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肥満と云うと、お腹でてる人を連想しますが、アメリカ人の肥満はお腹もそうだし、お尻が異常なくらいデカイ人がいる。2020年時点でアメリカ人の41.9%が肥満、9.2%が深刻な肥満と報告されています。実に成人の2人に1人、子どもの5人に1人近くが肥満。なんで?アメリカはニューヨークやワシントンDCなど特定の大都市を除くと、公共の交通機関が発達しているとは云えません。そのため近くのコンビニやスーパーに行くにも車移動が多い。とにかく歩かない人が多いのです。自転車は子どもが乗るものか、車も買えない貧乏人とバカにして、アメリカ社会での自転車普及率は低いです。夏は高温多湿で気候が険しいニューヨークのような都市では、ゆっくり自転車で走っていても汗をかきます。アメリカの衛生基準はヨーロッパよりも厳しい傾向があり、自転車通勤してデスクで汗をかいたままと云うことは眉をひそめられるんです。さらにアメリカ人は座ってる時間がものすごく長いです。アメリカ人とカナダ人は世界一のTV中毒者と云われ、84%は毎日平均4時間以上TVを見て過ごしており、ミレニアル世代や若者はスマホでTV番組を視聴することが多くなりました。日本の若者のTV離れとは真逆の現象です。座っている時間の合計は青年で1日 8.2時間、成人は6.4時間に達します。アメリカ人って、イメージと違って活動的でない人が多いのですね。アメリカ人のわずか28%だけが充分な運動をしており、ルイジアナ州とケンタッキー州はもっとも運動不足の人が多いと云う調査結果も。次に自宅で調理しない人が多いので、朝昼晩3食をマクドとかジャンクフードの買い食いとかも多く、とにかく主婦で全く調理しないどころか家事全般ゼンゼンしない人もメッチャ多い。子どものときから3食マクドなんてのも結構普通にあるらしい。アメリカのスーパーには、巨大なピザ、大袋のパスタ、冷凍ポテトなど安価な炭水化物がたくさん積んであります。飲み物の棚にはコーラなど砂糖たっぷりの清涼飲料水がビッグボトルで並んでいます。そして、太った人たちは、こういうものを次々とカゴに入れていきます。彼らは単純に食いしん坊で、糖質摂取をやめられないのです。それとともにアメリカ人の食事量も問題なんですね。フランスのパリに住んでる人の食事量はフィラデルフィアに住んでる人の食事量の1/4しかないことが分かってます。アメリカ以外の国では、マクドのポテトでLサイズよりもっと大きい特大サイズは販売されてません。よくアメリカの情報を見ると、肥満の人はいい職業につけないなんて云いますね。それはデマです。実際はアメリカでこんな判断してる企業はありません。もし、こうした認識を企業が持ってたら、「差別」と見なされてしまいます。有り得るのは、肥満の人は自己管理が出来ない、だらしない人と捉えられて出世し難いと云うことくらいです。多くのアメリカ人は太ってる人に寛大なんです。
Nov 23, 2024
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ほとんどの方は知らずに使ってますが、この楽天ブログや他のSNS、Facebook やX、YouTube なんかでも裏でコンテンツ管理システムと云うソフトが働いてます。コンテンツ管理システムは、デジタル情報を管理して、配信などの処理を行うシステムのことです。楽天ブログがどのコンテンツ管理システムを使ってるか分かりませんが、世界中で最も普及してるコンテンツ管理システムは「WordPress(ワードプレス)」と云う製品です。このWordPress に新着情報を表示するソフトがあるのですが、このソフトの名前が「What's New(ホワッツ・ニュー)」。新着情報の日付やタイトルが自動的に表示され、タイトルをクリックすると該当のページが開くと云うお馴染みの機能です。で、きょうのタイトル「ホワッツ・ニュー」はWordPress のことぢゃなくて、20世紀を代表する歌手ビング・クロスビーが1939年にヒットさせたポピュラー音楽のこと(なんぢゃそれは 笑)この曲は女性ジャズ歌手ルイーズ・トビンをボーカルに迎えたベニー・グッドマンも吹き込んでて、こっちも大ヒット。この曲、なんとディキシーランド・ジャズのダブルベース奏者ボブ・ハガートが1938年に作曲したものだったのですね。元々の題は「アイム・フリー (I'm Free)」だったのですが、曲の内容が久々に再開したかつて恋人どうしの取り留めもない会話で女性が「ホワッツ・ニュー(最近何かあった?)」と問いかけるとこから始まって「Adieu(アデュー=フランス語のさよなら)」と収束していく未練たらたらストーリーだったので改題されたのです。ジャズ・サックス奏者でデクスター・ゴードンと云う名プレーヤーがいました。1968年に公開された音楽映画「ラウンド・ミッドナイト」で主役を務め、アカデミー主演男優賞にノミネートされた人物です。この映画は実在のジャズ・ピアニストでビバップスタイルの第一人者バド・パウエルがパリで活動していた時期の実話が元になっている作品で、マイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーとしても活躍してたジャズ・ピアニスト、ハービー・ハンコックがアカデミー作曲賞を受賞してます。デクスター・ゴードンは1990年にロバート・デ・ニーロが主演した映画「レナードの朝」にも出演しています。そんなデクスター・ゴードンの「ホワッツ・ニュー」演奏できょうはお終い(手抜き更新でした)Dexter Gordon - Whats new (Holland, 1964)
Nov 22, 2024
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昨年制作されたフランス・ドイツ・スイス・日本合作映画「シドニー・イン・ジャパン(不思議の国のシドニー)」が今年上映されます。1978年の「ヴィオレット・ノジエール」と2001年の「ピアニスト」でカンヌ国際映画祭女優賞を、1988年の「主婦マリーがしたこと」と1995年の「沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇」ではヴェネツィア国際映画祭女優賞を受賞したフランスの女優"イザベル・ユペール"が主演した悲しみの詩的旅路を描いたものです。兄と両親の命を奪った交通事故から生還したシドニー(イザベル・ユペール)にとって、数年後に同じような悲劇が見舞うとは...こんどは交通事故で夫がこの世を去ってしまったのです。悲劇によって執筆の才能に目覚めた売れっ子作家シドニーですが、自分の痛みを語ることができないことに気づきます。シドニーは傷つき、迷い、自分の存在の方向性を見失い、作家としてのアイデンティティさえ疑っているように見えるのです。ある日、シドニーのもとに出版社から招聘の手紙を受け取ります。見知らぬ国 日本の出版社から。そうして処女作の再出版するために日本へ行くことに同意するのです。シドニーに招聘の手紙を書いたのは出版社担当編集者の溝口憲三(伊原剛志)。彼が迎えに行き、プロモーション活動のため京都を始め日本各地に連れて行きます。そして次第にシドニーと溝口は心をかよわせるようになっていくのです。こうして日本での夢のような旅は、癒しと孤独への内省の物語のように展開していくのですね。しかしシドニーは同時に交通事故で亡くなった夫への思いから逃れられずもいました。そして...突然、夫の亡霊が現れ、彼女につきまとうようになるのです。この思いがけない過去との出会いによって、シドニーは自分の信念、人生の選択に疑問を抱くことになります。この作品でシドニーと溝口の関係は、親密さと同時に葛藤も同居し、人間関係の複雑さと文化の衝突について深い洞察を与えてくれてます。溝口は、「日本では、自分の感情は自分の胸にしまっておく」と述べるように、感情表現における文化の違いを浮き彫りにしているのですね。私はこのストーリーから全くジャンルの違う映画を連想してしまいました。ジョディ・フォスターが1997年に主演したSF映画「コンタクト」です。この作品は人類と宇宙の知的生命体との接触を描いたもので、人類と科学や宗教、政治をからめた興味深い映画です。「シドニー・イン・ジャパン」と「コンタクト」では相容れない内容のように思うかも知れませんが、「シドニー・イン・ジャパン」では全く違う文化をもつ2つの国の男女に対して、「コンタクト」では知的生命体を探求する科学者エリー(ジョディ・フォスター)は、宗教家ジョスと心通わせるようになりますが、お互いの信条が真逆のため結ばれることがない。「コンタクト」のエリーは幼いころ大好きな父親に科学のイロハを教えてもらいますが、その父親はエリーが幼いときに病死してしまいます。やがて科学者として成長したエリーは富豪スポンサーの協力で知床半島の付け根に設置された空間転送装置に乗り込むのです。この転送装置こそ、エリーが惑星ヴェガから発信された電波信号を解析して見つけた設計図を元に製作されたものだったのですね。転送装置が稼働すると眩い光がエリーを覆い、そして長い宇宙の旅が始まる。ふと気づくと、エリーはどこかの浜辺に立ってる自分に気づきます。そして浜辺の端から歩いてくる人影が。それは幼いとき亡くした大好きで今も忘れられない父親だったのです。父親は「この姿が君にとってイチバン受け入れやすいだろう」と云います。そして、ふたりは宇宙の深淵について語りあい...エリーは帰路につくのです。とても長い宇宙の旅だったのに、驚くことに、地球にいる人々から見るとほんの数秒間のできごと。エリーの報告は「夢でも見たのでないか」と全く受け入れてもらえません。そうしてエリーは孤独な科学者に戻っていくのですね。この作品を始めて観たとき、人知の及ばない経験をしたエリーと経験してない他の人々とのギャップと思ってたのですが、観直してみると、はたしてエリーはホントウに宇宙に飛び立ったのか?あるいは全てがエリーの頭の中で描かれた幻想では?とも見て取れるようになりました。「シドニー・イン・ジャパン」のフランスと日本の文化の違いを肌身で感じたふたりと経験してない人、「コンタクト」のエリーの旅路と経験してない人との違い。どちらが正しいのか、はたまたエリーの夢なのか、実のところ誰も分からないのではと感じた次第です。
Nov 21, 2024
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スペイン、マドリードの中心部にある最も歴史の古い地区セントロに「マヨール広場(Plaza Mayor)」と云うスペイン観光した人だったらお馴染みの広場がありますね。フランスのヴェルサイユ宮殿広場みたいな129m ×94m の長方形の広場。広場に面して237ヶ所の4階建て建物に取り囲まれています。マヨールとは「大きい広場」を意味し、同じスペインのサラマンカにも同名の広場がありますね。マドリードのマヨール広場を空から眺めると、みごとな長方形で周囲の町並みを切り取ったような景色。斜め上から見ると、広大さがもっと実感できる。このマヨール広場って、行ってみると石畳のただの空き地みたいな感じで、なんの取り柄もない広場に見えるのですが、ここで毎週日曜日に古切手や古銭の朝市が開かれるし、12月の1ヶ月間は伝統的なクリスマスの市場が開かれるそうです。昔のマヨール広場はマドリード最大の市場が開かれてただけでなく、闘牛やサッカーの試合、公開処刑、異端審問の盛んな時代には背教者の懺悔の儀式「アウト・デ・フェ」も行なわれてました。マドリードに世界最古のレストランとしてギネスブック登録されてる「ソブリーノ・デ・ボティン」と云うお店があります。創業は1725年。このソブリーノ・デ・ボティンの建たってるのが、マヨール広場にある9ヶ所のアーチのうち最も有名な「クチリェロスのアーチ」近くなんですね。価格はランチセットでガスパッチョ、セゴビア名物の豚料理、アイスクリーム、ワインかビールがついて、44.45ユーロ(約7,245円)ですから、結構なお値段です。周囲もバルやレストランが立ち並ぶ観光地です。今のマヨール広場ってのは1790年に再建されたものです。もともとは15世紀に造られた「アラバル広場」と呼ばれてた場所なんですね。アラバル広場はいくつもの通りが交錯して、とてもゴチャゴチャだったので、1617年に改修がおこなわれ、続いて歩道上に柱で支えられた屋根がある「ポルチコ」が完成しました。ところが1631年、1670年、1790年と3回も大火災に見舞われ消失してしまったのです。それで1790年の火災の後に再建されたのが現在のマヨール広場なんです。広場の周囲に建ってる建物は4階建てのレストランやホテルになってます。統一感のあるステキな建物群ですね。
