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■2019年9月■月*真子様は月のようだと婚約者*野分去り瓦数枚落ちにけり*UVを重ねて塗りぬ初秋の陽(ひ)*握り飯用意して待つ野分かな*何事も無き日をよしと秋の月 ■2020年9月■朝顔*朝顔の種取る手元夕日さす*朝顔の蔓が欲しがるフェンスかな*朝顔の雨欲し気なり街暮れる*風の盆 越中八尾(やつお)の石畳*コロナあり九月の海に魚戻る■2021年9月■秋の山*秋風や父の横顔子規に似て*弱りくる目をいたわりつ読書かな*犬連れて登る人あり秋の山*岬馬すっくと立つや秋の山*多羅葉を栞にせんと秋の山■2022年9月■立秋*青き目の人も等しく秋立ちぬ*秋立つや爆撃の地の人の影*立秋やコロナの勢いおさまらず*いつの間に秋は来たのか窓暗し*台風の過ぎてテレビに歌戻る そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私もNO俳句NOライフというタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019~2022年1月■■2019~2022年2月■■2019~2022年3月■■2019~2022年4月■■2019~2022年5月■■2019~2022年6月■■2019~2022年7月■■2019~2022年8月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.09.29
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川に沿いのぼれるわれと落ち鮎の会いのいのちを貪(むさぼ)れるかな 石本隆一『星気流』(昭45)所収。昭和5年生まれの現代歌人。感覚を精細に表現し、心理の陰影に富んだ歌を作る。山間の清流をさかのぼって旅したのだろう。旅舎の夕食に産卵のためくだってきた落ち鮎が出た。それをむさぼりつつ、自分とこの一尾との出会いを思い、いきものの悲しみの感をいだいたのだ。「のぼれる」われと「落ち」鮎の、「会いのいのち」をむさぼったというところ、目が詰んだ表現である。 大岡 信 著「折々のうた」より■折々のうた■過ぎてゆく四季の折々に自然の輝きをとらえ、愛する人を想いながら、人びとはその心を凝縮された表現にこめてうたい続けてきた。「日本詩歌の常識づくり」を目ざす著者は、俳句・短歌から漢詩・現代詩に至るまで、日本人の心のふるさとともいうべき言葉の宝庫から秀作を選び、その豊かな光沢と香りを鑑賞する。朝日新聞連載一年分に加筆。*********************「折々のうた」で私が企てているのは「日本詩歌の常識」づくり。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫。わけても若い人々に語りたい。(「あとがき」より)北海道・東部(以下、道東)を9月22日(木)~10月4日(火)、13日間かけて廻った。■2022年9月24日、■知床観光船で海から知床を見た後、知床五湖を見、そこでお土産に鮭の昆布巻を買った。美味しそうだったし、日持ちするから、ちょっと高かったけれど、奮発した。その後、温泉ホテルなどが立ち並ぶ斜里町ウトロ地区へ。北海道の知床半島で秋の訪れを告げるサケの遡上(そじょう)が本格化している。ウトロ地区の中心を流れるペレケ川では、大人のひざ下ほどの浅い流れでサケが盛んに水しぶきをあげていた。遡上して川に卵を産んだ後だろうか、力尽きて死んでしまう鮭もいた。その鮭にカラスが群がっている。鮭は、「老後の資金が2000万円」なんて心配はしない。自分の命と引き換えに次の命を生み出している。■10月1日■には、阿寒湖の周辺で度々鹿に遭遇した。その夜の食事に鹿の肉が提供されたが、私はたべられない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.09.23
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■2019年8月■お中元*なすことの無き日のゴーヤの苦きかな*届いたる中元で知る友の無事*朝顔もそれぞれの名を持つと知る*薄青きガラスの皿に盛る西瓜*思い出は父の作りし糸瓜棚■2020年8月■花火*命日に線香代わりの花火かな*はかなきは三浦春馬と花火かな*続く夏残して三浦春馬逝く*蝉の声三浦春馬の嘆きあり*夏の日の記憶の言葉「避病院」十八という日は嫌い春馬逝く■2021年8月■敗戦忌*風熱し客なき五輪開かれぬ*饒舌な五輪選手や風熱し*敗戦やもんぺで作ったいもの味*ゴマ塩が欲しいと便り終戦忌*夏の日の学徒動員握り飯■2022年8月■立秋 コロナで休み。 そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私もNO俳句NOライフというタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019~2022年1月■■2019~2022年2月■■2019~2022年3月■■2019~2022年4月■■2019~2022年5月■■2019~2022年6月■■2019~2022年7月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.29
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■2019年7月■夏休み*窓辺よりさす日まぶしく夏は来ぬ*夏休みひねもすのたりのたりかな*始まりてすぐ終わりくる夏休み*急に来てあたふた終る夏休み*ピーマンの緑濃くみゆ白き皿 ■2020年7月■ハンカチ*別れとてハンカチを振る人もなし*思い出のハンカチ白く輝けり*目印にハンカチ結ぶ旅鞄*七月や藤井七段一敗す*夏草や地名に残る川の跡■2021年7月■*カレーには辣韭(ラッキョウ)がよし夏来る*梅雨寒むやワクチンの跡しかと見る*ワクチンが体内に入り夏来る*抗体を得て七月の風吹きぬ*七月やワクチン注射跡重し■2022年7月■梅雨*昨年もこうであったか梅雨寒し*我もまた自然の一部草いきれ*手に痛し胡瓜の棘に朝の露*水茄子の色さえざえと朝の膳*孫十九眉濃く丈の高き夏 そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私もNO俳句NOライフというタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019~2022年1月■■2019~2022年2月■■2019~2022年3月■■2019~2022年4月■■2019~2022年5月■■2019~2022年6月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.29
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■2019年6月■紫陽花*紫陽花のこぼれて咲くや古き門*番傘の音じわじわと初夏の雨*梅雨なれど砂漠化進む地球規模*新緑の銀杏並木や御堂筋*幻の「五新鉄道」風光る■2020年6月■夏日*六月や利休鼠の雨蕭蕭*アボカドの種大きくて夏日さす*梅雨晴れ間アシカ悲しき曲芸す*六月やマスクの内にこもる熱*世界中コロナウイルス夏きざす■2021年5月■ ■2021年6月■コロナで休み■2022年6月■田植え(東北3県に旅行で休み) そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私もNO俳句NOライフというタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019~2022年1月■■2019~2022年2月■■2019~2022年3月■■2019~2022年4月■■2019~2022年5月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.28
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■2019年5月■粽*平成の終わりをかざる桜かな*元号の決まりて桜咲き初(そ)むる*元号は「令和」となりて桜咲く*新しき元号はじめや五月晴*思い出は遠き昔の粽かな■2020年3月~5月■新型コロナウイルスのため休み。■春の風(3月の題)■2021年5月■ ■2021年6月■コロナで休み■2022年5月■鯉のぼり*老農の鎌研ぐ姿麦の秋*五月雨を受けて古墳の緑冴ゆ*ゆったりとローカル線に風薫る*艶めいて新玉ねぎの白きかな*にわか雨慌てて下ろす鯉のぼり そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私もNO俳句NOライフというタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019~2022年1月■■2019~2022年2月■■2019~2022年3月■■2019~2022年4月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.29
