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2日目の夜、カルナック神殿見学後ホテルで夕食・休憩して、市内にあるルクソール神殿へ行った。すでにライトアップされ、厳かな雰囲気が醸し出されていた。入り口にはやはり銃を持った警察官が数人警備している。もぎりに切符を文字通り千切って貰って第1塔門前の広場に降りる。すでに大勢の人が来ている。観光客もいれば現地の人もいるようだった。かっては、こことカルナック神殿は、例の両側にスフィンクスを持つ参道で結ばれていたとか。塔門の入り口両側にはラムセス2世の立像と胸像が、また1本のオベリスクが立っている。実は右手にもう一本あったのだが、そのオベリスクはパリのコンコルド広場へ移設されたのだった。エジプト国内のオベリスクはこのほか、ローマ、ロンドン、ニューヨーク、トルコにも運び出されたという。以前トルコへ行ったとき、オベリスクを見た。イスタンブールのブルーモスクのそばにある広場だったが、あれがその内の1本だったのかもしれない。このルクソール神殿はアメン神が毎夏ナイル川の増水時に南のハレムと呼ばれたテーベ(現ルクソール)へ船でやってきて妻子と過ごしたと言い伝えられている。これがオペト祭で、このために造られたのがルクソール神殿とのこと。ラムセス2世は自身の力を誇示するために、エジプト各地に神殿を建設したといわれているが、ここもその一つ。したがって紀元前1300年代の建築遺跡と思われる。彼は自己顕示欲が強かったため、自分の像やレリーフを沢山造らせている。第1塔門の外側の壁にも、ヒッタイト軍を打ち負かした「カデッシュの戦い」での馬に乗り弓を引く勇ましい姿のレリーフが刻まれていた。第1塔門を過ぎると高さ16m合計74本の柱からなる中庭に出る。この回りにはラムセス2世と思われる像がぐるりと並んでいた。ラムセス2世と愛妻ネフェルタリとの仲むつまじい2ショットの像もある。ちなみにロンドンの大英博物館に展示されていたラムセス2世像を載せてみた。この像もイギリス人の探検家がイギリスに送ったものだと何かの本で読んだことがある。この中庭のさらに奥にはアメンヘテブ3世の中庭へと続いている。この辺をぐるりと回って本日の見学は全部終了。明くる朝、王家の谷へ行く途中、ルクソール神殿の横を通ったが、バスから大列柱を見ることが出来た。
2007.02.23
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カルナック神殿の入り口には、治安のためのチェックポイントがあり、通行車を止めてチェックしているが高い位置にも見張り所を造り、監視している。明日訪れるハトシェプスト女王葬祭殿のテラスで、数年前イスラム原理主義者によるテロで観光客が殺害されて以来、政府が徹底的に治安の維持に努めているようだ。勿論、チェックポイントにいる警官は皆銃を所持している。この努力により激減した観光客は、また増加してきているとのこと。カルナック神殿も大勢の観光客で賑わっていた。この神殿の外側にはお土産店がずらりと並び、独特の風情を見せていた。日干し煉瓦を積み重ねて作ったような家だが、Lithium Batteryとか、Memory Stick Cardsとか、Copy to CDとか現代の観光客のニーズを取り込んだ看板がちゃんと掲げられているのが面白かった。ルクソール市内で観光客相手の貴金属屋の真ん前にはこれも観光客相手なのだろう、BAZARと名をつけた店が数軒並んでいた。その前を今しも馬車が通り過ぎようとしていた。土地の人もタクシー代わりに使っているようだ。馭者のエジプト人は気さくな人のようでカメラに向かって手を挙げ、笑顔で愛嬌を振りまきながら足早に通り過ぎて行った。このBAZARのすぐそばにはコンクリート造りのアパートが並んでいる。洗濯物がいっぱい干されてはいるが、ここは高給者の住まいなのかも知れない。街の入り口や観光場所にはチェックポイントがあってものものしい感じはするが、街中はいたって平穏、危険を感ずることは全くなかった。一般的にエジプト人は素朴で、人懐っこい感じだ。
2007.02.21