Nov 20, 2024
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スペインに「カランダ」と云う桃とオリーブの生産くらいで、これと云った観光資源の無い街があります。有るとしたら、「ロンピーダ・デ・ラ・オラ」と呼ばれるキリストの受難と死を思い起こさせるセレモニーくらいでしょう。このときカランダの街は何千もの太鼓や大太鼓が広場に集結してけたたましい音に包まれます。そして触れ口上する役人がキリストの死を宣言すると、太鼓や大太鼓の連打が止むのです。そのカランダに「ブニュエル・フィルムセンター」と云う施設があります。ブニュエルとはルイス・ブニュエルと云う映画監督で、このカランダ出身なんですね。ただブニュエルはフランスで活躍した後、メキシコ国籍をとってメキシコ人として活動し、晩年にまたパリに戻ってきた異色の映画監督です。ルイス・ブニュエルが撮った作品でみなさんに馴染みあるのは主演のカトリーヌ・ドヌーヴが濃密でエロチックな描写を見せた1967年の映画「昼顔」でしょう。この作品はヴェネツィア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を受賞しました。この映画でドヌーヴは医師の夫とともに幸せな生活を送ると同時に、「昼顔」という名前で娼婦として働くのですね。この二重生活のおかげで、ようやく自分の人生を取り戻すと云うお話でした。映画「昼顔」はかなりセンセーショナルな内容ですが、実はブニュエルの監督としての実績は最初期(1929年)の作品「アンダルシアの犬」に凝縮されてます。この映画は画家のサルバドール・ダリと共同で製作した明快なストーリーの無いイメージだけの作品で、当時のシュルレアリスム作家パブロ・ピカソやアンドレ・ブルトン、ジャン・コクトー、マックス・エルンスト、ル・コルビュジエ、ルネ・マグリット、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、マン・レイなどに拍手喝采で迎えられたものです。パリに出ていたブニュエルがスペインに一時帰国したとき、まだ無名だった友達のダリと見た夢の話をしている内に、それをもとに映画を作ったのが「アンダルシアの犬」です。この作品では修道士役としてダリ自身が出演してますし、冒頭のあまりに有名な女性が剃刀で眼球を真2つにされるシーンの剃刀を持った男は監督のブニュエルが演じてます。とにかくシュルレアリスム映画の金字塔と呼ばれる作品ですが、どのシーンも吐き気をもようさせるものばかりで、けしてお勧めできる映画とは云えません。この「アンダルシアの犬」があまりに有名になって、ブニュエルはシュルレアリスムの映画監督として扱われることが多いですが、実際には多種多様な映画を撮っています。ブニュエル・フィルムセンターで最も人気ある展示は、ブニュエルの映像がいかに楽しく超現実的であるかを称賛する映写室です。椅子の代わりに便器が置かれており、それぞれの便器の中にカミソリの刃、見つめる目、鳥の羽など「アンダルシアの犬」を彷彿させる意匠が施されています。ブニュエルのシュルレアリスム映画は前述の「アンダルシアの犬」とシュールリアリストたちの後押しで運動のパトロンであったノワイエ公爵が出資した「黄金時代」くらいでしょうね。「黄金時代」もダリとの共同制作ですが、宗教やブルジョワジー層を皮肉った作品内容に怒った右翼が、上映中にスクリーンに向って爆弾を投げつける事件が起きて、その後50年間公開禁止となった因縁の作品です。そんなブニュエルはスペイン内戦が勃発した後、アメリカに渡ってニューヨーク近代美術館で反ファシズム映画を集めるという仕事に就くのですが、あまりにも世間知らずなダリが自身の著書「わが秘められた生涯」の中で「ブニュエルは無神論者だ」と述べたため職を失ってしまいます。そうしてブニュエルはメキシコに移り久々に映画監督を再開すると同時にメキシコ国籍を取得するのです。そして1950年の社会主義リアリズム映画の傑作「忘れられた人々」によってカンヌ映画祭で監督賞を受賞するのですね。「忘れられた人々」は後にユネスコの「世界の記憶」に登録もされてます。メキシコに移った後もスペインに戻り1961年にカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した「ビリディアナ」を撮るなどしてますが、ブニュエルの主軸はあくまでメキシコにありました。1954年にはメキシコシティの路面電車を舞台にした作品「幻影は市電に乗って旅をする」やブルジョア階級の人々の運命をブラックユーモアで描いた不条理作品「皆殺しの天使」など佳作はメキシコ時代に撮ったものが多いです。「皆殺しの天使」はパーティの後、ナゼか部屋から出られなくなってしまったブルジョア階級の人々を描いてて、数日が過ぎ、水や食料が尽きてくると人々は徐々に理性を失っていく。人々は異常事態の原因を邸宅の主人であると決めつけ、主人は拳銃自殺を図ろうとするのですね。そのとき、ひとり女性があることに気づきます。人々が今いる場所がパーティのあった夜と完全に同じなので、その時の状況を再現することで無限ループから脱出できるのでは?みごとにアタリで全員無事に邸宅から脱出できました。無事に生還した人々はお礼に教会のミサに出席します。ところがミサの終了後、そこに集まった人々は教会から出られなくなってしまうと云う物語。晩年は1970年にスペイン・フランス・イタリアの合作映画でカトリーヌ・ドヌーヴが主演した「哀しみのトリスターナ」や1977年のフランス・スペイン合作映画でブニュエル監督の遺作となった「欲望のあいまいな対象」など再びメキシコから出て活躍してます。「欲望のあいまいな対象」ではあまりにも唐突に訪れる結末によって、ブニュエルがシュルレアリスムに回帰したとも受け取られてます。ルイス・ブニュエルが映画に興味をもったきっかけは意外にも大学時代に観たハロルド・ロイドやバスター・キートンなどのドタバタコメディ映画でした。息子のフアン・ルイス・ブニュエルも映画監督をしてます。1983年に肝硬変のため死去しました。
Nov 19, 2024
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アメリカの建築月刊誌AD(建築ダイジェスト)に取り上げられてから、インスタグラムなどで頻繁に取り上げられてるインテリアスタイルがあります。落ち着きのある配色、わずかな装飾、直線的なラインが美しい家具と異素材の巧みな組み合わせ、そして部屋にそっと彩りを添えるさまざまな植物。テーマは余白です。整然としていながら決して厳かな印象を与えない、静謐(せいひつ)さと柔らかさを感じさせる空間。このインテリアスタイルを「ジャパンディ(Japandi)」と呼んでます。名前からして「和」ですが、単に日本のインテリアだけのことではありません。そこに北欧インテリアを合体させたものなんです。もともと北欧家具は、自然素材の使用に重点を置いており、日本のインテリアと共通点が多いですね。「ジャパンディ」はまさに北欧と日本の美学を合体させたスタイルなんです。日本独特のインテリアはあるイミ「借景」が特徴ですね。つまり室内だけでなく、窓から眺められる景色さえも自分の家の一部のように取り込む。そして昔の日本家屋は、畳や技工を凝らした欄間や障子、天井や壁の仕上げなど自然素材を活かして洗練した空間に仕上げています。家具は最小限しか置かず、なにより西洋ではあり得ない毎日使用する布団を収納すること。そして四季があるので、旬の花を生けたりと季節ごとに装飾が変わっていく。北欧インテリアも家具に力入れてますね。ソファや椅子は長時間座れるように、背もたれの角度や座面の硬さ、肘掛の幅や角度まで計算し尽くされているのは、日照時間が短かく家にこもる時間が長いため居心地の良さを第一に考えられてるからです。北欧では日照時間の短かさから、少しでも太陽の光を家に取り入れるため、寝室以外はカーテンやブラインドはつけないそうです。合理的でありながら、自然素材を活かした家造りは日本人に一番フイットしますね。もともと日本のインテリアには「和モダン」と云う、伝統的な和風デザインと現代的なスタイリッシュなテイストを融合させたデザインがありましたね。「ジャパンディ」と「和モダン」の違いは、「和」要素が取り入れられてる割合の違いです。日本で生まれた和モダンは、和をベースにして、そこに洋とモダンスタイルを足していくイメージです。対してジャパンディは、2017年に考え出されたヨーロッパ発祥のインテリアスタイルで、「ジャパン」と「スカンディナビア」を組み合わせた造語です。北欧のシンプルな美に日本の「侘び寂び」を付け加えていったスタイルと云えます。と、云ってもジャパンディと和モダンの違いがよく分かりませんよね。下のジャパンディ画像を見ると、ジャパンディのベースが北欧にあると理解できます。ジャパンディのキモは「バランスと静寂」。そして余白のある空間と自然光らしい。フェルメールの絵画のような芸術的空間を特徴としてます。とは云っても、日本のお宅でジャパンディのインテリアを取り入れた家なんて、よほど広くて物の少ないとこしか実現できないですね。うちで出来るのは、せいぜい物を最小限にとどめることくらい。あっ、それって断捨離でしたね(笑)ジャパンディの起源は1860年代まで遡るそうです。1863年、鎖国を解いて間もない日本を訪れたデンマーク海軍の尉官"ウィリアム・カーステンセン"は、和の文化に深く魅了され、帰国すると自身の経験をもとに記した「Japans Hovedstad og Japaneserne(日本の首府と日本人)」を発表して、母国のデザイナーたちの興味を掻き立てました。デンマークのデザイナーたちは、まだ見ぬ魅力を自ら確かめるために日本へと渡り、そこで日本独自の侘び寂びの美意識、ミニマリズム、自然の素材、シンプルさを大切にするデンマークの「ヒュッゲ(居心地がいい空間)」な暮らしとの間に共通点を見出したのですね。それ以来、北欧デザインは和の美学の影響を受け始めるようになったのです。ジャパンディへの関心が高まり始めたのは2020年ごろ。ちょうどコロナが世界的に大流行しだした頃です。パンデミックによって、私たちは自然やインテリアを今までより大切に思うようになり、より安心感を求めるようになったと考えられてます。
Nov 18, 2024
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ベトナムと云うと昔サイゴンと呼んでたホーチミンを始め、近年リゾートとして人気の高いダナンや世界文化遺産登録されてる古都ホイアンなんかが有名ですよね。それに比べるとハノイって、首都なのに田舎っぽくて訪れる人も他の地域に比べて少ないでしょう。ハノイ観光と云っても、旧市街の問屋街を散策するか、世界遺産のハロン湾を眺めるか、人にもよりますがせいぜい1日あれば用が足りる。そんなハノイの食べ物と云うと、先ず牛肉フォーの本場と云うことと、ベトナム風ぜんざい「チェー」や、フルーツスムージーの「シントー」なんかが有名です。フォーは具に牛肉を入れるか鶏肉を入れるかの2種類。牛肉入りが「フォーボー」で、鶏肉入りは「フォーガー」です。普通、ベトナムでフォーと云うと牛肉フォーを指します。「チェー(Chè)」はココナッツミルクベースに豆類、芋類、タピオカ、寒天、フルーツなど様々な具材があって、具材によって温っかいか冷たいか決まりますね。温かいチェーは「バーバー(Chè Bà Ba)」、冷たいのは「タッ-プカム(Chè Thập Cẩm)」と呼びます。チェーは屋台や市場などどこでも売ってます。「シントー(sinh tố)」の材料には果物はもちろんのこと、コンデンスミルクが欠かせません。使われてる果物はイチゴやバナナ、マンゴー、ドラゴンフルーツ、グァバ、パパイヤ、アボガドなど様々で、これらを組み合わせて供せられます。ハノイの麺料理では「ブン・ダウ(Bún đậu)」も有名です。と、云うか庶民の定番食のひとつですね。ブン・ダウは細米粉麺「ブン」と、揚げた熱々の豆腐「ダウ」を一緒に食べる料理です。ただブンダウは「マムトム(Mam Tom)」と云うオキアミのような小っちゃいエビを発酵させた、臭いがきつくて独特な風味の調味料につけて食べるのが一般的なんですね。このマムトムは外国人が苦手な食材No.1と云われるくらいクセの強いものなんです。私もアレは苦手のひとつ。ハノイの名物料理はもうひとつ有ります。「ブンチャー(Bun Cha)」炭火で焼いた豚肉の脂身やつくねがたっぷり入った甘めのタレに、揚げたての春巻きや細米粉麺をからめて食べるベトナムのつけ麺です。これは美味い!好みによりますが、ホントウに美味しいです。当時アメリカ大統領だったオバマが2016年にヴェトナム訪問したとき、ハノイにあるブンチャー店「フォンリエン」に連れられていかれてブンチャーを食べたのが報じられてから、「ハノイの名物料理」としてブンチャーを出す店が増加しました。オバマが入ったフォンリエンはそれ以来「オバマブンチャー」と呼ばれるようになりました。しかし、元々ブンチャーはベトナムの国民食と云う位置づけで、特に昼食としてよく食べられてます。
