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3階病棟に移ってすぐ、中心静脈カテーテル留置の手術を受けた。中心静脈とは鎖骨の辺りを通っている心臓に近い太い静脈のことそこに管(cv:カテーテル)を通しておきその管の先っぽは胸からぶらんと出しておく。(もちろん定期的に消毒します)その管=カテーテル=cvから、輸血したり食事のとれないときは栄養補給を行ったりする。治療中はしょっちゅう、輸血するのだがそのたびに手首に点滴を入れてたんじゃ、手首がもたないし生活するのにも支障をきたす。このcvがあるおかげで輸血も抗がん剤点滴も痛くはないのだ。移植というと全身麻酔をかけた大手術を思い浮かべる方が多いが血液のがんに対する「骨髄移植」は点滴と変わらない。すべてこのcvから体内へと流し込む(手術じゃないからつらくない、というわけでは決してないが…)その後、ずっとお世話になるcv手術が終わったらあっという間に治療が始まった。2009年2月25日白血病だとわかって、10日目だった。子どもの白血病は、一般のガンに比べて抗がん剤が良く効くといわれている。だから、治る子も多く、いまや、小児の白血病の8割は治るといわれる。というのも子どもは代謝がいいおかげで一般的な大人よりも、キツイ抗がん剤を高濃度で大量に使用できるからだ。抗がん剤注入が始まる朝は大量の水点滴が行われる。娘は体重が45キロくらいだったから1時間に120mlとか、それがずっと24時間続く。当然、おしっこは1時間に1回以上、200mlとかもっと出る。大人だとこの水攻撃に耐えられないが子どもはしゃーしゃーとおしっこを出し抗がん剤やそれによって壊れる白血病細胞の残骸を体外に出し続けられるのだ。また、抗がん剤って聞くと洗面器をずっと抱えゲロゲロ吐くイメージがあると思うがそれは10年昔の話。今は、吐き気止めの薬のおかげで実際に吐く子はあまり見かけない。「気持ち悪~」「食欲ない…」レベルでおさまるのが普通だ。だが、うちの娘は例外だった。…………まったく、なんの副作用もなかったのだ。もちろん2週間後位から脱毛は始まった。これは、お嬢にはイタイ、最悪の副作用だが月日が経てば元に戻るのであきらめるしかない。だが、抗がん剤を注入している最中に普通に食事をとり、おやつを食べ、周りのこと遊び、にこやかに過ごしている娘を見てまわりのママたちはうらやましそうだった。でも、娘の白血病は、薬物耐性がありつまり、薬は効かないかもしれないとドクターから言われていた。副作用がでないことはいいことだけど抗がん剤が効いてないんじゃないかと不安で不安で……まわりのママたちに「うらやましい?そんな楽観できないのよ。 こんなに不安なのよ うちはキビシイのよ」そう言いたかった。「以前にもそんな子がいたけど、 移植をして元気になったよ」そう言ってもらいたかった。でも、病室で、娘の隣で、私が不安そうにはできないしもし、ママたちが怖い事例しか知らなかったら…そう思って聞けなかった。ずっと、不安で不安で。。。結局、その不安は的中してしまった。
2011年07月28日
1階の学童病棟にいた1週間娘がどんなふうだったのか、どんな話をしたのか、まったく思い出せない。覚えているのはここのママたちは若くてきれいだなあって思ったこと病院につきそうママたちは疲れていて、心配でやつれていて、化粧もとれかけているようなそんなイメージがあったがここのママたちは、みんな若くて(そりゃ小さい子が多いからみんな私より若い!)きゃぴきゃぴしてて(若いからそう見えただけかも)おしゃれできれいだった(ただうらやましかっただけかもしれない)のちに1階病棟は手術などの回復期や検査入院の子が多いそう聞いて納得した。***************3階病棟では、大部屋だったカーテンでベッド回りをぐるっと仕切られてはいるがしゃべる言葉は筒抜けだし正直にいうと、うんざりだった。しばらくすると隣のベッドのママから声がかかった「うちの子が挨拶したいって言ってるんだけど カーテン開けてもいいかしら?」そうやって自己紹介タイムが始まりおしゃべりの花がさいた。「なんの病気?」「えっ?言っていいの?」私は、ドクターから「病気に関しては 自分の病名を知ってる子もいれば、知らない子もいるので お母さん方とも話さないでください」と言われていた「別にいいのよ。 子どもたちみんな、自分の病気のこと、よく知ってるもん。 うちは慢性骨髄性白血病なの」「そうよ、大丈夫。 ママたちからいっぱい情報をもらえるし。 うちは急性リンパ性白血病」本当に、ママたちからいろんなことを教わった。