おしゃれ手紙

2021.07.27
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カテゴリ: 読書
陽だまりの樹

伊武谷万二郎は、無骨で真面目な万二郎は退屈なお勤めに疑問も抱かず、登城のマラソンもいつも一番という、平時の武士として見本のような男であった。

一方、もう一人の主人公である蘭方医の良庵は医師の家に生まれて大坂適塾で医師の門をくぐったエリートだが、江戸に戻っても放蕩ぶりが父の良仙に厳しく戒められるほどの遊び人。
江戸っ子らしく間口は広いが封建的で権力闘争に終始する医学界には批判的であり、また人間らしく生きたいとする夢想家のノンポリとして時代を眺めている。
対照的な万二郎と良庵だがなぜかウマが合う。
 タイトルの「陽だまりの樹」は、水戸学の弁証家である藤田東湖が劇中で主人公の伊武谷万二郎へ語る藤田東湖の家の庭にあった桜の樹でありそれは当時の日本の姿を比喩する名称である。
19世紀後半、欧米が市場を求めてアジアへ進出した世界状況で、日本の安全保障を確保するには天皇の権威を背景に江戸幕府を中心とする体制再編により国体強化が必要であるとした東湖だが、幕府の内部は慣習に囚われた門閥で占められている事から、シロアリ等々の虫によって中身が腐っている事から倒れかけているとして、これを「陽だまりの樹」と呼ぶ。

 主人公は二人存在し、一人は真っ直ぐな正義心の持ち主、悪く言えば世渡り下手で頑固者の武士の万二郎。
もう一人は融通が効き人付き合いが良い性格、悪く言えば女好きで遊び好きでお調子者の蘭方医・良庵、のちの良仙である。

★架空の人物:伊武谷万二郎

★実在の人物:手塚良庵→手塚良仙(三代目)
江戸三百坂の医師。適塾で緒方洪庵に蘭学を学ぶ。
父の良仙とともに種痘所(後の西洋医学所、東京大学医学部の前身)の創設に関与。
父の死後は良仙の名を継ぐ。万二郎とは恋敵、ケンカ相手ながら友人として理解し合う。
女にだらしなく、色街にばかり出入りしているがここぞという時には本気を出す人物として描かれている。
本●読書メモ●と『』目次  ◎は、メモ
『三百坂』『おせき殿』『鬼鉄』

『曾根崎新地』
●大坂は、江戸の不安やあせりをよそに、常に「 出船千艘、入船千艘 」の賑わいを見せていた。


◎日本全国といっていいほどの鰹節は大坂に集まった。
千葉あたりの直接江戸に売った方が近いのにわざわざ大坂に集荷したそれを江戸に送った。
米も全国から集まった。
その他、北前船も来たので、「出船千艘、入船千艘」と賑わったのだった。

●大坂へ着く。
廻船はたいてい安治川をのぼり安治川大橋のたもとで客や荷を下ろした
そして中之島がなんといっても取引の中心地であった。

◎■ 朝鮮通信使の辿った道と大坂
外洋船では淀川を航行できないため大坂湾の河口にて豪華な川船に乗り換えたのが
「川御座船(かわござぶね)です。

難波橋近くの北浜まで数百のお付きの大小の船団に取り囲まれてパレードをしました。
上陸後は、陸路と隊列を組んで堺筋を南下、備後町で右折して宿泊所である北御堂に向かい文化交流を展開しました。

●曽根崎新地

◎新地(しんち)とは、居住地や商業地として新しく拓かれた土地のことを指す。
歴史的には、新地開拓後の繁栄策として遊廓などができたことも多かったことから、 転じて遊廓や遊里の多い場所を指す
大坂に来た手塚良庵は曽根崎新地に通う。

『腑分け』
●・・・蘭方医の腑分けには、死罪になった罪人の体を使うことが決められておるやないかッ。
『適塾の人々』

●中津藩・福沢諭吉

◎もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。
九州は■ 濁らない。

彼は、大坂の堂島で生まれている。
しかしいったん、九州・中津藩に帰っている。
福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ[9])。
当時としては身長が平均の20センチ近く大きい。

『星鶴 豆鶴』 『夜の客人』
『嵐の前』
●これから関西へ下るのだ・・・

◎この言い方は、どうだろう?
当時、関西という言い方はあったのだろうか?
上方の方がぴんと来る。
その上、下るではなく、のぼるの方がふさわしいのでは?
皇女・和宮の東下りという言い方もあるから。

『天地鳴動』
●徳川の世はこの陽だまりの桜の樹のようなものじゃ・・・

◎水戸学の弁証家である藤田東湖が劇中で主人公の伊武谷万二郎へ語るタイトルになった大事なシーン。
藤田東湖って大河ドラマ「晴天を衝け!」でも重要な役だった。

『老中・阿部』 『抜擢』
『解説』
●良仙は幕末から明治という動乱の時代に、権力者たちに近づく機会はあったが、反権力の姿勢を守り(略)・・・生きた。
手塚も、敗戦から高度成長へという変動期に、(略)漫画家への偏見に抗いながら生きてきた。
ひとたび名声をえたのちは、権力が彼に好意を示すことがあってが、かれはそれに迎合せず、反権力の姿勢をくずさなかった。
手塚は、そんな自らの生き方を曽祖父のイメージに投影したのであろう。
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Last updated  2021.07.27 00:48:17
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