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2013年4月8日の朝。目を覚ましたマチュピチュのホテル エル・マピ(EL MAPI)の部屋。その壁に書かれた英文にふと眼をやる。最後に出て来たアンセル・アダムスという名前にビックリ。今から52年前の10月中旬、初めてアメリカへ行っての帰り道、ヨセミテ国立公園へ寄って来た。米国の著名な写真家アンセル・アダムスの作品でその魅力を十分に知らされていたヨセミテ。是非そこを見て帰国したいと思って、出張先の会社の社長に飛行機とホテルを予約しておいてもらった。飛行機は双発のジェット。ロサンジェルスからサンフランシスコまでのローカル線だ。ロサンジェルスからベーカーズフィールド、フレスノを経て、3つ目のマーセド(Merced)で降りる。真っ白な市庁舎を見ながら路線バスでヨセミテへ向かう。途中1時間ぐらい乗っただろうかコーヒー・ブレークでバスは山の中で停車。運転手や乗客は歩いてコーヒーショップへ行くという。私はあまり金もないので(当時は1ドル360円の時代)、バスの周りを散歩しながら皆の帰りを待った。そこからまたヨセミテ谷へとバスは向かった。たしか小さなトンネルを出たところだったと思う、真っ黄色(黄葉)の世界がバスの前方にパッと広がった。それはあっと息を飲むほどの美しさだった。これがヨセミテなんだと思った。下の写真で緑をすべて黄色に置き換えて、黄色の世界をイメージして頂けるだろうか。写真の中央奥に見える尖がった山がハーフドームという名前のヨセミテ公園のシンボル的存在の一つで、氷河によって半分削り取られ現在見る形になったといわれている。バスはその近くにある唯一のホテルThe Ahwahneeまで行く。今晩の宿はこのホテルThe Ahwahnee。アメリカの国立公園内の山岳ホテルとしてはもっとも美しいホテルと言われていた。現在、このホテルの予約は2年先までふさがっているとか。このホテルはアメリカ・インディアンをイメージして造られており、外観は勿論のこと、館内にはいろいろなインディアンの製作物が置かれていたし、広い庭にもところどころにこれはというようなものを見ることが出来た。周辺を散歩すると50Cm位の大きなリスがあちこちにいて、人が近づくと太いふさふさした尻尾で体をすっぽり隠す仕草をして可愛かったのを想い出す。その日の内だったか、次の日だったか忘れたが公園内を一巡するバスでヨセミテを堪能した。ただ心残りだったのは、Gracier Pointというヨセミテ谷を俯瞰でき、かつハーフドームを間近に見ることが出来る山頂へ行けなかったことだ。ディナーはメイン・ダイニングルームで。そこで発見したのが、アンセル・アダムスの風景写真つきのメニューであった。当日のメニューはこれ。アンセル・アダムスのHALFDOME,AUTOMNという題の写真が表側に飾られている。白黒写真ながら、すでに雪の降りたハーフドームとともに黄色の葉が光輝いているさまが画面一杯に表現されている。また、朝食のメニューはこれ。これは版画である。これらが日替わりで出ているのだった。今私の手元にはこのほかに数日前の数枚が大事に保管されている。私の大事な宝物である。このような思い出のアンセル・アダムスと52年ぶりに偶然にも遠く離れたマチュピチュのホテルの一室で再開したのだ。In wisdom gathered over the years I have found every experience is a form of exploration. Ansel Adams 経験を通して長年培って自分のものとした知識は、その一つ一つの問題を自分なりに解決してきた結果である。 アンセル アダムス
2013.08.31
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2013年4月11日(木)。早朝5時、簡単な朝食を済ませた後、リマ空港へ向かう。リマからはLAN航空でサンフランシスコまでの国際線フライト。LAN航空の免税品の機内販売は在庫数が少ないようですぐ売り切れとなってしまう。早めに注文しておいた方が良い。私はクロスのスマート・スタイラス付のボールペンとエクアドル産の75%カカオの板チョコ・セットを2個ずつ買ったのだが、次の人が買おうとしたらもう1個しか在庫がないということだった。スマート・スタイラスはスマホやタブレットの画面を、表面を傷つけたり汚すことなく操作できるもの。板チョコの方は香りがとても高く、カカオの持つ自然の甘みを生かした美味しいチョコレートであった。10時間弱のフライトでサンフランシスコ着。それからが長かった。相変わらずイミグレーションはのろのろの長蛇の列。ここをパスするのに1時間半ぐらいかかっただろうか。最近はこれに嫌気がさして、中東の航空会社の米国を経由しないで直接南アメリカへ入る便を使う人が増えたとか。イミグレーションで時間を取られたため、JALへの乗り継ぎ時刻が切迫していたので急いで免税店でショッピング。今回のツアーは、日本-アメリカの往復はともにビジネス・シートだったのでとても快適だった。機体はボーイング777-200。トイレも座席もエコノミーとは全く縁を切っている別室。ベッドもほぼ水平まで倒せるので、寝るにはすごく楽だ。食事、おやつ、飲み物などもいつでも自由に選べる。夕食後はベッドを水平にし、もうばたんきゅっと爆睡。羽田に着く1時間半前頃、辺りががたがたするまで目が覚めなかった。食事の準備をし始めたのだ。どこかの席からうどんをすする懐かしい音が聞こえてきた。途端に食欲が湧き出す。早速同じものを注文。 熱いワカメうどんだった。久しぶりのお醤油の良い香りと味。メインディッシュは和食または洋食。私は何種類かの洋食のうちステーキを頼んだ。美味しい肉を使っている。ワインは往復で白と赤合計5種類を全部飲んでみたが、あまり自分の口に合うのが無かったので、思い切って日本酒を頼んでみた。たしか山口県で作っている大吟醸。これがまた良い香りと味。美味しいお酒で大満足。日本酒の美味しさを改めて実感した。4月12日(金)の22時20分羽田に着陸。かくて今回のバラエティに富んだ楽しい旅行は無事終了した。
2013.08.29
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2013年4月10日(水)午後。クスコ発14:05のLAN航空でリマに戻った。これからこのツアー最後の、首都リマの市内観光である。バスはリマ市内を走る。通りに面した民家の壁にいろいろな絵が描かれているのも面白い。これは何か商売をしている家なのかもしれない。もう午後5時近いので勤め帰りを目当ての屋台が車道に出ていた。婦警さんが何か注意している様子だが、店主は聞いているのかな?途中大きなロータリーに差し掛かる。ここは何かの記念塔と思しきものがある。そして目に付くのが何棟もある同じ形の青いビルディング。この中の1棟の正面にCGTPと書かれていた。調べてみるとペルー労働総同盟だ。その本部がここにあるのではなかろうか。大通りには相当古びたこれまた大きなバスが走っていた。サン・マルティン広場を横切る。中央にあるのは南アメリカを開放しペルーの独立に貢献したサン・マルティン将軍の騎馬像である。この将軍についてはブログのアルゼンチンの記事でも紹介した。やがてバスは旧市街地(セントロ地区)のアルマス広場(旧名:マヨール広場)に着いた。まず目に付くのはカテドラル(大聖堂)である。ここはスペイン人征服者ピサロが1535年1月18日リマ建都の日に自ら礎石を置いたといわれるペルーでは最も古いカテドラルなのだそうだ。カテドラルの左に隣接しているのはリマ大司教宮殿。バロック様式の建物である。現在は博物館となっている。アルマス広場の中央にある17世紀に造られた噴水。その上に立つ祝祭トランペットを持つキューピット。楽器の上にも、頭にも、そして背景に見えるカテドラルの尖塔の各所にもハトが留まっているのが見えて、思わず微笑んでしまう。アルマス広場を挟んでカテドラルの真向かいにリマ市庁舎がある。その前には観光用のミニトレイン。高級感のある白馬の馬車も客待ちをしていた。そしてカテドラルと市庁舎に挟まれるようにアルマス広場の北側にはペルー大統領府がある。かってのフジモリ大統領もここで執務をしておられた。ここから政庁脇の道を歩く。向こうに見えるアールヌーボ風の立派な建物はデサンパラドス駅。リマからワンカイヨまで結ぶ貨物列車の駅である。4817mの峠を越えるので、世界でもっとも高いところを走る鉄道としてギネスブックに登録されているとのこと。観光用の列車も走っているようである。その情報は ここ(2011年8月現在)。ここから右折して東へ土産品が並んでいる道を歩いて行くと、夕日に輝くサン・フランシスコ教会に出た。圧倒されるような壮大な教会である。「地球の歩き方」によると、「バロックとアンダルシア風の建築様式をとりいれ、1546年から100年以上かけて建てられた。特にファサードは見応えがある。・・・・」とある。なるほどファサードは典型的なバロック様式だ。両側の尖塔を含む建物や左側の修道院がアンダルシア風建築なのだろうか。黄色のタイルで造られているのかな?ファサードの上方の豪華で華麗な彫刻を眺める。中央の主祭壇へ入る。これまた豪華な造りの内部だ。そして目に付くのはアラブ(イスラム)風の装飾。ちょうどスペイン コルドバのメスキータやグラナダのアランブラ宮殿に行ったような感じを受ける。横の祭壇には、キリストが自らの十字架を背負ってゴルゴダの刑場へと向かう像があった。上から大天使が見守っている。これもまた豪華な祭壇である。当時の教団がいかに裕福であったか、如実に表している。そして最後の観光地ミラ・フローレス地区に向かう。もう午後6時過ぎ。途中、作業が終わったのであろう、労働者風の人たちが溢れんばかりに通りを埋めていたのに出会う。そばではポリス・ボックスでお巡りさんが交通整理をしていた。なるほど、ポリス・ボックスとよく言ったものである。ミラ・フローレス地区は新市街地といわれ、高級住宅や新しい綺麗な店舗が立ち並んでいるところ。その海沿いにある「愛の公園(Parque del Amor)」へ行く。もうすでに暗くなった公園に入る。何とバルセロナのグエル公園を想い出す雰囲気だ。あのガウディの作品を感じさせる。そして、愛の公園と言われるシンボルの彫刻がライトアップされている場所へ。公園は太平洋岸に面している。日本にも通じている海。サン・クリュドバルの丘に輝く十字架を遠くに見ながら、この公園を後にした。夕食は近くの日本料理店で。いよいよ明日はサン・フランシスコ経由で帰国となる。
2013.08.25
