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2010年4月11日(日)。ルーマニア中部のブラショフから170Kmの道のりを約3時間かけてブカレストへ戻った。ホテルはブカレスト・ノルド駅にほど近いところにあるイビス・ホテル。日本のビジネスホテルを大きくしたようなイメージだ。フロントは小さく、しかも1人というローコスト・オペレーション。ポーターなしで荷物は各自部屋まで運ぶ。鍵はもちろんカードキー。エレベーターを降りたらすぐにドアーがあってノブを回しても開かない。仲間の頭の柔らかい女性が、持っていたカードキーを入れたら開いた。このドアーはこの階の部屋を指定されたカードキーなら共通で開くようだ。セキュリティが2重になっているのである。そして各自の部屋へ。ところが今度は全室電気が全然点かない。フロントへ連絡してくれた人がいて、間もなく解決。どうも普段あまり使われていないブロックをあてがわれたようだ。やれやれ!このノルド駅周辺は治安がよろしくないので、自由時間に駅に近寄らないようにとのガイドの注意あり。さて、今回のツアー最後のイべントであるフォルクローレ・ディナーショウにバスで向かう。そのレストランは故チャウシェスク大統領お気に入りの店。ここにいた老ヴァイオリニストの奏でるヴァイオリンが好きで、良く聴きに来ては曲をリクエストしていたとのこと。食事は見かけは良いが、あまり美味しいとはいえない。そうこうする内に音楽の演奏が始まった。ヴァイオリン、パンフルート、クラリネット、チンバロン、ベースそして控えにアコーディオンがいる。それぞれの楽器の演奏者が交替でソロを聴かせてくれた。やがて民族衣装に身を包んだ男女が現れ、踊りを披露する。最後に踊りながら演奏しながら各テーブルを廻って行く。我々のテーブルでは「浜辺の歌」をサービスしてくれたので、皆で声を合わせて合唱。かくして賑やかにルーマニアでの最後の夜を過ごした。明くる4月12日、バス窓外の風景を楽しみながらブカレスト空港へ。この写真はブカレスト空港へ行く途中、バスから見たローマ遺跡。さようなら、ブカレスト。 さようならルーマニア。そして来たときと同じくウイーン乗り継ぎのオーストリア航空で4月13日朝無事成田に帰着した。ブルガリア・ルーマニア紀行(完)
2010.07.18
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スケイ地区にある聖ニコラエ教会の前でバスを下車。教会の門をくぐる。14世紀に創建されたゴシック様式の聖堂である。スケイ(またはシュケイ)地区はドイツ(ザクセン)人によってブラショフが建設されたとき、ルーマニア人を隔離して住まわせたところ。スケイ門はその境にあって、ドイツ人とルーマニア人を分けていた象徴的な門である。商売はドイツ人に独占されルーマニア人は市内での商いは禁じられていた。そのためルーマニア人は羊飼いか、密輸で生計をたてていたようである。この教会の左手にある建物はルーマニア最古の、ルーマニア人のための初めての学校である。ルーマニアではじめての印刷機が造られ、それによってルーマニア語の書籍や教科書が印刷されていったという。学校の手前に見える人物像はその印刷機械を作った人とのことである。さて聖ニコラエ教会はルーマニア正教の教会で、ファサードには聖ニコラエのモザイク画が描かれている。堅い木に細かな彫刻が施された入口の扉を開け、中に入る。内部は撮影禁止。教会を辞して外へ出ると、絵が描かれている塀が学校から続いていた。また、入ってきた入口とは別の宗教的な絵で飾られた門を発見。多分これは祭礼の時に使われる正門であろう。教会の前の共和国広場には勇敢なる兵士の像など共産党支配時代の名残をまだ見ることが出来た。さて、このあと今夜はブカレストでのフォルクローレ・ディナーショウ。バスはシナイア経由で長駆170Kmを飛ばして行った。
2010.07.17
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ブラン城からの途中ブラショフ郊外で昼食に立ち寄ってから、ブラショフの旧市街に入る。ブラショフは首都ブカレストに次ぐルーマニア第2の都市。シナイアから真北へ直線距離で約50Km、ちょうどトランシルヴァニア・アルプスを越えたところにある。この町は12世紀にドイツ商人が建設し、ルーマニア人、ハンガリー人の3民族によって発展してきた。ここは旧市街の中心にあるスファトルイ広場。家族連れの人たちで賑わっている。今日は日曜日なので、広場にはテント張りの市(いち)が立っている。プラム酒など試飲が出来るので、高齢者の人たちがそれを飲みながら団らんしている。私も貰って飲んでみる。強いクセのあるお酒。飲み付けないせいかあまり美味しいとはいえない。そばにいた高齢者が話しかけてくる。勿論現地語で分からないので乾杯する。すると大喜び。人なつっこい人たちだ。テントを廻るとハチミツ屋があった。ラテン語系でハチミツはMIEL、MIELE、MELとなるのだが、同じラテン民族の国ルーマニアではMIEREとなっていた。テイスティングしてみると美味しい。何のハチミツか試しに英語で訊いてみる。野に咲いているいろいろな花の蜜だとの答が返って来た。1個買う。このような市(いち)で買う蜂蜜は本当に純粋な自然なハチミツが多いのでとても良いチャンスだった。田舎へ行けば行くほど純粋な品物に出会えるように思う。広場の隅には綺麗なレストランがあり、立派な絵看板があった。そばでは若いお嬢さん方が団らんしている。広場の反対側には旧市庁舎がある。この建物は1420年建立の歴史的なもの。塔の高さは約60mあるそうだ。現在は歴史博物館となっている。広場の中央には噴水があり、その向こうに「黒の教会」が見える。「黒の教会」は14世紀から15世紀初頭の約80年かけて建設された高さ約65mのトランシルヴァニア地方最大の塔を持つ後期ゴシック様式の建物。1689年にハプスブルグ軍の攻撃によって外壁が黒こげになったことが名前の由来になっている。南側には荘重な出入り口があったが、現在は使われていないようである。このそばに人一人がやっと通れるような狭い通りがあるというので行ってみた。この通りはルーマニア語でStrada Sforii、英語に訳すとRope Street、幅1.32m、長さ83mのヨーロッパでもっとも狭い通りの一つで、中世におけるブラショフの都市計画の考え方を示すものであるとルーマニア語と英語で書かれた楯型の褐色の標識が出口(入口?)に取り付けられていた。この通りを戻り、バスの待っているスケイ門に向かう。バスでスケイ地区にある聖ニコラエ教会へと行く。
2010.07.16
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今朝早くにはまだ雨も残っていたが、お天気は徐々に回復し午後は太陽が燦々と照りつけるようになった。風は強いものの空は抜けるような青さである。もう入梅も上がったような感じを受ける。さて、時はほぼ3ヵ月前に遡る2010年4月11日(日)の朝8時、2連泊したシナイアのホテルを出発してブランに向かう。ブランに9時半に到着。すぐにブラン城へ。入口にはおみやげ屋の店が立ち並び、市場の様相を呈していた。このお城はイギリス人ブラム・ストーカーが書いた小説「吸血鬼ドラキュラ」でドラキュラ伯爵の居城となったところ。岩山の上に建っているこのお城は、1377年、ドイツ商人がワラキア平原からブラショフに攻め入ってくるオスマン・トルコ軍をいち早く見つけるために築いたとされている。14世紀末にはドラキュラのモデルである串刺し公ヴラド・ツェペッシュの祖父であるヴラド1世がここを居城とした。しかし、串刺し公本人はここに住んだことはないとのことである。お城の木戸口をくぐり、細い石畳の坂道を登るとお城の直下へ出る。そこには不気味な十字架が立っていた。ここから見上げるお城はほぼ垂直に立ち上がっている。小説「吸血鬼ドラキュラ」によれば、ドラキュラ伯爵は夜な夜なこの垂直の壁をトカゲのように這って出て行ったそうな。お城の入口は、この岩の下の左側をぐるっとトラヴァースしながら登って行ったところにあり、そこから城内へと入る。沢山ある部屋の一つに19世紀末から20世紀初頭のお城と中世の税関所の写真が掲げられていた。村からお城へ登る広い道がはっきりと見えている。小説「吸血鬼ドラキュラ」の初めの部分に出てくるお城からのお迎えの馬車が不気味な燐光が輝き、狼の吠え叫ぶ中を走った夜道がこれなのかと想像をかき立てる。この村までは乗合馬車で来たのだが、あのお城へは近づかない方が良いという乗客の忠告を無視して仕事のため行かなければならないロンドンのジョナサン・ハーカー弁理士(今の公認会計士か?)。乗客の老婆がそれではと十字架のペンダントとニンニクを彼に渡す。これはドラキュラがもっとも嫌うものなのだ。そして彼はこのお城に閉じこめられてしまうのだった。これはアプライト・ピアノ。奥方か、公女の部屋だったのだろう。壁に掛かっているのは部屋の主の写真か。上の回廊に出ると城内の丸屋根の教会も見える。また、中庭にある井戸も見下ろせる。この井戸も小説に出てきたのではなかったろうか?お城の最高点、物見の塔も見える。この部屋にはドラキュラ伯爵のモデルとなった串刺し公ヴラド・ツェペッシュ公の家系図が出ていた。そしてその隣には小説「吸血鬼ドラキュラ」の著者ブラム・ストーカーのコーナーが出来ていた。中央にある写真などは映画化されたシーンの数々と思われる。なお、小説「吸血鬼ドラキュラ」は100年以上経った現在でも平井呈一訳で創元推理文庫から出版されている(税別860円)。綿密に練られた構成でとても面白い。これは豪華な扉だ。さすがは貴族の居城。また、天井の梁も綺麗に装飾されている。外を眺めるとそこにはトランシルヴァニア地方の風景がひろがっていた。同じように部屋の窓からも眺めることが出来る。中庭に降りたって先程の井戸を見る。浮き彫りの模様も何か異様なものを感じる。中庭の一角には記帳所があって、訪問者が自由に書けるノートが置いてあった。私も一筆したためてきた。そして出口へと誘われて城外へ出る。