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鯉の笹焼き(恋のささやき) この画面トップの『お知らせ』でお知らせしたように、1月21日、郡山うすいデパート前の歩道で署名活動を終えました。お陰様で、所期の目標を達成することができました。ありがとうございました。 以下に、詳細を掲載させていただきます。 記 地元の新聞2紙に、郡山再発見ラボ(郡山の将来を考える会)についての報道がなされました。 郡山再発見ラボは、昨年4月、郡山市の歴史・文化・経済を掘り起こし、郡山市の魅力を発信することを目的に設立された非営利の任意団体で、不肖、私が代表となったものです。 昨年、安積疎水が日本遺産に認定されたことから、県内外から多くの誘客が見込んでいます。これに合わせ、鯉の生産量が全国の市町村の中では第一位、しかも品質も国内トップクラスと言われる郡山の鯉を、積極的に売り出したいと思ったのがそのキッカケでした。ではなぜ郡山が鯉の一大産地になったのでしょうか。それには安積疎水の清冽水と、かって養蚕が盛んであったことから、鯉の餌となる蚕の『さなぎ』が多くとれたことにあると言われています。そこで郡山市の魚に『鯉』を認定して『鯉の日』を制定して頂き、郡山の食の魅力を発信していきたいと考えています。 現在、福島県の観光は、会津が中心となっています。しかし会津に入るために、郡山を経由する観光客が多いのが現状です。そこで郡山での食も含めて、さらには周辺自治体の協力を得て一日観光の開発をし、郡山の鯉料理でもてなし、郡山市内に一泊ののち会津などの周辺観光に入って頂ける方法を考えています。また鯉に対して県内外へ話題を提供することで、郡山の知名度を上げたいという提案です。 その第一段階として、『郡山の魚(鯉)』と『鯉の日』の設定を郡山市に提案したいと考えています。そのための陳情書の作成を目的とした署名活動を実施することで市民の協力を得、市民間に蔓延している鯉に対する悪評を解消したいと思っています。 提 案 一:郡山の鯉の認識度を高めるため、まず市民の間で話題になる ようにしたい。 1:郡山の魚を『鯉』とする。 2:鯉の日を決め、鯉には薬効があるので(別紙参照)土用の 丑の日のイメージで、この日には鯉を食べるのが習慣にな るようにしたい。 3:鯉に、恋のイメージを取り入れる。 今後、一の実施に向けて活動をはじめ、二以降の提案の実行に向けて進みたい。 二:鯉の養殖、加工、販売、レストラン ラーメン店 菓子店、 土産店など、業態を越えた協力体制を作る。 鯉料理レシピコンテスト。門戸を広く開くために、市内外 から参加者を募る。 例えば、 鯉のしゃぶしゃぶ。 鯉寿司。 鯉の薫製。 鯉ラーメン。 鯉蕎麦(若松の鰊にしん蕎麦)。 鯉バーガー。 笹の葉をデザインした鯛焼きならぬ『鯉の笹焼き』。 鯉最中。 鯉の鱗チップス。 鯉サブレー。 など。 三:食以外の提案 1:川や水 逢瀬川や笹原川のような町中の川で布製の鯉のぼりを水中 で泳がせ、夜はライトアップする。 マンホールの蓋に、鯉をデザインする。 2:ラッキーアイテム デコ屋敷で、鯉の張り子を試作中。 火事除けに、日和田瓦での鯉の屋根飾りや置物。 鯉のデザインのTシャツ。 鯉のデザインのキーホルダー。 郡山の観光地や伝統民芸との連携によるラッキーアイテム の開発。 3:西田町の鯉神社。 郡山市内約380神社のうち、魚の石灯籠(狛犬?)が あるのは4神社のみで、なぜか西田町に集中している。 カップルでお参りすると恋が成就するというのは?。 4:その他 鯉の薬効をPRする。 鯉や鯉のぼりの産地、その他鯉に関係ある地域と、 鯉サミットを開催する。 以 上 鯉の薬効。 中国の故事に、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜に なることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。栄達するための難関を「登竜門」と呼ぶのも、この故事にもとづく。 中国では鯉の薬用としての紀文は「神農本草経」という書物に初めて出てきます。この書物に、鯉は長期に食用しても害がなく、人の健康を保つために用いられた上品、上薬といわれる医薬品の中に分類されています。今から1500年ほど前の梁代に、陶弘景という医業者が、中国各地の名医の意見や体験をもとに「名医別録」という薬物書を出して、鯉の肉の効用を次のように述べています。『鯉の肉の味は甘で、せき込んで苦しい状態や肝臓を治し、口の渇き病(糖尿病など)の口渇を止め、水腫脚病(足に水がたまって腫れている状態)や肝臓病を治し、気を下す(気分を落ち着かせる)』。鯉を食べると食欲がわき、胃炎が治り、便秘も解消するという効果があります』 慢性肝炎になり、肝硬変になれば、完全に治ることは不可能ですが、肝臓の4分の1が元気に働いてさえいれば、その人は天寿を全うできるといわれています。 