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「戦場のガンマン」(1968)5 PER L'INFERNO 英題 FIVE FOR HELL監督 フランク・クレイマー製作 パオロ・モッファ、アルド・アッドバティ原案 セルジオ・ガローネ脚本 レナート・イッツォ ジャンフランコ・パロリーニ音楽 ヴァスコ・マンキューソ出演 ジョン・ガルコ、クラウス・キンスキー マーガレット・リー 、ニック・ジョーダン サル・ボルゲーゼ、ルチアノ・ロッシ、 本編94分 総天然色 シネマスコープサイズ 日本ヘラルド配給「戦場のガンマン」(68)はマカロニコンバットと称されるイタリア製戦争映画の一本です。 日本公開は1969年8月。金沢では香林坊にあった「金沢小劇場」で、「テキサスの七人」「ジブラルタル海峡」との3本立て上映でした。当時はマカロニウエスタンのブームが終わりにさしかかっていて、西部劇にかわるジャンルとして戦争映画か?といわれましたが、マカロニコンバットは数本だけで、ブームにはならなかった。 監督のフランク・クレイマーは変名で、ジャンフランコ・パロリーニのことです。脚本のジャンフランコ・パロリーニと同一人物ですね。 アメリカ軍のホフマン少尉(中尉?)が率いる5人の特務隊がドイツ軍司令部に潜入して機密書類を奪取する話。 ドイツ軍内に潜入している女スパイ(マーガレット・リー様)が手引きして、彼女に色目をつかっている親衛隊の大佐(クラウス・キンスキー)を色仕掛けでたらしこんでいるすきに司令部内に潜入するが、彼女がスパイだと発覚して銃殺刑にされてしまう。 眼前での銃殺刑に、なすすべもなく彼女を見殺しにせざるをえない。そのあとでの派手な銃撃戦はまさにマカロニウエスタンばりの展開。潜入した特務隊メンバーに犠牲者を出しながらも、なんとか脱出に成功し、任務を達成する、というストーリーです。 特務隊を率いるホフマン少尉を演じるのがジョン・ガルコ。ジャンニ・ガルコの変名です。 今ではジャンニ・ガルコは日本の映画ファンというより、マカロニウエスタンのファンには知られた存在だが、当時の日本ではまだそれほど有名ではなかったようです。 カトリーヌ・スパークと共演した「太陽の下の18歳」(62)「狂ったバカンス」(62)。マカロニ西部劇「二匹の流れ星」(67)「砂塵に血を吐け」(67)があるけれど、ジュリアーノ・ジェンマのような人気俳優ではありませんでした。「砂塵に血を吐け」の悪役サルタナが欧州では話題になって「サルタナ」シリーズが作られたくらいなのに、日本ではまったく、といっていいほどだった。 映画誌「スクリーン」を毎月購読していた私でもジャンニ・ガルコ、ジョン・ガルコの名をまったく知らず、この「戦場のガンマン」で初めて知ったしだい。一緒に見に行った友人と「コンバット」のサンダース軍曹となんとなく似ているね、と言い合ったくらいです。 邦題の「戦場のガンマン」はあきらかにマカロニウエスタンを意識したものですね。 公開当時は主演のジョン・ガルコなど、まだ知らなかったけれども、今になって見ると、これはマカロニウエスタンの匂いがプンプン感じます。 数人のメンバーが集められて特殊任務につくというのはこの1968年、69年頃のブームであり、プロフェッショナルたちがチームを組んで、不可能と思える目的に挑戦する(泥棒が多い)映画が流行していた、その変形のひとつです。 先日、「スレッジ」をマカロニウエスタンのジャンルに入れるのは問題がある、と書きましたが、少しもマカロニウエスタンらしさのない「スレッジ」なんかより、この「戦場のガンマン」のほうがよほどマカロニウエスタンだとは云わないまでも、それらしさがあるのではないか。マカロニウエスタンとするには最低限、監督はイタリア人であるべきだろう。 マカロニウエスタンとは何か?、もちろんイタリアを中心に西ドイツ、スペイン、ユーゴスラビアが参加して製作した西部劇のこと。基本的には西部劇の贋物であり、外国人による西部劇ごっこです。 ごっこ、というのは日本の時代劇ならチャンバラだし、アメリカの西部劇なら拳銃の撃ち合いと決闘でしょう。なのでそれをアメリカ人ではないヨーロッパ人が西部劇ごっことして映画にするなら当然のことにテーマ性よりも「拳銃の撃ち合いと決闘」に重点が置かれなければならないはず。 そしてなにより重要なのは「いかがわしさ」と「泥くささ」があることです。アメリカ人が監督してアメリカ人俳優たちが中心となった「スレッジ」はマカロニと同じスペインで撮影したとしても、そこに「いかがわしさ」がなく、少しもマカロニウエスタンらしさが感じられないのは当然のこと。「戦場のガンマン」は単純明快なストーリーで、考証もなにもなく、かなり「いかがわしい」。 マカロニウエスタン好きな人なら、けっこう楽しめる作品です。 敵の司令部に、女スパイが色仕掛けで敵の大佐をたぶらかしているうちに潜入し、女スパイが発覚して銃殺され、もうれつな撃ち合いになって敵をやっつける。ただそれだけの映画ですが、この単純さといかがわしさと、色っぽい女優さんの登場。マカロニの典型です。
2016年08月30日