Nov 17, 2024
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2017年にタイのバンコクへ息子とふたり旅したときのこと。先ず観光地を訪れない私ですが、息子が初めての訪タイだったので涅槃像のあるワット・ポーに行きました。昔、バンコクに7年も住んでた私ですが、まったく初めてのワット・ポー参り。と~ぜん寺院内は観光客でごった返しています。で、ワット・ポー見学を終了して、お次はオリエンタルホテルでお酒でもと思って寺院周囲を見渡してもタクシーが1台も停まってない。停まってるのはサムローと云う3輪タクシーだけです。サムローでは5つ星のオリエンタルホテルに乗り入れ拒否されるやんか!とは云ってもサムローしかチョイスないので、ホテル手前で降りて徒歩でホテルまで行くしかなさそう。で、サムローにメーターはついてないので、乗る前に料金の事前交渉しなくちゃならないのですが、200バーツ(約900円)とサムロー運転手の返事。とんでもない!ホテルまで近いし、サムローの相場知ってるから別のサムローと交渉しても同じ値段。倍以上吹っかけられてるのが分かるので私が躊躇してると、息子が「何百円の差だったら乗ったら」?そこで、ふと気づきました。なまじ相場を知ってるから、運転手の提示金額に腹立つけど、わずかの金額で押し問答して時間を浪費するよりさっさと乗った方が賢い選択。つまり観光地めぐりをしない私だから理解不足で、しょせん観光客はこれくらいのリスクは甘んじて受けるものだと。大阪、黒門市場のボッタクリが海外でも有名になって、外国人観光客も敬遠しだしたと報じられてますが、そう云うことなんですよね。イヤな思いしたくなきゃ行かなきゃいい。行くなら、金銭的か精神的かは別にして、その分リスクはありますよ~ってこと。どこの国でも観光地と名が付けば、しつこい客引きとボッタクリは程度の差こそあれつきものです。またインドのバラナシ(ヴァーラーナシー)みたいに、ガンジス河で沐浴してるかと思ったら、同時に川岸で火葬もしてる。そして、とにかく人が多くて汚い。そんなで初めてインド旅行した人の大半は方法の体で帰ってくるのですが、今のようにネット情報が行き渡ってたら、そんなことは旅行前に織り込み済みのハズ。日本人には奇異に見える風習でも、その国の人にとっては大切な文化。かつて、イギリスがインドを植民地支配してたとき、ヒンズー教とキリスト教の価値観の違いから火葬場の郊外への移転が企てられたことありました。これに対しバラナシの人々は強く反対し、火葬論争は30年にわたって続きましたが、結局イギリス政府はガンジス河からの火葬場移転を諦めざるを得なかったのです。これはバラナシの文化であり、異邦人がとやかく云う筋合いではないのですね。記録にはこう記されてます「火葬場が町のために存在するのではない。町が火葬場のために存在するのである」。タイやラオスは上座部仏教の国です。その信仰心は日本人の大乗仏教とは比較にならない深いものです。上座部仏教では子どもの頭に仏がやどってるとされてて、うかつに子どもの頭をなでようものなら親とたいへんなトラブルになります。旅行者目線で云えば、子どもがカワイイから頭をなでても、その土地ではタブー。特に信仰に関することは旅行前に絶対知っておくべきことがらですね。またラオスには仏教とは別に精霊信仰の「ファイ」がいたるところに祀られてます。タイでも「ピー」とか「チャオ」と云う精霊が祀られてます。日本で云うところの自然界に霊魂が宿るとする神道の考え方と同じですね。こうした場所に出くわしたら、信仰してない旅行者は手を合わせる必要はなくても、敬意だけは表したいものです。カンボジアの都市シェムリアップと云うとアンコール・ワットの観光拠点として有名ですが、観光客で賑わう繁華街を除いては下の画像のような田舎然とした町です。タイだって首都バンコクは高層ビルの立ち並ぶ大都会ですが、一歩バンコクを離れるととんでもない田舎風景が続いてます。こうした場所訪れて、「いゃあ~タイヘンなとこ来たな」と思うか、非日常を楽しむかはあなた次第ですよね。日本だって、都市部を離れたらこれに類したとこはいくらでもあるし、外国人観光客は却ってこうした場所を楽しむ旅行者も多い。それに、こうした田舎の方が観光客ズレしてる都市部の人たちより気持ちのいい人多いです。まぁ、私みたいにどの国行っても、観光もせず、ただ飲んだくれてるだけの人間は飲めればどこでもいいんですけどね。それでもマレーシアに行ったときは、KLセントラル駅から電車で1時間くらいのとこにあるブルーモスクを訪れて、ボランティアガイドさんにアラブのイスラームとその他の国のイスラームの違いなど聞きましたよ。そこで初めて、イスラーム教が他者をいかに受け入れるかを大切にしていること知りました。こう云うことは、実際にその土地に行って文化に触れないと理解しずらいことですね。ひとつだけ大事なことをお伝えします。それは多くの国に残されてる戦争被害者を祀る施設です。ポーランドで云えば、ホロコーストの行われたアウシュビッツ収容所跡地、ベトナム・ホーチミンにある戦争証跡博物館、台湾の台北二二八紀念館など。こうした地は例え観光旅行でもぜひ訪れていただきたいですね。戦争がどれほど酷いことか、ひとつでも訪れたら平和ボケしている日本人の頭にも強烈に突き刺さります。私はグアムの南太平洋戦没者慰霊公苑にも行きましたが、この地で約2万人に及ぶ日本軍の兵士が死に、アメリカ軍も2千人以上の死者を出し、さらに日本側によって虐殺された島民も700人に及んだと云うことを知りました。私はホーチミンの戦争証跡博物館で、虐殺されたベトナム人写真の前で涙ながしてるフランス人女性の姿が忘れられません。そのとき博物館にいた日本人は私たち夫婦ふたりだけでした。
Nov 16, 2024
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日本近隣で飛行機の航路として使わない空域があります。ひとつは日本海上空。実際には韓国やアメリカに飛行するときは、日本海上空を飛んだ方が近道になるのに、ワザワザ迂回してる。昔は日本海上空を飛行する航空会社は34社くらいありました。しかし、2015年以降はロシアの航空会社しか日本海上空を飛んでません。それもウクライナ侵攻以降、ロシアから日本への直行便は無くなってるので皆無と云えます。日本海ルートをとるのと、太平洋ルートをとるのでは、アラスカやカナダに飛行する場合、運行ルートの違いで航空会社1社で年間数億円以上の燃費が違ってきます。日本海ルートをとる方がだんぜん燃費が安いのです。それでも航空各社が日本海ルートを避ける理由が有ります。理由は2つあって、ひとつは日本海上空の気象条件の悪さです。特に冬は、シベリア高気圧と太平洋低気圧と云う日本海特有の天候要因で、上空の気温がとてつもなく低く、かつ強風が吹き荒れます。これによって機体に氷が付着(アイシング)したりエンジン凍結の事故がおこりやすくなるのです。特にキャブレターの着氷、吸気口の着氷、エンジンの着氷は即事故につながりかねません。しかも日本海に面する都市は、例えば青森が世界一積雪量が多い都市、世界第二に積雪量多いのが札幌、第三位が富山と世界有数の積雪量を誇り、カナダのケベックなんかよりよっぽど飛行が困難なんです。もうひとつはお馴染みの北朝鮮ミサイル問題です。2015年以降から北朝鮮のミサイル開発が激化してきたのと、発射予告をしなくなったため、それからこっち各航空会社とも日本海飛行ルートとるのを止めたのです。日本国内で云えばアメリカ軍横田基地の空域は民間機の飛行が禁止されてます。横田基地の上空にある「横田空域」は、第2次大戦終了後のサイフランシスコ平和条約で、日本の航空機は米軍の許可を得ずに飛ぶことができないんです。横田空域は、東京都福生市にある横田基地の上空を中心に、世田谷区や中野区、杉並区の上空まで広がる巨大な空域です。北は新潟県から南は静岡県、西は伊豆半島に及び、飛行禁止高度は場所によって7,000m に達します。民間航空機はこの空域を避けるため大幅な遠回りをするか、離陸後に急激に上昇して空域の上空を通過する必要があります。もうひとつ国内で上空飛ぶことを避けてる地域があります。みなさんは羽田から西日本に向かう航空便で、窓から富士山を眺められた方も多いでしょう。遠くから眺めるのぢゃなく、もっと近寄って見たいと思うかもしれませんが、先ず航空機が富士山上空を飛行することはありません。ナゼ富士山上空を飛ばないかと云うと、富士山の高さと孤立峰と云うことが原因してます。孤立峰と云うのは富士山のように、連峰とは違い、ただ1つだけでできてる山のことです。風が山を越えて吹くとき、山の斜面に沿って吹き上がった空気は山頂へ向かっていくにつれ冷たく重くなり、山頂を越えると今度は温まって膨張しながら吹き下ろしてきます。麓まで降りた空気は充分に温まり、今度は上昇気流となっていき、上昇するに従い再び冷たく重くなることを繰り返し、波打つような流れを作るのです。このように、山の風下側に発生する波打つような気流のことを「山岳波」と呼びます。山岳波は周囲に乱気流を発生させることもあります。山が高いほど、そして吹く風が強いほど山岳波は強くなるので、周囲に風をさえぎる山がなくて、日本一高い富士山は非常に強力な山岳波の発生源なんです。それが航空機の運行に非常に危険なんですね。なので民間航空機は富士山上空飛ぶことを避けるのです。この富士山の山岳波によって発生した航空事故があります。1966年に発生したサイフランシスコ発「英国海外航空911便」ボーイング707墜落事故です。この事故で機長がとった行動が事故発生につながりました。通常よりも数千メートルも低い高度で、しかも有視界飛行で富士山近傍を飛行しようとしたのです。機長はアメリカ人団体観光客が多く搭乗していたため、サービスで日本の象徴 富士山を近くで見学してもらいたいと思ったのかも知れません。しかし事故当日、中国大陸からの強い季節風のために予想を大幅に上回る強い山岳波が発生していたのです。この強い乱気流によって、垂直安定板および右水平安定板が破損、次いで右主翼端やエンジンが脱落し、主翼全体から漏れ出した燃料が白煙のように尾を曳きながらきりもみ状態で墜落してしまったのです。まさに空中分解です。乗員乗客あわせて124名全員死亡、生存者0と云う大事故になりました。
Nov 15, 2024
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「ステレオタイプ」と云う言葉は、人々に浸透している固定観念や思い込み、先入観を指します。ステレオタイプによって型にはまった考え方が浸透してしまい、事実と異なる誤った認識を持ってしまう可能性があるのですね。キアヌ・リーブスが主演する「ジョン・ウィック」シリーズの第4作目「ジョン・ウィック:コンセクエンス」には真田広之扮するキアヌ・リーブスの旧友はじめ、新潟生まれの女性シンガーソングライター"リナ・サワヤマ"扮する真田の娘や数々の力士、忍者が「コンチネンタル・ホテル大阪」を舞台にジョンとともに敵と闘うシーンが連綿と映し出されます。このシーンのコーディネートは日本人アクション監督の川本耕史がしてますが...これを観た日本人は日本でないどこか他の国の出来ごとだと思ったハズです。キアヌ主演映画でさえ、昔からあるアメリカ人の間違った日本感、日本人=武士と忍者が色濃くあらわれて日本人からしたら違和感の集大成。こう云うことはハリウッド映画では日常茶飯事ですね。「X-MEN」シリーズのヒーロー"ウルヴァリン"が日本で活躍する「ウルヴァリン:SAMURAI」でも主演のヒュー・ジャックマンが来日して日本で撮影をおこなったにも関わらず、外国でイメージされている日本そのものの映画となってしまった。今ごろアメリカ人で日本人=ヘプバーン主演の「ティファニーで朝食を」に登場する小柄で出っ歯、黒縁メガネをかけ着物姿なのにズボンもはいている珍奇な姿の日本人をイメージする人は居ないと信じたいですが...いや、まだ居るかも知れませんねぇ。なにしろアメリカ人で地図上の日本の位置を正しく示せる人の方が少ないのですから。東アジアのどこか、中国や朝鮮半島あたりとしか分からない人が圧倒的なんですね。まぁ、それを云えば、日本人の大多数だってヨーロッパや中南米の国々をちゃんと見分けられる人の方が少ないでしょう。それぞれの国の文化だって、フランス=毎朝クロワッサン、ドイツ=ジャガイモとソーセージとビール、スペイン=パエリアみたいに事実と反してる反してないに関わらずステレオタイプはもってるハズです。