■ジャンル: 居酒屋、洋食、バル・バール最寄り駅: 淀屋橋駅から439m 13番出口。住所: 大阪府大阪市中央区平野町3-3-5 1F営業時間: [月~金] 11:00~15:00 17:00~23:00(22:30 L.O)地下鉄御堂筋線「淀屋橋」の13番出口を出て御堂筋を南下する。有名な「ガスビル」を進行方向、左に曲がる。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.04.18
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■めまい■が気になるので検査に難波(なんば)にある病院に行ってきた。帰りに、あちこち見て回る。突然、賑やかなのぼりが見えて、ビックリ!!そうだ、三月場所だったんだと思い出す。難波が三月場所の会場だとは知らなかった。お相撲さんも、けっこう歩いていて、すれ違う度にぷーんと、鬢付け油のにおいがする。その後、映画を見に、なんばパークスシネマへ。なんばパークスシネマのあるなんばパークス (NAMBA PARKS) は、大阪府大阪市浪速区難波中にある複合施設。施設全体として、「緑との共存」を大きなテーマとしている。■なんばパークス■地上10階、地下3階建て。地上部分は段丘状に建てられている。植栽を多用し、屋上部分は「屋上庭園 パークスガーデン」として3階から9階まで緑が広がる1期部分の屋上庭園には、約235種類、約40,000株の植物が植えられている)。3階から上のフロアには段丘状の屋上公園「パークスガーデン」が設けられている。約7万株の植物の緑が植えられ、都心で自然を楽しめる。なお、ガーデンの第1期部分については、財団法人都市緑化技術開発機構が主催する「第4回 屋上・壁面・特殊緑化技術コンクール」において、2005年10月25日付で「屋上緑化大賞・国土交通大臣賞」を受賞している。平成26年度 アメリカCNN局の『世界で最も美しい空中庭園トップ10』に選ばれた。今が一番いい季節。ここには、映画を見るためによく来るが、パークスガーデン ガイドツアー も開かれているから、一度参加して、みようと思う。 ■パークスガーデン ガイドツアー■■ツアー開催日■月曜日~金曜日(年末年始、施設定休日、祝日除く)14:00~約1時間程度■ツアー参加料■1,000円(税込)/1名 保護者同伴の小学生以下のお子様は無料■その他■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.03.18
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■2017.11.18■2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された■奈良県宇陀松山地区■宇陀にある「慶恩寺」の鐘と紅葉。この鐘は東大寺に関係ある銘鐘として戦争中の金属の供出も免れたという。 奈良は製薬会社の創業者を多く輩出している。薬種業・近江屋(現武田薬品工業)を創業した近江屋長兵衛が河合町出身であるほか、信天堂山田安民薬房(現ロート製薬)の山田安民中将湯本舗津村順天堂(現ツムラ)の津村重舎命の母本舗笹岡省三薬房(現笹岡薬品)の笹岡省三の3人が宇陀市出身だ。これは江戸時代、大和が薬業で栄えていたことと関連する。★■宇陀市大宇陀歴史文化館「薬の館」(旧細川家住宅)■薬の館はその繁栄をしのぶ資料館で、宇陀松山で薬問屋を営んでいた旧細川家の江戸末期の建物を活用した施設だ。細川家は藤沢商店(現アステラス製薬)を大阪で創業した藤沢友吉の母方の里。江戸初期に宇陀松山藩が廃藩になってから、宇陀松山は薬商人の街として栄えた。その心意気を伝える遺物が薬の館の屋根上にある銅製看板だ。主力商品である腹薬「天寿丸」などを宣伝する高さ2・7メートルの看板には唐破風(からはふ)付きの屋根もあり、立派な造りだ。 「江戸時代、宇陀松山には53軒も薬問屋がありました」。(▲他の薬屋)看板にローマ字が入ったもの。カタカナで「ウルエス」とあるが、「空」を分解すると「ウルエ」になる。★■森野旧薬園■という薬草園。「森野旧薬園」のはじまりは、江戸時代中期。当時の森野家当主・森野通貞によって開園された。現在も「森野旧薬園」では、250種類以上の薬草木を見ることができる。 宇陀市の薬の歴史は古く、日本書紀には飛鳥時代、薬用に鹿を狩る「薬猟(くすりがり)」が「菟田野(うだのの)」(同市榛原足立)で行われたと記されている。■薬狩りとは■、野草摘みのことでもあり、また鹿狩りというのも、そもそもは鹿の角が薬として珍重されていたことから始まった薬狩りのひとつだったそうです。薬関係の多い宇陀に、古くからの医院があった。この医院の先祖は、かつて緒方洪庵の「適塾」で学んだ人。今も祖先が医者をやっている。▲元芝居小屋「喜楽座」、芝居小屋や映画館として使われた建物。(シャッター部分)▲レトロな郵便局。桶が看板の「いせ弥」。創業、慶応弐年の「いせ弥」さんでお土産に奈良漬けを買った。「いせ弥」は元酒屋だったので、表には杉玉が!店内では麹を古い箱に入れて売られていた。「この箱の名前はなんと言いますか?」と私。「『こうじぶた』です。」と店の女性。麹をいれる蓋だから「こうじぶた」。訛って「こーじゅーた」という地方もある。子どもの頃は「もろぶた」といっていたので私は今も「もろぶた」。「もろみぶた」が語源。■宇陀松山(うだまつやま)■宇陀松山は、戦国時代に「宇陀三将」と称された秋山氏の本拠地・秋山城(宇陀松山城)の城下町としてはじまった。豊臣支配の後、徳川の支配になった。その時、徳川の元の名前、「松平」の一字をとって「松山」にした。ちなみに、滋賀県長浜も秀吉が「信長」の一字を使い「長浜」とした。忖度か!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.11.21
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■2017.11.182006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された■奈良県宇陀松山地区■は、かつての大宇陀町である奈良県宇陀市の南西部に位置している、長い歴史を持った町。江戸時代、宇陀松山藩の陣屋町として栄え、現在もその風情を残している。ボランティアガイドさんに案内してもらって、古い町並みを歩いた。集合場所の道の駅から、少し歩くと、宇陀川がある。 「花の木橋」の上から、 下流をのぞむ。橋の模様は、戦国の武将・織田家の家紋。宇陀は、織田信長の次男、■信雄( のぶかつ)■以来、この地をおさめたのだ。天下人であった織田信長の子であるという所以から国主格も与えられ、この地をおさめた。■オモテとウラの「水際の風景」■ 大宇陀の歴史的まちなみを特徴づけるものとして、宇陀川・前川の話をします。 宇陀川はかつて、城下町を護るための「堀」としての役割を担っていました。現在でも宇陀川に架けられた橋を渡ると、町に入った、外へ出た、と強く認識することができます。宇陀川はこのように城下町の名残を示すと同時に、自然を身近に感じさせる魅力ある景色を演出しています。 また、大宇陀の町並みの中には「前川」と呼ばれる水路があります。当初、前川は道の中央を流れていましたが、後に両脇につけかえられたと考えられています。町並みの中にある水路の用途を見てみると、南から北へ流れる前川の場合は生活・防火用水を供給するため、東西方向に走る水路は主に排水処理のため整備されています。(▲赤い色の板が水量調節用。水路はところどころで、カーブし宇陀川へと帰っている。)排水路との立体交差を用いて給水量を調節する場所や、火災時に水をせき止めるために板をはめる溝等、前川には様々な工夫が見られます。町並みを火災から守るため、町の両側に小さな水路がある。昔は、水路は道の真ん中にあったというが、車が通るようになってから両側になった。■ 道の真ん中に水路の流れる長崎県島原市の武家屋敷跡。■宇陀も、こんな感じだったのだろう。▲家の奥に水を引き込んだ家。水は、家の中を流れて、前川に帰る。水路は防火用というだけあって、■防火用水の水槽■が沢山残っている。(明治牛乳率高し。)ここは以前、宿屋をやっていた家なので、水槽の上に石を貼りつけて、自然観を出している。▲「文化」という年号が見える石の防火水槽。▲木製の防火用水槽は、はじめて見た。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.11.20
