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三春戊辰戦争 7:恭順の代償 慶応4年7月26日の新政府軍の三春到着に際し、藩主は菩提寺に入って謹慎をし、嘆願書を提出しました。三春町史には読み下し文で、次のように記載されています。『今般奥羽御征討のため、官軍御指向、既に当藩にも御参着に相成候処、当家に於いては素より朝命遵奉の儀聊か動き御座なく候処、兼て小邑微力にて大国の間罷り在り、其指揮行き届かず止むを得ざる次第、私はじめ家中一統幾重にも恐れ入り存じ奉り候。依て居城並に領地人民共に指上げ、菩提所へ相退き家来一同謹慎罷り在り申し候。右等の事情御憐察なし下され、何れにも寛大の御沙汰を蒙り奉り度く此段宜く御取成下され候様仕り度く、嘆願奉り候。以上。慶応四辰年七月 秋田万之助』同 日、町家に止宿していた同盟兵の詮索がはじめられ、中町井筒屋前で仙 台兵が一人斬られた他に、7〜8人が捕らえられました。一方、薩 摩と土佐藩兵は、三春領に接している二本松諸番所を、百姓の案内 で急襲しています。 翌27日、参謀局より秋田主税と重臣荒木国之助・小野寺舎人らが呼び出され、 嘆願が認められた上、「追って御沙汰まで城地・兵器・人民を預り 置く。また出兵を申しつけるので功を立てよ」との口達がありまし た。(三春町史766ページ)またこの日、錦旗印章を授けられた 三春藩兵一小隊は、新政府軍の案内役として二本松領の糠沢村や高 木村に進出しています。 28日、総督府参謀より、次の達しを受けました。 『諸藩進撃ニ付教導之者指出候様 参謀方より御達ニ付相勤候事』。 これは三春藩が、新政府軍に完全に組み込まれたことを意味しているのではないでしょうか。 29日、新政府軍は大壇口の二本松少年隊を含む防御線を破り、二本松城を落 としました。この日の戦いでも三春兵に死傷者はなかったのですが、 これは最前線に立たなかったということなのかも知れません。 8月4日:相馬藩、新政府軍に内通.相馬藩もまた仙台藩に、『裏切り』と責め られることになります。 8月6日:相馬藩、新政府軍に降伏。 三春が戦渦から逃れ得た8月16日、白河口総督より城地はこれまで通りとされ、藩主の謹慎が解かれ、本領も安堵されました。沙汰は次のようなものであり、同時に京都の秋田廣記も禁足が解かれたのです。『右不得止情実より而、一旦賊徒一味の形跡を成し候得共、賊を掃攘し、官軍を迎、降伏候段、被聞食届、格別の思食、謹慎被免、城地是迄通、被下置候條、爾後闔の方向確定し、王事勤労可相励旨 御沙汰候事 八月 秋田万之助』 二本松市史741Pに『此後二本松領取締りの義ハ当分三春藩へ仰付られ翌年二月迄三春より諸役人参り支配仕居候事八月中旬先殿様十万石召し上げられ大隣寺へ御入寺御謹慎仰蒙られ候ニ付急ニ米沢より若殿様頼丸御養子御縁組ニ相成更ニ下しをかれ候事ニ仰付られ候へ共当時三春の御取あつかいニ而半年貢御取立ニ御座候御前様御奥様共米沢より龍泉寺へ御引取仮ニ御住居御座候 諸士の家内四千人程米沢より引取在々へ割付ニ相成乳のみ子迄ニ七合扶持被下三春より日々御渡しニ御座候』とあり、三春藩は、二本松藩領安達郡内阿武隈川右岸一帯(旧二本松領東安達)の地の支配を命じられています。またこの頃、守山藩が郡山の支配を命じられていますから、二本松領は2つに分断されることになりました、そして二本松藩取締を命ぜられた三春藩は、三春藩使者の斬殺に関して、直ちに使者殺害の町人を探ねた」そうです(二本松市史936P・続ふるさとの伝え語り93P)が、その詳細は分かっていません。 8月20日、新政府総督府が、前線の北進に伴って白河より三春に移って来まし た。総督代行の鷲尾隆聚と阿波の徳島藩兵の行列は、赤沼まで迎え に出た三春藩重臣らに案内をさせ、白地に『奥羽追討師』という旗 を掲げて藩主の御殿(いまの三春小学校)に入りました。鷲尾隆聚 はさっそく郡山・本宮・二本松・福島に兵を展開し、会津攻撃の準 備をはじめました。三春の龍穏院には野戦病院が開設され、医者は 佐倉藩より二名、薩摩藩より一名で、荒町の大阪屋に宿泊しました。 ここには手負や怪我人が収容され、看護には若い女性二十人ほどであ たりました。 8月24日、三春藩は旧二本松領の本宮警備を命じられ、赤松則雅の小隊を派遣 しました。 8月25日、白河より正親町(おおぎまち)総督が三春に入り、御殿の門前には、 『正親町殿本陣』の看板が掲げられました。 8月26日、大山巌は鶴ケ城の戦いで右股に貫通銃創を受け、三春の龍穏院の野 戦病院に入院、のち白河に移されています。大山巌は後に陸軍元帥 となり、陸軍大臣、陸軍参謀総長、文部大臣、内大臣、元老、貴族 院議員を歴任していますが、西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟にあたり ます。なお巌の次男の大山柏は公爵、貴族院議員、考古学者、文学 博士、戊辰戦争研究家の顔を持ちながら、陸軍少佐となっています。 『戊辰役戦史』の著者でもありました。 間もなく三春藩は、磐城平民政局より、次のように命じられています。 『達 三春藩陸奥国安達郡本宮組、玉井組、杉田組、渋川組、信夫郡八丁目組、当今之内民政筋取締被仰付候事 磐城平民政局 御判』(二本松市史749P) これにより三春藩は、旧二本松領の半分をその支配下に置くことになったのです。 9月 3日:米沢藩、新政府軍に降伏。 9月12日:仙台藩降伏。 9月15日:福島藩降伏。 9月16日、会津進撃のため、中山口へ一小隊50名と三挺の大砲隊が派遣され た。 9月17日:山形、および上山藩降伏。 9月22日:会津藩降伏。三春兵は若松に着陣したが、すでに会津藩は降伏して おり、戦うことはなかった。 9月24日:盛岡藩降伏。 9月27日:庄内藩降伏。 この戦争の目標とされた会津藩の降伏が9月21日でしたが、奥羽越列藩同盟のリーダーの一つの米沢藩が18日前、仙台藩が9日前に降伏しています。この両藩が会津藩より先に降伏したということは、会庄同盟と奥羽越列藩同盟とが一体ではなかったということになるのではないでしょうか。そして会津藩降伏3日後に盛岡藩が降伏しています。そのような中で、会津藩降伏の6日後になって庄内藩が降伏していますが、これは庄内藩が会庄同盟に殉じたということになるのでしょうか。