ちなみにパエリアはスペインでもバレンシア地方の料理です。フランス人がよく朝食で食べるのはクロワッサンだけでなく、ブリオッシュやバゲットも食べます。アメリカ人と云うと「ホットドック」と云うイメージあって、先日おこなわれたドジャース対ヤンキースのワールドシリーズTV中継でドジャースタジアムに集まった観客が「ドジャードッグ」を頬張るシーン映し出されてました。ところが実際にアメリカ行くと、ほとんどホットドック屋なんて見かけない。事実、アメリカ人にとってホットドックは「まぁ簡便になにか食べるか」感覚で、ハンバーガーやピザほどメジャーぢゃないんですね。日本で云う縁日の屋台料理みたいなものです。アメリカ人と云うと知らない人とでもスグ仲良くなって話し込んだりするイメージがあって、私もバンコク旅行で幾人ものアメリカ人とお喋り楽しみましたが、ぢゃあお話したアメリカ人と友達になれるかと云うとそれは別です。アメリカ人が知らない人とお喋りするのは、日本で云う挨拶みたいなものです。「やぁ、元気?」それくらいの感覚。それが発展して友達になるなんて、まぁ無いですね。アメリカ人にとって雑談も笑顔も社交辞令のひとつなんです。間違っても、真剣に政治問題を語ったりしてはダメです。「I LOVE YOU(アイラブユー)」だって日常会話の「じゃあねぇ」みたいなものです。アメリカ人と云うと日本人に比べて仕事態度がい~かげんで、それが許されるからいいなぁなんて思ってません?たしかに田舎の人はすぐサボルし、ニューヨークなんかでも定員さんの態度悪いとこあります。反面、ニューヨークの一流企業なんかで働いてる人は日本人顔負けの仕事時間と仕事量をこなしてます。なにしろスグ解雇が法律で認められてる国ですから、ちゃんとした企業人はうかうかしてられないのですね。こうしたアメリカ人のステレオタイプは反面正しくて、反面誤解と云えるものです。冒頭の話に戻りますが、真田広之がドラマ「SHOGUN 将軍」で主演だけでなくプロデューサーとしても活動したのは、ハリウッドチックでなく細部にこだわり、現代の人に日本の文化が伝わるような内容にするためだったのですね。つまり欧米人が描いてるステレオタイプの日本像ではなく、できるだけ実態に即した日本を描きたかったためです。まぁ、どの国の人々もみんな異国に対してステレオタイプは持ってるワケで、それを払拭するのは実際にその国に訪れないかぎりムリってことです。
Nov 14, 2024
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Just The Way You Areを直訳すると「ありのままのあなた」だけど、これが邦訳されると「素顔のままで」。もちろんビリー・ジョエルの大ヒット曲のことです。1977年に発売されたアルバム「ストレンジャー」でビリーは一躍スターダムにのし上がったワケですが、そのストレンジャー収録曲のひとつが「Just The Way You Are(ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー)」でしたね。「Just The Way You Are」は翌年のグラミー賞で最優秀楽曲賞と最優秀レコード賞を受賞した、ビリーにとって最大のヒット曲ですね。当時の妻エリザベスに捧げられたラヴ・ソングで、ボサノヴァのリズムを取り入れたミディアム・スロー曲です。2009年にはトヨタ・エスティマのCMソングでも使われました。邦訳の「素顔のままで」と云うと、1992年にフジTVが放映したトレンディドラマにも同名タイトル作品がありましたね。安田成美と中森明菜が主演した。このドラマの主題歌は、今や懐かしい米米CLUBの「君がいるだけで」なのに、ドラマの副題は「Just The Way You Are」。もちろんビリーのヒット曲を意識したものなのに、主題歌は邦楽。なんかヘンやなぁ。台湾や香港では「難得友情人(rare friend=珍しい友人)」という題名で放送されてました。女性シンガーソングライター"メーガン・トレイナー"の2014年のビューシングル「オール・アバウト・ザット・ベース~わたしのぽちゃティブ宣言!」はアメリカ、カナダ、ヨーロッパ各国、オーストラリア、ニュージーランドで1位を記録する大ヒット曲ですが、この曲はJust The Way You Are に影響を受けて作ったとメーガンが云ってますね。こんなラップ調の曲とJust The Way You Are 、ぜんぜん結びつかないけどそうなんかなぁ?ビリー・ジョエルの父親はナチスから逃れるためアメリカに亡命したユダヤ人。母親もイギリス系ユダヤ人ですが、この家族、ユダヤ教にまったく無関心らしい。後年になってビリーは宗教団体を辛辣に風刺した曲「So Long, Reverend Ike」を発表してるくらいですから無信仰なのかも知れませんね。なぁんて四の五の云わず、ビリー・ジョエルの「Just The Way You Are」、お聞きいただきましょうか。いつ聞いてもいい曲ですが、ビリーがこんなラブソング歌ってるのは後にも先にもこの曲だけなんですよね。批評家のなかには、歌詞が陳腐だと云う人もいます。Billy Joel - Just The Way You Are - Live -
Nov 13, 2024
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私がタイのバンコクに赴任したのが1972年。それから7年いました。円が変動相場制に移行したのが1973年ですから、行った当時は1$=360円、1(タイ)バーツ=10円固定の時代です。当時、ベトナム戦争の真っ最中だったので、北ベトナムからのミサイルを避けるため、旅客機は南シナ海をおおきく迂回しての飛行で今の飛行時間より1時間くらい多くかかったと思います。ベトナム戦争の終結が1975年ですが、タイ人でもベトナムに兵隊として駆り出された人もいましたね。そんなタイ人に話を聞くと、戦争映画みたいに勇敢な兵隊なんていなくて、みんなライフル弾が当たってもダイジョウブなようにヘルメットを2重に被り、物陰にジッと身を潜めるしかなかったと。当時のバンコクには米兵専用のホテルがあって、そんなホテルではタイのお金は使えなくて、米ドルだけ通用してたし、タイのリゾート「パタヤビーチ」に行ったら、沖合に米軍の巡洋艦や潜水艦が浮かんでました。当時のパタヤビーチは米兵の保養地だったのです。今の日本は輸出業を除いて円安に苦しんでますが、変動相場制に移行した当時は1$=120円台のとてつもない円高・ドル安で、これはとりもなおさず日本の経済成長率が群を抜いた高さだったためです。タイは昔から親日の国でしたが、私が行った当時は最悪の対日感情。それは何もタイだけぢゃなくて、インドネシアなど東南アジア諸国共通の感情でした。ひとつには東南アジア諸国の人々がとてつもなく貧しくて、それに比べて日本人の東南アジアに対する態度が災いしてたのだと思います。とにかく当時の日本人のおごり(驕り)は、今では考えられないくらい酷かったですね。それとともに日本人は東南アジアへ「日航機」でやってきて、空港では「日本の旅行業者」のガイドに案内され、「日本製のバス」でバンコク入り。「日本人経営のホテル」に泊まり、「日本人経営のレストラン」で食事し、「日本人経営のナイトクラブ」で遊ぶ。それだけでなく現地駐在員は「日本人学校」だけに子どもを送り込み、日本人コミニュティの中だけで生活してると。事実、そうでした。1972年の統計では、当時約7,000人の日本人がバンコクに居住してました。反日感情の引き金になったのは3つの事件が影響してます。ひとつはキックボシングです。キックボシングはタイの国技ムエタイ(タイ式キックボシング)と違って、五木ひろしを世に出したことで有名な野口修が設立した日本キック・ボクシング協会の格闘技です。野口は当時、日本人駐在員お買い物定番のタイ大丸の入口に1972年、ガラス張りのリングを作りそこでタイ人ボクサーを戦わせたのですね。そして日本人キックボクサー沢村忠らがタイ人ムエタイ選手(実態は留学生で正式な選手ではありません)を打ち負かすシーンをビデオで流したのです。これがムエタイを冒涜したとなって、学生約200名が野口ジムを襲撃、投石どころか銃弾を撃ち込んで抗議デモを行ったのです。ちなみに沢村忠は一度もバンコクに来て勝てたことないし、事件以降はタイ入国できなくなりました。2つ目は、1972年にタイの国立大学チュラーロンコーン大学の学生を中心に結成された「全国学生センター」によって行われた日本製品不買運動です。この運動は10日間おこなわれて、日本経済進出の象徴とされていた野口ジムとタイ大丸を攻撃目標にし、ポスターやセミナー、デモなどを通して日本製品不買を訴えました。なにしろ輸入品と云うのは絶対的に日本製品が占めてた時代で、欧米製の車さえ珍しい部類でした。もちろんメイド・イン・チャイナなんて影カタチも無かった時代です。そして、こうした日本製品を買えるのは一部の富裕層だけで、一般庶民には手の届かないもの。この運動はバンコクのみならず、チェンマイやコンケーンなど地方都市にも広がり、タイの新聞は連日、学生の行動を支持する記事を載せました。最後の事件がもっとも深刻でした。1974年におこなわれた田中角栄(当時首相)によるタイ訪問です。これには1972年の日本製品不買運動から漂ってた反日ムードが影響していて、そのトドメをさしたかたちになったのですね。田中首相がバンコクに到着した日に対日赤字が増大し、それが国民の生活を苦しくさせていると約20,000人の学生が市内で抗議活動を行い、そして暴動に発展してしまったのです。田中首相は、日本の経済支配、日本TV番組の影響、関税、日本人旅行客の行儀の悪さなどに関して、学生代表と会見しましたが、このとき田中首相は「わが国が批判されている問題点のうち、かなりのものはむしろタイ国政府の問題にある」と述べたために、火に油を注ぐ結果なったのです。学生は不満を爆発させ、「首相の云い逃れと傲慢さに驚いた」と怒り、対面は物別れに終わりました。これ以降、日本製品の不買運動はますます激しくなり、私も路上で日本車が横転させられて炎上してるの見たことあります。とは云っても、私は現地タイ人スタッフと仲良く、のほほ~んとした生活の毎日。お気楽なモンです(笑)反日運動が下火になったのは全く記憶にないのですが、タイ人の生活が少しずつでも向上していったのと歩調をあわせてたと思います。私がバンコクに赴任してた時期と云うのは、日本の「高度成長期」まっ只中。70年代初頭はベトナム反戦運動が活発になり、ウーマンリブやヒッピーが世界的に流行した時代です。日航機よど号ハイジャック事件は1970年に発生してますから、私はまだ日本にいました。1972年におきた連合赤軍浅間山荘事件も日本でTV中継観た記憶ありますから、その直後に毎日放送退職してバンコクに赴任したのでしょうね。さて、私が初めてバンコクを訪れたときの空港は、現在の広大なスワンナプーム国際空港ではなく、ドンムアン空港でした。ドンムアン空港はタイ空軍の飛行場が併設されてる空港で、現在はLCC国際線と国内線、そしてチャーター機、政府専用機、貨物専用機などが利用してます。下の画像上は1970年代ドンムアン空港に駐機する今はなき「エア・サイアム」です。私もこのエア・サイアムに乗って初めてバンコクを訪れました。まだ飛行機からタラップを降りて、空港ビルまでバス移動の時代です。エア・サイアムはJALと地上業務提携をしてましたが、1977年、経営悪化で運行を辞めた航空会社です。この時代、海外旅行にいく日本人男性は、スーツにネクタイを着用して飛行機に搭乗。空港には知人が集まり出発を見送ったころです。旅の必携品と云えばお守りと正露丸そして漬物でした。バンコクは70年代と80年代には、それほど大きな変化はありませんでした。バンコクの土地はチャオプラヤ川(メナム川)下流のデルタ地帯にできてたため、70年代は地盤が脆弱で高層ビルや地下鉄を作れないと云われてました。しかし、90年代に入ると大きく変化し、超高層ビルが姿を見せ、高架モノレールBTSが走り、現在では地下鉄が縦横に走ってます。私が赴任してたころのバンコクの交通手段と云えばタクシーかトゥクトゥク(三輪タクシー)、ソンテウと呼ばれるトラックの荷台を座席に改装した乗合タクシー、そして公共バスしかありませんでした。どの交通機関も冷房なんてまったく無い時代でした。ソンテウは一度も利用したこと有りませんでしたが、日本人駐在員の奥さま方はよく利用してるの見かけましたね。タクシーは現在のようにメーターがなく、乗車時に値段交渉から入ります。そして車は日本のタクシー中古車をそのまま輸入して使ってたので◯◯タクシーなんて日本の会社の名前がそのままボディに書かれたものが走ってました。