本ではわからない病気の実感…。ドクターは一般論を説明するから実際の話はなかなか聞こえない。けれど、ママたちはうちの子はこうだったけどあの子の時は○○だったみたいよ。●●ちゃんの時は、全然どうもなかったし生々しい実例をいっぱい知っていた。病院のことや看護師さんのこと、困った時にいくスーパーなんかも病気だけじゃない、生活のすべてをママたちから教わった。その頃の私は10時半頃病院に着き、5時半ごろ帰る生活をしていたでも3階病棟には、夕方に帰るママは誰もいない。6時の夕飯に付き添わずしてどうする?そんな空気があった。冷静に考えると、まったくその通りだ。病児1人で食事をさせるなんて、もってのほか。。。いくら中学生でも。そうやって、病棟の空気に慣れるようになじむように私の生活もシフトしていった。朝、下の子たちを送り出し洗濯と大雑把な掃除をし夜のご飯を作り置き、病院に向かう。夜は、娘と夕食をとりママたちや子どもたちと話し9時の消灯前に家に帰る。薬や治療のことをドクターから聞き、看護師さんから補足してもらいママたちからも教えてもらい家で調べてみる。そして、少しずつ娘の病気について理解していった。白血病って、すごく珍しい病気ではない。……病棟はいつも満床だった。でも、化学療法(抗がん剤治療)だけで治る子が多い中娘の病原菌は特殊で治療を始める前から「骨髄移植が必要」と宣言されていた。この時はまだ「移植のきびしさ」は漠然としたものだった。たとえ厳しくとももちろんやるしかないしそして「移植すれば治る」そう信じていた、娘自身も私も。知らないってことは恥ずかしいことだったかもしれない。こんなにきびしいのに、能天気でバカだったかもしれない。でも、そのおかげで「治る」と信じていたから怖くはなかった。だって、こんなにたくさんの同志がいる。こんな小さな子だって、健気に戦っている。だから、私たちもがんばらなきゃね……娘は「当然!!」って受験が終わったらのディズニーランドや原宿のことは何も言わず大部屋のプチ保育士さんのようになっていった
2011年07月26日
今日はちょっと番外編で、宣伝(?)を…娘のこよなく愛するNICO Touches the Wallsが7月22日から au「LISMO!」のCMソングに起用されました!!!!ばんざーーーい「うちのクラス、誰もNICOのこと知らないんだよ。。。」よく嘆いていた娘ライブに行き、大好き度200%アップで部屋にもポスターがバシリ!「なんとなく携帯でネットサーフィンしてたら見つけたんだよね 最初は、入院する前だよ でも、入院してヒマだったからさ いろいろ探してたら、スゴイ好きになったんだ」NICOは入院生活を支えてくれたひとつでした抽象的でグサッとくる歌詞もあるけれどでも、最後は明るく、今はしんどくても、最後の最後に笑おうぜってそんなNICOを、娘はこよなく愛していました今度の曲は「手をたたけ」とても印象的な明るい歌です。ぜひ、LISMO!のCMに注目して下さいね。**************娘、喜んでいると思います。生きていたらもっと喜べたのに・・・最近、ふと、「生きていたら・・・」スパイラルに落ち込むことがあります。末っ子(中2男子)が「彼女ができた」らしいって聞いた時も娘にも彼氏がいても・・・とかでも、ねそんなことを娘が今、望んでるはずもなく「今」できることに集中して行きたいと思います。ブログの続き、入院初期の話はまた。今日は勝手にNICO Touches the Wallsを宣伝しちゃいました。
2011年07月25日
入院する、と決ったらその瞬間から、娘は「入院患者」になった。病棟に案内され、娘はベッドに、わたしは椅子に座るよう言われた。ついさっきまで待合の長椅子で隣り合って座っていたのに娘は靴を脱いで、ベッドの上の人になった。最初の部屋は、1階の学童病棟にあった。個室だった。病棟の案内を受けわかったのはここはいろんな病気の子がいることおもに、小学生以上の子がいること「できることは自分でやろうね」という病棟であることそう言われても、チンプンカンプンだ。いろんな病気の子がいない病棟ってあるの?「できることは自分でやろうね」なんて当たり前だよね???それらの疑問は、3階病棟へ移ってからやっととけていくのだが。娘を残し、入院支度をしに私はいったん家にもどった娘はテレビと携帯ともう必要なくなった受験用問題集でヒマをつぶすことになった娘は受験もできない・・・あんなにがんばってたのに受験が終わったらディズニーランドって約束も○○ちゃんと原宿に行く予定も全部、なくなってしまった娘が泣いているんじゃないか?気が気でなかったが家に戻ると末っ子がいて、彼の元気な顔を見るとホッとした。