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2013年4月10日(水)。12日間のツアーも10日目に入った。今日はこのツアー最後の観光である。ウルバンバから聖なる谷を経てインカ時代の首都だったクスコへ行き、午後はリマに戻って市内観光という予定。忙しい一日となる。ウルバンバのホテルの中庭。花が一杯咲いている綺麗なホテルだった。Webでの事前調査では、夜中に野犬が集まりワンワン・キャンキャン、うるさくて寝られなかったなどのコメントがあったが、そんなことは全くなく快適に睡眠できた。ホテルから1時間ほど走ると下にピサックの町が見えてきた。この少し先の見晴らしの良い丘の上で下車休憩。ここは観光バスが良く停車するところとみえて、民芸品や金細工をもった女の人たちが寄って来る。ここは、下を見ると大きな谷が展開し、はるか遠くには雪を戴いたアンデスの高峰が見える絶好の場所である。山道を上り下りし、細い小川に沿った道を行くと小さな動物園が出て来た。道路とは金網で隔てている中にリャマなどが草を食んでいる。そしてガイドがコンドルと指差した先を見ると一羽の大きな鳥。これが生のコンドルなのだ。その右手にはピューマの石像。その胴体には蛇が刻まれている。図らずもインカの3つの守り神をそこに見た。すなわち、コンドルは空、ピューマは陸、へびは地下 の守り神なのだ。この辺りは小さな村になっていて、道路際に民家が点在している。新しく塗ったと思われるこのお宅の外壁にも、コンドルと蛇がそれぞれ優しい顔で作られていた。少し先の茅葺きの屋根の上にあったのは家の守り神プカラ牛。愛嬌のある顔の牛なのも面白い。飛ばしながら走るバスの車内から道路に近いところにある小さな被写体を写すのはなかなか難しい。ちょっとブレてはいるが、こちら向きのしかも可愛いプカラ牛が撮れて良かった。小動物園から約30分ぐらいでケンコー遺跡へ到着。ケンコー(Kenqo)とはジグザクという意味とのこと。ここの遺跡は石を組み合せたのでなく、大きな岩を削って造ったインカ帝国の祭礼場だったといわれている。今日は整備中で中に入ることは出来なかった。入口付近の土手を見ると綺麗な花が咲いている。その中の一つは日本で見るアヤメのような花であった。ここからバスで数分走ると小高い山の上にあるサクサイワマン遺跡に到着。ここは第9代皇帝パチャクティによって造られた要塞跡。なるほど眼下にはインカの首都クスコが広がっている。ちなみにクスコの町は、このサクサイワマン要塞を頭にしてピューマの形に造られているのだとか。そしてマチュピチュ遺跡はコンドルをイメージしているそうで、ワイナピチュの頂上から見るとそれが良く分かるという(そういうことを頭に入れて見ないとわからないかもね)。今回は遺跡には行かず、一番高い丘にあるキリスト像へ向かう。私の眼ではピューマはイメージできなかったが、町の向こう側の丘に描かれたペルーの国旗の図柄は良く分かる。得意の地上絵の技術で現しているのだろう。クスコ市内に下り、向かった先はサント・ドミンゴ教会。インカ時代には太陽の神殿(コリンカチャ)だったところである。インカ帝国を征服したスペイン人が太陽の神殿を壊し、インカの基礎の石組の上にカソリックの教会を建てたものである。壮大な建築の中に入る。広いパティオだ。もうすっかりスペイン風の建築である。回廊の一部に壁画が飾られていた。何か戴冠式のような感じの絵が垣間見える。絵の方には行かず、右に曲がり回廊を進む。左下にある庭を見ると、中央にある井戸?(あるいは噴水か?)を頭にしたコンドル、その左にはヘビがある。となるとその上にあるのはピューマだ。そのように草を刈りこんで3つのパターンが作られている。インカの太陽の神殿だったところなので、インカの世界観をここにも表現させているのだろう。途中で一旦回廊から離れて庭に出る。庭にはフクシアの系統と思われるアカバナ科の花が沢山咲いていた。そしてペルーの国花カントゥータも。ハナシノブ科カンツア属の花である。品の良い花だ。また回廊に戻る。重厚なアーチの門。これは明らかにヨーロッパの建築様式である。石材は大理石であろうか。そして振り返れば今来た回廊と手前の天井の交叉ボールトが見える。ここから国宝室のような展示室に入るが、ここは撮影禁止だった。インカ時代の高位の人が着る衣装などがあったように思うが良く覚えていない。そしてそこを出た暗いところにあったのが、インカの世界観を現した黄金のプレート(ただしレプリカ)。そのプレートの前や横に説明のパネルが用意されている。見学を終了して外に出ると、入って来るときは気が付かなかった優美な建物があった。簡素だがなんと均整のとれた美しいファサードだろう!教会の南側を通るエル・ソル通りより見た太陽の神殿(サント・ドミンゴ教会)。黒く見えるところがインカ時代のものである。昼食はアルマス広場に面したレストランで。ここでもフォルクローレの饗応。ギターがうまかった。細かい音が粒立って綺麗に鳴っていた。食事後、2階にあるこのレストランから正面のカテドラルを見る。カテドラルの左手に隣接するヘスス・マリア教会。その色彩豊かな塑像のある屋根に思いを馳せながらクスコを後にした。LAN航空でリマに飛ぶ。
2013.08.21
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オリャンタイタンボの郊外のレストランを出て、走ること20分。山の上に出る。下には大きな町が見える。ここも聖なる谷の一角なのだ。ここから約20分、谷の対岸に白い地形が見えてきた。マラスの塩田である。ぐるりと回って谷の向こう側にある駐車場にバスが留まり、塩田まで歩いて下りる。ここは山から生暖かい塩水が流れ出しており、それを塩田に導いて塩を作っている。水をすくって口に含むと結構塩辛い。このように小さな塩田が4000枚程度あるとのこと。ちょうど今、塩の塊りを担いで帰って来た人がそばを通って行った。向こうには作業を終えたインカの女性が塩田のあぜ道を帰って行く。この大塩田の入口には売店が数件あって、ここの塩も売っている。ここの塩はちょっとピンク色、ミネラル分が豊富で美味しい。日本の専売公社で出している塩のような尖った味ではなく、とても丸く甘みのある塩辛さである。ここは標高3000m位かな? 駐車場までの上り下りが結構きつかった。見学の時間はたっぷりの1時間程。バスでモライ遺跡に向かう。聖なる谷と言っても広大な地域で標高もかなり高く、上り下りはあるものの谷というよりは高原のイメージである。行く手の道が濡れだしていた。雨が降ったようだが、また草原に陽が当たり出して綺麗に光っている。その上を七色の虹が覆っていた。塩田から20分ほどでマラスの村役場前のアルマス広場に到着。ここには下の写真にあるように、ロバを先導させた農夫の像、その下にこれから行くモライの円形農業試験場遺跡、そしてその左にはちょっと見にくいが、今見て来たマラスの塩田が作られている。これから民家を訪ねるのだという。途中、インカ時代の彫刻のある門が保存されていた。通りの角には、昔、日本の田舎にもよくあった萬(よろず)屋があった。今風にいえばコンビニかな?ちょっと貧しそうな家へと入って行く。中庭には先程見たようなロバがいた。鶏も放ち飼いにされていた。こういう鶏や卵が美味しんだよね!そして、屋根には家の守り神プカラ牛が飾られていた。屋根の向こうにはアンデスの山々が見えている。そして、居間と炊事場を見させて頂いた。通りには3世代の人たちが道路に腰かけて何か話していた。おじいさん、おばあさん、嫁、孫であろうか。ペルーの田舎の街の一コマである。そしてまたバスでモライ遺跡へ向かった。途中の雄大な景色が素晴らしい。広い畑に農家が点在し、その向こうには氷河をいくつも抱えたアンデスの高山。いや~、実に見応えのある景色だ!このような処で暮らしていたら、気持ちも大きくなるだろう。やがて、農業試験場だったといわれる遺跡に到着。ここはインカ時代の遺跡の一つ。モライとは「丸く凹んだところ」を意味するとのこと。段々畑を作りながら、丸く掘り進んで行ったようである。農業試験場と言われる所以は最上階と最下階では気温の差が5~10℃程度あるそうで、それぞれの階の環境にあった作物をインカの人が研究していたのではないかと推測しているからである。なお、最下階へ向かって白い線が2本見えるがこれは道で、段々畑の石垣には3~4段の石のステップが作られて上り下りがし易いようになっている。このすぐ隣にも規模は小さいが同じような円形の遺跡がある。ここを上から見るのにもかなり坂道を下らなければならない。標高は3500m位はあるのではなかろうか。結構この上り下りは息が切れた。今晩の宿、ウルバンバに向けて出発。車窓からの風景もだいぶ夕暮れが迫って来ていた。30分ほどでウルバンバのホテルに到着。今夜はフォルクローレ・ディナーショウが用意されていた。食事をしながら、ゆっくりとくつろぐ。まずはソロの演奏で、かたわらの奥さんがパーカッションで合いの手を入れる。このパーカッション、控え目な、素朴な音なのでちょっと淋しい感じ。昔のインカびとの気持ちを受け継いできているのであろうか。それが終わると綺麗な衣装の踊りの一団が登場。その中で頭目と思われる鷲っ鼻の人が各テーブルを回って愛嬌を振りまく。これひょっとしてコンドル人?踊りも音楽もたけなわになって来た。ちびっ子も一生懸命踊ってくれている。最後はみんなでダンス。地方の泥臭さが素朴で面白く、とても楽しいディナー・ショウだった。
2013.08.18
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2013年4月9日(火)。このツアーも9日目になった。今日はクスコから東南方向にいくつものインカ遺跡が点在する広大な谷「聖なる谷」を回るのだ。朝、ホテルを出てマチュピチュ村のアグアスカリエンテス駅よりペルーレイルでオリャンタイタンボ駅へ向かう。途中、インカ道を行く一団を車窓より発見。反対方向から村の若い女性たちがすれ違って下りてきた。次の停車駅には大勢の登山客がいた。ここからインカ道・トレッキング・ツアーが始まっているようだ。ツアー・ガイドと思しき若い男たちが大きなザックを背負っていた。マチュピチュまで山道を歩いて行くのだが、それには公認ガイドが同行しないといけないのだそうだ。ただし、テントやシュラーフ、そして食事はすべて公認ガイドが用意してくれるとのこと。列車はずっとウルバンバ川沿いを走っている。相変わらず濁った泥水の急流である。この辺りは川幅が拡がっていた。乗った列車は終点のボロイ行きだったのだが、急に途中のピスカクーチョ駅で打ち切りということになってしまったとガイドがいう。窓の外にはきれいな豚が草むらにいた。そこへ農夫がやって来て、豚を連れて行った。どうもこれはペットの豚のようだ。そうこうするうちに、列車はオリャンタイタンボまでは行くようになったという。やれやれ!オリャンタイタンボ駅にはインカレイルの列車も来ていた。同じ線路を3つの運行会社が使っているのだ。もう一つはマチュピチュ・トレイン。駅には観光客目当てに土産品売りの人たちが大勢来ていて、盛んに品物をアピール。駅を出るとお土産店がずらりと並んでいた。その内の一つの店に2匹の猫がいて、1匹が寝ている猫の上に前足を置いて前後させていた。下の猫は気持ちよさそうに目を細めている。これは指圧マッサージ猫なのだそうだ道路脇では3輪タクシーが車内を清掃していた。車体の後ろには、大きな荷物をくくり付ける棚もある。ペルーでタクシーというとこのような車が多いようである。程なく来たバスに乗り、着いたところはオリャンタイタンボ村の中央広場。後に見える岩山にはオリャンタイタンボ遺跡がある。