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リバーサイド沿いに設けられたテラス席。北浜のオフィス街を一望できるロケーション!木を活かした落ち着いた内装の店内。ナチュラルテイストで女性好みのインテリア♪そこで食べる、野菜多めのランチ。女子受けする要素たっぷりのカフェ&ダイニング■NORTHSHORE(ノースショア)・北浜■に友人の誕生日という口実でランチに行ってきた。人気店だけに、ずらりと並んで待つ人の列は、うんざりするが今回は誕生日なので、1時間並んだ。並んでいる時に、「中にしますか?テラス席にしますか?」と聞かれたので、迷わずテラス席にした。川の見えるテラス席は憧れだ。テラス席について、ランチプレートとサンドイッチを注文。待っている間に、ふとみると、一つとなりのビルにポットのかわいい看板!北浜レトロビルヂングだ!!反対側には難波橋(なにわばし)が見える。大阪市中央区北浜~北区西天満の堺筋にかかる、全長189.7m、幅21.8mの橋である。中之島を挟んで土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之島通を分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。橋の四隅に、ライオンの像があるので「ライオン橋」ともいわれる。目の前は、中の島公園の薔薇園で今が盛りと花が咲いている。ランチプレートは、色どりも美しい野菜サラダとキヌア。キヌア(白い丸い皿)は、タンパク質の含有率が他の穀物と較べて多く、その構成は牛乳と似ている。グルテンを含まないため、小麦アレルギーのような対グリアジンアレルギーを持つ人でも摂取でき「21世紀の主要食」と言われている。この店の人気はランチプレートとサンドイッチ。発芽直後の植物の新芽である「スプラウト」と呼ばれる素材を使用したパンが同店の基本のようで、種類も豊富。いずれも分厚いパンに野菜を含む具がたっぷりと挟まれている。「シュリンプエッグサンドイッチ」を食べた。店を出てから、一つ隣の北浜レトロビルヂングを撮る。沢山の人が写真を撮っていた。ライオン橋から見た、「ノースショア」と「北浜レトロビルヂング」。中之島に降りて京阪中之島線のなにわ橋駅前を 薔薇を見ながら通る。途中で橋が沢山あるのでいちいち渡った。一度、ゆっくり橋を見て回りたいと思う。気になる店を見つけては覗き込んでみたり・・・。御堂筋まで来て淀屋橋を渡り、カフェに。2階から川に向かって座ると大阪市役所が見える。帰りは、淀屋橋から天王寺までバスで帰った。友人は、今日、5月28日が誕生日!! ■NORTHSHORE(ノースショア)・北浜■■住所■大阪府大阪市中央区北浜1-1-28 ビルマビル1F ■アクセス■地下鉄「北浜駅」すぐ ■電話番号■06-4707-6668 ■営業時間■カフェ&ブランチ7時~11時/14時~17時、 ランチ11時30分~14時、ディナー17時~22時 ■定休日■月曜日 *2階はテイクアウト専門になっている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.05.28
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5月5日子どもの日に、妹が6歳と4歳の孫(女)を連れて大阪に来た。小さな子どもたちのために、八軒家浜船着場から出ている■水上バス■に乗ることを提案。水上バスの船着き場は、江戸時代、船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになった。京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる船のターミナルとなるなど、淀川舟運の要衝として栄えた。 大坂を出て京都に向かう■上り船■と 京都・伏見から大坂に向かう■下り船■の発着がここ。江戸時代は、今のJR新快速や新幹線と同じように賑わっていたのだろう。大阪城や中之島周辺を約55分でめぐる、大阪観光クルーズ。途中、大阪城港で沢山の人が乗り降りした。大阪城港からは、道頓堀片道約50分のクルーズコースもある。←四月に見た大川。■4月に花見で見た■景色とひと味違う川の景色を楽しんだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.05.21
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4月14日(金)。友人と、大阪市の大川ばたを散策。■大川の毛馬洗い堰■から下流の天満橋まで延長4.2キロの河川敷を利用した河岸公園の右岸には造幣局や泉布観など明治初期を代表する建築物がある。大川の流れに沿った桜並木のプロムナードには、天満橋から桜之宮橋(銀橋)あたりを中心に、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、サトザクラなど約4800本が植えられており、沢山の花見客で賑わう。 その後、お茶のために行ったのは、■五感(ごかん)■。■五感■1022(大正11)年建築。1997(平成9)年、登録有形文化財に指定された北浜の新井ビル。ここに本店を構えるのは洋菓子ブランド「五感 GOKAN」高い吹き抜けの空間は、このビルが銀行や証券会社だった時代を思いおこさせ、上質な雰囲気をかもし出している。かつて執務室だった2階の個室は食事と喫茶ができるサロンとして使われている。建築当初から変わらない階段を上がって見下ろす館内は圧巻。棟方志功のデザインをエッチングで施したガラスがある個室。大正時代の西洋建築ならではの重厚感のある空間の五感。 五感北浜本館 〒541-0042 大阪市中央区今橋2-1-1 新井ビルTel.06-4706-5160[月曜~土曜] 9:30~20:00 [日・祝日]9:30~19:00 (サロンラストオーダー 閉店30分前) 定休日 10月1回・1月1~3日【地下鉄堺筋線】「北浜駅」3番出口より徒歩約3分 【京阪電車】「北浜駅」3番出口より徒歩約3分・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.04.15
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バスで兵庫県丹波篠山へ花見に行ってきた。■篠山城跡(兵庫県篠山)→■大正ロマン館(兵庫県篠山)→■大野ダム(京都・美山町)→■かやぶきの里・美山(京都)の順に回った。雨で寒い日だった。■篠山城跡■篠山城跡のお濠とその周囲に植えられた約1000本のソメイヨシノが一斉に咲き誇る。 4月9日は桜の開花にあわせて「丹波篠山さくらまつり」が開催されていた。 お城後近くにあったのは、大正ロマン館。■大正ロマン館■大正11年11月の上棟式後、翌12年4月から平成4年3月までの約70年間の篠山町役場だった。 平成5年6月3日、重要建築物として「大正ロマン館」として開館した。京都市外にも、当たり前ですが桜の名所が存在します。 京都府南丹市美山町の大野ダム周辺も、その1つです。■大野ダム■は、京都府最初の多目的ダム。 美山町を流れる美山川の下流に建設されています。ダム周辺に公園や散策路が整備され、ダム湖の周りには約1,000本の桜の木や約500本の紅葉の木が植えられています。春には桜が咲き誇り、秋には美しい紅葉が彩る事から、虹の湖とも呼ばれるダム湖です。そんな大野ダムにある公園で、毎年春に桜祭りが開催されます。大野ダムさくらまつりです。■かやぶきの里・美山■美山町内には数多くの茅葺き民家が現存しています。知井地区にある「北」の集落には50戸のうち38棟がかやぶきの屋根です。 伝統的技法による建築物群を含めた歴史的景観の保存度への評価も高く、平成5年(1993年)12月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 1年を通じ、日本の原風景に出会える場所として、美山町を代表する観光スポットとして人気を博しています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2017.04.10