しかもボロボロの車も多くて、床が錆びて腐って穴あいてるなんて日常茶飯事。これでスコールに見舞われると、車体の下から水があがってきて足ビチャです。タイ大丸に日本人が経営してて、場所を変え現在もある「泰文堂書店」が日本の雑誌を輸入してましたが、到着まで1ヶ月遅れでした。運賃の高い航空便でなく、安い船便を使ってたからです。ここは日本人学校の教科書も扱ってましたね。TVで衛星放送なんて無い時代です。年末恒例のNHK紅白歌合戦は、日本で録画したテープを番組終了直後にJALカーゴに乗せて、翌日(元日)公開してくれる日本人経営のホテルがあって、それが在タイ日本人で満席になるほど。今のようにネット環境もなく、情報がほとんど入らなかった時代で、みんな日本の情報に飢えてました。当時のバンコクは固定電話回線も脆弱で、スコールが降ると度々通信できなくなる。日本とのやり取りは、もっぱらテレタイプ端末を使用して電話回線で繋ぐ「テレックス」だけと云う時代。忘れられないのはアントニオ猪木がボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリと戦った1976年の試合。このときは衛星放送が確率してたのか、バンコクでも日本から送られてくる試合中継がTVで観れました。タイ人の関心は絶大でしたが、イザ試合始まると猪木はリングに寝転んだままで膠着状態の試合が永遠と続いて、あまりのつまらなさに途中からタイ人はほとんどTV前から居なくなりました。バンコクは今や国際観光都市としてシャングリラやペニンシュラ、マリオット、ミレニアム ヒルトン、フォーシーズンズなど5つ星ホテルが林立してますが、70年代のトップホテルと云えば文豪サマセット・モームの愛したオリエンタルと当時国営だったエラワンホテル、そして欧米人ご用達のインターコンチネンタルぐらいしか有りませんでした。バリ風建物で有名だったインターコンチネンタルホテルは2002年に取り壊され、跡地に高級巨大ショッピングセンター「サイアムパラゴン」が建設されました。今も外国人観光客の歓楽街として有名なパッポン通り、ここはベトナム戦争のときに、アメリカ軍兵士がR&R(軍事スラング用語で、休養とリラクゼーション)を楽しむための歓楽街として発展した街です。隣接するタニヤ通りは日本人駐在員対象のクラブ街でしたが、私はもっぱら欧米人の集まるパッポン派でした。このパッポン通りに日本人の経営する「ミズ・キッチン」と云うステーキレストランがあって、在タイの日本人若者が飲んだ後集まるたまり場。その頃は私もまだ若かったので、ここに四六時中出入りしてました。何十年ぶりかで再びミズ・キッチンを訪れたときは、当時そのままの内装に懐かしさから思わず涙しました。そのときは日本人オーナーも高齢とは云え健在でしたが、ほどなく亡くなりお店そのものが消滅してしまいました。なんか私の履歴書みたいになってしまいました(笑)今、思ったら、よく当時のバンコクに7年もいたものです。しかし、のんびりおっとりして住みやすい街だったかな?帰国して何十年経ってから再び訪れたら、まったく知らない国ど~ぜんで言葉が通じたからいいものの、どこに行くにもどぎまぎしました。
Nov 12, 2024
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2014年にマシュー・マコノヒーが主役の元空軍パイロットクーパーを努め、その娘役をジェシカ・チャステイン、クーパーとともに宇宙に飛び立つブランド博士役を映画「レ・ミゼラブル」でアカデミー助演女優賞受賞のアン・ハサウェイが演じたSF映画「インターステラー」が公開されました。とてつもなく話題を呼んだ作品なので、ご覧になった方は多いでしょう。この作品は巨大砂嵐が日常的に発生する異常気象の近未来地球から始まり、NASAが密かに土星近傍のワームホール(時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道)を通り抜けて、別の銀河に人類の新天地を求めるプロジェクト「ラザロ計画」を遂行していることを知った元空軍パイロット"クーパー(マシュー・マコノヒー)"の物語です。人類生存のために第2の地球となり得る惑星を探すミッションにパイロットとして参加するクーパーはブランド博士(アン・ハサウェイ)らと宇宙へと飛び立ちます。飛び立つ直前に10歳の娘マーフと別れをかわしますが、いつ帰還できるか分からないミッションに猛反対するマーフ。結局、マーフとの和解ができないまま「必ず戻ってくる」とだけ云い残し旅立っていくのですね。さて、ここから理論物理学の世界に入っていきます。アインシュタインが確立した特殊相対性理論に基づいて「高速で移動するほど、止まっているものより時間の進みが遅くなる」云う理論で話が進んでいくのですが、映画ではそんなムツカシイ理論を意識することなく鑑賞できます。宇宙に飛び立って2年後、土星近くのワームホールに接近した宇宙船はワームホールを通り抜け、ターゲットのひとつ水の惑星を目指します。同乗していた物理学者は、水の惑星の超重力が時間の流れを遅くしており、この星の1時間は地球の7年間に相当すると警告します。そして水の惑星を探索中に突如として山のように巨大な波が宇宙船を襲うのですね。この波によって他の隊員は溺れ死に、ブランド博士だけが操縦士クーパーに助け出されます。ようやく水の惑星から脱出したクーパー。受信はできるものの、こちらから送信は出来ない地球からの連絡にアクセスします。待っているマーフは既に成人して今はNASAで重力の研究していることを23年分のビデオレターで知るのです。そう特殊相対性理論によって宇宙船より時間の流れが早い地球では既に23年もの月日が流れ、そして自分たちの生存が諦められてることを知ります。もはや燃料と酸素のほとんどを使い切った宇宙船は地球へ帰還することが不可能。そこでブラックホールに接近し、ブラックホールの引力を利用して振り子のように宇宙船を飛ばそうとします。そのためには宇宙船から切り離した小型機をブラックホールに飛ばさなければいけない。クーパーはブランド博士を宇宙船に残し、ひとり小型機に乗り込んでブラックホールに落下していきます。彼女ひとりにミッションの全てを託すのです。ブラックホールに物体が飲み込まれる瞬間を想像しても、実際にその瞬間を目撃することは不可能です。相対性理論では、巨大な重力を持つブラックホールの近傍では、時間が極めてゆっくり流れていく。そのため、ブラックホールに向かって移動する物体を遠くから観察すると、表面に近づくにつれて動きがゆっくりになり、永遠にたどり着かないように見えるのです。実際には物体はブラックホールに到達しているのに、遠くから見るとまるで静止しているように見えるのですね。クーパーがたどり着いた先は...無数の立方体が幾重にも折り重なった4次元超立方体テサラクトの空間でした。立方体は"誰か"あきらかに"見知らぬ知性"が造ったもののようです。そして立方体を辿っていくうちに、立方体の隙間から娘マーフを見つけます。ビデオレターで伝えてた通り、垣間見えたマーフは立派に成人してましたが、クーパーには気づいてないようです。なぜならマーフ側から見たクーパーの位置はただの本棚だったのですから。クーパーは重量波を操作して本棚から本を落とし、マーフと交信を試みますが、それでも自分の過去を変えることはできない。彼は自身が過去を変えるためではなく、未来を変えるためにこの空間に送られたことに気づきます。クーパーは搭載してたロボットに収集させた特異点のデータを、マーフのアナログ時計の秒針を使ったモールス信号で送るのです。その時計はクーパーがマーフに残したハミルトンの腕時計でした。そして...ついにマーフは秒針の微妙な動きが父親から送られてるモールス符号だと気づくのです。クーパーがモールス符号で送った特異点のデータを使い、マーフは重力問題に解を見つけるのです。その瞬間、超立方体テサラクトが閉鎖し始めクーパーはワームホールの中に吸い込まれていきます。どれくらい時間が経ったでしょう。クーパーは土星の軌道上に建造された巨大スペースコロニーの病室で目覚めます。彼は宇宙に放り出され漂流中に、探索中だった宇宙船に発見され救助されたのです。マーフの功績でスペースコロニーの建造と打ち上げが成功し、地球滅亡から人類は救済された後でした。クーパーはコロニーの病室で年老いたマーフと彼女の大勢の子や孫たちとともに再会を果たします。そう父親と娘の年齢が特殊相対性理論によって逆転してたのです。マーフはクーパーに、惑星へひとりで向かったブランド博士を探しに行くよう諭します。そしてクーパーは宇宙船を駆ってコロニーを後にするのです。ブランド博士がひとり待つ惑星に向かって。長々とストーリーを述べましたが、なにしろ難解な作品なので前置きが長くなりました。今日の本題はこの映画の監督クリストファー・ノーランの作品造りについてです。クリストファー・ノーランと云うのは2010年の映画「インセプション」や2012年の映画「ダークナイト ライジング」あるいは昨年アカデミー賞を独占した「オッペンハイマー」など、どの作品を観ても「ここはCGでしょう」と云う場面のほとんどを実写で撮ることで有名ですね。「インターステラー」なんて、近未来から始まって宇宙の深淵まで描写してるのですから、全編CGでもオカシクない。なのにインターステラー作品のほとんどはロケとセットを使った実写なんです。唯一、ブラックホールのシーンだけはCGしかチョイスないのでやむなく使ってますが、その形状についてはノーベル物理学賞受賞者で理論物理学者キップ・ステファン・ソーンに監修してもらって極力実像に近い映像にしてます。このインターステラーで使われたブラックホールのCGシーンは、後の2019年にイベント・ホライズン・テレスコープと云う電波望遠鏡で撮影されたブラックホールの実像と酷似していたので世間を騒がせました。インターステラーの冒頭シーンで登場する広大なトウモロコシ畑は、ノーラン監督が土地を実際に購入してトウモロコシを栽培。その広さ500エーカー、東京ドームの広さが11.5エーカーですから、とんでもない広さなのが分かります。そして、そのトウモロコシ畑をクーパーとマーフを乗せた車が飛行機を追いかけて疾走するのですが、実際にはトウモロコシの背が高くってクーパーからは全く前が見えない。それでヘリコプターで上空から車を追いかけ、無線で運転方向を指示してたのですね。撮影を終えたトウモロコシはお店に安く売って、撮影費用に充てがわれたとか。「水の惑星」のシーンはアイスランドのマゥファボゥトと云う超巨大な三角州で撮影されました。ところがマゥファボゥトに行くのに道路が未舗装で撮影機材が運べない。ど~したと思います?ヘリで?いやいや機材が多すぎて運びきれない。なんとノーラン監督は中継地点からマゥファボゥトまでの15km の道路を新たに建設してしまったのです。この撮影ではスーツの不備でアン・ハサウェイが低体温症になる事故が発生しましたが、事故を乗り越えてハサウェイも撮影を続けたのですから役者根性ハンパないです。さて、問題のクーパーが入り込む4次元超立方体テサラクトのシーン。このシーンの撮影、緑色のスクリーンを背景に出演者が演技して、後から背景を別の映像と合成する「グリーンバック」を全く使ってないのです。今ではと~ぜんのように使うグリーンバックを一切使用せず、あくまで実物大のセットを組んで撮影してるのですね。とにかくリアルにこだわり過ぎた監督と云うのは使う費用も膨大ですが、それなりに見事な映像を見せてくれるのですね。昨今のなんでもCGとは真逆の製作姿勢です。
Nov 11, 2024