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書店で隔週木曜刊のマカロニ・ウエスタン傑作映画DVDコレクション。 今年4月14日に創刊号「荒野の用心棒」が出て、第2号から2作品収録として、今月18日に第10号が発売された。買いもらしがないので、これでDVD19枚、マカロニ西部劇映画19作品がそろいました。 1960年代後半に世界的なブームをまきおこしたイタリア製西部劇。1970年代初頭あたりまで外国映画のひとつのジャンルとして存在したが、いつの間にか消滅して無くなっていた。 私にとっては思い出深いものがあり、中学生の頃にはラジオやレコード盤を通してその主題曲を聴いていた。「荒野の用心棒」の「さすらいの口笛」や「続 荒野の用心棒」の主題歌「さすらいのジャンゴ」などが大ヒットしてヒットチャートにのぼり話題になったのをおぼえているし、映画館でマカロニウエスタンを見ることができた、私はギリギリ間にあった世代なのかもしれない。 第10号(8月18日発売)は「砂塵に血を吐け」と「夕陽の用心棒」です。「砂塵に血を吐け」はアンソニー・ステファン主演ですが、ヨーロッパでは悪役サルタナを演じたジャンニ・ガルコが注目されたとか。ジャンニ・ガルコの狂気じみた悪役サルタナがそれほどまでに良かっただろうか?と思うのですが、日本では公開当時に話題になった記憶もないし、ちょっと印象に残る悪役といった程度ではないか。 DVDを日本語吹替え音声で見ていると、サルタナが悪徳判事を射殺する場面で「星空の用心棒」の音楽が使われている。この同場面を「イタリア語・字幕」で見ると音楽が入っていませんね。テレビ放送の吹替え収録のさいに効果音楽として日本のテレビ局が他のマカロニ作品から音楽をもってきて入れたのでしょう。「夕陽の用心棒」はジュリアーノ・ジェンマの西部劇初主演作です。 既発売のDVDは画質があまり良くないのでこの「マカロニ・ウエスタン傑作映画DVDコレクション」収録に期待があったのですが、内容は既発売DVDとまったく同じものでした。画質も字幕翻訳もまったく同じ。現時点ではこれしかないのか?もっときれいな画質のフィルムはないのか?、ちょっと残念。 次号(第11号)は「群盗荒野を裂く」と「バンディドス」です。 そのあとの予定は何だろうか?
2016年08月23日
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「砂塵に血を吐け」(1966)1000 DOLLARI SUL NERO監督 アルバート・カーディフ脚本 エルネスト・ガスタルディ ヴィットリオ・サレルノ撮影 ジーノ・サンティーニ音楽 ミケーレ・ラチェレンツァ出演 アンソニー・ステファン、ジャンニ・ガルコ(ジョン・ガルコ) エリカ・ブラン、ジェリー・ウィルソン、アンジェリカ・オットー キャロル・ブラウン 本編104分 総天然色 シネマスコープサイズ「マカロニ・ウエスタン傑作映画DVDコレクション」第10号(8/18発売)は「砂塵に血を吐け」と「夕陽の用心棒」です。「砂塵に血を吐け」の既発売DVDは高額なので手が出ず、今回の収録はたいへんありがたく嬉しい。 日本公開は1968年4月。これまでに見たことがなかった作品で、初めての鑑賞です。 見始めて「あれ?」と思ったのは主題曲に聴いた記憶がある。トランペットが高々と鳴り響くカッコ良い曲です。かつて持っていたレコード盤に入っていたのを聴いたのだろうか? 殺人の濡れ衣を着せられて服役していた主人公ジョニー(アンソニー・ステファン)が12年ぶりに(吹替えでは8年)故郷の町へ帰ってきた。彼は弟のサルタナ(ジャンニ・ガルコ)が兄の恋人を暴力で奪って妻にし、さらに多勢の手下を率いて近隣の町を荒らし回っていることを知る。ジョニーは正義のため、悪事やりたいほうだいの弟と対決することになる。 人々はジョニーが町の住人エドワード殺しの犯人だと信じていて、サルタナの無法を恐れていることもあって誰も彼に協力しようとはしない。事なかれ主義の、臆病で卑怯な住民たちというのはマカロニ西部劇のひとつの定番でもある。 主人公が誤解され疑われながらも悪党に孤独な戦いを挑んでゆく、という話ですが。敵は実の弟であり、彼ら兄弟の母親、主人公を親の仇と信じ込んでいるヒロイン、悪徳判事、主人公の元恋人とその弟などの脇役が話に関わってストーリーに厚みが加わっている? マカロニウエスタンに27本も出演したというアンソニー・ステファン。日本ではあまり人気がでなかったようですが、確かに殴り合いの格闘でも一発で相手をノシてしまうような力強さがない頼りなさ。しかし身長が高くてライフル銃の連射がよく似合う。あまり強そうでなく、颯爽とした格好良さがないところが逆に魅力になっていて応援したくなる。奇妙な俳優です。 そんな影の薄いアンソニー・ステファンの敵役としてまったく正反対に強烈な存在感で印象に残るのが弟サルタナ役のジャンニ・ガルコ。公開時の日本ではそれほど話題にならなかったようだがヨーロッパでは主役をしのぐ人気を得たようです。 ジャンニ・ガルコ扮するサルタナを、キャラクターとしては同じではないが主役に抜擢してサルタナ・シリーズが4本も作られたとか。なぜか日本未公開であり、DVDでは「サルタナがやって来る~虐殺の一匹狼~」の1本のみが見られます。「砂塵に血を吐け」。展開にもたつきがあるけれども、女優さんもきれいだし、マカロニ西部劇のかなり面白い一編。
2016年08月22日
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「スレッジ」(1969)A MAN CALLED SLEDGE 伊題 LO CHIAMAVANO SLEDGE監督 ヴィック・モロー 製作 ディノ・デ・ラウレンティス ハリー・ブルーム脚本 フランク・コワルスキー 撮影 ルイジ・クヴェイレル 音楽 ジャンニ・フェリオ 出演 ジェームズ・ガーナー、デニス・ウィーバー ラウラ・アントネッリ、クロード・エイキンス ロバート・マーレイ、ブルーノ・コラッツァリ 本編92分 総天然色 シネマスコープサイズ「マカロニ・ウエスタン傑作映画DVDコレクション」第9号に収録の「スレッジ」を鑑賞しました。 日本公開は1971年7月。テレビ映画「コンバット!」のサンダース軍曹役で知られるヴィック・モローさんが監督した西部劇映画です。 製作のディノ・デ・ラウレンティスは「にがい米」(49)「道」(51)「河の女」(55)などで知られるイタリア人映画プロデューサーですが、1970年頃には、その活動はアメリカ映画界が主になっていたのではないか。なのでこの「スレッジ」を「マカロニ・ウエスタン傑作映画DVDコレクション」に収録するのは疑問のあるところです。 