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■キャッツ☆劇団四季■満月が青白く輝く夜、街の片隅のゴミ捨て場。たくさんのジェリクルキャッツたちが、年に一度開かれる"ジェリクル舞踏会"に参加するため集まってきます。人間に飼い馴らされることを拒否して、逆境に負けずしたたかに生き抜き、自らの人生を謳歌する強靭な思想と無限の個性、行動力を持つ猫、それがジェリクルキャッツ。 4月1日、下の娘、レイと劇団四季の「キャッツ」を見てきた。今から20年以上前に見たけれど、久しぶりの「キャッツ」。舞台はもちろん、客席の近くの壁にも、靴や生活用品がいっぱい。それも、大きいサイズ。猫の目から見たら、こんな感じになるのだろう。「キャッツ」は有名なミュージカルだけれど、作曲はアンドルー・ロイド・ウェバー。代表作に『ジーザス・クライスト・スーパースター』『エビータ』『オペラ座の怪人』などがある。1948年3月22日(69歳)というから、私と同じ世代ではないか!! 会場のあちこちから猫が現れるという楽しい演出。Musical (マジカル)猫のダンスは、一流のバレエダンサー、流石、劇団四季。いやー、久しぶりの舞台は楽しかった~♪・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.04.03
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昨年、吉村家住宅という古い家を見てきた。■重要文化財・吉村家住宅■吉村家はかつて、周辺十八ヶ村を管轄する大庄屋を務めた家柄である。 主屋は大坂夏の陣で焼失後、間もなく再建された歴史ある家屋である。その後幾度か増改築が行われ、現在の姿となったのは寛政年間の頃である。屋根の構造に特色があり、急勾配の茅葺と、妻側の両端に一段低くて勾配の低い瓦葺という2種類の屋根で構成されている。これを高塀造りといい、大和から河内にかけて多く見られることから大和棟造りともいう。上層農家の家格を示すものである。吉村家住宅は戦前の1937年(昭和12年)8月25日に、主屋が国の重要文化財に指定された(当時は国宝と称されていた)。民家としては日本で初めてのことであった。その後1965年(昭和40年)5月29日に表門と土蔵、附(つけたり)指定として土塀と中門が、1979年(昭和54年)2月3日に宅地、山林、溜池、附指定として古図2枚がそれぞれ追加指定された。土間に入ると、この写真の天井から下にある四角い箱のようなものが見える。ここは、住み込みの女たちの部屋だそうだ。女たちは、夜には壁についている三本の梯子を登って休むのだそうだ。壁を飾りのように、くり抜いて登りやすく、見た目もアクセントになるようにしているのには感心した。住み込みの男たちは、別の所に、部屋があったが、これも高い所に作られたものだった。「長屋門に寝るのではないんですか?」と聞いてみたら「長屋門は、お客様のお付きの人が泊まってました」と教えてくれた。広い土間から畳の間を見た所。大きな衝立は、もとは、欄間だったそうだ。倉庫の片隅に明治時代の木で出来た「お知らせ」のようなものが残っていた。見ると、「堺県」と書いてあった。このあたりは、堺県だったそうだ。その吉村家住宅の冬の公開が今月ある。■吉村家住宅HP■「吉村家住宅冬の公開」1月14日(土)、15日(日)の2日間。*14日には藤本酒造さん(藤井寺市)の甘酒の振る舞い(11時~)、*15日にはお薄と季節の和菓子のおもてなしをおこないます(13時~15時)。(いずれも先着50名様)。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2017.01.07
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■12月16日、日帰りでバス旅行で、イルミネーションがウリの「なばなの里」に行った。滋賀県米原市にある、■「ローザンベリー多和田」■でバイキングのランチの後、なばなの里へ。「なばなの里」の一角に「ベゴニアガーデン」というのがある。国内最大級のベゴニアガーデン。年中満開の大輪ベゴニアをはじめ、世界各国から集めた数百種・1万2千株の絢爛たる花々を常時栽培・展示。ベゴニアほかにもいろんな植物があった。植物を見ていると「なんで、こんな色をしているの?なんで、こんな形なん?」と思うことがよくある。植物に詳しかったら、もっと楽しいだろうな・・・。いちいち植物に名前を聞きたいくらいだ。 「君の名は?」★フォックスフェイス(ナス科)別名:キツネナスフォックスフェイス=キツネの顔。なるほど・・・。「ベゴニアガーデン」を出て、光のトンネルをくぐって、イルミネーションを見る。北極やアフリカなどが光で現れるが、このイルミネーションが美しいのは、闇があるからだと私は心で思う。幾千の電飾またたく師走の夜(よ) はるな ■なばなの里■・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.12.18
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12月16日、日帰りでバス旅行に参加した。目的地は、イルミネーションがウリの「なばなの里」。その前に、滋賀県米原市にある、「ローザンベリー多和田」でバイキングのランチ。食後、建物の奥にある庭園に。この庭園は、以前にも一度来たことがあるが、本格的ないい庭園だ。■ローザンベリー多和田:庭園■採掘跡地だったこの場所で、ローザンベリー多和田の物語が始まったのは2003年秋のこと。いつか自分の庭を造りたい。長年想い描いた夢は、この地との出会いによりゆっくりと動き出したのです。初めて見た多和田の地は見渡す限り雑草に覆われ、どこに何があるかもわからない状態でした。しかし、多和田という地名も四方を囲む山々も、何十年も前からある立派なヒマラヤスギや桜の木も、全てが魅力的でまるで運命に導かれ庭づくりがはじまったのです。長い間草木に覆われ忘れ去られていたであろう場所を本来の美しい姿に、いいえそれ以上に美しく緑化することを心に決めました。この日は、さすがに、花もなく、さみしい。でも、この風景もいい!今だけのもの。バラ園に行ってみたが、すべて、アースカラーだ。薔薇園の アースカラーは 冬の色 はるな庭師が薔薇の枝を切っていた。春になると新しい枝が出て、そこから花が咲くが今は、眠りの時間だ。切られおり 庭園の薔薇 春を待つ はるな見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮 藤原定家薔薇はなかったが、葉ボタンが、冬の景色に彩りを添えていた。 ■ローザンベリー多和田■■〒521-0081 滋賀県米原市多和田605−10■アクセス:ここ・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.12.17