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1月5日から12日まで、近畿日本ツーリストで募集したツアー「カタール航空で行く! 神秘の国エジプトの旅8日間」に参加した。参加者25名+男性添乗員1名の丁度良い大きさのグループだった。1日目は羽田を夜出発、関西空港乗り継ぎで出国、カタールのドーハへ。飛行機はエアバスA330。空いていたのでエコノミー後部の4席を占領して横になって睡眠。夜中にヒマラヤ上空を通過というので寝ぼけ眼で下界を見る。私が見たときはもうなだらかな白い山々が連なっているだけだった。関空→ドーハは約12時間半ぐらいの飛行時間。2日目。早朝まだ暗いうちにドーハ着。しばし1階にある免税店を覗いてから2階にある広い待合室でルクソール行きの飛行機を待つ。この間約3時間。飛行場の施設も中東らしい建物の姿。そして操縦席の下に "15th Asian Games DOHA"とシンボルマークが描かれている飛行機も見えた。ドーハ→ルクソールは約3時間半のフライト。途中、UFOの基地?と見まがうようなものを地上に発見する。お昼ちょっと前にルクソールに着く。レストランで昼食。ナスの薄切りのソティーがすごく美味しかった。またデザートは甘いケーキ。これはビュッフェスタイルになっていて好きなだけ食べられる。なにしろエジプト人は甘いもの大好き民族らしい。ガイドの説明では砂糖の年間消費量は国民1人当たり約26Kgとか。糖尿病患者が多いらしい。バスでナイル川東岸(右岸)にある世界遺産のカルナック神殿に行く。ここは新王国時代に建てられたもの。紀元前1500~1200年時代の遺跡だ。まずドキッと来たのが参道の両側に並ぶスフィンクスの群像だった。上半身は羊、下半身はライオン。瞬間的に私の頭をよぎったのは、何という題名か分からないのだが黒沢監督が製作した映画で、冒頭、家を飛び出した子供が林のなかの太い木の陰に隠れていると、やがてそのそばの道を着物を着た狐の大行列がやって来る。そして子供が隠れている木の方を皆一斉に首を回して見るのだ。誰か隠れて見ているぞとばかり。それを数回繰り返して歩き去っていくシーン。凄く奇怪なシーンだった。それを真っ先に思い出してしまった。高さ43m、幅130mの巨大な第1塔門を入ると広場となっている。左側にはセティ2世の遺跡が並んでいた。第2塔門の両側には巨大な人物像が立っている。ラムセス2世像だ。前方、列柱の向こう遠くにオベリスクが見える。左側のラムセス2世像の膝の間には愛妻ネフェルタリが立っている。そばにいる人と比較するとその巨大さが分かろうというものだ。その横の第2塔門の壁にはラムセス2世の子供達といわれているレリーフが何段にもわたって描かれていた。一説によると100人の子供がいたとか。第2塔門を抜けるとすぐ左手にナイロメーターがあった。これは毎年起こるナイル川の洪水の水位を記録しておくところ。きっと水位がシミとなって残るのだろう。日本でも、例えば、伊豆長岡の国道沿いにある倉の白壁に今でも黒い線が引かれているのが見える。地表から2mもあるだろうか。これはかって鹿野川台風で鹿野川が氾濫し大被害をもたらしたときの悲しみの水位を現しているが、ナイロメーターの水位はその年の豊作の程度を推察するためのものらしい。上流からは肥えた土が運ばれ、そして乾いた畑にたまった塩分を洗い流してくれたようだ。そして大列柱室となる。両側に高さ23mと15mの2種類の巨大な柱が合計134本あるのだそうだ。まさに圧巻、圧倒される景観。そして上部には桟のようなものもみえる。どうやって造ったのだろう。すご~い。そして各柱にはヒエログリフ(象形文字)やレリーフがびっしりと書かれている。特にこの写真のヒエログリフは彫りが深く、とても印象的だった。あぁ!エジプトへ来たのだ!との実感がヒシヒシと湧いてきたのを今でも思い出す。次の第3塔門の上の天井には何と今でも綺麗に色が残っているカルトゥシュ(王名枠)があった。カルトゥシュの中のヒエログリフを解読すればファラオの名前が分かるのだが。ここを抜けてまっすぐ行くと突き当たりがアムン・ラー神の至誠所。青色の天井一杯に星が描かれていた。ちょっと戻って第7塔門、第8塔門を抜けると左側に「聖なる池」がある。