「あの人、成功しなければいいのに。。。」という思考方法が自然についているということは
それが自分にも向かうのだ、つまり「自分、成功しなければいいのに。。。成功しっこないよ!」と無意識のうちに、自分にも語りかける可能性がとても高いのだ、と私は信じている。
昔読んだ日本語の心理学関係の本に「あの人、成功しなければいいのに。。。」と思うと、そのうち主語「あの人」が落ちるのだ、だから結果的に自分のことを呪うような言葉になるのだ、と書いてあったのをはっきりと覚えているせいかもしれない。
昨年の私のインターン・シップ先で、「あれ、この人って私が成功しないように、私が失敗することを望んでいるのかしら?」と何人かの人たちに対して痛感したのを覚えている。
これは私が今までほとんど経験したことのない感覚だった。意地悪される、とは違う感覚だ。
言葉や態度の端々にそういうのが見える、と思った。
そして、その人たちの特徴として、「いかに自分はすごいか、優れているか、素晴らしいか、周りの人たちが注目して褒め言葉をくれるか。」と私にアピールするのである。
彼らはそれなりに能力も魅力もあった。そんな売り込みを本人から聞かなくても、私はそれらの長所を認めていた。まあ、別に彼らに対して一生涯かけた友人になりたいという興味もなかったが。
彼らが宣伝すればするほど、そんなに大宣伝するほど飛びぬけているか?と心では思っていたが。。。
今までの経験からいうと、認められたいけど認められない、という欲求不満が溜まっているひとは、そのように自分の偉大さを他人に言いたがる。
私も若いときはそんなときがあった。自分が認められなくて惨めな感覚があるから、余計に、自分がいかに特別に他人に扱ってもらったことがあるかを宣伝するのである。
今の私は、体内のエネルギーは自分の目標や日々の努力で完全燃焼しているので、全く持って自己宣伝するは失せてしまった。
加えて、私を本当に理解してくれて、良さを認めてくれる数少ない友人などがいるから、別に関係の薄いひとたちに向かって、自分の長所をことさら強調する必要など無い。
彼らは不幸だったんだろう。確かに内情を聞くと大変そうだった。最初は一生懸命励ましたりもしたけれど、そのうち、その感情の不安定さや、物事の悪い点ばかりを探し出して力説するのを聞いているのに疲れてしまった。
多分、私が味方で無くなったので、彼らの物事へのネガディブな価値観が私に向いてきたのだろう。
他人の不幸を何の不快感も無く願えるのは、ずっと精神的にすさんだ環境にいたからかもしれない。
でも他人の不幸を望む気持ちは誰にでも起こりうるものだ。特に自分が不幸だと感じているとき。。。
私は無理でも、もし(これは難しいだろうなあ。)と思うような話を友人がしてきたときでも、なるべく「可能性があるよ。」と言うようにしている。
他人の不幸を望むような発言を避けるため、他人の不幸を望む心を作り出すのを避けるため、そして、自分に「成功するな、不幸になれ。」というコマンドを出さないようにするためである。
また今まで多くの「そんなの無理よ。」という言葉でがっかりしたり、そのネガティブな助言に従って前向きな選択をしなかっ後悔を私に話しをしている人に経験してもらいたくないから。
あの一連のひとびとは、まるで手塚治虫の漫画「火の鳥」のある星へ行ったときの経験みたいだった。その星は「他人の不幸を願う人々」の星であった。。。みないな思い出。
蛇足だが、示唆にとんだ漫画とはこういうものかもしれないね。ある経験を客観的に見れるきっかけを植えつけてくれる、という意味で。
他人の幸せを願うことばを心の中に響かせていれば、それは無意識のうちに自分を応援していることになり、自分の潜在意識に前向きな価値観、未来観を植えつける。
そしてそれが、自分を目標へ押し上げていくのである。
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