マカロニウエスタンを、イタリア人を本来の観客対象にしたものと定義づけるなら、本作はちがうのではないか。アメリカ映画がスペインのアルメリア(マカロニ西部劇の撮影地)で撮ったというだけではないか。私たちも公開当時はこの映画をマカロニウエスタンだとは思っていなかったはずです。 賞金首のおたずね者スレッジ(ジェームズ・ガーナー)は知り合った老人から30万ドルの砂金が輸送されているという情報を得る。 金鉱から30万ドル相当の砂金が馬車に積まれ、厳重に護衛されて定期的に輸送されている。それが途中にある監獄で一泊するのだと。スレッジはその砂金を強奪すべく、仲間たちといっしょに計画を練る。 40人のガードマンに守られた輸送隊を襲うのは無理だと判断したスレッジは監獄内で奪うことにし、自分が捕らえられたふりをして収監され、監獄内に入り込む。看守を殺して囚人を解き放ち、監獄を混乱におとしいれたすきに砂金強奪に成功する。 この砂金強奪が成功するまではテンポ良く快調に話がすすんで、イタリア映画マカロニウエスタンにはない、さすがアメリカ映画だと思わせる展開です。 俳優の演技も洗練されたもので、彼らの馬の乗り方、銃の扱い、男達の服装などあきらかにマカロニウエスタンではなくアメリカ映画のものですね。 しかし面白かったのは、この砂金強奪計画が成功してまんまと30万ドルの砂金を手に入れたところまで。 山分けした砂金を元手に、彼らは仲間内でポーカー賭博を始めて、案の定、仲間割れを起こして死人をだしてしまう。一人勝ちしたスレッジと無一文になった仲間たちが無事で済むはずがなく、仲間たちはスレッジの恋人(ラウラ・アントネッリ)を人質にして砂金と交換を迫る。 なんでこうなるのか? 長年(おそらく)いっしょに苦労しながら強盗稼業に精出してきたはずの仲間なのに、なぜ欲に目がくらんで殺し合うことになってしまうのか。気が重くなる展開です。 このような話はマカロニウエスタンらしくなく、やはりアメリカ映画らしさを感じるものです。 犯罪を成功させてはならない。犯罪者は幸福な隠退生活を手にいれてはならない、というアメリカ映画の良識がこんなところに出ているのではないだろうか(アメリカの西部劇が衰退した一因か?、こんな展開では観客がそっぽを向くだろう)。 この砂金強奪を最後に引退して恋人といっしょに安楽な余生を送ろうとしたスレッジだったが、アメリカ映画はそうはさせてくれなかった。悪事で大金を手に入れた者は、仲間割れして自滅しなければならない時代遅れの決まりがあり、サンダース軍曹の監督はそれを律義に守った? 途中までは面白かったのに、失速してしまった残念な一作です。
2016年08月21日
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H.G.ウェルズの「モロー博士の島」(偕成社文庫)を読みました。「タイムマシン」も面白かったけれど、この「モロー博士の島」はそれ以上に良かった。傑作です。「モロー博士の島」(完訳版)偕成社文庫 ハーバート・ジョージ・ウェルズ作。雨沢泰 訳、挿絵は佐竹美保。 定価800円+税 H.G.ウェルズが1896年(明治29年)に発表した作品で、「タイムマシン」(1895)「モロー博士の島」(1896)「透明人間」(1897)「宇宙戦争」(1898)の順になる。「モロー博士の島」を読むのは初めてです。 この映画化作品があって「ドクター・モローの島」(77)。1978年1月に日本公開された作品で、監督はドン・テイラー。バート・ランカスター、マイケル・ヨーク、バーバラ・カレラが出演している。 劇場公開版とテレビ放送の旧版はマイケル・ヨークがボートで島を脱出するが、そのボートにいっしょに乗っているヒロインのバーバラ・カレラに牙が生えて野獣(黒豹)にもどって行くエンディングだった。それが、のちのテレビ放送新版では何事も起こらないハッピーエンドになっていてズッコケた記憶がある、ズッコケ別バージョンの存在が印象深い映画になっています。 で、その原作小説としての「モロー博士の島」。「私」として語り手であるプレンディックは海難事故で南海を漂流中に、モントゴメリーという男が乗った貨物船に救助される。彼はモロー博士の助手としてはたらいていて、プレンディックはモロー博士と奇怪な人間たちが住む孤島で生活することになる。 モロー博士はロンドンでは有名な生物科学者だったが、残虐な生体実験のために学会を追放され、この南海の孤島にすんでいた。モロー博士はこの孤島である実験をおこなっていて、それは、動物に生体改造手術をほどこして人間化させるものだった。 プレンディックは、モロー博士が人間を切り刻んで動物にしていると誤解して森へ逃げ込むが、この島の奇怪な住人たちが、モントゴメリーを別として、モロー博士の手術によって人間化された動物だと知ることになる。 モロー博士の改造手術によって「人間」になった者たち(動物人間)は森の奥でコミュニティーを作って人間らしい生活をしようと「掟」を定めて努力している。「四本足で歩くな」「水を口ですするな」「生の肉や魚を食べるな」「木の幹で爪を研ぐな」「人を追いかけるな」などと皆が集まってタブーを唱えて宗教的な儀式すらおこなっている。 プレンディックから見れば、不気味な人間もどきでしかないのだが、彼らは「創造主」であるモロー博士の影響を強く受けていて、野生動物と人間の境界あたりを揺れ動いている。「やつらは、いずれもとにもどる。わしの手をはなれると、すこしずつ本来のすがたが優勢になる」と、モロー博士は云い、まだ研究は完全ではないが、いつか成功させてみせると。その博士が手術中に逃げ出したピューマ人間に殺されてしまう。 血の味を覚えた動物人間と、時が経てばしだいにもとの姿に戻ってゆく動物人間たち。 モロー博士が死んだ後、島からかろうじて脱出したプレンディックはロンドンに帰って人間社会に復帰するのだが・・・・。 マッドサイエンティストもののSF小説です。「人間性」と「動物的」を考えさせられる話ですが、現代の人間社会をみると、物語に登場する動物人間と同じような動物的な人間がそこいらにたくさん棲息?しているのではないか。 人間性とは 人間の人間であるゆえん,人間の普遍的本性の意。人間らしさという価値的意味をもつ。 人間特有の本性。人間として生まれつきそなえている性質。人間らしさ。 人間を人間たらしめる本性。 人間としてあるべき理想の姿。 動物的とは 動物の性質を持っているさま。人間らしい心がなく、動物のように本能だけで行動するさま。 人間が動物としての本能をもっているさま。また,荒々しく粗暴なさま。暴力的。 人間も動物の一種だといってしまえば身もふたもありません。日々の生活を送るなかで自分を律して、常に向学心を失わず、動物のように本能だけで行動することだけはないように気をつけたいものです。