庄内藩は結果的には恭順したものの、最後まで自領に新政府軍の侵入を許しませんでした。なお戊辰戦争直前には、会津藩とともに、当時のプロイセンとの提携を模索していことが分かっています。(ウィキペディア・庄内藩より) 二本松市史742ページには、『一巳(明治2)二月九日、殿様御謹慎御免 三春より御引渡ニ相成』とありますが、これは二本松藩主の身柄が三春藩の監視下にあったということを示唆しているのでしょうか。 また明治二年、二本松丹羽氏は、半知五万石で家名存続が許されました。(二本松市史912ページ) 二本松藩は10万石でした。しかも二本松藩は、白河10万石も預かっていましたから、実質20万石であったということになります。幕政時代の命令系統は、10万石以上は幕府から直接、それ以下は10万石大名を通じてなされていました。ですから三春藩は、二本松藩を通じて連絡を受け取っていたと思われます。しかしこのことから、二本松(十万石)→三春(五万石)への命令もしくは連絡網について一つの疑問が発生します。それは『2:徳川慶喜追討援護令』で述べた列藩主招集の命令のことですが、これを三春藩が知って使者を上洛させているということは、二本松藩も知っていたはずです。しかし二本松市史にそのことの記載がないようなのです。二本松藩がなぜ列藩主招集の命令に応じなかったのか、その理由は不明です。 三春藩や守山藩より上の立場にあったと自負していた二本松藩。その二本松藩が藩主の身柄監視はもとより藩内の警備まで三春藩と守山藩に分割統治されるという、ある意味占領されたという恨みが、水戸藩と関係の深い守山藩を避け、『三春狐』に凝縮したのではないでしょうか。新政府軍が歌っていた歌は、次のようなものでした。 会津・桑名の腰抜け侍 二羽(丹羽)の兎はぴょんと跳ね 三春狐に騙された。 馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ 三春狐に騙された。 三春は長年にわたってこのように謗られ、高価な代償を払わされる結果となったのです。ブログランキングです。←ここにクリックを
2015.01.26
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三 つ の 結 末 1 藩政を揺り動かした大一揆が一応収まった寛延二(1749)年十二月二十一日以後、二本松藩はただちに一揆首謀者の探索を開始した。 先ず領内十組の各代官が『遠慮』を申し出るが、杉田組代官鱸治部弥と本宮組代官吉田兵衛門だけは、組下の百姓、町人が一揆に加わらなかったため『遠慮御免』とされた。十二月二十六日には、針道組代官三沢定左衛門が役職取り上げられて小普請入り、郡代原勘兵衛と郡奉行三浦治太夫、錦見幸右衛門も役儀取り上げられ謹慎を命じられ、代わって新郡代に渡辺弥次兵衛、新郡奉行に上崎藤馬、石黒角太夫、丹羽紋右衛門が任ぜられた。針道組代官以外の九代官は従前通り務めることになった。針道組の新代官には広瀬七郎右衛門が任じることなどで、藩としての処断を現した 他方領民支配の安定化対策と、一揆指導者の処断の準備も着々と進められた。今回の一揆に際し、積極的に蜂起したのが針道組と大槻組であり、同調に留まったのは小浜組、糠沢組、渋川組、郡山組、片平組であり、動かず批判的であったのが本宮組、玉ノ井組、喜久田組であった。 寛延三(1750)年の正月下旬、二本松藩は一揆首謀者らの捕縛のため四〇〇余騎を準備した。そして二月二日午前二時より、村々の頭目と目される者の捕縛をはじめたのである。善右衛門は自らが自首して出た。「責任者は自分一人であり、全員が無罪である」と主張したのである。しかしこの主張にもかかわらず、一揆頭取らの探索や捕縛は、この一月下旬から二月中にかけて徹底的に行われたのである。 針道組の村々に対しては、物頭、町奉行、郡奉行、代官らが四百余騎を率いて出張し二月一日夜、小浜の名主郡右衛門、伝兵衛宅を本陣として、同二日から二手に分かれて村々を襲い、頭取と思われる二十四人を捕縛した。安積三組、糠沢組へも捕り手が派遣され、多数が召し捕られた。捕らえられた百姓たちは『棒問、鉄砲問、湯問、水問、木馬問、種々の拷問にかけられ』たという。このことは、一揆解散の切り札とした。年貢半免その他を約束した御教書も反古となったことを意味した。半免御用捨は高百石につき『御救金』二両の下付と引き替えに撤回され、さらに『御用米金』『未進残米』の納入は、翌年(寛延三年)六月まで延期するはずが二月から徴収されたのである。 一揆の指導者、活動家に対する処罰、騒動参加の村々へのお咎めについての藩の最終的な評定は寛延三年十一月から十二月にかけて行われ、十二月十二日にその判決が言い渡された。もっとも積極的に動いた針道組六ヶ村(田沢、上太田、東新殿、西新殿、南戸沢、茂原)と安積郡大槻組五箇郷に対する詮議が特に厳しかったことは言うまでもない。その内訳は獄門二人、死罪一人のほか財産没収、領分払い、田宅取り上げ、他村への村替えなどである。なお五箇郷については三人が村替えとなったのみで、十八人全員が針道組からの処分者であった。針道組の善右衛門は『村民の不参加を脅し出訴強要、役人への雑言』を理由に獄門となった。家族全員も他領に追われた。代官が二〜三年で替わる天領とは違って、封建支配の厳しい二本松藩では、自分たちのために死んだ善右衛門を義民として祀ることもできなかった。次は、今に残る処分の詳細である。針道組 田沢村 宗右衛門 百姓(頭取) 小浜町で組頭をして村人帰村の足止め、 役人への雑言獄門。針道組 上太田村 善右衛門 百 姓 出訴強要 役人への雑言獄門。針道組 東新殿村 寿右衛門 長百姓願書連判強要 死罪。針道組 南戸沢村 理左衛門 長百姓(頭取) 徒党勧誘 田畑家財家屋敷没収領分払。針道組 西新殿村 伝右衛門 長百姓(頭取)城下願書直訴 田畑家財家屋敷没収領分払。針道組 茂原村 勘次 百 姓 願書下書きを書く 田畑家財家屋敷没収領分払。針道組 東新殿村 加兵衛 長百姓 村方勧誘 田畑家財家屋敷没収領分払。針道組 東新殿村 藤左衛門 長百姓 連判世話 領分払。針道組 田沢村 辰之助 百 姓 村方勧誘 領分払。針道組 田沢村 小四郎 百 姓 村方勧誘 田畑三分の一取上げ領分払。