でも、ホッとした自分が悪いことをしたようなずっと病院から出られない娘に申し訳ないような、後ろめたいような複雑な気分だった夫と一緒に病院に戻ったら娘は検査中だから先に病状説明をということになった外来で聞いたことを手順よく再度説明され病棟での担当医が紹介された若い女医さんだったその女医さんは、それから、そして最後まで、娘の「一番尊敬する人」になった病状説明の部屋に、娘が連れられてきた 車いすだった「かなり貧血が進んでいるので もうすぐ輸血をはじめますけど それまでは、体もふらふらするからね」車いすを押してくれていた看護師さんが説明してくれた今朝まで、普通に生活していたし貧血なんて思ってもいなかった病院にだって、もちろん、普通に歩いてきたし電車では「あいたよ、お母さん座れば」って私に席を譲ってくれたのに「貧血がゆっくりゆっくり進んだんだと思います。 だから、体が慣れていったのかもね」健康自慢、ガッツが取柄、いつもニコッとピースサインの娘そう言われて見ると、ぎこちなく車いすでこわばっていて、青白い顔をしていた「重病人みたい・・・ね」やっと口から出た言葉だったが「みたい」ではなく、まぎれもない「重病人」だったのだ。***********当時、私はやっと胸を張って「ライターです」と名乗れるようになって「さあ、仕事だ!」と意気込んでいた。2009年は年収○○円目標と大きく掲げ、連載の仕事もゲットしていた。こうなった以上……私は考えたまず、今抱えている仕事を早く終わらせなくてはならない。これから何が起こるか分からないからとにかく、今取り掛かっている仕事は全部終わらせてこれからの仕事は、すべてお断りしよう。看病と仕事を両方するのは、私には無理だ・・・今思うとそれが私の「逃避」だったのかもしれない「お母さんはとにかく今ある仕事を終わらせちゃうから ごめん、早めに帰るね」そう言って、夕方5:30には病院を出た「だって、下の子の生活も守ってやらなきゃならないし」逃避のための言い訳はいくらでもあったでも、病気を受け入れられなくて葛藤していたのは私たち親よりも本人であったはずその本人の気持ちに寄り添ってやれず自分の思いを優先させてしまったことに私はとても後悔しているその頃のことを、今年の春くらいに話したことがある「あれでよかったんだよ。私だって1人の時間が必要だったもん」娘はそう言ってくれたが…6時からの夕食9時消灯までの時間消灯したからって眠れるわけでもなくテレビも消された暗くて長い夜の時間娘は1人、何を考えていたのだろう受験が終われば、ご褒美の時間が待っていたのに「ずっと寝不足だったから 早めに寝ちゃったよ」そんな娘の言葉も、わたしの逃避を支えてくれた***************1階の病室にいたのは1週間だったその間に、いろんな検査をしてさあ、治療という段階で、3階病棟に移ることになった後に知ることになるのだが3階病棟は、血液腫瘍の子どもたちばかりの病棟だった。血液腫瘍というと白血病や再生不良性貧血など、いわゆる血液のがん。そこでさまざまな子どもたちと出会いその子たちを見守るママたちと出会いそして、病児との生活を知ることになる。「3階病棟で治療する」ことの本当の意味や「自分のことは自分で……できないときもあるもんね」って見守りや1週間の検査ででた娘の本当の病気、白血病の中での細かい分類などそのときは何も理解していなかったけど徐々に知っていくことになる。そのおかげで私は正面から、娘の病気と向き合えるようになったいや、向き合うしかないと覚悟を決めたのだ**************1階病棟にいた1週間娘は1人で友だちを作っていた2つ年上で同じ名前の女の子その1週間しか一緒にいなかったがそれからもいろんな相談をし、お互い励ましあったらしい娘の最期を知った彼女はお花をたむけて、泣いてくれた「お母さんがいなくったって 私は大丈夫だって言ったでしょ」娘のはにかむウィンクが見えるようだ
2011年07月21日