2016年08月20日
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「宝島」スティーブンソン作 偕成社文庫を読んだのがきっかけで児童向けの本にはまってしまいました。「タイムマシン」「モロー博士の島」「宇宙戦争」「透明人間」と、H.G.ウェルズの古典的SF小説を4冊買ってきて読んでいます。 始めに「タイムマシン」を読んだのですが、これは面白かったです。 このようなSF小説は中学生のときに、学研の学習月刊誌の付録にあったダイジェスト本を読んでSFの面白さと共に読書の楽しさを知った、あの当時のような感覚がよみがえって懐かしいものがあります。「タイムマシン」(完訳版)偕成社文庫 定価700円+税 ハーバート・ジョージ・ウェルズ作。雨沢泰 訳、挿絵は佐竹美保。 時間を超えることができる機械を発明した科学者が80万年後の未来へ行き、その果てしない未来社会をその目で見、体験した物語。 普通、タイムトラベルの話といえば過去へ行って歴史上人物と出会い、歴史を確認するものが多いのだが、このH.G.ウェルズの小説では未知の未来社会へ行く、しかも80万年後というぶっとんだ未来へ。 そこでの地球はどうなっているのか?、人類はどうなっているのか?、さらなる未来へ行けば人類はどうなってしまうのか? 80万年後の世界は地上の楽園に住むイーロイ人が牧歌的に生活していた。何不自由のない穏やかで平和な社会に見えたがそれは偽りの楽園で、現実はその地下にはモーロックス人という化け物の容姿をした者たちが住み、夜になると地上に現れ、知能の退化したイーロイ人たちを脅かしていた。 世界が平和になり、人々のあいだに争いがなくなった。予防薬ができて病気にかかる心配もなくなった。働かなくても安楽な生活ができるようになった。立派な家に住み、華やかな服を着て、毎日遊んで暮らす。 お金を儲ける必要がないので金銭欲もなくなり、働く必要がないので労働意欲もなくなり、まったく不安も危険もない社会が到来した。 すべての人々が平等で、世界が平和で、生活の不安がない。そのような世界を理想として人類社会は発展してきたが、それが実現した時を境として、その後の人類は堕落し、退化してゆく。 ものを考える必要がなくなり、何も考えず、何も学ばず、毎日を遊んで暮らす。人間の脳は退化し、未来人は地底に棲むモーロックス人に食われるために飼育される肉牛の位置に堕していた。 さらに未来へ向かったタイムトラベラーは地球の終末世界を見てしまうことになる。 1895年(明治28年)に発表された作品ですが、何も考えず、何も学ばず、働かないで毎日を遊んで暮らす、そのような人たちがいる、ということでは現実になっています。
2016年08月19日
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12日放送の金曜ロードショー「コクリコ坂から」を見ました。 個人的には大好きな作品で、全ジブリアニメ映画のなかでもトップクラスだと思っています。 監督は宮崎駿さんではなく息子の吾朗さんですが、随所に宮崎駿さんらしい趣きが感じられる。「天空の城ラピュタ」や「となりのトトロ」のようなファンタジー作品ではないので、子供には楽しめないかもしれないけれど、現在の70才前後の方々、主人公と同年代の人たちの青春時代を描いた作品ということで、ノスタルジックな光景がひろがる、この映画はとても心地よい。 東京オリンピック前年の1963年(昭和38年)横浜の坂のある港町を舞台にした青春ドラマ。 監督の宮崎吾朗さんは当時の空気を知らない世代なのに、なぜこんなノスタルジックな世界を表現できるのだろうかと思ったのですが、昭和30年代の日活映画を参考にしたとかで、それでなのか、と納得。父親の宮崎駿さんの意見なども入っているのかもしれない。「コクリコ坂から」(2011)監督 宮崎吾朗製作 星野康二企画 宮崎駿プロデューサー 鈴木敏夫制作 スタジオジブリ原作 高橋千鶴、佐山哲郎脚本 宮崎駿、丹羽圭子キャラクターデザイン: 近藤勝也作画監督 山形厚史、廣田俊輔、高坂希太郎 稲村武志、山下明彦美術監督 吉田昇、大場加門、高松洋平、大森崇撮影監督 奥井敦色指定 森奈緒美、高柳加奈子音楽 武部聡志声の出演 長澤まさみ、岡田准一、竹下景子 石田ゆり子、風吹ジュン、内藤剛志、風間俊介、大森南朋 白石晴香、柊瑠美、香川照之 本編95分 総天然色 ビスタサイズ 1963年横浜。港の見える丘に建つ古い洋館「コクリコ荘」。高校2年の少女 松崎海は、大学教授の母の留守をあずかってこの下宿屋を切り盛りするしっかり者。朝鮮戦争で死んだ船乗りの父に教わった信号旗(安全な航行を祈る)を毎朝あげるのを日課にしている。 そんな海が通う港南高校では、歴史ある文化部部室の建物、通称「カルチェラタン」の老朽化による取り壊しを巡って生徒たちによる反対運動が起こっていた。海は妹といっしょにカルチェラタンを訪れたことから新聞部の3年生 風間俊のガリ版刷りを手伝うようになり、2人は次第に惹かれ合っていくのだが。 