往きに登ってきた同じ道を下って、おみやげ屋さんへと向かう。このお店はコスチュームの専門店。ドラキュラにちなんだ妖怪のお面がずらりと並んでいて面白い。いろいろなカツラも用意されている。向かいのCD屋さんからどこかで聴いたことがあるヴァイオリンの曲が流れて来た。ひょっとして天満敦子の弾く「望郷のバラード」?店に入って確認するとその通りだった。この曲は19世紀末にルーマニアの音楽家チプリアン・ポルムベスクがオーストリア・ハンガリー二重帝国からの独立運動に参加し、政治犯として捕らえられた獄中で作曲したもの。ルーマニア国内では有名だったのだそうだが、国外ではあまり知られていなかった。それが20世紀末、チャウシェスク政権の圧政を逃れて西側に亡命した音楽家の持っていた楽譜がヴァイオリニスト天満敦子の手に渡り、日本でも有名になったのであった。すすり泣くようなヴァイオリンの響きは深く日本人の心を捉えて離さないものがある。特に女性に人気のある曲である。それを知ってか、CD屋のオバサンは日本人が来るとこの曲をかけるのだろう。ここはチーズ屋さん。1788年の年号が書かれている家だ。直径20センチ、厚さ4センチぐらいの、表面を燻製にした香りの良いチーズを売っている。「5months guarantee!」と大きな声を出して客に呼びかけていた(試食可能)。1個千円程度だったと思う。このチーズは水分が多いので、小形になるがパラフィンで表面を固めた球状のチーズの方が日本に持って帰るには良いと思う。このほかドラキュラの顔を描いたTシャツやら、「ドラキュラの血」という赤ワインがこの市場での人気商品であった。買い物をゆっくり楽しんだ後、次の目的地ブラショフに向かう。
2010.07.14
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2010年4月10日、シギショアラの観光を終え3時半にビエルタンに向かった。世界遺産の「要塞教会」を見学するのが目的。ビエルタンまでほぼ南へ27Km、30分ほどのバスドライブである。途中、馬力に何台か出会う。これは一家全員を乗せた馬力。ルーマニアの田舎ではまだまだこのような馬力が多く活躍しているようだ。また村をいくつか通過した。これらの村々にはドイツ系の移民が多く住んでいたのだが、第2次世界大戦で枢軸国側に付いていたルーマニアはドイツが負けたためにともに敗戦国となってしまった。その結果、ほとんどのドイツ移民が帰国してしまい、その後にジプシーがどっと入ってきて家屋を乗っ取りそのまま居座っているとの現地ガイドの話であった。やがてバスは世界遺産に登録されているビエルタンの要塞教会に到着した。3重の塀に囲まれた教会というか要塞で、オスマントルコの襲撃に備えて分厚い防壁に守られている。小高いところにさらに高い見張りの塔を設けられている。塀の中へ入る。中庭から見る村は今は平和そのものである。教会の入口にはこの地方の殉教者なのだろうか、左手を挙げて祝福している姿の立像があった。台座には GEORG PAUL BINDER と記されている。教会内へ入る。質素なエコノスタシスであるが、その上のリブヴォールトの装飾が素晴らしい。これはゴチック様式と思われる。また説教台も豪華である。台座は浮き彫りのある大理石で、上には王冠のような感じのものが取り付けられている。パイプオルガンも立派だ。教会を出て、防壁を見てみる。鉄砲窓があり、いざという場合はここから応戦できるようになっている。その防壁の外側の道を歩いて、要塞を一周してみた。緑濃い道。村はプラムの白い花が満開であった。足元には雑草に混じって野生のデージーが咲いていた。要塞教会の外側の道を野良帰りだろうか、村の人が愛想良く手を振ってくれながら家路についていた。我々はシナイアのホテルまで約165Km、来た道を戻って行った。
2010.07.05
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丘の裾にバスは停まり、徒歩でその丘を越えていく。この山道の両側の土手は綺麗な自然のお花畑だ。シナイアで見たのと同じ黄色の花が沢山咲いていた。その中にスミレやハシリドコロ風の花、エンゴサク風の花々が混じっていた。丘を越えるとシギショアラの旧市街だった。ホテルやお店が列んでいる。行く手を見ると如何にも旧市街という雰囲気が漂っている。このシギショアラは1191年、時の施政者ハンガリーのクラウス王の命で、ザクセン人(ドイツ人)が入植したことに始まるのだそうだ。この先を右に曲がると町のシンボルである時計塔が出てきた。その時計塔のすぐ手前の右側に昼食場所のレストラン カサ・ヴラド・ドラクルがあった。ここは吸血鬼のモデルとなった串刺し公ヴラド・ツェペッシュの父親ヴラド・ドラクル公が1431~1435年の4年間ハンガリー王によって幽閉されていた家で、串刺し公ヴラド・ツェペッシュの生家でもあるところ。さて期待したドラキュラ定食なるものはどうなのか?出てきたものはキャベツと牛肉の細切れを血色っぽい茶色のソースで煮たもの。それに生クリームがかけてあった。もっと串刺しの肉とかも付いているかと思ったのに!味はまぁまぁだ。まっ、それ程美味しいものではない!(まぁ、名物に旨いものなしのルーマニア版か!)家の中を見物する。壁は漆喰で修復されているが、何カ所かに古いフレスコ画が部分的に遺されていた。そして額に入った真鍮の叩き出しの人物像。周りにある打ち出された文字から察するにヴラド・ドラクル公のようである。15~16世紀はシギショアラの繁栄の絶頂期で、その頃は15のギルド(職業組合)を持つ城塞都市だったそうである。きっとこの人物像も、その頃の職人によって作られたのであろう。このレストランの入り口には、大きな龍の鋳物の標識が掛けられていた。ヴラド・ドラクル公は神聖ローマ帝国から竜騎士団の騎士に叙任されたため、このような龍の印を付けたのであろうか。まぁこの鋳物はいつの時代のものか分からないが。その数軒隣のFastFoodの店も龍の看板が出ていた。昼食後、目の前の時計塔に登ることにした。中の螺旋階段を登っていく。この時計塔は14世紀に建てられた町のシンボル。ドイツ語ではシュトゥントゥルム(Stundturm)と言っているとのことなので、まさにそのもずばり時計塔である。毎夜0時になると人形が動き出すからくり時計なのだそうだ。時計塔の上から町を見下ろす。綺麗な町である。そして Tokio の標識もあった。東京まで8890Kmだ。いよいよ明後日はその東京へ向かうことになる。時計塔を辞して、山上教会へ向かう。途中、坂道で民族衣装を着た奇妙な一団に出会う。鉄砲を担いで、太鼓を叩いて歌を歌いながらそぞろ歩きをしている。我々が日本人と知ると「さくら、さくら」を歌い出した。そして一緒に歌えと誘ってくる。この歌が唯一の日本の歌と思われても癪なので、そのあと「荒城の月」を皆で合唱をしたのだが分かってくれたのかな?ガイドの話では、この一団は近くの音楽学校の先生方で、授業の合間に外国の観光客に出会うとその国の歌を披露するというボランティア活動をしているのだそうだ。山上教会へはこの木製の階段「SCARA」を登っていく。山の上にはドイツ語学校もあるので、ドイツ系の移民の子供達が雨の日でも楽に通学できるようにとの配慮で造られたようである。そのドイツ語学校。そして山上教会。これはプロテスタント教会である。バスに戻り、次の目的地ビエルタンに向かう。
2010.07.04
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シナイアを9時半に出発しシギショアラへ向かう。シギショアラは吸血鬼ドラキュラのモデルとなった串刺し公ことヴラド・ツェペッシュが生まれた場所。彼の生家は現在カサ・ヴラド・ドラクルという名のレストランになっているそうだ。今日は昼食にそこのドラキュラ定食なるものを食べることになっている。果たしてどのようなものが出てくるのであろうか?シギショアラはシナイアから北へ約165Km行ったトランシルヴァニア地方の中心に位置する町である。約3時間のドライブ。途中の様子を写真で紹介しよう。シナイアから約10分ほどでトランシルヴァニア・アルプスの岩峰が見えてきた。約1時間ほどでアルプスの峠を越え、町の中のガソリンスタンドで給油とトイレ休憩。その前の芝生に変わった毛色のワンちゃんがいた。ガソリンスタンドの向かいにはマクドナルドの綺麗なお店があった。外見からも活気が伝わってくる感じである。ドライブスルーも利用できるようだ。バスはスピードを上げて走っていく。畑の中の道を2頭の馬に引かせた大きな馬力車が通っているのが見える。懐かしい。太平洋戦争前や戦争中の日本の風景を思い出す。そのころ日本でも馬力が物資運搬の担い手として田舎はもちろんのこと街なかでも活躍していたのだ。バスは丘を越え、野を越えて進んでいく。葉の落ちた木が立ち並び何か郷愁を誘うような風景が出てきた。このような農家の集落もいくつか通り越してきた。村はずれの小さな教会も見える。そしてこれはローマ時代の砦の遺跡か?またまた集落の中に教会が見えてきた。自動車道を馬力車が走っているのに出くわす。懐かしい風景だ。同じような風景は何年か前に行ったエジプトでも見られた。その時に違っていたのは、馬の代わりに小さなロバが荷を引き、裸足の子供がロバを操っていたことである。ルーマニアでは子供が働いているところをついぞ見たことはなかった。そうこうするうちに、シギショアラの町の中へと入ってきたようだ。なかなか立派な建物が立ち並んでいる。今度は町の中で、女性が細い木の束を背負って歩いていた。背負っている木の棒は何かの境にでも使うのだろうか。ルーマニアでも女性はよく働くようだ。シギショアラ到着はシナイアを出てから3時間後の12時半であった。
2010.07.02