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■2019年4月■(桜。ギリシャ旅行欠席)■2020年3月~5月■新型コロナウイルスのため休み。■春の風(3月の題)■2021年4月■桜*桜咲く盆と祭のように咲く*咲き初めし桜の下に落椿*明日咲くか明後日咲くか桜花*幾星霜生きたか地を這う老桜*玉の緒よ絶えなば絶えねと桜咲く■2022年4月■桜*散りぬれば はや思い出の桜かな*春色の衣まといて街ゆかむ*二またに流れる川あり桜(はな)の下*花冷えやエースナンバー孤独なり*花終わりはや来年の花を待つ そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私もNO俳句NOライフというタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019~2022年1月■■2019~2022年2月■■2019~2022年3月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.04.28
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■2019年3月■雛*母ゆかり古式ゆかしき押絵雛*鯖缶も使い切ったり冬ごもり*牡蠣船の一艘残れる淀屋橋*どんよりと空鈍色に風寒し*如月の光を雛(ひいな)にあてにけ■2020年3月~5月■新型コロナウイルスのため休み。■春の風(3月の題)■2021年3月■*初雪や予防接種のあと痒し*友逝きてはや一年の弥生かな*三月や大正橋に地震の碑*春風や流行(はやり)病を連れてゆけ*(2020年 コロナ禍)春風や豪華客船留め置かれ ■2022年3月■雛祭*マニキュアの赤きを愛でる二月尽*雛納町内会の役終る*戒名の無き父の墓土筆生ふ*人住まぬ家にも巡る雛祭*街の色にわかに変わる弥生かな そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私も「NO俳句NOライフ」というタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019年から2022年■(2019年1月は初めていない。)■2019~2022年2月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.03.29
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■2019年2月■*冬過ぎて春来たるらし梅の花*干ぴょうを買い来て今年の恵方巻*稗搗きの杵音かすかに里の春*病院のベッドの上にも初日さす*紫のパジャマが今年のショウガツゴ■2020年2月■節分*朝刊を見て確認す節分会*誕生日ケーキ買うなり二月尽*冬鳥や古墳の水面蹴とばして*蝋梅の黄色きっぱり咲きにけり*猫眠る畳一目の日脚伸ぶ ■2021年1月~2月■昨年12月よりコロナで句会中止■2022年2月■春近し*熱き茶と柔らかき菓子春近し*二月やワクチン三度体内へ*夕間暮れ我が誕生日ある二月*綿入れの羽織を見ずに二十年*春隣り川柳ひねる父の顔 そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私も「NO俳句NOライフ」というタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019年~2022年1月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.02.27
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そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私も「NO俳句NOライフ」というタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019年1月■まだ俳句をやっていなかった。■2020年1月■お年玉*新札の顔確かめてお年玉*初春や昭和歌謡を口ずさむ*初鏡今年も黒を選びをり*初春や古希の朝日の新しき*猪のバトン受け取る鼠かな◎これは川柳。2020年は鼠年。この頃は、まだコロナのことが他人事だったので新年会もあった。■2021年1月■コロナで休み(新年会なし)■2022年1月■(2021年12月が休みだった)*七種(ななくさ)や古きしきたり爪を切る◎七種のうちのひとつを椀にいれ、その中で爪を切るとその年は無事に過ごせるという古い言い伝え。*口紅をひくこともなし去年今年*旅人を迎える富士の峰白し*仰向けで思いを飛ばす初メール☝と☟これは、2009年に腰を骨折したさい、入院中のベッドの上で作った。*初春や医師の衣に日の光新年会あり。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.01.30
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私の前を歩くな 私が従うとは限らない 私の後を歩くな 私が導くとは限らない私と共に歩け 私たちはひとつなのだから (ソーク族の格言)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 先日、夫が私が読んでいる本を娘に進めるようにと言った。私は断った。「私が読んでいる本は、私が興味ある本で、他人に興味あるとは思えないから」と言って。私の考えを押し付けるようで私は、「この本を読むように」などと人には言えない、言わない。 ロザンの楽屋で2人が話していたを思い出した。ロザン・宇治原は、日本の偉人3人の一位に吉田松陰をあげている。その理由として、「みだりに人の師となるべからず」という吉田松陰の言葉に感動したからだと言う。「私の前を歩くな・・・」に似ているなと思う。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■ロザンの楽屋:【日本の偉人】宇治原が選ぶ「宇治原レベルで賢い日本の偉人ベスト3」パート②■(5分くらいから。)▲まだ、コロナのはじまったばかりの頃なのか、この頃のロザンの二人の距離が近い。●コメント●*これを聞いて納得してみだりに吉田松陰を師としてしまいそう。( ´∀` )■【日本の偉人】宇治原が選ぶ「宇治原レベルで賢い日本の偉人ベスト3」■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.01.28
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■秋の七草は■万葉集に収められている山上憶良の2首の歌が始まりです。「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」1つ目の歌で「秋の野に咲いている草花を指折り数えると7種類ある」とし、2つ目の歌で「それは萩の花、尾花、葛(くず)の花、撫子(なでしこ)の花、女郎花(おみなえし)、また藤袴(ふじばかま)、朝貌(あさがお)の花である」と述べています。「朝貌」については諸説ありますが、現在では桔梗(ききょう)が定説です。 桔梗は、その形の良さから多くの武将の家紋に用いられました。中でも明智光秀の水色桔梗の家紋は有名です。桔梗の根を乾燥させ粉末にしたものは、痰や咳の薬として用いられています。藤袴と同様、絶滅危惧種に指定されている花です。〈花言葉〉・・・清楚、気品、誠実、従順、変わらぬ愛、優しい温かさ秋の七草の覚え方【2】語呂合わせで覚える2つ目は頭文字の語呂合わせで覚える方法です。頭文字の語呂合わせには、代表的な覚え方が2通りあります。好みの語呂合わせを覚えましょう。また、他の語呂合わせを考えてみることもおすすめです。●「おすきなふくは?(お好きな服は?)」(お=オミナエシ、す=ススキ、き=キキョウ、な=ナデシコ、ふ=フジバカマ、く=クズ、は=ハギ)●「はすきーなおふくろ(ハスキーなお袋)」(は=ハギ、す=ススキ、き=キキョウ、な=ナデシコ、お=オミナエシ、ふ=フジバカマ、く=クズ)♪トラジの歌♪ 韓国民謡 (安野光雅作詞)トラジ トラジ 白い桔梗森の小道 草葉(くさば)の匂いあなたの目をみているとむねは トラジでいっぱいになるトラジ トラジ 白い桔梗トラジの根っこの 薬草採りに二人は山へいっただけなのに見たか聞いたかと うるさいカケストラジ トラジ 白い桔梗トラジのそばの 茨(いばら)がさした傷んだ指を あなたが吸ったあのときカケスが飛んでいったのトラジ トラジ 白い桔梗岩場のかげに 人目をさけてせっかく咲いた トラジの花をカケスよ お願い 見逃して 画家の安野光雅さんの■「絵のある自伝」■で知った「トラジの歌」。若い頃、炭鉱で働いていた時知った韓国の人から習った朝鮮民謡で安野氏の作詞だそうだが、テレビドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』 主題歌「オナラ」 を思い出す。■ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』 主題歌「オナラ」 【フュージョン国楽】■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.10.15
