全106件 (106件中 1-50件目)
●生国魂(いくたま)さんから●生国魂(いくたま)さんから いちびりが日本橋へ *にんにゃかし*1三休橋で散在し心斎橋筋 しぶちんし高津(こぉず)へ戻って *ごちょォならべ*2路地(ろぉじ)で拝む六地蔵なんば とんぼり なにわ寄席 橋筋(はっすじ)ひやかし *半助*3買(こう)て久左衛門町で*九人歩き*4十より百より せんねん町まんまく張って おさめまひょ「大阪ことばあそびうた」島田陽子*にんにゃかし*1賑やかし。大阪の言葉には、こういう言い方がある。例えば、なにわ橋=なんにゃ橋*ごちょォならべ*2五目並べ。この言葉は、私もはじめて知った。■*半助*3■『半助』とはうなぎの頭。関西ではうなぎの頭のことを『半助』と呼びます。関東では捨ててしまううなぎの頭ですが、関西では頭がついたまま焼くので、頭の部分からもダシが出るためまとめて売っていました。うなぎ全部を売り物にするあたりはさすが商人の町ですね。 *九人歩き*4千鳥足。あっちへ寄ったり(四人(よったり))、こっちへ寄ったり(四人(4人))本人を入れて九人歩き。シャレ言葉、白犬のおいど:面白い(尾も白い)のような言い方。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.28
コメント(0)
●大坂の水屋の水には、値に上下があったといわれる。淀川の中流まで「水船」で漕ぎのぼってきれいな瀬で汲む水は高いが、ふつうは都市の流れる下流での水汲場で「水屋」が汲んで売った。 各家庭では、それを、越前焼かなにかの大きな水甕(みずがめ)にたくわえるのである。「水汲場」というのは、ほぼ決まっていた。明治20年ごろの資料でいうと、淀川下流では、もっともさかんなのは天満橋の橋からすこし上流、次いで源八渡(げんぱちわたし)のやや上流、中津川では、嬉ケ崎の上流であった。「水屋」は水船をそこまで持って行って汲み、そのあと、それぞれ株のゆになっている河岸まで漕ぎよせ、そこから人夫が水桶をかついで売りにゆくのである。 いちいち呼び売りしなくても、水甕の水が少なくなっている家々では、軒先に「水」と書いた木札をつるしておくために、売る方も買う方も手間が要らなかった。水の値段は、一荷(いっか)あたり一銭五厘ぐらいだったという。 大阪の町に住む者は、水を買わなければならないというのは、「あきない世伝金」で知った。■幸(さち)の奉公先は天満の天満堀川近くにある。■★この界隈(あたり=天満)の井戸水は金気が強く、飲み水に適さない。料理や飲み水に使うものは、毛馬あたりで汲まれた大川の水を水売りから買わねばならなかった。幸は「みず」と書かれた木の札を表口の格子戸に下げに行く。この札を見て、水売りが水を運んでくれるのだ。この辺りは水に苦労をしたというが、町並みは綺麗だったそうだ。★商家の純白の漆喰壁、磨かれて艶やかな格子、風に翻る色鮮やかな長暖簾、それに灰色の瓦屋根。それぞれが秋の陽射しに映えて眩い。天満に足を踏み入れた時、幸は町並みの美しさに怯んだ。 水の日(みずのひ)は、水資源の有限性、水の貴重さ及び水資源開発の重要性について国民の関心を高め、理解を深めるための日本の記念日。毎年8月1日。1977年(昭和52年)5月31日の閣議了解により水の週間と合わせて定められた。年間を通じて水の使用量が多く、水について関心が高まる8月の初日に設定された。その後、水循環基本法(平成二十六年法律第十六号)第10条により定められた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.08.01
コメント(0)
●中之島橋づくし●島田陽子川の中の島 中之島大川分けた 剣先の東の端から西の端まで走ってわたろ天満の重ね橋見て渡ろ天神橋長いな落ちたら怖いな難波橋えらいなおっきなライオン番してる天神祭りはじまるデ矛(ほこ)流し橋で矛流しはる水晶橋高いな石段登らな渡られへん栴檀(せんだん)の木橋 大江橋近松サンが書いてはる水上バスきれいやな淀屋橋から乗りたいな高速道路に囲まれた肥後橋 渡辺橋 錦橋阪大病院古いな筑前橋から田蓑橋*歩きである*な とおいいな玉江橋からじょうあん橋越中橋は自動車道愛想ないけど便利やな堂島大橋 土佐堀橋二つの川がよびおうて塩の香りがしてきたらほたてくら橋 船津橋中之島もおしまいや堂島川 土佐堀川一つになって 安治川で真赤な夕日 浴びている川の中の島 中之島上から下へ橋の数なんぼ走って渡ろはしばし渡ろ*歩きである*歩く量がたっぷりあること。沢山のものを手に入れた時、「こんだけあったら、使いであるなぁ」という風に使う。■島田 陽子(しまだ ようこ■、1929年6月7日 - 2011年4月18日は、日本の詩人。東京府出身であるが、11歳から大阪府に在住した。豊中高等女学校(現大阪府立桜塚高等学校)卒業。「文章倶楽部」などで小説を書いた後、1960年頃から童謡や児童詩の創作を始める。大阪弁を使った親しみやすい作風の詩で知られる。1981年、日本童謡賞受賞。また、合唱曲や歌謡曲などの作詞も多数あり、ザ・ワイルドワンズのヒット曲『花のヤングタウン』、1970年の大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」の作詞も行っている。2011年4月18日、すい臓がんのため大阪府豊中市の病院で死去した。81歳没。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.05.18
コメント(0)
●かわりばし●橋のはじめの丸木橋土橋 吊り橋 舟の橋人橋 跳ね橋 流れ橋(▲滋賀県・近江八幡にある舟橋)八百八橋のその中で今は無い橋 かわり橋安治川橋は磁石橋船を通して一まわり二つの橋が繋がった直違橋は撞木(しゅもく)橋四橋四つも消えたけど陸のかけはし阿部野橋心斎橋も道の上怖い反り橋住吉(すみよっ)さんライオン吠えるなにわ橋二階建ての橋天満橋鯨の骨の鯨橋光る橋なら銀橋と探せばあるある 橋めぐり「大阪ことばあそびうた」島田陽子大阪は八百八橋といわれたまち。川の埋め立てで減っているけれど、調べてみると橋の名前に歴史があって面白い。■島田 陽子(しまだ ようこ■1929年6月7日 - 2011年4月18日は、日本の詩人。東京府出身であるが、11歳から大阪府に在住した。豊中高等女学校(現大阪府立桜塚高等学校)卒業。「文章倶楽部」などで小説を書いた後、1960年頃から童謡や児童詩の創作を始める。大阪弁を使った親しみやすい作風の詩で知られる。1981年、日本童謡賞受賞。また、合唱曲や歌謡曲などの作詞も多数あり、ザ・ワイルドワンズのヒット曲『花のヤングタウン』、1970年の大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」の作詞も行っている。日本文藝家協会、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、日本童謡協会、詩と音楽の会、関西詩人協会会員。日本現代詩歌文学館評議員。1993年には、第28回大阪市民表彰(文化功労)を受賞。また、2003年まで帝塚山学院大学で講師を務めた。2011年4月18日、すい臓がんのため大阪府豊中市の病院で死去した。81歳没。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.05.08
コメント(0)
長堀川と西横堀川が交差する地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋の総称である。○上繋橋(かみつなぎばし) :西横堀川に架かる北の橋。○下繋橋(しもつなぎばし): 西横堀川に架かる南の橋。もとここは、東西に流れる長堀川。南北に流れる西横堀川が交叉していた場所であった。 東に設けられていた橋を炭屋端、西を吉野屋橋、南を下繋橋、北を上繋橋と言い、合わせてこれを四ツ橋と言った。このあたりは大阪の中心部で、十字の川面を行き交う船や橋上の往来も激しく、納涼や観月にも適していたので、古来より有名であった。四ツ橋は、かつてより都心部の中にあって開けた貴重な部分であったので、よく散歩コースとして市民に親しまれ、また、大阪の名所として観光名所の写真や絵はがきにも多く用いられた。 すゞしさに四橋をよつわたりけり 小西来山 後の月 入て貌よし 星の空 上島鬼貫★炭屋橋(以降、通称西長堀川)長堀川に架かる東の橋。島之内西端の旧町名「炭屋町」に由来する。江戸時代前期の橋の長さは40.6メートルで、1881年(明治14年)の記録では約35メートル。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★吉野屋橋西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」長堀川に架かる西の橋。北堀江東端の旧町名「吉野屋町」に由来する。江戸時代前期の橋の長さは42.4メートルで、1854年(嘉永7年)の橋の番付表では約3メートル短くなっており、1881年(明治14年)の記録でも40メートル弱である。1924年(大正13年)の更正第一次都市計画事業に基づき、1927年(昭和2年)12月に上繋橋、1928年(昭和3年)2月に下繋橋と炭屋橋、同年11月に吉野屋橋が架け替えられた。それぞれ全長25-34メートル、幅は上繋橋が27.4メートルであるほかは約9メートルのアーチ橋で、アーチ橋としたのは河川舟運を考慮したものと考えられる。大阪市電を歌った「大阪市街電車唱歌」の5番には「新町過ぎて四橋の 風景一目に見え渡る 線路もここは交差点 水は十字に流れたり」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲上繋橋▼東横堀川に架かっていた。しかし、太平洋戦争後の高度成長期になると自動車の交通量が急増し、道路拡張のため、1964年(昭和39年)、西横堀川の埋め立てにより上繋橋と下繋橋は撤去され、1970年(昭和45年)には、長堀川の埋め立てにより炭屋橋と吉野屋橋も撤去された。▲下繋橋▼東横堀川に架かっていた。▲下繋橋:東横堀川に架かっていた。▲この通り(長堀通り)が元は川だった。▼(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■長堀川跡を歩く■■1.安綿橋■■2.板屋橋■■3.長堀橋(公儀橋)■■4藤中橋■■5中橋■■6三休橋■■7心斎橋■■8新橋■■9佐野屋橋■●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.04.18
コメント(0)
佐野屋橋は、一説によると幕末の豪商佐野屋弥平が架けたといわれる。(場所は御堂筋の隣の筋)しかし明暦3年(1657)刊の地図「新板大坂之図」にすでに同名の橋が見え、元禄年間(1688~1704)の記録によれば、橋長17間半7寸5分(約32メートル)、幅員1間半2寸5分(約2.8メートル)の木橋であった。江戸時代、佐野屋橋の周辺には石屋が密集し、各地の名石や石灯籠・石鳥居・石臼までが山積みされ、石屋浜と呼ばれていた。また西には大坂屋銅吹所があり、大坂屋の浜と呼ばれて長堀川東端の住友銅吹所とともに銅生産が盛んであった。第二次世界大戦後に架け替えられた佐野屋橋は、三径間のゲルバー式格子合成桁橋であったが、長堀川の埋立てと同時に、昭和39年に撤去された。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)■2.板屋橋■■3.長堀橋(公儀橋)■■4藤中橋■■5中橋■■6三休橋■■7心斎橋■■8新橋■●佐野屋橋●炭屋橋(四橋)(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋(四橋) (●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」)●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.04.08
コメント(0)