近畿大学薬学部 久保道徳氏の実験室で、鯉の煮たものを実験動物に毎日食べさせると、再生肝作用といって、新しい肝細胞がどんどん増殖していく作用があることが判明しました。 鯉の肉には、タウリンという強肝剤として使われる含硫アミノ酸が含まれています。これは飲酒時には解酒毒剤となり、酒で二日酔や脂肪肝になるのを予防する作用があります。鯉は肝臓病の薬としても大変有名なもので、特に「むくみ」を解消するのに著効があります。肝臓病で体が腫れ上がっているときに鯉を食べると、一気にその水分が体外に排出されると言われています。 実験動物に胃潰瘍を発生させ、これに鯉を食べさせたところ確かに治療促進効果があり、まるで薬のような効果がみられました。胃もたれなど2〜3日でよくなった例や、長年わずらっていた胃潰瘍が鯉を食べ始めてからよくなって、手術の必要がなくなったという話もあります。 明の時代の大薬学者であった李時珍は、その明著「本草網目」の中で「乳汁を下し、腫を消す」と記しています。つまり鯉は母乳の出を良くする、願ってもない特効食品です。 視力低下やかすみ目などにも効果があるとされ、鯉胆(りたん)という生薬名で錠剤にしたものが販売されています。 鯉はこのほか、皮膚病、リュウマチや痔などにも効くと言われています。 以 上画像説明。 上=朝日新聞、2017/1/18 下=福島民友。2017/1/22 なおプラカードを持っているのは、小2の孫です。 ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.26
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(9) 多分、昭和二十六年か、現在の福島県立福島商業高校の卒業生名簿の中に『斉藤誠 アメリカ』とあるのを見つけた。ただしそれ以上の詳細は分からず、正確に『帰米二世』であったとは断定出来ない。 それから当時、棚倉国民学校に通っていた橋本敏雄氏が、ハワイから来たという男児と同級であったという。名は忘れたが、クラスのボスに対抗して勝ち、以後いじめられることはなかったという。その後間もなく敏雄氏は転校しているので、その後どうなったかは、知らないという。 私の取材を受けてくれた人の中には、いまだにトラウマとしてショックを感じている人たち、また逆に明るく振る舞おうとする人たちがいる。その姿勢はいろいろであるが、どちらの人たちも平静に過ごそうとしているのが感じられた。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.21
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郡山の長者伝説 郡山には、何人かの長者伝説が残されています。特に有名なのは虎丸長者です。伝説ですから本当にそこに住んでいたとは言えませんが、今も郡山の中心部に、虎丸町、長者などの地名があるのです。 虎丸長者の伝説は、『昔、八幡太郎義家が後三年の役の際、長者宮というところにさしかかりました。ところが夕刻、ものすごい大雨になったので、義家は虎丸長者に一晩の宿を頼んだのですが、長者は義家の申し出を断わってしまったのです。仕方なく義家は、北方の仮宿というところで一夜の宿をとったのですが、このまま喧嘩別れにしておいては不味いと思い、虎丸長者に妥協策を提案したのです。しかし虎丸長者は、反抗的姿勢を隠さなかったので、義家は虎丸長者屋敷に向けて火矢を射掛けたのです。屋敷はたちまち火に包まれ、焼野の原と変わってしまいました。そののち焼け跡には、誰が書いたのか、『黄金千杯米千杯、朝日さす夕日かがやく三つ葉うつ木の下にある』という木の板が掲げられたと伝えられています。恐らくこれは、虎丸長者が蝦夷征伐の軍勢への協力依頼を拒否したであろうとすることが伝説化したものと思われます。 東和町史にも、虎丸長者の伝説が載せられています。しかし現実に、二本松市杉田字長者宮から発掘された建物跡から、炭化米が出土しているのです。そして、『ここは虎丸長者の館跡で、そこにあった米倉が焼かれてしまった』という伝説になっているのですが、ここで出土した炭化米は、火災のため焼かれて炭化したものと考えられています。なお借宿という地名が長者宮の近くにあり、郡山の伝説との繋がりが感じられます。 大槻町には花輪長者の伝説が残されています。平泉に逃れた義経に会うための長旅の途中で供の小六を失って困り果てている静御前たちを、花輪長者がお世話をしたと言われています。しかも大槻町には、『花輪』『花輪前』などの地名や、南川に架かる『花輪橋』など花輪長者に由来する地名などが残されています。 逢瀬町には、中丸長者の伝説が残されています。この名に関しての地名はありませんが、その場所が今の浄土松公園であるというのです、それは日本のカッパドキアと言われるキノコ岩が林立する公園かその周辺に住んでいたとされています。 大満長者が岩城国赤津村に住んでいた、とあります。しかし赤津村が現在の湖南町赤津であるとすれば、岩代国が正しいことになります。ただし岩城国(磐州(ばんしゅう))と岩代国(岩州(がんしゅう)は、明治元年(1869)になって陸奥国より分立していることから、この伝説は、明治に入ってから作られたものかも知れません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.16