女性ばかりが住む(祖母、妹の空。女医、OL、画家の卵など下宿人。男は弟の陸のみ)コクリコ荘での日常生活と対比してのカルチェラタンは、魔窟のような男性社会。愛すべき妖怪のような男子生徒たちが棲息?する場所へヒロインが踏み込んでゆく。老朽化してオンボロの建物内を大掃除すべく女子生徒たちが大挙して乗り込んでゆき、妖怪変化のような男子生徒たちが圧倒される可笑しさと爽快さ?、このようなシーンの楽しさは宮崎アニメの真骨頂です。 そして、主人公松崎 海(仲間たちはメルと呼ぶ。フランス語の海だとか)と惹かれあう男子生徒の風間 俊だが、父親が同じなのではないか?ということになって、好き合う二人の心をまどわせる。 死んだ父親たちの友情と、その子供たちの成長を描いた作品で、なるほどこれでは年少の観客には理解ができないだろうし感情移入もできないだろう。 その反面、りっぱに成長した子供たちの姿を見て感動できる大人の観客にとっては、ノスタルジックな昭和30年代社会が目の前にひろがることもあり、胸が熱くなるとても良い映画であるのだろう。 オート三輪、船や港の風景。町を行き交う車や電車。雨振りの町や夕暮れの町。マッチをすって着火するガスコンロ、コロッケとアジフライなど小道具の使い方も上手だし、音楽も素敵で効果的です。
2016年08月13日
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新潮文庫の新訳版「宝島」(鈴木恵 訳)を読んでいて気づいたこと。「第八章 遠眼鏡亭にて」のジョン・シルヴァーとジム少年の会話で、シルヴァーが雇い主トリローニさんのことを「トリローニ船長」と云っています。「ピューだ!たしかにそういう名前だった。ああ、見るからに因業な野郎だったな、あいつは!その黒犬というのをとっ捕まえたら、トリローニ船長にはいい知らせになる!ベンは足が速いんだ。あんな足の速い船乗りはまずいねえ。あいつなら追いつくさ。とっ捕まえる、絶対にな!船底まわしの話だと?おれが船底まわしをさしてやらあ!」と。 郷士(または大地主)トリローニさんは宝探しに出発するための船と船員を設えた中心人物だが船長ではないので、この「トリローニ船長」というのは変ではないか。 そう思って佐々木直次郎さん・稲沢秀夫さん訳の旧版の同箇所を見返すと、なんと同じくトリローニ船長と訳されていました。「そうだった!」とシルヴァーはいまではすっかり興奮して叫んだ。「うん、ピューだ! 確かにそういう名前だった。ああ、あいつはぺてん師らしかったな、まったく! とにかく、もしあの黒犬をつかめえれば、トリローニ船長に、ええお知らせができるわけだぞ! ベンはなかなか脚の速い男だ。水夫仲間じゃベンくれえ早く走る男はあんまりいねえからな。あの男ならどんどんやつに追いつくよ、きっと! やつは船底くぐりの話をしてたんだと? このおれがやつに船底くぐりをやらせてやるぞ!」 原文でもキャプテン・トリローニとなっているので翻訳ミスではないようです。 "It was!" cried Silver, now quite excited. "Pew! That were his name for certain. Ah, he looked a shark, he did! If we run down this Black Dog, now, there'll be news for Cap'n Trelawney! Ben's a good runner; few seamen run better than Ben. He should run him down, hand over hand, by the powers! He talked o' keel-hauling, did he? I'll keel-haul him!" 同じ箇所を偕成社文庫の金原瑞穂さんは「トリローニ隊長」と。 岩波少年文庫の海保眞夫さんは「船主のトリローニさん」と訳しています。 原文があきらかにおかしいということで、そのまま訳さずに修正がなされたのでしょう。 この新潮文庫新訳版では、なぜ修正がなされなかったのか?「船底くぐり」という用語が出てきて、鈴木恵さんの新訳版では「船底まわし」となっています。 この「船底くぐり」とは刑罰の一種ですが、具体的にはどのようなものだろう? 罪人の胴体にロープをくくり付けて舷側から反対側の舷側へと潜らせるのか? ロープで縛った罪人を海に投げ落として、そのロープを反対側の舷側から引っ張りあげるというものか? 息が続かずに溺死するか、船底にはフジツボがびっしりと付着しているのでこすられると無惨なことになるだろう。縛り首の刑につぐ重刑かもしれない。 原文keel-haulingの意味は、竜骨と、引っ張る、たぐる、ですね。 hauling under the keelともいうらしいので、ロープを着けて罪人を自分で潜らせるのではなく、ロープを船底を潜らせての向こう側から引っ張るのかもしれない。 ほかに「置き去り刑」(無人島に置き去りにする)という用語も出てきますが、いかにも「海賊」や「海洋冒険小説」らしさのある用語です。 先にも書きましたが、「宝島」を読むなら偕成社文庫、あるいは岩波少年文庫、福音館文庫がいいのでしょう。児童向けとあなどってはなりません。判型も大きく(文庫となってるけど文庫判ではない)蔵書に最適です。
2016年08月12日