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残暑お見舞い申し上げます!昨日、8月7日、立秋からは、残暑見舞いとなります。■本といふ紙の重さの残暑かな■ 大川ゆかり暑さは立秋を迎えてから残暑と名を変えて、あらためてのしかかるように襲ってくる。俳句を始めてから知った「炎帝」という名は、火の神、夏の神、または太陽そのものを指すという。立秋のあとの長い長い残暑を思うと、炎帝の姿にはふさふさと重苦しい長い尻尾がついていると、勝手に確信ある想像していたのだが、ポケモンに登場する「エンテイ」は「獅子のような風格。背中には噴煙を思わせるたてがみを持つ」とされ、残念ながら尻尾には言及されていない。掲句は残暑という底なしの不快さを、本来「軽さ」を思わせる「紙」で表現した。インターネットから多くの情報を得るようになってから、紙の重さを忘れることもたびたびある現代だが、「広辞苑」といって、あの本の厚みを想像できることの健やかさを思う。ずっしりと思わぬ重さに、まだまだ続く残暑を重ね、本の重さという手応えをあらためて身体に刻印している。『炎帝』(2007)所収。(土肥あき子) 今月は、コロナ患者の激増で、月一回の句会は取りやめ。いつになったら、普通の生活が出来るのだろう。皆さま、お体ご自愛下さい。■抱籠、竹夫人■■秋来(き)ぬと目にさや豆のふとりかな■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.08
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■「夢淡き東京」■サトウ・ハチロー作詞/古関裕而作曲柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日誰を待つ心 可愛(かわい)いガラス窓かすむは 春の青空か あの屋根はかがやく 聖路加(せいろか)かはるかに 朝の虹も出た誰を待つ心 淡き夢の町 東京 銀座に住んだことがない私だが、銀座といえば、柳が目に浮かぶ。川が近いから、柳が育ちやすいのだ。街の並木道には植生を考えて木を植えるべきなのに、今では、猫も杓子も桜桜桜・・・。 明治、大正、昭和と活躍した日本画家の鏑木清方に■随筆 明治の東京■というのがある。そこに、「銀座回想」という随筆があったので、面白く読んだ。■銀座回想■昭和32年銀座の街路樹は、最初には、松や桜もあったというが、私が知ってからは、柳ばかり、大正の頃、市役所のはからいで市民の反対を押し切って柳を追放し、いちょうに変えたことがあった。その時の役人の言い分に、柳は街路樹に不適当なので、市の植樹方針は品川から上野まではいちょうにきめて実行し、銀座通りだけが未整理のまま残されたのだから、路線拡張のために柳を掘らなければならない今、これを機会に理想を遂行するというのであった。人も知るように、その後、銀座の柳は活(い)きかえって、日本の銀座を美しくしているのはめでたい。 銀座は、再び柳に替えられたからよかったが、ほとんどは、生態系を考えないで、葉が落ちな木など管理のしやすい木を植える。残念である・・・。♪柳青める日・・・は、銀杏から柳に戻ってからの銀座の歌。■随筆 明治の東京■■■築地界隈■昭和8年3月発表■●古い中国のしきたりに、別れの時、柳の一枝を去りゆく人におくり、無事を祈ったそうだ。(TVの番組で見た)■柳についてのあれこれ■シダレヤナギ(枝垂れ柳)とは?特徴や見頃の季節、枝の用途をご紹介!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.06.14
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雪降れば佃は古き江戸の島 北條秀司 ■2020年、東京・佃島に行った。■その時、佃島にあったのが、「雪降れば・・・」の俳句の碑だった。俳句の作者の北条秀司は、1902年(明治35年)11月7日 - 1996年(平成8年)5月19日)は、劇作家、演出家。大阪生まれで1926年に上京。1926年といえば、大正15年、昭和元年。その頃は、まだ佃島は、昔の景色が残っていただろう。 佃島の光景を愛していた劇作家の北條秀司が、1957年に佃の渡しを舞台に新派俳優花柳章太郎のために書き下ろした芝居に『佃の渡し』がある。初演以来高い評価を受け、滅びゆく日本の古き良き情景を舞台で再生させた名作として、昭和39年には花柳十種のひとつに選ばれているなど、北條、花柳、そして新派にとって欠くことの出来ない代表作のひとつとなっている。 ■「随筆 明治の東京」■という明治、大正、昭和を生きた画家・鏑木清方には、佃島のことを書いた文章があった。(下の文章)■築地界隈■昭和8年3月発表(略)明石町と入り江を挟んでいるのは佃島である。今では相生橋で深川につながり、月島と境もわからないようになってしまったが、まだ月島埋め立ての行われなかった時分は、橋もなければ、全くの離れ小島、 大きいものは住吉神社の大鳥居だけ、島人というのは漁師ばかりで、名物佃煮をこしらえる家には、年中洗ったことのないという大釜が据えてある。(略) この島に生まれた男の子は、十歳になるかならないうちに天秤棒を担がされて、冬は蜆(しじみ)、夏は鰯(いわし)を売りに出される。京橋いまわりで育った子供は、悪戯をすると佃へやってしまう、と脅かされて思い出をもたぬものはすくなかろう。■2020年東京・佃■立春は過ぎたので、もう雪は降らないだろうか・・・。しかし、寒さは、まだまだ厳しい。武陽佃島とは隅田川の河口にあった小島であり、図の右側の家が密集している場所が佃島で左側の木立で覆われた部分は石川島です。現在の東京都中央区佃島は、江戸時代大坂の佃村の漁夫が江戸へ移り、砂州を埋め立てた場所で、彼らの故郷にちなんで佃島と名付けられたそうです。佃島周辺で採れる海産物を使って作った煮物が「佃煮」は今でも有名です。図には7艘の船が描かれゆったりとした雰囲気を醸し出しており、佃島からくっきりと綺麗に見える富士山が描かれています。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.02.07
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おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は 斎藤史『ひたくれなゐ』(1976)『ひたくれなゐ』は斎藤史の第八歌集。昭和42年から50年までの歌で、失明のすすむ母と脳血栓に倒れた夫の介護に追われる日々のなかまとめられた歌集だ。■藤 史(齋藤史、さいとう ふみ、■1909年(明治42年)2月14日 - 2002年(平成14年)4月26日)は、日本の歌人。東京都四谷生まれ。福岡県立小倉高等女学校(現・福岡県立小倉西高等学校)卒業。父は、陸軍少将で佐佐木信綱主宰の歌誌「心の花」所属の歌人でもあった齋藤瀏。父の瀏は「史子」と出生届を提出したが戸籍係が間違えて「史」と登録してしまった。17歳のとき若山牧水に勧められて作歌をはじめ、18歳から「心の花」に作品を発表するようになる。 この歌は、歌集の最後の方にある一首。自分で時期を選んでいろいろと準備してさあこれで終わりますという人生の終わり方、死に方はできない。当たり前のことを詠んでいながら心に残る一首だ。上の句の台詞の部分がいい。「おいとまをいただきます」という台詞は現代ではあまり使われなくなった言葉だろう。その場から立ち去る時に使う柔らかな日本語で、立ち去り方の美しさというものを感じさせる。そんな風に美しく、誰にも迷惑をかけずにこの世を去れたらいい。病を持つ二人の家族の世話をしながら、斎藤史は同時に、自分の最期というものを常に考えていたのだろう。 「いつまで元気でいられるのだろう?」70歳を過ぎてよく思う。母が脳梗塞で倒れたのが75歳の時。その後、10年以上生きたけれど、楽しい人生だったのだろうかと思う。死ぬのは、本当に怖くはない。だから、冒頭の短歌のように、「はい、これまで」と人生のシャッターを降ろすことが出来たらと思っている。そんなことを思うのは、きっと私が老人だから。今日、9月20日は、老人の日。■ひたくれない■直紅全体に紅色であること。また、そのさま。■斎藤史のことば■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.09.20