当時はナイル川とつながっていたそうだが、ここで湯浴みして身を清め、神殿に入ったとのことだ。その池の前の広場には大きなスカラベ(コガネムシ)の像がある。この像を7回わりすると幸福が来る、特に女性は安産に恵まれるという言い伝えがあるそうで、現地の若い女性が母親らしい人の前で反時計回りに回っていた。これにつられたのか我がツアーの連中も回っていた。若い人も、とうに安産が終わったと思われる人達も!池の反対側にある通路入り口には人物像が建ち並び、また大きな外壁には何かを説明しているのであろう大量にヒエログリフが刻まれていた。う~ん、のっけから圧倒された今回のエジプト旅行だ。このあと、金細工店に連れて行かれ、金のカルトゥシュはいかがとばかりに勧められたが値段が高~い。一旦ホテルで休憩・食事後、市内中心部にあるライトアップされたルクソール神殿の夜間見学となる。長い長~い一日だった~。
2007.02.16
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アスワンからアブシンベルへ行く途中、乗っていたバスが砂漠のまん中で停車した。治安のために設けられたチェックポイントだったのか、1車線になる手前で対向車が通過するのを待っていたのか分からないが、結構長い時間停車していた。するとバスの隣にすっと入ってきて停車したのがベンツのトラックだった。このトラックは後にも荷台をつなげたタンデムというのか、あるいはリモルケというのか輸送量を増強したダンプトラックだった。ところがその車は凄く派手。 車の上には鷲のマークのペナント。前部にはパイプで補強したバンパー。車体の下まで垂れ下がった飾り。皆赤系統で装飾してある。サイドミラーにも彩色してある。道を走っている馬車やロバ車やぼろの自家用車から比べると破格に豪華な綺麗な車だ。金持ちトラック野郎なのだろう。エジプトにもやはりトラック野郎はいるのだ!!室内には八代亜紀ライクなエジプトの歌手のポスターとか写真とかも貼ってあるのだろうか? まぁ、そこまで確認出来なかったが。
2007.01.22
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エジプトでは大都市の郊外や小都市では、自動車や自転車に混じって馬力(馬車)やロバや牛が運搬手段として未だに活用されている。特にロバが多く眼についた。子供の頃、街中を行く馬力(馬に荷車を引かせ、物を運搬するもの)の後に近所のガキ共とぶら下がり、よく馬力の親方に怒鳴られ怒られたものだ。私にとってはこのエジプトの風景は戦前や戦中・終戦直後の日本の姿と重なってとても懐かしく、またのんびりした様子に思わず微笑み、心を和ませてくれたものだ。それと農家の人が遠くから町へ牛車に野菜や果物を積んで売りに来ていたのも思い出す。それがエジプトでは現実に行われていた。また子供達はロバにまたがり、実際に仕事を手伝っている様子だ。遊びではなく仕事の手段として使っているのが、我々の子供の時と違う。また、そのロバの表情が面白い。いやいや引っ張っている顔をしているもの、嬉々として笑っているような表情のもの、無表情で引っ張っているもの、堂々としているもの、など様々な姿が見れて面白かった。そして仕事が終わった後、帰りの交通手段としてロバがまた使われる。大人も子供もロバの背中に乗って帰ってくるのだ。ロバのパカパカと小走りに走る姿はとても滑稽だった。ただ高速で走っているバスの中からすれ違いざまや追い越しの時に振り返って見るのでロバの表情までカメラに納めるのは難しかった。写真に写したのは離れたところにいるものなので、表情はあまりよく分からないのが残念。しかし、昔の古い日本の風景を知らない私達より若い人たちは私が抱いたような感慨は理解できないらしい。原風景が違うのだ。なんと非効率な! なんと汚い! 子供達は学校に行かないで働いているのかしら? そのような考えがすぐ浮かぶらしく、とても「のんびりした」などという感じは受け取れないらしい。私としては日常若い人を理解し、なるべく話を合わせるように努力をしているつもりなのだが、やはり世代間のギャップは拭うべくもないという当たり前の事実を突きつけられた旅行でもあった。でも楽しい旅行だったな。強行軍だったが!