でも今回のツアーではそこへは行かず、これから民家の見学に行くのだ。広場には綺麗な店が並んでいる。きっと遺跡の観光で村も潤っているのだろう。道の向こうには遺跡の一部が見えている。この遺跡はスペインの侵略者を撃退させた堅固な砦だったのだそうだ。村の中の細い路地を行く。片側には水が流れている。塀の上に変わったサボテンが生えているところもあった。とある1軒の家へガイドが案内してくれた。庭には、インカの織物などのみやげ物も置いてある。石の叩きの上には鳥の親子がいた。何鳥なのだろう?親鳥がヒヨコたちをしっかり見守っている。人間も鳥も、子を思う心は同じだ。家の中に案内される。中は暗い。ライトアップされたところにいたのは、モルモットと同じ仲間のクイ。別名をテンジクネズミという。沢山いる!鼠なのにそばにいる猫は知らん顔で歩いているのも面白い。このクイの肉は珍味なのだそうだ。だからここにいるのは家畜として飼われているのだろう。天井からはトウモロコシの束と共に鳥や小さな獣がぶら下がっていた。壁が黒く煤けているので、ここで燻製のような処理をしているのだろうか。そしてまた、壁の上の方には神の御遣いとして敬われているコンドルが祀られていた。バスまで村の中を歩いて帰る。途中、白い綺麗な家の庭に団扇のような形のサボテンが沢山実を付けていた。南イタリア シチリア島で良く見たインドイチジクのようにも思う。この白い家に掛かっている表札を見るとここは陶芸工房。良い土を見つけて、山の遺跡を眺めながらイメージをふくらませて創作に励んでいるのかも。昼食はこの綺麗なレストランで。ホテルにもなっており、各部屋の入口には素朴な絵が描かれた素敵なランプ・シェードが取り付けられていた。外ではインカ衣装の人たちが何か手芸作品を作っているようだ。食事はもちろんフォルクローレを聴きながら。左端の人はヴォーカル。よく通る綺麗な声だった。今まで聴いた中では一番うまかったように思う。右端の人は、笛を2本咥えての演奏。汽車のピーポーピーポーというような音を表現していて面白かった。ルネサンス時代のヨーロッパ絵画でリコーダーを2本咥えて演奏しているのはあるのだが、演奏を聴くのは初めてだった。昼食後はまたこの雄大な聖なる谷を走り、途中寄り道をしながら今夜の宿泊地ウルバンバへと向かう。
2013.08.16
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シャトルバスはハイラム・ビンガム・ロードを一気に下る。川岸に降りて右岸の道を行く。バスから見るウルバンバ川は濁流が渦巻き凄い迫力だ。フォルクローレの街頭演奏が行われている道をホテルへと登って行く。ホテルで小休止後、駅近くの民芸品マーケットへまた下りて行く。ここは小さな店がびっしりと詰まった大マーケット。東京でいえば、秋葉原駅のガード下に展開する電気街のイメージか。坂の上に造られた施設なので段差があり、そこではワンちゃんもくつろいでいた。品数は凄く豊富に揃っている。綺麗な図柄のスカーフを広げてアピールしている店もある。こちらのお店ではお姉さん方が素晴らしい笑顔で応対してくれた。余りにも品種が多いので、おみやげは何にしようか皆で思案中だ。でも女性の皆さん方、大勢で圧力をかけ巧妙に値切ってショッピングを楽しんでいた。これも異国での旅の楽しみの一つである。楽器の専門店もあった。いろいろな民族楽器を豊富に取り揃えているお店だ。特にケーナはずらりと並んでいた。ウルバンバ川とは対照的に綺麗な水のアグアスカリエンテス川を渡る。観光客がお人形たちと一緒に記念撮影をしているアルマス広場を見ながら、またまたホテルへと登って行った。翌日はペルーレイルでオリャンタイタンボへ戻り、そこから聖なる谷の民家やマラスの塩田などを見ながらウルバンバの町へと向かったのだった。
2013.08.12
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最高地点インティワタナ(日時計)からマチュピチュ遺跡の最北端2棟のワイラナ(準備室)があるところに降りて小休止、ここには聖なる石があった。それから、さらにワイナピチュの登山口まで来た。ここからは遺跡の東端のごつごつした道の上り下り。途中の岩の境目に付いたシダの薄い緑が、眼にとても優しく映った。よく見るといろいろな花が咲いている。これはナス科のイヌホウズキの一種であろうか。日本でよく見るアメリカイヌホウズキのようにも思える。繁みの中には紫色の花。これはマメ科の植物なのだろう。そして遺跡の中に入ると、そこは広いテラス。ここは学校だったところかもしれない。さらに遺跡の東の端をどんどん下って行く。左手には屹立した岩山、その裾には濁流のウルバンバ川が見えている。そして蛇のようにのたくったつづら折りの道ハイラム・ビンガム・ロードも見えてきた。朝、この道をシャトルバスに揺られながら登って来たのだ。高いところに窓のある家。2階家なのだろうか。ここはインティマチャイの入口だったかな?場所に対する記憶がいまいち薄いのだが、中央を丸くえぐられた石などが置いてあって象徴的なのであえて載せておいた。ここから遺跡中央の広場を横断して広場脇の道を太陽の神殿へと向かう。この道からコンドルの神殿の方を見たのがこれ。広場にある1本の木の向こうにあるのがコンドルの神殿。その奥の方に白い石が見えるが、真ん中に溝を作って磨きこまれた「聖なる石」である。遺跡の中の水汲み場へと登る。写真の中央にある大きな岩の左手に見える立派な建造物がこれから行く太陽の神殿である。水汲み場は16か所あるのだそうだ。太陽の神殿を今いる位置と反対側の上から見たのが、この写真。左下の丸く囲まれた建造物が太陽の神殿。その下にこれから見に行く陵墓がある。また、太陽の神殿の右に白く見えるのが水汲み場へ行く階段である。現在、数人の人が階段の下にいるので分かるだろう。この辺りは太陽神や王の別荘、王女の宮殿などがある高貴な雅な場所だったのだ。なので今でも重厚な建造物が残っている。しかしながら、現在の住人はというと、木のある広場にいるリャマたちである。太陽の神殿の下にある陵墓と言われているところへ行く。宗教的に意味のありそうな階段がここでも見ることが出来る。ここからまたまた上に登って太陽の神殿の裏側の綺麗に石積みされた壁の横の道を行く。そして王女の宮殿と呼ばれるこれまた豪華な壁の建物を見ながら階段を下に降りて行く。何とこの宮殿の現在の住人はウサギさんであった。この開口部(窓)の下にある多くの穴は、かって黄金の窓を取り付けた跡なのだそうだ。改めて今日巡った遺跡の東側の部分を載せておこう。これで広大なマチュピチュ遺跡を西から東へと駆け足(実際はのろのろ足で)で一周したことになる。約3時間半の見学であった。そして見納めのマチュピチュ遺跡!昼食は遺跡の出入口のところにあるマチュピチュ・サンクチュアリ・ロッジで。ペルー クスコ産黒ビールの美味しかったこと。遺跡を見守る一輪のユウゲショウに別れを告げ、シャトルバスで山を下った。
2013.08.11
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マチュピチュ遺跡の入口から段々畑を登りつめて一番上にある見張り小屋へ着いたのだった。ここまで約1時間。結構きつい登りである。ただし、ここからの眺めは素晴らしいし、途中ツアー全員の記念写真を撮ったところは遺跡の全容を見渡せる定番の写真スポットだった。見張り小屋から段々畑を一気に下りる。やがて、遺跡の中の市街地に入る門に出る。石を積んで造った分厚い門である。ふと、過ぎ来しかたを振り返ると、見張り小屋は遥か彼方になっていた。やがて石切り場に到着。加工前の大きな石があって、素材は豊富に残っていた。前方にはこれから行くインティワタナ(日時計)が一番高いところに、その手前のコの字型の建造物は主神殿が、さらにその手前のちょっと崩れた囲いのあるところは神官の館が見えている。石切り場のそばには、建物に使う石を加工するための作業小屋があり、職人たちも住んでいたのではないかと言われている。ここからさらに下ると小さな植物園が現われた。いろいろな木や花が植えられている。これは今まで道端にあったと同じような蘭の花。そしてこれも蘭の一種だろうか。こちらはコカの木だ。この木の葉よりコカインを抽出する。今回行った南米では食後のお茶としてコカ茶が提供されていた。これはコカの木の葉を数枚カップに入れ、熱いお湯を注いで中の成分が浸出した頃を見計らって飲むものである。葉の枚数が少なかったのか、白湯を飲んでいる感じであまりお茶という印象は低かった。これらの葉は麻薬として扱われているので、日本への持ち込みは出来ない。うっかり買って持ち込まないように。経由国の空港でも御用となることは必定である。ここでしばしの花見休憩後、主神殿へと階段を登って行く。ここはマチュピチュ遺跡の中でももっとも神聖な場所。最大級の巨石で造られている建物なのだそうだ。この主神殿の後ろには、やはり石で囲まれた小さな区切りが続いている。この中にある四角い凹みに顔を入れて大きな声を出すと、大きく響くようになっている。つまりここはエコーの部屋なのだ。私もア→ア→ア→アと分散和音を歌ってみたが、良く響いて気持ちが良かった。ここからまた階段を延々と登って頂上へ着いたところがインティワタナ(日時計)。ここは不思議なパワーが出るスポットとかで、皆さん、手をかざして体に取り込んでいた(監視人が、石に触るのではないかと心配そうに見ている)。ここから向こうに見える2棟のワイラナ(準備室)のあるところへ向かう。ワイラナの右に見える木立のあるところは、途中まで石垣が造られている。ここは未完成の神殿といわれているところ。なにしろ今いるインティワタナ(日時計)は遺跡の中の最高点なので、急勾配の階段を降りて行かなければならない。降りたところは緑の草が敷き詰められたメイン広場だ。ここでいろいろな行事が行われたようだ。そしてその脇にある細長い建物は織物や工芸品などを作る技術者の居住区とされている。メイン広場にはイベントの観覧席も用意されていたのだという。やっとワイラナ(準備室)に到着。中に入って休憩。外を見ると山の形をした「聖なる石(ROCA SAGRADA)」が見える。ワイラナの内部は当時を再現したもので、綺麗に粘土で塗られている。円筒形の出っ張りは何かをひっかけておくためのものであろうか。あるいは棒を渡して野菜や肉を吊り下げて、乾燥させて置くのだろうか。小休止後出発する。少し行くと遺跡の背景となっている岩山ワイナピチュへの登山口があった。この辺りはマチュピチュ遺跡の北端に位置し、今までは遺跡の西側を歩いて来たのだが、ここからは東側を行くことになる。ちなみに、ワイナピチュへ登るには事前の予約が必要の上、朝7時にこの登山口に集合して名前と入山時間を記入することが必要のようだ。登山制限があり、現在は1日400人とのこと。マチュピチュ遺跡からワイナピチュ頂上までは250mの標高差。2時間半で往復できるようだ。ただし、道は細くかつ相当険しく、毎年転落者が出るらしい。落ちたら即、死であろう。その代り、頂上からの展望は素晴らしいようだ。現在の日本で言えば、北アルプス槍ヶ岳の登山のイメージが近いのだろうか。それとも剣岳かな?