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用ゐざる抱籠(だきかご)邪魔な置処(おきどころ) 正岡子規「抱籠」とは、季語「竹夫人(ちくふじん)」の傍題。「竹夫人」とは、竹や籐で編んだ籠で、夏の夜に抱きかかえたりして涼をとるために使われる道具のことで、いかにも俳人らしいヒネったネーミングだ。こんな季語が子規さんの遊び心を刺激しないはずがなく、彼は「抱籠の記(き)ありお竹と名を名ず」なんて句を作っている。「お竹」とは、ヌケヌケと言ってくれるもんだよ、まったく!?「子規365日」夏井いつき より昔、夫が、台湾で竹の敷物を見つけてお土産に買い、船で送ってもらったことがある。竹の敷物は、寝苦しい夏にひんやりとした感触がいいということで、買ったのだが、いつの間にか使わなくなった。クーラーがあるし、今は、ひんやりした感触のシーツもある。いい時代だ。「抱籠」は「子規365日」を読んで知った。俳句をはじめていなかったら、出会えなかった言葉だと思う。 残暑お見舞い申し上げます。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.08.09
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行きなやむ牛のあゆみにたつ塵(ちり)の風さえあつき夏の小車(おぐるま) 藤原定家 「玉葉集」夏歌。牛車、つまり牛にひかせる乗用の屋形車だろうか。炎天にあえぎ、人はもちろん牛までものろのろ歩む。その足元から乾いた塵ほこりが舞いたつ。風がたてば涼しいはずなのに、塵をまきあげる炎天の風はかえって暑くるしさを増す。抜群の耽美的作風の歌人定家に、この印象的な作があるおもしろさ。「むしますなぁ」「どこぞ涼しい川べりにでも」。古都の夏は王朝の余映の時代にもやはり暑かったのだ。「折々のうた」より 京都市は三方を山に囲まれる盆地で、昔も今も夏は蒸し暑い。一節によると、夏に鴨川で涼む習慣は平安時代からあったといわれる。平安時代、■貴船神社■に参拝のため京都市内から貴族が来ていたという。もちろん、一番の目的は、貴船川の涼を求めてだ。ちなみに「涼」という字は、京の横にさんずい(水)!涼しいわけだ。■折々のうた■過ぎてゆく四季の折々に自然の輝きをとらえ、愛する人を想いながら、人びとはその心を凝縮された表現にこめてうたい続けてきた。「日本詩歌の常識づくり」を目ざす著者は、俳句・短歌から漢詩・現代詩に至るまで、日本人の心のふるさとともいうべき言葉の宝庫から秀作を選び、その豊かな光沢と香りを鑑賞する。朝日新聞連載一年分に加筆。■折々のうた・あとがきより■『折々のうた』で私が企てているものは「日本詩歌の常識」づくり。和歌も漢詩も、ひっくりめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫。この常識を、わけても若い人々に語りたい。■YouTube 和宮様御泊■の1時間半くらいのところに、和宮が牛車に乗って東下りする様子が描かれている。後半は、輿。■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■■仔牛の俳句■■牛草(ぎしぎし)■■商いは牛の涎■■こって牛■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.08.02
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■仔牛を使用した俳句■通されて子牛の穴の鼻寒し/正岡子規売札の仔牛擦り寄る星今宵/井口秀二牧びらき焼印こばむ仔牛ゐて/中村翠湖売る仔牛梳きて永き日永くしぬ/西村琢牛の子に鼻木通すや今朝の秋/高田蝶衣売られゆく仔牛鳴きゐる草の絮/山口順子 5月5日は、「子どもの日」。■こどもの日(こどものひ)とは、■日本における国民の祝日の一つで、端午の節句である5月5日に制定されている。祝日法2条によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨である。1948年7月20日の祝日法の公布および即日施行により制定。ゴールデンウィークを構成する日の一つである。 当然ながら、牛にも子どもがいるのだ!!!「うし年ですから」と何気にみていたら、牛の子、子牛をを詠んだ句がいい!というか、哀しい。鼻ぐりとよばれる鼻に穴を空けられたり、焼き印を押されたり、売られたり・・・。全ての子どもが幸福にあって欲しいと思う「子どもの日」。それは、人間の子どもだけではない。■こどもの日:かつて日本は子どもの楽園だった。■★こどもの日記念にお気に入り4兄弟の動画■2021年1月に生まれた双子兄弟と世話する兄■かわいいーー!!■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.05.05
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牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世の中の新(あらた)しき歌大いに起る 伊藤佐千夫遺歌集『佐千夫歌集』(大九)の有名な歌。子規門に入った明治三十三年の作とされているが、実際はそれ以前の旧派時代の作かともいう。東京本所で牛乳しぼり業デポン舎を営んだので「牛飼」と自称したのだ。「あらたしき」は「新」を万葉風に言った。牛飼たる佐千夫が歌をよむ時、上流人士の風雅と教養の道具化して久しい和歌にも、再び新しい血が通い、新風が大いにまきおこるのだという自負と決意を歌う。 朝日新聞・「折々のうた」大岡信著 26歳のときに現在の錦糸町駅前に牛舎を建て、乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始めたという伊藤佐千夫。吉幾三のコミックソングに「俺ら東京さ行ぐだ」というのがある。俺らこんな村いやだ俺らこんな村いやだ東京へ出だ 東京へ出だなら銭コア貯めで 東京で牛(ベコ)飼うだこの歌はコミックソングだけれど、明治20年代の東京では、べこ(牛)を飼うことが出来たのだとビックリ!!■折々のうた■過ぎてゆく四季の折々に自然の輝きをとらえ、愛する人を想いながら、人びとはその心を凝縮された表現にこめてうたい続けてきた。「日本詩歌の常識づくり」を目ざす著者は、俳句・短歌から漢詩・現代詩に至るまで、日本人の心のふるさとともいうべき言葉の宝庫から秀作を選び、その豊かな光沢と香りを鑑賞する。朝日新聞連載一年分に加筆。■伊藤 佐千夫■伊藤 左千夫(いとう さちお、1864年9月18日(元治元年8月18日) - 1913年(大正2年)7月30日)は明治期の歌人、小説家。本名 幸次郎。 上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市殿台)の農家出身。農家の生まれであるが漢詩や漢文を学び、論争好きで政治家を志したこともあるなど、バイタリティのある性格であった。1881年(明治14年)4月明治法律学校(現・明治大学)に入学するも眼病を患い、同年12月に中退。牧場で毎日早朝から深夜まで働き、数年で独立。26歳のときに現在の錦糸町駅前に牛舎を建て、乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始めた。仕事が軌道に乗ってからは和歌や茶道を学ぶなど、趣味人として交際の範囲を広げた。1898年(明治31年)に新聞『日本』に「非新自讃歌論」を発表し(当時の号は春園)、御歌所の歌人・小出粲の歌を批判したことから紙面上で論争を繰り広げた。同年「日本」に掲載された正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読んで感化され、1900年(明治33年)に子規庵を訪れて会話を交わしてからは三歳年下である子規の信奉者となり、毎月の歌会に参加して子規に師事するようになった。「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」(『伊藤左千夫歌集』)と詠み、身分や出自によらず誰もが自由に詠める世となることで新しい短歌が生まれるという、子規の精神を込めた一首が代表作となった。 また、1905年(明治38年)には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。 左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。 ■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.02.01