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「宝島」の面白さは宿屋の息子ジム・ホーキンズの冒険もあるのだろうけれど、真の主人公ともいえる海賊ジョン・シルヴァーの人間像がうまく描かれているからですね。 大地主トリローニ、医師リヴジー先生、スモレット船長たちと少年ジムが海賊と宝をめぐって戦う話だけだったら、古典的名作として現代まで読み伝えられなかったかもしれない。 ジョン・シルヴァーは残忍で狡猾だが、面倒見の良さと、知性と雄弁さ、野心と蓄財にはげむ勤勉さをもっているユニークな人物です。 海賊稼業で手に入れた金を散在することなく、しっかりと貯蓄していて、それを元手にして地位の向上をめざしている。手下の無法者たちとはあきらかに異なるキャラクターとして登場します。 ジョン・シルヴァーが言う。 「宝島」新潮文庫 佐々木直次郎・稲沢秀夫訳 「第八章 遠眼鏡屋の店で」「分限紳士(ぶげんしんし)ってなあこういうもんなんだ。やつらは荒稼ぎはやる、ぶらんこ往生覚悟の仕事はやる、闘鶏みてえにぜえたくに飲み食いするんだ。それで一航海やってくればだ、そうさなあ、ポケットにゃあ、はした金なんてもんじゃねえ、何百ポンドって金がへえってくるんだ。ところで、てえげえのやつらはそれをラムとか大尽遊びに使っちまって、またぞろシャツ一枚で海へ出かけるってわけさ。だけんど、わしのやりくちはそうじゃねえ。わしはそれをそっくり貯めておく。こっちにすこし、あっちにすこしってぐあいで、どこにもあんまりたんとはおかねえ。嫌疑がかかるからな」 訳注では、 海賊は、掏摸やこそ泥やふつうの強盗などを軽蔑して、自分たちをたわむれに「分限紳士」と称していた。「ぶんげん」とも読む。財産家、金持ちのこと、となっています。Here it is about gentlemen of fortune. They lives rough, and they risk swinging, but they eat and drink like fighting-cocks, and when a cruise is done, why, it's hundreds of pounds instead of hundreds of farthings in their pockets. Now, the most goes for rum and a good fling, and to sea again in their shirts. But that's not the course I lay. I puts it all away, some here, some there, and none too much anywheres, by reason of suspicion. 分限紳士。原文ではGentlemen of fortune です。 Gentlemen は紳士、旦那の複数形で旦那衆。 fortune は運、好運、果報、成功、出世、富。 佐々木直次郎さんは「分限紳士」と翻訳しましたが、ようするに「成金」「山師」のことですね。好運にめぐまれて一代で富を築いた男たち、というような意味。 シルヴァーが言うには、「海賊稼業で莫大な財を得た。たいがいの奴はお大尽遊びで金を使い果たしてしまい、無一文になって再び海へ出かけることになる。だが俺は奴らとはちがう。倹約してそれを貯めておくんだ。怪しまれないようにあちらこちらに分けてな」と。そしてその金で本物の紳士になって土地を買うか、議員をめざすのか? 新潮文庫の新訳版(鈴木恵 訳)では「冒険紳士」 偕成社文庫の金原瑞穂さんの訳では「純金紳士」となっています。 岩波少年文庫の海保眞夫さんの訳は「冒険家」です。 佐々木直次郎さんの訳をそのまま使うわけにはいかないのでしょうが、新潮文庫新訳版の「冒険紳士」だと意味がまったく異なってしまう。Gentlemen of fortuneから受ける語感がなくなってしまいます。 岩波少年文庫版の海保眞夫さんは「冒険家」として、訳注で原文の「Gentlemen of fortune 」を並記して「冒険家」と訳しておくと、ことわりをいれています。「分限紳士」と同じような意味の語では「成金紳士」か「山師」かと思いますが、自分で自分のことを、いかがわしい奴という語感がある「成金」とか「山師」と称するのはおかしいので、「Gentlemen of fortune」をそのまま日本語に訳するのはたいへん難しいのでしょう。
2016年08月11日
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ロバート・ルイス・スティーヴンソンの「宝島」が刊行されたのは1883年(明治16年)。 日本に入ってきて翻訳されたのはいつなのだろうか? これまでにいろんな方によって翻訳されていますが、現在もっともポピュラーなのは、児童向けでは偕成社文庫の金原瑞人さんと岩波少年文庫の海保眞夫さん、あとは福音館文庫の坂井晴彦さんでしょうか? 児童書ではない一般的な文庫本では新潮文庫の佐々木直次郎さんと稲沢秀夫さんによるものだと思うのですが、かつて岩波文庫(および岩波少年文庫旧版)の阿部知二さん訳がありましたが近年はあまり見かけなくなりました。 佐々木直次郎さんの翻訳は古く1935年(昭和10年)10月に岩波文庫が初版だそうです。佐々木直次郎 稲沢秀夫訳の新潮文庫版は初版が昭和26年3月となっていますが、この本は佐々木直次郎さんの翻訳に稲沢秀夫さんが手を加えたもののようです。 その新潮文庫「宝島」が新たに鈴木恵さんの翻訳で新刊として発売されました。 佐々木直次郎・稲沢秀夫訳の新潮文庫 鈴木恵訳の新潮文庫 新刊 阿部知二訳の岩波少年文庫 金原瑞人訳の偕成社文庫 の4冊を読み比べてみました。 まず目に付くのは、出だしの、トリローニさんの身分が「地主」と「郷士」のどちらか。 原文では SQUIRE TRELAWNEYです。 SQUIREは爵位を持たないが領地を持っている支配階級の身分。それを「郷士」と「大地主」のどちらで表現するか。「郷士」とは江戸時代の農村に在住して農業従事した武士。または農村で武士の身分を与えられていた農民。翻訳的には「郷士」が近いようですが、郷士と書かれても何だかよくわからない。社会的地位の表現としては「大地主」のほうが適っているのかも。 それに日常会話で他人が「郷士さん」と呼びかけるだろうか?