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11月30日に行った大阪府にある■延命寺■の中をボランティアガイド氏が案内してくれた。お寺の隅っこには、古いお墓が寄せられていた。ここは、いろんな所にあった墓を寄せ集めている所。明治の初めに、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という思想があった。廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。延命寺の隣にあった寺もそのあおりを受け、廃寺となった。そんなことからだろうか、ここに古い墓石がある。 ★幕末の墓明治維新 勤皇志士 上田主殿の墓上田主殿は、時代は違うが■大出世した、浄厳和尚(じょうげんおしょう)■と同じところで生まれたという。彼は若くして、尊王攘夷派の活動をした。彼は、思ったことは口にしないではいられないタイプの人間だったようだ。天誅組(てんちゅうぐみ)の中に入ったが、リーダーの吉村虎太郎と考え方が違いいざ、という時に、皆と同じ行動をとらないと言い出した。そんな勝手なことをされては、士気に影響するとの理由で天辻峠で斬首されている。文久3年(1863年)。しかし、調べてみると、上田主殿の言い分(下)は、もっともなものだ。■天誅組の兵力は膨れ上がったが■烏合の衆に過ぎずその武装は貧弱なものだった。十津川の人々も半ば脅迫されて急きょかき集められた。しかも休息も食事もなく戦闘に参加せられるなど、戦意に乏しかった。あまりの酷さに玉堀為之進や植田主殿ら十津川郷士は指揮官に抗議したが、中山らに憎まれ天辻峠で斬首されている。これを見ると、学生運動の内ゲバのようで、どうもいけない。ウキぺディアでは「植田主殿」となっているが墓石は「上田主殿」。★明治の墓この墓は、上田主殿と一緒に天誅組の兵士となった少年。身内がいなかった彼は、荷役などの労働にいやいや、連れて行かれたという。上田主殿が斬首された時、彼は、一目散に逃げ帰ったそうだ。それが1863年(文久3年)のことだ。その後、村で暮らしていたが、14年後の1877年(明治10年)に■西南戦争■勃発。彼はそこで命尽きた。30歳になるかならずかの、身寄りのない青年を不憫に思って村の人が建てた墓。二人の青年の墓が今も残る延命寺。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.12.03
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■11月30日観心寺■に行った後、近くの延命寺に行った。弘仁年間(平安時代)、弘法大師空海が当地を巡礼された時、この地に薬樹・薬草が多く生えているのを見、また、霊水が湧出しているのを見つけて、真言密教を広める霊地と觀想し、自ら地蔵菩薩を作って、本尊としたのが始まりと言われています。 そののち、延宝5年(江戸時代)浄厳和尚が中興、薬樹山延命寺と号しました。ボランティアガイド氏から、延命寺を建立した浄厳和尚の出世の話を聞いた。■浄厳和尚の生涯がすごい■のでまとめてみた。★寛永16年(1639)生まれ。幼少のころから秀才で母の乳を飲みながら梵字や漢字を覚えた。村人が噂の記録あり。(栴檀は双葉より芳し。)★10歳にして高野山にのぼり、24年間修行した後、寛文12年(1672)村に帰ってきた。(当時、高野山に行くというのは、海外留学みたいなものか?)如晦庵を建て、翌年に浄厳と改名。延宝5年(1677)5月には延命寺を建立。★布教各流派に分かれている真言密教の修行方法を統一しようと勉学と修行に励んだ。それとともに、真言宗の布教にもつとめ近郷の村々を説法して歩いた。近郷だけでなく、尾道(広島県)や四国高松あたりまで出かけ、人々を教化。(すごいエネルギー!!)説法だけでなく、人々の難儀を見て寛文12年に地元で、延宝6年には四国善通寺で雨乞いの祈祷を行って成功。★江戸へ。浄厳の名は江戸にまで知られていた。(電話も新聞もテレビもない時代に、名前が江戸まで知られるというのは、そうとう。)そして多くの民衆だけでなく鬼住村の領主本多忠恒、高松の松平頼重などの諸大名も帰依しました。その大名の中でも将軍綱吉の側用人柳沢吉明は、屋敷内に智宝庵を建てて彼を住まわせました。そして元禄4年(1691)には、柳沢吉明邸を訪れた将軍綱吉に謁見しました。その後、しばしば将軍に進講し将軍から厚い信仰を受け、江戸湯島(東京都文京区)に土地3千500坪、金300両の寄進を受け宝林山霊雲寺を建立。(犬公方と言われた綱吉は、信仰が深かったので、大切にされたのだろう。) 片田舎の身分も高くない家の子どもが、ついには将軍から土地やお金をもらう!!これ以上の出世があるだろうか?!元禄時代の江戸市中で真言宗の高僧として名をはせ、延命寺に帰ることなく元禄15年64才でなくなり、幕府から谷中(東京都台東区池之端にある妙極院の境内)に1千300坪の菩提所をもらい、そこに葬られた。浄厳(じょうげん)和尚は、知に優れていただけでなく、話術にも長けていたのだろう。また、見た目もよかったのではないだろうかと想像する。(写真はすべて、延命寺にて)・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.12.02
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■11月30日■紅葉を見に行った。行き先は■高野山真言宗遺跡本山 檜尾山観心寺。■(長っ!!)観心寺は大阪・奈良・和歌山の三県の境にあり、西暦701年に修験道の開祖・役行者が開創され、 後に弘法大師空海が真言宗の道場とした寺院。境内には弘法大師の筆頭弟子道興大師実恵の墓、 第九十七代後村上天皇の御陵などがある。■南北朝の英雄 楠木正成■の墓もある。楠木 正成(くすのき まさしげ)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、 建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に天皇を助けた。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。討死後、正成の首級が 当寺に送り届けられ、首塚として祀られている。後醍醐天皇は観心寺を厚く信任し、建武新政後(1334年頃)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、 現在の金堂ができた。正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願される。 その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になっているが、境内は 史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。11月30日には、山茶花が散り始めていた。季節外れの桜が咲いていた。この寺は、花も多い。2月に咲く椿3月、梅、椿、雪柳、木蓮。4月、桜・・・。桜が終わると、モミジの新緑も美しいと思う。■南北朝と南朝■鎌倉時代に皇統は後深草系統の持明院統と亀山系統の大覚寺統のふたつに分裂する両統迭立が起こる。両統は皇位を争奪し、鎌倉幕府が仲裁していた。南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。 ■観心寺:アクセス■・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.12.01