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奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき 猿丸太夫●鑑賞●人の住む村里から遠く離れた、人の来ない山奥に、絢爛たる紅葉がびっしり敷きつめられたように散っている。赤や黄色の絨毯のような情景の中から、紅葉を踏みながら鹿が現れる。角の長い雄の鹿が、天を仰いで一声寂しく高く鳴く。おそらくどこへ行ったのか分からない連れ合いの雌の鹿を求めて鳴いているのであろう。その声を聞いていると、秋はなんて悲しい季節なのだろうと思えてくるのだよ。●作者●猿丸太夫(さるまるだゆう。生没年不詳)伝説の歌人で、三十六歌仙の一人。元明天皇の頃の人など諸説ありますが実際には不明です。この歌も、古今集では「詠み人知らず」として紹介されています。■ちょっと差がつく百人一首■より。歌の内容からいって今が一番ピッタリくる私の大好きな歌だ。ところで、「鹿の鳴き声」といえば「鹿鳴館(ろくめいかん)」。鹿鳴館といえば、明治16年欧化政策のひとつとして建てられた西洋館。当時の皇族や上流階級の人々によって夜な夜な舞踏会を行い「鹿鳴館外交」が繰り広げられる。では、なぜ「鹿鳴館」と名づけられたのか?■鹿鳴の宴■という言葉がある。1 群臣や賓客をもてなす酒宴。2 中国で唐代、州県の官吏登用試験に合格して都に上る人を送るための宴。なるほど・・・。宴をする「館」というわけだったのか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.11.21
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秋来(き)ぬと目にさや豆のふとりかな 大伴大江丸 江戸時代後期の俳人。本名安井正胤(まさたね)。大坂で飛脚問屋を業とした。職業柄旅をよくし交友も広かった。古典詩歌のパロディに長じ、この句もそれである。「古今集」秋の歌、「秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行」を踏む。「さやか」にかけて「さや豆」とよび出し、「ふとりかな」で、「風だけではないよ。畑を見ればさや豆が、ほら、ふっくらとふくらんで、ここにも秋が・・・」と俳諧に一転した。「折々のうた」より。●月見の枝豆大坂では、枝から外して鞘だけにして売るので「鞘豆」と言うが、江戸では枝ごと売るので「枝豆」と呼ぶ。■あきない世伝金と銀■ 8月7日は、立秋。「秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬるは、立秋の歌。 模倣から滑稽を産む文化は、江戸期に花開いた。■狂歌百人一首■◎は元歌。●いかほどの洗濯なればかぐ山で衣ほすてふ持統天皇◎春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山●山里は冬ぞさびしさまさりける矢張(やはり)市中がにぎやかでよい◎山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば●春のよの夢ばかりなるうたた寝にねちがひしたるくびぞいたけれ◎春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ■続パロディ「おんな城主直虎」■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.08.07
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悟りといふ事は如何(いか)なる場合にも平気で生きて居る事であった。 正岡子規 俳人にとって悟りとはいつでも平気で死ねることではなく、生をひたすら愛(め)でることであった。激痛にのたうちまわるなかでも、弟子たちを頻繁に迎えた。 薬や麻痺剤を服用する一方で、パン、スープ、鶏卵、刺身、焼き物、飯と三食しっかり食べ、間に牛乳や菓子パンも。死の直前まで床で画譜画帖(がじょう)を楽しみ、絵筆をとり、料理や社会情勢・教育を論じた。「病床(びょうしょう)六尺」から。2016.3.16朝日新聞 「折々のことば」341■病牀六尺 正岡子規 二十一■ 俳句や短歌、文章の革新運動を進めた正岡子規は脊椎カリエスに侵され、34歳の若さで世を去った。その最晩年の随筆『病牀(びょうしょう)六尺』は、明治35(1902)年の5月5日から亡くなる2日前の9月17日まで計127回、新聞「日本」に連載された。不治の病で床に伏し、激痛と闘いながらも森羅万象への好奇心を持ち続けた日々の記録は、今も読み手の心を揺さぶる。■病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。■6尺は約1・8メートル。その狭い床からほとんど動けない生活がもう何年も続く。そんな厳しい病状から書き起こされる日記形式の随筆は、6月以降一日も休まず掲載された。 コロナウィルスで毎日、家に閉じこもる日々。けれど、買い物くらいは行くことができる。体力が落ちないように家の周りをウロウロと歩く自由はある。台所でご飯を作り、食べる楽しみがある。ネットがあるから、家に居ながらにして、世界の様子が分かる。ブログだって書くことができる。なにより、子規のような激痛がない。子規に比べてなんと自由だ!!そう思って、もう少しこの時期を耐えようと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.04
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春風や鼠のなめる墨田川 小林一茶上五を「春雨や」「長閑(のどか)さや」とする句稿もある。墨田川の川べりに並ぶ家から慣れれだす残飯、残菓のたぐいをあさる鼠だろう。しかしそのことはいわず、鼠が墨田川をなめていると大きくとらえたところに、江戸の春の情感が一気に溢れた。 一茶は生涯に二万句前後詠んだという多作家で、駄作も少なくないが、この句のように「奇々妙々」(江戸における一茶の後援者で、自らもすぐれた俳人だった夏目成美の評)の作がああるのはさすがだ。 朝日新聞・「折々のうた」大岡信著■折々のうた■過ぎてゆく四季の折々に自然の輝きをとらえ、愛する人を想いながら、人びとはその心を凝縮された表現にこめてうたい続けてきた。「日本詩歌の常識づくり」を目ざす著者は、俳句・短歌から漢詩・現代詩に至るまで、日本人の心のふるさとともいうべき言葉の宝庫から秀作を選び、その豊かな光沢と香りを鑑賞する。朝日新聞連載一年分に加筆。■小林一茶■信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。 明治25年(1892年)頃から、俳句改革の旗手であった正岡子規が一茶のことを注目し始めたと考えられている。子規が新聞日本紙上で連載していた「獺祭書屋俳話」の中で、一茶について紹介していたことが確認できる。更に子規は明治30年(1897年)刊行の「俳人一茶」の中で、 一茶の句の特徴は滑稽、風刺、慈愛の3要素にあるとして、中でも滑稽は一茶の独壇場であり、その軽妙な作風は俳句数百年の歴史の中で肩を並べる者が見当たらないと賞賛した。一茶の有名な句。我と来て遊べや親のない雀 一茶の親友ともいうべき夏目成美は、「しなのの国にひとりの隠士あり。はやくその心ざしありて、森羅万象を一椀の茶に放下し、みづから一茶と名乗り」と、一茶のことを紹介している。このことから一茶とは、一椀の茶や泡沫のごとき人生を表す無常観に基づく命名であると考えられる。 ところで、大ヒットした「USA」という歌を歌うのは、DA PUMPのISSA(いっさ)=一茶。「一茶」という名前は、お茶が沖縄では健康や長寿のために愛され、縁起を運ぶものとして飲まれること、求(ISSAの父)が小林一茶が好きだったことで名づけられ、兄弟は全員「茶」が付いている。コロナ騒ぎで3月、4月と休みだった句会は、5月も休み。( ;∀;)上の写真は、2月10日から3泊4日で行った東京でうつした墨田川。■猪のバトン受け取る鼠かな■■昭和のこども茶碗(ねずみ)■■必殺、ねずみ返し!■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.01
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いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほいぬるかな 61番 伊勢大輔(いせのたいふ)<その昔、奈良の古き都に咲き匂った八重桜それが今日は九重の宮中に美しく咲き誇っているのです> 「いにしへ」と「今日」、「八重桜」と「九重」を対応させ、たくみにまとめている。「九重」は宮中をさす。昔の中国で宮門を九重にめぐらせたことから、いった。「田辺聖子の小倉百人一首(続)」より■田辺聖子の小倉百人一首(上)■■田辺聖子の小倉百人一首(続)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.04.04