私にとっての人生最悪の日……それは娘が亡くなった日、ではない。娘が病気だと確定した日、2009年2月16日だと、今でもそう思う。娘は中3で、受験の真っ最中だった。2月4日 公立高校の前期試験日娘は、何年ぶりかの熱を出した。かなり高い。まさか、こんな日にインフルエンザ?我が家はそれまで、だれもインフルエンザにかかったことがなかった。それほど、丈夫なんだと「元気だけが取柄なのよ」と謙遜していうのが私の常であり自慢だった。38度を超える熱がありながら娘は志望校まで、予定通り自転車で行った。30分はかかっただろう。「とにかくインフルエンザを治して 後期試験にかけよう」ところが、インフルエンザがなかなか良くならない。1週間たって熱は下がったし内科では登校OKの確認ももらったのにだるそうにして起きてこない。飲みなれないキツイ薬を飲んだから胃を壊したのかもしれない。胃腸科へ連れて行ったら「胃ではなく、膵臓かも?血液検査をしましょう」ということになった2月15日娘はもうほとんど復調していたが血液検査の結果を聞きに行く日だった。このころ、わたしが体調を壊していて夫と娘とで胃腸科に行ってもらった。夫からの電話「娘は先に帰らせたが 血液検査の結果で 白血病の可能性があるって言われた」何の事だかよくわからなかった夫と2人、外で話した「血液検査なんて誤差だらけでしょ? 明日、紹介してもらったその病院行ってみるけど、 今はあんまり心配しないことにしよう きっと、間違いだよ」平静を装う声とは裏腹に震えが止まらなかったでも、間違いであると信じていた・・・・信じていたかった2月16日いぶかる娘をなんとか言いくるめて紹介してもらった病院に連れて行った見たことのない大病院そして、小児病院だけあって子どもばかりそんなこと当たり前だが「こんなにたくさん、病気の子どもっているの?」無知な私はびっくりしたのだこの病院でも血液検査をした結果は小1時間で出るという。そして、再度、呼ばれた娘は看護師さんとレントゲンを撮りに行くよう言われた私は診察室に残れとそして告げられたのだ「間違いなく白血病です」最近では8割の子は治る病気だとも言われたがわなわな震えて、何をどう考えたらいいのか・・・・でも、娘の前ではちゃんとしていなくちゃ。娘はレントゲンから帰ってきた自分のレントゲン写真を持ってそしてそのレントゲン写真のカバーに娘の名前と「病名 白血病」と書かれていたのだまだ告知もされていない子にそんなものを渡すなんて明らかにミスだけどそんなことを言っても、娘が見てしまったことはなくならない娘は「お母さん、私、この病気なの?」病名を指差して言った。「私、死んじゃうの?」「死なないよ。絶対に死なないよ。 白血病ってね、今では治る病気なんだって。 お母さんもさっき先生に聞いたばかりなんだけど 治療したら、治るから」外来患者が100人以上行き来するような待合で2人で手を握りながら泣いた。それから1時間近く泣いただろうか。「治療ってどれくらいかかるの?」と娘は聞いた「1年くらいだって」「1年か…。1年で治るの?」「そう、1年がんばれば、治るって!」「そうか…。 1年なら、がんばるよ」今でも、娘の切り替えの早さには脱帽する。たった1時間で、1年間の闘病と「白血病」を受け入れてしまった。「がんばるね、大丈夫だから」ってピースサインまでして。まさに、青天の霹靂、だった。「元気だけが取柄」の我が家が難病の子どもを抱える家族になったのだ。いや、私自身はまだ、娘の病気を受け入れるなんて、できなかった。どうすればいいのか?何をすればいいのか?全くわかっていなかった。でも、とにかく、娘が「病と闘う」って言ってくれて、ホッとしていた。「そんな病気なんてありえない。このまま死んだ方がマシ」私ならそう叫んだかもしれない。娘がそう言ったらどうしようとそればかり心配していたが娘は「がんばるね」と笑ったのだ
2011年07月16日
1回目のけいれんは40秒ほど。長い、と思った。娘はけいれん状態から戻ったとき、私の首にだきついてきて「怖かった~」と泣いた。「自分がどこかへ行ってしまいそうで すごく、怖かった」その夜、けいれんは3回おきた。3度目のけいれんは20分以上続いて薬の力で、やっとおさまった。薬で眠らせてもらったから「怖かった」ということもできなかった。何かを言いたかっただろう。抱きつきたかっただろう。・・・・・こんこんと眠るわが子を抱きしめておいた。けいれんの1回目と2回目の間か2回目と3回目の間かもう、記憶が定かではないのだがとても幸せな時間があった。けいれんがあったから死期が近いとかこのあと、全く話せなくなるとかそんなこと考えていたわけではないのにイマワノキワの挨拶をしたのだ。「あなたは、お母さんにとって、すごくいい子で 本当に、自慢の子だけど お母さんは、いいお母さんじゃなかったよね。 怒ってばっかりだったし もっとやさしいお母さんの方がよかったよね。 こんなお母さんでごめんね」「そんなことない。 お母さんでよかったよ。 お母さん、大好き! 本当にありがとう」今思い返しても、夢のようだ。本当に、現実に、あんな会話したんだろうか。何かがおりてきて、私に言わせたとしか思えない。けれどこの言葉をもらって今でも、本当にうれしい。私がけっこう早く立ち直れたのも元気でいられるのもこの言葉のおかげ。それほど私の宝物だ。