という常識的な疑問もあるし、ここはやはり「大地主さん」ではないかと。 物語は少年ジム・ホーキンズが後になってから回想記として書いたもので一人称。「私」と「ぼく」のどちらが良いのだろう? 個人の好みの問題と思われますが、読者対象が児童だとすれば「ぼく」のほうが感情移入しやすいだろうし、私の個人的好みでも「ぼく」のほうが良いかな。 それに第16から18章までは医師リブジー先生の視点で語られるので、ジムの「ぼく」とリブジー先生の「わたし」になっているほうがはっきり区別しやすいのでは。 新潮文庫 佐々木直次郎・稲沢秀夫訳 「大地主」「わたし」 岩波少年文庫 阿部知二訳 「郷士」「ぼく」 新潮文庫 鈴木恵 新訳版 「郷士」「私」 偕成社文庫 金原瑞人訳 「地主」「ぼく」 です。 第二章 黒犬現れて去る"Bill," said the stranger in a voice that I thought he had tried to make bold and big.The captain spun round on his heel and fronted us; all the brown had gone out of his face, and even his nose was blue; he had the look of a man who sees a ghost, or the evil one, or something worse, if anything can be; and upon my word, I felt sorry to see him all in a moment turn so old and sick.「ビル。」とよその男がいったが、その声はしいて大胆そうに見せかけようとしているように思えた。 船長はくるりと後へ向きを変え、わたしたちと向いあった。その顔からは日焼けした色がすっかりなくなっていたし、鼻までが青かった。幽霊か、悪魔か、それよりももっとこわいもの(もしそんなものがあるとすれば)でも見た人のような顔つきであった。そして、まったく、ほんのちょっとのあいだにこれほど老いぼれて元気がなくなった彼を見ると、わたしは気の毒になった。第十一章 林檎樽のなかで聞いた話"Oh, I know'd Dick was square," returned the voice of the coxswain, Israel Hands. "He's no fool, is Dick." And he turned his quid and spat. "But look here," he went on, "here's what I want to know, Barbecue: how long are we a-going to stand off and on like a blessed bumboat? I've had a'most enough o' Cap'n Smollett; he's hazed me long enough, by thunder! I want to go into that cabin, I do. I want their pickles and wines, and that."「ああ、ディックが話がつくこたあ、おれにはわかってたよ」と舵手(コクスン)のイズレール・ハンズの声が答えた。「こいつはばかじゃねえからな、このディックは」それから彼は噛みタバコをぐにゃぐにゃやって唾をぺっとはいた。「だがなあ、おい」彼はつづけた。「おれの聞かしてもれえてえのはこういうことなんだ、肉焼き台(バービキュー)。いってえ、いつまでおれたちはつまらねえ物売り舟みてえにぐずぐずしてるんだね? おれはもうスモレット船長(せんちょ)にゃうんざりしてるんだ。やつは長えことおれををこき使いやがったからな、畜生! おれはあの船室へへえりてえんだ、そうさ。やつらの漬物(ピクルス)だの葡萄酒だのなんだのがほしいんだよ」 以上は佐々木直次郎さんと稲沢秀夫さんの新潮文庫旧訳版です。 今度、新潮文庫の「宝島」がこの佐々木直次郎さん、稲沢秀夫さんのものから、鈴木恵さんの新訳になりました。 新訳の新潮文庫「宝島」ではこの同じ箇所が、「ビル」と男は声をかけた。わざとふてぶてしさを装おうとしたような声だった。 船長はさっと振り向いて、私たちと向き合った。赤銅色の顔色はすっかり失われ、鼻までまっ青になった。幽霊か、悪魔か、もっとたちの悪いものでも--そんなものが存在すればだが--眼にしたような顔をしていた。船長が一瞬にしてひどく老け衰えてしまったのを見て、私は誓って言うが、残念に思った。「おお、味方なのはわかってたさ」答えたのは艇長のイズレイル・ハンズの声だった。「馬鹿じゃねえからな、ディックは」そう言うと、噛み煙草を転がして唾を吐いた。「だけどなあ、バーベキューよ」とハンズはつづけた。「おれたちゃいつまで物売り船みたいにぐずぐずしてるんだ?おれはもうスモレットの野郎にはうんざりしてきたぜ。ひとをさんざんこき使いやがって、ちきしょうめ!早くあの船室にはいりこみてえよ。はいりこんで、あいつらのピクルスやらワインやらをいただきてえぜ」 I felt sorry がなぜ「残念に思った」になるんだろう? coxswain がなぜ「艇長」になるんだろう? coxswainは 舵手、舵取り、かじ取り、楫取り、操舵手 。 レース用ボートの艇長(コックス)という意味として、この「宝島」へ向かうスクーナー船に搭載されているボートの艇長ということだとしても、この場合は「舵手」か「舵取り」がふさわしいのではないか? bumboatを「物売り船」とするのも、ボートならば「船」ではなく「舟」であるべきで、この「宝島」の鈴木恵さんによる新訳はていねいな仕事がおこなわれたとは思われません。佐々木直次郎さんの旧訳版に代わって、今後ずっと読みつがれていく本になるとすれば、このような粗っぽい翻訳でいいのだろうか? 児童向けの偕成社文庫の金原瑞人さんの訳では、「心から船長がかわいそうに思えた」「舵手のイズラエル」「物ごいの船」になっています。 現在、最も評判が良いのはこの偕成社文庫の金原瑞人さんの訳と、岩波少年文庫の海保眞夫さんの訳のようです。 金原瑞人さんの訳と共に評価の高い「岩波少年文庫」の海保眞夫さんの翻訳を読んでみたく、書店で取り寄せてもらうことにしました。入荷案内がたのしみです。