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●「願わくは 花の下(もと)にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」 西行法師■歌というものは時として、■「いかに詠んだか」よりも「だれが詠んだか」の方が重要になる。『願わくば桜の下で死にたい。花咲き初める二月の満月の桜の木の下で』。桜と満月の取り合わせに、今の人は理想的な美の風景を思うかもしれない。しかし、伝統的な和歌でこれらを合わせて詠むことはない。過剰なのだ! 盆と正月、寿司とステーキ、山盛りの宝石!! 今日の歌は優雅を遥かに超えて下品なのである。しかしこれが許される場合がある、詠み人だ。まあご存知だとは思うが西行である。西行は花と月という色の極みを求めて仏の道を歩んだ、支離滅裂、むちゃくちゃである。その人だからこそ成り立つ一首、稀代の作品だ。今日今宵はまさに如月(旧暦二月)の望月、隈なき月下の桜に出会えたら、彼の狂気を一寸感じられるかもしれない。●「われ死なば 焼くな埋めるな 野に捨てて飢えたる犬の 腹を肥やせよ」(歌川広重)●「生き過ぎて 七十五年 くいつぶし限り知られぬ 天地(あめつち)の恩」(大田南畝)●「この世をば どりゃお暇(いとま)を せん香の煙とともに 灰さようなら」(十返舎一九)●石の上3年たったら次の石 「昭和よ、」より昔の人の死生観を詠んだ歌。つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを 古今集 在原業平(ありわらのなりひら)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.03.24
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降る雪や 明治は遠く なりにけり中村草田男草田男がこの句を発したのは昭和になってからでした。当初は、随分と時間をかけたんだなぁと感じましたが、後年になってその意がわかりかけました。思いを芸術に高めるには、「発酵」の時間が必要だったのだと。(略)濃密な明治を際立たせるために、大正は無視しようと。「昭和よ、」と平成を切り捨てた着想は中村草田男先生からの流れなのです。(略)なぜ平成を飛ばしたのかと問われると、平成には「匂い」がなかったからと言うしかない。30年間という短くない歳月であったが、平成には特別な感慨がない。(「昭和よ、」より)■昭和よ、■「さらば、平成」と、惜別の思いを綴ろうとしたら、脳裏に浮かぶのは昭和の出来事ばかり。戦争、復興からバブル景気まで、著者が生きた昭和は激動の時代だった。本書では、昭和を振り返りながら、82歳のいま思うことを、一人語り調文体で自由奔放に綴る。世相・文化・芸術・社会について愉快・痛快に論じるエッセイ集。 「草田男」という号は、父親の急逝後も神経衰弱で東大を休学する草田男に業を煮やした親戚が、「お前は腐った男」と面罵(めんば)したことに由来する。無垢な魂がもたらす激しい精神的葛藤に苦しむ草田男が、そこから「逃避行」するために探り当てたのが俳句であり、昭和3年、27歳で本格的に句作を始め、虚子に師事した。 ■いとおしさ覚える時代 〈降る雪や 明治は遠くなりにけり〉は昭和6年、中村草田男の句だが、本書を読むと、昭和もまた、歴史になりつつあることがしみじみと感じられる。 昭和10年生まれの芸能・演劇評論家の著者が、交流のあった文人、芸人たちを描いた近年のエッセーを収めた。俳優の小沢昭一は「生きてきた昭和という時代の記憶だけで充分商売していける」と言ったそうだが、ひとつの時代を生きた矜持なのだろう。著者が描くのも、デジタルでは割り切れない、アナログな手触りのある世界だ。 銀行振り込みどころか〈いつもピン札の原稿料が現金書留で送られてきた〉時代が、生き生きと語られる。現代人が「電子マネーでキャッシュレスに」何でも手に入れることへの違和感を示唆するようだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.12.30
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おじいちゃん、おばあちゃんの最後のつとめは、孫や家族に自分が死ぬところを見せることではないか。池田清彦死がベールの向こうに置かれる。街には犬の死骸すらない。延命処置で、「いまわの際」をしかと看取(みと)るのも難しくなった。生と死は一続きなのに、死は見えにくくされる。死を特別扱いせずに、死骸が鳥たちに啄(ついば)まれ、きれいな白骨になって「土に還る」という自然のサイクルを心に留めるべしと、生物学者は言う。「ほどほどのすすめ」から。2019.1.31朝日新聞「折々のことば」 「子どものために犬を飼うといい」という一文を読んだことがある。犬は、子どもが小さいうちには、よき遊び相手となる。子どもが少し大きくなると、人間より寿命が短い犬は、死ぬことによって、子どもに命は永遠ではないということを教える。 核家族や医療の発達によって、人間の「いまわの際」を見ることが出来ないので犬に求めたのだと「折々のことば」を読みながら思った。今日、9月第3月曜は、敬老の日。■折々のうた:塩田■■折々のうた:蝉と蛍■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.09.16
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■石狩挽歌(いしかりばんか)■作詞:なかにし礼作曲:浜 圭介歌唱:北原ミレイ(一)海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ雪に埋もれた 番屋の隅でわたしゃ夜通し 飯を炊くあれからニシンは どこへ行ったやら破れた網は 問(と)い刺し網か今じゃ浜辺で オンボロロオンボロボロロー沖を通るは 笠戸丸わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る(二)燃えろ篝火 朝里(あさり)の浜に海は銀色 ニシンの色よソーラン節で 頬そめながらわたしゃ大漁の 網を曳くあれからニシンは どこへ行ったやらオタモイ岬の ニシン御殿も今じゃさびれて オンボロロオンボロボロローかわらぬものは 古代文字わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る 1975年7月に発表された「石狩挽歌」の挽歌とはエレジー、つまり悲しみを表現した歌のことである。石狩の海の鰊漁を舞台に、大きな夢を見て それをつかめないままに終わってしまう男、そんな男と人生をともにする女の気持ちが、鮮やかな情景とともにうたわれている。 なかにし礼自身の幼少時の体験、兄に対する複雑な気持ち、人生に対する想いが織り込まれている。なかにし礼には、15歳年上の、破滅傾向で疫病神のような兄・正一がおり、その兄が引き起こすトラブルや葛藤が人生にしつこくつきまとった。幼少時、なかにし家は貧困の中にあり、兄はバクチのような鰊漁を行ったことがあり、せっかく大漁に恵まれたのに、それで満足せず、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、結局せっかくの鰊も腐らせてしまい、全てを失い膨大な借金だけが残ってしまった。そして一家は離散することになった。なかにしの内にある、そうした原体験とでも呼べるようなものがこの歌には込められているのである。ある時期、なかにし礼は作詞に行き詰まっていたが、そこに兄が現れ、兄自身が「鰊のことを書けばいいじゃないか」と言ったという。そうしてこの作品は生まれた。ただし、こうした体験をただそのまま表現しただけでは なかにしの体験をしていない人の心にはすんなり響かないだろうから、聞く人と気持ちを共有できる言葉を詩に織り込んだ、といった主旨のことを なかにし礼はあるテレビ番組のカメラに向かい語っていたことがある。小樽市の西北に位置する祝津岬にある鰊御殿の旧青山別邸(小樽市祝津3丁目63)には、 ▲石狩挽歌の記念石碑と なかにし礼直筆の歌碑がある。▼ ■石狩挽歌は■ニシンの群来を願う漁師の切ない心を歌った曲。では、この歌は、いつ頃の小樽をイメージしてできた歌なのでしょう?歌ができた当時は昭和50年ですから、日本海側のニシン漁はサッパリで、ニシン御殿も「オンボロロ・・・♫」の時代です。ヒントは2番の歌詞の「沖を通るは 笠戸丸」にありました。「笠戸丸」は、明治33年に造船。太平洋航路、南米航路、台湾航路の貨客船、豪華客船としての活躍後、漁船となった。昭和20年8月9日(ソ連参戦の日)、カムチャツカ半島西岸の日魯漁業ウトカ工場沖に停泊中にソ連軍に接収され爆沈。8歳のなかにし礼は、兄の中西政之が増毛でニシン漁を行なったのを見ているのです。結論としていえば、第二次大戦中末期の北千島ホロムシロ島への輸送船のときの光景と考えるのが自然ではないでしょうか・・・。いずれにせよ、中西少年は実際にその姿を見てはいません。しかし、チラリと「笠戸丸」を歌詞に挟むところは、さすがに、阿久悠と並ぶ2大作詞家の面目躍如! ですね。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.08.19