5月22日(日)娘はずっと眠り続けた。反応がどんどん減ってきた。もう1度起きてもう少しでいいから、話をしたい!!娘は今まですごく、すごくがんばってきたんだからもうこれ以上「がんばれ」とは言えないって思っているのに気がつくと「がんばって」と声をかけている私たち親はなんて強欲なんだろう。でも、なんでもいい。たわいない話がしたかった。私の親たちが見舞に来た。意識が怪しいと聞いて大阪から飛んできてくれた。「おじいちゃんとおばあちゃんが来たよ」娘はこくり、うなずいたそして、なにやらぶーぶー言いだした。「あーあ」とか「がーがー」とかにしか聞こえないが何かを懸命に伝えようとしている。娘は必死だ。私が「薬?」「暑い?」「痛い?」・・・とんちんかんなことを言ってもずっと同じ言葉を繰り返してくる10分くらいかかったと思うやっと娘の意図がわかった「ああ、帽子だ。 いつもの帽子をかぶりたいんだ」娘はまたこくり、うなずいて帽子をかぶしてやると、また、こんこんとした眠りについた。最期まで女の子だったね。娘と意思疎通ができたのはそれが最後だった。その夜は夫が付き添ってくれた。私は1日だって1時間だって娘のそばを離れたくはなかったけれど夫にだって 娘と父だけの時間は必要だろうし家にいる妹弟にだって 母は必要だろうだから夫と私は、それからの付き添い分担表を作りこの状態がずっと続くだろうから私たちが体を壊してる場合じゃないと、よく眠り、よく食べなきゃねと話し合ったのだ5月24日(火)娘の反応はほとんどなくなっていた。2時間に1度くらい看護師さんが床ずれしないように体の向きを変えに来てくれるがそれ以外は娘と2人いろんな話をした。いや、一方的に私が話していただけだったが。病院のいろんな人たちが来てくれた。医療機械のスペシャリストさんだったり元いた病棟の看護師さんだったりお世話になっていた精神科の先生だったり違う病院に転勤になった元の主治医だったり出不精で電車に乗らない夫の母も遠路はるばる来てくれた「今日はいろんな人に会えてよかったね。 また明日ね」私は日付が変わろうとしているころ眠りについた5月25日(水)看護師さんが私を起こしている看護師さんに起こされるのは初めてだ。お昼間でも「疲れてるのよ、寝れるときにゆっくり寝てもらって」絶対に、わたしたち家族を起こさないのに看護師さんが私を起こしている何かが起きた、のかもしれない。看護師さんの緊迫した声「呼吸数が減ってきていて 今、先生も呼んでますから」呼吸数が減ってる???モニターを見たら今まで見たこともないような小さな数字が並んでいたドクターは「もうあまり長くないと思います。 お父さんも呼んで。 医療的なことは全部ぼくたちがやりますから お母さんはモニターなど気にせず お嬢さんの顔だけ見といてあげて下さい」寝ぼけているのかドクターの言葉がふわふわ浮かんだまま私の中に落ちてこないでも、とりあえず電話して夫を呼んで娘の名前を呼び続けたもう1回だけ、何か言って最後にもう1回だけ、がんばってまた「がんばって」って言っちゃったごめんね。こんな母さんでありがとう。ありがとう。急性骨髄性白血病の中でも染色体の欠損があってやたらと難治性の高い悪名高きヤツにミソメられて100%アウェイな中娘ほどがんばった子はいないと思う親バカなのは百も承知だが5月25日午前1時45分 娘は亡くなった享年17歳短くとも強くて美しい人生だったと胸を張って言えるただかわいそうな子、なんかじゃない。泣いて人生を恨んでた、わけでもない。「かわいそうだったね」ではなく「すごい子だったね」と自慢のわが子をホメテもらいたい。自慢のわが子を見せびらかしたい。だから、書きたいのかもしれない。
2011年07月15日
5月21日(土)娘はほとんどの時間を眠って過ごした私は夫と寝顔を見ながらいろいろ話した覚悟、のようなものは出来ていた ゼッタイできるはずない、と思っていた覚悟だったが**************4月高校に復学してからは娘は勉強ばかりしていたもっとラクすればいいのに…もっと遊んだ方がいいんじゃない?周囲の声を全く無視して彼女は特に大好きな数学と格闘していた「出来るはずなのに、変なところでミスしちゃうのよね…」勉強しているわが子の横で私ひとり時間を持て余していたので娘のおススメ本を方っ端から読んでいた娘の好きな作家さんは 恩田陸 さんと 重松清 さん特に「夜のピクニック」と「きみの友だち」は絶対に読んだ方がいいという「夜のピクニック」をさわやかに読み切った私は「きみの友だち」を読みすすめ本当に後悔した人が死んでいく話は・・・・ムリなんだけど・・・・でも、途中でとめることはできず病室で涙をこらえながら読んでいた最後の3章くらいは家で読んだ思い切り泣きながら 主人公には 重い病気を抱えた親友がいて 別れの時が来る 「寂しくないの?」