おきらく主婦のたわごと

おきらく主婦のたわごと

小学校時代



母が着物を着ていた。

私は制服姿だ。

小学校へ行くことになった。

入学式だった。待ちに待ったという感じではなかった。

その数週間前に値下げされているランドセルを買ってもらった。

それを背負って行かねばならないと聞いてはいたがどんなところなのかピンときてはいなかった。

歩けば30分くらいの道のりである。

その日は歩かなくて良かった。近所の同級生のお母さんの車に乗せていってもらうことになっていた。

それまで私は同級生になる子と遊んだことがなかったように思う。

バス以外の車に乗ったこともなかった。

いつもの街に遊びに行くのとは何だか違う様子だ。

スカートがスースーした。

学校に到着すると他にも子ども達がいた。

男の子が2人、女の子が4人という少人数の同級生。

でも私にとっては、こんなにたくさんの人たちで何だか落ち着かない気持ちだった。

「自分のお名前を言ってください。」

みんな元気よく自分の名前を言っている。

私はそんなことを言ったことがない!どうしよう・・・

真剣に泣きたい気持だった。


「わ・・・た・・し・・・・は・・・・・・です・・・」

それは消えそうな声だった。

そもそも自分の事を「私」なんて言ったこともなかった。

みんな堂々と大きな声で言っていたが私はまっ赤な顔をして泣きそうになった。

早く家に帰りたいと思った。

先生の話では明日からも毎日ここに来ないといけないのだと分かった。

家に帰って私はグッタリだった。


家に帰るなり母は父に報告していた。


「ものすごい、はずかしかった!○○ちゃんは上手に元気に話したけど、

 hossyは、小さい声やったし・・・顔から火がでたわっ!!」

そう言って母は私の自己紹介のマネをしたのだ。

私だって、やっとの思いで言ったのに・・・・

人前でかしこまって話す事なんて今までなかったのだから仕方ないじゃないか!

「はずかしかった!」

何度も何度も話す母。

私は恥ずかしい子なんだ・・・

母はよく姉と私を比べた。

母にとって私は何一つ自慢できる子ではないのだ・・・

子ども心にいや~な気持ちだった。

だんだん母の存在が遠のいていくような気がした。

私は学校というところが好きになれそうになかった。

さんざん好き勝手に自分のペースで過ごしていた私には、そこは息苦しいだけの場所だった。


次の日から集団登校で学校に行った。

近所の子達10人くらいで一列に並んでの登校だ。

近所のお兄さん、お姉さんは顔見知りではあったが緊張した。

学校についても緊張。なんだかいつもドキドキ。

何をするのも初めてでとまどっていた。


給食を食べることが苦痛だった。

野菜が食べられない。

それより家では食べたことのない肉に驚く。

米が主食でおかずがちょっぴりの私にはカルチャーショックだった。

残せばチェックが入る。食べるまで席を立つことが出来ない。

とにかく先生に注意を受けると身体が異常に硬くなった。

叱られる?!