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(8) ハワイ島オラアで生まれたイサム アベ氏の場合、彼は五歳のとき母親に連れられて福島に戻った。「五歳のときというと、少なくともハワイの生活の少しは、覚えていましたね?」「はい、そうですね。ですから、国民学校で教えられた『八紘一宇』や『鬼畜米英』などという言葉には、口には出しませんでしたが抵抗感がありました。「そうですか。実は私もあなたと同じ世代でしたから、似たような教育を受けていました。『欲しがりません 勝つまでは』とか『進め一億 火の玉だ』とかね。しかし私の記憶では、それらは何か当たり前のことのように思っていましたね.いま考えてみると、日本という国にドップリと浸かっていたからでしょうか」「さあ。そこのところは良く分かりませんが、私は、国民学校を卒業したのち日本の士官学校に入ろうとしましたが、祖父に『日本にいてもどうなるか分からない。早くハワイに帰った方がいい』と言われて結局ハワイに帰りました」「お爺さんは、日本とアメリカが戦争になると予想していたのでしょうか?」「それは分かりません。とにかく祖父にそう言われたとき、祖父は私を当てにしないのかと思い、本当に切なかった。しかし両親はハワイに住んでいるのですから、それを考えることは、とても辛いことだったのです」「・・・」「戦時中はね、自分たち帰米二世の立場からすれば、一世の親たちの考え方に腹が立ったものです。何せ突然退去命令ですから,うろたえるのは分かるが、何にも抵抗しないのです。ゴタゴタは困ると言ってね。仕方がない、としか言わないのです。頼りにならないと思いましたね。それに私が悔しいのは、敵は日本人だけじゃない。ドイツもイタリーもそうなに、何故、日本人だけに退去命令かってね。それでも私は、幸せな方だったと思います。ハワイで同じ帰米二世であったトシコと結婚できたのですから」 匿名を希望された男性の場合、彼はあまり語りたがらなかった。彼は1932年に生まれて日本の父方の実家に預けられている。福島では国民学校二年生か三年生に編入されたが間もなく親に連れられてハワイに帰ったという。ハワイでは小学校に入ると、毎朝教室の中で星条旗に向かい、忠誠を誓った。「大和魂、大和魂とばかり言っていたよ。それしか知らないのだから。そして家族とは喧嘩ばかり」と言う。「真珠湾攻撃の数時間後に家にやってきたアメリカ人は、『少し話があるから来い』と父を手招きしたのです。父が言われたとおり車に乗ると、いきなりピストルをつきつけられて、そのままどこかへ連れて行かれました。母は、気狂いのようになっていました」 それでも彼は、最後には100大隊に入隊、アメリカのために戦う道を選んだ。しかし彼はそこに至るまでの苦悩、激しい葛藤を語ってはくれなかった。 戦後になって帰って来た父は、スパイ容疑で逮捕され、『サンド・アイランド(ホノルル港内の無人島)へ連れて行かれたのち、本土の強制収容所に送られた』と言っていました。「結局は親不孝をした」と寂しそうに語っていた。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.11
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符 丁 と 隠 語 土蔵を片付けていて、明治十六年に芝区新卸町の小西松之助が届け出た(どこへ届けたかは不明)という『諸商人通用符帳』なる1枚の古い紙を見つけた。 符丁(符帳・符牒)とは、同業者間や店内でのみ通用する数字を表す言葉で、顧客が近くにいる時など客に知られずに必要な金額を知らせ合うために使われたのが一般的であった。しかし品数の少なかった初期の商いでは、自己の全ての扱い商品の価格が頭に入っていたので、このようなものを必要としなかったと思われる。ところが商業の発展とともに、その扱い商品が覚え切れないほど増えていったことから、符丁のような便法が考えられたのであろう。 この符丁が、いつの頃から使われはじめたのかは分からないが、商品の種類が増え、商店でも使用人を使いはじめた頃からと想像することができる。