2013.08.09
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2013年4月8日(月)。マチュピチュ村のホテルのロビーで出発を待つ。壁にガイド付きのコースなどが書かれている。同じように私の部屋には、私の敬愛する写真家アンセル・アダムスの言葉が壁にあった。何たる偶然。これについてはまた改めて紹介したいと思っている。さて、シャトルバスまで歩いて行く。途中にあった茅葺き屋根に日本と同じように苔やらシダなどが生えているのを発見して、とても親しみを覚えたものだ。シャトルバスで30分ほどハイラム・ビンガム・ロードのつづら折りの道を走り、遺跡の入口へ。ここから徒歩での遺跡見学となる。左側の崖の岩にはいろいろなプレートが打ちつけられている。正面には遺跡の背景となっている岩山ワイナピチュも見えている。振り返って見ると、今登って来た川沿いの道が見えていた。川はウルバンバ川である。段々畑(アンデネス)の脇の道を登ると貯蔵庫が見えてきた。乾燥したジャガイモやリャマの乾燥肉などの食料品のほか、農機具なども保管されていたという。足元には黄色のカタバミの花。日本にも黄色のカタバミの花はあるが、それよりももっと純粋な黄色の花でかつ大きい。そして、それに混じって見覚えのある花があった。白い5弁の花がそれ。これ日本でもよく見る雑草、そうハキダメギクだ。東京世田谷の掃き溜めで初めて発見されたので、そのようにネーミングされてしまった。本来は熱帯アメリカ原産というのだから、ここペルーのオリジナルな植物なのだろうか。それとも観光客によって運ばれて来たものなのだろうか。そんなことを考えながら登って行くと遺跡が良く見える場所に出た。外国のツアーの連中がガイドから説明を受けていた。またしばらく歩く。インティプンク(太陽の門)と書かれた道標があって道が分かれている。遠くに石の門のようなものが見える。が、そちらには行かず目標の見張り小屋へと向かう。やがて、綺麗な草原(昔の段々畑)の向こうに見張り小屋が見えてきた。それでもまだ道のりはある。途中、サルオガセが懸った木が出て来た。日本でも高山で良く見る風景である。ここの標高は約2500m、やはり湿った空気が流れ、地衣類が木に繁茂するのだ。また、紫色の綺麗な花も咲いている。道は遺跡の東側から西側へと段々畑の上部をトラーバースしていて、遺跡の西側が見えるようになって来た。左下にはウルバンバ川の濁流が流れている。そして崖側の道端には赤い蘭のような花が咲いていて、我々の眼を楽しませてくれた。全員の写真が欲しいよねということになって、遺跡を背景に今回のツアーの記念写真撮影を行うことにした。他の登山者もこの眺めの良い場所で一休み。そしていよいよ見張り小屋に到着。遺跡の入口からここまで約1時間近く掛かっている。ガイドブックではここまで30分とあるので、ちょっとスローペースだ。でも途中で記念撮影に10分以上掛かったし、ちょっとした山登りなのでその位はやむを得ないだろう。なにしろ、記念撮影は全員のカメラにガイドと添乗員が手分けして撮ったのだから。見張り小屋と言われるだけあって、ここから遺跡が良く見える。コの字型になって人が大勢いるところは「主神殿」といわれる建物で、この遺跡の中では最大級の石で造られているのだそうだ。その手前にある大きな石がごろごろしているところは石切り場である。その内の一つに人が数人乗っかっているのが見える。これ、ここではご法度のはず。この見張り小屋の前には大きな石が置かれている。「儀式の石(La Roca Funeraria)」と呼ばれている石。書かれている原語から解釈すると葬儀の石だろうと思うのだが、お墓は見つかっていないとのこと。左側に見える黒い点は、実際には穴である。ここにリャマをつなぎ、右側の3段の階段を登って何かの儀式が行われたのではなかろうかと言うことらしい。小屋の中に入って小休止。ガイドのツネコさんよりいろいろ説明を受ける。現在はクスコに定住している日本人。もうマチュピチュには1000回以上ガイドしているというベテラン(現地のコンドル・トラベル社所属)。とても知的で明るく、親切なガイドさんであった。
2013.08.04
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2013年4月7日(日)。クスコ(標高約3400m)の半日観光を終え、バスはペルーレイルのオリャンタイタンボ駅へ向かった。クスコからオリャンタイタンボへ行く道はいくつかあるようだが、西に向かって進んで行ったようだ。バスから見る景色はとても和やか。黄色の小さな花が沢山咲き、その向こうに見える丘の拡がりも何か日本の景色を思わせる。広大な草原(パンパ)、そしてそこに点在する家屋。スケールの大きな景色がバスの窓から次々と現われる。これはテレビで見た北海道の美瑛の木の景色を思い出させる。命名するに「家族の木」か!途中、町をいくつか通過したが、ここはバス停なのだろうか。Cocacolaの看板のキオスクがあり、何人かが待っている。露店も並んでいるのでちょっとした町のようだ。1時間ほどで昼食場所に着く。割合大きな町の中にあるレストラン。スペインで良く見るアラブ風の建物である。小さいながらパティオには花が咲き、噴水もある。食事はビュッフェスタイルで好きなものを取に行く。種類は多かったが、何を食べたのかあまり覚えていない。その中で注文したのが、インカコーラ。黄色の透明な液体、軽い甘さの癖の少ない飲み物だった。まぁまぁ美味しかった。このインカコーラがあったため、コカコーラの販売は苦戦したとかという話をどこかで聞いたことがある。食事中、現地の人のソロのフォルクローレのサービスがあり、写真はパンフルートの演奏。次々に楽器を変えて演奏してくれた。広い裏庭があり、そこにはアルパカや羊が放ち飼いにされていたが、木の枝には綺麗な番(つがい)のインコも飼われていた。大きなスケールの山合いを縫ってバスは進んで行く。そしてオリャンタイタンボ駅へ到着。やがて列車が入って来た。臨時の撮り鉄に早変わりしてホームに入って来る列車を写す。列車の中は綺麗だ。この列車は一般的なヴィスタドームと言われる車両。車両の上部はガラス張りになっている。そして乗務員が飲み物と軽食をサービスに持って来てくれた。ただし、ビールは有料。車窓の景色もいろいろ変化があって楽しい。もう秋とあって藁ボッチの列も見える。すすきがあって秋の日本をそぞろ思い出させるような風景もあった。1時間半ほどの乗車だったろうか、やがて終点のアグアスカリエンテス駅に到着。マチュピチュ遺跡の発見者の名を冠した列車ハイラム・ビンガム号が停車していた。これは見るからに高級車である。アグアスカリエンテス駅はマチュピチュ村の入口。外はしとしとと秋雨の歓迎だ。その中をホテルへと歩いて行く。アグアスカリエンテス川に架けられた橋を渡り対岸(右岸)へ。橋の上で写真を撮る人が多い。なるほど綺麗な流れ。何か日本の温泉街を思わせるような風景でもある。それもそのはず、このマチュピチュ村には温泉があるのだ。我々が泊まったホテルの先の方にも温泉プールがあるとのこと。ただし、あまり綺麗ではないようだが。橋を渡った対岸には大きなレストランがあって、その下に見えるバスの列は後で分かったのだが、マチュピチュ遺跡へ行くシャトルバスである。やがて市庁舎のあるアルマス広場に出る。ここにはウエルカムの銅像や人形が。そして到着したホテルでは昼間と違い、大勢のフォルクローレ・メンバーが登場する夕食となった。いよいよ明日は朝早く待望のマチュピチュ遺跡へと向かうのだ。
2013.08.01
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2013年4月7日。今回の旅行も7日目に入った。昨夜遅くと言っても今朝になるのだが、1時ごろリマのホテルに帰着。そしてもう5時過ぎには空港に向かって出発するのでゆっくり睡眠する時間がない。リマ発8時20分のLAN航空。上空から見る朝もやに包まれた山々の姿、絵に描いたようで素晴らしい。暫くすると今度は雪に覆われた厳しい姿の山々がいくつも間近に現われて来ては遠ざかって行く。アンデス山脈の高峰だ。そして1時間20分後、インカ帝国の首都だったクスコに到着。空港の名前はアレハンドロ・ベラスコ・アステテ国際空港という。空港からバスでクスコの中心部にあるアルマス広場に向かう。今日は日曜日とあって広場は凄い人出だ。ガイドのの話では事あるごとに何かお祭りをするのだそうだ。今日は何のお祭りなのだろうか。アルマス広場の向こう側に見えるカテドラルの前には特設の雛段が設けられ、軍隊を始め多くの人々がそれを取り囲んでいた。このカテドラルはインカ時代のピラコチャ神殿の跡にスペイン人によって建てられもの。1550年から約100年かけて完成されたとのことである。カテドラルの左隣の方も大勢の人がずらり並んでいる。その向こうの山の斜面には住宅が拡がり、教会も見えている。また、右方の特徴のある2つの鐘楼を持つラ・コンパーニア・デ・ヘスス教会の前も人の行列。この教会はインカの第11代皇帝ワイナ・カバックの宮殿跡に建てられていて、1650年の大地震の後に現在の姿に再建されたそうである。見た感じバロック様式の建築であろうか。そうこうするうちに行列の先頭は動き出していた。白いチューバを持った楽隊もそれに続いている。インカの民族衣装を着た人たちも何かのペナントを持って歩き出していた。行列が進んでも呑気に記念撮影をしているインカ衣装の人もいる。警察犬もこのパレードに参加するのだ。ワンちゃんにはかっこいい胴巻きが付けられているのも面白い。ところが出発してもワンちゃんたちは人気があって、もう女性にいとおしそうに抱きつかれて進まない。やっとのことで後ろから追いかけていくことが出来た。こんなところも型にはまらず、のんびりしていていかにも南国という感じが出ていて面白かった。「12角の石」を見に行く。かっては第6代皇帝インカ・ロカの宮殿だった宗教美術博物館の土台にある。立派な堂々たる石組である。その中の一つに「12角の石」があった。12角の周りに石が精巧に積み重ねられ、それらの隙間にはカミソリの刃も通らないという状態につくらている。このような石組の上に建てられていたインカの宮殿などは、侵略者スペイン人によって破壊され彼らの邸宅や教会へと変わって行った。しかし、1650、1950、1986年に起きた大地震によりそれらの建造物は大きな被害を受けたが、その下にあるインカ時代に組まれた石組はびくともしなかったという。ここからレストランや土産品店の並ぶ路地へと進む。店の外壁に綺麗にディスプレイされた民芸品、購買力をそそられる。ここは品数が凄く多いし、お値段もリーズナブルのように思う。すべてアメリカドルが通用する。ただし、高額紙幣を出してお釣りを貰わないこと。お釣りに出されるニセ札(印刷が薄いようだ)は勿論のこと、字が書かれている紙幣、くしゃくしゃの紙幣は他の店では使用を断られるので要注意。道の脇には可愛いお人形が愛嬌を振りまいていた。アルマス広場へと戻る。その途中の街並み。インカ衣装の人が腰を下ろしてくつろいでいた。綺麗なお店だ。2階は2つのレストラン、1階の右側は宝石店、左側はレストランのようである。インカ時代の石組の上に白の漆喰を塗つた建物を造り、いくつもの店で共用している。お店の文字のフォントもそれぞれユニークで面白い。アルマス広場に戻ったが、まだお祭りの余韻が残っていた。噴水の上の黄金色の像はインカ時代のもののレプリカなのだろう。インカ時代は黄金の像が幾つもこのアルマス広場に並べられていたという。これらの黄金はスペイン人によって延べ棒に溶かされ、本国に送られてしまったのだ。アルマス広場は美しく整備されている。人々に愛されている広場なのだ。この後、今日の宿泊地マチュピチュ村へ行くため、ペルーレイル(列車)のオリャンタイタンボ駅まで途中昼食休憩をはさむが2時間ほどバスに揺られることになる。