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シナイア僧院から坂道を徒歩でぶらぶら下る。10分か15分ぐらい歩いただろうか、大きなお城のような館が出てきた。エコノマットという名前のレストランである。多分ホテルでもあるのではなかろうか。フランス流に言えばオーベルジュなのだろう。お城のゲートに入っていく。やはり一種の要塞のような感じである。広い庭園に付けられた道を行く。向こうにペレシュ城が見えてきた。スモモの花だろうか、ブルガリア以来よく見て来た白い花が咲いていてとても綺麗だ。このペレッシュ城はシナイア僧院の Great Church の方を建立したカロル1世が1875年(明治8年)に建てた夏の離宮である。カロル1世(1839~1914)はドイツから招かれて初代ルーマニア国王となったドイツ人貴族。その国王が8年の歳月をかけて建てたルネサンス、バロック、ロココの各様式を採り入れたドイツ・ルネサンス様式のこのペレシュ城、ルーマニアで最も壮麗な城と称えられるほど美しいと「地球の歩き方 ブルガリア ルーマニア」に書かれている。ところが今回のツアーではこのように離れたところから木の間越しに眺めるだけ、やはり安いツアーでは入場費用が節約され、限界がある。しばらくお城を眺め、記念撮影を楽しんで引き上げる。先程のレストラン・エコノマットのカフェを横目でにらみながらバスへと戻って行った。これから次の観光地トランシルヴァニア地方のシギショアラへとトランシルヴァニア・アルプスを越えて北上していく。
2010.06.30
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2010年4月10日(土)宿泊したホテル・パラスからシナイア僧院へ行く。バスで坂を数分登ったところにある。まだ9時前なので開門しているかどうかガイドが心配していたが全くの杞憂だった。門をくぐるとすぐ眼に付いたのが庭に立てられた変わった標識だ。これは何を表すのだろう。入って左側の、白壁の建物に囲まれた古い僧院の方へ行く。入口をくぐり中庭に出る。なかなか静謐な雰囲気である。その中央にあるのが Old Church。1695年ルーマニアの貴族ミハイ・カンタクチーノによって建てられた。ミハイ・カンタクチーノはシナイ山へ巡礼に詣で、帰国後地形が似ているこの地に修道院を建設し、シナイ山の名前をとってシナイア修道院と命名した。これが現在の地名シナイアの由来になっている。現在この教会の中には入れない。この扉は修復されてはいるが当時のままの貴重なものとのこと。彫刻の模様が素晴らしい。そしてこの扉の両脇の壁・天井にはびっしりとフレスコ画が描かれている。ちょうど修復が終わったところでくっきりと絵が浮き出ている。そしてこの Old Church を取り巻くようにしている僧坊には、これまた素晴らしい装飾窓が列んでいる。接近して見ると見事な唐草模様の浮き彫りで縁取られているのが分かる。門をくぐって真正面にある Great Charch 側に出る。このGreat Charchは19世紀にドイツから皇帝として迎えられたカロル1世が建立したものと「地球の旅 ブルガリア・ルーマニア編」に出ている。入口のポーチの上の両側には4色の石によって囲まれた聖人が描かれている美しい教会である。ポーチを支える柱や台の彫刻も素晴らしいし、ドアーやその周辺の浮き彫りもまた見応えがある。ドアーの上、タンパンのモザイク画も然り。教会内部に入る。例のよってとても薄暗い。朗々たるミサの典礼文の詠唱が堂内に響き渡っていた。東方正教会の朝のミサの最中だったのだ。重厚な男声のハーモニー。 素晴らしい声。ときおり詠唱の人たちが代わるがわる十字を切っていた。正教会の神聖な雰囲気に十分浸り、そこを後にする。振り返って改めてみた Great Charch、8角形の塔を持つ正教会の典型的な寺院である。入り口の右手にある鐘楼は塀の一部に組み込まれた構造となっている。この鐘楼は1892年に建造され、内部には1.7トンの吊り鐘があるとのこと。ぼつぼつ別の観光客も訪れ始めたようだ。この僧院のそばにもお城のような館があり、その向こうにはまだまだ多くの雪を頂いた山々が連なっていた。この山はブチェジ山といい、ロープウエイの支柱が列んでいるのが見える。徒歩ですぐ下にあるペレシュ城へ向かう。
2010.06.29
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2010年4月10日(土)昨深夜、突然の爆雷の音で眼が覚め、飛び起きる。何だろうと思ってカーテンを開けると磨りガラスに赤や青の光が降り注いでいる。どうも花火のようだ。音と光はしばらく続いていた。朝食時ガイドの話では、退役軍人会の集まりが昨日あり、その方々の労苦を偲んで広いホテルの庭で花火が打ち上げられたとのこと。軍人さんだったからあの程度の音・光は「屁のカッパ」だったのだ。どうりで昨夜は生バンドがレストランに用意されていたわけだ。カラオケならぬ生演奏での"のど自慢"はさぞかし気持ち良かったことだろう。実は我々のツアーにお誕生日の方がいて、夕食時「Happy birthday to you」を皆で大きな声で合唱したのだったが。このホテルはシナイアでも最高級の5つ星ホテル「ホテル パラス」。スキーシーズンにはスキーを履いたまま前の道路を滑り降りて来て、ひょっと玄関に入れるようなそんな感じがするリゾートホテルだ。今はシーズンオフなので、我々のような安いツアーでも泊まれるのだろう。名前の通り宮殿のような感じで、レストランもとても広く豪華だった。「地球の歩き方 ブルガリア ルーマニア」のホテル案内にもトップに出てきている。今回はこのホテルに2連泊する。朝食前にホテルの周辺を散歩してみた。ホテルの真ん前には瀟洒なパブ・レストラン。そしてそのそばにはお城のような家。またちょっと離れたところにもお城のような家。どうもこれらは近くにあるペレシュ城を真似て、ブカレストの王族・貴族が建てた館(別荘)で現在はホテルとして使われているようだ。ルーマニアの作曲家として世界的に有名なジョルジュ・エネスコも夏はここシナイアの別荘に滞在していたとのことである。昨夜花火のあった庭に出る。緑豊かな広い庭である。うずら位の大きさの黒い鳥が餌を啄んでいた。この庭を横切り、急な階段を下るとシナイア駅がある。駅舎に入ってみた。もうすぐ列車が来るようで数人の人がホームにいた。ワンちゃんもちょこんと温和しく座って待っていた。降りてきた階段を登り直し、ホテルへ。この階段の上部のじめじめ湿ったところに蕗の薹と共に高山植物のような綺麗な花が咲いていた。黄色はミヤマキンポウゲに似ているのでは?白色はハクサンイチゲかなぁ? それともフウロ?ここは大体高度800mぐらいの山地であるので、高山植物があってもおかしくないかも?この花の撮影に時間を取られ、急いでホテルへ向かう。ホテルの隣の公園から見たホテルの建物はなかなか立派であった。朝食後、少し登ったところにあるシナイア僧院へ行く。
2010.06.21
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2010年4月9日(金)ブカレストの主立った観光場所を廻ったが、その時に主にバスの中からブカレストの庶民の方々を写してみたのでそれを紹介する。ブカレストに着いたのはほぼ正午。統一広場の脇でバスを降りた。道路を足早に歩く人、携帯でしゃべりながら歩く人、上着を脱いでリラックスした人など結構サラリーマン風の男女が歩いていた。これから昼食に行くのだろうか。町の中心だけあって人通りは多い。革命広場ではなにかデモが行われていた。参加者の人数はそう多くはないのだが、警備の警官が数人出ていた。ルーマニアは経済が低調で景気が良くなく、チャウシェスク時代の方が良かったという風潮も出て来ているとか。ヴィクトリア通りの繁華街でウインドウ・ショッピングを楽しむ素敵な服と帽子のオバサン。バスで若者に人気のあるオデオン座の前を通ると、通行人にパンを売るおじさんが歩いていた。これと同じ光景をイスタンブールでも見た。その時は買ってみたのだが、丸い輪っぱをしたパンで塩気の利いたパン。美味しかったが、こちらのはどうだろう。「国民の館」から統一大通りをバスが通っていたとき、道端でジプシーの女性が花束を売っていた。車が停車すると近寄って来て、"買ってくれ" という光景はルーマニアならずとも他の国々でも眼にしてきた。同じく統一大通り。横断歩道が交差する中央分離帯。人が通るので商売がしやすいのだろう。露店が数店出ていた。横断歩道の手前でヘッドフォンを付けた色彩豊かなダンダラ模様の服の、年齢不詳の女の人もいて様々。ショッピングセンターの前、数人の若い女性が集まって何やら品評会をしているのだろうか。一部の人の視線が道路の方に向けられているようだ。そばに置かれたペットボトル、数々の落書き、どこの国でも見られる光景だ。大主教教会へ行ったときの復活祭の聖水はすでに昨日のブログで紹介した。復活祭から数日も経過しているのだが、それでもまだお水はあったと満足そうな顔をして帰る女性。ブカレストの凱旋門へ行く途中の道路際、数組もの女性が歩道の整備・清掃をしていた。歩道の端をブラシで一生懸命こすって泥を取っているようだった。体の大きなお嬢さん方が機敏に作業している姿はなかなか頼もしい。時にはこのように休んで打合せ?をしているグループもいた。ズボンに巻かれた夜行塗料?のテープも面白いな。そしてその歩道を、乳母車を押しながら歩いて行くおばあちゃんとお嫁さん?微笑ましい平和な光景だった。
2010.06.20
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丘を登り切ったところにある大主教教会。そこには大きなポリタンクが沢山列んでいた。これは復活祭の聖水。人々がタンクの蛇口からそれぞれ持参したペットボトルに入れていた。復活祭はクリスマスと共にキリスト教の重要祭日である。一般的には英語でイースターと呼ばれているが、正教会ではパスハと呼び今年は4月4日だった。大主教教会は3つのドームを持ったギリシャ正教の教会で、ファサード上部にはキリストと12使徒のモザイク画が並んでいる。この教会は1650年代にワラキア公の館(やかた)内に建てられたもので、20世紀になってから大主教教会として認められたものなのだそうだ。教会入り口には壮大なフレスコ画が描かれている。入口の真上の天井には祝福を与えるパントクラトールのキリスト像。その他の天井や壁面はフレスコ画で埋め尽くされている。教会内部に入るが、ここは薄暗くまた写真撮影は禁止されていた。荘厳なイコノスタシスが置かれていたが、残念ながらそのほかはあまり記憶に残っていない。ここを出ると左側には宮殿のような建物。かって国会議事堂として使われていたようだ。教会の真ん前には瀟洒な建物がある。