針道組 田沢村 定八 百 姓 白状しないので 田畑三分の一取上げ領分払。針道組 田沢村 喜六 百 姓 役人への雑言、足軽に手向かい白状せず 田畑三分の一取上げ領分払。針道組 田沢村 三右衛門 百 姓 出訴強要、白状せず 田宅取上白岩村村替え。針道組 田沢村 重蔵 百 姓 勧誘、 田宅取上玉井村村替え。針道組 茂原村 卯兵衛 百 姓 願書文言世話 田宅取上八丁目村村替え。針道組 西新殿村 惣左衛門 百 姓 願書判名主取次強要 田宅取上片平村村替え。針道組 杉沢村 多三郎 百 姓 連判願世話 過料人足三十人。 針道組 杉沢村 吉兵衛 百 姓 連判願世話 過料人足二十人。大槻組 大槻村 十郎兵衛 百 姓 村役人と藩役人への応対雑言 船津村村替え。大槻組 大槻村 林右衛門 百 姓 村方世話、白状せず稲沢村村替え。大槻組 大槻村 善蔵 百 姓 役人へ虚言報告 駒屋村村替え。 (2001 二本松・安達の歴史 二本松・安達の歴史編纂委員会より) これら頭取らへの処分のほか、針道組六ヶ村の惣百姓と村役人らに対して過料銭が課された。すなわち惣百姓に対しては『頭取申す旨に任せ、寺院または山寺に寄り合い延穀あるいは半免御用捨御願い小物成、小役等御免許御願い等、徒党強訴に及び候段重々不埒につき』として田沢村に四十四貫文、茂原村に十七貫文、東新殿村に二十九貫文、西新殿村に三十八貫文、南戸沢村に三十二貫文、上太田村に四十八貫文が課されている。村役人に対しては、『村々より徒党強訴を致し候儀を差し止めず役儀の甲斐これなく重々不埒につき』として六ヶ村の各名主一人につき二貫文、組頭一人につき一貫文、村目付一人につき一貫文、百石廻り(高百石単位に順番で勤める組頭)一人につき五百文の過料が課された。 藩は寛延三(1750)年十二月に、以上の処分について「出訴落着請証文」を提出させたが、これには処罰者のうち『領分払い』『村替』の十六人、針道組六ヶ村の名主、組頭、村目付、百石廻り、長百姓代表(総百姓の代表として)および大槻村の長百姓代表が署名している。なおこの請証文には、領内全村の名主、組頭、村目付、長百姓を藩会所に呼び出して署名捺印させ(十二月十六日)さらにこの写しを全村に廻達して徹底させた。廻り達しの順序は杉田組→玉井組→本宮組→安積三組→糠沢組の順で、例えば糠沢組和田村の新左衛門手合いでは『寛延四年閏六月五日に高木村より請け取り写し取り』『扱下総百姓壱人も残らず逐一読み聞かせ、私共名主、組頭判形仕り同六日、同村名主源内方へ相渡し』ている。のちに藩は、両人の処罰の理由を次のように述べている。(落着請証文) 一 西新殿村長百姓伝右衛門、去(寛延二年)冬同村西泉寺江村中百姓集まり 候節、頭取仕切り、御金納米代当(寛延三年)夏迄延穀に御願申すべき旨 相談に及び、願書の条文を認めさせ、村中の者共壱人たりとも収納致し候 はば、その者より金米を借るべき由申し、一味致させ、願書同文言に三通 認め、村役人江願出しても取り次ぎ申さず候はば、二本松へまかり越し御 願申すべき旨、徒党致し候段不届至極・・・。 二 西新殿村百姓宗右衛門、去十二月強訴以前、名主方へ村の者共願書持参仕 り候節、同文三通の願書何故持参致し候かと名主相尋ね候えば、名主取り 次ぎ申さず候は、御役人様方へ直に差し上げ候為三通持参致し候申し・・・。 この一揆鎮圧の際に約束された年貢半免は、二つの一揆勢の猛威を恐れて単に一時しのぎに出したものであった。財政窮迫に苦しむ二本松藩がこの通り実行できるはずがなかったのである。藩は半免の約束を白紙に戻すため、一揆関係者の処分の後、さまざまな工作を行った。例えば十二月二十四日、本宮組村々の名主、検断らは、「半免御用捨」を辞退したいと、次のような口上書を提出した。 乍恐以口上奉申上候 一 近年打続き凶作につき、百姓共願い申し上げ、領内一同に半免御用捨成し 下され候得共、恐れ入り存じ奉り候。私等持ち高の儀、右御用捨のところ お除き下されたく願い奉り候。もっとも村々小役人共の儀も私共同心の存 じ寄りには相見え候得共、つぶさに相談つかまらざる者も御座候。此度は 申し上げず候。 以上 十二月二十四日 本宮組 名主 検断ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.01.21
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三春戊辰戦争 6:和平の使者、二本松で斬殺さる 日にちが明確ではないのですが、三春より二本松へ帰順勧告の使者を派遣している事実があります。二本松では7月27日に三春から来た使者を翌28日の朝に斬殺したとされているのですが、三春側の記録では27日(時間不祥)に殺されているとされています。どちらが正しいのかは不明ですが、これに関して二本松市史 第六巻 739ページに、次のような記述があります。『三春は奥州一致の体ニ見せ候て官軍へ内通致しおり候や三春城下へ官軍入候と直ニこふさんと見へ御城共ニ無難ニ而是より官軍と成二本松領へ越候節先案内者ニ相成り候事と御座候右之次第候処三春家より本町辺へたんさくの御方三春ニ而ハよほと大しんニ而たんさく方相分候利口なる御士方弐三人参りおり候処此砌ハ二本松ニ而も農兵町兵槍に鉄炮よとけいこさい中ニ付いかゝの次第ニ候や町兵三人斗にて壱人の御士を槍にてつき留其後首打取候様子ニ御座候残の御士方ハほうほうにげゆきニ御座候』(傍点筆者)とあり、また同誌936Pには『町兵は自警団的な役割を果たし、三春藩使者の警護に当たったのは、若宮・松岡の町兵で一ヶ月も前から訓練を受けていたと語っている。』ともあります。 この『参りおり候処』という記述は、殺される何日か前から二本松に着いていたと考えてもいいのではないでしょうか。この殺すという判断は、二本松に新政府軍が近づいている恐怖の中で、たった半日や一日の短い時間の間での結論とは考え難いからです。 また同じ二本松市史935Pに、『三春藩の使者が「町兵三人斗にて一人の御士を槍にてつき留、其後首討取候様子に御座候」とある。この使者は、三春藩の使者の中の大関兵庫のことと思われるが、明らかではない。』とあります。 さらにもう一つ、『城下町に生きた人々 七六ページ』から転載してみます。『二本松城下戦の直前に、三春藩の使者四名が、三春街道付近で斬殺された有名な事件がある。