セレンディピティ

セレンディピティ

人類アフリカ出

ちず 真珠日本人のルーツについては、いろんな説があり、断定できないのを承知で本やインターネットで情報を集めてみました。

DNAをたどってゆくと、すべての人類は、アフリカの一匹のメス猿にいきつくという。

五百万年前、アフリカで人類の祖先の猿は、肉食獣から身を守るために、樹上生活をしていた。

木にぶら下がり、背筋を伸ばすことを知り、木を登る時に、足を主に使って

登ることを覚え、手と足の役割が別々になり始めていく。

アフリカに地殻変動が起き、山脈ができる。山脈の東側は、風下なので、雨が少なくなり、

森は枯れ、草原へと変化する。木の上の猿は、しかたなく、草原に降り、二本足で歩き始める。

手が歩くことから解放され、細かい動作をするようになっていく。脳が進化する。

氷河期になり、アフリカからアジアへ、ヨーロッパへ歩き始める。

ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人が分かれていったが、これらの原人は

やがて絶滅してしまう。その後、約20万年前にアフリカで進化して現れたのが、

私たち現代人の共通祖先、ホモサピエンスで約10万年前アフリカをでる。

その一部は中近東を経てヨーロッパに渡る集団と分かれ、アジアに移動し、

マンモスを追って東南アジアに向かった人は象や鹿や水牛などの獲物に

恵まれた楽園、スンダランドに到達する。

しかし、恵まれた環境を求めてアジア各地から詰め掛ける人々による人口の

増加と、急激な地球温暖化による大地の水没で人々は黒潮に乗って琉球経由で

日本に漂着した。

この人達は、後の隼人民族であり、熊襲と云われ、倭人伝に書かれている

倭の水人である。氷河期に、シベリア経由で陸続きの日本に渡った人は、

アイヌや蝦夷と云われ、隼人民族と同様、縄文人のルーツとなる。

しだいに温暖化し、列島は海で切り離され、豊かな自然環境に恵まれた日本列島中に

縄文人たちのネットワークが広がり、まだ争いを知らない、精神的に豊かに

人々は暮らしていたとされる。狩猟の矢はあっても盾や鎧などの防具は無く、

傷ついた遺体はあるが、事故によるものと判定され、集落に見張り場や防御施設

も無いことから縄文人同士が殺し合うようなことはなく、平和そのものの世界

であったと判断される。貧富の差も階級もなく、指導者として長老が敬われ、

集落では祭祀が行われ、集団で支え合って生きていたと考えられる。


真珠シュメール

アインシュタインをして「最も古く、最も高貴な家柄」と称させた天皇家のルーツを

追えば、遥かシュメールまで時代を遡ることができる。

今年(2006年)は皇紀2666年である。皇紀は紀元前660年から

始まっているのであるが、これはちょうど北イスラエル王国が滅ぼされた直後

の時期に当たってまだアッシリア帝国の治世下でイスラエル10支族が捕囚さ

れている時期に相当している。よってこの時期、アッシリアに捕囚されていた

北朝の残党が、新しい王朝を再結成したのではないかと推測される。 

彼らの足跡を、はじめから整理してみたい。

人類がアフリカを出発して拡散していった中でスンダ大陸に土着したネグロイドや

古モンゴロイドが、大変住み良い環境で独自の進化を遂げ、農業・漁業や金属文化が

始まり、しだいに高度な文明を築き、都市生活を営むようになっていった。

気候温暖な高原地帯であったスンダ大陸の様子を『創世記』は「桃源郷」「エデンの園」

「ムー大陸」と記したようだ。

今は暑くてたまらない赤道直下も氷期となれば温暖な住み良い地域で、スンダ大陸は

4万年以上に渡って黒人系や古モンゴロイド系のシュメール人や

フェニキア人等(コーカソイド系の白人はいなかった)などが大いに賑わっていたが、

約18000年前頃から南極の氷が溶け始め、北極の氷も溶け始めると徐々に

海水面が上昇し続け、多くの陸地や島々が海没していった。

地域環境の刺激で地上や海底の火山噴火、地震津波が数百年間続き、

12000年前のある日突然、南極の氷河が、それまでにない規模で大瓦解を

始め、北極の氷も大溶解し、連鎖反応の大津波、海底火山も次々爆発し、

大陸プレートの大きな移動によって大地震が頻発し、その被爆が地球全体に

広がっていった。それらが1年2ヶ月も続いた。これが世界各地に今も残る

「大洪水伝説」「ノアの方舟」の話になったと思われる。

この時、船で逃れたシュメール人等が各地の植民地に避難することにより、

スンダ大陸の文明のかけらを世界各地に残す事になった。

シュメール人の子孫、港川人も沖縄を経て鹿児島へと上陸し、日向や阿蘇など

の各地に広がり、縄文人になっていった。


真珠高度な文明

沖縄には今もシュメールの太陽信仰の「太陽石」や「宇宙図岩」など巨石文化

の跡が残っている。因みに「さざれ石の~巌」君が代も巨石文化からだという

(砂鉄から鉄器ができる説も)スンダ大陸から船で北上した人々は約6,600年前、

タイ北東部コラート高原のバンチェンに銅と錫の混合による青銅器文化を起こし、

シュメール人の王国が成立した。

当時の遺跡からは、回転印章による文様の絹布が数多く発見されていることから、

当時すでに蚕を飼い絹織物を作るなどの文化が栄えていたことが分かった。