2010.06.19
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2010年4月9日(金)ブルガリアのヴェリコ・タルノヴォから国境のドナウ川を越え、ルーマニアの首都ブカレストに到着。統一広場のショッピングセンターでトイレ休憩と銀行での両替を済ませ、市内観光に出掛ける。まずは革命広場。バスの中からまず広場の写真を1枚。中央に立つ塔は革命犠牲者の慰霊塔なのだろう。1989年12月、民主革命の銃撃戦となったところである。この塔の下の部分には肩を組んだ人たちの団結と思われるオブジェが置かれている。今日は何かのデモが行われているようで警備も出ているし、駐車場は参加者の車で満車以上の状態であった。旧共産党本部。中央の低いところに見えるテラスが大群衆に向かって故チャウシェスク大統領が最後の演説をしたところである。その直後、彼は夫人と共に屋上からヘリコプターで逃亡を図るも、大統領に国防大臣を処刑されたことを知って民衆側にたった国軍により逮捕され、特別軍事法廷で死刑の宣告を受け銃殺刑に処せられたのは我々もよく知る通りである。こちらはブカレスト大学図書館。その隣には古い建物の一部を使ってその内側に新しいビルを建設した建物。古い建物の一部でも遺そうという意志が読み取れる。こちらは旧共産党本部の前、革命広場と道路を挟んだところにあるクレックス教会。18世紀に建立された典型的なルーマニア正教の教会とのこと。これらの建物が革命広場を取り囲むように建っている。また、革命広場のすぐ近くには、ギリシャ風のファサードを持つ豪華な外観のアテネ音楽堂がある。音楽堂の前にある花一杯の公園のベンチには憩いを楽しむ市民の姿も見られた。これからレストランへ遅い昼食に向かう。昼食後、バスで悪名高き「国民の館」へ向かう。途中、若い人に人気があるという劇場、オデオン座の前を通る。首から提げたざるにパンを一杯入れて売り歩く男の人の姿が見えた。また、洒落た服と帽子をかぶった大柄な女性がウインドウショッピングをしながら歩いていたが、バスが追い越すとき振り返って見ると随分なおばあちゃんだったのでがっかり!バスから眺めているといろいろな人がいて面白い。古いビルに龍の家紋のようなものが付いていた。アメリカのかってのベストセラー「ヒストリアン」の龍が頭に残っていて、ついついこのようなものが気になってしまう。やがて「国民の館」に到着。このツアーでは中の見学は省略。ただ道路を隔てた広場から眺めるだけ。おのぼりさんも結構いるようである。ここは観光客が多い。パリのシャンゼリゼの向こうを張って造らせたというのが、ここから始まる「統一大通り」で「統一広場」まで続く。この道路を造るために、この付近に集積していたブカレストで最も古い旧市街の史跡、建物の多くが破壊されてしまったとのこと。だからブカレストには見るべき史跡が少ないのだ。同じようなことは以前行ったロシアでも共産党政府時代に行われた。さてこのシャンゼリゼならぬ「統一大通り」をバスで行く。道路には様々な噴水がいくつも造られている。ジプシーの女性が手に持った花を売りに車に近づいてくる。道路の両側には豪華なアパート(日本でいうマンション)が建ち並んでいる。街路灯も洒落たデザインだ。おっと! 巨大なチェロを模ったオブジェも出てきた。「統一広場」の手前でバスを降り、丘の上に見える大主教教会の見学に緩やかな坂道を登って行った。
2010.06.18
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2010年4月9日(金)ブルガリアのヴェリコ・タルノヴォを後にし、ルーマニアの首都ブカレストへ向かう。ブルガリア側の国境の町ルセを通過し国境へ向かう。このルセは人口約20万人のブルガリア第4の都市。ドナウ平原の行政・商工業の中心地とのこと。国境手前には共産党時代のアパートが並んでいた。もう外側は錆だろうか赤茶色に変色している。バスからは大きな工場や火力発電所、ドナウ川の川岸には船の貨物の積み卸しデリッキが列んでいるのが見える。入出国管理事務所に運転手が全員のパスポートをまとめて持参して検印を受けて帰ってきた。同じEU国なのだが国境通過は厳しい。やがてドナウ川の橋に掛かる。流れ着く黒海までまだ200Kmもあるというのに相当な川幅だ。右にガスで霞んで見えているのがルーマニア側である。やがて橋の中央に掛かるROMANIAの標識を通過。前席の人の肩越しにやっとルーマニアと判読できる写真が撮れた。時に10時2分。ヴェリコ・タルノヴォを出てから約1時間半掛かった。今度は入国審査。これも運転手がやって来てくれた。でも嬉しいことにパスポートに先程のブルガリア出国とルーマニア入国の判が追加された。ただ薄い印影だなぁ。手間を惜しまずにインクをしっかり付けて押してくれよ!ルーマニア側はギュルギュウという町だろうか。左側に壁画が描かれた建物があった。印刷業の会社かな?ブルガリアで見たのとはまた違ったデザインや色合いで面白い。手前にいる女性が歩きながら携帯で話しているのも現代的な風景である。町を抜けると辺りは田園風景となる。ブルガリアと同じように白い花をつけた木が散在しているが、地形はだいぶ変わっているように思う。何かドイツ風な感じがするところだ。また町に近づいたようだ。道端のお店。垢抜けた商品が並んでいるように思う。ここは墓地のようだ。新しい教会だと思うが、建物がやはりブルガリアとだいぶ違っている。同じ正教(Orthodox)ながらこちらはルーマニア正教。ブルガリア正教との違いが建物の上にも出ているようだ。そろそろ首都ブカレストに近づいて来た頃、ガイドが上手な日本語で指摘したのがこの建物。これはルーマニアにいるジプシーの総元締めの邸宅なのだそうだ。ちょっと変わったエキゾチックな建物。お城を模(かたど)ったのであろうか。正面から見るとこのようになる。だいぶ街中へ入ってきた。目立つのは花屋が多いことだ。花輪の形が面白いしカラフルで良い。これは造花あるいは本物なのだろうか?そしてまたその前を歩いている若者の姿も面白い。一人はサンダル、もう一人はゴム長。日本的に見ると建設作業員風なのだが?街角の小さな花屋さん。店の名前も普通のアルファベット文字なので良く分かる。バスはだいぶブカレストの中心へと進んできたようだ。ここでもトラムが自動車と共存している。かっての日本の大都市で見た光景だ。ベンツのスマートが駐車していた。ユニークな絵が描かれていて面白い。待ってケロか?また素晴らしい建物が出てきた。お城風の由緒ありそうな建物。美術館なのだろうか。やがてバスはブカレストの街中で停車。ここまで国境から2時間かかった。広い広場だ。広い通りが十文字に交差している。そばにはキオスクがある。また、花屋も出ている。多分ここは統一広場だと思う。どうもブカレストは広くて印象が薄いので場所を上手く思い出せない。すぐそばにあるショッピングセンターに入りトイレタイムと隣接した銀行でユーロをルーマニアの通貨RONに両替。再びバスに乗ってブカレストの観光に向かった。
2010.06.09
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ヴェリコ・タルノヴォの旧市街や新市街を歩いていて眼に強く留まったものがある。それは家屋やビルの壁面に描かれたり、取り付けられたりしている絵や彫刻であった。これらは私に少なからぬ驚きを与えた。まずは例の手作り品の店が列ぶサモヴォドスカタ・チャルシャに登る階段の脇にあった大きな壁画。これは家の1つの壁面をすべて埋め尽くしていた。上部にはブルガリアを現すライオン、下には交差した銃と剣と見開きの本、これは条約書かな? 右側には断固とした顔をした人々、それと対照的に左側には、右側の人を詰問するような顔つきの人々。これはここで何かあった事件を現しているのだろう。気になるのは、ライオンの下に書かれた文字と1835という数字。1835年にはここタルノヴォの近郊でヴェルチョ事件というのが起こっている。これは施政者トルコに対して禁制の正教の教会を馬小屋と偽って検閲をごまかそうとした事件のようで、軍事衝突ではないようなのだ。首謀者は死刑になっている。この絵と対照的なのは、この絵の対面にあるヤントラ・ホテルの隣の壁画。この絵の右下には教会の模型を持った聖職者と思われる人がいる。きっと教会を造るために働いているいろいろな職人の仕事を描いたものなのだろう。街の職人の技術の高さをアピールするための絵なのかも知れない。「ブルガリアの母」広場の真横、ステファン・スタンボロフ通りを挟んだところにある市庁舎。これはニンフであろうか。現代彫刻のようだ。それと私たちが泊まったヴェリコ・タルノヴォ・ホテルから登ってきて、ちょうど「ブルガリアの母」広場から下ってきている道(多分これは駅へ行く道)とが交差しているところにあったビル。ここはショッピング・センターかもしれない。このビルとそのそばにある高層ビルの屋上にも彫刻が取り付けられていた。新市街地には、現代彫刻が多いようだ。街の各所の建物にまでこのような歴史を感じさせる絵や現代的な彫刻を置くということは市民全体の歴史や芸術に対する理解が深いものがあるからなのだろう。ユーロの中では経済的に貧しいと言われている国ではあるが、精神的にはとても豊かな国であるようだ。それは町の人がとても親切であることからも察せられる。
2010.06.05