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■5月31日■奈良町からくりおもちゃ館■に行った。 奈良町からくりおもちゃ館が所蔵するおもちゃは、奈良大学名誉教授鎌田道隆氏より奈良市に寄贈されたもので、復元されたからくりおもちゃに加え、各地の郷土玩具や、ベーゴマ・だるまおとしなどの昔懐かしいおもちゃ、合計約600点を数えます。 なかでも、からくりおもちゃは200点にのぼり、2ヶ月に1回程度展示替えをしながら、常時30点ほどのおもちゃに触れて遊ぶことができます。 おもちゃが庶民の間に流布するのは江戸時代中期頃からで、江戸時代後期には多くのからくりおもちゃが考案され、売られるようになっています。奈良町からくりおもちゃ館では、それらの様子を描いた浮世絵や絵本、随筆などの絵画資料や文献資料をもとに復元したおもちゃを展示しています。からくりおもちゃには、昔の人々の知恵や工夫、技術やアイデアが溢れています。昔の人は、木や竹や和紙・土・糸などの自然素材を組み合わせて、思いがけない動きをする仕掛けを生み出しています。からくりおもちゃで遊ぶと、きっと驚きや発見がたくさんあることでしょう。 ■鯛つり■いろんな、からくり、仕掛けのあるおもちゃが置いてあった。竹を立てると鯛が紐を移動する「鯛つり」。 上の「頬(ほお)かぶり」は、 舌を出したり白目をむいたり・・・。「江都二色」は、安永2年(1773)に刊行された江戸時代の代表的な玩具絵本。江都は江戸のあて字で、二色は錦のかけ言葉になっていて、美しい本であることを意味している。(略)収禄されている玩具は80種類あまり。それぞれの玩具の色つきの絵と名前、玩具の名前を織り込んだダジャレ、狂歌まであるというからすごい!!影絵遊びも酒の席で、よくやっていたようだ。そのための指南書まで出ていたというから、江戸時代の人は大人も楽しんだことがわかる。この障子を利用して遊んでいたのかもしれない。 からくりおもちゃの製作体験講座は、毎月1回、土曜日または日曜日に開催している。 ■からくりおもちゃ館■■製作体験講座■要予約■休館日■*水曜日、年末年始(12月29~1月3日) (祝日の場合、休館日が変わることもありますので、事前にお問い合わせください) ■駐車場■なし。ならまちセンター前駐車場または、ならまち大通り周辺のコインパーキングをご利用ください。 ・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.06.05
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■5月31日■奈良に行ってブラブラしてきた。■「奈良町からくりおもちゃ館」という所に入ってみた。奈良町からくりおもちゃ館は、奈良町の活性化と奈良市の観光振興に役立ててほしいと奈良市へ寄贈された旧松矢家住宅を活用したものです。 現在、奈良町からくりおもちゃ館となっている場所は、明治期に名声を博した「松利」という料理屋の一部でした。からくりおもちゃが展示されている母屋は、明治23年に「松利」の離れとして建てられたもので、伝統的な奈良町の町家の様式を随所にとどめ、奈良市の都市景観形成建築物等に指定されています。 また、庭の奥には工房棟を新たに設け、製作体験教室や講演会を行ったり、夏休み・春期・秋期・正月など季節ごとにさまざまな遊びが体験できるスペースとして開放しています。 さらに、庭には椿の大木や山茶花、梅、桜、石楠花、紫陽花、萩など、四季折々の花が植えられており、メジロなどの小鳥が集う、落ち着いた空間となっています。 からくりおもちゃ館は、もとご隠居さんの離れとして建てられたものというが、本宅は、どんだけすごいねんと思う。このご隠居さんの趣味は茶の湯。2畳の茶室があったが、狭くて、写真が撮りにくかった。また、部屋の欄間には、なつめ、茶杓、茶碗、ひしゃく・・・などなど茶の湯にまつわる絵が掘りぬかれてあった。からくりおもちゃも楽しかったが、この建物を見るだけでも値打ちがある。 ■からくりおもちゃ館■■休館日■*水曜日、年末年始(12月29~1月3日) (祝日の場合、休館日が変わることもありますので、事前にお問い合わせください) ■駐車場■なし。ならまちセンター前駐車場または、ならまち大通り周辺のコインパーキングをご利用ください。 ・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.06.04
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■5月26日友人と、■さかい利晶(りしょう)の杜(もり)■に行ってきた。堺は、古くから栄えた町で、戦国時代を描いた大河ドラマなどには、必ず出てくる。例えば、本能寺の変のさい、徳川家康は境に来ていて、死にもの狂いで逃げて帰ったという話などは有名。そんな、堺には、有名人が多いが特に有名なのが、千利休と与謝野晶子。そのふたりの名前の一文字をとって「さかい利晶(りしょう)の杜(もり)」は、一年前に作られた。今回は、千利休を中心に見た。利休が作った四畳の茶室の模倣の写真。写真の床の間の軸は書。利休は、絵より書を好んで掛けたそうだ。また写真の右の明かり取りは、書が読めるようにという配慮。床柱は、木の形を生かしている。天井の、黒く見えるのは葦?それを細めの竹で押さえている。千利休茶の湯館・与謝野晶子記念館・三千家家元が命名した茶室など、利晶の杜館内を観光ボランティアの解説付きで案内してもらった。ツアー参加費は無料。 抹茶をいただいた後、さかい利晶(りしょう)の杜(もり)のすぐ横にある利休の家跡に行った。かつては、千坪あったという利休の屋敷も今では、60坪になっている。一緒に行った友人は、堺生まれの堺育ち。かつては、堺の浜辺に進駐軍がいて、大きな邸宅は、彼らの居住地になっていたなど昔の様子。利晶の杜は前は、市民病院だったこと、与謝野晶子の実家を見たこと、などいろいろ教えてくれて楽しかった。「児島屋のけし餅は有名よ」と教えてくれたので、お土産に買った。■けし餅■けしの実は、室町時代インドよりもたらされたと言われ、江戸時代初期より、大阪、堺、和歌山周辺で盛んに栽培されるようになりました。このけしの実を、小豆のこしあんを餅皮で包んだものにまぶし出来上がったものが「けし餅」です。 延宝年間において本邦最初の珍菓として登場して以来、各界名士のご愛顧はもとより全国菓子博覧会における幾多の賞碑の受賞等、全国的に名声を博し、現在に至っております。 ついでに、「竹水」とうお菓子も。300年以上続くのに、普通にあるのが堺のまちの歴史を物語っているようでいい。 ■大阪:さかい利晶(りしょう)の杜(もり)■■堺名産消し餅本舗:小島屋■チンチン電車という方が通りがいい阪堺電車に乗って行った。両方ともそのチンチン電車の「宿院」駅下車すぐ。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.05.29
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■喫茶店全盛期■昭和40年代~50年代。このカフェストリートには、エトワール、スワン、モンテカルロ、 モンシェリー、モカ、森の詩、黄昏、ブルーメ…など多くの喫茶店がありました。 現在のように携帯電話のない当時の人々にとって、喫茶店は待ち合わせやデートコースに使われ、 この通りに面する南街会館(現なんばマルイ、TOHOシネマズ)での映画の待ち時間などには欠かせないスポットでした。 そこには人々が集まり、いつも会話があふれていました。 映画と映画の間に、ふと映画館の裏通りに足を踏み入れた。この映画館には何年も通っているし、映画館のあるビルの真裏なのに、はじめて。かつては、喫茶店で賑わっていたこの路地をなんとか復活出来ないかと道路も石畳にし、電線を地中に埋め、この通りを「カフェストリート」と命名。 仕掛け人は「夜のカフェテラス」という絵をイメージしたそうだ。時間がなかったから外から見ただけだが、どの店も「カフェ」のおしゃれなイメージはなかった。「カフェストリート」というなら、通りの店が競って、外観もきれいにし、カップやランチもカフェ風にしてもらいたい。いっそ、「喫茶店横丁」という通りの名前に変えるのもありだと思った。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.05.27