この頃、シュメール人は文明再建の志を立て、世界に向けて発信することになった。

彼等はフェニキア人やヒッタイト人や苗族と共に文化伝道グループを編成して

植民者になり「シュメール文明」を世界に伝えていった。

こうしたことが、幾世紀もかけて何度も行われることによって、世界五大文明

(マヤ文明も入れて)の幕開けを促していくことになった。

BC4000年、チグリス・ユーフラテス川の流域地帯の荒涼とした自然のも

とに華開いた最古のメソポタミア文明を作ったシュメール人の存在が知られる

ようになったのは、今から、わずか百年ほど前のことでイギリスの考古学者

レイヤードがアッシリアのアッシュールバニパル王の図書館を発掘し、そこから

約3万枚もの粘土板を手に入れたことに始まる。ここにはシュメール文明に

関する知識が豊富に記録されていて、今なお解読作業が続けられているという。

その中で、世界の衆目を誘ったのが、ギルガメシュ叙事詩の洪水伝説の解読である。

それは世界神話である聖書のノアの洪水の原型であったからだ。さらに発掘物

と粘土板の解読からシュメール人の驚くべき高度な文明が分かった。

シュメールの都市国家は、中心に神殿があり、そこを取り巻くようにして市民

の生活の場があった。近隣の都市国家や遊牧民としばしば戦争があったので、

周囲に城壁が巡らされ、そこから川まで道路が付けられ、川岸には船着場が設

けられ、船が交通手段とされていた。神殿が政治、経済のセンターで、王と

神官が商業、農業従事の市民を支配しており、神殿の中心部には、ジッグラートと

呼ばれる層状の塔がありシュメール語でエ・テメン・アン・キ(天と地の基礎

となる建物)と呼ばれていた。

数学においては60進法を発明し円周率や分数、などの初等数学、ピタゴラス

の定理が知られ、神官や学者は代数の問題や方程式を使いこなし、195兆9552億と

いう桁外れな数を生む級数を扱っていたという。 

天文知識においては、1年の暦は現代の精密時計を以てする正確な一年の長さ

と3分しか違わず、月の回転周期に至ってはわずか0・4秒の違いだった。

また、有名なものに、モーリス・シャトランが解読した「ニネヴェ常数」が

あるが、これは22億6800万日(約600万年)を1周期とする天体の

運動を示したもので、知識の出自が人類出現の域を超えていると驚嘆されているものである。

また、2万6000年を周期とする地球の歳差運動も知っていた。文明の営み

においても、潅漑農業、銅、すず、銀、金などの精練、ろくろでの陶器作り、

車両での運搬を手懸け、武器においても、銅の短剣、エレクトロン合金製の

斧、槍、弓矢はじめ、船や車による重装備の軍隊があった。他所では金メッキ製品も

出土し、そして電気のまぎれもない利用を示すかのように、近年、バグダッド

郊外でオーパーツともいえる陶器電池の実物が見付かっている。

医術についても、彼らは動物、植物、鉱物から薬を作り、その成分を化学的に

抽出さえし、手術も行なわれ、外科用のハサミやメスも使われていた。

そこには古代医術にありがちな魔術的要素がまったくないというのだ。 

また、社会システムも古代らしくなく、ギルガメシュ叙事詩によれば、長老達

の家と都市の代表の集まりからなる二院制議会が存在したという。

法に基づく裁判も行なわれたらしく、法律文書や数々の判例を記した粘土板が見付かった。

学校もあり、教科書や生徒の宿題を筆記した粘土板ノートも多数発見された。

総じて、この最古のシュメール文明だけは、他の古代文明とは隔絶しており、

魔術性、呪術性が一切なく、学問、文字、科学知識が公のものとして普及されていたというのである。


真珠アナトリア

古代のアナトリアは現在のトルコ共和国、旧約聖書の中でノアの箱舟が漂着し

た山とされるアララト山からの雪解けの水がワン湖に注ぎティグリスと

ユーフラテス川の源流となっている地です。

ここには、中央アジア 東アジアなどからの原モンゴル人やセム系諸民族から

成る原ユーフラテス人と呼ばれるシュメール人以前の人々が住みメソポタミア文明に

先行する文明が在ったそうです。

人類が最初に金属と出会った所であり金属精錬の発祥の地でもあるとのこと。

シュメール人も、ここから来たと思われます。

そして、紀元前2004年にメソポタミアから突然姿を消したシュメール人

は、ヒッタイト民族の祖先ではなかったか、という説があります。

シュメール人の消失とヒッタイト人の登場は、ほとんど時期を同じくしており、

“彼らは遠い山中に連れ去られた”と、シュメール人の滅亡を歌ったメソポタミアの哀歌があるそうです。

また、アナトリアの厳しい自然の中に、突然、高度な金属技術を持った新しい

文明が誕生した謎も、彼らがシュメール人だったとしたら、ありえることです。

ヒッタイトの遺跡のひとつでは、古代世界最大の粘土板文書図書館が発掘され、

そこには、当時メソポタミアで使われていた全ての言葉が記録されていたそうです。

日本皇室のウガヤ王朝のルーツであるウラル王国もアナトリアでの初めての統一国家でした。

それでは、アナトリアにおける最古の歴史をもう少し調べてみましょう。


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