2013.07.27
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バスは本日最後の観光地、港町ボカのカミニートへ向かって行った。途中広い歩道にどっかと座りこんで音楽を楽しんでいる若者の一団。バスから手を振るとそれに応えてくれた。気持ちの良い朗らかな表情の若者たちだ。土曜日とあってここも市が立っていた。しばらく行くと、スタジアムが見えてきた。あのマラドーナもいたことのあるボカ・ジュニアーズのホーム「ボンボネーラ」。現在は造り直されて「ヌエヴォ・ボンボネーラ」と呼ばれているということである。そして間もなくカミニートへ到着。バスの上から見る街は今までとは打って変わった様子で怪しげな感じだ。カミニートのあるボカはかってはアルゼンチン随一の港によって栄えた町。ヨーロッパからの船はすべてここに入港し、新天地を求めて来た移民を上陸させていった。また造船工場があり、その労働者や船乗りなどを相手にする港町特有の安酒場や賭場も多くあったという。そのような雰囲気がバスから見た光景に感じられたのだろう。また、カミニートというとアルゼンチン・タンゴがすぐ頭に浮かび、タンゴ カミニートのあのやるせないメロディーが口から出てくる。そう、ここカミニートはアルゼンチン・タンゴ発祥の地なのだそうだ。私の年代でアルゼンチン・タンゴというとすぐ思い浮かべるのがオルケスタ・ティピカ東京の藤沢 嵐子(Ranko Fujisawa)ではないだろうか。あの艶やかなアルトの美声。そしてRを巻き舌で強調したスペイン語のアルゼンチン・タンゴの歌声は、我々をラジオの前に釘付けにしたものである。特にあの哀愁のあるカミニートは素晴らしかったし、アディオス・パンパ・ミーアも良かった。彼女はアルゼンチンへ何度も公演に行き、その都度、拍手喝采を浴びていたようである。「日本人でもこんなにタンゴの心を理解し、演奏できるとは」と。そのカミニートへバスから降りる。初秋とはいえ南半球での日差しは強い。建物の影と直射のところとの明暗の差が大きくて、なかなか写真が撮りにくい。トイレを借りに入ったショッピングセンターにサッカーの店があった。真ん中の写真はマラドーナか。カミニートはスペイン語で小径とか細道という意味。でもここはちょっとした広い通り、その両脇にいろいろな店が並んで観光名所となっている。そして建物のいろいろな部分は原色で塗り分けられていて大変面白い。これは画家のキンクェラ・マルティンが、自分の絵が売れるたびにそのお金で病院や幼稚園、小学校などを建てて町を育てて行った。この色の塗り分けも彼の指導によるものらしい。造船工場などで余ったペンキを貰い受け、それでは1軒全部は塗れないので、部分部分に分けて塗って行き、ペンキを貰う都度色が違っていたりしていたので、今日見るようなカラフルな姿になっていったということである。本当の小径らしきところがあったので、そちらへ入ってみる。そこには日常の生活感溢れる光景があった。洗濯物も実にカラフルである。でもあまり人通りの少ないところは危険なので、足を速めて別の広い通りへ出る。ここはピザ屋さん。入口にはちゃんとマネキンがいる。ここもまた綺麗に塗り分けている。二階からマネキンが挨拶。そして人通りの多い裏道へ入る。夕方近くなってきて、木の影も長く映えるようになって来ていた。この裏道の壁にはいろいろな作品が取り付けられている。これは何だろう?何か祈りを捧げる人の裾には不安げな子供の姿が。壁に映る木の葉の影が何か淋しさを演出している感じもする。碑銘には、ESPERANDO LA BARGA とあった。その先には、このような青銅像も。LA BOCA とあるが、そばにかばんを置き幼子を抱えているこの像は、内戦時の避難の様子を現しているのだろうか。何かこのような状態を忘れるな!と言っているような気がする。でもこの子の明るい顔が救いだった。シリアスな像を通り過ぎると、明るい焼き物の絵が出て来た。これでカミニートの一角を一巡したことになる。夕方のカミニートには、心なしか木々に秋の気配が感じられた。カミニートは、今まで見て来たセントロのようなソフィスティケートされた町ではなく、何か庶民的な親しみを感じるところで、日本でいえば東京の下町のような感じかなと思う。これはカミニートの町の発展に貢献した画家キンクェラ・マルティンの作品を模したタイル絵。絵の左下にはキンクェラ・マルティンのサインが、右下にはこのタイル絵の作者のサインが見える。1930年代のボカ港の様子だと思われる。画家を目指す人たちが自分の作品を展示・即売していた。町の入口付近の市にも、なかなか面白い絵が出ていた。バスが待っている港へ出る。夕方のボカ港。今でも造船会社は残っているようだ。大きなクレーンが彼方に見えている。ブエノスアイレス空港よりLAN航空でペルーのリマへとんぼ返り。LAN航空の国際線では、嬉しいことにワインをガラスのグラスで出してくれる。夕食はワインを飲みながら、飛行機の中で。ホテル着は午前様だった。またまた早朝、リマからインカ帝国の首都だった高地のクスコへと飛ぶのだ。
2013.07.10
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アルゼンチンの首都ブエノスアイレス市内。バスは世界三大歌劇場の一つで、イタリア ミラノのスカラ座に次ぐ大きさのコロン劇場へと向かっている。走っている7月9日大通りのこちら側は工事中で5車線のみ通行可。本来は上り下りで16車線あるらしい。道路際にはビール腹を思わせる木が並んでいる。いわく「酔っぱらいの木」。その木のそばにはピンク色の花の木があり、「酔っぱらいの木」に花を添えている形になっている。やがて右手に堂々のコロン劇場が現れて来た。バスはその裏手に回る。残念ながら劇場内には入れなかった。劇場の裏手には大きな広場があり、青銅像が散在している。この女性が見ているのはスペイン出身のローマ皇帝トラヤヌスのレプリカ像だった。さらにその先の広場には写真を並べて展示してあった。コロン劇場の内部や、演奏した人たちの写真である。その写真の中からイタリアの名テナー エンリコ・カルーソーを見つけ出した。1915年ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の一員として、ヴェルディの「仮面舞踏会」のリッカルドを演じたときの姿。面白かったのは、NewYorkという固有名詞をNueva Yorkと書いてあったことであった。そして、バレリーナのアンナ・パブロワの写真も。彼女はマリインスキー劇場バレー団の一員として1917、1918、1919と1928年にコロン劇場に来ているのだそうだ。この写真は1928年サンサーンスの「動物の謝肉祭」の「瀕死の白鳥」を演じたときのもの。さて、次に向かったのはセントロにある5月広場。途中いかにもセントロという感じのダウンタウンを行く。向こうに見える尖塔はオベリスコ。1936年5月、ブエノスアイレスが最初に開かれてから400年目を記念して建てられた。高さは220フィート(67m)あるのだが、現在は内部に入れないそうである。この辺りにはハンバーガーのマクドナルドの店が多い。肉の本場なので、きっと美味しいハンバーガーを提供しているのであろう。一度食べてみるべきだったが、惜しいかなチャンスが無かった。5月広場は1810年スペイン政府に反抗して独立を勝ち取り、独立宣言の喜びにわいた民衆が集まったところ。独立宣言はこの白い建物カビルド(スペイン植民地時代行政機関のあったところ)で行われた。時に1810年5月25日であった。そして5月広場を挟んで真向かいにあるピンク色の建物「カサ・ロサーダ」は現在の大統領府である。白い塔は「5月の塔」。革命の翌年に一周年記念として建てられたもので、アルゼンチン全土から持ち寄られた土が収められているとのこと。5月広場の脇、大統領府「カサ・ロサーダ」と独立宣言が行われたカビルドとの間にナポリターナ大聖堂がある。ネオ・クラッシック様式の建築で、正面の12本の柱はキリストの12使徒を現しているとか。18世紀の中ごろから建設が開始され、1827年に完成。上の写真ではちょっと見にくいが、右端の炎はその当時から消えることなく燃え続けているとのことである。なお、今年2013年3月13日に第266代ローマ教皇に選出されたフランシス1世は、この大聖堂でブエノスアイレス大司教を務めておられた方である。我々が大聖堂の入り口に近づくと衛兵の一団が下りてきた。2時間ごとに行われる衛兵の交代なのだ。どこの国の衛兵もそうだが、皆かっこいい。(日本にも衛兵というか儀仗兵はいるのだろうか?)この衛兵さんたち、南米解放の父ホセ・デ・サン・マルティン将軍の棺を守る護衛兵なのである。大聖堂の中に入る。外観はネオ・クラッシック様式だが、内部はロマネスクやゴシック様式を取り入れているように思うのだがどうだろう。しかし立派な内部の造りである。堂々とした光輝く主祭壇。見上げる。そこにあるフレスコ画。更に見上げる。右側に見えるコバルトブルーの説教壇が素晴らしい。またステンド・グラスも多くある。これはそのうちの一つ。色彩が見事である。女性が熱心に見入っている人物像と棺があった。棺には LEONI FRIDERICO ANEIROS と書かれているのだが、由緒は分からない。そして最後に回ったところが、先程の護衛兵に守られたサンマルティン将軍の霊廟。将軍の棺がアルゼンチン、チリ、ペルーの聖女像に見守られて安置されている。外へ出て大統領府に近づくと子供たちの絵がずらりと垣根に並んでいた。これからアルゼンチン・タンゴの曲で有名なカミニートへ向かう。
2013.07.09
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2013年4月6日(土)今日はブエノスアイレス市内観光の日。ブラジル側のスイートルーム付ホテルの窓から、朝もやのイグアス川に別れを告げる。朝早くバスで国境を通過してアルゼンチン側のイグアスの滝国際空港へ。綺麗な空港で、外観がちょっと変わった建物。この空港、別名を「マヨール・カルロス・エドゥアルド・クラウス空港(Mayor Carlos Eduardo Krause Airport)というとのこと。功績のあった市長の名をとったのであろうか。出発まで時間があるので駐車場へ出てみる。今朝は快晴で太陽がとてもまぶしい。イグアスのジャングルで見た綺麗な紫色の蝶も飛び交っている。蝶については別途ページを割いて紹介したいと思っている。その駐車場の一角。緑の葉が綺麗に輝いていた。その後ろの車にはなんと三菱のマークが!2時間ほどのフライトで13時ちょっと過ぎに無事ブエノスアイレスへ着く。待っていたバスで観光名所のレコレータ墓地へ。今日は土曜日とあって参道にはフリ・マーケットがずらりと並んでいた。店をぶらぶら冷やかしながら墓地入口へ。来た道を振り返る。緑の濃い道を歩いて来たものだ。墓地の中では一組の家族が記念撮影。どこの国でも同じだ。微笑ましい光景なのでパチリと勝手に写させてもらう。ここはアルゼンチンでも最も格式の高い由緒ある墓地で、歴代大統領、実業家、貴族など有名人が埋葬されている。これは聖人の像であろうか。ヴィーナスにかしずかれたお墓。これも2体の天使に守られたお墓。これは綺麗に磨かれた黒御影とそれにはめ込まれた美術的な肖像。高位の尼僧なのだろうか。そしてもっとも有名で多くの人が訪れるペロン大統領(ドゥアルテ家)一族のお墓。ここには美貌とドラマチックな人生を送ったことで人気のあったペロン夫人エヴィータも眠っている。そのそばには一匹の猫が侍っていた。これは若くして亡くなった女性なのか、愛犬とともに銅像が建てられている。そのワンちゃんの鼻が光っているのは、通る人が撫で撫でして行くからなのだろう。そして上の写真の左端の下の方になにやらフクロウのようなものが見えるのが分かるだろうか。それがこのネコちゃんだった。眼を細めて何を祈っているのだろうか。墓地を辞して表の通りへ出る。そこには駄々をこねているワンちゃんがいた。カメラを向けるとフンとそっぽを向かれてしまった。通りの向こう側には洒落た建築のアパート。日本でいうところのマンションである。バスから見たアパート。狭い土地の上に高さを稼いで建てているのは、いずこの国でも行われる常套手段なのだ。この後、バスはコロン劇場へと向かった。