小学校の最初の通信簿は5段階で体育をのぞいてはオール3だった。

特別良くも悪くもない、というかぱっとしないものだった。

学校の楽しさが見いだせなかった。

いつも早く家に帰りたいと思っていた。


そしてあわよくば学校を休みたいと思うようになっていた。

不思議なことに、朝になると本当にお腹が痛くなる。

「お腹がいたいよ~。」そう両親に訴えると

「学校に行きたくないんだろ!!」

父に一喝された。

そして近所の子が呼びに来るので、しぶしぶついて行った。

本当にお腹が痛いのに・・・

学校に着く頃には腹痛はおさまっていた。

精神的なものだったのだろう。

1年生の頃は上級生のお兄さん、お姉さんが本当に優しく声をかけてくれた。

全校生徒で50人くらいだったと思う。

こんな小さな学校でも私にとっては大人数に感じていた。

教室は複式だった。

いつも、隣の学年の授業もボーッと見ていた。

手をあげて発表する子ども達をみて驚く。

私は先生の質問にも首を縦か横にふるだけだった。

「お口で答えてね!」

よく言われた。

名前を呼ばれただけで飛び上がるようなこともあった。
私はいつもビクビクしていた。


手をあげて発表するなんてありえなかった。

書く事は苦ではなかったが話すことが苦手だった。

人数が少ないので私が発表できないのは一目瞭然だった。

「はい、は~い!!」

同級生は皆元気に手をあげる中、私はうつむいたまま過ごす。

答えが分からないわけではない。

声を出すのがいやだった。

「これに対してどう思いますか?」

などと言う質問に対しては何も思わなかった。

「○○はかわいそうだと思いました。」

などと発言する人もあったが、自分はそうは思わなかった。

別に~

本当に私の正直な気持だった。

こんなことを言えば怒られると思って言わなかったが。


それは小学校時代を通してずっとで、通信簿の欄には必ず同じ事が書かれていた。

「もっと積極的に発表しましょう」

うんざりだった。

大人にすれば私はかわいげのない子に見えただろう。

私が会話できるのはごくわずかな周りの人と家族くらいだった。

自分が成長していく中で、あることに気がついた。

自分の母が他のお母さんと何かが違うと。


母は会社を休むことを異常なほどに嫌った。

有休休暇というものはあるが、母は休みをとることで弱みを見せたくなかったのだろう。

あまり器用な人ではなかった。

ばか正直なことが取り柄だった。

休まないことで上の人に可愛がられていたのかもしれない。

保護者会で休むことになると

「え~っ、また休まないといかんのか・・・」

いつも嫌そうにしていた。

私が自慢出来る子ではないから?!

母が私を恥ずかしいと思うように私も母が恥ずかしいと思うようになってきた。

母はとても小さい人だった。

身長が140センチで小柄だった。

このことは母のコンプレックスでもあった。

自分がバカにされるのは身長が小さいからだと言っていた。

母はそうとう屈折していた。

「私がもっと大きかったら、もっと違う人生があった!小さいばかりに苦労して・・・」

私は母のその話が大嫌いだった。

母の時代は中学校が義務教育ではなかった。

母は小学校を出てすぐに寮のある会社に勤めた。

その頃の写真を見たがまるで子どもだった。

「こんな、小さいこどもが家のために働いて苦労して・・・」

いつもの泣き言がはじまる。

うんざりだった。

きけば母の父は中学校に行くことを勧めたらしいのだが母が行かないと選択したらしい。

「勉強しないと後で泣くことになるぞ!」

それが祖父の口癖だった。母は勉強よりも近所の子達と遊んでばかりいたらしい。

母は5人きょうだいの一番上だった。

本当は10人きょうだいだったらしいが半分は子どものうちに亡くなったらしい。

生活のことを思って母が働くことに決めたのか・・・

勉強が嫌いだったから働いたのかはわからない。

母はあまり字を書いたり読んだりするのは得意ではなかった。


私が3年生だった頃、クラス内で子ども達が順番に日記を書いて回したことがあった。

我が子が書いた日記にたいして親がコメントを残す欄があった。

「日記が回ってきたから、ここに何か書いてよ!」

そう私が言うと

「めんどくさい!そんなもん書けんよ!」

そう言い放った。

誰もコメントを残さない親などはいない。

悩んだ末に私は自分で日記を書いて、筆跡を変えて親がかいたように細工した。

これがばれるのではなかろうかと冷や冷やしたものである。


私自身もあまり文章が得意ではなかったので簡単な文章だった。

先生は見抜いていたかもしれない。


学校集金の集める頃はいつも母の給料日前だった。

いつも「お金がない!」という母に恐縮しながら封筒を出すと

「明後日にならないとない!」

そういわれることが度々あった。

ないものはない!と開きなおられるのだ。


そうなるとお決まりのパターンだ。

「集金、忘れてきました。」

二日間言い続けるのだ。

実際に忘れ物や、物を無くすことが多い私だったので本当に忘れてきたのかと思われていたかもしれない。

家にお金がないのを外に言ってはいけないのだ!

このことは隠さなければいけないのだ!