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花衣(はなごろも)ぬぐやまつはる紐(ひも)いろいろ杉田 久女(ひさじょ)『杉田久女句集』(昭27)所収。大正時代は虚子門下に女流俳人が輩出したが、久女の情熱的で大胆な作風はひときわ目立った。美貌をうたわれたが実生活では悲劇の人で、句集も没後七周忌に初刊行。花衣は花見の衣装。花見帰りの軽い疲れに体をほてらした女が、 一本一本着物を紐をほどき捨てていきながら、あらためて紐の多さにわれと驚いている風だが、そこにこそ女の知る愉悦も快感もあったし、またみずから桜となって花びらを散らす思いもあった。 なんともはんなりした句だろうとうっとりしてしまう。こんな句が作れたらいいなと熱心に 「プレバト」で夏井先生の俳句の評を見ている私は思う。 この句を見ながら思ったのは、■細雪■。「細雪」では、次女、三女、四女の三姉妹と、次女の夫、娘が花見に行く。行先は京都で、必ず一泊。次女と夫はもう一泊することもある。もちろん、姉妹と次女の娘は着物で行くのである。今でいうところの、「インスタばえ」する美しい彼女たちは、何度も知らない人からカメラを向けられる。 ★で、常例としては、土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたため、これも毎年欠かしたことのない都踊を見物してから帰りに祇園の夜桜を見、その晩は麩屋町の旅館に泊って、明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中の島の掛茶屋あたりで持って来た弁当の折を開き、午後には市中に戻って来て、平安神官の神苑の花を見る。 「花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ」は、京都であちこち回って高揚した気持ちで着物を脱ぐ「細雪」の姉妹を思い浮かべる俳句だ。さあ、私も桜を見に行こう。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.04.02
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瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ ■崇徳院■ 浅瀬の流れが速いので、その流れが岩で激しく裂かれるが下流ではかならずまた一緒になれるそのように、 われわれも将来には再び会おうと思うよ。 先日、孫と一緒にご飯を食べた。孫は、今年4月、中学3年になる。彼の友人に、鉄道オタクがいて、同じく鉄道オタクの孫と 入学以来、仲良くしていた。その友人が、今の大阪市内の私立中学校を辞めて、地元の学校に通うことになったことを、先日聞いた。好物の餃子を食べながら、崇徳院の歌を引き合いに、また会えるからと私は言った。「いい歌やな・・・。」と二人で納得。■崇徳院作のこの歌は第77番目に出てくるもので、代表的な恋歌ではあるが、崇徳院が新院になった頃の作で、「末にあわんとぞおもう」と中央政界に返り咲きたいとの思いを詠んだとも言われています。■「せか」は四段活用動詞「せく」の未然形、せき止めるの意。■崇徳天皇ってどんな人?■ 崇徳天皇(1119~1164)は平安後期の第75代天皇で、名は顕仁(アキヒト)。鳥羽天皇の第1皇子。が、本当の父は鳥羽天皇の祖父、白河天皇だったと言われる。その為鳥羽天皇との仲が不和であった。18年間在位(在位1123~1141)したが、永治元年(1141)鳥羽天皇に退位を迫られ、弱冠3才の近衛天皇に譲った。保元元年(1156)鳥羽上皇が没すると、後白河天皇と崇徳院の対立が表面化し保元の乱が起こり敗北、讃岐へ流された。同地で没する。■西行と崇徳院■この時代の朝廷の院政権力の流れは、次のとおり。 白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。 天皇が退位すると「上皇」になり、天皇の地位には自分の子をつけて権勢をふるい、さらに上皇が出家して「法皇」となる。「天皇→上皇→法皇」の権力循環サイクル、これが院政である。西行は、鳥羽上皇の北面だから鳥羽上皇にとは直接の主従関係にあったが、出家後は、むしろ崇徳天皇や待賢門院璋子らに同情を寄せている。鳥羽上皇の崇徳天皇・璋子への嫌がらせや徹底して排除していこうとするやり方に、嫌悪を感じたからだろう。鳥羽上皇と取り巻きの摂関家のこのような陰湿な権力運用が、西行出家の原因のひとつであったことは間違いないだろう。■落語・崇徳院■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.03.29
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憂きことを海月(くらげ)に語る海鼠(なまこ)かな黒柳召波(くろやなぎ しょうは) 別号を春泥舎という江戸中期の俳人。与謝蕪村の高弟。クラゲとナマコの対話という題材は珍しく、句も新鮮だ。「あわれ」と「をかし」を兼ね備えている句といえよう。理屈をいえば、海底にいながら人にねらわれて食われるナマコが、水面にいるのに食用に不向きなため比較的安全なクラゲに対して、身の憂さ、辛さをぼそぼそ話している図と解されようが、そこまで理詰めに解さずとも、単に浮遊するものと這うもの会話と見るだけで面白い。「折々のうた」大岡信 一番上の写真は■沖縄の水族館。■この句は、冬の句の入っていたけど、季語は「海鼠(なまこ)」で冬だそうだ。知らなかった・・・。■クラゲはプランクトン■クラゲは水に浮いて漂っている浮遊生物、つまりプランクトンです。プランクトンとは「遊泳能力がないか、あっても弱いため、水の流れに逆らえず、水中で浮遊生活を送る生物」と定義されています。 実はクラゲは自力で泳いでいるというより水の流れに沿って漂っているのです。 傘をリズミカルに動かすことでちょっと泳いではいますが、この行動は体液を循環させる目的もあります。クラゲは泳ぐ力がほとんどないというこの事実だけでもびっくりですね! 「海月姫(くらげひめ)」<ストーリー>とある古びたアパート、天水館(あまみずかん)。そこで暮らす倉下月海(つきみ)はオタク女子友達と共同生活を送っていた。「男を必要としない人生」を信条に、自らを「尼~ず」と呼び、それぞれのオタク道を極めるゆるい毎日。そんな彼女達の前に女装美男子・蔵之介と童貞エリート・修の兄弟が出現!動揺する尼~ず達に、心のより所でもある聖地(=ボロアパート)が強奪の危機まで勃発。自分の大切なものを守るため、自分たちの居場所を守るため、尼~ずと蔵之介はタッグを組み、最後の大勝負にうって出るーー。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.02.08
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「 遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、 香炉峰の雪は簾をかかげてこれを看る 」 (訳) 遺愛寺の鐘の音は臥したままマクラを斜めに 立てて聴き入り、 香炉峰(山)に積もっている雪は簾を巻き上げて眺めている。■イラスト付き香炉峰(こうろほう)の雪■昨年■11月22日(水)■に行った鳥取県・智頭(ちづ)の■石谷家住宅■は【国指定重要文化財】。その家の一番いい部屋が写真の部屋。一緒にガイドさんの説明を聞いていた女性3人が、この部屋にはいると「わー、御簾(みす)のある部屋!!『香爐峰(こうろほう)の雪は簾(すだれ)をかかげてこれをみる』」と言った。御簾のある部屋を見て、清少納言の有名な「枕草子」が出てくるなんて・・・。私も『香炉峰の雪』は知っていたけど、とっさに出てくるなんて、この3人組の女性は、国語の先生なのかな・・・?「香炉峰の雪」と言われた清少納言が、とっさに簾を上げ、女房たちに感心されたように、簾を見て「香炉峰の雪」と言った女性たちに私はいたく感心した。山深い鳥取・智頭(ちづ)は、雪が沢山積もっているだろう。■枕草子:香炉峰(こうろほう)の雪■雪のいと高う降りたるを例ならず御格子(みかうし)まゐりて(参りて)、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などして集まりさぶらうに、「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪いかならむ。」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この官の人にはさべきなめり。」と言ふ。■現代語訳■雪がたいそう高く降り積もっているのに、いつもと違って、御格子(みこうし)をお下ろしして、角火鉢に火を起こして、(私たち女房が)話をしながら、(中宮様のもとに)集まりお使えしていると、(中宮様が私に呼びかけ、)「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪は、どうなってるかね。」とおっしゃるので、御格子を(ほかの女房に)上げさせて、御簾(みす)を高く(巻き)上げたところ、(中宮様は満足して)お笑いになる(他の女房の言うには)「(私たちも)そのようなこと(=白居易の詩のこと)は知っており、歌などにまでも詠むけれど、(とっさには)思いつきませんでしたよ。(あなたは)やはり、中宮様にお仕えする人として、ふさわしいようだ。」と言う。 「 遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、 香炉峰の雪は簾をかかげてこれを看る 」 (訳) 遺愛寺の鐘の音は臥したままマクラを斜めに 立てて聴き入り、 香炉峰(山)に積もっている雪は簾を巻き上げて眺めている。* 「香炉峰の雪」とは中唐の詩人、白居易の『白氏文集』に出てきます。 平安時代の貴族は広く漢詩を愛読していたのでした。■元詩■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.20