彼らは、帰順の勧告を行うため、七月二十七日に二本松に来て、その夜は松岡の茗荷屋という旅篭に旅装を解いた。 別に、大山巳三郎という三春藩士も、ただ一人で松岡の三春屋に泊まった。この時、三春藩はすでに降伏しているので、二本松では知っているし、彼らも追い駈け使者の報告を受けている。 二十七日の夜は、世相不安の由をもって、三春屋と茗荷屋の両旅籠は、藩命によって松岡、若宮の町人が警備に当たっていたが、藩の真の意図はどうであったかはわからないが、三春の裏切りを知った町人は、軟禁と解したらしかった。 藩は三春の使者に二十八日早々に帰国の途につくよう要請し四名の者は早々に出立した。ところが四名とも、出立直後に三春屋の裏手の桑畑で殺害されてしまった。』 田村小史には、 「七月二十八日二本松に於いて、仙台よりの帰途に在りし不破関蔵、渡辺喜右衛門及び大山巳三郎は同藩士の為同地に於いて斬せらる」と書いてある。彼らの最後を見ていた町人{本町・松坂庄八談}は、「三春の使者の三人は、掌を合わせて、命ばかりはと嘆願した」と語り、家中の人(士族)は、「立派に割腹している。町人は割腹する姿を遠くから見ていたので、見誤ったのだろう」と弁護している。」』 これは二本松で出版されている本ですから、信用してもよいと思われます。このように二本松市史からは殺害日の確認はできませんが、『城下町に生きた人々』には27日に来た三春藩士を28日に殺害とあります。そして7月29日、二本松は落城したのです。 三春・佐久間真氏所蔵の『明治維新三春藩殉難諸士事跡概況調書』には、次のような記述がある。 ● 大山巳三郎 奥羽列藩同盟の関係上藩命により二本松藩に使したるものなら ん。七月二十七日三春藩帰順するを知るや、その故をもって二本松藩のため に虐殺せらる。行年 二十四歳 墓地 州伝寺。 ● 不破関蔵 奥羽列藩同盟の関係上藩命により数士と共に仙台藩に使したるも のならん。時局逼迫するや数士を残置し渡辺喜左衛門と共に帰藩の途につき 偶々二本松城下において大山巳三郎と会す 七月二十七日三春藩官軍に帰順 するを知るや、その故をもって大山・渡辺両氏と共に遭難 戦死す。 行年 五十九歳 墓地 福聚寺。 ● 渡辺喜右衛門 不破関蔵に同じ。墓地 光岩寺。 ● 高野村 農民 橋本周次 三春藩官軍に帰順した旨を、二本松城下に使者と して派遣せられたる藩士に通達すべく任せられたる、叡感勅書せられたる使 者なり 大山・不破・渡辺と共にして遂に戦死したるものの如し。墓地 二 本松城下。 ● 大関兵吾 奥羽列藩同盟の関係上により福島藩に使したるものならん。三春 藩官軍に帰順するを知るや、その故をもって仙台藩兵の為に惨殺せられ、首 を梟れ体は阿武隈川に投せらると云う。行年 四十六歳 墓地 龍穏院。 ここにある三春藩士三名の行動は、『奥羽列藩同盟の関係上藩命により』とあるだけで内容の記述はありません。しかしこの時期、三春藩が二本松藩に伝えることは、『恭順』以外は考えられません。そしてそれは恐らく、単に三春藩恭順の結果報告だけではなく、二本松へ恭順勧告をしたものと考えられます。『城下町に生きた人々』にある四名は、三春藩帰順の何日か前から二本松に恭順勧告のために滞在していた大山と、仙台から帰る途中の不破、渡辺、それと三春藩恭順を知らせに来た高野村の農民、橋本周次と思われます。 また『二本松市史 第六巻 七三九ページ』によると、殺害されたのは一名であとは逃亡したとあり、『城下町に生きた人々』とこの死者数の点では一致していません。ただし、これを書いた人から見えない場所に逃亡後、そこで殺害されたとも考えられます。なお同ページに、「たんさくの御方・・・弐三人参りおり候処」(傍点筆者)と記述されていることは、二本松藩は三春藩による恭順勧告を、三春藩帰順の何日か前から受けていたことを示唆しているとも思えます。 なお『城下町に生きた人々』にある7月27日は、三春舞鶴城無血開城の日です。この書と二本松市史との間には、二本松藩を訪れた日に若干の齟齬があるように思われます。いずれ調査の必要もあるでしょうが、三春藩恭順以前に勧告に来たとも考えられます。いずれにしても、二本松での戦争以前であることでは一致します。 実はこの時期、三春に派遣されて龍穏院に宿泊していた二本松兵が、隣接していた荒町の馬頭観音の丘に兵を集め、舞鶴城攻めの気勢を上げていました。小野新町に兵を出して手薄となっていた三春藩は、三春領駐留の諸藩兵が呼応すれば三春城の落城は確実と思われました。何故なら、三春城は天明5(1785)年の大火で本丸・御殿までが焼け落ち、その後城郭としての再建には至らず、戊辰戦争の際には御三階のみが修復されていただけでした。つまり御三階は、籠城戦に耐え得る施設ではなかったのですから、重臣の細川可柳をこれの交渉に派遣したのでしょう。どうやら説得したとされますが、切り札として、二本松藩に恭順説得の使者を出したことを説得材料としたのではないかと思われます。 二本松落城後の8月21日、二本松と会津の間の母成峠で、7時間に及ぶ激戦がありました。それに関連して、加藤貞仁氏のHP『幕末とうほく余話』に、次の文が載せられています。『この戦いで勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。彼らは道なき深山を迂回し、会津守備隊の側面を奇襲したのだ。この奇襲部隊の道案内をしたのは、峠のふもとの石筵集落の農民たちだった。その前日、会津藩兵は、敵が隠れる所をなくすために、放火して集落を焼き払ってしまった。家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすために、道案内を買って出たのである。』 ここでも新政府軍は、挟み撃ち作戦を使っています。これは正面作戦を常とする同盟軍に対して、挟み撃ちを可能とする新政府軍の最新式? 戦術であったとも想像できることから、常套的に多用していたと考えられます。ブログランキングです。←ここにクリックをお願い
2015.01.16