★新橋 - 御堂筋大阪市第1次都市計画事業における御堂筋の拡幅・新設に伴って1934年(昭和9年)に架橋された。1径間のラーメン式鋼鈑桁橋で、橋長は約28.0m、幅員は約43.6m(24間)。右岸(北岸)の橋台が大きく川へ張り出していた。 拡幅以前の御堂筋は幅員約6m(3.3間)ほどの狭い道路で、長堀川には架橋されていなかった。なお、御堂筋自体が現在の淡路町3交差点で屈折しており、淡路町通以北は淀屋橋筋と名称も異なっていた。長堀川右岸(北岸)の末吉橋通を走っていた大阪市電東西線も橋のない拡幅以前の御堂筋には駅を設置せず、一筋東の心斎橋北詰に心斎橋駅(大阪市電)、一筋西の佐野屋橋北詰に佐野屋橋駅を設置していた。御堂筋の地下を走る地下鉄一号線開通にあわせて新橋の地下に駅が設置されることとなったが、駅名は知名度の高い心斎橋から採られることとなった(現在の地下鉄心斎橋駅)。1964年(昭和39年)に長堀川の上流部が埋め立てられた際に新橋も撤去され、わずか30年の短命に終わった。▲鰻谷の名称は、御堂筋にもあった。▲春の緑のイチョウ並木、秋の黄色いイチョウ並木は御堂筋の名物だが、工事をしている。イチョウの根が見えているとこともあったが心配だ。▼(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)■2.板屋橋■■3.長堀橋(公儀橋)■■4藤中橋■■5中橋■■6三休橋■■7心斎橋■●8新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.13
コメント(0)
★心斎橋 - 心斎橋筋心斎橋は元々長堀川に架かっていた橋の名前である。1622年(元和8年)に長堀川の開削と同時に架けられたというのが有力な説であり、「心斎系譜」によると長堀川を開削した4名のうちの1人、岡田心斎が長堀川の両岸を町域とした長堀心斎町の往来の便のため、南北に橋を架けたことが名前の由来になっている。当時の心斎橋は、長さ18間(約35m)、幅2間半(約4m)の木橋だった。人通りの多い地域にあった木橋で傷みやすく、洪水や火災の被害も受けるなど維持管理に多くの資金が費やされたという。その後、1873年(明治6年)に本木昌造の設計によって鉄橋に生まれ変わる。ドイツ製で、大阪で2番目、日本で5番目の鉄橋だった。当時の人にとって鉄橋は非常に珍しく、大阪の人の間で話題となり、錦絵にも描かれた。この鉄橋は鶴見緑地公園の緑地西橋として現存する。1908年(明治41年)に心斎橋としての役割を終え撤去された後、境川運河の境川橋、1928年(昭和3年)に大和田川の新千船橋(大阪市西淀川区)と移設を重ね、1973年(昭和48年)に鶴見緑地にすずかけ橋として保存され、1989年に現在地に移ったもの。日本現存最古の鉄橋と言われている。1909年(明治42年)には野口孫市の設計によって石造橋に架け替えられ、壮大な渡り初めが行われた。愛媛県今治市沖の大島産の花崗岩が用いられた。また心斎橋と佐野屋橋との間には石屋が立ち並び、摂津の御影石、播磨の立山石、泉州の和泉石、京都の白川石、紀伊の大崎石、近江の木戸石など、全国各地の名石が集積し、名工たちの手によって鳥居や橋、灯篭、手水鉢、道標、石仏、石臼など様々な商品に姿を変えていきました。ただの石が彫刻されて姿形を変えていく有様は、まるで魔法のような光景で浪花名所として非常に有名でした。その石浜を模したモニュメントがクリスタ長堀東端にあります。▲この石の橋も石浜の石を使ったのだろうか?▼▲船場側の商店街のアーケード。▼▲何の模様だろう?▼▲街灯▼(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)■2.板屋橋■■3.長堀橋(公儀橋)■■4藤中橋■■5中橋■■6三休橋■●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.08
コメント(0)
★三休橋 - 三休橋筋三休橋の名称の由来は、長堀川に架かる橋の中で往来の多い心斎橋・中橋・長堀橋の三橋を休めるための橋と言われている。三休橋交叉点には、道路名の由来となった三休橋が長堀川に架けられていたが、1964年(昭和39年)に長堀川の埋立に伴い撤去された。第2次世界大戦前後、大阪の中心地の建物には、装飾として彫刻がほどこされたものが多かったようです。写真の女神像は、長堀通りと三休橋筋の交差点にそびえたっています。昭和30年代の作品で、女神の手にとまっているのは平和の象徴鳩。まだまだ戦後といった空気がただよっている中で制作されたようです。北は中之島の大阪市中央公会堂(公会堂が建つ以前は堂島川南岸)から始まり、土佐堀川を栴檀木橋で渡り、船場の中央を南北に貫いて長堀通の三休橋交叉点に至る。三休橋交叉点以北は歩道もある比較的幅の広い道となっている。また、船場の中央の筋ということもあって企業の本社ビルも多い。電線の地中化と、街灯のガス灯化が進められている。島之内に入り周防町筋を過ぎると歓楽街の色彩が濃くなってくる。同じく島之内の中央を南北に貫いて道頓堀川を太左衛門橋で渡り、南岸の道頓堀通(商店街)で終わる。市道名のとおり、道頓堀通以南はやや西へずれるが千日前(商店街)と繋がり、なんばグランド花月前を通り千日前道具屋筋商店街となり、浪速区との境である、なんさん通りに至る。(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆1★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)■2.板屋橋■■3.長堀橋(公儀橋)■■4藤中橋■■5中橋■6●三休橋 - 三休橋筋●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.10.23
コメント(0)
江戸時代、中橋は長堀橋と心斎橋の中間にあったことからこの名前がつけられた。現在、中橋の親柱が中央分離帯の中に据えられている。「中橋」の隣に「三休橋」があるが、「長堀橋」・「中橋」・「心斎橋」の交通量が多いため、橋を休ませるために作った橋で「三休橋」ということだ。このことからも、当時、交通量の多い筋だったことが伺える。この日は、▲こんな車が何台も何台も連なって通った。なんのパレードだったのだろう?(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■長堀川跡を歩く■■1.安綿橋■■2.板屋橋■■3.長堀橋(公儀橋)■■4藤中橋■●中橋●三休橋 - 三休橋筋●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●宇和島橋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.10.16
コメント(0)
★藤中橋明治後期の1908年、医師の藤中泰によって藤中橋が中橋と長堀橋との間に架けられている。この橋は、明治41(1908)年、藤中泰という医師によって架けられた。 藤中医師は、明治大阪に病院を開いた。「性温厚篤実、公共の志深く当時長堀川に架橋無かりしを見て自費を投じて橋梁を架し以って公共の便に供す。今の藤中橋も是なり」と記されているそうだ。貧困者には無料で施療し、区会議員など「終生を公共慈善に尽くして終」な人だったそうだ。橋のいわれなどを書いたものは見あたらなかったが、「鰻谷藤中橋筋」という名前が南北の通りについていた(一番上の写真)。鰻がいた川があったのかと思ったが、細長い谷を鰻に見立てた地名だったようだ。「キャナル長堀」という店があったが、「キャナル」は運河のこと。長堀川があった時代からの店だろうか?(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から南船場側は心斎橋筋北商店街として賑わう。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)★■板屋橋■ - 交差点名は「長堀橋東」■3.長堀橋(公儀橋)■●藤中橋●中橋●三休橋 - 三休橋筋●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.10.11
コメント(0)
★長堀橋 - 堺筋1625年(寛永2年)に長堀川が開削された時に架けられた。堺筋は紀州街道の一部区間にあたり、重要な街道筋の橋として大坂では数少ない公儀橋に指定された。『心斎橋 史陽選集』 牧村史陽著 史陽選集刊行会 1964.11【328/335/#】p.13-14 「長堀川でどの橋が一ばん先にかけられたかはわからないが、おそらく長堀橋が最初であろう。元禄十四年(1701)の『摂陽群談』には「高欄・擬宝珠ありて渉り広し、南は紀州街道長町、北は大阪堺筋なり」と書かれているように、大坂と和歌山をつなぐ重要路線にあたり、市内十二の公儀橋の一つとして、幕府の直属となっていた。●紀州・徳川家が参勤交代にこの橋を使うため、公儀橋にしたという説を聞いた。元禄期の橋の規模は橋長18間6寸(35.6m)幅員3間(5.9m)。三津寺町文書に1654年(承応3年)の架け替え時の人足賃について触れられており、この頃に最初の架け替えが行われたものと推測される。江戸時代後期の幕府公式資料では橋台の背後地を含めた橋長21間6寸(43.2m)となっていた。1877年(明治10年)に最初の鉄橋に架け替えられ、橋長35.3m、幅員7.8mだった。1912年(明治45年)に大阪市電堺筋線敷設工事に伴い本格的な近代橋となり、有効幅員21.6mの3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋となった。その後、1960年(昭和35年)から長堀川の埋め立てが始まり、1963年(昭和38年)に橋は撤去・廃止された。(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から↑地下鉄・長堀橋駅(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)★■板屋橋■ - 交差点名は「長堀橋東」★長堀橋 - 堺筋●藤中橋●中橋●三休橋 - 三休橋筋●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.09.13
コメント(0)
■板屋橋■板屋橋は元禄の頃には新橋と呼ばれ、板屋橋となったのは幕末の頃からである。その後、昭和39年に完了した長堀川の埋め立てとともに姿を消し、現在は長堀通の南側歩道に顕彰碑が立っている。(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆8月4日は、橋の日。郷土のシンボルである河川と、そこに架かる橋を通して、ふるさとを愛する心と河川の浄化を図るのが目的。↑の写真は、大阪・住吉神社の反橋(そりはし)。■住吉神社のお田植え神事■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■長堀川跡を歩く■■安綿橋■(長堀川可動堰)★板屋橋 - 交差点名は「長堀橋東」●長堀橋 - 堺筋●藤中橋●中橋●三休橋 - 三休橋筋●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.04
コメント(0)
★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」アクセス:OsakaMetro 松屋町駅 4番出口 およそ150m 徒歩2分長堀川が始まる地点に架かってた橋が安綿橋です。(▲東横堀川・末吉橋)東横堀川にかかる末吉橋と同じデザインだったそうですが、長堀川が埋め立てられたときに撤去されました。 ■東横堀川・末吉橋■安綿橋の名は、南組の総年寄・安井九兵衛と綿屋某が協力してかけたことに由来すると言われている。南組の総年寄・安井九兵衛とは、1615年に道頓堀を開削した惣年寄の安井九兵衛(道ト)の可能性が強い。■平野にある駐車場■(平野は、江戸時代より木綿の産地だった。↑)安井氏も綿屋も平野郷にゆかりのある名前なので、この辺りには江戸初期、末吉氏を代官とする平野郷出身の有力者が大勢居住していたのであろう。この橋は、昭和39年に完了した長堀川の埋め立てとともに姿を消し、現在顕彰碑は長堀通りの南側歩道に立っている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。■長堀川■は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から1★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)●板屋橋 - 交差点名は「長堀橋東」●長堀橋 - 堺筋●藤中橋●中橋●三休橋 - 三休橋筋●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.10
コメント(0)