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2010年4月8日夕方、カザンラクから北へ約100Kmのところにある古都ヴェリコ・タルノヴォに着いた。この町はかってタルノヴォと呼ばれ、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)に反旗を翻したイヴァン・アッセン1世によって独立し、1187~1393年まで200年間第二次ブルガリア帝国の首都だったところ。その後500年続いたトルコの支配から露土戦争の勝利によって解放され、1879年に新生ブルガリア王国の最初の国会が開かれたのもこの町であった。この国会でタルノヴォ憲法として知られるブルガリア初の憲法が議決され、首都はソフィアに移されることになった。その後1965年に、タルノヴォは豊かな歴史と重要性を記念して、公式にヴェリコ・タルノヴォと改称された。ちなみにヴェリコとは「大」という意味なのだそうである。日本相撲界の人気力士大関琴欧州関はここヴェリコ・タルノヴォの出身である。さて我々は一旦ホテルに入り、改めてバスで旧市街へ向かった。ニコラ・ピコロ通りの駐車スペースにバスが止まる。そこから歩いて「ツァレヴェッツの丘」の手前まで行く。頂上に見える教会は大主教区教会。この丘は第二次ブルガリア帝国時代には全体が宮殿だったが、オスマントルコの猛攻によって破壊つくされてしまったそうである。ここから来た道を戻り、旧市街繁華街のサモヴォドスカタ・チャルシャに向かう。チャルシャとは市場の意味。ビザンチン様式の聖処女降誕聖堂が民家の屋根越しに見えた。ちょっと歩いて細い階段を登る。この上がサモヴォドスカタ・チャルシャになる。右側の建物の壁画が凄い。プロヴディフで見たような上層階が1階よりはみ出す民族復興期様式の民家がここでも見られた。いろいろな店が道の両側に列んでいる。ほとんどが職人のお店。ここは自然素材を活かした製品の製作・販売のようである。マラカスのようなものがスタンドに並べてある。ここは手作りのアクセサリー屋さん。看板がなかなか綺麗だし、それに合った美人のおねえさんの横顔が見えていた。こちらはちょっとラテンぽい感じのグラマラスなお姉さん(オバサン?)の焼き物屋さん。ここに列んでいる商品はすべて彼女ががデザインし、作ったものなのだそうだ。しばらく歩くと左側にオープン・カフェがあり、誰かの銅像が立っていてそこから先はお店は片側だけになり、左側の一段下がったところにステファン・スタンボロフ通りが出てくる。この辺りから引き返す。往きに登った階段降りるとバスの待っているヤントラ・ホテル前に戻る。往きには気がつかなかったが、オベリスクがある。若いお嬢さん方が歩いて行ったがジーパン姿でバッグはお尻の上でぶらぶら、日本とあまり変わらない姿だった。ホテルに戻り、部屋のベランダから外を眺める。旧市街地を背景にヤントラ側の向こう岸にハッセン王の戦勝記念碑が見えていた。大きな碑だ。人間がとても小さく見える。眼を右に向けるとヤントラ川に架かる大きな橋、そしてその向こうには明るい色のヴェリコ・タルノヴォ美術館があった。まだ夕食の時間まで1時間程度あるので、バスからちらっと見たブルガリアの母広場へ歩いて行くことにした。ホテルはヤントラ川のそばなので、徒歩で行くと上り坂が結構きつい。ヴェリコ・タルノヴォはアメリカ西海岸のサン・フランシスコ程ではないにしても坂の街だったのだ。15分ほど歩いただろうかやっと「ブルガリアの母広場」に到着。モニュメントはトルコとの戦いでの戦死者を祀る記念碑のようだ。ここは街の中心地で旧市街と新市街の境目になるところ。横には市役所があり、旧市街を貫通しているステファン・スタンボロフ通りが通っている。旧市街の方向に行ってみる。大きなホテルがあった。後で知ったことなのだがこのホテルには琴欧州関の写真や資料がロビーに展示されているとのことだった。ホテルとステファン・スタンボロフ通りとの間の法面は綺麗に手入れされており、草花や八重桜が咲いていた。この辺りから先程の「ブルガリアの母広場」をみる。モニュメントが中央に見える。また旧市街の方を見たのが下の写真。アーチをこぐって行けばサモヴォドスカタ・チャルシャ(市場)になるのだろう。夕陽も随分傾いてきた。この辺でホテルに戻ることにした。途中可愛い子犬に出会ったので写真を撮らして貰った。猫は街の中で昼寝をしていた黒。途中、道を1本間違えて映画館の横に出てしまった。要塞のような建物の映画館だ。相変わらず落書きが凄い。ちょっと坂を登り直してから無事ホテルへ帰着した。このヴェリコ・タルノヴォには、外壁に立派な壁画を付けている建物が幾つかあったので、次回はそれを簡単に紹介したい。明日はブルガリアともいよいよお別れ。国境のドナウ川を越えてルーマニアに入る。
2010.06.04
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プロヴディフを9時50分に出発。田園地帯には牛や馬の放牧、そしてこのように羊飼いが多くの羊を連れて草を食ませている光景をよく眼にする。1時間ぐらい走ったであろうかバルカン山脈の雪山が現れてきた。そろそろカザンラクの一角へ入ってきたようだ。広いバラ畑の中を道がずっと延び、バスがそこをひた走る。プロヴディフから2時間ほどでカザンラクへ到着。バスはこのイスクラ歴史博物館・アートギャラリーの前を通って、トラキア人の墓の駐車場へ。ここから広い階段を登って丘の上へ。綺麗な住宅のそばにトラキア人の墓の標識がある。ここから少し歩くと公園のようなところに出る。エニシダの黄色の花がとても映えている。近くにトラキア人の墓の保存小屋があり、THRACIAN TOMB ORIGINAL の標識が立っていた。この小屋の中には入れず、さらに進むと今度はカラー写真の付いた標識があり、そこには THE TRACIAN TOMB AT KAZANLAK COPY とある。このあたりは沢山の野草が花を咲かせ、お昼の陽も燦々と降り注いでいるので昆虫もいるようだ。この標識のすぐそばの階段を下りるとトラキア人の墓のレプリカが現れる。中にはいるとすぐ管理カウンターがあり、入場券のほか絵はがきなどのお土産も販売している。内部の写真撮影は有料。カウンターの右にお墓の入口があるが、中は人が一人ずつでないと歩けないぐらい狭いし暗い。天井や側壁にはくすんだ朱を主体の色彩でお墓の内部を再現してあるが、残念なことに天井の絵は水が侵入し絵が流れていた。お金を払ってまで写真を撮る程のことはないなという印象だった。なので絵はがきを買う人が多かった。お墓を出たところのタンポポにハナムグリが来ていた。そばで咲いている5弁のピンクの花も可愛い。黄色のキク科と思われる花も愛らしい。思わずカメラを向ける。先程登ってきた階段の上には男性の胸像と石碑があり、その石碑にはブルガリア語の名前の上に音符が刻んであったので多分音楽家のものなのだろう。インターネットでいろいろ調べてみたのだが、誰なのか分からなかった。階段の下にはいつの間にか蜜蝋細工のスタンドが出ていた。きっと日本人の観光客が大勢来たという情報が入って駆けつけたのかもしれない。しかし我らの仲間の女性軍は、ここは素通りしてさらに下にある数軒のおみやげ屋さんに群がっていた。ここでは表面に赤いバラの花と民族衣装の女性をプリントした可愛い木製の香水入れが人気だった。キャップを開けると細い硝子瓶にバラの香水が入っている。安いし、小さいし、軽いのでお土産に10個も20個も買う人が多かった。バスでレストランに向かう。ちょっとメキシコ風の入口だ。中は民族博物館のようだった。この辺りにいる動物、武器、楽器、ラジオ、カメラ、お皿、厨房の道具、民族衣装など所狭しと棚に壁にさらに天井にまで取り付けてのディスプレイ。この付近一帯は香料用のバラの産地として有名なところだが、まだバラの花の時期ではないので花は全然見当たらない。シーズンには原一面が花で埋まる見事な光景が出現するのだろう。約1時間後に次の観光地でもあり宿泊地でもあるヴェリコ・タルノヴォに向けて出発。街道を10分ほど走ったところで、山の裾にタマネギ型の金色の屋根の尖塔が見えてきた。ここはシプカ僧院。1877~78年にかけて露土戦争の激戦があったシプカ峠で戦死したロシア兵を悼んで建てられた教会である。ここからバスはぐんぐん高度を上げ、シプカ峠へと向かう。シプカ峠の頂上には高さ約32mの巨大な「自由の碑」が聳え立っているのだが、それは上の写真の矢印の脇の階段を登って行かなければならない。約1時間は掛かるのではなかろうかとのこと。ここではカザンラクから見えた頂上の「自由の碑」を紹介しておこう。このシプカ峠でのロシア・ブルガリア連合軍の勝利によりブルガリアは500年続いたオスマントルコの圧政から解放されたのである。今度は下り一方。途中カブロヴォの街を通過。ヤントラ川沿いにあるこの町は、中世以来布地をはじめとした手工業が盛んで今でも布地は国内第2位の生産量かつ革製品はブルガリア国内生産の半分をまかなっているとのこと。また、ユーモアの町としても知られていて、3階建ての「ユーモアと風刺の家」がある。写真は川向こうの道路際にあったその展示場の外壁。ピカソのパロディか。夕方4時頃いよいよヴェリコ・タルノヴォに入ってきた。
2010.06.01