当時、大抵は商店と客の間で価格交渉が行われたことから、仕入れ値などを客に知られるのは商店にとって不利であった。そのため、価格や等級などを同業者間で、また店内で客の応対をする番頭・丁稚に対して、客に知られないよう秘密裏に伝える方法が符丁であった。また符丁は、商店が値段を示す印であったが、その店の印(シンボル)ともなっていた。 卸問屋の商家に育った私は、小さい頃から店の符丁を教えられた。原価符丁は『アサヱビスヨロコブトク』であり、卸符丁は『シアワセノメデタキカオ』であって、それぞれに1から0、最後の文字は並び数字に当てられていた。具体例として、『アスク』や『シノオ』と言えば、155を表した。但し原価符丁を割って売るのは厳禁であり、小売店には卸符丁で、一般消費者には卸符丁を超えて売るのが鉄則であった。しかしこの符丁も、番頭が暖簾分けで独立するなどで次第に拡散する。恐らく我が家の符丁も、明治になってから新しく作られたものと思われる。 符丁には紙片に暗号で記入する文字符丁、口頭で隠語を伝える口唱符丁、手ぶりで伝える手ぶり符丁がある。しかし今日の各業界ではコンピューターの発展もあって文字符丁は廃れ、口唱符丁は業界内隠語へと変わった。例えば、あるデパートの「ひまわり会からのお知らせです」と言う館内放送は、ある非常事態が発生した際、店員に知らせて館内の客を安全に誘導して避難させるための緊急放送だという。もちろん、それぞれのデパートや大型店によってその暗号の文章は違うが、それらの暗号の大半は、売り場でのミスや客の忘れ物、さらには店員への連絡などに使われているという。その他に現在でも手振り符丁は、取引所(市場、競売所)などの『手セリ』などで使われている。 明治十六年に印刷されたこの『諸商人通用符帳』の一部を紹介すると次のようなものがあるが、この他のものは記号や漢字交じりのため、ここへ文字としての掲載ができない。しかし、なかなか意味深のものもある。写真を掲載したので参考までご覧になっていただきたい。 数字 1234567890— 本 屋 チョットノオモヨロウ 木綿屋 イセマツサカチラシフネ 芸者屋 ヨノナカワフタリヅレ 茶 屋 ヲチサンワイマニクルヨ ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.06
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阿武隈川 阿武隈川は福島県の中央部を東西に分けて北上、宮城県岩沼市周辺で東に流れを変え、太平洋に注ぐ東北第二の大河です。この大河が、どのような過程を経て阿武隈川という名になったのでしょうか。 宝亀元年(770)、田村麻呂の父の坂上苅田麻呂は陸奥鎮守将軍に任じられましたが、実際に多賀城に赴任したかどうかは、不明です。しかし次のような伝説があります。 苅田麻呂が大きな熊に乗ってこの川を渡り、屯田(みやけだ)(田村町御代田)へ行ったので大熊(おおくま)川、合曲(あうくま)川、さらに逢隈(おおくま)川、阿武隈川になったというのです。 この川の名が最初に出てくる文献は吾妻鏡で、文治五年(1189)七月十七の条に逢隈河と記されています。このことから、この川を最初に統一した名称は、逢隈川であったと思われます。 阿武隈川の名を想像させる文献の一つに、応徳三年(1066)に作られた後拾遺和歌集があります。その中にある『武隈(たけくま)の松(岩沼市)』という記述から、竹駒神社の語源ともされていますが、これにより、『武隈』という文字が吾妻鏡の逢隈河より120年も前に使われていたことが分かります。 宮城県出身の知人が、「『この武隈の松』の近くに『阿武(あぶ)の松』があった」と教えてくれました。すると阿武隈の三字が揃うことになり、この二本の松が存在する位置から考えて、阿武隈川左岸の住民は『阿武隈川』、右岸の住民は『逢隈川』と呼んでいたと推測できるのではないでしょうか。 この逢隈という名は、阿武隈川最上流の甲子温泉の近くにある逢隈橋、国道288号の逢隈橋、旧田村郡逢隈村、松川町と飯野町を結ぶ逢隈橋、宮城県亘理町(旧逢隈村)と逢隈橋、そして亘理町のJR常磐線に逢隈駅があるのです。これらの名は、阿武隈という川の名が定着していく中で、逢隈という古い記憶から付けられた可能性が高いと思っています。 このように、川などの固有名詞の中には、1つとは限らない場合があるのです。例えば、会津から新潟県に流れ、日本海に注ぐ川がありますが、この川を福島県側では『阿賀川』と呼び、新潟県では『阿賀野川』と呼んでいるのです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.01
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