(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長さは約2.5km、幅は約30~40m。途中で西横堀川と交差していたことから、この交点より下流を特に西長堀川と呼び分けることもあり、埋め立て後も西長堀という地域名として使われている。また、西横堀川交点には「口」の字型に4つの橋が架けられており、これが四ツ橋と呼ばれる所以である。長堀川は同点より上流では船場(右岸)と島之内(左岸)の境界を、下流(西長堀川)では下船場(右岸)と堀江(左岸)の境界を成していた。 『浪華長堀心斎橋記』によると、開削された時期は1622年(元和8年)、開削者は伏見から移住した有力町人の三栖清兵衛、池田屋次郎兵衛、伊丹屋平右衛門、岡田新三らが中心になったとされる。また、道頓堀川と同様に全くの新規開削ではなく、開削以前にあった小河川を拡幅したものと推測されている。開削者のひとりである岡田新三は、美濃屋心斎と称して長堀川沿いに居を構え、心斎の屋敷前に架けられた橋が心斎橋の由来とされている。また、開削者たちの名前は長堀川沿いの町名となり、上流から長堀次郎兵衛町・長堀心斎町・長堀平右衛門町・清兵衛町の町名が1872年(明治5年)の改称まで存在した。 最上流部付近では、船場側となる長堀橋本町に平野七名家の筆頭であった末吉孫左衛門の別邸があり、島之内側となる長堀茂左衛門町には大坂銅吹屋の筆頭であった泉屋(のちの住友)が本店を構えていた。西長堀川の区間には土佐や阿波などの材木問屋が多く立ち並び、鰹座橋付近には土佐藩の蔵屋敷があった。さらに、西長堀川の区間は1622年以前に完成していたという説が有力である。長堀川は諸国物産の集散地として利用され、四ツ橋以西の長堀川沿岸は材木商が軒を並べて木材市として賑わいました。また心斎橋と佐野屋橋との間には石屋が立ち並び、摂津の御影石、播磨の立山石、泉州の和泉石、京都の白川石、紀伊の大崎石、近江の木戸石など、全国各地の名石が集積し、名工たちの手によって鳥居や橋、灯篭、手水鉢、道標、石仏、石臼など様々な商品に姿を変えていきました。ただの石が彫刻されて姿形を変えていく有様は、まるで魔法のような光景で浪花名所として非常に有名でした。そんな長堀川名残を求めて歩いてみた。地下鉄の最寄り駅は、人形や玩具の問屋街で有名な「松屋町(まっちゃち)。長堀川に架かっていた橋の名称は、現在も交差点、駅、バス停などの名称に使われており、著名なもののひとつに心斎橋がある。☚西 東☛東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。ということで、末吉橋に。▲末吉橋から眺める東横堀川長堀川は、ここから分流し始まる。長さは約2.5km、幅は約30~40m。▲高速道路が架かる下が東横堀川。長堀川の跡が目の前の長堀通り(道路)になっていた。長堀通 - 1964年、長堀川が埋め立てられるまでは末吉橋(すえよしばし)通と呼ばれた。▼長堀川は、船場と島之内の境界をなしている。道路の上に当たる部分が船場、手前が島の内。大きな商店が並んでいた■船場■は商い所といい役者や芸者が済んでいた ■島の内■は、粋所と言われていた。▲長堀川は埋め立てられて「クリスタ長堀」という地下街になっている。▼上流から(右=東)から●安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)●板屋橋 - 交差点名は「長堀橋東」●長堀橋 - 堺筋●藤中橋●中橋●三休橋 - 三休橋筋●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.04.06
コメント(0)
■上大和橋(かみやまとばし)■東横堀川は上大和橋の下流で終わりになり、直角に西へ曲がって道頓堀川になっている。元和元年(1615)に道頓堀川が開削された後は、この地は物資の集散地として荷車などが集まるところとなったという。 堀止め付近に橋が架けられた年代は明確でないが、まず最初に東横堀川西岸道路の延長上に上大和橋が架けられたと考えられる。この頃までは東横堀に橋を架ける必要性が少なく九之助橋より下流には橋が見当らない。現在のように上・下大和橋の位置が定まったのは、元禄後期の頃と考えられる。明治以降も長らく木橋のままで、明治14年の記録では橋長37.8m、幅員3.8mとある。明治30年(1897)頃に架け替えられ、幅員は6mほどになったが、依然木橋のままで、近代化に及ばなかった。 近代橋になったのは第一次都市計画事業の中の橋梁改築事業で、大正14年(1925)10月に完成、橋長35.8m、幅員9.lmの三径間の単純鋼桁橋である。戦後、橋の東側に川に沿って阪神高速道路のランプが造られ、橋も東側が少し改造された。なお、明治36年(1903)に東横堀川の堀止付近(上大和橋・下大和橋の付近)に巡航船の乗船場ができ、最盛期には1日2万人もの利用客がある交通機関となったが、市電の拡張に伴い利用客は減り、大正3年(1914)には廃止された。 アクセス:OsakaMetro 日本橋駅 7番出口 およそ500m 徒歩8分■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■■大手橋■■本町橋と本町の曲がり■ - 本町通■農人橋■-中央大通■久宝寺橋■■安堂寺橋■■末吉橋 - 長堀通■■九之助橋■■東堀橋■■瓦屋橋■上大和橋■下大和橋(道頓堀)に続く。■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.11.28
コメント(0)
●「島の内」戦前、それも明治大正の島の内は芸人や役者、水商売の人やお妾さんなどが住む、しっとりと粋な町であった。船場の南、東西を東横堀川・西横堀川に、南北を長堀川・道頓堀川にかこまれ、風雅で瀟洒な家並みが並ぶ。(略)美しい日本髪の女が白い衿足をみせ、派手な浴衣に単衣帯でよく磨かれた金盥(かなだらい)を持って、近所のお風呂屋へ出かけたりしている。(略)静かでいて花やかで色めいた町。「浪華の古風を長く残してきた街」(略)こんな街の、狭いながらに粋な南北居、「町内に鴈治郎はんがすんではる」というような玉屋町の南北居に若者たちは魅了されて、つどうのであった。「こんな家の住みたいなぁ」と思ったのは水府だけでななかった。●*南北(食満南北)*が遊んだ小坊ンさんの頃は、芸妓の「朝迎い」に駕籠が来たと。大阪の古い地唄に、次のようなものがある。♪恋の重荷の島の内、送り迎いにかく駕籠の、誰であろうと棒鼻に、くくりつけたる提灯の、日柄の約束して来たな、高いも低いも色の道、立てる立てんの息杖も、つきぬ楽しみエイサッサ、さっと押せ押せ夢の通い路・・・道頓堀の雨に別れて以来なり(上):田辺聖子■*食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、*■明治から昭和に活躍した歌舞伎作者、作家。本名は食満 貞二(けま ていじ)。 大阪府堺市の裕福な酒造家の生まれ。幼少のころから芝居や落語など芸道に通じ、上京後、早稲田大学に入学し坪内逍遥に師事。また村上浪六に弟子入りしたり、さまざまな職を経て、明治38年 (1905) 4月、田村成義の紹介で歌舞伎座の福地桜痴の門人となり本名のまま見習い作者となる。翌年4月に関係者と揉めて帰阪し、三代目片岡我當に招かれて松嶋屋の座付き作者となる。 明治42年 (1909) からは初代中村鴈治郎の一座に加わり松竹に所属。鴈治郎の座付き作者として多くの戯曲や随筆を書く傍ら『演劇画報』などの演劇関係の雑誌に関西歌舞伎関係の記事や批評を載せ、戦後に至るまで関西劇壇の重鎮として活躍した。また大正期には六代目鶴屋南北を名乗っていた。■道頓堀・相合橋の食満南北の川柳の碑■■岸本水府と露の五郎の川柳■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.11.24
コメント(0)
■瓦屋橋は■元禄時代の中期以降に初めて架けられたものと考えられる。この地は徳川幕府から瓦の土取場として上町台地西辺の地、約46,000坪を借り請けた御用瓦師寺島藤右衛門の請地である。このあたりは古代より良質の粘土が取れ、江戸時代には大坂市街における瓦生産の中心地だった。(▲鬼瓦ににている。)当時橋の東詰め一帯は南瓦屋町と呼ばれ、付近は積み出しの船で賑わっていた。江戸時代は橋長約38メートル、幅員約3.8メートルの木橋で、約15年おきという周期の早い架け替えが行われており、橋筋の町々により維持されてきた。 近代橋になったのは、昭和7年で橋長37.7メートル、幅員6.5メートルの鋼桁橋である。昭和41年3月架け替え、昭和45年3月歩道部拡幅され、平成10年橋面改装し現在に至る。 アクセス:OsakaMetro長堀鶴見緑地線松屋町駅 4番出口 およそ500m 徒歩9分■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■■大手橋■■本町橋と本町の曲がり■ - 本町通■農人橋■-中央大通■久宝寺橋■■安堂寺橋■■末吉橋 - 長堀通■■九之助橋■■東堀橋■ 瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.11.19
コメント(0)
(■淀屋橋■で今も営業している牡蠣船。)牡蠣船は貸しを残して国へ立ち 水府これも明治44年、水府、数え二十歳の頃の句である。いうまでもなく牡蠣船は大阪独特の情緒ある料理屋である。道頓堀川、土佐堀川、堂島川河畔などにふねをもやい、広島の牡蠣をさまざまに料理して供する。川岸の船に灯のつく風情も面白く、秋冬の大阪の風物詩となっていた。現代では年中、船を据えているが、明治頃までは秋になると広島から船でやってきて、季節が終わるとまた船をたたんで帰って行ったという。■(☝淀屋橋)■水府のこの句は貸しをそのままに船は去ったというのだが、どうせまた晩秋になれば馴染みの河岸(はま)へ船を着けて商売すりのだし、貸した相手もお馴染みさんなれば、「また寒うなったらまいりますよってそのときに」というのであろうか、おおどかなものだ。この牡蠣船は宝永五年(1708)頃からはじまったというから古い。(略) この明治の頃はまた、牡蠣船の出前小女郎(でまえこめろ)というのがあったらしい。(略)牡蠣船の中は小さい料理屋の座敷風に仕立てられ、衝立で間仕切りをして牡蠣料理で飲ませるのであるが、船に来るより出前が多かったという。(略)お煙草盆に結った十三、四の少女が白前垂の高下駄ばき、黒の引っ張りに黒足袋といういでたち、(略)右手に釜を下げ、左手に岡持という姿で道を急いでいる。牡蠣船の 一艘残れる 淀屋橋 はるな■道頓堀の雨に別れて以来なり■■道頓堀の雨に別れて以来なり(下)■ 牡蠣が美味しい季節である。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.11.16
コメント(0)
■東堀橋は、■東横堀川の下流付近の瓦屋橋の北側に架かる橋である。この橋の歴史は東横堀川に架かる橋の中ではかなり新しく、第一次都市計画事業に基づき、周防町通(現在はアメリカ村のメイン通りやヨーロッパ通りとしても知名度がある)が市道堀江玉造線として拡幅整備された際の、昭和11年(1936)に鋼製アーチ橋として架けられた。この橋が架かったことにより玉造と九条が一本の道路で結ばれた。現在の橋は、平成6年(1994)に改修整備されたもので、東横堀川全体の景観に配慮した造りになっており、橋柱の照明灯などもレトロな雰囲気の趣ある橋になっている。 アクセス:OsakaMetro長堀鶴見緑地線 松屋町駅 4番出口 およそ400m 徒歩7分■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■■大手橋■■本町橋と本町の曲がり■ - 本町通■農人橋■-中央大通■久宝寺橋■■安堂寺橋■■末吉橋 - 長堀通■■九之助橋■東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.11.06
コメント(0)
■九之助橋の■架かる東横堀川は、大坂城外堀として豊臣秀吉により、天正13年(1585)に、開削されたものといわれている。江戸時代初期の慶安~万治年間(1648~1660)の絵図には、既に九ノ介橋として記載されていることから、最初の橋は東横堀川の開削後しばらくのちに架橋されたものと考えられる。橋名は、何らかの関係者の人名に、つながりそうに思えるが、その由来は不明である。本橋の西詰北側には、住友家の銅吹所(銅の精錬所)があり、鋳物屋、鍛冶屋などの工業の町であった。対岸の東詰は、幕府御用瓦師、寺島家の請地で多くの瓦ふき職人や瓦仲仕が住んでいた。木橋であった九之助橋は、第1次都市計画事業により大正15年(1926)上路アーチ形式の永久橋に架け替え、今回の改修ではアーチ形式や御影石積みの 親柱など旧来の景観を保全するよう配慮し、また照明灯は大正15年当時のものをモチーフとしてデザインした。 ■アクセス:OsakaMetro長堀鶴見緑地線 松屋町駅 4番出口 およそ250m 徒歩4分■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■■大手橋■■本町橋と本町の曲がり■ - 本町通■農人橋■-中央大通■久宝寺橋■■安堂寺橋■■末吉橋 - 長堀通■ 九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.10.23