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山 ノ 内 五 箇 郷 寛文十一(1671)年、会津藩は『猪苗代湖上船行之法令』を定めた。これによれば公用以外の猪苗代湖上の航行を禁じ、戸ノ口、笹山港を出港した船は一旦湖南浜坪に寄港し舟番所役人の荷改めを受けなければならない。これに反した者は厳しく罰する、というものである。これは会津の産物を二本松領に移出させない手段であった。 この会津藩の経済政策で最も打撃をこうむったのは湖南山ノ内五箇郷(安佐野村、舟津村、舘村、横沢村、浜地村)であった。それまで繁盛した舟津、舘などの港の回漕業、酒造業、問屋、浜路の港、旅籠、茶屋など軒並みに衰微倒産し、生活の道が絶たれてしまったのでる。その上、五箇郷民の生活路線である御霊櫃峠、三森峠の改修工事については、二本松藩の財政上の理由で遂に行われることはなかった。これは二本松藩が親藩会津藩に対する気兼ねからであったと思われる。つまり幕府が企画する相互監視と、猪苗代湖上権制覇の策に、二本松は会津から疑念を抱かれるのを警戒し、故意に両峠の改修を行わなかったのではないか、と考えられている。これがために五箇郷は湖上交通の恩恵を受けられなくなり、なおかつ急峻な両峠に阻まれた寒冷地に孤立し、余儀なく狭い田畑での耕作に追い込まれることになった。 五箇郷は湖上封鎖の逃げ道を塞がれた形となり、寒冷地の稲作に依存せざるを 得ず、不作連年の如く、蔓を掴んで登る険阻な両峠を娘を花街か奉公に連れて ゆく父娘連れの哀れな姿がすれ違う旅人の涙をさそったという。 (福島の民俗第5号) 寛延二(1749)年十月、安積郡の百姓数千人が嘆願の筋ありとして日和田原に集結した。村々より続々集合の報に接した藩は、村越某を出張させて鎮圧しようとしたが、「門出の血祭りにする」などと騒がれて引き上げたほど百姓たちの喚声に押しまくられた。このとき郡奉行の桑原六之丞は、本宮の町人冬室彦兵衛や塩田半兵衛を通じて、百姓たちの願意を一まず聞き届けることになった。しかしそれとは別に、安達郡の油井村・塩沢村そのほかの村でも数百人ずつ竹槍・むしろ旗を立て城下に押し寄せるとの風聞が広がった。このように十二月の山根地方一揆発生以前の十月から騒ぎが起こり、村々がばらばらではあったが行動が起こっていた。 十二月十四日、安積郡の村々も安達郡に呼応して立ち上がった。それは山ノ内五箇郷の蜂起にはじまった。 安積郡大槻組の百姓共、安達郡に先を取られし無念の炎鎮めかね山ノ内五ヶ村 より三千余人蜂起して郡山に押出。 この安積での一揆が十月に起こったという記録もあるが、十二月十八日前後が正しいという説もある。五箇郷の百姓たちは積雪に深く覆われた三森峠を越えた。頂上は雪交じりの烈風に襲われ歩くのも容易ではなかったが、大槻組の本村に入ると手厚く歓待されて宿泊した。しかし山間地で作柄の悪い五箇郷と比較して、検地が甘く不作の度合いの少なかった大槻はまだ状況がよかった。そのため穏和に対応しようとしていたのであるが、生活が楽ではないことでは一致していた。大槻本村も大槻組として共闘態勢に入ったのである。 十二月十八日、五箇郷と大槻の人数を加えた三千余人が郡山へ押し出し、如宝寺付近で夜を明かした。翌十九日、全員が日和田原へ向かった。 十二月十九日、『郡山組、片平組の百姓共雲霞の如く馳せ集まり、強訴の評議一決して、兎角御城下へ押し寄せて愁訴叶わぬそのときは町屋を焼き払い、一同枕を並べて討ち死にせん』と気勢を上げ、そのときには『既に人数相極まり都合一万八千余人に膨れ』あがったという。安積の一揆勢は『道中宿々酒屋、穀屋に立ち寄りて、酒を呑む事傍若無人之振舞』もしつつ北上し、『日和田、高倉にて食事をしたため』た上で吹上、(本宮市仁井田)三本松(本宮市荒井)に向かった。 一揆勢が吹上、三本松に集結して陣を取ったのは二十日の朝方ないし午前中と思われる。このころには、蜂起に積極的ではなかった本宮組の西郷の村も、一揆勢の気勢に押されて一部参加することになったらしい。例えば、一揆鎮定後に苗代田村(本宮市岩根)の名主や組頭らから出された願書に、『当村百姓共之儀、(半免)念願之筋申し上げ候所存にて御座なく候得共、安積より大勢押しかけかれこれとおびやかし申し候に付き、驚き入り是非なく(一揆に)まかり出申し候』とある。 これより先、本宮組代官吉田兵右衛門は十八日の朝本宮の長百姓らを招集し、『川東(山根地方)騒動につき、この上安積蜂起致すにおいては当所の儀御関所も同然の場所に候はば、何卒当地において御防ぎ止め成されたく・・・、当所の者強訴同意の心底これなきにおいては長百姓申し合わせ力を尽くし差し止めるように申しつけ』ている。長百姓らは、予想される一揆勢の乱暴から本宮宿を護る意味でも、代官の意を受けてその鎮定に動くことになる。その代表がのちに仁井田原で一揆勢を食い止めるのに功のあった本宮南町の冬室彦兵衛と塩田半兵衛である。 安積の一揆勢は二十日朝方から仁井田原に押し寄せ、昼ごろには大勢力となって気勢を上げた。一方藩庁は、鎮定のため郡奉行村越酒之丞に手勢をつけて派遣したが、『数万(ママ)の百姓一々悪口雑言吐き散らし、石つぶてを打』つ有様であった。そこへ城からの使者今泉丈助が、山根地方の一揆勢へ出された御教書を持参したので、村越は『安達の百姓も半免用捨にて皆一同引き退きたり、その方共も早々に引くべし』と呼びかけたがなかなか一揆勢は信用せず、『兎角半免皆免は要らぬこと、郡奉行、郡代を申し受け、三ヶ年の間百姓をさせ民の辛苦を思い知らせたく候。早々に郷方役人を御渡し候得と口々に罵』った。身の危険を感じた村越は仁井田村の名主宅に逃げ込み、裏道を伝って城下へ逃げ帰った。この頃、山根の一揆は、一応の終息をみている。 二十日の夕方には、杉田薬師堂の大鐘を突き鳴らす者も出た。また、『道々注進に、百姓共雲霞の如く城下へ寄り集まる』との噂が広がり、一揆勢が通ると思われる道筋は、恐慌状態に入った。城では『合図の陣太鼓数ヶ所の矢倉に鳴り渡り』家中の面々が武装して続々と登城し、二本松城下もまた大騒ぎとなった。他方仁井田原に群集した一揆勢の一部は、とうとう本宮の町に入り込み『酒屋孫八、同与四郎、平七の所へ押し入って酒を飲み干し、酒蔵へ乱入、酒樽、酒桶切り散らし』という狼藉がはじまった。冬室彦兵衛らが、代官吉田兵衛門の意を受けて、決死の覚悟で仁井田原に出向いたのはこのときである。