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二月二十一日
いわゆる「人間的な」事柄で、一番われわれの心が慰められるのは、人びとをより深く知れば、たいてい彼らが評判よりも良い人間だということである。
二月二十六日
人間のあらゆる性質のなかで、最良のものは「誠実」である。この性質は、ほかのどんな性質の不足をも補うことができるが、この性質が欠けているとき、それをほかのもので補うわけにはいかない。
ところが残念ながら、この性質は人間にはむしろまれで、かえって動物の方にしばしば見られる。したがって、この大切な点で、人間は実は動物にまさっているわけではない。もし他のどんな点よりもこのことで人間がまさっているとすれば、すべての生物の段階的進化の説の成立を、私もまた承認するであろうに。
また感謝するということでも、一般的にいって、人間は他の高等動物よりもかえって劣っている。だから、他人の感謝を当てにしないがよい。しかし、あなた自身はつねにその名誉ある例外であるように努めなさい。忘恩の一番ありふれた形は、相手の人を訪問したり、その他の仕方で相手の恩を「表彰」することで、感謝の義務は終えられたと思うことである。例えば君主国では勲章を授与することもそうであるが、これによって感謝の関係が逆にさえなってしまう。われわれは、このようなあまりにも安価な返済はできるだけおことわりして、むしろ債権者のままでいるべきである。
四月五日
どんなに正しい人でも、その生涯のうちいつかは、「罪人のひとりに数えられる」にちがいない。もしこのことが起らなければ、かえってよい徴候とはいえない。このような場合、神を慰めとして持つならば、すなわち、あらゆる人間的批判をはるかに越えて力づけ給う神の慰めと、この助けを確信することから生じる清らかな良心(真に清らかな良心とはこれ以外にはない)とを与えられるならば、世人の批判にも容易に堪えられ、それも想像していたほど悪いものでも危険でもないことを悟るであろう。
ひとはこのような経験を経ることによってはじめて勇気ある人間となり、神がその戦いに用いることのできる者となる。それまでは、どんな人もみな臆病者であって、いざという時に神の味方に立つことを恐れるのである。
六月十七日
ある人の生涯において、かなり長い期間にわたって、詩篇一一〇の待てという要求だけが、絶えまない導きとして役立つことがしばしばある。しかしそのあとで、突然、それとは反対の次の命令が下される、「さあ、わたしはあなたをエジプトにつかわそう」と。これに対して「主よ、他の人をやって下さい」と、答えることは許されない。この二つの命令によろこんで従い、両方の時を善用することができる者は、最もすみやかに内的進歩をとげる。しかし、一般の人たちはそのどちらにも従わないのである。(後略)
七月六日
あなたは一体何を欲するか。本当に落着いたときに、あなた自身にそれをたずね、そして正直に答えなさい。あなたは、働くこともいらず心配もないような、朝から晩まで享楽三昧の豪奢な生活を――もちろんそれを享受するだけの欲望と力とをつねに備えてのことだが――、たとえばマホメット教徒の空想するような天国に近いものを、願うであろうか。しかし、そんな生活は、現代の文明社会では、どこにももはや存在しないだろう。とにかく、あなたの境遇では、とうてい望めないものだろう。そんならむしろ仕事をもった生活を、しかし確実な導きのうちに、ひどい心配もなく、ほとんど変りのない心の晴やかさと落着きをもって続けることのできる生活を、なぜ欲しないのか。このような生活ならば、だれでも持つことができる。ただ、それを断固として欲し、そして与えられたその道を進まねばならないだけである。
世の多くの人びとは、自分が何を欲するかを、まるで知らない。また、それをよく考えることもほとんどしない。反対に、少数の人びとのなかのある者は、できもしないことを欲して、いたずらに力を消耗している。また、そうでない者も、その意欲がたえず動揺して、そのために何ごとをもなし遂げない。しかし、可能なこと、つまり、自分の力と現実の世界秩序とに相応したことを、確固として辛抱づよく欲する人びとは、常にその目的を達成してきた。(後略)
七月十一日