コメント(0)
■末吉橋■末吉橋は、南蛮貿易で活躍した平野の豪商末吉孫左衛門が架けたと言い伝えられている。その末吉家の別邸が橋の西詰にあったとも言われている。江戸時代の末吉橋は町橋で、橋筋の町々の醵金によって維持されていた。 末吉橋は明治43年、市電第3期線の事業で、鋼橋になり、その後、第一次都市計画事業によってコンクリート製のアーチ橋が架けられた。隣接した長堀川の安綿橋と同じデザインになっており、統一性のある風景を作っていた。戦後、長堀川が埋め立てられとき、拡幅されて今日に至っている。以上、転載終わり▲西側の建物はカフェになっている。川に降りるための石段が残っていた。■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■■大手橋■■本町橋と本町の曲がり■ - 本町通■農人橋■-中央大通■久宝寺橋■■安堂寺橋■大末吉橋 - 長堀通九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋 ■アクセス:OsakaMetro長堀鶴見緑地線 松屋町駅 1番出口 およそ50m 徒歩1分・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.10.16
コメント(0)
■安堂寺橋(あんどうじばし)■橋の名は、伝説的な寺の名前から由来し、安曇寺から転訛したものといわれたが現在では否定されている。安曇寺は、『日本書紀』に記述されている安曇寺のことであるといわれ、古代海人族の阿曇氏の拠点が上町台地側」にあったとも推定されている。また、聖武天皇が遊覧したとされる安曇江は東横堀の前身となる入江であったともいわれる。江戸時代の橋通りは、玉造から生駒の暗峠に達する奈良街道に通じる重要な道筋に当り、この時代初期には架設されていた。橋の東側は東堀の材木浜で、材木をはじめ竹や竹皮の取引も行われていた。西側は南船場につながり、金物問屋や砂糖商の密集する町であった。明治中期になると鉄柱で支えられた木桁橋となり、大正3年(1914)に鋼鈑桁に架け替えられたが、幅員は6.1mで従前のものと殆ど同じであった。戦後昭和42年(1967)に幅員6mで三径間の鋼鈑桁橋に架け替えられ、交通量の増加に伴い同49年(1974)に両側へ1.5mすつの歩道が拡張されて現在に至っている。以上■安堂寺橋(あんどうじばし)■より転載 Osaka Metro 松屋町駅4番出口 およそ200m 徒歩4分■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■■平野橋■■大手橋■■本町橋と本町の曲がり■ - 本町通■農人橋■-中央大通■久宝寺橋■安堂寺橋末吉橋 - 長堀通九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.10.05
コメント(0)
■久宝寺橋■橋名は伝説的な寺の名前に由来する。久宝寺は同盟の寺が船場の側にあったと言い伝えられている。しかしその位置は定かではなく、『浪華百事談』にも「往昔此地に久宝寺といえる寺院有りし故に、其名ののこれるものとは碑に伝うれども、何れの地に有りしや、浪花の古図にも証すべきものを見ず」とある。久宝寺の由来には他説があって、道頓堀川が開削されたとき、河内の久宝寺から多くの人夫が来て、この地に集落ができたためともいわれている。久宝寺橋は豊臣時代から架けられていたらしい。久宝寺橋は町橋で、近隣の町々で維持管理が行われていた。江戸時代の規模は、橋長が二四間三尺一寸三分(49.2m)となっており、幅員は二間(3.9m)であった。このあたりは人家の密集地であり、しばしば大火に見舞われている。その際、橋の被災はまぬがれなかった。江戸時代から明治の初めにかけては、橋の構造にはほとんど変化はなかった。久宝寺橋は五径間の木橋であったが、約6mと幅がかなり拡げられた。久宝寺橋が永久化されたのは、昭和14年で、橋長41.5m、幅員12.6mとなり、三径間のゲルバー式の鉄筋コンクリート桁が適用された。■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■■大手橋■■本町橋と本町の曲がり■ - 本町通■農人橋■-中央大通 久宝寺橋安堂寺橋末吉橋 - 長堀通九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.09.23
コメント(0)
■農人橋(のうにんばし)■1600年(慶長5年)の記録に久太郎町橋と記されている橋が最初の農人橋といわれている。江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』に「いにしへ川西船場に田圃多くして、上町より農民かよひて耕作をなす」と記載され、豊臣期に市街化していた上町側(東側)から市街化する以前の船場側(西側)の農地へ渡るために架橋された。 江戸時代には谷町筋以東に大坂城代下屋敷・京橋口定番与力屋敷・大坂町奉行御金蔵などが立地し、公儀橋の一つだったが、日常の維持管理は橋周辺の町々に課せられ、東は谷町筋から西は御堂筋あたりの橋筋が橋掛かり町の範囲だった。 明治時代の半ばに鉄柱木橋に架け替えられ、大阪市第1次都市計画事業により1926年(大正15年)に鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け換えられた。現在の橋は1969年(昭和44年)に中央大通の敷設に伴い架け換えられたもので、このとき初めて上流側(北側)の橋が架橋された。■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■■大手橋■■本町橋と本町の曲がり■ - 本町通農人橋 - 中央大通久宝寺橋安堂寺橋末吉橋 - 長堀通九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.09.19
コメント(0)
■本町橋(ほんまちばし)は、■大阪府大阪市中央区の東横堀川に架かる本町通の橋。現在の橋は1913年(大正2年)に架け替えられたもので、大阪市内では現役最古の橋となっている。『浪速の名橋50選』に選定されている。 最初の橋は、豊臣秀吉が大坂城を築城し、東横堀川を開削したときまで遡る。年代は特定されていないが、天正13年(1585年)に東横堀川が開削されてからあまり経っていなかったと考えられている。 大坂の陣(とくに冬の陣)の時は、戦略上の重要地点であったとされ、橋周辺で蜂須賀隊と塙直之が激突している。 江戸時代になると、公儀橋として幕府による直接管理・維持がなされた。東詰に油問屋が集まり、、西詰に木綿問屋・呉服・古着屋が軒を連ね、大坂で最も賑わう地域とされた。享保9年(1724年)の「妙知焼け」とよばれる大火で本町橋をはじめ、いくつもの橋が焼失している。大火後、橋の北東側に西町奉行所が移転してきた。 20世紀以降の大阪市電の敷設、都市計画事業による道路拡張にあわせて本町橋も大正2年(1913年)に鉄橋に架け替えられた。 三径間の2ヒンジアーチ橋で、下部は広くし橋脚には石柱を模した飾りが付き、その上部はバルコニーとなっている。この橋は昭和57年(1982年)に大がかりな補修がされたが現役である。 江戸時代、船場は、本町通りを境に、北船場、南船場に分かれていた。(☝の右側が北船場、左が南船場。)一直線に開削された東横堀川が唯一湾曲する場所があります。本町橋から農人橋にかけて折れ曲がっており、これを俗に「本町の曲がり」と言い、落語のまんじゅうこわいにも登場する。東横堀を開削するときこのあたりにお寺があったのでそれを避けるため曲がりを作った。そのため川の水流が速くなり渦もでき、そこで入水自殺する者が絶えなかったという。■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■■大手橋■ 本町橋 - 本町通農人橋 - 中央大通久宝寺橋安堂寺橋末吉橋 - 長堀通九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.09.12
コメント(0)
■大手橋■古くは思案橋と呼ばれていた。大阪城の大手門に通じる大手通にあたるが、なぜか橋の西側で行き止りになっている。橋を渡って左右どちらに行くか迷うために思案橋と呼ばれるようになったとされる。また、豊臣秀吉が五奉行の一人、増田長盛に橋の名前を付けるよう命じたが、思案してもなかなか決められなかったため思案橋といわれるようになったともいう。ただ豊臣時代からこの橋があったとする確証はない。大手通という町名が付いたのは明治以降のことで、大手橋と名付けられたのは大正時代になってからである。大手橋が近代橋になったのは大正15年、第一次都市計画事業によってである。 三径間のコンクリートアーチが採用されている。東横堀川の橋はアーチが多く、鋼とコンクリート製がほぼ交互に並んでいる。デザインもそれぞれ違っていて、独自の景観を作り出している。橋は江戸時代には架けられていたが、關一大阪市長による大阪市第一次都市計画事業により、1926年(大正15年)に近代橋として再建された。建設後60年以上経ち、床版や橋面の損傷が著しくなっていたため、平成元年度に改修工事を行い、これに合わせて顕彰碑を設置した。■関一(せきはじめ)■東京高商教授から大阪市助役に転身したのは、自身の社会政策学・都市計画学の研究を実践してみたいとの思いからだったと述べている。市長就任後も、質素な生活を続けており、遺産は1万円足らずであった。東京高商で同僚だった佐野善作からは「特徴のない特徴」「地味」などと評される。 家族は妻と三男、四女。1918年に長女に先立たれ、1928年には長男も結核で死去。1932年に妻が病没した際は、落ち込み、2ヶ月間職務を休んだ。その3年後の1935年1月14日には、自身も腸チフスで倒れ、同年、市長職のまま死去した。■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■東横堀川水門■■平野橋■ 大手橋本町橋 - 本町通農人橋 - 中央大通久宝寺橋安堂寺橋末吉橋 - 長堀通九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.09.05
コメント(0)