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「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」と云うキャッチコピーは世界の3大ビール銘醸地のことですね。ミュンヘンはビヤレストランのミュンヘンぢゃなくて、ドイツ バイエルンの地名。ミルウォーキーは、アメリカのウィスコンシン州はミシガン湖岸にある土地ですね。サッポロはもちろん札幌です。しかし日本ビールの世界シェアは、7位にアサヒ、10位にキリンがランク入りしていますが、実態は世界シェア3.0%と1.5%でほとんど無いに等しい。そもそも「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」と云うキッチそのものが、サッポロビールが1958年に打った広告で、語呂のよさと北緯45度付近に位置する3都市を結んだ着想のよさで流行語になっただけです。そもそも世界のビールシェア(生産量)は次の3社が約半分を占めてます。世界トップのビール会社はベルギービールの「ステラ・アルトワ」などを生産するビール会社「アンハイザー・ブッシュ・インベブ」です。ただ、この会社は世界50カ国以上もの国々に製造拠点を持つグローバル企業なので、例えばアメリカを代表するビール「バドワイザー」やメキシコのビール「コロナ」なんかも販売してるので、単純にベルギービールの会社とはいい難いですね。世界シェア第2位はお馴染みオランダの「ハイネケン」です。この会社の歴史は古いですね。なんと創立は1863年です。第3位は意外に思われるかも知れませんが中国の「華潤雪花(China Resources Snow Breweries)」なんです。実は中国は世界でもっともビールの消費が多い国なんです。まぁ、人口が人口ですからね。このビール会社のそもそもは、満州時代の1934年に大日本麦酒とキリンビールの合弁で奉天に設立された満州麦酒(満州ビール)です。消費は中国本土のみで、輸出は極めて少ないそうです。中国には日本人にも馴染みのある「青島ビール(チンタオビール)」もありますね。ビールと云えばドイツってイメージあるけど、世界シェア上位3社に入ってないのは奇異な感じしますね。中国の雪花ビールを別にして、上位2社はグローバル化してて、他国のビールも扱ってるから単に売上だけでは判断できないですね。ちなみにバドワイザーは、ミズーリ州セントルイスが本部だから「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」のミルウォーキーではない。ミルウォーキーの有名ビールは「パブストブルーリボン(Pabst Blue Ribbon)」です。総じてアメリカのビールは水みたいな味わいで、コクに欠けますね。ドイツと同様にパブでお馴染みのイギリスのビールも販売額では上位いってません。ラガービールが主流の現在でも、イギリスはエールビールが古くからの主流だからです。エールビールは上面発酵という常温に近い温度で麦汁を発酵させる方法で造られます。上面発酵で造られるエールビールは、豊かな味わいと芳醇な香りが特徴。イギリスでビールを注文するときは、「1パイント(約568ミリリットル)」か「ハーフパイント(約264ミリリットル)」という単位で注文しますね。「パイント」は「メートル法」ではなく、「ヤード・ポンド法」の体積単位です。また、「パイント」にあわせたビールグラスが、パブでよく見かける「パイントグラス」です。飲み口が広くグラスの高さが低いため、香りの高いエールビールを楽しむのに最適なんですな。実はイギリスのパブは年々店舗数が減ってるそうです。それでもイギリス全体で4万店舗くらい残ってるそうですが。パブで飲ませるエールビールの特徴は、パブの中で行われる「カスクコンディション」と呼ばれる樽(カスク)の中での二次発酵です。つまり最後の熟成はパブでおこなうので、そのパブの腕次第で味が違ってくるのですね。黒スタウトビール「ギネス(GUINNESS) 」も有名ですが、アレはアイルランドのダブリンのビールですね。これも今は世界各地に製造拠点を持ってますが、ナイジェリア生産のギネスは、アフリカの気候下で保存されるためアルコール分が8%と非常に高くなっています。アイルランドのギネスのアルコール度数は、缶で4.5%、瓶で5%です。ビールグラスで「ビアブーツ」ってのがありますね。ビアブーツにビールを注ぐと、グラスの形状が災いして大きな泡が発生します。そしてグラスの傾きに合わせて泡が先端まで進むと、残ったビールが猛スピードで口に向かって押し寄せるのです。これを防ぐには、ゆっくり泡を抜くのがコツです。ビアブーツのつま先を自分の反対側に向けて飲み始めます。泡がガラスの下を移動するときに、ブーツをゆっくりどちらかの方向に90度回転させ、泡がつま先に到達するまでにつま先が右または左を向くようにします。これにより圧力が軽減され、スムーズでクリーンな飲み心地が保証されます。ビアブーツ事始めと云われてるドイツやオーストリアでは、お店のグラスにラインが入っていて、ドリンク容量を守るために、決まった容量までいれないといけない法律があります。グラスをよくみると0.2リットルとか、0.5リットルの表記と下に短い線が引いてあるのです。この線のことを「アイヒシュトリヒ(Eichstrich)」と呼びます。このアイヒシュトリヒはビールだけでなく、ワインやシュナップスからソフトドリンクなどにも導入されてます。ビールの場合は泡がつきものですが、ラインまで「液体」が入っていることが条件です。泡はアイヒシュトリヒの上からではなければいけないのですね。最後に世界でイチバン安い生ビールはどこで飲めるでしょう?それは"ベトナム"です。ベトナムのハノイで有名な「ビア・ホイ(Bia hơi)」は大ジョッキ1杯約92円から。軽い口あたりで、苦みが少なくすっきりとした味わいで、ヨーロッパのビールに近いです。ハノイでコーラ1缶が約74円から、ミネラルウォーター(500ミリリットル)が約62円からですから、どんだけビア・ホイが安いか分かります。ビア・ホイは量り売りもあって、お店で注文するとグラスとともに大きなピッチャーに入ったビア・ホイが用意されます。それを自分でグラスに注いで、冷たいのがご所望なら中に氷を入れて飲むんですね。
Nov 10, 2024
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日本には温泉や銭湯みたいな大きなお風呂でなくても、どこの家庭にも浴槽があって夏場ぢゃなければ毎日湯船に浸かりますよね。私は温泉の大浴場は誰がお湯の中で何してるか分からないのがイヤで入らないです。温泉にいっても、もっぱら部屋のお風呂で済ませてます。ところが東南アジアを旅行してると、よく浴槽を備えてなくてシャワーだけのホテルに当たることがあります。どこも暑い国なので、シャワーだけでもいいんですが、浴槽に浸かるってのは身体を洗うと云うより、リラックス効果が主目的だからこれが難点なんですね。YouTube なんかで欧州の宿泊施設観ても、一流ホテルは別にして安ホテルやドミトリーなんかはシャワーのみってとこ多いですね。ましてフランスみたいに、アパートを宿として貸してるとこなんかは、連続で使用できるお湯の量が200リットルとか300リットルと限られてて、その量のお湯を使い切ってしまうと例えシャワーの最中でもお湯が出なくなって、お水になってしまうとこが多い。インドや東南アジアの一般家庭では、そもそもお湯で洗う習慣がなくて水浴中心なんですね。シャワー設備もない家庭だったら、バケツに水溜めて、その水を手オケみたいのでバシャバシャやるだけ。川のあるとこだったら、川で水浴びで済ませています。北欧は、サウナで有名ですが、サウナ後のお湯の入ったバスタブってのはありませんね。水風呂とシャワーのみ。まぁサウナで温まってるからこれでも良しなんでしょうが、北欧の家庭見ても浴槽が無くてシャワーのみってのが一般的ですね。そもそも乾燥したとこが多い欧州では入浴の必要性が低く、シャワーすら週1ってとこも多いらしい。欧州にはアイスランドのブルーラグーンとかハンガリーのゲッレールト温泉やセーチェニ温泉、ドイツのカラカラ浴場、オーストリアのレーマーテルメ、トルコのパムッカレ温泉など数多くの温泉地が有りますが、どこも日本みたいに入浴目的ぢゃなくて、温水プールの感覚ですね。なのでトーゼン、水着着用必須。台湾にも関子嶺温泉とか烏来温泉とか多くの温泉地がありますが、個室で無い限り原則水着着用です。そんな中で全露天風呂の日月農荘は水着不可の珍しい温泉。日本と同じように素っ裸で入らないといけないらしい。お隣、韓国で一般家庭はバスタブない家が普通ですね。バスタブがある家でも普段はシャワーだけで済ませる人が多い。韓国のバスタブは、物置代わりや大きな洗濯物を洗濯する場。ときによっては、キムチを大量に漬けるキムジャン用の料理場として使われます。家にシャワーしかないので、身体を温めたいときやリラックスしたいときは「モギョクタン」と呼ばれる銭湯や「チムジルバン」という韓国式のサウナを利用します。モギョクタンは日本の銭湯みたいに洗い場と大きなお風呂があり、垢すりやサウナが利用できるところもあります。チムジルバンは日本でいうスーパー銭湯です。ここでは定番の垢すりの他に汗蒸幕(ハンジュンマク )やよもぎ蒸しも受けられます。中国も韓国と同じで一般家庭に浴槽があるのは稀です。シャワーのみで済ませてしまいます。北京など乾燥した地方では、毎日お風呂に入る習慣自体がないそうです。「ザオタン」という公衆浴場はありますが、男性のみが利用するサウナのような施設で、マッサージやあかすりを目的にしています。日本のお風呂と欧米なんかとの決定的な違いは「洗い場」の有る無しですね。だいたい欧米のお風呂はトイレと一緒くた。なので浴槽に長い時間浸かってると、他の人がトイレ使えない。それで浴槽使わないってのも有るけど、浴槽に浸かってても欧米人は浴槽の中で身体を洗う。よく映画なんかでバスタブ泡だらけにして入浴してるシーンありますよね。浴槽でそのまま身体洗って、お湯抜いてシャワーで洗い流す。しかも多少、泡が残っててもタオルでふき取ってしまうのが欧米人。ちょうどイギリス人が洗剤使って食器洗っても、その洗剤をよく濯がないでそのまま食器棚に入れるのと同じです。日本で洗い場があるのは、日本の高温多湿の気候が影響しているからなんですね。同じ高温多湿でも東南アジアと違って、日本家屋はとにかく通気性を重視して建てられていて冬は寒い。浴室も寒いので、浴槽は温まるためのもの。それで別に体を洗う場所として「洗い場」が設けられたよう。どっちにしても日本人はお風呂を単に身体を温めるとか洗うとか以前に、癒やしの空間と位置づけられてますね。こんなお風呂文化もってる国は他に見当たりませんよ。
Nov 9, 2024
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みなさんは1998年に上映された2つの衝撃的な映画を覚えてらっしゃるでしょうか?ブルース・ウィリスが主演した「アルマゲドン」と、女優ティア・レオーニが理知的で魅力的な新聞記者役をやった「ディープインパクト」です。どちらの作品も地球に最接近して、このままでは衝突する小惑星を宇宙で核爆発により軌道を変えようと云うもの。「アルマゲドン」では宇宙船乗組員の犠牲と引き換えに、小惑星は大気圏突入前に2つに割れて軌道が変わり、地球滅亡の危機が寸前で回避されます。それに対して「ディープインパクト」では、核爆発には成功したものの、大きな破片と小さな破片の2つに分裂しただけで、軌道を逸らせずついに地球に落下して大災害を引き起こす内容でした。どちらの作品も、小惑星を破壊して軌道をそらす切り札として核爆弾を使ってますね。しかし、これは映画の話で、NASAやJAXA(宇宙航空研究開発機構)によると核爆発くらいでは、細かい破片に分裂して逆に地球に降り注ぐだけで現実性は全く無いとのこと。むしろ地球から発射した人工衛星を小惑星にぶつけて軌道を変えるほうが現実性があるのだとか。2022年にNASAは小惑星「ディモルフォス」に探査機「DART」を衝突させて、軌道を変える防衛ミッションを試みました。ディモルフォスは衝突で大きなクレーターが残るようなことはありませんでしたが、衝突の衝撃により幅広い円錐形の粉塵が上がり形状を大きく変形させたようです。全体的に変形し、別の天体のようになってしまったのです。結果として、ディモルフォスの公転周期は11時間55分から、11時間23分になり、DARTをぶつけた衝撃で軌道を変化させられることが確認されました。みなさんは地球に接近する軌道を持つ彗星、小惑星、大きい流星体など地球近傍天体ってどれくらい有ると思われます?下の図をご覧ください。細い青い線が潜在的に地球に最接近するであろう小惑星の軌道なんです!これら地球近傍天体は、地球に接近することから衝突の危険性を持つ反面、地球からの宇宙船が容易に到達できるものです。NASAの発表では地球に衝突すると地球単位の重大な災害を引き起こす天体は既に1,000個以上発見されており、まだ見つけられていない地球近傍天体も多数あるらしい。こうした地球近傍小惑星の中でも、特に地球に衝突する可能性が大きく、なおかつ衝突時に地球に与える影響が大きいと考えられる小惑星は「潜在的に危険な小惑星(PHA)」と呼ばれています。PHAに分類される小惑星は、地球軌道との最小交差距離が約748万km 以下、なおかつ絶対等級が22.0以上の小惑星とされており、地球に衝突しようとしても大気との摩擦で燃え尽きてしまって影響がほとんどない小さな小惑星とは別にカウントされてます。地球近傍天体をシュミレートしたのが下の動画です。現実問題として地球の脅威となるかもしれない小惑星が地球に衝突する確率は平均で数百万年に一度くらいとのこと。その数百万年に一度に当たらなきゃいいのですが...