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本日の朝刊1面と社会面に
またまた纒向遺跡と卑弥呼の文字が躍っています。
今回のNEWSは、纒向遺跡の3世紀頃の穴の土壌から
タイ・アジなどの魚の骨や歯、シカなどの動物の骨
そして穀類や木の実が大量に見つかったというもの。
これらを供物と考え、祭祀の跡と推理するのはいいのですが
例によってマスコミ各社は「卑弥呼の供物」というタイトルを付けています。
毎回毎回、纒向遺跡で何か見つかると、
必ず「卑弥呼の~」という「枕詞」が付くのはいかがなものでしょうか。
私たち古代史ファンにとって、纒向遺跡はとても興味深い遺跡です。
しかしそれは「邪馬壹国」としての興味ではなく、
大和朝廷に繋がる古代王権の遺跡としてロマンを感じるのです。
確かに纒向遺跡は、3世紀の遺跡であることは間違いないのでしょう。
つまり邪馬壹国があったとされる時代の遺跡なのです。
しかし纒向遺跡は、「3世紀に栄えていた場所だ」ということ以外に
具体的に邪馬壹国につながる材料がありません。
3世紀頃の遺跡なんて、全国にたくさんあると思いますが
纒向遺跡が邪馬壹国である可能性は、
九州以外の全国にある3世紀頃の遺跡と変わらないと思っています。
纒向遺跡のこれまでの発掘調査から判ることは
3世紀の大和(三輪山麓)に、強大な権力を有した「クニ」があった
と、いうことでそれ以上のものではないのです。
纒向遺跡が邪馬壹国の有力候補地だと騒がれる理由は、
どうしても邪馬壹国が大和にあったと思いたい「邪馬壹国畿内説」によるもの。
「畿内説」は魏志倭人伝にある邪馬壹国への行程の記述で「南行」と書かれた部分を
「南ではなく、東の誤りである」という強引な解釈で成り立っています。
魏志倭人伝の記述は曖昧だとも言われますが、
百歩譲って「南行」を「東行」と解釈することに目をつぶっても
「女王国の東 海を渡ること千余里 また国あり 皆倭種なり」
という、魏志倭人伝の1文は畿内説では説明のしようがありません。
纒向遺跡(大和)の東には海なないからです。
畿内説を説く人は、この1文を完全に無視しているようですが
簡単明瞭で重要な1文ではないでしょうか。
ちなみに畿内説では「南行」を「東行」と解釈するわけですから、
「女王国の東」の海とは、つまり「女王国の北」の海ということ?
どっちにしたって、大和の周辺には海はありません。
また、3世紀頃のものだと判明した箸墓古墳を
卑弥呼の墓だとする説がもてはやされています。
あの古墳が卑弥呼の墓だと推察出来る理由は、
「3世紀頃に造られた古墳である」という以外にはありません。
現在、箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命墓(やまとととひももそひめ)の墓とされ
宮内庁の管理になっています。
ただし日本書紀の記述通りに歴史を見れば、
倭迹迹日百襲姫命が亡くなって墓を造ったのは崇神天皇10年のこと。
西暦で言えば、紀元前88年のことなんです。
従って、箸墓古墳造営時期と異なるのですが
私は箸墓古墳は九分九厘、倭迹迹日百襲姫命の墓だと思っています。
このブログでは何度も書いていますが、
古事記や日本書紀は、天皇家の歴史を古く見せるために
古代天皇の在位時期に手を加えていると考えています。
上記の紀元前1世紀の崇神天皇は第10代の天皇です。
初代神武天皇が即位したのは紀元前7世紀という記述ですから
どう考えたって事実とは思えません。
しかし記紀の記述を読めば、誰がどう考えたって
あの箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓だと考えるのが妥当でしょう。
従って箸墓古墳の調査結果から言えるのは
「箸墓古墳は卑弥呼の墓である可能性が高まった」ではなく、
「倭迹迹日百襲姫命は紀元前1世紀の人だと考えられていたが
3世紀頃に生きた皇女だった」
と、考えるのが自然ではないでしょうか。
マスコミは、そろそろ「畿内説」の呪縛から解かれるべきです。
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