■島・津・浜・・・地名に海の名残■古代の大阪湾は上町大地近くまで入りこんでおり、そこには「難波八十島」が浮かんでいた。やがて島々が陸地化していく過程で「〇〇島」の地名が残ったことはよく知られている。加島、田簑(たみの)島、姫島、野田島、御幣島(みてじま)、佃島など、大阪の「島」地名を挙げれば切りがない。ついでに言えば、江口や海老江などの「江」地名、高津、三津寺などの「津」地名なども少なくない。さらには、大阪では川岸なのに「岸」ではなく、北浜、堂島浜のように「浜」と呼ぶ。これも海浜が川辺になった名残だ。梅田近くの「中津浜交差点」は実に大阪らしい地名なのだ。2020年3月9日 産経新聞 夕刊 「古代なにわの輝き 象徴としての八十島祭」(高島幸次 大阪大学招聘教授)■大阪市・淀川区の町名と由来■★歌島(うたじま)旧村名による。一説によれば「加島(かしま)」の古称を転化して「歌島(うたじま)」と訓じたと言う。★大和田(おおわだ)「万葉集」に「浜きよくうら懐かしみ神代より千船のとまる大和田の浦」と当地が詠まれている。「和田」は海の意で「おおわだつみ」に通じ、広い海に面したことに由来する。★竹島(たけしま)もとの「加島」の字地に「竹町(竹ノ町)」があり、その竹町が中心であった当地を、「竹島」と合成して呼称された。★千舟(ちぶね)「万葉集」に「浜きよくうら懐かしみ神代より千船のとまる大和田の浦」からとられた地名である。(☝■東京の佃島■)★佃(つくだ)難波八十島の一つに「田蓑島」があり、貞観年間(859~876年)に佃村と改め、「田蓑庄」とも呼ばれたことに由来する。また、慶長年間(1596~1614年)に佃・大和田の漁民が徳川家康に鮮魚の役を努めることになったことから「佃」と称されたともいわれる。また、「佃」の名称は、家康が田蓑で漁業も大事だが人はまず田で働けといったのに因むとされる。(後段は、大阪春秋第90号より)★出来島(できじま)元禄元年(1688年)、摂津茨木在福井村の倉橋彦坂四郎兵衛が開拓した町人請負新田で、その完成を記念して「出来島新田」と名づけられた。其能く成功せるに因みで出来島と名くとぞ。(後段は西成郡史より)★中島(なかじま)元禄年間(1688~1703年)に京都の丁子屋中島市兵衛が開墾したことにより「中島新田」と呼ばれたことによる。★西島(にしじま)元禄11年(1698年)に九条の池山新兵衛信賢が開墾した新田で、佃・大和田の西に位置する島であることから「西島新田」と命名された。★花川(はなかわ)当地の村人が神功皇后来訪のとき、餅を柏の葉に載せ,野咲きの花束を添えて献上したのに対し、「鼻川の里」と命名された故事による。「鼻川」は「花川」に書き改められた。★姫島(ひめじま)古代の文献に地名(媛島・日女島・比売島)の出典を求めて、「ヒエシマ(稗島)」を「姫島」と当地に比定していることに由来する。「ひめを・ひえ」と訛り、遂には稗島と書くに至れりとするもの差し誤りなきに似たり。(後段は西成郡史より)★百島(ひゃくしま)元禄年間に大和田村の次郎右衛門が開拓した土地で「百島新田」と名づけられた。「百島」のいわれは不詳である。★御幣島(みてじま)難波八十島の一つ御幣島の旧地に比定された地名。神功皇后が朝鮮出兵から帰った時にこの地に着船し、住吉大神を祀ったことからこの称が起こった。「御幣」は神に奉る物の総称。■昭和47年2月1日の住居表示実施により消えた「島」町名と由来■★酉島(とりしま)元禄15年(1702年)、大阪の多羅尾七郎右衛門によって開墾された「酉島三新田」による。地名は、当地開発に着手した年が寛文九年(1669年)の酉年であったためとする説がある。★外島(そとじま)地名は、明治41年の大字名「外島」に始まる。布屋新田の内堤の外側に当たるために名付けられた。★南島(みなみじま)酉島三新田の一つ「南酉島新田」を「南島」と短縮したことによる。大阪に「海」を表す「島」、「津」、「浜」が多いが、東京は祖師谷、渋谷、阿佐ヶ谷、四谷・・・と■谷■のつく地名が多い。夏草や地名に残る海の跡 はるな7月23日は、「海の日」である。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.07.23
コメント(0)
船津橋は元禄中期以降に架けられたものと思われる。■湊橋■は小倉藩の蔵屋敷のすぐ西側に架けられ、船津橋も中之島をはさんでほぼ同じ位置に架けられたが、のちに少し西側(下流側)、新しい築地のほぼ中央部と福島を結ぶ位置に移動されたものと思われる。江戸時代の橋の規模は「地方役手鑑」や「米商旧記」が詳しく、船津橋は四三間半一尺(86m)、幅員二間(3.9m)の規模をもっていた。明治18年の大洪水では大きな被害を受けた。堂島川では上流からの流材によって堂島大橋が落ち、船津橋は橋のかたちを残したまま下流へ流され、それらがすべて安治川橋に引っかかって水を塞き止める形になった。そのため、周辺の民家の被害が大きくなったと言われている。下中之島の橋が近代化されたのは市電事業によってである。大正5年に市電西野田線が中之島西端部で九条中之島線と連絡するようにつけられたが、この事業によって今までの船津橋のすぐ下流に新しい船津橋が大正3年に鋼桁橋で完成した。戦前から進行していた西大阪一帯の地盤沈下は戦後になってさらに拍車がかかり、台風時の高潮によって大きな被害を受けることとなった。このため戦後、高潮対策事業が実施されたが、この中で橋梁の嵩上げ工事も行われることとなった。下中之島の橋も昭和30~40年代に嵩上げや架け替えが行われている。船津橋も同時期に架け替えられ、橋長76.5m、幅員24.0mの三径間ゲルバー式鋼床版桁の橋になった。(▲橋の北詰めに大阪市中央卸市場がある。)▲中の島の一番下流。ここからは、川の名前が「安治川」になる。▼地図の地点から、■端建蔵橋(はたてくらばし)■を見る。橋の北詰めに食べ物屋がある。川のすぐそばに立っているのを見て、■泥の河■を思い出した。河っぷちの食堂に住む少年と、対岸に繋がれた廓舟の姉弟との出会いと別れを描いた映画の舞台も近い。■「泥の河の舞台」、湊橋■食べ物屋の前には、「市場」の跡らしき建物がある。今時珍しい、木でできた手押し車があった。ペンキで塗って庭で鉢を並べたらかっこいいだろうな・・・って庭がないけど・・・橋長:76.5m幅員:24.0m形式:桁橋(ゲルバー桁)完成:昭和38年行政区:北区河川名:堂島川(旧淀川)アクセス:OsakaMetro千日前線 玉川駅 6番出口 およそ550m 徒歩9分 大阪シティバス「船津橋」「川口一丁目」■堂島川の橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 鉾流橋(ほこながしばし)■水晶橋■本来は汚水排出用につくられたダム。■大江橋■ 日の目を見なかった第二案■中之島ガーデンブリッジ■■渡辺橋■と堂島米市場跡碑■田蓑橋(たみのばし)■■玉江橋■■堂島大橋■■上船津橋■船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.07.06
コメント(0)
■上船津橋■昭和11年、堂島川に上船津橋が新設された。これは都市計画道路江戸堀福島線の一環として架けられたもので、橋長79.4m、幅員11.1m、全体は五径間より成り、中央部の三径間はゲルバー式鋼鈑桁形式が採用された。近年になって都市計画道路大阪神戸線の拡幅工事によって架け替えられた。新しい橋は幅員17m強の橋が両側に架かり、中央に阪神高速道路大阪神戸線が高架で通っており橋の基礎は一体で作られている。橋のそばには「中之島西公園」がある。■堂島川の橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 鉾流橋(ほこながしばし)■水晶橋■本来は汚水排出用につくられたダム。■大江橋■ 日の目を見なかった第二案■中之島ガーデンブリッジ■■渡辺橋■と堂島米市場跡碑■田蓑橋(たみのばし)■■玉江橋■■堂島大橋■上船津橋船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.29
コメント(0)
■堂島川に架かる堂島大橋は、■全長約76メートル、幅約22メートル。ロマネスク様式で、2本の大きなアーチが特徴だ。初代は1877年に架けられた木製で、現在の鉄筋コンクリート製の橋は1927年に完成した。戦時中、焼夷弾(しょういだん)による火災で親柱と橋飾塔の一部が焦げたが、戦火をくぐり抜けた。完成から90年以上、老朽化が進み、市は改修工事に着手。約13億7千万円をかけて改修を終えた。橋の改修や橋飾塔の復元を進める市の担当者の頭を悩ませているのが、4本の橋飾塔(高さ約3・8メートル)上部の丸い跡だ。当時の設計図から市は青銅製の飾り「ブロンヅメタル」の痕跡とみる。「ライオン橋」と呼ばれる大阪・難波橋のライオン像のように、橋を特徴付ける装飾だったとみられるが、いつ取り外されたのか、市も詳しいことがわかっていない。橋を管理する市橋梁(きょうりょう)課は「戦時中に取り外されたのではないか」。戦時中の1941年、鉄や銅など、銃や砲弾に使う戦略物資の不足を補うため、政府は金属類回収令を公布した。堂島大橋のブロンヅメタルも供出されたのではないか、と市は推測する。大阪市の設計ですが、武田五一が意匠指導をしています。■武田五一は■「関西建築界の父」とも言われる高名な建築家で戦前期の大阪市の都市計画に強い影響力を与えた人物でもあります。朝ドラ『ごちそうさん』の竹元教授のモデルと言われていますが本物はあんな変人ではなく、面倒見の良い紳士的な人物だったようです。武田吾一と大阪市長の関一は、武田の長男と関の次女の婚姻により親戚になった。■天満橋■■天神橋■■難波橋(なにわばし)■■鉾流橋(ほこながしばし)■■水晶橋■■大江橋■ ■中之島ガーデンブリッジ■■渡辺橋■と堂島米市場跡碑■田蓑橋(たみのばし)■■玉江橋■ 堂島大橋上船津橋船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天神橋■■難波橋■■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋(はたてくらばし)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.22
コメント(0)
平野橋(ひらのばし)は、大阪市中央区の東横堀川に架かる、大阪市道平野町京町堀線 の橋。 ■概要・歴史■大坂城築城の頃に東横堀川が開削されてからそう遅くない時期には架けられたとされている。 江戸時代には、平野橋西詰の平野町は御霊神社の鳥居前町として日用品を扱う商店街を形成していた。毎月1日と6日には、平野橋東詰の内平野町にあった神明神社にかけて夜店が出て賑わった。 大塩平八郎は乱を起こしたとき、船場の豪商の屋敷を破壊し、火を放って大坂城方面へ向かったときに平野橋を渡った後、東詰の内平野町で奉行所の兵を相手に戦闘となっている。 最初の架橋以降、木橋の規模は橋長約62m、幅員約4.1mであり、1898年(明治31年)に鉄橋に架け換えられた時もほぼ同規模であった。 現在の平野橋は1935年(昭和10年)に第一次都市計画事業に基づいて架け替えられたものである。上路ランガー桁とよばれる形式で、当時世界初であるといわれた。現在でも珍しい部類とされる。 たしか、■銀二貫■だったと思うけど、平野橋の近くに夜店のことが書いてあったと思う。もう一度読んでみよう。橋長:62.5m幅員:11m形式:鋼アーチ(上路3径間逆連続ランガー桁)完成:1935年(昭和10年)■東横堀川の橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■■(東横堀川水門)■平野橋大手橋本町橋 - 本町通農人橋 - 中央大通久宝寺橋安堂寺橋末吉橋 - 長堀通九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.17
コメント(0)
■東横堀川■に沿って歩いていたら、水門に船がいた。東横堀川の■高麗橋■と平野橋の間に、水門がある。東横堀川と道頓堀川にある東横堀川水門と■道頓堀川水門■によってこの水域の水位を一定に保っていて、ここを通過する際、水門の仕組み(動き)を見ることができます。水質を保つために大川から多くの水が流れ込む調整機能もあるんですよ。この水門の北側に架かっている高麗橋から、水門を通過する船の様子を眺められるのも楽しいところです。道頓堀水門と対になって機能しています。 建設された目的は、比較的きれいな水が流れている大川の水を、淀んで色もくすんでしまっている道頓堀川と東横堀川に取り入れることにあります。■水門の働き■(1) 高潮の防御:大雨や高潮により水位が上昇する時は、水門を閉め、浸水被害を防ぎます。(2) 水位の制御:道頓堀川は潮の干満によって水位が変動する川ですが、両水門により、河川水位をほぼ一定に制御します。(3) 閘門機能:水門の前後で水面の高さが違う時に、水門内で水位の調整を行い、船舶を航行させることができる閘門を併設しています。(4) 水門操作による河川浄化:大阪湾の潮の干満に合わせた水門操作を行い、寝屋川の汚れた水の流入を防ぎ、大川(旧淀川)のきれいな水を導き入れています。◆上げ潮時 東横堀川の水門を開け、きれいな大川の水(浄化用水)を東横堀川・道頓堀川に取り入れます。 その結果、道頓堀川・東横堀川には、きれいな水が貯留されます。◆下げ潮時 道頓堀川水門を開け、東横堀川・道頓堀川の水を下流へ流し、水の入替えを行っています。 また、東横堀川水門を閉じ、寝屋川からの汚れた水が東横堀川・道頓堀川に入らないようにします。■東横堀川■の橋上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通■今橋■■高麗橋■(東横堀川水門)平野橋大手橋本町橋 - 本町通農人橋 - 中央大通久宝寺橋安堂寺橋末吉橋 - 長堀通九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.14
コメント(0)