『彦兵衛・・・単身死を決してこれを鎮静せんと図り、身には麻上下を着し、白扇を持ち、本宮南町の南端人取橋に至りて暴徒と会合し、説くに利害を以てす』とのべ『本宮の長百姓一同に仁井田原まで一揆勢を出迎え、種々弁舌をもってなだめすかしが放逸の猛勢説得致しかね、やむを得ざる事と仁井田より紙筆を用意し、願書に事よせ、原にて食い止め願いのあらましを書き留め、方便の文方をもって原にて抑え置き』と記している。つまり彦兵衛らは一揆の代表者たちから一々願いの筋を聞き取り、それらをすべて藩重役に上申すると約束し、願書として書き記すことで時間稼ぎをし、一揆勢の気持ちが鎮まるのを待ったのである。この方策は塩田半兵衛が提案したという。これは二十日夜から、二十一日未明にかけての動きである。 二十日夜には、改めて上使として派遣された町奉行鈴木亦左衛門、渡辺弥次兵衛、郡奉行桑原関左衛門が数百人の手勢を率いて本宮に到着し、吉田代官の配下とともに本宮宿に入っていた者たちを追い出し、『上使なりと触れ回し、そのとき桑原馬上にて、此度強訴の者共へお慈悲の御教書下されたり、仁井田原へ馳せ集まり聴聞せよ』と呼びかけた。 二十一日朝、鈴木、渡辺、桑原、吉田らは仁井田原に出馬し、町奉行鈴木亦左衛門から群集した一揆勢に対して御教書を読み聞かせ、一揆勢もようやく納得し、同日午ノ刻(昼)までには各在所に引き上げた。 冬室彦兵衛らが一揆頭取らから聞きとって書き上げた「安積安達惣百姓願書」は、町奉行鈴木亦左衛門が写しとって城へ持ち帰った。その大要次の通りである。 乍恐以書付奉願候条々 一 「殿様御仁政之思召」と違い、役人たちの取り計らいは、当年の凶作にも かかわらず、加免されるなど、百姓取り続き難く迷惑している。 一 右につき、一同「御訴訟のため」城下へ詰める所存のところ、御上使から 本年の年貢半免と伺い、有り難く思うが、連年の困窮不作のため、一切夫 食もない有様なので左の通りお願いする。許容されれば引き上げる。 一 来年の正月十五日から春麦収穫のときまで、男女を問わず一人につき一日 六合の夫食米を拝借したい。 一 諸運上はすべて停止してほしい。 一 新検の村は「不作御検地」も願い出られず困窮している。よって古来の高 (旧検)に戻して頂ければ「御成箇高免」になっても不服はない。ただし 梅沢村だけは別である。 一 潰れ百姓が「上地(あげち)」を願い出ると他村の上地に付け替えさせると のこと、難儀千万であり、中止してほしい。上地願いの状況を吟味され他 国よりの引っ越し百姓同様に救済してほしい。 一 郷方役人の内、事情不案内の役人は辞めさせてほしい。これは東安達の要 求通りなので特に指名はしない。 一 年貢米納入のとき、「升の上中引」で取られるので、代官所によって不公平 である。以後は「何割入」と一定して取りたててほしい。 一 「宛出人の儀(家中奉公人の割り当て)」は、川東(東安達)の申し立てと 同じである。 一 年貢完済の日限が代官所により不同なので、一定にしてほしい。 右のほか様々あるが、川東の者たちと同じなので省略する。 右の条々、城下で申し上げる所存であったが、私共の敬愛する桑原関左衛 門様(大槻、本宮、郡山組の代官を歴任した)の説得があったので、仁井 田原に差し控え、熟読の上、この書き付けを桑原様へ差し上げる次第であ る。 寛延二年十二月廿日 安積・安達 惣百姓 上 御役人中様 十二月二十日から二十一日にかけて、冬室彦兵衛はこの一揆を止めるため麻裃に白扇を持ち、死を覚悟して強訴の無謀を説き、昨非に代わって戒石銘の本来の意味を解釈し、藩の趣意を説明し、各村から一〜二人の総代を選んで帰村解散させた。勝利を収めた一揆勢は、潮の引く如く整然と引き上げたという。彦兵衛は残された総代と相談し、翌日、二本松の役所に出頭してその願意を陳情した。このときも藩は、年貢半減と延納を認めたことになる。しかし二本松藩は、安達郡と安積郡から同時に押し出してきた一揆勢に対し、同じ『御教書』を与えて鎮定したことになった。藩庁は事件を長引くことを嫌がっていたのである。安積の一揆勢と妥協の工作をした冬室彦兵衛と塩田半兵衛の面目は、これで十分に立つことになったのである。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.01.11
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三春戊辰戦争 5:小野新町の疑惑 三春から笠間藩領飛地の小野新町までの距離は約32キロあります。ですから戦いの装備を持った兵が移動する場合には、約9時間かそれ以上の時間を要したと思われます。 磐城平藩を落とした新政府軍は、浜海道軍と山道軍の二手に分かれ、進撃を始めました。山道軍が進む三春街道の要衝が、小野新町だったのです。この小野新町防衛のため派遣された二本松兵が明神山(塩釜神社)に大砲を備え付けて防衛に当たり、仙台藩角田兵と三春兵が明神山から約1、5キロ西の小野赤沼地区に展開していました。ところが三春藩は、この小野新町でも、古館山と同じように挟み撃ちをしたとの汚名を着せられてしまうのです。では、実際はどうであったのか? 各地の資料や町史などから、おおよその事情を探ってみました。 先ず『復古外記72頁』によりますと、佐土原藩・島津忠寛家記の7月26日の項に、『平を夜明け前に進発。上三坂にて薩摩、備、大村の兵と合流、直ちに仁井町に向かった。仁井町に入る前から、待ち受けていた同盟兵の砲撃を受けた。砲隊は各藩と本道を進撃、銃隊は本道の左にあたる𡸴山を越え、背後から突いた。同盟軍は敗退したので、直ちに笠間藩飛地と三春藩の境にある広瀬に進撃、同夜は三春藩領の大越に宿営した。翌27日、棚倉から進撃して来た薩摩兵と、三春で合流した。』とあります。その他の各藩の記録にも、三春が同盟軍を挟み撃ちにしたという記録はまったくないのです。 地元、二本松藩史の170ページには、こうあります。『七月二十六日、払暁西軍四方より来り、三春藩(実際は笠間藩・著者注)領内、小野新町を攻撃す。時に我が藩兵、三春藩応援として銃士隊長大竹與兵衛等卒える所の約二個小隊同地に在り。衆寡敵し難く、苦戦して三春の応援を待つ。三春藩急に西軍に降り、西軍を教導して我が隊を包囲す。我が兵驚愕、軍遂に潰ゆ。』 それからもう一誌、二本松市史巻1の808ページにはこうです。