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■退職したらやりたいこという記事■を書いたのは、去年の8月。その中に「ブラタモリ!」をするというのがあった。NHKの「ブラタモリ」は大好きな番組で、欠かさず見ている。まあ、タモリのように知識もないし、ガイドもないから、もっぱら、町歩きのグループに参加したり、旅行中に、ガイドさんに案内してもらうくらい。桜の花は、とっくの昔に終わったのに、桜の写真からで申し訳ない。m(_ _"m)家からそんなに遠くない所に「大津神社」という桜の美しい所がある。ここなら、体調が悪くても行けると行ったのが、4月のはじめの桜の満開の頃。境内の桜を見たり、椿を見たりしていたら、「あれ???」木の回りに囲いのある不思議な木!!!近づいてみたら、なんと、神社の境内よりも随分と深いところから生えている!!神社の横の道を見ると道の左側、白い家の所から急に傾斜がきつくなっている。境内の例の木が生えているのは、その辺りだろうか。そして、こうなる。神社の境内の土地と下の土地の高低差は、2メートル以上ある。この神社の歴史は古く、平安時代以前から、あったそうだ。平安時代には、ここに運河が通っていたという。「ロマンやな~」と一人でぶらぶら歩いて感心した。■大津神社HP■当大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇(八八五~九三〇)の御代に編纂された「延喜式」に「大津神社」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていました。 応神天皇(四~五世紀はじめ)に、文字をはじめ各種の大陸文化が朝鮮半島を経由して我国に伝来した際、当河内地方は難波の港と大和を結ぶ要路であったことから渡来人が土着しました。荒地を開拓し産業を興して、遂に河内文化の繁栄を見るに至りました。 当時この地方には、百済貴須王の子孫といわれる「葛井(ふじい)氏、船氏、津氏」の三氏が勢力を張っていました。この三氏のうち津氏一族がこの地を卜して「大宮山」と称し、自分達の守護神を奉斎したことが「大津神社」の発祥だろうと云うのが古来からの定説で在ります。このように大津神社は津氏一族の守護神として創祀されましたが津氏一族が朝廷に召されれて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏姓制度が衰退していくと、中世以降には、大津神社はこの地方九ケ村の人々の「氏神」として受け継がれ、「河内の大宮」と称えられました・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.05.24
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3月9日、■司馬遼太郎記念館■に行ってきた。1996年(平成8年)2月12日、72歳で亡くなった。菜の花の咲きはじめる頃に亡くなったからか、 「菜の花の沖」という作品があるからか「菜の花忌」と呼ばれているのかと思ったら生前好きだった菜の花が好きだったからだそうだ。私たちが行った日は、町中、菜の花が満開。町をあげて、菜の花作りに協力しているのだそうだ。門には司馬の手で「司馬遼太郎(福田)」とある。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。司馬遼太郎の祖父・福田惣八が明治維新をむかえたのは18か19のときだった。“百姓にも姓がつくそうな。”ということになり、当時村にいた惣八の一族たちは会合して申しあわせ、三木という姓にすることにした。先祖が三木籠城(ろうじょう)したということでそうなったというのだが、そのころ惣八は親類中と喧嘩をしていて、親類の者から「おまえだけは別の姓にしろ」といわれたから福田になったのだそうだ。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ているという。執筆していた自宅は残念ながら入れないが、ガラス越しに見える。雑木林風の庭を見ながら執筆していたそうだ。司馬遼太郎記念館の内部の写真は、撮れないが、膨大な本が囲んでいる。■資料集めへの執念はすさまじく■一度に何千万円単位という巨費を投じて買い集めた。司馬が資料を集め始めると、関連する古書が業界から払底したという逸話があった。当初は、軽トラックで乗り込み、古本屋に乗り込むや否や手当たり次第に乱読購入し、関係者らと荷台に乗せていったという。『坂の上の雲』執筆に際しては、神田神保町の神田古書店街の古書店主らに依頼し、「日露戦争」という記述のある本を片っ端から買い集め、当時同じ題材の戯曲を書いていた井上ひさしが古書店に行っても資料がなかったという逸話も残る。こんなに、持っていても読まないのでは?と思いきや、速読家でコーヒー一杯飲む間に、文庫本一冊ぐらいを読んんでいたという。 今、■100分de名著■という番組が司馬遼太郎特集をやっている。その中で「花神」の主人公、大村益次郎という人がいるが、死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であったそうだ。■100分de名著:司馬遼太郎特集■「ほかに類をみない豊かな多様性」「民衆の隅々まで行き渡った公の精神」「目先の利害にとらわれないリーダーたちの無私な高潔性」……今や失われようとしている、日本という国が元々もっていた美質。私たちが見過ごしてきた日本という国の豊かさ、日本人の精神性の深さを瑞々しい言葉で作品に描き出してきた作家・司馬遼太郎(1923-1996)。彼が亡くなってから2016年でちょうど20年になります。そこで「100分de名著」では、卓越した日本人論としても読み解ける司馬作品を通して、「日本とは何か?」や「歴史における人間の役割とは何か?」をあらためて見つめなおしたいと思います。 第1回 「戦国」から読み解く変革力 ~「国盗り物語」を中心に~ 第2回 「幕末」に学ぶリーダーの条件 ~「花神」を中心に~第3回 「明治」という名の理想 ~「『明治』という国家」を中心に~第4回 「鬼胎の時代」の謎 ~「この国のかたち」を中心に~■おしゃれ手紙・街道をゆく■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.03.10
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◎路地を入れば、至福のおもてなし。◎昭和町。この町には永く息づく寺西家阿倍野長屋が現存します。 日本の古きよき時代を感じさせるこの長屋に、キッチンバー「昆」、旬彩「旨魯」、創作中華「AKA」はあります。 訪れるたびに新鮮な発見と美味しい感動に出会い、和んでいただける場所でありたいと思っています。◎◎◎2月22日(月)、妹と、創作中華「AKA」に行ってきた。■ここは、以前にも行ったことがある。■大阪・昭和町のチャイニーズレストラン。味覚と視覚のデュエット 創作中国料理「AKA」AKAは伝統的中国料理の広東料理と和食とのボーダレス料理を追及します。エスニックな空間イメージをひきしめる赤と黒の色彩のコントラストのインテリア。登録有形文化財でもある「AKA」。 AKAは歴史ある建築物の中に存在します。(文化財登録有形文化財 27-0268号・第26回大阪都市景観建築賞 大阪市長賞) 築80年の長屋が転生し、癒しの空間として親しまれています。マンションに改装される寸前に、「一軒でもいいから残してほしい」という建築家との出会いをきっかけに生き返りました。■長屋レストラン「キッチンバー混」■もいい感じだし、古民家を守るためには、こんなふうなお店にするのが一番いいと思う。 ■大阪・昭和町のチャイニーズレストラン AKA■■住所■〒545-0021 大阪市阿倍野区阪南町1丁目50-8■電話■ TEL/FAX 06-6623-8011■営業時間■Lunch / 11:30~14:00 Dinner / 17:30~23:00(LO 22:00)■定休日 /■なし(臨時でお休みを頂く場合がございます) ■アクセス■地下鉄御堂筋線「昭和町駅」4番出口すぐ・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.02.23