やむをえぬ理由から、古い友人や親戚の者と交わりを断たなければならないならば、何もいわずにそうするがよい。その前に議論などをかわせば、必ず問題のにがにがしさや醜さを増すか、あるいは別れるよりもなおわるい、中途半端な、いつわりの若いに終ることになる。
九月十一日
いわゆる人間愛は、すべて神に対する強い愛という根底がなければ、単なる幻想であり、自己欺瞞にすぎない。なぜなら、そんな場合は、ただ最も愛すべきものだけを愛するか、自分を愛してくれる者を愛するかにとどまり、いつでも、この前提条件がなくなったと思われるときは、驚くほど早く、愛を減らすか、あるいは全くそれをやめてしまおうと決心するからである。それとも、人間愛とは要するに、かなり冷淡な一般的好意をあらわす、やや美しい言葉にすぎない。それはむしろ、本来、猛獣ですら満腹すればその周囲に対して示すくらいの非攻撃的な態度のことである。
このような人間愛では、一方に年々幾百万の人たちが精神的あるいは肉体的に餓死することも起りうるし、しかも、人はそれをひどく悲しむこともなく、また自分はほんの僅かな不自由をも忍ぼうとしないのである。
九月十二日
「この世で幸福以上のなにかを求める人は、幸福が彼の分け前とならなくても、不平を言ってはならない。」(エマソン)。これは、おそらくいくらか「実利主義」的で嘲笑的な意味あいをふくんでいるが、真実の言葉であり、多くの失敗した人生を説明しうるものである。実際、われわれはこの「より以上」と「より以下」とのいずれかを選ばなくてはならない。
しかし、この言葉は幸福という事柄についての最後的な説明ではない。
世に幸福はあるが、われらはそれを知らぬ。
知っていても重んじない。
(ゲーテ『タッソー』)
この方がはるかに真実な言葉である。しかし、もっと強く心をゆさぶる幸福をみずから一度も感じたことのない人たちは、それを想像することさえできず、ただ言い伝えの神話か誇張されたお喋りくらいにしか考えないが、しかしそれは健康な真実なのである。
九月十三日
多くの人たち、ときには、特別に天分のある人でさえ、自分が体験するすべてのことについて、即座に判断を下さなければならぬと思っている、たとえば、初めて会ったすべての人について、また二、三ページめくっただけのすべての書物についても。それだから、しばしば判断を誤って、あとになって訂正せざるをえなくなる。あるいは誤りとわかっても自分の考えを固執して、その結果、自分の品性をそこない、さらによくないことに、他人をもしばしば傷つけたりする。もしあなたがこのような習慣をもっているなら、しかも新聞通信員を職業としているというのでなければ、そのような癖をすててしまいなさい。
九月二十一日
なんの恩寵にもあずからない罪人の心の奥がどんなであるかを、実生活において精密に観察しなさい。そうすればあなたは、もはや憎しみを感じることなく、すべての人に深い同情を覚えるであろう。
なにかにつけて怒ることがある限り、まだ自分を支配しているのではない。どのような悪に対しても、静かな抵抗が最もよく勝利をおさめるものである。
十月十四日
「敵を愛する」というのは、キリスト教の教義が大いに自慢のたねにする美しい言葉である。しかし、キリスト教徒の実践を見ると、彼らが敵を愛するのを必ずしもあまり多くは見かけない。
実際に敵を愛するということは、われわれが神と結ばれることによって人間を恐れる習慣をすてた時にのみ、起るのである。そうなった時はじめて、私たちの生涯において敵が実に大きな役割をはたしてくれたことを悟り、相手がこちらの気持を誤解しなければ、それに感謝して敵を抱くこともできるような気分になれるのである。
十一月六日
実に理解しにくいことではあるが、しかし一旦それを理解すると、われわれの思考全体がそれによって大きな影響を与えられるのは次のような考え方である、すなわち、いきいきとした幸福感は、つねにただ新しい仕事や労苦、新しい悲しみを迎えるための元気づけや準備となるべきものであり(クロムウェルのいわゆる報酬の前払い)、一方、つらい試煉や意気消沈はいつも新しい、より大きな浄福と神の力とが加えられるための入口だということである。これが分れば、不幸に出会っても落着きを失わず、幸福であってもまじめで思慮深くなる。
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