■東横堀川■■地理■土佐堀川の上流部で南へ分かれて、中央区の船場・島之内の東縁を流れる。全長約3km。西へ向きを変えてから下流は道頓堀川となる。 阪神高速1号環状線(南行き)の経路に利用されており、川に蓋をするように高架橋が覆い被さっている。地図によっては阪神高速の表記のみで、東横堀川の表記を省略するものも見られ、川の存在感が薄れがちである。 以前は川底にヘドロが蓄積され、ガスが発生するほど汚れていたが、地元住民や自治体の努力によって水質は改善傾向にある。2000年(平成12年)には東横堀川水門と道頓堀川水門を設置して、高潮の防御および河川水位を一定に制御することが可能になり、親水性の高い水辺再生への取り組みがなされている。 ■歴史■1585年(天正13年)に豊臣秀吉の命により大坂城の西惣構堀として開削された、大阪市で最古の堀川である。なお、1594年(文禄3年)の開削とする説もある。1615年(慶長20年)に大坂冬の陣で徳川方と豊臣方が和睦する際、大坂城の惣掘の一部であるので和睦の条件の通りに埋め立てられた。しかし、大坂夏の陣で大坂城が落城するとすぐに掘り返され、ほぼ同時に堀止から西へ道頓堀川が開削され、1622年(元和8年)には末吉橋の下流側から西へ長堀川が開削された。大坂の街を東から西にへ、滔々(とうとう)と流れる大川。その大川から分流し、北から南へと流れる東横堀川。 川の境目には築地と呼ばれる造成地があり、葭屋橋(よしやばし)という低い橋が架かる。 船の往来に妨げにならぬよう、葭屋橋(よしやばし)には橋脚がないことで知られ、名所のひとつになっていた。 (略) 一つ手前の今橋に立てば、眼下に葭屋橋(よしやばし)、それに大川と東横堀川の交わる景観を望むことが出来る。 今橋の欄干はとても低く、油断して身を乗り出せば川へ落ちそうになるのだが、橋の中ほどに佇んで眺める旅人が後を絶たない。 大坂名所ということで役人も大目に見ていた。(「花だより」より)■東横堀川に架かる橋■上流から ■葭屋橋■ - 土佐堀通(▲写真右)と今橋(左)は、東詰でV字型に架かっている形になっているが、元は別々に架かっていた。 ■今橋■■高麗橋■(東横堀川水門)平野橋大手橋本町橋 - 本町通農人橋 - 中央大通久宝寺橋安堂寺橋末吉橋 - 長堀通九之助橋東堀橋瓦屋橋上大和橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.03
コメント(0)
■以前blogに書いた、中島掘割のこと。■中島掘割は、堂島川と土佐堀川にはさまれた中ノ島に作られた掘割。これまでは、作られた時代や埋め立てられた時代、秋月橋の上に架かる橋の名前などよくわからなかった。 「大阪の橋ものがたり」によると、「明治11年(1876)、中ノ島掘割は、大阪駅に荷を運ぶ大型船を通す目的で、■梅田入堀川■とともに開削され、北側に中島橋、南側に秋月橋が架けられた。」とあり昭和32年(1957)に埋め立てられた。とある。そこで、新たな疑問が湧いてきた。 「みをつくし料理帖・特別巻:花だより」で江戸時代の大坂の地図があり、そこに中ノ島掘割らしきものが見える。明治になって作られたはずの掘割がなぜ、江戸時代の地図にあるのか・・・???謎だ・・・。中ノ島掘割を再度下記に記しておく。中之島は、堂島川と土佐堀川に挟まれた細長い島だ。例えば、土佐堀川で荷物を積んで、地図で真上の堂島川に渡るには、どうするのか?今ならエンジンが付いた船で簡単に渡れるが、かつては手でこぐのだから、なるべく遡るのは避けた方がいい。そこで土佐堀川と堂島川を繋ぐ中之島を縦貫する水路、堀川=中之島掘割があった。▲■土佐堀川と秋月橋と朝日新聞大阪本社の社屋■土佐堀側、左端が秋月橋、白壁が本社の長屋門、右端は旅館「西照庵」。(株式会社朝日新聞社所蔵)かつてあった、■今はない西横堀川■から出た船が、■土佐堀川■を渡り、中之島掘割を通り■堂島川■を渡り、■堂島掘割(梅田入堀川)■に入る。そこから大阪駅に船で荷物を運び、大阪駅からは、列車を使うという風になっていたそうだ。■中之島を縦貫していた中之島堀割。■中之島堀割は土佐堀川から堂島堀割に入るための捷路という意味合いが強く,大阪駅の荷揚場廃止とともに埋め立てられ,姿を消した。中之島掘割には、橋が架かっている。一つは、「秋月橋」で、もうひとつは名前が書いていない。そこで調べてみると、■中之島堀割ノ橋ヲ、秋月橋、 中島橋ト云、■とある。中之島橋というのか、と思っていたら、■比丘尼橋■という記述もある。いまの中之島は貞享年間まで現在の日本銀行支店の西方に堀割があって、これによって堂島川と土佐堀川の水が連絡し、 この堀割から東を上中之島、西を下中之島(肥後島)と称し、両島を東西に結ぶ比丘尼橋が架けられていた。(▲この橋はばら園橋。)中之島掘割は、こんな感じだったのだろう。■セピア色の写真はここからお借りしました。■(右、土佐堀川、左、堂島川)中之島の東の方には、バラ園になっている小さな島がある。(セピア色の写真)1766年(明和3年)、当時の中之島東端に■「山崎ノ鼻」■と呼ばれる新地が埋立造成されて遊興地・景勝地となった。1891年(明治24年)に大阪市初の市営公園として整備され、1921年(大正10年)に行われた大川の浚渫で出た土砂の埋立により、現在の形状となった。なぜ、離して作ったのか?同じ埋め立てるなら、繋いだ方がいいのにと思っていたが、船が通りやすいようにわざわざ離したのだ。ここは、■東横堀川■があり、通路を通れば■今はない天満堀川■に繋がっている。こんな形で中之島堀川もあったのかと納得した。 「みをつくし料理帖・特別巻:花だより」で江戸時代の大坂の地図があり、 そこに中之島掘割」が!!■川の痕跡巡り■■西横堀川の痕跡と金屋橋■■難波新川の名残り■■天満堀川跡と太平橋■■梅田入堀川跡と出入り橋■■廃川跡を行く■■古代の運河 古市大溝■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.01
コメント(0)
■玉江橋は■大江橋や渡辺橋と同様に、元禄期の堂島開発によって架けられた橋である。この時、古代大坂に架けられていたとされる堀江橋の名前で復活されたが、のちに玉江橋と変更されている。玉江の由来は、『中之島誌』によると、欽明朝のころ堀江で美しい玉が見つかり、堀川戎神社の御神霊としたが、その場所を玉江と呼んだという縁起から命名したとされている。江戸時代、玉江橋の北には肥後藩、中津藩の蔵屋敷があり、南には久留米藩の蔵屋敷や理宝院という薬師堂があり、縁日には大層賑わった。(▲玉江橋は、一本に見えて2本に別れている。)明治18年の大洪水で流失した後、一たん木橋で復旧されたが、明治42年の北の大火で類焼している。その後、昭和4年に第一次都市計画事業によって近代的な3径間鋼ゲルバー桁に架け替えられた。昭和44年には高潮対策による嵩上とともに下流側に新橋が架けられ、拡幅された。また、平成3年には改装工事が行われ、土佐堀川の常安橋とともに、現代的なアルミ製の高欄や照明灯、タイル舗装が用いられている。福澤諭吉は玉江橋の北詰にあった中津藩の蔵屋敷で生まれている。▼写真下の常安橋も玉江橋同様 二つに分かれている。■堂島川の橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 鉾流橋(ほこながしばし)■水晶橋■本来は汚水排出用につくられたダム。■大江橋■ 日の目を見なかった第二案■中之島ガーデンブリッジ■■渡辺橋■と堂島米市場跡碑田蓑橋(たみのばし)玉江橋堂島大橋上船津橋船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.18
コメント(0)
当時の姿でよみがえった大正ロマン建築2013年のグランドオープンに際して、1925(大正14)年に渡辺節の設計で建てられた旧ダイビル本館を見事に復元。ギリシャ風彫刻が施された柱、吹き抜けのエントランスなど見どころたっぷりだ。大正15(1926)年に渡辺節の設計で建てられた、ネオ・ロマネスク様式の大規模なビルディングです。上部はスクラッチタイル貼りのシンプルな外観ですが、1階の北側正面には大國貞蔵と言う彫刻家が手がけた円柱が並ぶ濃密なデザインが施されています。渡辺節設計で同時期に建てられた東京の旧丸ビルが既に取り壊され、大正期の大規模オフィスビルとしては、神戸の商船三井ビルとこのダイビル本館が、現存する最後のもので貴重なものです。平成22(2010)年の建て替え(高層ビル化)が決定していて、取り壊される寸前になっていた。堂島川に浮かぶ船を思わせる建物に保存運動が高まり、残された。前の歩道は、レンガが、ヘリンボーンの形に敷かれている。▲入口▲入口▼ 住所:大阪府大阪市北区中之島3-6-32アクセス:Osaka Metro四つ橋線「肥後橋駅」から徒歩5分 または、JR東西線「北新地駅」から徒歩10分 営業時間:店舗により異なる 定休日:店舗により異なる ■ダイビル本館■■大阪中之島の中央部分にあるダイビル本館。■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.17
コメント(2)
■田蓑橋は■元禄時代、堂島開発によって架けられた橋の一つである。それぞれの橋には大坂に古くから伝えられた由緒ある橋の名や歌枕として有名な地名などから採って付けられたが、田蓑は古代の大阪にあったとされる八十八島の一つ、田蓑島に由来する。橋の周辺は各藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。南西側にあった広島藩の蔵屋敷の塀際には、蛸の松という姿の良い松の巨木があり、名所になっていた。近年、広島藩の蔵屋敷跡の発掘調査が行われ、大規模な舟入の構造などが確認された。田蓑橋が近代橋になったのは第1次都市計画事業によってである。現在では見られないが、優美な形のコンクリートアーチで、戦前の大阪の橋の中でも屈指の美しい橋であった。この橋の設計にあたって、大正13年に行われた大江橋の意匠設計コンペの第3等の作品が参考にされた。ロマネスク風のデザインをもった名橋も地盤地下には勝てず、上部工が架け替えられた。橋体を出来るだけ軽くするために鋼床版桁が用いられている。 雨により田蓑の島をけふ行けど名にはかくれぬものにぞありける 紀貫之(古今集) 雨なので、蓑を着て田蓑の島に今日行ったのだけれど、蓑という地名だけでは体を隠すものにはならない。 *ここの田蓑は、田蓑島のことで、田蓑橋ではない。■田蓑神社、佃、佃煮■■蛸の松(たこのまつ)は、■大阪市福島区福島1丁目にある松の木の名称。堂島川の右岸・田蓑橋北詰の袂にある。 最初の蛸の松は、堂島川の左岸・現在の田蓑橋南詰のもう少し下流側、玉江橋との中間ぐらいの位置にあった。 枝振りが蛸の泳ぐ姿に見えるということから、「蛸の松」と呼ばれるようになった。 その松の木は慶安年間に福島正則が植えたといわれており、その後、すぐ近くに屋敷を構えていた浅野氏が毎年扶持十石を与えて維持したという。 しかし、明治44年(1911年)についに枯れてしまった。 その切株の一部は、現在も大阪教育大学の天王寺キャンパス内に保存されている。 なお、現在の蛸の松は平成16年(2004年)に護岸工事の一環として植えられたものである。蛸の松がある対岸に「大阪府師範学校跡」の石碑。切株の一部は、現在も大阪教育大学の天王寺キャンパス内に保存されている。というが、今の教育大は、当時「大阪師範学校」。明治10年6月にここに出来たあと、明治34年3月に天王寺に移転した。「この地に蛸の松があったという」文字。■大阪大倉商業学校跡地■ 大阪大倉商業学校跡地の碑が堂島川沿いの遊歩道にあります。柵の向こう側にあって少し見にくいです。この地に前身となる関西商工学校が明治35年に発足。その後、大倉喜八郎が明治40年に大倉商工学校を開設しました。ホテルオークラなどの経営で有名な大倉財閥の大倉喜八郎が、私財を投じて大阪大倉商業学校を開校しました。堂島川に面し、府立大阪医学校(現在の大阪大学医学部)に隣接する府有地を、無償で借りたわけです。■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■鉾流橋(ほこながしばし)■■水晶橋■本来は汚水排出用につくられたダム。■大江橋■ 日の目を見なかった第二案■中之島ガーデンブリッジ■■渡辺橋■田蓑橋(たみのばし)玉江橋堂島大橋上船津橋船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.16
コメント(2)