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大阪・道頓堀のグリコの看板のすぐ近くに大阪松竹座がある。ここで上演される、「松竹新喜劇」を見に行ったことがあるが、先日も■映画■を見る前に、芝居見物をした。■大阪松竹座■テラコッタを使用したネオルネッサンス様式の正面大玄関の特徴あるアーチを持つ劇場建築は1923年(大正12年)に竣工する。イタリア・ミラノのスカラ座をモデルに、大林組の設計技師・木村得三郎が設計した日本初の鉄骨・鉄筋コンクリートの映画館であり、大阪初の洋式劇場として、同年5月17日に開場した。1994年(平成6年)5月8日に映画館としての役割を終え、劇場へ改装するため閉館。最後の上映作品は『風と共に去りぬ』であった。1997年(平成9年)2月に、外観を残しつつ最新設備を備えた劇場として新築開場。松竹制作の歌舞伎・新劇・松竹新喜劇を中心に、歌劇、ミュージカル、コンサート等も上演されている。 「大大阪モダン建築」によると、設計は、京都先斗町歌舞練場を手掛けた木村得三郎。大阪が「大大阪」と言われていた華やかな時代の建物だけに、映画館だったとはいえ豪華だ。ここは、かつて、「道頓堀に咲いたキネマ旋風の拠点」だったと「大大阪モダン建築」いう。今回の演目は桂 米朝 追善芝居で■「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」。■突然死した4人が地獄めぐりをする話。3代目桂米朝の追善として、2016年2月に『桂 米朝 追善芝居 地獄八景亡者戯』と題して大阪松竹座で芝居化される、キャストは米朝一門の2代目桂ざこば、3代目桂南光、三林京子を含めた一門総出演、一門以外から桜花昇ぼる、ISSA(DA PUMP)らが出演、脚本は米朝と親交のあった落語作家の小佐田定雄、演出をわらび座の齋藤雅文。落語では、『六道の辻には地獄の目抜き通り「冥途筋」が走り、芝居小屋や寄席が軒を連ねている。御堂筋のもじりであり、わざとどちらにも聞こえるように発音するのがミソで、「ずーっと行くと突き当たりが高島屋と南海電車か」と御堂筋の地理などを出して「そりゃ御堂筋や」。』という場面もあるとか。 ■大阪松竹座■住所: 〒542-0071大阪府大阪市中央区 道頓堀1丁目9-19電話: 06-6214-2211・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.02.13
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■2015.11.21(土)■比叡山から坂本ケーブルで■坂本に降りるともう日が暮れていた。坂本にある■日吉大社■は滋賀県屈指のもみじの名所だとか・・・。しかし、紅葉には遅かった。その代わり、境内の中で「大津絵展」をやっていたので、見たがこれがよかった。■大津絵(おおつえ)とは、■滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。江戸時代には、当時は「東の浮世絵、西の大津絵」と二大民画と流行しました。現在は絶滅の危機に瀕しています。松尾芭蕉の俳句「大津絵の筆のはじめは何佛」には、仏画が多かった初期の大津絵の特徴が表れている。また、江戸時代初期のキリシタン弾圧に際して「自分は仏教徒である」という隠れ蓑的役割も有していたと言われる。江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って減少し、現在では百余種とされる。<鬼の念仏:夜泣き止め、魔除け>神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられている。多くの絵画・道歌には、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されている。その画題によって厄よけや無病安全など庶民の願いが込められ、 旅のみやげものとして持ち帰った大津絵はふすまや柱、障子に貼ったと云われています。江戸庶民が、貧しいながら、旅の記念に買い、家に飾ったという話は、ほほえましい。ほどなく、日吉神社は、闇につつまれた。足元を照らすのは、様々な大津絵の灯り。今は、知る人も少ない大津絵。なんとものびやかな筆の大津絵がこれからも、残ってほしいと思う。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆■大津絵の画像■■大津絵■藤娘:良縁を得る鬼三味線:商売繁盛長頭翁:福徳長寿鷹匠:五穀豊穣槍持ち奴:などいろいろな、願いやお守りの意味もある。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.11.22
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■2015.11.21(土)紅葉を見に、日帰りバスツアーで比叡山に行ってきた。上りはバスだったが、降りは、琵琶湖の近くの町・坂本まで「坂本ケーブル」に乗った。■坂本ケーブルとは■比叡山鉄道、比叡山鉄道線(ひえいざんてつどうせん)は、滋賀県大津市のケーブル坂本駅からケーブル延暦寺駅に至る比叡山鉄道のケーブルカー路線である。坂本ケーブルと呼ばれている。ケーブル延暦寺駅を見て、いいなと思ったら、1927年の開業以来の建物で1997年に国の登録有形文化財に登録された。内部にも1920年代風の飾りがある。(略)比叡山延暦寺への参詣、避暑などの観光目的に1919年(大正8年)には地元「大津電気軌道(現・京阪石山坂本線)」や京都・大阪の有力者が中心とした比叡山鋼索鉄道株式会社・叡山電気株式会社が施設を出願し競合していたが、1922年(大正11年)11月に「比叡登山鉄道株式会社」として3社が合同して出願し、1924年(大正13年)4月鉄道免許状が下付され10月に会社が創立された。この時の条件が素晴らしい!!建設にあたり延暦寺からは土地は売却せず線路や駅舎用地は貸与する。山上駅は寺の浄域から離れたところとし線路は遠くから見えないようにする。貸した土地に茶店等を設ける時は寺の許可とし茶店での宿泊はさせない。という条件がつけられた。厳かな比叡山のムードを壊さないようにという寺の心づかいが素晴らしい!それに比べ、世界遺産になっている京都の下鴨神社は、境内の一部にマンションを建てるという。嘆かわしことだ。■えっ!世界遺産下鴨神社にマンション建設!?■世界遺産地域に倉庫も建設!? ユネスコ世界遺産の「古都京都の文化財」のひとつである下鴨神社の倉庫を壊してマンションが建設されることに。さらに世界遺産地域につぶした倉庫の代わりの倉庫を建設予定だとか。。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.11.21
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■キッチンバー 混(こん)■地下鉄・御堂筋線・昭和町駅から徒歩1分。歴史と今が融合した重要文化財の長屋で味わう、美味しいワインとヌーベルイタリアン「あべのハルカス」で話題の大阪阿倍野区にある【キッチンバー混】は、国の登録有形文化財「寺西家阿倍野長屋」の一画にある上質なイタリアンが味わえるお店。宮大工の手で改修された築80年木造2階建ての建物は、素朴な木の外壁が風情ある外観です。むろん店内も期待を裏切らない趣きある和空間となっており、そこでいただくお料理はヌーベルイタリアンともよべる繊細かつ本格的なもの。歴史ある和の佇まいとも絶妙にマッチして、特別な味わいに浸れます。 キッチンバー混に行ってきた。この店・混はイタリアン料理だが、中華・「AKA」、和食(しろ)がある。ってどこぞの国の国旗みたい。国旗といえば、暖簾の上の方に、イタリアの国旗の色が見えるが、あれは電灯カバーだろうか?今度、確かめてみよう。この他にも焼き肉屋さんもある、ランチは、3種類あって、お腹と、財布に相談して食べられる。 この長屋は、危うく取り壊され、味気ないマンションになるところだった。マンションの方が儲かると思うだろうが、さにあらず。マンションを建てようとすると、まず更地にしなければならない。そして建物の費用・・・。今、この長屋の持ち主は、マンションにしなくてよかったとHPに書いている。見慣れた景色がなくなるのは寂しい。今、この建物は、重要文化財に登録されている。