と問われて 「寂しくない」と応える主人公に クラスメイトが「冷たいね」という。 「準備してたから。死んでしまう友だちと付き合うってそういうことだから」 重松清著「きみの友だち」より抜粋本の世界に入り込んでの涙もあったが現実社会で、娘からのメッセージだと思って愕然とした娘は「お母さん、ゆっくりでいいから準備してね」って言いたかったのだろうか?「暗いだけじゃなくって 明るい終わり方だし、いい本でしょ」っていう娘にそこまで深い思いはなかったのかもしれない。私がただ感じ取っただけかもしれない。けれどそのおかげで少しずつ、少しずつ、準備してきたんだと思う。最期になって、そう思った ****************大人というのは卑しいもので娘がこんこんと眠る横で私は夫に向かってお金の話を持ち出した「もし万が一の時のために あれを解約しようか・・・」すぐに「万が一」が来ると思っていたわけではないまだまだ先だろうけれど自分たちがしゃんとしているうちにお金の準備はしておかなきゃそう思ったのだまだ今なら余裕があるだろうって娘は変わらずこんこんと眠っていたが心拍数や脈拍数がバンと10位上がったずっとモニターをつけていたのだがあまりにも明らかに数字が変わったのをみてちょっと笑えた「お父さん、聞こえてるんだね。 ごめんね、変なこと言って。 お願い、許して!!」5分くらい謝ったり笑ったりしたら娘のデータは落ち着いた「ありがとう、許してくれたのね・・・」昏睡状態から目を覚ます子もいると聞いていたしまだまだこれからだと思っていたなのにその夜、妹と弟を病院に連れて行った娘は小児病院に入院していたので病棟へは大人(高校生以上)しか入れない。弟はまだ中学生なので原則的には入れないのだ。妹弟も「うちで会えるから」と病院に来ることはほとんどなかったのだが今日は3人で話させようそんなひらめきがあった。急に「厳しい状態だから」といわれ連れてこられた妹弟は表情が硬かった。「厳しいってなに??」だが、姉には絶対的な信頼があったどんなに厳しくても、どんなに大変だと母が言っても今まで姉は、必ず帰ってきていただから、今度もなんだかんだ言っても帰ってくるのだろうと本当にたわいのない話をしていたいつものように弟が姉2人にいじられて「こいつはバカだからさ」って笑われて何事もない普通の3人だったでも、唐突に言ってみた「せっかくだから、3人で写真撮らない?」そう言った私だが、娘が「やだよ」って言うだろうと思ってた娘は酸素チューブを付けて写真を撮ることを異常に嫌っていたからでも、「そうだね」って言ったのだ。一番画素数の高い娘本人の携帯で写真を撮った緊張した妹弟と満面の笑みをうかべた娘娘の手はいつものピース・・・・・・・ではなかったそのあと、妹弟が帰って娘が言った「お母さん、わたし、ピースが出来ない・・・」その写真を今見ると娘は「満面の笑み」ではない。とてもぎこちなく決して笑えてはいない。いつものピースサインも未完成で何かをつかもうとでもしているように、手が宙を泳いでいる痩せこけて、ガイコツのような顔これがわが子だとは思えないほど変わり果てた姿でも、そのときは本当に安心したのだ「3人で話せてよかった。 今日はいい日だった。 娘も本当に喜んでいた。 いい笑顔で笑ってたもの」あれは自己満足、ではないと思う。娘もホッとしたんだろう。妹弟が帰ってすぐ、娘はけいれんを起こした・・・
2011年07月14日
ブログタイトルに偽りアリ…ですね。いまや、「ライター」でもないし、「息災」でもないし。考えなきゃ。なんで、こんな事書こうと思ったのかいまもってわかりません。みんなに知ってほしい? いや、娘は全く望んでません。 彼女は元気な姿でしか、友達ともあいませんでした。 決して苦しんでいる姿を見せることはありませんでした。 なのに・・・私自身が「こんなに大変だったのよ、わかってよ!! こんな大変なことをやったのよ、もっとホメテ!!」って言いたいだけかもしれません。だとしたら偽善だな。でも、書こうと思います。今娘は「お母さんが書きたいんだったら書いてもいいよ。 なんとなく、書くような気がしてたし。 ただし、匿名希望!」って、照れ笑いしながら言っているような気がします。いろいろあった闘病期間、2年3ヶ月いろいろあり過ぎて記憶がごっちゃになり風化していきそうな不安だから、残しておきたいのかもしれません。読むと悲しいと思います。知らない子でも、子どもが死んでいくのは、見るに忍びないもの。だから、辛くなりそうな方は、ここで引き返して下さい。