2013.07.07
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今日は今までアルゼンチン側からのイグアスの滝、ヘリコプターで上空からの滝、そして今度はいよいよブラジル側からの展望散策である。ブラジル側のビジターセンターから専用バスに乗り替える。綺麗なバスだ。図案は大蛇のアナコンダなのかな?終点まで行かず途中でバスを降りる。舗装道路の上には綺麗な蝶がいた。日本でいえばオオムラサキに類似するのであろうか。濃い紫が輝いていた。ジャングルの端に付けられた遊歩道を行くともうすぐ一連の滝が見えてくる。イグアス川には何艘かのボートがこれから滝見物に行くところ。川の左岸(写真の右側)はアルゼンチン側。そしてボート小屋も写真の右下に見える。少し休んで川を見ていると、1艘のボートが滝に突っ込むところらしい。従って、滝見物のボートに乗るときは水着か、びしょびしょに濡れても良い服装が必要となる。ガイドの話では、滝に突っ込むとき、女性がキャーと悲鳴をあげると船頭が張り切ってますます突っ込んでサービスしてくれるので、大きな声を出すと良いですよとのことだ。この滝に猛スピードで突っ込むときのスリルと頭上からの大量の水が何ともいえないらしい。そしてこれに参加した人たちは皆、日頃のストレスを解消した満足した笑顔で戻ってくるようだ。やがて滝見台に出る。ここはアルゼンチン側で見た最大の滝「悪魔ののどぶえ」よりだいぶ下流にある滝。このようにイグアスの滝は何段にもなっている。この滝を見ると英語のcascadeを思い出す。成程その意味が良く分かる。この滝見台のそばには子供のハナグマがウロチョロしていた。可愛いので観光客がついお菓子などを与えてしまうのだろう。それを期待して出て来ているのだろう。でも餌を与えることは禁止されている。遊歩道の左側の山側には濃いピンクの鮮やかな色の花が咲いていた。やがて2つ目の滝見台に出る。「悪魔ののどぶえ」の方は水しぶきで全く見えない。乾季に入ったばかりなので、おびただしい水の量が流れている。樹間から見る滝に虹が懸っていた。そして川の上に造られた滝見物の細い橋の道も見えてきた。物凄い滝の壁、そしてその水量。これに圧倒されてカメラを向ける人も多い。橋の道を少し行くともう滝からの水しぶきが凄い。ほうほうの体で帰って来る人もいる。水しぶきに濡れながらも滝と反対側の下流を見る。そこには濁流が渦巻いて流れている。遠くにも大きな一群の滝が見える。もう想像を絶するような勢いの川の流れである。それでも水しぶきの中を歩き続ける。ゴルフのときの上下のレインコートを着てはいるが、それでも水しぶきは襟から、前ボタンの間から容赦なく入って来て、もうびしょびしょ。それでもカメラをかばいながら橋の上を歩き続けたが、もうカメラの濡れ具合も限度と途中で引き返す。滝に大きな虹の輪が出来ていた。それを慰めとして水しぶきから離れ、展望台のエレベーターで滝見のテラスへ登る。そして最後の見納めショット。この様子では、向こうに見える橋の先端まで行っても「悪魔ののどぶえ」は見えなかっただろうと自分自身に言い聞かせる。専用バスで売店のある休憩所へ行く。ここから滝見物の方々と分かれ、私はその間、ジャングルのはずれを歩きながら蝶々を追いかけた。2時間半ほど経過したであろうか夕方、「良かった、楽しかった」と満足しきった明るい顔で戻って来た滝見物の方々と合流してホテルに戻る。
2013.06.29
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アルゼンチン側からのイグアスの滝、しかも最大の滝「悪魔ののどぶえ(Devil's sloat)をまさに直近から見たその迫力感を胸に秘め、イグアス川に架けられた長い金網の道をトロッコの駅へと戻る。駅近くの木立は、今までの滝とはとても対照的な静かな、穏やかな緑の世界。ここイグアスでは一般的な野鳥ルリサンジャクに迎えられる。そして駅のそばの広場は蝶の世界。綺麗な蝶が飛び交っていた。その内の1つ2つが同じツアーの女性の帽子に留まった。この方のお化粧品の香りが気に入ったようだ。その方にじっとして貰って、その蝶を写した。もう時間もお昼近いのでビジター・センターへのトロッコ列車は人が一杯。空席の多い車両を見つけて乗車。終点駅からビジター・センターまでの間も行きの早朝とは違って強い光に照らされた濃い緑の世界だ。ふと見る赤い花にハチドリが来ていた。急いでカメラを向けた。が遅かった!でも幸いなるかな、飛び立った姿がボケてはいるものの画面に残ってくれていた。ジャングルの端から何やら尻尾の長い馬づらの動物がのっそりのっそり現れる。旅行案内書で見たハナグマだ。クマといっても人に危害を加えるようなことはないらしい。ただ、お菓子など食べ物の入った袋を手に下げたりしていると、くわえて持ち逃げするが猿ほどの悪知恵はないようだ。人に慣れていて、のんびり歩いているので取りかえすことは出来るようなのだ。だが、餌は与えないようにとの注意書きがある。これは草の少ないところで見たモルモット?ビジターセンターの駐車場からバスでブラジル側へ移動し、大きな土産品店へ行く。いろいろな商品が置いてある。中でも凄いのがアメジストなどの貴石類。メノウで造った大きなオウムもある。そして面白かったのは、ピカソもかくやとおもわれるようなデザインののれん?昼食は近くのレストランでシュラスコを食べる。シュラスコはブラジルなど南米の名物肉料理。牛、豚、鶏などのいろいろな部位を串に刺して焼いたもの。う~ん、残念ながらあまり美味しいとは思わなかった。そしていよいよ滝見物のヘリポートへ。ヘリコプターには7人ずつ乗り込む。広大なジャングルの上を滝へと向かう。やがて水煙が遠くに見えてきた。そして滝へと!先程渡って来たアルゼンチン側の金網の道(橋)が見える。流れの左側がアルゼンチン側、右側がブラジル側である。「悪魔ののどぶえ」を真正面より捉える。凄い迫力だ。こちらは下流にある一群の滝。これらの滝に向かうのだろうか、上空からは滝見物(滝つぼに突っ込む)のボートが数隻見えていた。30分ほどであったが、とても見応えのあるフライトであった。他の人たちのフライトが完了するまで、ヘリポートの外側にある道路の水溜りに行く。そこには蝶が沢山群がっているのが遠くから見えたのだ。近づくとシロチョウの類のようだ。この地面は塩の味でもするのだろうか。盛んに口ばしを地面につけて、吸水している。このような光景は昆虫写真家の写真では良く見かけるのだが、自分の眼で確認したのは初めて。そして、その近くには土地の人が地面に店を広げてお客を待っていた。笑顔の絶えない、のんびりしたふくよかな体のおばさんたちだった。
2013.06.16
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地上絵を見に行った次の日4月4日(木)はブラジルへの移動日。リマのホテルを道路が混むからとのことで朝早く出発。リマ発12時10分のLAN航空でブラジルのイグアス空港へ向かう。機内でワインを頼んだが、グラスはプラスチックではなく、小型の可愛いガラス製だったのが嬉しかった。やはりワインはガラスのグラスで飲むのが良いな!ほぼ4時間のフライトだがブラジルは2時間程時間が進んでいるので18時ちょっと過ぎに到着。ホテルに向かった。ホテルの部屋はスイート。次の間付である。翌4月5日(金)はいよいよ世界遺産イグアスの滝の観光。アルゼンチン側からとブラジル側から、さらにヘリコプターに乗って上空からの壮大な滝を見物することになっている。さらにさらにオプションではあるがボートに乗って水上からのずぶ濡れ滝観光も入っている。それではまずアルゼンチン側から。ホテルのあるブラジルの町フォス・ド・イグアスからバスで国境のイグアス川を通過してアルゼンチン側へ。川は茶色の水が滔々と流れている。イミグレーションで結構時間を取られる。やがてバスはイグアス国立公園の道標を右に見て駐車場へと入って行った。入園ゲートを過ぎて少し歩く。道の脇には色は違うが日本のヒルガオのような花や、ツワブキの花を思わせる黄色の花が咲いていた。芝生には冠を付けた足の長い鳥も歩いている。やがてビジターセンターに着く。壁には恐ろしいポスターが貼ってあった。ジャングルを切り開いて造ったので「野生動物に注意」ということなのだろう。ビジターセンターからはトロッコ列車で終点まで行く。昨日は雨だったそうで、沿線の道には水溜りが多く出来ていた。しかも全部下の写真のような真っ赤な色。気持ち悪いほどの赤さである。これがこの辺の土の色なのだ。日本の赤土とはだいぶ違う。終点からは広い川の上に出来た金網の道を行く。川はまるで湖のような感じだ。足元の淀んだ水辺には大きなナマズが水面近くまで浮き上がって来ていた。20分ぐらい歩いたであろうか、彼方に水煙が見えてきた。さらに近づくと滝の落ち口が見えてきた。凄い水量が飲み込まれていく。ここが最大の滝「悪魔ののどぶえ」だった。イグアスの滝は単一の滝ではなく、数多くの滝の総称である。でももっとも迫力のあるのはこの「悪魔ののどぶえ」だろう。したがって、その滝に手が届くのではないかというところまで金網で出来た遊歩道が設けられている。滝の水は日本のように澄んだ綺麗な状態ではない。泥を含んだ濁った大量の水が物凄い迫力で流れ落ちて行く。もう水煙で滝つぼなどは全然見えない。それでは「悪魔ののどぶえ」のところから左へカメラを移動して写したものを下に載せておこう。来た金網の遊歩道を引き返す。途中の岩の上では野生のワニがのんびりした姿を見せていた。。動的な物凄い迫力のある滝と好対照をしていたのがとても面白かった。さらに嬉しかったのは、私の好きな蝶々が沢山いたことだった。またハチドリも見た。
2013.06.07