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丘の上の「ネベット・テペの遺跡」より登って来た道を戻る。民族博物館の前あたりで小学校へ送って行くのだろうか、父親と手を繋いで坂を下っていく子供達の姿があった。向こうに見える塔は聖コンスタンティン・エレナ教会の鐘楼。プロヴディフの代表的なランドマークの一つである。聖コンスタンティン・エレナ教会へ来た。通勤と覚しき女性達とすれ違う。この教会は1832年に古代キリスト教会の跡地に建設されたもので、国の文化記念物に指定されている。中へはいると入口の壁全面に聖・俗のいろいろなフレスコ画が描かれていた。教会内には入らず、今来た道を行く。左側に綺麗な館が見えてきた。ここはレストランのようだ。しかし、その真向かいには壁の上塗りが落ちた家がある。このアンバランスが面白い。そして「ラマルティーヌの家」へ来た。「アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869)はフランスの詩人、著作家、政治家。ロマン派の代表的詩人で、フランスにおける近代抒情詩の祖といわれ、ヴェルレーヌや象徴派にも大きな影響を与えている。また2月革命前後に政治家としても活躍した。詩作のほか小説や「東方紀行」も書いた。」とWikipediaにある。私がラマルティーヌを知ったのは、日本の歌曲「お菓子と娘」からである。音楽をやられている方は十分ご存じの曲だと思う。この歌曲は西条八十の詩に橋本国彦が1929年に曲を付けた彼の代表作の一つで、パリジェンヌが街角のパティスリーで買ったエクレヤをムシャムシャ食べながらパリの街を歩いていくという内容の軽妙洒脱な曲である。その歌の最後に ♪人が見ようと 笑おうと 小唄まじりで かじり行く ラマルチーヌの 銅像の 肩で燕の 宙がえり♪とラマルティーヌが出てくる。ラマルティーヌについて私はほとんど関心が無く、パリに銅像があるのだからフランスの偉人なのだろうぐらいの認識しかなかった。この家の壁には2つの石碑板が取り付けられている。左側は白い大理石にフランス語で「1833年6月、詩人ラマルティーヌは彼の「東方紀行(VOYAGE EN ORIENT)」の途中、この家に滞在した。 1923年アリアンス・フランセーズ プロヴディフ これを取付」となっている。右側の黒っぽい石碑板にはブルガリア語とフランス語が併記されており、「フランス共和国大統領フランソワ・ミッテランが1989年1月18~19日にアルフォンス・ドゥ・ラマルティーヌの偉業を偲んでここを訪れた云々」とあり、続けてその下には「2009年1月、駐ブルガリア大使およびプロヴディフ市長はミッテラン大統領訪問20周年を記念してこの碑を置く」と書かれている。さて、ここを後にして丘の上に向かう。すると反対側の谷に向けて半円形の野外劇場が展開していた。ここは「ローマの円形劇場跡」で3000人は収容できるとのこと。保存状態もすこぶる良い。柱も人物の彫像も良く残っている。この丘の上には音楽アカデミーがあって、学生がすぐ前のこのローマ劇場で時々演奏を行っているらしく、運が良いとそれに遭遇することがあるという。実は私もこの旅行が終わった数日後に歌の発表会があるので、皆さんの前で歌ってリハーサルをしようかなと思っていたのだが、残念ながら扉は閉まっていて中にはいることは出来なかった。この劇場では毎年6月の最終週から約1週間ほどヴェルディ・フェスティバルが開かれ、彼のオペラが上演されるとか。この広い舞台一杯に展開するアイーダなどを見たら迫力があって良いだろうなと思ってしまう。来た道を戻る。往きには出ていなかった露店のおみやげ屋があった。このお店は絵のレプリカなどを売っているようだ。ただし、店番がどこかへ行っているのか見えない。この店の後に見るのはボヤジエフ美術館。ブルガリア現代美術界でもっとも評価されているズラトュ・ボヤジエフという画家の作品が展示されているとのこと。したがって、この露店の商品はその画家の作品に関するものかもしれない。この屋敷は1860年に建てられたDr.ストヤーン・コマコフ・ハウスである。19世紀の医者の屋敷であった。シンメトリーな外観構造でスッキリした館である。ここも国の文化記念物になっている。このように幾つかの歴史的な建物は博物館や美術館として活用されているようである。この露店の反対側にも、おみやげ屋さんが出ていた。まだお客も少なく、のんびりおしゃべりをしていた。バスの待っているところへ帰り着く。向こう側には大きなアパートが、そして眼の前にはマツダの車が通りかかった。左側のバスに乗り、110Km先のカザンラクに向けプロヴディフに別れを告げた。
2010.05.31
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2010年4月8日(木)、今日はプロヴディフの旧市街地観光後、バラの谷カザンラクを経て古都ヴェリコ・タルノヴォへとルーマニアに向かってブルガリア国内を縦断する旅程となっている。朝食前にホテルの周辺をちょっと散歩してみた。ホテルの裏側には中央分離帯に大きな樹木が植わった通りがあった。この中央分離帯の中にも歩道が作られている。歩道を自転車でオバサンが通って行った。駐停車禁止の道路標識があり、表示されている時間帯の違反車はレッカー移動するぞという標識も出ていて面白い。プロヴディフは人口約35万人のブルガリアではソフィアに次ぐ第2の大都市。紀元前19世紀にはすでにトラキア人の集落があったという歴史の古い街である。当時から交通の要衝にあって商業が栄え、紀元前4世紀にはマケドニアの主要都市の一つになっていたとのこと。その後ローマ帝国支配下においては地形からトリモンティウム(3つの丘)と名付けられて大発展し、議事堂や競技場が建設され今でもその遺跡が立派に残っている。第一次、第二次ブルガリア帝国を経て、14世紀になるとオスマントルコに19世紀の露土戦争で解放されるまで500年間支配されていた。これから訪れるプロヴディフ旧市街地はそのような歴史を偲ばせる多くの遺跡や建築物が随所に見られた。まずバスを降りてすぐ目の前に現れたのがまだ未整理のような遺跡。出土した石がそのまま置かれている感じである。ローマ遺跡というよりトラキア人の遺跡ではなかろうか?私が聞き逃したのかもしれないが現地のガイドからは特に説明はなかった。ここから徐々に上り坂になり、ローマ人が名付けたトリモンティウム(3つの丘)に登って行く。その旧市街に入ってすぐ右側には綺麗な塔が立っていた。聖ネデリャ教会である。さらに行くと左側に黄色の建物があり、その一角にお土産屋さんがあった。まだ9時前やっとお店を開けたという感じだ。このお店はミニ報告6で説明したローズウオーターを買ったところである。さらに坂道を登っていくと頑丈な城門にぶつかる。ここはヒサル・カピア(要塞門)と呼ばれるところ。似たような名前をどこかで聞いたことがあるなと思ったら、イスタンブールのポスポラス海峡に面したところにあるルメリ・ヒサル要塞やその対岸にあるアナドル・ヒサル要塞が頭に浮かんだ。このヒサル・カピアは紀元前4世紀に当時の支配者マケドニア王フィリップ2世によって建設されたものであるが、その後ローマ、オスマントルコと支配者が変わるたびに破壊と修復が繰り返されて現在に至っているとのこと。やはりトルコ語の名前なのだ。この門の右側には赤い立派な建物がある。これは1846~1848年に富豪のトルコ人が建てた屋敷で、その人の名前をとってデミテル・ゲオルギアディ・ハウスという。現在はブルガリヤ民族復興期の資料が展示されている歴史博物館であり、国の文化遺産として管理されている。この建物は2階以上が道路側にせり出している特徴のある建物で、この地区の歴史的な建物はこのような構造が多く、随所に同じような建物を見ることが出来た。そしてこの要塞門の左側の城壁には、この建物に向けてブルガリア語とフランス語が併記された洒落た飾り標識が取り付けられていた。門をくぐってさらに登ると道は左右に分かれる。この辺りに来ると旧市街の雰囲気がどんどん濃くなってくる。まずは右に進路をとる。するとすぐ右側、上の写真で掃除のおじさんが座っていたところが、現在、民族博物館となっている屋敷。ここは1847年にイスタンブール出身のハジ・ゲオルギという人が建てたもので、バロック様式と民族復興様式がミックスされた建築様式なのだそうだ。とても美術的な感じが溢れた素晴らしい建物である。行ったときはまだ門が閉まっていたが、そのうち一人の女性が門を開けて入って行ったので塀にある円い窓から建物を写した。ファサードには1847と建設年号が書かれているのが分かる。勿論ここも国の文化遺産となっている。ここを過ぎてさらに登っていくと途中まだ修復中の歴史的建物などがあり、やがて丘の上に出る。ここは三つの丘の一つのようで、「ネベット・テペの遺跡」と呼ばれるところ。紀元前のトラキア人やマケドニア時代の要塞遺跡である。ここから新市街の眺望が良い。中景の色彩的な横長の建物は列車の駅とのことである。遺跡の周りは狭いながらも色濃い原っぱで、いろいろな野の花が咲いていた。ここはまた、遠くの山並みに沈む夕日が綺麗でデート・スポットとして若い人たちに人気の場所でもあるそうだ。この旧市街はそう広い場所ではないが、見るところが多数凝縮しているので2回に分けて掲載することにした。(続く)
2010.05.30
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聖母誕生教会の柱廊はフレスコ画の壁画で覆われている。教会内部は撮影禁止となっているが、この柱廊の撮影は自由である。教会内に入るドアーの天井にはパントクラトールのキリストが描かれている。そして優しいまなざしのマリアとキリストの聖母子も描かれている。別のドアーの上は神ご自身だろうか。そして天国の扉が開けられようとしているのだろう。おどろおどろしい絵も出てくる。これは何の絵だろうか?さらに下はもう地獄の責め苦。(写真右端のSTOPの絵表示は教会内部での注意事項である)ここにある絵は多くの村人達も手伝って描いたそうである。天井や上部の絵は絵の専門家や絵の上手い修道僧たちが描いたのであろうが、下の方へ来るとだいぶ稚拙な筆になって来ているのでこの辺は素人が書いたと思われる。しかし、それにしても良くこれだけ描いたものである。やはり信仰心のなせる技であろうか。見学を終わり、今日の宿泊地プロヴディフに向かう。この道も変化に富んだ道だった。途中スキーリゾート地の大きなホテルでトイレ休憩。ここはブルガリアでも有名なスキー場なのだそうだ。ヨーロッパ各地からもスキーにくる人が多いとのこと。周りにはまだ雪があった。そしてロドピ山脈の雪道の峠を越え、またまた変化に富んだ風景を楽しみながらプロヴディフに入ってきた。夕方でバスの窓からは何か油絵のように感じた風景に出会った。今夜のホテルはなかなか斬新なデザインの建物。ここまでリラの僧院から約220Km、3時間強の行程だった。
2010.05.22