中之島は、堂島川と土佐堀川に挟まれた細長い島だ。例えば、土佐堀川で荷物を積んで、地図で真上の堂島川に渡るには、どうするのか?今ならエンジンが付いた船で簡単に渡れるが、かつては手でこぐのだから、なるべく遡るのは避けた方がいい。そこで土佐堀川と堂島川を繋ぐ中之島を縦貫する水路、堀川=中之島掘割があった。▲■土佐堀川と秋月橋と朝日新聞大阪本社の社屋■土佐堀側、左端が秋月橋、白壁が本社の長屋門、右端は旅館「西照庵」。(株式会社朝日新聞社所蔵)かつてあった、■今はない西横堀川■から出た船が、■土佐堀川■を渡り、中之島掘割を通り■堂島川■を渡り、■堂島掘割(梅田入堀川)■に入る。そこから大阪駅に船で荷物を運び、大阪駅からは、列車を使うという風になっていたそうだ。■中之島を縦貫していた中之島堀割。■中之島堀割は土佐堀川から堂島堀割に入るための捷路という意味合いが強く,大阪駅の荷揚場廃止とともに埋め立てられ,姿を消した。中之島掘割には、橋が架かっている。一つは、「秋月橋」で、もうひとつは名前が書いていない。そこで調べてみると、■中之島堀割ノ橋ヲ、秋月橋、 中島橋ト云、■とある。中之島橋というのか、と思っていたら、■比丘尼橋■という記述もある。いまの中之島は貞享年間まで現在の日本銀行支店の西方に堀割があって、これによって堂島川と土佐堀川の水が連絡し、 この堀割から東を上中之島、西を下中之島(肥後島)と称し、両島を東西に結ぶ比丘尼橋が架けられていた。(▲この橋はばら園橋。)中之島掘割は、こんな感じだったのだろう。■セピア色の写真はここからお借りしました。■(右、土佐堀川、左、堂島川)中之島の東の方には、バラ園になっている小さな島がある。(セピア色の写真)1766年(明和3年)、当時の中之島東端に■「山崎ノ鼻」■と呼ばれる新地が埋立造成されて遊興地・景勝地となった。1891年(明治24年)に大阪市初の市営公園として整備され、1921年(大正10年)に行われた大川の浚渫で出た土砂の埋立により、現在の形状となった。なぜ、離して作ったのか?同じ埋め立てるなら、繋いだ方がいいのにと思っていたが、船が通りやすいようにわざわざ離したのだ。ここは、■東横堀川■があり、通路を通れば■今はない天満堀川■に繋がっている。こんな形で中之島堀川もあったのかと納得した。 「みをつくし料理帖・特別巻:花だより」で江戸時代の大坂の地図があり、 そこに中之島掘割」が!!■川の痕跡巡り■■西横堀川の痕跡と金屋橋■■難波新川の名残り■■天満堀川跡と太平橋■■梅田入堀川跡と出入り橋■■廃川跡を行く■■古代の運河 古市大溝■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.15
コメント(0)
用事があって、天満に行ったついでに、天神さんこと、大阪天満宮にもお参り。(▲■表門■当社には六つの門があると書かれていた。表門は南中央にある。)大阪天満宮は、大阪府大阪市北区天神橋に鎮座する神社(天満宮)。延喜元年(901年)に菅原道真が藤原時平によって九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、この地にあった大将軍社に参詣した。そして、延喜3年(903年)に菅原道真が没した後に天神信仰が広まり始める。この門をくぐるとき、若い男性や小さな小学生が頭をぺこりと下げていたのが微笑ましかった。(梅の季節だった。)大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれている。 毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭、大阪三大夏祭りの一つとして知られている。▲■手水舎(てみずしゃ)■参拝者が身を浄めるために手水を使う施設のこと。天神さんといえば、牛。参拝客が頭をなでるから、牛の頭はピカピカ。表門には、梅の模様の石の防火用水があった。よく見ないと、看板に隠れて見逃す。私は防火用水が好きだから見逃さなかった。(^▽^)/ 誰が寄進したのかと思って調べたら、乾物商の問屋。天満は乾物相が多い。■今はない天満堀川の近くにも■乾物商の寄進した灯篭が。■銀二貫■の舞台は天満で、乾物・寒天を扱っている設定。表門から西に行くと蛭子(えびす)門がある。表門と蛭子門の通りで見つけた、手押しポンプ!!津田式手押しポンプが道の隅っこにあるということは、天神さんの防火のために違いない!!■津田式ポンプは、■ポンプ王と呼ばれる広島の津田喜次郎(きじろう)(1888-1959)が、大正9年(1920)に開発した昇進式ポンプです。●蛭子(えびす)門の由来●当宮には六つの門がありそれぞれに独自の用途と由来を持っている。当門は入ってすぐ 左手に「戎社(蛭児社)」が祀られていたことから「戎(えびす)門」と呼ばれてきた。江戸時代の「戎社」では 毎年の正月・五月・九月の十日に「蛭児尊遷殿神事」を斎行しておりこの年三回の「十日えびす」には数多くの参拝者が当門を利用した。その後 「戎社」には境内西北に移されたが「戎門」の名は変わらずに今に伝えられている。昨年正月に「十日えびす」を復興をしたのを記念してその由来をここに記す。-平成二十年正月吉日 宮司 寺井種伯 門の左の石垣は、度重なる船場の火災から守るために防火壁として作られたそう。船場からの火災はこの防火壁で免れたが最後の火災「大塩平八郎の乱」は石垣のない方から火が攻めてきてしまった。(▲蛭子門を入って見る境内と本殿)■本殿■現在の本殿は、天保14年(1843年)に再建されました。 大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度もの火災に遭い、なかでも大阪市中を焼き尽くした享保9年(1724年)の妙知焼けや、大塩平八郎の乱による天保8年(1837年)の大火では、全焼致しました。その約6年後に、大阪市中の氏子や崇敬者又献身的な奉仕者によって、現在のご本殿が再建されました。本殿内も他のお社に見られるようなきらびやかさは見られませんが、先の大東亜戦争にも焼けずに残ったのは、氏子の方々が焼ける自分の家を横目に見ながら「天神さんを焼いたらあかん」と守って下さったおかげです。歴史ある場所で古いものが残っているが、常夜灯とお百度石を兼ねたものが、表門を入ってすぐにあった。反対側を見ると「安政二年 海上安全 家内安全」の文字が見える。安政二年とは、江戸時代で1856年。 梅が満開の境内は、出店がいっぱい。観光客でにぎわっていた。 東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ 菅原道真 地下鉄谷町線・堺筋線「南森町駅」、JR東西線「大阪天満宮駅」から徒歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.02.25
コメント(0)
■西横堀川(にしよこぼりがわ)は、■かつて大阪府大阪市を流れていた運河。 土佐堀川の■錦橋■上流側より分流し、南に向かって流れて■道頓堀川■に注いでいた。長さは約2.5km。中央区と西区の境界で、埋立後の跡地は阪神高速1号環状線(北行き)の高架と大阪市西横堀駐車場に利用されている。(▲金屋橋から見た、残っている西横堀川。)現在は道頓堀川から北に分流し、金屋橋を少し越えた部分だけが残存し、ここから土佐堀川への合流部まで埋め立てられている。▲埋められた川の跡は、高速道路が走っている。西横堀川は、土佐堀川の肥後橋の北まで流れていた。(▲金屋橋から見た道頓堀川を行く船。)■西横堀川に架かっていた橋■上流から 西国橋 - 土佐堀通船町橋尼ヶ崎橋筋違橋呉服橋京町橋新天満橋相生橋敷津橋信濃橋 - 本町通江達橋 - 中央大通篠橋 - 中央大通新渡辺橋助右衛門橋新町橋上繋橋 - 長堀通下繋橋御池橋清水橋木綿橋現存する橋■金屋橋 - 最下流■西横堀川とその橋の跡を歩く■■川の痕跡巡り■■西横堀川の痕跡と金屋橋■■難波新川の名残り■■天満堀川跡と太平橋■■梅田入堀川跡と出入り橋■■廃川跡を行く■■古代の運河 古市大溝■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.12
コメント(0)
■渡辺橋の名称は■古代から中世の文献にも見られるが、当時は現在の橋とは異なる位置にあったとされ、古代~中世文献における渡辺橋の正確な位置もはっきりしない。 現在の地に橋が最初に架けられたのは江戸時代で、堂島開発の一環として架けられた5つの橋(大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋)のうちの1つである。渡辺橋の名称は、古代大阪の渡辺津(上町台地の北端あたりに比定される説が有力)からとられたとされている。 現在の橋は、地下鉄四つ橋線の建設と高潮対策の2つの理由により、1966年に架け替えられたものである。1991年には歩道部の改装がおこなわれた。(▲1966年の親柱)2003年に橋面と高欄部の改修が行われたが、その際、1966年に架けられた当時の親柱が橋の南詰東側に保存された。肥後橋と合わせた顕彰碑も同じ場所に設置されている。 「渡辺」は渡しのほとりを意味し、大阪の古地形から上町台地の北端部あたりを指したものと考えられる。平安時代にはこの水陸の結節点に勢力を張った渡辺党という武士団があった。江戸時代になり、堂島開発にともなって渡辺橋はほぼ現在の位置に架けられた。江戸期には大江橋と渡辺橋の間の堂島の浜は、堂島米会所を中心として米仲買人の家が立ち並び、米の街といってもよいほどの盛況であった。(▲肥後橋と渡辺橋のデザインは、今も昔も一緒。)■堂島米市場跡碑■江戸時代米の取引きは、当初蔵屋敷の連なる土佐堀川沿岸の、北浜の路上で行われていた。これを開いたのが豪商淀屋の2代目个庵(こあん)といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていた。その後、交通妨害になることや、当時開発されたばかりの堂島新地の振興もあって、当地に移された(元禄 10年、1697)。この移転は、淀屋の幕府によるとりつぶしの関係も考えられるが、いずれにしても公認のものではなく、米商人の自主的取引きであった。その後江戸商人による公認の市場開設などあったが、享保(きょうほう)15年(1730)公認の帳合米市場が発足し、ここでの相場が全国の基準となった。幕府崩壊と共に、明治2年(1869年)に明治政府により廃止された。それに伴い堂島周辺の諸藩の大名蔵屋敷も没収されている。その後、明治4年(1871年)に「堂島米会所」として復活。明治6年(1873年)に油取引を加えて「堂島米油会所」となったが、明治9年(1876年)に油取引を分離して「堂島米商会所」となり、明治26年(1893年)に「大阪堂島米穀取引所」へと発展した。大正7年(1918年)には過剰投機により米騒動を引き起こした。昭和14年(1939年)に米穀配給統制法による日本米穀株式会社に吸収されて幕を閉じた。 北区堂島浜-丁目3中之島ガーデンフリツジ北東詰■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■鉾流橋(ほこながしばし)■■水晶橋■本来は汚水排出用につくられたダム。■大江橋■ 日の目を見なかった第二案■中之島ガーデンブリッジ■ 渡辺橋田蓑橋(たみのばし)玉江橋堂島大橋上船津橋船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.08
コメント(0)
(▲大江橋と堂島川。)中之島より上流が大川、または天満川(てんまがわ)、下流が安治川と呼ばれる。(▲大川から堂島川と土佐堀川に分かれるところ。)(▲左・堂島川、右・土佐堀川)中之島では南北両岸に分かれ、北が堂島川、南が■土佐堀川(とさぼりがわ)■と呼ばれる。堂島川はかつて■大江橋■の直前で堂島の北側へ■曽根崎川■を分岐していた。また、1878年(明治11年)には田蓑橋の上流側から大阪駅に向けて■梅田入堀川(堂島堀割川)■が開削された。しかし、曽根崎川は梅田入堀川より上流部が1909年(明治42年)の「北の大火」(天満焼け)で生じた瓦礫の廃棄場所になって埋め立てられ、1923年(大正14年)には下流部も埋め立てられた。梅田入堀川も1967年(昭和42年)には全て埋め立てられ、阪神高速11号池田線やオオサカガーデンシティの一部に利用されている。■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■鉾流橋(ほこながしばし)■■水晶橋■本来は汚水排出用につくられたダム。■大江橋■ 日の目を見なかった第二案■中之島ガーデンブリッジ■渡辺橋田蓑橋(たみのばし)玉江橋堂島大橋上船津橋船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.07
コメント(0)