約6,600万年前、恐竜は小惑星の衝突の影響で絶滅し、衝突からわずか数時間のうちにほとんどの陸上生物が死滅しましたからね。この恐竜の絶滅につながった小惑星の衝突はメキシコ湾に存在する巨大なクレーター「チクシュルーブ(マヤ語で悪魔の尻尾)」クレーターとして痕跡が残ってます。この衝突時のエネルギーは広島型原子爆弾の約10億倍、衝突地点付近で発生した地震の規模はマグニチュード11以上、津波は高さ約300m と云う凄まじいものでした。1908年に発生したロシアのツングースカ大爆発では空中爆発により、東京都とほぼ同じ面積範囲の樹木がなぎ倒された他、1,000km 離れた家の窓ガラスも割れました。爆発によって生じたキノコ雲は数百km 離れた場所からも目撃され、地震も観測され、爆発した物質が気化して巨大な夜光雲を形成したため、アジアからヨーロッパにかけて広い範囲で数夜にわたって夜空が明るく輝き、ロンドンでは真夜中にライトなしで新聞を読めるたほどだったとか。小惑星2024 MKは今年6月16日にハワイ大学の開発した小惑星衝突早期警報システムによって発見された地球近傍小惑星です。今年6月29日地球に最接近ましたが、そのときの距離は約29万km で月の軌道より内側でした。そして時速3万4,000km でぶっ飛んでいきました。小惑星2024 ONは今年9月17日、地表から997,799km に接近して、猛スピードで通過しましたが、この小惑星の直径は220~480m で、ニューヨークのワン ワールド トレード センターとほぼ同じ大きさなんです。地球を通過するときのスピードは8.8km 、これは音速の約25倍です。NASAは探査機NEOWISE(ネオワイズ)の宇宙望遠鏡を使って、地球に脅威を与える可能性のある小惑星や彗星を探してました。このミッションは2013年に開始され、地球近傍の天体を迅速に特定して特徴付け、そのサイズやその他の重要な測定値に関するデータを収集してたのですね。NEOWISEはその主要任務中に158,000個を超える小惑星を検出し、そのうち34,000個はこれまで発見されたことが無かったものでした。そしてついにNASAはNEOWISEに最終指令を送り、10年以上にわたる小惑星観測に終止符を打ったのです。NEOWISEがその任務を終わりにしたのは、推進システムがないため軌道を維持できなかったためです。太陽活動の活発化と相まって、探査機は今年末に大気圏で燃え尽きるまで自然に軌道を下降することになります。
Nov 8, 2024
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世界中で唯一、中国人観光客をほとんど見かけない国"インド"。インドってタージマハルのあるアグラを始め、青い街ジョードプル、ピンクシティの名で知られるジャイプール、エローラ石窟寺院群のあるアウランガーバードなど非常に多くの遺跡に恵まれてるけど、反面インド最大の都市ムンバイや首都デリーなんかの大都会を別にするとどこも田舎然としていて、過去の遺産と現代の混沌のギャップが激しいように感じますね。
Nov 7, 2024
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海外旅行でイチバンの難点は「概日リズム睡眠障害」、いわゆる「時差ボケ」ですね。体内時計が、その国の時間と同期しなくって、夜になっても寝付けなかったり、逆に日中たまらなく眠くなる。時差ボケは、出発地から3時間以上離れたタイムゾーン(時間帯)に適応できないときに起きると云われてますが、先日行ったタイと日本は2時間しか時差ないのに帰国当日は時差ボケでした。私がイチバン時差ボケ経験したのは成田からニューヨークに直接飛んだときです。日本とニューヨークの時差は13時間。日本の方がニューヨークより13時間進んでいるんです。対処はひたすら眠らないこと。このときは34時間くらい起きっぱなしにして、1日で乗り切りました。時差ボケはなにも海外旅行に行ったときだけ起こるのではなく、国内にいても例えば仕事してる人が休暇の2~3日間よく寝付けなかったりするのも一種の時差ボケらしい。要するに蓄積された体内時計と違うスケジュールで行動したときに起こると。海外旅行で深夜便を利用したときは、機内で睡眠をとるために、光を完全に遮断するのがいいですね。目的地の時間帯が出発地より数時間早い場合は、出発までの明るい間にサングラスをつけて準備をしておき、その後アイマスクをつけて眠るんです。アイマスクをしないと、同席者のビデオ画面からの光が遮断できません。脳が暗闇を感知すると、体内時計を調整するホルモン「メラトニン」が分泌され、眠りに誘ってくれます。このとき前方の座席は飛行機の中で最も静かな場所です。人の流れが絶えないトイレ近くの席は避けて、できるだけ前方の席を確保することですね。また窓側の席だったら寝るとき機体の壁にもたれかかることができますし、トイレに行くために同席者が乗り越えようとすることが無くなります。客室乗務員がシートベルトを安全に締めているか確認するために起こされないよう、必ず締めて見えるようにしておくこともポイントです。また搭乗直前に胃のむかつきを引き起こすかも知れないスパイシーな食べ物や、脱水症状を引き起こすかも知れない過度に加工された塩辛い食事は避けることですね。美味しくもない機内朝食で起こされるのがイヤだったら、朝食のために起こさないようCAに事前に云っておくことです。私は使ったことありませんが、「Trtl」や「オーストリッチピロー」といった首や頭を覆うタイプの枕は、360度全方位で頭を支えてくれるそうですね。また長時間のフライトで足や背中にかかる負担を軽減するため、前の座席の下に引っ掛けて使用するフットハンモックも快適に睡眠とるため有効らしい。私は気圧変化に対応した耳栓を使ってますが、シリコーン製の耳栓は、耳の穴を完全に塞ぐようにぴったり装着できるので、従来の発泡ウレタン製より快適です。フライト中に眠るためとか、到着後の不眠症を解消するために薬を用いることは精神の不調や意識が朦朧とした状態を引き起こすリスクがあります。特にアルコールと一緒に服用してしまうとリスクがもっと高くなります。あくまでお医者さまや薬剤師さんにどの場面で使うか説明して使用許可を得ることですね。特に日本では販売されてない薬で、アメリカでは市販されてるメラトニンのサプリメントをネット通販なんかで入手して服用は注意が必要です。フライトスケジュールを見直すことで、時差ボケを軽減することも考えられます。フライトを出発時刻重視で予約せず、日光を浴びると体内時計が整えられるため、なるべく日中に到着する便を予約した方がいいのです。それによって、より早く活発に動き出すことができるそうな。またフライトスケジュールが決まったら、旅行の数日前から、就寝時間、日光を浴びる量、カフェインの摂取量を調整することで、時差ボケを最小限に抑えることができます。そうしておいて到着するのが朝から昼過ぎまでなら、コーヒーなどカフェインを積極的に摂ることで体を慣らすのですね。また、お腹の減り具合に関わらず、旅行先の標準的な時刻に食事をとることもよいらしい。
Nov 6, 2024
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アメリカ、ミャンマー、リベリア。一見、全く関係なさそうな3つの国。ところが、この3カ国に共通していることが有るのです。それは...メートル法でなく、ヤード・ポンド法を使うと云うこと。世界中がメートル法使ってるのに、アメリカのような先進国がなぜメートル法を使わないのか?ところがアメリカでは、1866年にメートル法の使用は法制化されてるのです。法律でメートル法を使うこと決められてるのに、いまだにヤード・ポンド法が使われてるのはナゼ?誰でも疑問に思いますよねぇ。このメートル法を使うと云うアメリカの法律が、使用が任意だったからです。一律的な制度とせず、産業界や個人にメートル法の使用をやんわりと促す程度だったのですね。ちょうど日本でチャリ乗車時にヘルメット着用を義務化せず、「努力義務」にしたのと同じです。メートル法を決めたのはフランスです。それまであった様々な計量単位を1本化するため、フランス科学アカデミーは、パリから測定した「北極から赤道までの距離の1,000万分の1の長さ」を1メートルにして、これを尺度の基準にしたのですね。(ちなみに現在の「1メートル」は「1秒の1/299,792,458の時間に光が真空中を伝わる距離」に変更されてます)これが決められて以降、すべての度量衡の基礎となっていったワケです。例えば、1ミリリットルは1立方センチメートルの水の体積、と云うように。アメリカでメートル法採用の法律が決まったとき、度量衡の標準化のため、各州に真鍮製の原器が提供されました。その後、1875年にアメリカ、ドイツ、ロシア、フランスなど大国によって「メートル条約」が締結されて、加盟国が増え続け現在56カ国の加盟国と、40カ国の準加盟国に発展してます。単位換算が分かり易いメートル法に対して、ヤード・ポンド法の単位換算は非常にややこしいです。長さだけでもマイル、ハロン、チェーン、ヤード、フィート、インチとどんどん呼び方が変わっていきます。重さはポンド、オンス、グレーンで、体積はバレル、ガロン、クォート、パイントです。メートル法が世界の単位基準なので、アメリカでは例えばジュースはリットル表記、牛乳はガロン、リットル併記、道路標識もマイルとメートルを併記するなど、2つの単位系が一緒くたになっているのですね。このメートル法とヤード・ポンド法併用の混乱は相互に換算する手間も含めて膨大なものです。なんとNASAでさえ、換算ミスで失敗したことあります。1998年に打ち上げられた2億$の「火星気候探査機マーズ・クライメイト・オービター」は翌年に航行ミスで交信が途絶え、行方知れずになってしまいます。調査の結果、航行ミスの原因は「ヤード・ポンド法の単位で行われていた計算を、探査機の航行担当チームがメートル法の単位と思い込んでそのまま使用したこと」だったのです。NASAでさえこんな有様なんですから、アメリカでおきている単位換算ミスは数え切れないほどでしょうね。
Nov 5, 2024
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ネパールには2008年まで存在したムスタン王国がありました。最近は、トレッキングで観光に訪れる人が多いそうですが、標高8,167m で世界第7位の高峰ダウラギリ山や7,000m 峰~8,000m 峰のアンナプルナ山群のあるダウラギリ地方の北部にあるので行くのは尋常ではありません。ムスタン王国の広さはほぼ奈良県と同じでちっちゃい国だったのですが、長い間鎖国していたため「禁断の王国」と呼ばれています。1951年にチベットが中国の侵略で併合されたため、ムスタンは「チベットの外のチベット」とも呼ばれています。チベットそのものは1769年にゴルカ王"プリトビ・ナラヤン"が統一してシャハ王朝が誕生したのですが、それでもムスタン王国は独立を守ってました。それが2008年、ネパール政府が藩王制廃止を決定したことで、ムスタン国王は退位してムスタン王国そのものが無くなったのですね。今は鎖国が解かれましたが、それでも旅行するにはネパール政府公認の旅行会社を通して申込み、2名以上で行動しなければならないという制約があります。ムスタン王国の首都だった町は「ローマンタン」です。標高3,760m の城郭都市で、周囲1km、高さ11m ~15m の泥でできた塀で囲まれてます。また家々も泥でできていて、住宅数は178戸、人口876人の小さな町です。この町は1350年、ムスタン王国初代国王アメパルによって造られました。チベットの岩塩をインドへ運ぶ「塩の道」中継地点として栄えたのですね。ローマンタンに行くには先ずネパールの首都カトマンズからポカラの北にあるジョムソンまで飛行機で行きます。カトマンズからポカラ、ポカラからジョムソンと乗り継ぎして行くのですね。そしてジョムソンからは車で行かねばなりません。もうひとつの方法はジョムソンからローマンタンまで、ひたすらトレッキングするのですね。ジョムソンから中継地チュサンまでは車で2時間。チュサンから次の中継地チャイレまで歩くと約45分かかります。マスタングゲートを通過すると、ローマンタン行きのジープが午前8時に出発します。サマール、サンウォチェ、ガーミ、ギリング、チャランを経て午後4時頃ローマンタンに到着と云うスケジュールなんですね。なんですが、降雪があるとこんな有り様なので、行くのも簡単ではありません。この辺りの物価は食事が300ルピー(約540円)、ホテルも300ルピーくらい。バスルーム付きの部屋になると500ルピー(約900円)。ジョムソンからチュサンまでの運賃は350ルピー(約630円)、チュサンからローマンタンまでは1,600ルピー(約2,900円)かかります。それに加えてカトマンズからジョムソンまでの航空運賃ですね。ローマンタンの城壁内部は「ゾン」と呼ばれ、藩王の王宮のほかチベット仏教寺院やゴンパ(僧院)があります。さらに中国支配を嫌ったチベット難民などが住む町が城壁を取り囲むように有ります。ムスタン国王は退位して存在しないのですが、ロマンタンギ社会には文化王が今も存在してるそうです。現在の文化王は25代目にあたります。ネパールの中に別の国が存在してたなんて、イタリアの中にバチカン市国があるような感じですね。もっともバチカン市国と違って、こっちは秘境中の秘境。こんなとこまで海外から観光客が訪れるのも驚きです。