2016年08月08日
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『復讐の用心棒』 (1967) DUE ONCE DI PIOMBO監督 マウリツィオ・ルチディ脚本 アドリアーノ・ボルツォーニ撮影 フランコ・ヴィラ音楽 ラッロ・ゴーリ出演 ロバート・ウッド、ピエル・パオロ・カポーニ ルチア・モドゥーニョ、ペーター・カルスティン、ルイス・カッセル、 ジュリアーノ・ラファエリ、クリスティーナ・ジョサニ、ウンベルト・ラホ 本編85分 総天然色 シネマスコープサイズ「マカロニ・ウエスタン傑作映画DVDコレクション」第9号に収録の「復讐の用心棒」を鑑賞しました。 日本公開は1970年1月。私が見たのもその頃で、横安江町アーケード街の入り口にあったテアトル会館。「続 荒野の用心棒」「真昼の用心棒」との3本立て上映でした。 悪党クライン(ピエル・パオロ・カポーニ)一味を裏切った男が銀行から強奪した8万ドルを持って町に逃げ込む。 追って町にやって来たクラインたちは、金の有りかを聞き出す前に男を射殺してしまう。 8万ドルは酒場の主人が酒樽に隠しているのだが、クライン一味はその金を捜そうとやっきになり、町に現れたメキシコ人のガンマン ペコス(ロバート・ウッズ)が早撃ちでクラインの子分たちを一人二人とかたづけてゆく。 ペコスは執拗にクラインを狙うのだが、彼の目的は何か? マカロニウエスタンの定石として主人公ペコスはクラインに捕まって殴る蹴るのリンチを受ける。地下室に捕まった彼を助けようと、ヒロインのニーナ(クリスティーナ・ジョサニ)が階上の床穴から紡ぎ糸の先にナイフをくくり付けて降ろしてゆく。 かつてクラインに両手をつぶされた医師とその娘が町に住んでいてペコスに協力したり、墓掘り人を兼ねている牧師(ウンベルト・ラホ)が欲深く、クラインに密告したり、死人から金を巻き上げていたりという趣向だが、とくに真新しいものではないようです(悪徳牧師というのはマカロニウエスタンらしいところか?)。 いかにも低予算映画といった感じがしますが、画質の良さもあって、しかも本編85分なので退屈することもなく気軽に見られる典型的マカロニウエスタンの小編です。 かつて映画館で見たが、同時上映が「続荒野の用心棒」と「真昼の用心棒」といった強烈な作品だったせいか記憶にのこらない結果になっていた。いままで内容をまったく覚えていず、約46年ぶりにDVDでの鑑賞です。
2016年08月06日
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本屋さんへ行くと夏休み恒例の読書感想文用に文庫本がいろいろ並べられています。新潮文庫、角川文庫、集英社文庫などなど。 世の中には読書習慣のない人が多く、何十年もの間に一冊も本を読んだことがないという豪傑もおられる。 私は本のない人生よりも本がある人生のほうが何十倍も何百倍も楽しいのではないかと思っているし、本のない生活など思いもよらないですね。 夏休みの宿題に読書感想文の提出があるのは中学生、高校生の時だったか?小学生の時にはそんな宿題はなかったように思います。 私は小学生の時は図書室が大好きだったし、なぜかその頃から本が好きだった。クラスの友人間で、誰が貸出しカードの記入欄を早くいっぱいにするか競争したくらいです。 そんな子供時代の読書として思い出深いのは「ロビンソン漂流記」と「宝島」。 この2冊はけっして子供向けではなく、60才を越えた現在になって読んでも充分に面白さを満喫できる傑作です。 画像は新潮文庫の「宝島」ロバート・L・スティーヴンソン著で、新旧版の2冊。 表紙が見えるのは今月新刊の「宝島」で、翻訳が新しくなった鈴木 恵さんの訳。右は佐々木直次郎、稲沢秀夫さんによる旧訳の平成10年2月20日 71刷のものです。 物語は、ジム少年の父親が経営する「ベンボウ提督亭」に顔に刀傷がある老水夫が泊まる場面から始まる。その老水夫が持っていた宝島の地図を手にいれたジムは、地主のトリローニさん、医者のリヴジー先生とともに宝島に向けて航海に出ることになります。 ところがその船は、雇い入れたジョン・シルバーという片足のコックが首謀者となって反乱が企てられる。敵は19人で味方は7人という危機に陥り、仲間にならないものは容赦しない海賊を相手にジムたちは戦うことになって、最後まで息もつかせぬ展開となる。 スリルと空想をかきたてる冒険小説。幾多ある冒険小説のなかでも、1883年(明治16年)に刊行された古典的作品である「宝島」を越える作品はいくつあるか?と云える傑作です。 海賊ジョン・シルヴァーの狡猾で残忍だが、愉快で頼もしくもあり、敵味方の状況に応じてうまく立ち回るキャラクターが心に残る。 無鉄砲だが賢く勇敢で律義な少年ジム、冷静で紳士的なリヴジー先生、武骨で自分の仕事をわきまえているスモレット船長など、登場人物の個性がうまく描きだされています。 近年は、古典的作品の新訳版がつぎつぎと刊行されるのが流行なのか?時期的にその時期が来たのか?わからないけれど、新訳版が出たからといって旧訳版を絶版にしてしまわないでほしいものです。新訳版、旧訳版、読者の好みに応じてどちらでも読めるように並行して出版してもらいたいな。 新潮文庫の新訳版は挿絵と解説がなくなったのが残念。
2016年08月05日
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