母が家事が苦手なことも言えなかった。

土曜日は半日授業があって、みんなお弁当箱にごはんとおかずをつめてもらっていたのが羨ましかった。

母はいつもおにぎりを作って仕事に行った。

みんなのお弁当とは違うことを悲しいと思ったが、自分はこれでいいのだと思いこませた。

小学校4年生の時に母が会社で親指を切断してしまった。

数週間の入院だった。

姉は短大生で学校の近くで下宿をしていた。私を迎えにきてくれて私と父もかけつけることができた。

指先を落としてしまったのだが骨を削って先っぽを縫ったらしい。

すっかり肩を落としていた母。

右手の指先にはグルグル巻きの包帯がしてあった。

情けなくて母は泣いていた。

その週だったか翌週だったかは憶えていないが、日曜日は私の運動会だった。

父は私をかわいがってくれたが運動会には一度も応援にきてくれなかった。

学校にはあまりきてくれなかった。

いつも母と姉がきてくれていた。

父がいないことは私にとっては当たり前のことだった。

そんなものだと思っていた。

「運動会にもこない!」と母がよく怒っていたのを思い出す。

母が入院したとき、運悪く小学校の運動会があった。

そんなときでも父は仕事で来られなかった。

弁当は姉が作ってくれたのを思いだした。

姉は前の日に弁当を作るために家に泊まりに来てくれた。

運動会に姉はいなかったので私はひとりで弁当を食べることになった。

姉は私のためにのり巻きを作ってくれた。

嬉しかった。

ひとりで食べている私を気遣って近所の子のお母さんが、一緒に食べないかと誘ってくれた。

「いいです。」私は断った。

私はひとりでも大丈夫だと思っていた。

人の家族の中で遠慮するのが嫌だった。

大人は必ず私に質問する。

それに答えるのが苦痛だった。なにより私が苦手な事だったから。


途中で、そのお母さんが色取りいっぱいののり巻きやらおかずを持ってきてくれた。

「いいです。」

そして置いて去っていった。

私は姉ののり巻きでお腹もいっぱいだったので手をつけられなかった。


私の頑なな心で私は人を傷つけていたかもしれない。

私はそれをそのままにして立ち去ってしまったのだ。

今も申し訳ないことをしたと思う。

「ありがとうございます。」

そう言って受け入れることができなかったことを後悔する。


父もまた母が入院している私を不憫に思ったのか、土曜日のお弁当の日におにぎりを作ってくれた。

それは父の手で握った大きなおにぎりだった。

持たれたのだが私はそれを出すことが出来なかった。

恥ずかしくて人前に出すことができなかったのだ。

その日はお弁当を持って来なかったことにした。

私は笑われたり陰口をたたかれることに脅えた。

どれだけ人の目を気にしていたのか・・・


あの父の愛情のこもったおにぎりを思い出す。

もう食べたくても食べられない貴重なものだった。

仕事から帰ってきた父がニコニコしながら言った。

「おにぎり、おいしかった?」

「うん・・・」

そう答えるしかなかった。人前で食べられなかったとは言えなかった。

父はどんな思いであのおにぎりをにぎってくれたのか。

父はずっと変わらない愛で私に接してくれていた。

そのことも父が病気で寝たきりになった頃、ようやく気づいた。

私はどれだけ人の好意を無にしてきたのか・・・・


どう人と接して良いのかいつも分からなかった。

学校帰りに近所のおばちゃんから

「おかえり~。」

そう言われるだけでドギマギした。

目をそらして

「た・・・だい・・・ま」

それが精一杯だった。


私は変なことに気を遣っていたのかもしれない。

母のおしえの恐いことよりも私にとって他人と接することは恐かった。

何よりも恐いのは、自分の家が普通ではないことが知れるのが恐かった。

そんなことは近所の人なら誰も知っていたのかもしれない。

だから私は人が自分の家に来るのを嫌った。

父は違った。

どんな人にでも

「よう来てくれた!さ~入ってください。」

そう言って招き入れた。


父と母は対照的な2人だった。


母はとても放任主義だったが口やかましく言うことがあった。

人の物をとってはいけない!

借金の保証人になってはいけない!

入れ墨はいれるな!

色男には気をつけなさい!