Nov 4, 2024
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2016年、時の台湾総統"蔡英文"は台湾原住民の代表者を総統府に招き「過去400年来、台湾にやってきた政権が武力で土地を奪い、原住民族が持っていた権利を激しく侵害しました。そのため、私が政府を代表し、原住民族の皆さんにお詫び申し上げます。原住民族の受けた苦痛や傷は、1つの文章やひと言の謝罪では消えないと思います。しかし今日の謝罪を通じ、すべての人が和解に向かうことを心から期待しています」と述べました。過去の差別的な扱いや、伝統的な社会や文化の保護が不十分だったと総統が原住民に直接謝罪したのは初めてのことでした。この原住民族とは誰のことでしょう?戦後、中国国民党とともに台湾に渡ってきた人々は「外省人」です。現在、台湾の人口構成比率では13%くらいと云われてます。それ以前からいたのが「漢民族」。台湾人の約9割以上を占め、オランダ統治時代に大陸から渡ってきた客家系と福建(閩南/びんなんみん)系で構成されてます。客家系は広東省北部の出身者とその子孫、福建系は福建省南部の出身者とその子孫です。客家が12%、福建系が73.3%の構成比率です。漢民族が台湾に渡ってくる前から台湾に住んでたのが原住民族と呼ばれる人たちです。台湾の人口構成比率では1.7%しかいません。原住民族は、オーストロネシア語族と呼ばれる台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島、マダガスカル、さらに東の太平洋の島々やニュージーランド、イースター島まで網羅した1,000前後の言語をもつ民族です。しかし、この複雑な台湾の民族構成であっても、ひとくくりに台湾人と云ったとき、10代全員、つまり100%が「私は台湾人であって、中国人では無い」と云う意識を持っています。台湾では「先住民」と云う言葉は使いません。先住民は既に滅んでしまった民族と云うイミも含まれるので禁止。あくまで「原住民」。これは台湾の憲法でも正式に謳われてます。ひとくちに台湾の原住民と云っても、非常に多くの部族で構成されてます。政府が公式に認定している台湾原住民族は、阿美族(アミ族)、泰雅族(タイヤル族)、賽夏族(サイシャット族)、布農族(ブヌン族)、雛族(ツォウ族)、魯凱族(ルカイ族)、排湾族(パイワン族)、卑南族(プユマ族)、雅美族(ヤミ族)、邵族(サオ族)の16部族があります。こうした原住民族の特徴として、高床式建築や竹や藤の編み物、刺青とともに、檳榔(ビンロウ)と呼ばれるヤシ科植物の種子から作られた噛みタバコを咀嚼することがあげられます。しかし同じ原住民族間でも言葉は異なり、着る衣類や食べ物から風習も違います。台湾原住民族の中で最も人口の多いのが阿美族(アミ族)です。阿美族の大部分は東部の縦谷と海岸地域に暮らしていて、約17万5,000人います。阿美族は居住地域によって南勢、秀姑巒、海岸、台東、恒春などとさらに細分化され、それぞれに方言や風習、服飾などで多少の違があります。この部族は母系の氏族制と相続制度を持つのですね。私が以前行った原住民だけがお客さんのバーも、全員が阿美族でした。泰雅族(タイヤル族)の人口は約7万5,000人いて、北部の山岳地帯に住んでます。成人式で顔に刺青を入れるのが伝統ですね。またカラフルで複雑なパターンの織物で知られており、織物の技術で女性の地位が決まるそうです。泰雅族の次に人口が多いのは布農族(ブヌン族)で約4万9,500人います。布農族は台湾中部と東南部の山岳地帯に暮らし、乾季の終わりに山を燃やした後、肥料も除草もせずに土地を掘って耕して作物を栽培し、2~3年経って土壌が悪くなると移動してまた作付けする「遊耕」と狩猟で生活してます。こうした台湾の原住民族は自分たちの言葉の他に国語(台湾華語)、そして日本語を織り交ぜて話す人が多いです。台湾省の南東部にある台東県は、阿美族(アミ族)、布農族(ブヌン族)、卑南族(プユマ族)など原住民の人口割合が最も多い県です。延平郷のブヌン族の部落内には観光農場が設立され、果樹園やコーヒーショップ、芸術センター、伝統的な歌唱法による祈祷歌や伝統舞踊などの披露がされています。やはり北海道、道央白老町にある「ウポポイ(民族共生象徴空間)」と同じで、今はアイヌの人たちも台湾原住民族の人たちも観光産業が貴重な収入源のひとつなんですね。台湾原住民の食事で特徴的なのは「竹筒飯」ですね。竹筒飯は猟師が狩りに行くとき、1ヶ月近く山に籠もらなければならいので、村からもち米を持参し、山の中で切り取った竹を使いご飯を炊いたのが起源です。現在は竹筒飯にも、もち米を炊いたもの、おこわにしたもの、小豆と一緒に炊く赤飯の3種類があります。
Nov 3, 2024
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北アフリカのチュニジアと云うと、サハラ砂漠や多くの世界遺産遺跡や町があり、地中海の美しい魅力的な国ですが、2015年にチュニジア議会の敷地内にあるバルド国立博物館で武装集団によるテロ攻撃があり、日本人3人を含む外国人観光客20人が殺害されました。襲撃で死亡した観光客の中には、日本人の他にイギリス人、イタリア人、ポーランド人、ドイツ人、スペイン人、コロンビア人がいました。この攻撃ではチュニジア人3人も死亡してます。しかし現在ではテロ事件で多くの犠牲者を出したイギリスが渡航情報をレベル1に引き下げるなど、渡航制限の緩和が見られるようになりました。日本政府もテロ事件以降、全土においてレベル2(不要不急の渡航中止)から南部、中西部を除いてレベル1(十分注意)に引き下げました。しかし、今でも街の繁華街はチュニジア警察の厳しい監視化におかれてます。現在でもチュニジアは他のアラブ周辺諸国と同じで、テロのような大袈裟なものでなくても、スリや特に夜間の強盗など旅行者にとって危険度の高い国のひとつです。反面、チュニジアの観光に関する競争力では、世界139カ国のうちトルコ、エジプト、モロッコを上回る47位となっています。観光客を見ると、宿泊数で圧倒的にフランス人が多いのはチュニジアの公用語であるアラビア語とともに植民地時代のなごりでフランス語も使われてるためです。次にドイツ人、イタリア人と続いてます。その背景にはチュニジアの物価が安いことで、ヨーロッパからの観光客も格安パッケージ旅行中心となってることですね。そんなチュニジアって、昔は日本人観光客も多かったのですね。2006年頃は、チュニジアの首都チュニスなんかで見かける東洋人はもっぱら日本人一辺倒でした。それが今では円安もあって日本人を見かけることはほとんど無く、代わって中国人と韓国人が進出してます。それでもチュニス旧市街メディナの市場なんかを散策すると、今でも怪しげな日本語で客引きするチュニジア人が多いです。ひとつにはSNSが盛んになって、容易に情報が入りやすいこともあるけど、決定的なのは昔から日本人は言葉が喋れないのと簡単に引っかかるためでしょうね。海外を旅行しててイチバン難儀なのが、この客引き。インドをはじめ、東南アジアでもタイやベトナムの観光地は客引きが強引だけど、メディナの市場ではお店の前通るたびにメチャメチャ声かけられてウザイったらありゃしない。インドでもムンバイのポワイ地区みたいに高級住宅街だとリキシャの運転手でさえ客引きしませんから、やっぱ民度と云うか経済状態に左右されるのでしょうね。そこいくと、台湾でそんなこと目にしたことないし、距離も近いので、日本人にイチバンお勧めの旅行先になるワケです。ちなみに成田からチュニジアのチュニス国際空港まで飛行時間は22時間30分くらいもかかります。チュニジアのおじさんのかわいい日本語アート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズの演奏で有名な「チュニジアの夜(Night In Tunisia )」をキューバ系カナダ人ジャズ・ピアニスト"ヒラリオ・デュラン"の演奏で。Night In Tunisia (Live In Studio)
Nov 2, 2024
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私は砂漠っぽいとこ(?)行ったの鳥取の砂丘しかないし(笑)ホンモノの砂漠を見たことが無いので、砂漠に泊まると云うことが想像できないですが、砂漠と云うことは宿泊する場所の周囲にレストランやコンビニ、土産物屋なんて無いから、いきおい宿泊場所で提供される料理しかチョイスが無いってことですね。と云うことは、そんな街からは離れた場所拠点に観光なんてあり得ないから、ど~しても短期滞在か。しかし砂漠だから日没や夜明け、また夜間の満天の星は見応えあるでしょうね。見るものと云えば砂と天体のみ。それでも非日常を満喫できるのでしょうね。砂漠に泊まると云ってもふたつの選択肢がありますね。ひとつは砂漠の中に建てられたホテルを利用するってこと。世界中の砂漠には設備の整ったリゾートホテルが数多くあります。ホテル利用のメリットは個室が提供されるのでプライバシーが保証されるのと、都会的な生活が確保されるってことですね。アラブ首長国連邦のドバイから車で1時間くらいのとこにある「アル マハ ア ラグジュアリー コレクション デザートリゾート」は超高級リゾートホテルです。なんせ全室スイートのみで、1泊約14万円~100万円と云うから、私のような貧乏人はお呼びでないですね。同じアラブ首長国連邦の首都アブダビのリワ砂漠にも豪奢なリゾートホテルがあります。「アナンタラ カスル アル サラブ デザートリゾート」。ここは砂漠のオアシスを利用したホテルで、城郭のような体裁をした非常に特徴的なホテルです。モロッコにはサハラ砂漠の入口、メルズーガの東のジェビ砂丘の端に「オーベルジュ カフェ ド スッドホテル」があります。実際には砂漠のすぐ横にあるんですが、まるで砂漠の一部であるかのようなロケーションです。ここのお部屋は伝統的な洞窟スタイルのモロッコスタイルで統一されてます。さて、ホテル泊ともうひとつの選択肢は砂漠でキャンプすることですね。これも色んな国でツアーを組んでます。砂漠で野宿するのですから、個人でキャンプなんて考えられませんから、これはいきおいツアーしかチョイスがない。オマーンの東ハジャル山地からアラビア海まで約200km にわたって伸びるワヒバサンドは遊牧民ワヒバベドウィン族の地です。ここのマジック・キャンプは、テント付きキャンプ施設です。モロッコのメルズーガの中心部から北に5km のメルズーガ砂丘とエルグチェビ砂丘の端にあるサハラ砂漠に伝統的なベルベルスタイルの「デューンズ ラグジュアリーキャンプ」があります。ここのテントには温水シャワーやトイレも完備されてますから、単にホテルがテントになったようなモンですね。しかも無料WiFiまで完備しているらしい。チュニジアのサハラ砂漠ど真ん中にある「クサールギレン」もシャワーから冷房、トイレ完備のテントホテルです。ここまではホテルが建物からテントに代わっただけって感じ。もっと素朴に砂漠の真ん中でテントもなしに野宿するツアーもあります。こうしたツアーの最大の問題点はトイレとお風呂に入れないことですね。だいたい、この手のツアーでは宿泊地からチョット離れた場所で、めいめいが好きなとこで用を足すシステム。もちろん囲いなんて無いから、青空ポットンです。砂漠に来てお風呂に入れないのですから、1泊以上はムリでしょう。そんなツアーがインド、ラージャスターン州ある"タール砂漠"で実施されてます。キャンプ地まではタール砂漠のオアシス都市"ジャイサルメール"を出発地にトラックを改造した乗合タクシーで集合地まで行って、そしてラクダに乗るのですね。この砂漠は日中の気温が40℃近くなる時期もありますが、砂漠の特性として夜間は7℃くらいまで下がります。この温度差は身体に堪えるやろなぁ。
Nov 1, 2024
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