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バスはソフィアを後にし一路南下。途中の町ではやはりトラムがのんびりと街中を走っていた。単線で山手線のように循環線で一方向にのみ運行しているようだ。町を通り抜けると、田園地帯が続く。相変わらず道路脇に、そして山の中に、また田舎の家の周りに白い花が沢山咲いているのが見える。穏やかな山村風景。緑が遠くに広がり、まだ葉のない木の枝が風景に変化を付けている。とある町へ入ってきた。民家の煙突にコウノトリが巣を作っていると運転手さんが教えてくれた。バスから降りてしばし見物。山越え谷越えして変化の多い道のりだ。やがて川沿いの道に入り、上流へと登っていく。岩山あり、深い谷ありで変化があって飽きない。途中蜂蜜を売っている屋台を通り過ぎると、右側の川の瀬が浅くなってきた。水量は豊富で白波を立てて水が流れている。ソフィアから2時間ちょっとかかっただろうか、今日の昼食場所の川沿いのホテル兼レストランに到着。昼食は大きな鱒の尾頭付きのフライ。この川で穫れた鱒だろうか。全く臭みのない脂ののった美味しい魚だった。鱒のフライといえば数年前のスロヴェニア・ブレッド湖の上のブレッド城でも美味しいのが出た。ニュージランドのテポカ湖畔のレストランでのサーモン丼も美味しかったな。こちらは生なのだが。など海外旅行での鱒やサーモンの思い出が浮かんでくる。このレストランの中でバラを使ったお土産を売っていた。バラのハチミツについてはミニ報告6に採り上げた。そのほかバラの花びらのジャムなどもあった。ここから登ること約20分ぐらいでバスは「リラの僧院」に到着した。山の奥深いところに突如現れた大きな石造りの建築物そしてゲート。このゲートをくぐると今までとは全く違った光景を目の当たりにする。中央には案内書や絵はがきで眼にしていた教会。それを3~4階建ての木造の僧院が取り囲むように建っていた。ここはブルガリア正教の総本山ともいうべき僧院なのである。10世紀にイヴァン・リルスキという僧が、隠遁の地としてここを選び小さな寺院を建てたのが始まりと言われている。14世紀になって時の王の庇護の元でこのような僧院の形になり、以後500年にわたって今度はオスマントルコの支配下に入る。しかし、オスマントルコは租税などの徴収は厳しかったものの、この僧院だけはキリスト教の信仰やブルガリア語の書物には寛容な姿勢をとったため、多くの僧が勉強しにここへ集まって来て最盛時には約360もの僧坊に寝起きしたといわれている。ただ1833年に大火事を起こし、大部分が燃えてしまったがその後復旧され1983年に世界遺産に登録された。僧院に入って中庭の中央にあるの聖母誕生教会の真ん前に立つ。なんとも不思議な感じだ。キリスト教というよりイスラム教の影響を強く受けているように思うのだが。スペイン・コルドバのメスキータを思い浮かべてしまう。左側に高く聳えている石造りの塔は「フレリョの塔」で、オスマントルコとの戦いの時も、上述の1833年の大火の時にも耐え、現在でも14世紀に造られたままの姿を留めている。この塔の上に行けるのかなと思ったのだが、入口は鍵が掛けられ中には入れなかった。聖母誕生教会の外側の壁や天井にはフレスコ画で充ち満ちている。入口のドアーを開けて中に入る。ここからは撮影禁止。中は薄暗いが正面に豪華な金箔のモザイクで造られた大きなイコノスタシスがど~んと飾られていた。左側の側廊の部分は木造の2階構造になっていたと思う。右側の側廊に当たる部分は現在何か発掘しているようで工事中だった。外へ戻ると真正面の僧坊がシンメトリーに建築されていのるのがよく分かる。その1階にはお土産やさんやトイレもある。またアーチにはこの辺りの鹿の角と覚しきものが取り付けられているところもあった。聖母誕生教会を出て右側の奥にはもう一つの出入り口がある。ちょうど我々が入ってきたところの向かい側の遠くにある。ここのゲートを出るとすぐ細い小川があり、橋を渡るとその向こうに洒落た造りの家があった。ガイドの話では、いつもだとお店の入口から行列が出来ているそうだが、今日は無いところを見るとお休みのようだとのこと。ここは美味しいパン屋さんなのだそうだ。一歩僧門を出ると、もうそこは世俗の世界だった。世俗の市民生活があった。きびすを返して先程の出入口から再び神聖なる世界に戻る。この門にも綺麗なフレスコ画が描かれている。向こうから聖職者がゆっくりと歩を運んで来た。
2010.05.21
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前回はツアール・オスヴォボデル通りを国立民族博物館・国立美術館側に渡ったところまでだった。国立民族博物館・国立美術館の前を通る。黄色の美しい建物だ。かっての王宮でブルガリア・ルネサンスとバロック風の外観なのだそうだ。この建物を博物館と美術館が半々ずつ使っている。少し行くと通りの右側に綺麗なモザイクのある建物(ブルガリア・ホールか?)があり、その前の庭には八重桜が満開だった。やがて聖ニコライ・ロシア教会の前へ出る。ここは1913年にロシアの外交官セモントフスキ・クリロの命令で、聖ニコライを祀るために建立されたロシア正教の教会である。タマネギ状の塔が5つある典型的なロシア建築のとても美しい建物。ファサードも素晴らしい。聖ニコライのパントクラトールのモザイク、またその周りの青緑のモザイクが何とも言えない色合いである。上の階や塔の下部の緑のモザイクも然り。 この色の装飾は相当高価なものなのだろう。隣の公園から教会の全景を見てみた。ここを過ぎると聖ソフィア教会に出る。6世紀にユスティニアヌス帝が建てたビザンツ様式とロマネスク様式の初期キリスト教会堂で、首都ソフィアの名前の由来となった。現在の姿は1900年以降になって復元されたもの。この教会の前には「永遠の炎」が燃えている無名戦士の墓がある。そばには大きなライオンの青銅像があり、八重桜も小さな木ながら花を沢山付けて咲いていた。そして行く手にはアレクサンダル・ネフスキー寺院が見えてきた。素晴らしい外観。美しい姿だ。この寺院は、ブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争で戦死した20万人のロシア兵士の慰霊のために、1882年から40年かけて完成させたネオ・ビザンツ様式の建物。5000人収容可能のバルカン半島最大かつ最も美しいとされる聖堂なのである。ここは入場観光。堂内はさすがに広いが、凄く薄暗い。イコノスタシス(聖障)は右からブルガリア、ロシア、スラブ諸国と列んでいる。堂の中央には2トンもの豪華なシャンデリアがドームの頂上からぶら下がっている。その下へ行ってしげしげと上を眺めていたら、係の人が来て立ち退けと言う。危険を避けるための注意だったようだ。外へ出て寺院の側面を見る。なかなか複雑な構造だ。この寺院の向こうに宮殿のような建物があった。ガイドに訊くと National Gallary of foreign Art とのこと。帰国してから調べたら、海外に住む富裕なブルガリア人たちの基金によって造られた美術館(海外アート国立ギャラリー)で、名の通り海外の美術品が多く展示されているようだ。バスに戻り、車上から国会議事堂や国会議事堂広場中央にある解放者記念像を見る。解放者記念像はロシア皇帝アレクサンダル2世(1818~81)の騎馬像である。このロシア皇帝は露土戦争の勝利によって、ブルガリアを500年続いたオスマントルコの圧政から解放した英雄として崇められている。台座の碑文は「我が兄弟、解放者のために」と刻まれているとのこと。バスは次第に市の中心から離れて行く。やはり落書きが多い。しかし愉快な絵もある。かくしてバスは次の目的地リラに向かって郊外をひた走って行った。
2010.05.18
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2010年4月6日~13日、クラブツーリズムの「いたれりつくせりブルガリア・ルーマニア2カ国周遊8日間」というツアーに参加した。総勢35名の割合大所帯のグループツアーだった。このブルガリア・ルーマニア観光コースはバラの最盛期6月を除いては参加者が集まらず催行になるコースは非常に少ない。私どもも2年ほど振られっぱなしだった。バラ祭のある6月にはグループが100人弱にもふくれたので、これはさすがに敬遠したわけ。やっとの事で希望が叶った旅行だった。このようなコースに参加する人はもう海外旅行のベテラン揃い。中には国連加盟国のほとんどに行っていて残っているのは紛争で危険な国だけ、次回は北極点へのツアーに参加するという夫婦もいた。ツアーの行程は次の通り。成田→ウイーン(乗り継ぎ)→ブルガリア・首都ソフィア(泊)→ソフィア市内観光→リラ→リラの僧院(世界遺産)→プロヴディフ(泊)→プロヴディフ市内観光→カザンラク・トラキア人の墓のレプリカ(世界遺産)→ヴェリコ・タルノボ市内観光→ヴェリコ・タルノボ(泊)→国境通過→ルーマニアへルーマニア・首都ブカレスト市内観光→シナイア→シナイア市内観光→シナイア(泊)→シギショアラ→シギショアラ市内(世界遺産)観光→ビエルタン→ビエルタン市内(世界遺産)観光→シナイア(泊)→ブラン→ドラキュラ伝説のブラン城見学→ブラショフ→ブラショフ市内観光→ブカレスト(泊)→ウイーン→成田(航空会社はオーストリア航空)4月6日はもう午前0時近くにソフィア郊外のホテルに到着。翌4月7日朝早く食事を済ませ市内観光に出発。道路は通勤時間帯のラッシュに遭遇。その混雑の中、赤信号で停車している車目当てに新聞売りがやってくる。危険な商売だ。道路の両脇は木々が多く、その木には真っ白な小さな花を沢山付けていた。スモモの花とのこと。ちょうど日本でもスモモの花が盛りだったので、日本(東京付近)と気候が似ているようだ。やがてバスはソフィアの市内へと入ってくる。大きな看板が道路際に立っていた。YAMATOと日本でなじみの言葉が大きく出ている。ヤマトタケルのミュージカルか?演劇か?しかし、ブルガリアの公用語のキリル文字ではさっぱり分からない。通勤と覚しき人たちの服装もまだ厚着の人が多い。市内電車(トラム)も走っている。やがてソフィアの中心部に入ってきた。左側には斬新な形の教会が見える。相変わらずどこへ行ってもグラフティ(落書き)があるなぁ。道路の中央分離帯に、聖ソフィア像が建っている。ここぞまさしくソフィアだ。この像の少し先のスヴェタ・ネデリャ広場でバスを降りる。この広場の名前と同じ聖ネデリャ教会が目の前にあった。シェラトンホテルの表玄関側から、通りの向こうに綺麗な建物が見えた。