*****************2011年5月19日(木)早朝にやはり熱が出た。その週はずっとそうだった。5時30分過ぎに38.8℃ロキソニン(解熱鎮痛剤)を飲む。7時半ごろ長女は起きた。熱は薬のおかげで落ち着いている。そして、その日も学校に行くという。その頃は、こんな事が続いていた。ドクターはOKだという。「熱さえ下がれば大丈夫だろう」ドクターは余命少ない子どもの意思を最大限尊重してくれようとしているそれは分かっているそれでも、娘の「長い」人生を信じたい親はとても不安だったその日はいつにもまして、しんどそうだった玄関で靴をはきたたきを3歩ドアを出て3段おりる (階段とも呼べないような段差だが、娘には大きなハードルだった)車まで5歩私に抱きかかえられて移動する車中「今日は辛そうだから、休んだ方がいいんじゃない?」「大丈夫。もう無理ってなったら早退するから。とりあえず、行く!」娘の高校にはエレベーターがない。教室は3階、娘にとっては遠い。2階まではなんとか上がった。でも、ほとんど私の力で引っ張り上げた格好だ。2階を過ぎたあたりで、わたしがキレた。「こんな状態で学校なんて無理でしょ!! こんなひとりで歩けない子を、 お母さんはおいて帰れない」そのまま引き返した。それが最後の登校だった。その日の午後から、入院して治療してもらうことにした。ずっと「入院」状態だったが、外泊扱いで自宅にいて、病院には「通院」していた。だが、内服薬では限界があり病院で寝泊まりして点滴治療をしてもらおうと積極的な意味での入院だった。だから、彼女は数学や英語の教科書やらノートやら大量に持ち込んでいた「病院はヒマだから勉強しなきゃ もうすぐ中間試験だからね」5月20日(金)普通の病院での1日だったなんの話をしたのかどんなことをして過ごしたのかよく覚えていないお風呂には入ったような気がする今思えば、最後の入浴だった本当に普通の1日だった「明日は土曜日だから、お父さんと来るね。ご飯食べなきゃね、なんか作ってくるね」そういって私は帰ったのだ次の日も、その次の日もいつもと変わらない1日になるだろうと思って5月21日(土)朝10時過ぎ、私の携帯が鳴った娘からだった遅くなってるからだよね、早く来いって催促かしら?そんなことを思って電話をとると「お母さん、私、よくわからないけど、たいへんなことになってるみたい。 なんだかよくわからないんだけど たいへんなことになってる・・・・・・」「大変なことって?どうしたの???」「よくわからないんだ。でも、なんか・・・・たいへんっぽい」「とにかく、もうすぐ行くよ。遅くなってごめん。待っててね」そのあと、担当の看護師さんからも電話があった。その電話をとるのにはすごい勇気が必要だった。とる前から、すごく怖かった。いつもと違う、ような気がした。「意識レベルが落ちている」と看護師さんは言った「さっきの電話みたいに割と普通に話せる時もあるけれど 全く意識がなくなるときがある。 まだまだ出来ることはあるけれど 出来ないことが増えてきて ほとんどの時間は寝てしまっている」そして「おむつをつけさせてもらいました」移植後、2リットル以上の下痢をしている時でも絶対につけなかったおむつをつけている???夫と二人、車で病院に向かう間私はさんざん泣いた。もうダメなんじゃないか?何が起こったの?なんで? なんで???病院につくと娘はすやすやと眠っていた。痛みなど知らないように熱なんかどこかへいったように娘は時折起きて、私たちと少し話した。呂律が怪しい。が、その内容はいつもと変わらなかった。ドクターが言うには「白血病細胞が脳にまわったのだろう。 それを食い止めるような手立てはあまりない。 考えられる治療はあるが、リスクの方が大きい。 本人に辛い思いをさせるだけで ここから劇的によくなることは、ほとんどない」私たちは以前から話し合っていた通り娘との静かな時間を選んだ。 本当にたくさんがんばった娘だから 彼女が『疲れた』って時は 彼女の思う通りにさせてあげよう。**************やはり書き始めると、長くなりますね。今日はこのあたりで。ここまで読んでいただいた方ありがとうございました彼女の冥福を祈って下さるのも嬉しいのですが彼女はもう次の生を目指しているようでじっと静かに眠っているわけではないみたいです。なので、生前のがんばりをほめてやってください。私は、がんばった娘を見ていただけなので私のことは脇にやって彼女のガッツを称えてやって下さい。お願いします。
2011年07月13日