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◎静夜思◎井伏鱒二訳寝間の内からふと気が付けば霜かと思ういい月明り軒端の月を見るにつけ在所のことが気にかかる。◎静夜思◎■李白■牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷 ◎書き下し文◎牀前(しょうぜん)月光を看る 疑ふらくは是れ地上の霜かと 頭(こうべ)を挙げて山月を望み 頭(こうべ)を低れて故郷を思ふ ◎静夜思◎井伏鱒二訳ネマノウチカラフト気ガツケバ霜カトオモフイイ月アカリ ノキバノ月ヲミルニツケ ザイシヨノコトガ気ニカカル■静夜思(音が出ます!)■■静夜思(静夜の思ひ)の現代語訳と解説■高田郁の小説■ふるさと銀河線軌道春秋■というのがあり、その本の中に「さよならだけが人生だ」という寺山修司の詩があった。唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の詩「勧酒」(かんしゅ)を訳した、井伏鱒二の妙訳にインスパイアされたという。その繋がりで、同じく井伏鱒二の■静夜思■を知った。高校の時に習ったこの漢詩は大好き。普通の訳の硬質な感も好きだが、井伏鱒二の七五調も心地が良い。■スーパームーン■12月4日の満月は、迫力があった。次に大きな月が見えるのは、2018年1月2日。12月4日よりも月がさらに地球に近い距離で満月となるという。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.12.09
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里古りて柿の木持たぬ家もなし 松尾芭蕉■意味■古里伊賀は古い歴史を持っていてどこの家にも柿ノ木の無い家は無い。それがいま枝もたわわに実っている。 ■11月21日(火)剣聖、宮本武蔵の生誕地、岡山県美作(みまさか)大原の里、■11月22日(水)鳥取県智頭(ちづ)町へ行ってきた。どちらも古い町だった。特に、宮本武蔵の生誕地、大原では、柿の実がたわわに実った風景が見られて、*いとおかし*。*いとおかし*とても趣がある(興味深い)藁屋根の家などあるも**あわれなり**。**あはれなり**しみじみとした情趣があるさま、感慨深いさまなどを意味する古語。 ■柿は女の生涯■ ■トリビアの井戸:柿■ ■柿八里■・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.11.23
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ふるさと銀河線 軌道春秋 (双葉文庫) [ 高田郁 ]の現代小説の中に寺山修二の『幸福が遠すぎたら』という詩が出てきた。唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の詩「勧酒」(かんしゅ)を訳した、井伏鱒二の妙訳にインスパイアされたという。調べたら、唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の元の詩も、井伏鱒二の訳もよかった。■勧 酒(于武陵) 酒をすすむ 勧君金屈巵 君に勧すすむ 金屈卮きんくつし 満酌不須辞 満酌まんしゃく 辞じするを須もちいず 花発多風雨 花はな発ひらけば 風雨ふうう多おおし 人生足別離 人生じんせい 別離べつり足たる和訳(直訳) 君に この金色の大きな杯を勧める なみなみと注いだこの酒 遠慮はしないでくれ 花が咲くと 雨が降ったり風が吹いたりするものだ 人生に 別離はつきものだよ (註)・金屈巵=把手(とって)がついた黄金の大型の杯。 ・満酌=杯になみなみと酒をつぐこと。 ・不須辞=辞退する必要はない。 ・足=多い。■『勧 酒』訳:井伏 鱒二コノサカヅキヲ受ケテクレドウゾナミナミツガシテオクレハナニアラシノタトヘモアルゾ「サヨナラ」ダケガ人生ダ■『幸福が遠すぎたら』 (寺山修司)さよならだけが 人生ならばまた来る春は 何だろうはるかなはるかな 地の果てに咲いている 野の百合 何だろうさよならだけが 人生ならばめぐり会う日は 何だろうやさしいやさしい 夕焼とふたりの愛は 何だろうさよならだけが 人生ならば建てた我が家 なんだろうさみしいさみしい 平原にともす灯りは 何だろうさよならだけが 人生ならば人生なんか いりません そのまた■パロディ■で■さよならだけが人生か?■というのがあった。( ̄m ̄*)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.10.20
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恋に焦がれて泣く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす*「山家鳥虫歌(さんかちょうちゅうか)」*(山城国の民謡)近世諸国民謡集「山家鳥虫歌」の校注者、浅野建二は、蝉と蛍は「恋情に焦がるる虫」として古(いにしえ)より対照されてえきたという。切なそうにみんみん泣くこともできず心を折り畳むばかりの片恋の心情は、やがて心を届けえぬ自分を憐れむほうへ向かいがちだが、その人への思いはそれでも断ちがたく、「思ひ」が「火」となり身を焦がす。「折々のうた」2016.9.15 この本の発売日は1980年03月。この歌は、新聞の切り抜きを転記したもの。切り抜きだと、整理しにくいのでブログに載せた。*ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜桂 信子*閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声松尾 芭蕉*大蛍(おおぼたる)ゆらりゆらりと通りけり小林 一茶があった。今年は、蛍を見ないまま、夏が終わろうとしている。*「山家鳥虫歌(さんかちょうちゅうか)」*江戸中期の諸国の民謡集。68カ国、399首が収められている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.08.25
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水塩(みずしお)の 点滴(てんてき)天地 力合わせ沢木 欣一 『塩田』(昭和31)所収。昭和30年代、いわゆる社会性俳句論議の中心部にいた作者が、能登の原始的な揚浜式塩田を訪れての作。なぎさ近くの塩田に海水をまき、炎天の陽にさらす。単調な重労働をくりかえすうちに海水はしだいに濃くなる。これが水塩。それを鉄のかまにためて煮つめ、塩を得る。したたる、水塩のしずくは辛酸の結晶。一滴一滴に天地が力を合わせているのが感じられたのだ。(▲その時見たユリ)先日■能登半島■を旅行した際に、沢山の塩田を見た。■道の駅すず■では、塩作りの様子を説明してくれた。焼けた浜を裸足で歩くのは、きついだろう。21世紀というのに・・・と大昔から続く作業を見ながら思った。先日買った「折々のうた」に冒頭の俳句が載っていた。観光とは言え、塩田の作業を見るだけで帰るのは申し訳ないような気がして、塩を買い求めた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.07.30
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■燕の歌■弥生(やよい)ついたち、はつ燕海のあなたの静けき国の便もてきぬ、うれしき文を・・・・・弥生来にけり、如月(きさらぎ)は風もろともに、けふ去りぬガブリエレ・ダンヌンチオ上田敏「海潮音」 洋の東西を問わず、3月は春のはじまる月だが、南半球では、夏が終わり、秋がはじまる季節だ。■とり年ですから:鳥の形の籠■・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.03.01
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