■中之島ガーデンブリッジ■は、大阪市の堂島川(旧淀川)に架かる橋。大阪市北区中之島2丁目と堂島浜1丁目の間を結んでいる。橋の上を阪神高速1号環状線が通過している。歩行者専用の橋。ANAクラウンプラザホテル大阪の前に階段があり、その横に堂島米市場跡記念碑がある。1990年(平成2年)3月に架橋された(但し、正確には同年の4月1日から開催された花博'90に合わせて、突貫工事を行い、4月1日午前4時頃に完成した。橋の特徴として、橋脚が端に寄せられ、片持ち梁の橋桁でくさびのような形状としている。橋の中央に松岡阜の彫刻「そよかぜ」がある。幅員は広めになっており、くつろげる空間が確保されている。■橋洗い■大阪には江戸時代より、町人たちがお上に頼らず自らの私財を投じたり、労力を惜しまず完成させたものが多くあり、「橋」もその一つです。自ら「橋」を架けた心意気は「なにわの八百八橋」という言葉に表れているほどです。この先人達が私財を投じてつくった橋や道が、何世代にも渡って受け継がれてきています。私たちはその心意気を受け継ぎ、 大事に守り育てていかなけ ればなりません。この想いが「橋洗い」に結びつきました。 「中之島ガーデンブリッジ」は、防災の使命を持って生まれた平成の橋です。 ■バブル最盛期の橋■中之島遊歩道と堂島公園を結ぶ歩行者専用橋として1990年に架設された新しい橋である。同時に、堂島地区から、広域避難地に指定された中之島地区へ避難するための通路としても想定されている。まるで、公共工事の予算を取るためにいろいろ詰め込んだ多目的ダムか広域農道のような橋だ。おまけに、1990年4月1日の花博開催に間に合わせるため表装工事は徹夜の突貫工事をし、4月1日午前4時頃に何とか完成したとか。公共工事に盛り、たくさんの意味をくっつけて湯水のような支出を正当化しようというバブル最盛期の典型のような橋でもある。 橋長:77.5m幅員:20.0m形式:桁橋完成:平成2年行政区:北区河川名:堂島川 アクセス:京阪中之島線 大江橋駅 1番出口 およそ50m 徒歩1分■堂島川■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 鉾流橋(ほこながしばし)■水晶橋■本来は汚水排出用につくられたダム。■大江橋■ 日の目を見なかった第二案(▲中之島ガーデンブリッジの上には、江戸時代、明治時代の橋の絵が。)中之島ガーデンブリッジ渡辺橋田蓑橋(たみのばし)玉江橋堂島大橋上船津橋船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.08.30
コメント(2)
■曽根崎川(別名蜆(しじみ)川)跡■は、大阪府大阪市北区・福島区にかつて存在した河川である。別名は蜆川(しじみがわ)。堂島川の水晶橋 - 大江橋間より北へ分岐し、北新地の新地本通と堂島上通を両岸に西流、ほたるまちや関西電力病院の北を通り、堂島大橋 - 船津橋間で再び堂島川に合流していた。(▲御堂筋なので、イチョウ並木が・・・。)(▲サンマルクカフェの前が蜆川の跡)別名の蜆川の呼称は、堂島蜆が多く取れたことに由来する、或いは改修が繰り返されて川幅が縮んだので「ちぢみ川」から転訛したとも言われている。■歴史■(▲滋賀銀行の右下に「しじみばし」の跡。)貞享・元禄年間に河村瑞賢によって河川改修が行われ、1685年(貞享2年)に堂島新地(左岸)、1708年(宝永5年)に曽根崎新地(右岸)が拓かれ、米市場や歓楽街として発展。近松門左衛門の『曾根崎心中』や『心中天網島』にも登場する。1909年(明治42年)に北の大火(天満焼け)が発生した際に、瓦礫の廃棄場所となって緑橋(梅田入堀川)より上流側が埋め立てられ、1924年(大正13年)には下流側も埋め立てられて消滅した。 *地下鉄御堂筋線を降り淀屋橋■大江橋■を渡って、北へすぐ。■架かっていた橋■(▲滋賀銀行のビルの右下)上流から難波小橋蜆橋 - 御堂筋曽根崎橋桜橋 - 四つ橋筋助成橋緑橋梅田橋浄正橋 - なにわ筋汐津橋堂島小橋 - あみだ池筋■川の痕跡巡り■■西横堀川の痕跡と金屋橋■■難波新川の名残り■■天満堀川跡と太平橋■■梅田入堀川跡と出入り橋■■廃川跡を行く■■古代の運河 古市大溝■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.07.15
コメント(0)
■昭和橋(しょうわばし)■木津川の分流点に昭和橋が架けられたのは昭和7年のことである。この路線は計画道路梅田九条線(土佐堀通)に当たっており、市電路線でもあった。主橋部には支間長69mのタイドアーチが適用されたが、橋が土佐堀通りから川口へ斜めに渡るため、67度近い斜橋となっているため斜めになったアーチ橋という大変設計の難しい構造となっている。大きな橋体の重量を支える基礎には、軟弱地盤であることを考慮に入れ、長さ22~25mの木杭が、両側で千本以上も打ち込まれている。宮本輝氏の■泥の河■は、この橋の描写から物語が始まっている。(▲土佐堀川と木津川の交わるところ。)堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわる所に三つの橋がかかっていた。 昭和橋と端建蔵橋、それに船津橋である。 橋長:82.8m幅員:25.5m形式:アーチ橋(タイドアーチ)完成:昭和7年行政区:西区河川名:木津川 アクセス:OsakaMetro千日前線・中央線 阿波座駅 10番出口 およそ450m 徒歩7分(▲剣山のようなものが橋に!登らないようにということか。)■木津川に架かる橋■昭和橋 - 土佐堀通 木津川橋 - 本町通 木津川大橋 - 中央大通・阪神高速16号大阪港線 大渉橋 松島橋 伯楽橋 - 長堀通 千代崎橋■大正橋■ - 千日前通 大阪環状線木津川橋梁 大浪橋 - 大浪通 木津川橋 - 国道43号・阪神高速17号西大阪線 千本松大橋 新木津川大橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.06.08
コメント(0)
■木津川■大阪府大阪市西区中北部で淀川分流の土佐堀川から分かれ、西区中央部を南へ縦断。■大阪ドーム近くの大正橋■で■西道頓堀川が東から合流■、西へは岩崎運河から尻無川への流れがある。本流は大正区と浪速区、西成区との境界を成しながらなおも南下し、千本松大橋付近から徐々に南西流、そして西流へ転じる。下流では大正区と住之江区の境界となり、木津川運河を分けて大阪港南部(大阪南港東部)へ注ぐ。■天満の子守歌■ねんねころいち 天満の市で 大根そろえて 舟に積む舟に積んだら どこまでゆきゃる 木津や難波の 橋の下「天満の子守歌」で歌われた歌詞に木津の名前が・・・。川でつながっているということだ。淀川から分かれて大阪湾に注ぐ木津川では、大型の貨物船が盛んに行き交います。そのため長い間、木津川には橋がなく、人々の生活の足は渡し船でした。■渡し■落合上渡 大正区千島1丁目 - 西成区北津守3丁目 日中15分毎。落合下渡 大正区平尾1丁目 - 西成区津守2丁目 日中15分毎。千本松渡 大正区南恩加島1丁目 - 西成区南津守2丁目 日中15分毎。道路橋は千本松大橋が対応。木津川渡 大正区鶴町2丁目 - 住之江区平林北1丁目 日中45分毎。道路橋は新木津川大橋が対応。昭和橋 - 土佐堀通木津川橋 - 本町通木津川大橋 - 中央大通・阪神高速16号大阪港線大渉橋松島橋伯楽橋 - 長堀通千代崎橋■大正橋■ - 千日前通大阪環状線木津川橋梁大浪橋 - 大浪通木津川橋 - 国道43号・阪神高速17号西大阪線千本松大橋新木津川大橋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.06.07
コメント(0)
■端建蔵橋(はたてくらばし)■江戸時代の中之島には諸藩の蔵屋敷が建ち並んでおり、中之島の西端にも蔵が建てられていたため、端建蔵という地名が生まれたとされている。ただし、1843年(天保14年)に建てられた西条藩の蔵屋敷が中之島で最も西にあった蔵屋敷だが、中之島の西端というような場所には位置しておらず、民家の土蔵に由来するとの説もある。享保年間に湊橋町(当時の町名)の西端に新築地ができ、年中裸足で過ごすような倹約家が土蔵を建てたことから「はだし蔵」とも呼ばれていた。(▲アーチは、昭和橋)■端建蔵橋(はたてくらばし):土佐堀川■橋長:111.95m幅員:24.00m形式:桁橋完成:大正10年(昭和38年嵩上げ)行政区:北区、西区河川名:土佐堀川アクセス:OsakaMetro中央線・千日前線 阿波座駅 10番出口 およそ600m 徒歩10分 大阪シティバス「船津橋」 「川口一丁目」■土佐堀川に架かる橋■■天神橋■■難波橋■■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋湊橋(みなとばし) - 新なにわ筋の橋端建蔵橋(はたてくらばし)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.23
コメント(0)
■湊橋 (土佐堀川)■湊橋(みなとばし)は、大阪市北区中之島6丁目と大阪市西区土佐堀3丁目を結ぶ、土佐堀川(旧淀川)に架かる新なにわ筋の橋。昭和15年に架け替えられた際、橋の位置は、上船津橋と直線でつながるように決められた。橋の形式は三径間のゲルバー式鋼鈑桁で、橋長は88.5メートル、幅員は11.2メートルであった。現在の橋は、都市計画道路尼崎堺線の拡幅工事によって、昭和57年に湊橋が架け替えられた。新しい橋は、幅員約17mの橋が両側に架かり、中央に阪神高速道路大阪神戸線が高架で通っており、橋の基礎は一体で造られている。「泥の河」の石碑。堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわる所に三つの橋がかかっていた。昭和橋と端建蔵橋、それに船津橋である。藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れるこの黄土色の川を見おろしながら、古びた市電がのろのろ渡っている。「泥の河」の冒頭。湊橋の南詰めには作家、宮本輝のデビュー作、「泥の河」の一節が刻まれている石碑がある。かつて橋のたもとには宮本の父親が営んでいた中華料理店があり、宮本も9歳まで同地で過ごした。 「泥の河」はその時の体験を元に書かれたもので、物語の中には「湊橋」の地名も登場する。■「泥の河記念碑建立■■泥の河■(▲地名をあらわす標識がもうすぐ海だといっている。)■カキ船■ならぬカキ小屋。■湊橋■橋長:84.50m幅員:17.35m形式:桁橋(連続桁)完成:昭和57年行政区:西区、中央区河川名:土佐堀川アクセス:大阪市営地下鉄千日前線 阿波座駅 10番出口 およそ500m 徒歩8分 大阪市営バス「船津橋」「土佐堀三丁目」■土佐堀川に架かる橋■■天神橋■■難波橋■■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋湊橋(みなとばし) - 新なにわ筋の橋端建蔵橋(はたてくらばし)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.22
コメント(0)
(▲カフェ「MOUNT(マウント)にて)■ランチの後■北浜通りを歩いた。一般的に浜は海岸線を示すが、江戸時代までの大坂では、川岸を「浜」と呼んだ。「北浜」という地名も、土佐堀川の川岸という意味。なぜ、北浜なのかというと、「船場」という地形の「北の浜」ではないかと私は考えている。■船場■ ランチで満腹したのに、「お茶しよう」となる。甘いものは別腹。寄ったのが、■MOUNT(マウント)■食べたものは、揚げパン。写真を撮るのを忘れた。(ノД‘)ちょっと、肌寒かったけど、テラス席に座って、土佐堀川の流れや、公会堂、中の島図書館、市役所、中の島公園などを眺めながらおしゃべり。 コーヒーを飲み、揚げパンを食べながら、私は、古民家カフェの話をした。妄想の・・・。しかし、場所も、店の名前も、メニュー、ポリシー、従業員など具体的に決まっている。もちろん、妄想。友人は、喜んで、「私も働くわ(*´▽`*)」と言う。観光船もよく通る。お茶した後は、北浜をぶらつく。■北浜レトロ■や■カフェ&ダイナーNORTHSHORE(ノースショア)■など、おしゃれなカフェが多い北浜。友人とは■去年もこのあたりをぶらついた。■大阪取引所前の五代友厚銅像▲五代友厚像。■大阪堂島米会所■諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身である。世界で最初の公設の商品先物取引と言われる。 オリジナル帽子のデザインから製作の■PUT ON(プット オン)■■インスタ■をのぞいたり・・・。次回は、5月に会う約束をして、帰った。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.04.19
コメント(0)
全106件 (106件中 1-50件目)