2007.01.19
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エジプトのルクソールで「王家の谷」の見学の後、現地ガイドの案内で大理石店に立ち寄った。そこでは原石を磨いて花瓶を作る実演の販促後、いろいろなお土産を売るわけだが帰り際に青い石のチューブを細かく切って糸でつないだネックレスをツアー客全員にプレゼントしてくれた。臭いを嗅ぐとちょっと油臭い。多分チューブを切断するときにカッターに付けた油が切断面に浸み込んでいるのだろうと思っていた。そこで帰国してからその油を洗い取ろうと思って、中性洗剤を入れた洗い桶にいれて掻き回したところ、なんとそれがどろどろに溶け、青い泥に変わってしまった。なんのことはない。石の粉を水で練って型に入れ、そのまま固まらせたものだったのだ。良かった。このネックレスをやって雨にでも当たったら折角の服が台無しになってしまうところだった。皆さん! エジプトで貰った石様のネックレスは一応の注意が必要ですぞ!「只より高い物はない」の典型かも?
2007.01.18
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エジプトの郊外では犬が放ち飼いというのか、野良犬というのか首輪のない犬がうろうろゴミのところを歩き回って食べ物を漁っているのを良く見かけた。ネコは観光地の事務所などにたむろしているのが多かった。その猫たちは going my way というのか、全然愛嬌がない。呼びかけても知らんぷり、もっとも日本語が分からないのかも知れないが、ネコ本来の気ままさを十分発揮しているようだった。幸せなネコたちなのだろう。それと全然人を恐れない。喧嘩しているネコがいたが、そばによっても知らん顔。そしてギャオギャオ顔をつきあわせて、ここは俺(私?)の縄張りだとお互いに主張して譲ろうとしない。そのうち取っ組み合いをするでもなく、何となく分かれていってしまったが話し合いがついたのだろうか?子猫もおすましを決め込んでいた。ただこのネコは写真を写してから気がついたのだが、目の下の線が黒いように思う。いかにもエジプト女性の目のお化粧をそのまま頂いたような、エジプトっぽい眼だと思うのだがちょっとひいき目かな?
2007.01.17
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1月5日から12日までエジプト・ツアーに参加した。1日目、羽田→関空→カタールのドーハ→エジプトのルクソールとカタール航空を乗り継いでエジプトに入る。ドーハといえばかの「ドーハの悲劇」のドーハ。日本のサッカーファンにとってワールドカップ初出場の夢を、オフタイム最後の1分のところでイラクに破られた悔しい思いのあるあのドーハだ。そのドーハからルクソールへ行く途中、下を見ると砂漠のまっただ中に丸い形のものが沢山視界に入ってきた。何だろう? 石油タンクか? それにしては円弧状のものもある。まさかUFOの基地ではあるまい。分からない。 分からないときは知っている人に訊くしかない。機の後方で休憩に入っている客室乗務員のところへ行って尋ねた。最初は私の言っていることが分からないらしく戸惑っていたが、外の景色のことだがとあらためて言うと窓から外を見下ろし、「あれは新方式の農場です。トマトなどのいろいろな野菜を作っています。緑色に見えるのは今栽培している新しい農場。茶色のは収穫が終わったものです」との明快な答えが返ってきた。やはりUFOの基地ではなかったのだ!!
2007.01.16
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1月5日から8日間の日程でエジプトツアーに参加してきた。今日はその最終日、帰国の日だ。カイロ→カタールのドーハ→関空→羽田とカタール航空を乗り継いできた。ただし関空→羽田は全日空のオペレーション。その羽田への途中富士が見えるかもしれない、一縷の望みを託してカメラを構えていた。しかし、もくもくした厚い雲が多く、雲の間から真下は見えるのだが残念ながら富士の姿を確認することは出来なかった。がっかりする間もなく西の空が真っ赤に焼け始めた。いましも雲海の彼方に太陽が沈もうとしている。日輪が雲の上で丸く赤く輝き、そしてその輝きの輪は大きく大きく広がって行った。やがて周囲は漆黒の闇へと誘われる。
2007.01.12
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