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2013年4月3日(水)。リマよりパンアメリカン・ハイウエイを3時間半ほどかけて、ナスカの地上絵の観光セスナ機が出るピスコに到着。空港事務所で搭乗手続きを済ませ、順番が来るまでしばらく待機。地上絵のパンフレットが配られる。これらを空中から見て回るのだ。やがて迎えのバスが来て滑走路へ向かう。我々の搭乗機は給油中だった。副操縦士は若い背の高いイケメン。それっ!とばかりにオバサン連中が彼を取り囲んで記念撮影。機長はベテランだ。セスナ機はまず海岸沿いに飛び、やがて砂漠へと向かう。雨が降らない砂漠とはいえ、時には水が出るのだろうか。かっては川だったと思われる地形が見えてきた。面白いものだ。やがて岩山が出現し、その斜面に「宇宙人(またはフクロウ人間)」がはっきりと見えてきた。機長が片言の日本語で「右にクジラ」とか「左に回る。ちょっと待って」とか言ってくれるが、なかなか地上絵を視認するのが難しい。でも宇宙人や下の写真のハチドリは見易かった。地上絵は、白い岩が出てくるまで表面の小石を取り除いて描かれているのだそうである。それがこの広大な砂漠にいくつも描かれているのだ。「猿」が出て来た。ただ砂漠の砂と下の白い岩とのコントラストが低いのでちょっと見にくい。撮影した写真をソフトで色やコントラストを変えてやっとこの程度に仕上げてみた。今度は「犬」。実はこれは眼で確認していない。写した写真を大きな画面で仔細に見て、これひょっとして「犬」?と感じ、画像ソフトの操作で浮き出させたもの。次は大きな鳥「コンドル」。パンアメリカン・ハイウエイの途中で追い越して行ったバスの後ろに描かれていた鳥。長さは136mの大きな地上絵(Nazka's Lines)である。パンアメリカン・ハイウエイの道路際にある「木」(左)と「手」(右)。これって「手」としてあるが、ひょっとして「ひよこ」ではないの?左にある「木」から落ちてきたのかも?道路際に見える構造物はミラドール(Mirador)と呼ばれるこの地上絵の一部を見るための観察やぐら。高さ20mあるそうだ。このような具象的な絵のほか、写真で見て分かるようにいろいろな線やそれで囲まれた図形、さらに広大な白いプラットホーム状の場所が多く見える。それらは明らかに人工的なものと分かる。このような図形はこの砂漠の随所に見ることが出来るのだ。不思議である。誰かが上から見るだろうと想定して描かれたのだろうか。誰かとは誰? 神か?やがて大きな「オウム(またはトンボ)」が出て来た。羽根(翅)の幅は200m。ナスカを後にし、北に進路を向けてパルパへ向かう。ここにも地上絵があるのを最近発見したのだそうだ。真ん中にあるのは川のようだ。雨季になると水が流れ、周囲の畑を潤すのであろう。やがて岩山が現れた。画面の右端に何か構築物らしきものが見えている。そしてまたもや眼下に「ハチドリ」が現れた。白い岩山の上にはやはりいろいろな線や図形が描かれている。特に右下にはらせん模様も見えている。そして山の上には「月と星」の幾何学模様があった。これは高低差を超越して正確に線が描かれている。凄い測量技術を持っていたのだろう。要所要所に点が設定されている。そして正方形にきちんと真円が内接している。いや~、驚きである!感心させられたところで機は出発地ピスコへと引き返す。途中の砂漠には緑化された広大な畑が広がっていた。ピスコはなかなか大きな町なのだ。飛行場に無事帰還。揺れることもなく、急旋回で大きく傾くこともなく快適な空の観光であった。これから3時間半バスに揺られ、行きに寄った休憩所で休憩後、リマに帰着。今夜は大きな中華料理屋での食事。とても混雑している活気のある店だった。だが味はまあまあ。店の前の道路灯の輝きが綺麗だった。「地球の歩き方 ペルー編」によれば、紀元前900年ごろから紀元後900年ごろにかけてナスカ周辺に部落が出来、さまざまな文化が開花して行った。誰が何の目的で造ったのか分からないが、その間に地上絵が描かれたのではなかろうかとのことである。
2013.06.03
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やっと南米ペルーの首都リマへ到着。ロサンゼルスから約8時間半のフライト。次の日4月3日(水)の0時20分に到着。ここで積載荷物のトラブル。5人ほどの荷物が着かないのだ。その手続きなどで時間が掛かりホテル到着は3時ごろ。そしてあくる朝7時にホテル出発という強行軍。これからナスカの地上絵を見に行くのだ。バスでパンアメリカン・ハイウエイを南下。何という街か分からないが立派な海浜リゾートである。坂を登って丘の上の商店街を走る。通勤客を乗せたバスが何台も走っている。バスの後ろにマチュピチュの広告が出ているのも面白い。ここは市場のようだ。その前の交差点に並んでいる3輪のタクシー。この車はホンダ製だとか。向こうの丘の斜面には新興住宅が見える。ここは植物園になるところなのだそうだ。並木が面白かったので、写しておいた。また海岸沿いの道へ出る。向こうにナガスクジラのような面白い形の島が見えてきた。見るところ岩山の島のようである。海岸沿いの住宅。向こうの丘の上に見える住宅とはだいぶ差があるように見える。貧富の差が大きいのかもしれない。2時間も走っただろうか。トイレ休憩の場所へ来た。ここは分厚いごつい塀で防御された休憩所兼売店。日系の人の経営のようである。外側より携帯電話で連絡すると門が開かれる用心深さ。門の上の牛のお飾りが面白い。これはお守りなのだろうか。 特に雌の牛はピアスを付けている。ピアスはこの牛の娘なのだろうか、両耳にぶら下げていてとても愛嬌がある。このお店、商品が豊富。棚に、壁に、ショウウインドウにずらりと並んでいる。お値段はちょっと高めのように思うが、良い商品が多いと思う。壁に並んだ焼き物。今、思うと買っておけば良かったなぁと思うものもある。ザック類も良いデザインのがある。17ドルという値札がついているが、クスコやマチュピチュのような田舎へ行くと10ドルが相場だ。ただ、品物の出来はどうなのだろうか。でも、このような色彩豊かなデザインはとても映える。帰国して日本で使って見ても、とても良い。皆から褒められることが多い。気に入ったのがあれば、即買っておいた方が後悔しなくて良い。私はこの店では、変わったフクロウの焼き物とオカリナを買った。外国へ行くとフクロウの焼き物を買うことが多いのだが、このペルーのフクロウは素晴らしいデザイン。すっかり気に入ってしまった。30分ほどの休憩後、またバスの人となる。両側は行けども行けども砂漠。砂漠の向こうに海が見えてきた。海岸近くには白い建築物があり、手前には長細いこれも白い建物。これは鶏舎なのだそうだ。砂漠の有効活用を検討したところ、養鶏が適しているとの解を政府が見つけて推進しているとのこと。兎も角乾燥しているので伝染病に強いらしい。たとえ、伝染病に侵されることがあったとしても、すぐ別の場所に移動して再開できるそうだ。伝染病が蔓延することはないとのこと。これは高速道路脇にあった鶏舎。簡単な造りの鶏舎なので、別のところにすぐ作り変えることが出来るとのこと。道路はまたまた海のすぐそばへ来た。海水浴姿の男女が海に向かっている。平和な和やかな風景である。高速道路脇の果物屋。そして東南アジアなどで良く見かける屋台。庶民的な風景である。今度は農地が出て来た。その向こうの農民の住み家。ちょっと貧しい感じである。でも素朴な風景で、生活感が溢れている。またまた砂漠が出て来た。思わず ♪ 月の砂漠をはるばると旅のラクダが行きました・・・・ ♪ という童謡を口ずさんでしまった。そうこうするうちにピスコの漁港へ到着。漁港の建物の上にはおびただしい数の海鳥。大きいのは海鵜かな?皆、漁船からのおこぼれを待っているのだろう。バスはここから海と直角に分かれて進むとピスコの空港となる。セスナ機に分乗してナスカの地上絵を上空から見に行くのだ。往復2時間半の観光。どのような絵が見えるのだろうか?小型機なので揺れて酔わないのだろうか?期待と心配が錯綜する。
2013.05.31
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南米旅行記なのにまだロサンゼルスでウロチョロしている。数十年前の懐かしい想い出が頭をよぎり、ついあれもこれもと書いてしまった。さて、ハリウッドからのバスはロサンゼルスのダウンタウン近くへやって来た。あの白い高いランドマークのCivic Center(市庁舎)がすぐそばに見えてきた。「Los Angeles」の道路標識も見える。3rd Streetにあるスタバの脇の駐車場でバスを降り、歩いてリトル・トウキョウへ向かう。1961年最初に来たときはちょっと東京のさびれた下町ぽい感じで小さな店が並んでいたリトル・トウキョウ。その中に今川焼屋があり、あんこを入れて焼いている実演を道路から見えるようにしていた店があった。それは1964年の時もその店はあったが、1981年に来たとき、街はすっかり様変わりして近代的なリトル・トウキョウになっていてびっくりしたものだった。歩いて行くうちに街角に二宮尊徳の像を見つけた。今まで何回か来ていて気が付かなかったので、それほど古い銅像ではないと思う。でも、これぞ日本人の原風景。かっては、日本の公立小学校には必ずあった懐かしい銅像である。だが、ここのはちょっと近代的な顔かな?そして、ガイドが案内してくれたのは日本村広場。綺麗なお店が沢山並んでいる。中庭には日本の風水の休憩場所があり、ここでリラックしているカップルもいた。その向こうにあった日本の古典風のディスプレイ。この地に住む方々が詠まれた俳句と短歌であった。さらに進むと日本でおなじみのパン屋さん「Yamazaki」のお店。入口には中華まんじゅうの幟も立っている。全く日本のと同じ佇まい。このお店でパンを焼いて売っていた。お腹も空いて来たので、餡パンなどを買う。しばらく辺りをうろうろして歩いてバスへと戻る。途中、2nd St.とSan Pedro St.の交差点へ来ると展望が開けて、かなたに高層ビル群が見えてきた。あれはなんじゃと思ったら、ニュー・ダウンタウンとのこと。全然知らなかった。昔、そこの付近(多分Olive St.)に廃墟のような街並みがあったのだが、そこが再開発されたのかもしれないやはり西部の大都市。変化は激しい。白い長いひげは生やしてはいないものの頭はすでに真っ白。今ウラシマである。Astronaut E.S.Onizuka Streetを通る。そこには1986年1月28日、打ち上げ直後のチャレンジャー号の爆発事故で殉職されたエリソン・ショージ・オニヅカ空軍大佐の顕彰碑がチャレンジャー号のレプリカとともに置かれていた。。彼は日系人初のNASAの宇宙飛行士。享年39歳の若さであった。この通りには上記のとおり彼の名前が付けられている。乗り込んだバスの窓から見えた「Olvera Street」と書かれた道路標識。またまたいろいろな思い出が頭をよぎる。このオルヴェラ・ストリートはメキシコ人街。ごく短い通りではあるが、ここはロサンゼルス発祥の地なのだ。小さいながらその標識も残っていた(現在もあるのではなかろうか)。固定の店の他、屋台の店がずらりと並んでいるし、メキシカン・レストランもある。ここはメキシコを始め南米関係の商品やみやげ物を沢山売っている。品揃えも豊富。特にスターリング・シルバーの製品を多く扱っている。しかも、安い。ここへはロサンゼルスへ来るたびに寄っていた。1981年に来たときびっくりしたのは、何と20年前に来た時と全然変わっていなかったことである。そして昔ながらの賑わいを見せていた。ロサンゼルスの他の地域はいろいろ変わっているのにである。今回は残念ながら行くことが出来なかった。そのほかにもいろいろな思い出が湧いてくる。市内バスで12th St.まできて、繁華街のBroadwayを1st St.まで歩き、そしてさらにLittle TokyoからOlvera Street へ歩いて行ったこと。途中、5th St.のPershing Square という小さな公園で、片隅にあるベートーヴェンの胸像を入れて記念写真を写したこと(その時はホームレスが何人かいてちょっと気味が悪かった)。兎も角、ロサンゼルスは広いので歩きでがあった。ドジャース球場に生まれて初めてプロ野球の試合を見に行ったこと。ロサンジェルス・ドジャース対サンフランシスコ・ジャイアンツの試合(日本でいえば巨人対阪神に相当か)、でも投手戦で、1対0でジャイアンツが勝ったが打ち合いの無いつまらない試合だったな。そんなことを想い出しているうちに、バスは昔住んでいたInglewood付近へ来たというので、想い出に1枚写真を写す。そしてやがてロサンゼルス国際空港に到着。ペルーのLAN航空で首都リマへ向かった。
2013.05.26