『同日(七月二十六日)平から進み上三坂(いわき市)まで来ていた海軍は、谷津作・田原井(小野新町)を経て払暁小野新町明神山陣地の二本松勢攻撃を行った。二本松大谷隊は衆寡敵せず苦戦となり、三春藩に援軍を求めたが、三春はかねての計画通り西軍に降り、西軍を教導して大谷隊を包囲した。これにより二本松勢は潰走し、海軍は同日大越に宿陣、翌二十七日板垣軍の後から三春へ入城した。』 この二本松の二誌共に、三春兵が二本松兵の守る明神山の援軍とならず、逆に新政府軍を教導して包囲したと記しています。それではここから、別の資料で見てみます。 小野町史の597ページには、『二本松藩隊長大谷與兵衛、平嶋孫左衛門物頭役ニて上下弐百人余宿陣三春藩隊長渡会助右衛門物頭赤松兵太夫二小隊宿陣仙台角田藩八十人程三春藩加勢トシテ同より宿陣之処官軍・・・谷津作田原井口より進撃シテ発砲二本松藩明神山(塩釜神社)ノ内新社地江仮台場ヲ造リ・・・双方打合候・・・奥州勢五〜六人即死三春ハ赤沼村番兵之処官軍着陣ニ成ト小戸神辺ニて敗北帰城ニ相成候由仙台角田藩も戦争始ルト直ニ広瀬村江逃去候由直様廿六日四ッ半頃二本松敗北ニ相成』とあります。 ここでは、三春兵の加勢として仙台藩の角田兵が来ていたが、戦いが始まると直ぐに広瀬村(三春領)に逃げ去ったとあります。この仲間の逃走に浮き足立った三春兵は小戸神に撤退、戦わずして三春に向かったと思われます。ただし角田兵の動向について、二本松の藩史・市史ともに記述がありません。 そして大越町史657ページには、次のように書かれています。『七月二六日朝、小野仁井町ニテ官軍方、二本松・会津・仙台戦有、奥州勢敗ス。三春勢繰出シ候得共降参ニテ不戦・・・・・薩摩藩届(太政官日誌九〇)によると山道軍渡邊清左衛門隊は、渡戸・上三坂に宿営し二六日暁二時出発、仁井町手前の賊徒台場を砲撃し七時より八時の間に乗取り、賊徒を広瀬関門まで追撃する。最早夕六時頃になり、大越村に宿陣する。』とあります。ここでは、小野新町での戦闘が、午前8時頃終ったとしています。また前述の小野町史には、『四ッ半(午前十一時)頃二本松敗北ニ相成』とありますが、これは8時頃終った組織的戦闘の後の、散発戦を意味しているのかも知れません。しかもこの大越町史に記載されている薩摩藩届も、角田兵の動向についての記事がないのです。 ところで、小野新町での戦いが始まったのは仏堯とありますから、朝の4時頃と想定してみました。しかしその後に起こった角田兵の逃亡や三春兵の小戸神への撤退の時間は明確ではありません。例えば仮に、三春兵が4時30分頃小戸神を出発して三春に向かったとしても約9時間が必要ですから、三春到着は午後1時30分頃になったと思われます。しかもその背後からは、小野新町を破った新政府軍が進軍して来るのかも知れないのです。三春町史によると、浅川からの新政府軍先発隊が、この日の昼頃三春に入っています。その直後の1時30分頃、小野新町からの三春兵が三春に戻って来たことになります。それなのに三春兵が、また9時間を掛けて、しかも新政府軍と衝突するかも知れない小野新町に戻り、明神山の二本松兵の背後を襲うなどということができるものでしょうか。もし仮にそれができたとしても、午前8時頃に明神山は落ちているのです。それでは、時間が合いません。なお三春町史には、小野新町の戦いについての記載がありません。 ここで各市町史などを参考に、時系列的に整理すれば次のようになると思われます。 笠間藩領・小野新町。明神山に二本松兵が、赤沼に仙台藩角田兵と三春兵が布陣。 七月二十六日 1 払 暁 戦闘開始。 (二本松藩史、二本松市史・大越町史) 2 間もなく 角田兵が明神山の裏手を通り、広瀬村 (三春領)に逃げ去る。 (小野町史) 3 4時半頃? 三春兵は赤沼の西の小戸神に退去、その後 三春を目指す。 (小野町史・大越町史) 4 七時〜八時 二本松兵が、広瀬村方面に敗退。 (大越町史) 5 十一時頃 散発戦で二本松兵が敗北。 (小野町史) 6 午 前 中 小野新町を占領した新政府軍の一手は広瀬 村、他の一手は柳橋村(郡山市)から三春 に進撃。 (三春町史) (小戸神から三春を目指した三春兵はこの 道を通っているので、小野新町に戻ること は不可能) 7 昼 頃 浅川から進出して来た新政府軍先発隊が、 三春に入った。 (三春町史) 午後1時半頃、小野新町から三春兵が戻ったか?(筆者推測) これらのことは推測であったにしても、仮に小野新町に出ていた三春兵に新政府軍と共同作戦の命令があったとすれば、三春藩と新政府軍の間で話合いがあったはずです。しかし進撃中の新政府軍とそのようなことがあったという記録はありません。と言って、現地の司令官に、挟撃命令を出す権限はないと考えるべきでしょう。 話が変わりますが、2014年6月11日の『福島民報サロン』に、次のような記事がありました。『小野町は幕末まで一部を除き、茨城県の笠間藩の飛び地領』でした。いわき市の合戸、三和、三坂から夏井、小野新町までは平の神谷にあった陣屋の支配下にありました。慶応元(一八六五)年、小野町では国内の混乱を鑑みた笠間藩の指示で、農民兵が結成されていました。農民兵は藩兵の常駐しない地域で不測の事態に対応するための「予備軍」との位置付けです。予備軍は薩長土肥を主とした西軍と戦うのではなく、早くに西軍に恭順した笠間藩の奥羽列藩からの自衛が目的でした。』 この記事から考えられることは、新政府軍が攻め込む以前に、小野新町には新政府側である農民兵がいたということです。ですから新政府軍が小戸神に退いた三春兵を攻撃した際、農民兵と共同作戦をとったとも考えられ、三春兵が逃走した後、共同で明神山の背後に回ったとも考えられます。つまり挟み撃ちの形になった折に聞こえた農民兵の会話が田村地方の言葉であったことから、三春兵が挟み撃ちをしたという誤解になったのではないでしょうか。二本松市史巻1の808ページにある、『西軍を教導して大谷隊を包囲した』という記述は、このことを示唆しているのかも知れません。 ところで仙台藩角田兵は戦争がはじまると直ぐ広瀬村へ逃げ去ったとされています。広瀬村は三春領であり、笠間藩領小野新町との境であったのです。それでも三春兵は赤沼村を守っていたようですが新政府軍の攻撃を受けると小戸神の辺りに撤退、三春に戻っています。これに関して大越町史には、『三春勢繰出シ候得共降参ニテ不戦』とあるのですが、角田兵に関しての記述はありません。