あべのハルカスには全く興味がないが、このように古い建物をリノベーションしたお店は、行ってみたい。街の建物は、皆のものと考え、古い建物が、このように生まれ変わるといいなと思う。■寺西家 阿倍野(あべの) 長屋・町家へようこそ・・・■■長屋を再生してよかったこと■1.寿命ある建物を壊して、ゴミにしてしまわなかったこと。 •日本の建物の寿命は30年といわれているが、100年、200年保つ木造建築があり、地球環境にもやさしい選択でことであったこと。2.すばらしい人との和のつながりが、できたこと。 •建物を寿命まで生かそうとする建築家、宮大工にめぐり合えたこと •かつての恩師や友人などが訪ねてくれるようになったこと •店子と家主、店子同士、近隣の人達との和のつながりができたこと。 ■キッチンバー 混(こん)■■アクセス■大阪市営地下鉄「昭和町駅」4番出口から徒歩1分。昭和ビルのある交差点を左折し、左手です。 ■営業時間■ランチ 11:30~15:00 (L.O.14:00) ディナー 18:00~23:00 (L.O.22:00) Bar 18:00~02:00 ・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.09.22
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「クウネル」という雑誌を見て、即買ったのは今から4~5年前。なんともいえない雰囲気の窓辺は、「TRUCK(とらっく)」という家具屋さんのオーナーの家。「TRUCK」はもっと前、大阪市・玉造にある時から気になっていた。友人と一緒に行こうと言っていたが、せっかちな私は、ひとりで見に行った。定休日だった。_| ̄|○そうこうしている間に、玉造から離れた旭区に引っ越し。行きたいと思いながら、機を逃してしまった。今や、TRUCKの人気は全国区。先日も、オーナー夫妻がテレビに出ていた。以後、遠くに引っ越して、機を逃してしまったが、5月5日、娘と孫と一緒に行って来た。 広い敷地に建つ「TRUCK」は、1階が家具工房、2階、3階がショップ。横に、オーナーの家がある。鬱蒼と茂る木々は、ここの店を作ろうと思った時に、夫婦で山に行って木を見て、1年がかりで選んだそうだ。2階、3階のショップは、日本とは思えないような窓。なんでも、消防との攻防の末とりつけた窓だというだけに、雰囲気がある。その雰囲気のある部屋に負けないほど、素敵なTRUCKの家具が並んでいる。ため息をつきながら、見て回り、道を隔てた、カフェ「バード」に。ここも、TRUCKの経営。 TRUCKを始めた頃からずっと作りたいと考えていた、お客さまにゆっくりとくつろいでもらえる場所。 以前から仲良しの料理家ケンタロウと自分達がうれしいと思える料理を一緒に考えました。テーブルやチェアはもちろんTRUCKの家具。食事をしながら実際に座って試してみてください。 昼にはボリューム満点のランチ。おやつの時間には揚げたてのドーナツとコーヒー、紅茶。 「バード」でゆっくりして、また、2階と3階を見て回る。娘は、真っ黒いバケツを買った。鉢カバーにするのだそうだ。「TRUCK」は、美術館のような、ため息の家具屋さん!! ■TRUCK(とらっく)■ 大きな木の下で。「TRUCK」のあたらしい居場所づくりシンプルで温かみがあり、ひとつあるだけで部屋の景色を変えてしまうような力のある「TRUCK FURNITURE」の家具。作っている黄瀬徳彦さん、唐津裕美さん夫妻のライフスタイルにも、多くのファンがいます。本書では、彼らが敷地を見つけ、ショップ、倉庫、自宅、料理家のケンタロウさんと一緒にメニューを考えたカフェ「Bird」と「あたらしい居場所(NEST)」をまさに手作りしていく過程を、豊富な写真とともに追いました。大家族(夫婦と子供、犬5匹、猫8匹)が、大きな木に囲まれて、気持ちよく暮らし、家具を作る。ぜひリビングに置いて、何度もページをめくってほしい1冊です。(本文はすべて日本語・英語併記)●NESTの意味をもう一度深く考えた旅のこと●どんなところが自分らしいNESTなのかを考える●何もないところから、NESTのカタチをイメージ。●家具もNESTも、見えないところこそ大切にする●細部の細部まで『うれしい感じ』にこだわる●TRUCKオープン。NESTが開かれた日●そして、新しいNESTでの暮らしとじ込み(1)TRUCK WORKS 1997-2011(2)BIRD PAPER【内容情報】(「BOOK」データベースより) 家具を作る時、いつも考えてきたこと。自分が嬉しいもの。欲しいもの。使いたいもの。なんてことないもの。奇をてらうのでなく普通に使えるもの。元々そこにあったように思えるもの。作るものが大きな建物になっても多分同じこと。そうとしか思えない。新しい場所を作る。その9年間の記録と、考えてきたこと。【目次】(「BOOK」データベースより)オーストラリア・ヌーサへ/NEST/ABOUT TRUCK/僕のこと/私のこと/土地探し/旭区新森/家と店を考える/着工から上棟/樹を考える〔ほか〕・・・・・・・・・・・・
2015.05.08
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先月、友人と新梅田シティに行った。私は、映画を見るために月に1回くらいは行っているが、映画なしは始めて。■新梅田シティ(しんうめだシティ)は、■大阪市北区大淀中にある梅田スカイビル、ウェスティンホテル大阪を中心とする複合施設。1993年春に完成した。「梅田スカイビル」は、地上40階・地下2階、高さ約173mの超高層ビルである。設計は原広司。その独特の形状により、大阪のランドマーク的な観光名所の一つとなっている。イギリスの出版社ドーリング・キンダースリー(英語版)が選ぶ「TOP 20 BUILDINGS AROUND THE WORLD」の一つに、アテネのパルテノン神殿、ローマのコロッセオ、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂、バルセロナのサグラダ・ファミリアといった歴史的建造物と共に選出されるなど、世界的にも有名な建築物である。観光地としても人気があるが、訪れる者の3割を外国人が占めるとされる。外国では、21世紀の凱旋門と言われているとかいないとか。 食事は、地下一階のレトロ食堂街「滝見小路(たきみこうじ)」でとった。「滝見小路」は、大正ロマンの流れを汲みながら、激動の時代を乗り越え、高度成長期をささえた「昭和」。そして毎日毎日新しくなっていく、そんな昭和の街並みを再現しているのが、ここ「滝見小路」。どこか懐かしく、どこか新しく・・・。「滝見小路」の中には、共同井戸、ビクターレコードのトレードマークの犬、ミゼット(車)、古い映画のチラシが貼られていたりと楽しい。もちろん、飲食店の構えも「昭和」。新梅田シティのオススメは、建物より、建物を囲む空間。■新梅田シティは、自然の共存をテーマ■に開発され、敷地の南側には鎮守の森とも言うべき「中自然の森」を、北側には四季の花が咲き乱れる「花野」という外部空間を持っています。この8000平方メートルにも及ぶ広大な「花野」に誕生したのが「新・里山」です。日本人の原風景である里山を都心のど真ん中に再現し、雑木林や棚田、畑などを配しています。ここで人間はもちろんのこと野鳥、昆虫や植物など、いろいろな生き物が関わりを持ちながらともに成長し、都市環境と自然の融和を目指します。また、この里山では環境に配慮した、剪定除草ゴミの場内での堆肥化や、や、無農薬(一部は減農薬)有機植栽管理を実践していきます。皆さんも野鳥や昆虫が訪れる「新・里山」を是非とも訪れてみてください。 今回、発見があった。「新・里山」の隅にあるカフェ。ここからの景色が抜群!!帰りに、観光バスが3台止まっていた。スカイビルからの夕日を見るのだろうか?・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.02.01
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