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52年前に泊まったホテルの前でいろいろ感慨にふけっているうちに、迎えのバスが到着。これよりハリウッドへ向かう。ホテルの前のセプルヴェダ・ブルヴァードからラ・シエネガ・ブルヴァードへとバスは入って行く。Inglewoodの道路標識が眼に入る。懐かしい。というのはイングルウッド市は3年後の1964年に再びロスに来たとき、ほぼ1ヵ月ばかりアパート暮らしをしたところ。アパートの近くにはHollywood Parkという競馬場があった。日本と同じように予想屋がいていろいろアドバイスをしているようだった。ただ、その予想屋がすごく格好良いポーズでお客を誘うのが面白かった。探せば、どこかにこの時の写真があるはず。高速道路脇に大きな FOREVER 21 の看板が出て来た。FOREVER 21 はロサンゼルスが発祥の地だ。だから、これは本場の看板。モデルはレディー・ガガのようにも見えるのだがどうだろう。しばらくバスに揺られていくと、Rodeo Driveに到着。道の両側は有名ブランド店がずらりと並んでいる。ただ、朝まだ時間が早いので人通りは少なく、閑散としているのがちょっと物足りない。街路灯に下げられた植木鉢の花がとても豪華で綺麗だ。花が豊富にあると心が和やかになる。同じような光景は昨年秋のボストン郊外のハーヴァードでも眼にした。やがてビヴァリー・ヒルズを通過して行く。言わずと知れた高級住宅地。右手に広がる椰子の並木。南カリフォルニアを象徴する光景である。あゝ、ロサンゼルスに来たんだ! という感じを強く受ける。やがてサンセット・ブルヴァードに入ったのだろうか。派手な看板が出て来た。この辺りはサンセット・ストリップか?ガイドから左手がハリウッド・ボウルの入口ですという説明が聞こえたので、慌ててカメラをそちらへ向けたが、時すでに遅く入口の標識を写すことが出来なかった。ハリウッド・ボウルはすごく想い出が深い。終戦直後、WVTRという中波の米軍放送が行われていて、そこで良く聴いたのがHollywood Bowl Orchestraの演奏だった。また、1964年2回目のロサンゼルスの時、復活祭のミサがここで行われるというので、朝4時ごろまだ暗いうちにここへ連れて来てもらったことがある。ここは両側を小高い丘に囲まれた野外演奏場。Bowlと名付けられているようにお椀状になっている。ミサはいきなりその両側の山の上にいる祝祭用の長いトランペットを持った4人によるファンファーレで始まった。周りが暗い中、山の上のトランぺッターにはパッと強烈なスポットライトが当てられ、大音響での演奏には全く度肝を抜かれた。このような演出は、アメリカのお得意芸なのだろう。昨年のブロードウエイでの「オペラ座の怪人」でも同じような演出があって、やはりびっくりしたものだった。さて、そんな想い出に駆られているうちに歩道に星形の埋め込みが見えてきた。ハリウッド・ブルヴァードに入って来ていたのだ。これらはエンタテイメント界のスターの名を刻んだ星形プレート。バスを降りて、その星を見に行く。ジャッキー・チェンやジュリー・アンドルースなど映画スターとともに、マイケル・ジャクソンのがあった。彼は歌手なので映写機ではなく、レコード・プレーヤーのマークが飾られている。すぐそばにあるハリウッドのランドマークの一つグローマンズ・チャイニーズ・シアターヘ行く。52年ぶりに見るこの建物も最初の時ほどのインパクトがない感じ。若い時に見たときは、奇怪な姿に圧倒されたものだった。でも今見るとなんとなくさびれている。吾輩もだいぶ御歳を召されたので感受性がなまってきたか?でもその前にあるマリリン・モンローのサインと手形・足形は見たいな。そこはいまだもって人気が衰えないようだ。なかなか人がどいてくれない。共演のジェーン・ラッセルのと仲良く並んで、その両方にわたって「Gentlemen Prefer Blondes(紳士は金髪がお好き)」なる映画の題名が彫られている。これも二人で仲よく分担して書かれたのであろう。面白いのはマリリンの方は黄色に塗られている。なかなか乙な計らいである。この二人がここで書いている写真が、あるサイトに出ていたので借用してきた。やはりマリリン・モンローはチャーミングだなぁ!またマリリンの上の青いところはソフィア・ローレンのものである。次に行ったところはアカデミー賞授賞式が行われるドルビー・シアター。ハリウッドに来たらこの写真は撮らなければならないだろう。ハリウッド・サインを写してバスに戻る。ド派手な市内観光バスの脇を通って次の目的地ロサンゼルス・ダウンタウン1番街のリトル・トウキョウへ向かう。
2013.05.23
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ロサンゼルス着4月1日の21時25分。国際空港近くのEL SEGUND市のホテルには22時過ぎに到着。そして、予想通りここは何と私が52年前仕事で初めてアメリカに来たときに2か月ほど滞在していたホテルだった(住所から見て多分そうではないかと思っていたわけ)。*****************************************1961年8月中旬だから今からほぼ52年前、まだ1ドル=350円の時代。羽田国際空港から飛び立った日航のダグラスDC-8は給油のためウエーキ島へ。窓から見るウエーキ島の海には、真っ二つに折れて海に突き刺さっている日本の輸送船があった。まだまだ太平洋戦争の傷跡が生々しく残っているのだ。やがて日付変更線を通過。すると機長のサイン入りの証明書を自宅に送ってくれるという。ちなみに、帰りは今はないパン・アメリカン航空だったが、そこでも同じサービスを行っていた。そして機内では振り袖姿のスチュアーデスのサービス。再度給油のためホノルル空港へ着陸。乗客は薄暗い照明のVIPルームに通されて、半切りのパパイアの上にアイスクリームを載せたデザートのサービスを受ける。当時パパイアは珍しかった(もっとも戦争中は干瓢の代わりにパパイアの皮を干したものの配給を受けたことが一度だけある。当時、お菓子が無かったので、それをそのまま食べてみたが甘くて美味しかった)。そしてサンフランシスコから今回と同じようにロサンゼルスへと国内線で向かった。*****************************************そんなことを懐かしく想い出す。でもホテルは52年経過した今、随分品が落ちた感じ。あの頃はまだ出来たてで新しかったのだ。今のホテル名はHacienda Hotel(アシエンダ・ホテル)となっているが、当時はThunderbird International Hotelといっていた。そのことをフロントに言うと、そんな古いこと知ってるもんかと全然相手にしてくれない。写真の右の青い幌のところはコーヒー・ショップ。ここで毎朝カウンターで食事を摂り、従業員とも仲良く挨拶をして、とても明るく活気があったのだが今は陰気。全然雰囲気が違っていて昔の面影は皆無。がっかりだった。ホテルの前、道路(North Sepulveda Boulvard)を挟んだ向こう側には綺麗な花が咲いていた。何の花だろう。酔っぱらいの木か?当時、ここにはディスカウントショップがあって良く冷やかしに行ったものだったが。それでも何かおみやげを買ったことがあったな。この道路に沿って歩いて行くと右手にRedondo Beach さらに進むとManhattan Beachの海岸が出てくる。当時ビキニ姿(日本ではまだ珍しかったので、ドキッとしたものである)の女性が結構砂浜で日光浴をしていた。歩いては行けないが南端は有名なLong Beach。休日にはこの海岸を歩いたり、空港からのリムジンバスでLong BeachのArenaへロデオを見に行ったりした。また、AnaheimのDisneyLandへも空港からのリムジンバスで行っていたが、ついでにその近くにあるテーマパークKnott's Berry Farmへも行ったものだった(さらにその先にはWax Musium(蝋人形館)もある)。Knott's Berry Farmはアメリカ西部の雰囲気をそのまま残している屋外のテーマパークで、園内を走る汽車に乗っていると突然ギャング達が大声で怒鳴って乗り移って来て、いきなりピストルを突き付けホールド・アップさせられてドキッとしたり、小川のそばで砂金を掘らせて呉れたりした。特に圧巻だったのは夕暮れの真っ赤な太陽が沈むころ、大きな焚火の周囲に集まった観客の中でのウエスターンのライブ。これはもう焚火に照らされた周囲の西部の雰囲気といい、演奏といい最高だった。とっぷりと暗くなった夜空の星を見ながら帰ったものである。いまでもこのテーマパークはそのまま残っているのだろうか。ここのジャムは日本でも時々眼にするのだが。当時のそんな想い出がよみがえってくる。
2013.05.20
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今年の4月1日から12日まで阪急交通社の「南米世界遺産紀行12日間」なるツアーに参加してきた。全行程は 1日目:羽田→サンフランシスコ→ロサンゼルス(泊) 2日目:ロサンゼルス市内観光→リマ(ペルー)(泊) 3日目:リマ→ピスコ(ペルー)→セスナ機よりナスカの地上絵観光→リマ(泊) 4日目:リマ→イグアス(ブラジル)(泊) 5日目:イグアスの滝観光(アルゼンチン側より)→ヘリコプターで上空からイグアスの滝観光→イグアスの滝観光(ブラジル側より)→イグアス(ブラジル)(泊) 6日目:イグアス(ブラジル)→イグアス(アルゼンチン)→ブエノスアイレス(アルゼンチン)市内観光→リマ(泊) 7日目:リマ→クスコ(ペルー)市内観光→ペルーレイルでマチュピチュへ(泊) 8日目:マチュピチュ遺跡観光→マチュピチュ(泊) 9日目:マチュピチュ→ペルーレイルでピスカクーチョ→聖なる谷→モライ遺跡→マラスの塩田→ウルバンバ(ペルー)(泊) 10日目:ウルバンバ→クスコ(市内観光)→リマ(市内観光)(泊) 11日目:リマ→サンフランシスコ→(機中泊) 12日目:羽田着(22時20分)という変化に富んだ面白い内容だが、時間的に(夜中に到着、早朝出発)結構きついものが何回かあった。また、イグアスの滝を見るためにブラジルへ入国するのだが、事前にビザの取得が必要となる。手続きは旅行社にやって貰ったが、パスポート、写真(縦45mm×横35mm、顔部分31~36mm、背景白のカラー写真、最近撮影のもの)2枚、25万円以上の預金残高証明書(1ヶ月以内に発行されたもの)が必要であった。また、アメリカ入国にはESTAが当然必要となる。昨年10月にアメリカへ行くとき取得しておいたが、旅行社より念のため印刷しておくようにとの要請があったので、アメリカ大使館の当該サイトに入ってダウンロードし印刷しておいた。しかし、提示を求められたことは一度もなかった。でもアメリカ入国審査は時間が掛かる。何しろ長蛇の列でイミグレーションの窓口に到達するまで1.5~2時間かかるし、その後のボディチェック、持ち物検査も厳しい。だから、サンフランシスコでは乗り継ぎに2時間半ぐらいの余裕があったのだが、買い物は不能で、慌てて乗り継ぎゲートに急ぐことになった。
2013.05.19
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4月1日から12日まで憧れのマチュピチュを含む南米3か国を周って来た。羽田帰着は昨12日の22時40分。ところが預けた荷物が、サンフランシスコ空港のベルトコンベイヤの故障で帰国便に乗ることあたわず、置き去りにされてしまったとのこと。その荷物の処理手続きに時間が掛かり、結局横浜駅行きの終バスになってしまったので、帰宅は今朝の2時近かった。今回は全コースとも天候に恵まれ、特にペルーのマチュピチュは快晴そのもの。約2400mの高地のマチュピチュ、澄んだ空気の中、3時間の上り下りで主要な遺跡を見学して歩いた。あくる朝、ホテルで自分の腕を見てびっくり。真っ赤に日焼けした腕に時計のベルトの跡がくっきり。暑かったので腕まくりして歩いていたため、もろに直射を受けてしまったのだ。その日焼けたるや日本の海水浴での日焼けの赤さとは違って、ほんとに真っ赤。これがマチュピチュ特有の日焼けなのだそうだ。ちょっとヒリヒリもする。その日焼け、それから4日経過した今朝見るとだいぶ黒ずんできていた。ちょっとお見苦しい写真を載せてしまったので、遺跡の片隅に咲いていた蘭の花を載せておこう。
2013.04.13
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