おしゃれ手紙

2019.08.19
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カテゴリ: 詩歌・名文
石狩挽歌(いしかりばんか)
作詞:なかにし礼
作曲:浜 圭介
歌唱:北原ミレイ

(一)
海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
雪に埋もれた 番屋の隅で
わたしゃ夜通し 飯を炊く
あれからニシンは どこへ行ったやら
破れた網は 問(と)い刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー
沖を通るは 笠戸丸
わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る


(二)
燃えろ篝火 朝里(あさり)の浜に
海は銀色 ニシンの色よ
ソーラン節で 頬そめながら
わたしゃ大漁の 網を曳く
あれからニシンは どこへ行ったやら
オタモイ岬の ニシン御殿も
今じゃさびれて オンボロロ
オンボロボロロー
かわらぬものは 古代文字
わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る


石狩の海の鰊漁を舞台に、大きな夢を見て それをつかめないままに終わってしまう男、そんな男と人生をともにする女の気持ちが、鮮やかな情景とともにうたわれている。
 なかにし礼自身の幼少時の体験、兄に対する複雑な気持ち、人生に対する想いが織り込まれている。
なかにし礼には、15歳年上の、破滅傾向で疫病神のような兄・正一がおり、その兄が引き起こすトラブルや葛藤が人生にしつこくつきまとった。
幼少時、なかにし家は貧困の中にあり、兄はバクチのような鰊漁を行ったことがあり、せっかく大漁に恵まれたのに、それで満足せず、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、結局せっかくの鰊も腐らせてしまい、全てを失い膨大な借金だけが残ってしまった。
そして一家は離散することになった。
なかにしの内にある、そうした原体験とでも呼べるようなものがこの歌には込められているのである。
ある時期、なかにし礼は作詞に行き詰まっていたが、そこに兄が現れ、兄自身が「鰊のことを書けばいいじゃないか」と言ったという。
そうしてこの作品は生まれた。
ただし、こうした体験をただそのまま表現しただけでは なかにしの体験をしていない人の心にはすんなり響かないだろうから、聞く人と気持ちを共有できる言葉を詩に織り込んだ、といった主旨のことを なかにし礼はあるテレビ番組のカメラに向かい語っていたことがある。

小樽市の西北に位置する祝津岬にある

鰊御殿の旧青山別邸(小樽市祝津3丁目63)には、

▲石狩挽歌の記念石碑と なかにし礼直筆の歌碑がある。▼

石狩挽歌は
ニシンの群来を願う漁師の切ない心を歌った曲。
では、この歌は、いつ頃の小樽をイメージしてできた歌なのでしょう?
歌ができた当時は昭和50年ですから、日本海側のニシン漁はサッパリで、ニシン御殿も「オンボロロ・・・♫」の時代です。
ヒントは2番の歌詞の「沖を通るは 笠戸丸」にありました。

「笠戸丸」は、明治33年に造船。
太平洋航路、南米航路、台湾航路の貨客船、豪華客船としての活躍後、漁船となった。

昭和20年8月9日(ソ連参戦の日)、カムチャツカ半島西岸の日魯漁業ウトカ工場沖に停泊中にソ連軍に接収され爆沈。

8歳のなかにし礼は、兄の中西政之が増毛でニシン漁を行なったのを見ているのです。
結論としていえば、第二次大戦中末期の北千島ホロムシロ島への輸送船のときの光景と考えるのが自然ではないでしょうか・・・。
いずれにせよ、中西少年は実際にその姿を見てはいません。
しかし、チラリと「笠戸丸」を歌詞に挟むところは、さすがに、阿久悠と並ぶ2大作詞家の面目躍如! ですね。

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Last updated  2019.08.19 08:42:02
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