ソフィア大学の芸術学部ときいたように思うのだが定かではない。(付記)良くコメントを下さるnaoppenaonaoさんから、この建物はソフィア大学の神学部ではないか とのことでした。naoppenaonaoさん、有り難うございます。シェラトンホテルの裏側へ廻ってここのトイレを拝借、しばし休憩。その後、ホテルの裏玄関の真ん前にある聖ゲオルギ教会へ入る。4世紀にローマ帝国によって建設されたレンガ造りの教会。ファサードには聖ゲオルギのモザイクとキリル文字でミサの時間とその内容を書いたと覚しき看板がかかっている。ちょうど我々が入ったときはミサが行われていた。内部は狭く、50人ぐり入ったら一杯になってしまうのではなかろうか。その中で東方正教であるブルガリア正教の朗々たる歌うが如くのお祈りが響いていた。ミサに立ち会えるなんてとてもラッキーだった。でも正教の修道士さんは何であんなにヒゲを長く伸ばしている人が多いのだろう。ここを辞してホテルの続きの建物になっている大統領府の裏へと行く。ちょうどシェラトンホテルと大統領府の建物が一続きの四角形のようになって教会を囲んでいる。したがってこの教会はその中庭の一角に建っている感じなのだ。これは大統領府から見た聖ゲオルギ教会。教会の向こう側がシェラトンホテルである。教会の手前はローマ時代の遺跡である。幸いなことに石碑があってキリル文字とフランス語で簡単な説明が併記されていた。それによると、この古代ローマの公共大構築物遺跡は、この西側にあるローマ時代の1本の道路と4世紀に聖ゲオルグ教会として建てられたブルガリアで最古の建造物のところに、教会として5世紀に建て替えられたものであるとのこと。これは大統領府の裏の鉄柵に浮き彫りされたブルガリアのシンボルのライオン。さて大統領府の正面に廻る。すると隣接する衛兵宿舎から抜き身のサーベルを肩に当てた将校を先頭に4人の衛兵が行進してきた。衛兵の交替の時間なのだ。これまたラッキー。将校が交替を命令する。なかなか勇ましくて良い。今まで数カ国の衛兵交替を見てきたが、それぞれの国によってしきたりが違っていて面白い。大統領府の前の考古学博物館横を通る。ここはもともとイスラム寺院だったところで19世紀から考古学博物館となった。建物の前にはローマ時代の発掘品が置かれている。その隣の白い建物の角には人物像が置かれていた。誰なのか現地ガイドに尋ねようと思っていたのだが聞きそびれ、とうとう分からずじまいだった。後を振り返ると大きな噴水の向こうに白の建物の旧共産党本部が、そしてその左にはツム・デパートが見えた。ここを通り過ぎると右側に市民庭園があり、道路に近いところにあるボケが満開だった。このボケについてはミニ報告で採り上げている。すぐ横のツアール・オスヴォボデル通りの向こう側には国立民族博物館・国立美術館の建物がある。ここでこの広い通りを博物館・美術館側に横断し、聖ニコライ・ロシア教会へと向かう。
2010.05.17
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ブルガリアといえば、まずはヨーグルトそしてバラ祭がすぐ思い浮かぶだろう。ホテルの朝食にもヨーグルトは出てきたが、それほどブルガリアのものという特徴はなく日本で食べているものとあまり変わりがないような感じだった。上の写真は綺麗なピンク色のバラのハチミツ。薔薇の香りのするちょっと酸っぱい蜂蜜である。これはバラの花から蜂が集めてきた蜂蜜ではなく、精製された蜂蜜にバラから採れた香料と酸味料を加えて作られているのではなかろうか。ソフィスティケートされた味にしてある。このバラの香料は曲者で、入れすぎるとお化粧品を食べているような感じでとても私の口には合わない。以前フランスだかギリシャで買ったローズ・ゼリーがそうだった。1つ食べただけでいやになってしまった。ところがこの蜂蜜は程よい香りになっていて、日本人の口にも合うように思う。ブルガリアの首都ソフィアから南へ120Km程のところの奥深い山の中に「リラの僧院」というブルガリア正教の総本山ともいうべき寺院がある。そこへ行く途中の山の中のただ1軒しかないレストランで買ったもの。250g入りで5ユーロだった。バラといえばバラ祭のあるカザンラクというバラ産業の中心地が有名。そこへも行くことになっている。バラのハチミツもそこへ行けばいろいろな種類のものがあるかもしれない。でも探しているものを発見したら、まずは買っておくというのが私たち夫婦の海外での経験則。良かった。カザンラクでは広大なバラ畑の一隅にあるレストランで昼食を採ったが、そこには何も売っていなかったし、周りに売店も見当たらなかった。娘に頼まれたローズ・ウオーターもそうだった。これもカザンラクよりも遥か手前のプロヴディフの旧市街入口にあるお土産やさんで見つけて買っておいた。後で同行の数人の方から、教えて貰って買っておいて良かったと御礼を言われたものだ。
2010.05.12
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今、我が町では八重桜が満開だ。ブルガリアにも八重桜があって、首都のソフィアでも咲いていた。4月のまだ初旬なのに満開の盛況だった。ソフィアから北東へ遠く離れた北の都ヴェリコ・タルノヴォ。ここはバルカン山脈を越え、ドナウ平原地方に一歩入ったところにあるかっての首都である。夕方、その町を散歩していたとき、目抜き通りのネザヴィシモスト通りに満開の八重桜があった。立派な木で、花もビッシリついている。そして面白いことにこの桜にも縁結びなのだろうか紅白の紐が結ばれ、垂れ下がっていた。このような桜は日本から持ち込まれたものなのだろうか?この八重桜からちょっと離れた大きな木の枝には色とりどりのプラスチック風船が取り付けられ、葉の落ちた木を彩っていた。それがまた良く映える。こういうところが日本と違うなぁと感心したものだ。(追記)大関琴欧州はここヴェリコ・タルノヴォの出身でした。そしてこの八重桜の後の建物はプレミアという大きなホテル。「地球の歩き方」によると、このホテルの1階ロビーにはホテルのオーナーと琴欧州が入った写真や琴欧州に関する記事が飾られているとのことです。そうと知っていたら、ついでに見てくるんだった。ブルガリアはキリル文字なので、地名やホテル名も良く読めないのですね。チンプンカンプン!その点、ルーマニアはラテン民族で普通のアルファベット文字なので楽ですね。
2010.04.27
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ブルガリア2日目4月8日 中央部バルカン山脈麓の都市カザンラクにて。前回紹介したトラキア人のお墓の丘で見つけた野の花。日本でもおなじみの花が咲いていた。これはどうみてもヒメオドリコソウ。調べてみるとこの草はヨーロッパ原産で、日本には明治時代中期に帰化とある。だからここにあるのは当たり前なのだ。おなじみタンポポ(dandelion)の間には「星の瞳」の別名でも知られる澄んだ青色のオオイヌノフグリ。この草もヨーロッパ原産で1890年(明治23年)東京で帰化が確認されている。いずれも文明開化でヨーロッパの文化とともに日本に入ってきたのだろう。いまでは日本でもっともポピュラーな野草となっている。さて右にあるピンクの可憐な花は何だろうか?近くにはオオイヌノフグリの群落もあった。中央にあるのはやはり日本でも眼にするトウダイグサであろうか。そして右下に赤く見えるのはヒメオドリコソウだ。
2010.04.25
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ブルガリアに入って2日目の4月8日。首都のソフィアから東へ約200Km程行ったカザンラクという田舎の町へ行った。ブルガリアのほぼ中央、バルカン山脈の麓に当たるところ。ここには古代民族で高い文化を持ったトラキア人の王様のお墓がある。ここを見学したとき、草むらのタンポポにハナムグリがいるのを見つけた。時刻はちょうど12時。結構強い日射だったので20℃は優にあっただろう。一生懸命タンポポに取り付いて花粉を食べているようだった。そのほかモンシロチョウのような白い蝶もいたのだが、これはヒラヒラ飛んでいてなかなか留まらずとうとう写真に写すことは出来なかった。緑も野草や木の花も多いので、その気になって探せばまだまだ昆虫は見つけられたのだろうと思う。如何せん、ツアーではその様な時間をとることは出来なかった。
2010.04.20
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写真はご存じ蕗の薹(とう)。でもこれはルーマニア トランシルヴァニア地方カルパチア山脈の麓の町シナイア、そのシナイア駅前の丘の道端に咲いていたもの。日本の蕗ではない。このような蕗は自動車道路の路肩の斜面にいっぱい咲いていた。誰も採る人はいないようだ。バスから見ていた人の中には、蕗味噌を作りたい、花を取り去って茎だけにしてキャラブキにしたいとか、日本の主婦ならではの感想が出ていた。蕗だけではなく、高山植物のような花や、スミレ、ヒナギクなども野原に沢山咲いていた。これはまた改めて紹介したい。
2010.04.16
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4月6日から13日までブルガリアとルーマニアをツアーで廻ってきた。日本と同じく両国とも春の真っ盛り。ブルガリアの首都ソフィアの公園ではボケの花を発見。面白いことに人形やら、紅白の紐を枝に結んでいる。きっと願い事が叶うようにとのことなのだろう。ブルガリアもルーマニアも、野生のスモモやサクランボが街中・郊外を問わず咲いていた。新緑の中にそれらの白い花が溶け込み、眼に優しい美しい光景が随所で見られた。まさに彼の地も春爛漫だった。昨年暮れの南イタリア・シチリア島紀行がまだ少し残っているので、それを完結次第ブルガリア・ルーマニアの紀行報告に移りたい。
2010.04.15
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