これらのことを小学生になるかならないかに言っていたような気がする。

さすがに高学年になる頃には

あほなことを・・・

そういう気がした。

人の物をとってはいけない、は分かる。


あとは子どもに対して話す内容ではないだろうと思った。

母が私を同じ目線で話して何でも話した。

話して良いこと悪いことがわかっていなかったように思う。

私は母の発言でドキドキした。

時々爆弾発言をすることがあった。

普通じゃないと思ったことのひとつだった。


母の警戒心の強さと言ったらものすごいものだった。

バスに乗ろうとしてバス停にいるときも片時も自分の荷物を離そうとしない。

かばんは斜めがけ。

ここは海外?!今思えばそれくらいの警戒心だった。

とにかく自分の周りには泥棒やスリでいっぱいという感覚だったらしい。

母は誰も信用していなかったように思う。

「騙されるな!」

それも母の口癖だった。

世の中はこわいことだらけなんだ・・・

私がそう思っても無理のないことだった。

そんな母の元に育った私。

誰にも心を許せなかった。いつも上目遣いで人をみていた。

「可愛い子」

そんなことを言われたことは一度もなかった。

おかげで誘拐されるようなこともなかったが・・・


小学校に入る1年前から私は母に見放された気持ちでいっぱいだったのだろう。

昨日まで一心同体のようだった。

母が私を守ってくれる人だと思っていた。

金魚のフンのように母の後を追っていた。

それが急にポンとひとりで置き去りだ。

ずっとそれから私は母に見すてられた気分だった。

この世に私のことを分かってくれるひとなどいないのだ。

学校の嫌なことも母には言えず、母の嫌なことも誰にも言えず・・・

私は疲れていた。

日曜日が待ち遠しかった。

あっという間に楽しい休みは過ぎていく。

ただ1日ダラダラ過ごす1日が嬉しかった。

日曜日の夕方、笑点の聞き慣れた音楽が流れると泣きたくなった。

あ~明日、学校か・・・

気分はブルーだった。

学校なんかなくなればいいと思った。

友達とのやりとりも面倒くさいものだと感じていた。


小学校の高学年になったときの担任の先生がとても厳しい男の先生だった。

あいかわらず私は自分の考えを発表することができず、授業中に上の空になっていることが多かった。

先生は戦争体験のある人で授業中によくその話をしていた。

生きるか死ぬかの体験をしてきた年配の先生に私の様子は甘えた姿にみえていたのかもしれない。

言葉が少ないので私が何を考えているのか分からなかったのか・・・?!

とにかく皆の前で注意を受けることが多かった。

ますます私は自分がダメ人間なのだと落ち込んでいった。


ある時母に言った。

「死にたい・・・」


「ぜったい死んだらあかん!死んでももっとつらいんだよ!」


恐い顔をして母が言った。

そうか・・・

なんとなく納得した。

死ぬ日がくるまで我慢するしかないのか・・・


それ以来私はその言葉を言わなくなった。

小学生時代は私にとって少しも楽しいことはなかった。

自分の本音を語れない。

先生にも・・・誰にも・・・

私は息がつまりそうだった。

生きるって本当に大変なことだと思った。

年配の人をみると化石をみるような目でみてしまった。

よく、そんな長い間生きてるねぇ・・・

当時の通信簿を30年経って見直した。

やはりどの先生の所見には「もっと発表できるようになってください。」とあった。

苦笑していたところに、あの厳しかった担任の先生の所見にはこう書かれてあった。

「運動能力はすぐれている。もっと積極的に自分の思いで行動できるようになってほしい。」

そして、どの先生も必ずひとことは良いことを書いてあった。

真面目である、責任感が強いなど。

自分自身に驚いた。こんなに良いことも書いてあったのになんで私は良いいところのない人間だと思いこんでいたのか・・・?!

すべては自分の思いこみであった。

厳しかった担任は私にとってはつらくあたるだけの人のような気がした。

本当は私の気持ちを聞きたかったのに反応のない私に対してきつい言葉を投げかけていくようになったのかもしれない。

ただ当時は本当に苦痛でしかなかった。


あの時の母の「しんではいけない」と言った言葉。


それこそが私にとっての人生のテーマだったのかもしれない。

今になってそう思うのだ。


へんてこな母だった。


母によって随分傷つけられたことがあった。

でもいつも母を求めていた。

自分では寂しいとか母を求めている感覚はなかった。

大人になって、そうなのだと気がついた。

母の何気ない言葉で私は知らず知らずに傷ついていた。

この世に生まれてはいけなかったと思った。

生きていても何の価値もないと思った。

そんな自分が嫌いだった。

いなくなればいいと思った。

自分の気持ちを分かってくれる人がいないから話さない。


当時ははっきり分かってはいなかったが、私の心は傷ついていた。

母を求めても求めても空振りだった。

やさしい言葉など返ってくることはなかった。

母は私が可愛くないのだ・・・

何度も何度も裏切られたような気持ちになった。

母が尊敬できなくなった。

仕事から帰ってくるといつも恐い顔をして怒鳴っていた。

仕事をするようになってからの母はいつも鬼のような顔になっていた。

「お前達のために・・・」

勝手に私を産んでおいて今さら何で恩着せがましく言うのか!

母の泣き言を聞くのはたくさんだと思った。


毎日絶えない両親の口げんかに私の心はすさんでいった。


早く大人になりたい!この家を出たい!

今がつらくて私は未来に期待するようになった。


小学生にして「結婚は人生の墓場である」と実感した。

私は結婚などしない!

私は母のようにはならない!

そう心に誓った。


































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