ただし戊辰戦争中、仙台藩兵は俗に『ドン五里兵』と揶揄されているのですが、これは大砲が『ドン』と鳴ると戦わずして五里も逃げたとされた意味です。これについて余計なことかも知れませんが、『上田秀人著 竜は動かず』より少々転載させて頂きたいと思います。『戦国時代の末期、林立する国人領主や小名を吸収することで勢力を伸ばした伊達藩の構造は歪んでいた。かっての国人領主たちを重臣として遇しただけでなく、要害と名を変えた支城を与えている。これは藩内に藩を設けるに等しいことであった。おかげで伊達家が担うべき軍備費を押し付けることができたが、同時にそれは、重臣たちが持つ兵力を、伊達家が自由に使えないということを意味した。つまり各要害主が、例えば角田要害の主が、伊具郡という自領を守るため兵力を温存する必要があったということである。』 想像するに、このことは単に仙台藩兵が弱かったというのではなく、各要害の兵が自領要害防衛という意識から兵力温存の姿勢につながり、戦いに対して消極的になったのがその理由であったのではないかと思っています。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.01.06
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征夷大将軍史 征夷大将軍と言われて最初に頭に浮かぶ人物は、坂上田村麻呂です。ところで征夷とは東夷を征討するという意味で、征夷将軍は夷征討に際して任命された将軍の一つで、太平洋側から進む軍を率いました。日本海側を進む将軍は鎮狄(ちんてき)将軍、九州へ向かう将軍は鎮西将軍と言います。この呼び方は「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたとされています。この蝦夷征討のための臨時の職としては征夷使があり,征夷使を征東使と呼んだ時期もありました。大将軍,副将軍は大使,副使とも呼ばれましたから,征夷大使,征東大使は実質的には征夷大将軍と同じでした ところで最初の征夷大将軍は、延暦13(794)年の大伴弟麻呂であって、田村麻呂は副将軍でした。田村麻呂が征夷大将軍となったのは、延暦16年のことでした。つまり、2代目であったということになります。征夷大将軍は,田村麻呂の専売特許ではなかったのです。そしてこの征夷大将軍には前史があったのです。 知られる限りでの鎮守将軍の始まりは、大野東人(おおののあずまひと)がもっとも古く、東夷に対する将軍としては、和銅2(709)年に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂(こせのまろ)が最初であり、「征夷将軍(通常、征夷大将軍と同一とされる)」の初見は、養老4(720)年に任命された多治比縣守(たちひのあがたもり)です。 延暦2(783)年、大伴弟麻呂(おおとものおとうとまろ)は征東副将軍に、また3年には征東将軍になり、10年になって征東大使に任じられました。征夷大将軍正式の呼称の初見は、やはり延暦13(794)年正月1日の『日本紀略』です。『征東使を改めて征夷使となす』とあることから、征夷大将軍という名が固定化していったものと思われます。 ここで言われる征東使とは、東の土地を制するという意味でつけられたそうです。しかし土地を制するには、そこに住む人を押さえなければなりません。征夷使とは、そういう意味で付け替えられたのかも知れません。いずれにしても、征蝦夷将軍から最初の征夷大将軍になるまで、約85年の間がありましたから、蝦夷征討にはいかに手こずっていたかが分かります。次は、役職名の一覧表です。和銅 2(709)年 征蝦夷将軍。和銅 2(709)年 陸奥鎮東将軍。巨勢麻呂。養老 4(720)年 持節征夷将軍。多治比縣守養老 5(721)年 征夷将軍。神亀 元(724)年 征夷持節大使。大野東人宝亀11(770)年 征東大使。 持節征東大使。延暦 2(783)年 征東副将軍。大伴弟麻呂延暦 3(784)年 持節征東将軍。大伴弟麻呂延暦 7(788)年 征東大将軍。 7月16日 征東大使。紀古佐見。延暦10(791)年 征夷大使。大伴弟麻呂延暦12(793)年 征東使を改めて征夷使となす。 2月、征夷副使。近衛少将坂上田村麻呂。延暦13(794)年 征夷大将軍。大伴弟麻呂。延暦16(797)年 征夷大将軍。坂上田村麻呂。 征夷大将軍は、公家の推挙で天皇に任命される人物です。ということは、征夷大将軍は公家よりも身分が低いということになります。この征夷大将軍の人事ですが、源・平・藤・橘出身が征夷大将軍に就任できる家柄であるとされていました。それに征夷大将軍は、陸奥における蝦夷征討のため朝廷から任命された総指揮官です。 延暦16(797)、弟麻呂は征夷大将軍として節刀を受け、副将軍であった坂上田村麻呂らが蝦夷に大勝しました。田村麻呂が征夷大将軍となるのは延暦16(797)年になってからのことでした。また征夷大将軍は征夷行為に関して朝廷から任命された現地の軍の最高司令官であり天皇の代理人という権能を有していたことから、武人すべての世俗的な最高司令官としての力が備わるようになっていったのです。 その後の征夷大将軍は途切れましたが、中世で初めて征夷大将軍となったのは、木曽義仲です。この義仲に代わって建久3(1192)年、源頼朝が征夷大将軍の位を得て鎌倉幕府を開くのですが、天皇の節刀を親授されることなく軍政大権を委譲されることで、源氏の棟梁、ひいては武家の棟梁としての権力を拡大し、これまで天皇大権の内にとどまっていた軍令権が天皇大権の外に自立させたのです。 鎌倉幕府から江戸時代末期まで約675年間、征夷大将軍を長とする武家政権が続きました。このことから、武士の棟梁としての征夷大将軍は事実上の日本の最高権力者になったのです。 明治維新後、明治政府に変わってから、征夷大将軍の官職も廃止されました。ちなみに日本最後の征夷大将軍であったのは、徳川慶喜でした。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.01.01
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