たいへん、ごぶさたしています。いろいろあってずっと「放置」していました。いろいろ…が終わったのでそろそろご報告、そしてぽつりぽつりと書いてみようかなと本当に久々に、ブログに向かっています。うちの長女、5月25日に亡くなりました。17歳でした。2年3ヶ月前の2009年2月16日急性骨髄性白血病だと診断されて即入院。最初、8割の子は治る病気だからといわれましたが検査を経るごとに難治度が悪化娘の白血病は、非常にムズカシイ種類のものだったようです。それでも骨髄移植の結果も良好で2009年11月26日無事、退院。体調的にはつばを飲み込むのも痛いくらいひどい口内炎や夜寝られないほどかゆい皮膚炎なんかもありながらそれでも「治った」喜びをかみしめていました。もちろん「がん」ですから5年間再発しなくてやっと「完治」といえるのですがうちの娘のかぎって再発なんてない!!って思いたかった。。。骨髄移植後の口内炎や皮膚炎はGVHDといって本人にとっては困ることでしかないのですが原病を抑え込んでいる証拠でもありドクターたちは歓迎することなんです。だから、こんなにGVHDで苦しんでいるんだから再発はないだろうって思っていました。もちろん、本人もそれが2010年5月に再発。2009年11月末に退院してお正月を迎えてGVHDに苦しみながらもやっと2010年4月に高校に入学できたのに1回目の中間テストが迫ってくるそんなときに再発の宣告を受けました。特に体調に変化があったわけではなくいつもの定期検診ですでに末梢血に白血病細胞が出てきていて・・・2010年6月22日から再度入院。この時は肺炎を併発していてずっと電気もつけず息も絶え絶えでもう一度骨髄移植なんてできるのかって本当に心配しました「夏祭りに行きたい」って娘が言いました「去年は入院していて行けなかったら今年こそは浴衣着て、友達と夏祭りに行きたい」酸素マスクがはずせなくてほとんど起き上がることもできないのに7月15,16日の地元の祭りに行くというのです。ドクターもナースさんたちも「行こうね、がんばろうね」っていうけれど誰もが「かわいそうだけど無理だろう…。酸素ボンベもって車いすでなら…」って思っていたようです。それでも奇跡的に(本人は「行きたいところに行けた!」だけだったけど ドクターたちからは「奇跡だ」といわれました)本当に、浴衣を着てたった1時間だったけど私の付き添いもなく友達とだけで祭にいきました。本当にうれしそうで楽しそうでこの時の浴衣姿の写真を遺影にしました。その後、2回目の骨髄移植今度は臍帯血バンクよりいただきました。「もう無菌室から出られないかもしれない」とも言われました。このころ引越しをした新しい家には「帰れないかも」ともいわれました。でも、2ヶ月くらい何も食べられないほどでしたがなんとか移植を乗り越えて一度はちゃんと治ったんです。新しい家にも帰って自分の部屋のカーテンを買いに行ってじゅうたんを選んで好きなバンドのライブにも行ってファンレターを書いたりその後もほんとうにいろいろなことがあり再発や再再発や脳への転移や思いだすとぞっとするほどたいへんなことだらけだったけど娘は「医者になるわ」と言いました。「私にしかできない医療があるでしょ」って2011年4月まだ病を抱えたままの状態でしたが3月から始めた新薬での治療も良好で高校にも2度目の復学を果たしました。本来なら高3の年齢ですがもう一度高校1年生。2つ下、妹の同級生たちとクラスメイトになり最初はかなり戸惑っていたり悩んだりしていましたがやっと本当にやっと「学校が楽しくなってきた」って言い始めたのにあっという間に亡くなってしまいました。5月18日まで学校には通いました。最期は痩せて、本当に皮しかなくていつもの半分にも満たなくていつもの4分の1も食べられなくてそれでも「医者になる」って勉強していました。先日、納骨を済ませました。私は寝てばかりいましたがだんだんと普通の生活を送れるようになってきました。妹や弟を学校に行かせなきゃなりませんからご飯を作り、掃除をし、洗濯をし。テレビを見て笑い、息子の運動会で応援し、娘とバーゲンに行き。でも、本当はもっと楽しいはずなのに心の底からは笑えていない、ような気がします。いろいろありました。本当に、知らなかったことだらけでした。こんな勉強はしたくなかったけどこれから、少しずつ吐き出していこうと思います。亡くなった娘が「お母さん、心の底から楽しんでいいんだよ。 もっと、笑ってよ」って言ってくれているのは分かっています。でも、まだ・・・自分の心を整理するために少しずつ書いていきます。よかったら、お付き合いください。
2011年07月11日
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