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雪村周継(せっそんしゅうけい) 雪村周継は、雪舟とともに称えられた世界的な水墨画の巨匠である。室町時代の後期、永正元(1504)年の頃、常陸国部垂(茨城県常陸大宮市)に佐竹氏一族の長男として生まれた。ところが雪村の父が妾の子を跡取りとしたため、幼くして佐竹氏の菩提寺である正宗寺(常陸太田市)に入って修行することになる。里伝によると、「雪村は下村田字坪井(常陸大宮市)で生まれたので、「坪井雪村と言われた」という。 天文十二年(1543)、雪村はこの坪井? で、自分の弟子たちに自身の指導方針や芸術感を『説門弟資』という形で発表している。この年雪村は会津に入り、領主の蘆名盛氏に絵画の鑑賞法を授けるとともに6年間会津に住んだ。天文十九年(1550)には小田原や鎌倉を訪れているが、60歳半ば以降は奥州を中心に活動を続けた。最晩年は三春・田村氏の庇護のもとに、現在の郡山市西田町雪村にある庵に移り住み、そこで没したという。 今ここにある雪村庵に行ってみると、前面に磐越東線が走り、その向こう側を八島川が流れている。そしてその対岸の丘は大きく整地され、三春町の八島台団地が造成されている。ここが林、もしくは森であった時代、雪村の絵心をくすぐるような景色であったのであろうか。識者によれば、ここの地形やたたずまいが、生地である坪井に似ていたという。ここは雪村にとって、仕事が出来る場所であったのかもしれない。雪村の生涯には不明な点が多く、生没年(永正元・1504年?〜 天正十七・1589年?)ともにはっきりしないが、記録によれば少なくとも82歳までは絵を描いていたことがわかっている。 雪村という雅号からもわかるように、雪村自身、雪舟を強く意識し尊敬していたようであるが、雪舟は永正三年(1506)、雪村が3歳の頃に亡くなっていることもあり、画風に影響は受けていないという。雪村は、関東の水墨画のなかでも極めて独自性が高い画風を確立している。後の尾形光琳は雪村を好んで幾つも模写を試みており、雪村が使っていたといわれる石印をどこからか入手したという。それは光琳の長男・寿市郎の養子先の小西家伝来史料の中に現存している。更に光琳の代表作「紅白梅図屏風」に、雪村筆「あくび布袋・紅梅・白梅」(三幅対、茨城県立歴史館蔵)の影響があるとする意見もある。谷文晁派の絵師佐竹永海は、雪村の末裔と自称している。 雪村が亡くなったのは、正月を迎えるための餅つきがはじまった年末であったという。 そのため、正月の準備で忙しくしている近所からのお手伝いを遠慮し、現在も代々墓守を続けている会田家のみで野辺おくりをしたという。遺骸には、お経の幾巻かを添えて葬ったと伝えられている。この庵の裏手にある竹林の中に、自然石の墓がある。 会田家によると、先祖から、「偉い坊さんの墓だから、この墓石の回りを踏まぬこと、供養を怠らないこと」との申し継ぎがなされ、今日まで守られてきたという。また庵には、雪村桜と呼ばれる枝垂桜の古木があり、その傍らに泉水がある。雪村はその泉水で自ら紙を漉いていたと伝えられている。雪村が絵の奥義を書き残したとされる画論・「説門弟資」の中に、「余は、多年雪舟に学ぶと云へども、画風の懸隔せるを見よ、如何」と残し、画に対する雪村の凄まじいほどの気迫が感じられます。なお雪村の三春における門弟には、雪洞、祖宗、雪閑、等清らがいるとされている。(春陽思ひ附阿津免草・高橋隆一氏を参照) 雪村の死後、この雪村庵は何度か建て直されている。そしてこの庵には、鎌倉時代後期の『円乗作』の観音菩薩像が安置されていたが、昭和五十五年二月、盗難に遭ってしまった。残念ながら、今日に至るまで、この像は戻っていない。 明治時代以降、雪村の評価が低い時期もあって多くの作品は海外へ流出してしまったが、三春において雪村を掘り起こした人物がいた。須賀川出身の高久田修司氏である。高久田氏は安積中学を卒業後、東京商科大学を中退、第二高等学校理科乙類に入学するがこれも中退、改めて東北帝大法文学部国文学科を卒業したのち三春の田村中学の教師として赴任、新制田村高校になるまで奉職した異例の経歴の持ち主である。彼は教師として三春に長く住むうちに、雪村ばかりではなく、気息奄々としていた三春の張り子人形や三春駒を掘り起こしたことでも知られている。私は田村高校七回生であるが、三春の歴史と文化こよなく愛したこの先生を、私たち生徒らは、「ガラさん」と呼んで親しんでいたことを付け加えておきたい。 そして昭和五十八年、三春歴史民俗資料館の開館記念として開かれたのが雪村展であった。この時は海外の資料館の協力もあり、ここで多くの作品が展示された。近年は雪村に対する再評価の機運が高まり、日本美術史上での評価が確立している。今、彼の作品は150点から200点近くが現存しているという。中世の作家としては稀有な作品量である。 雪村の作品の中には国の重要文化財に指定されている作品もあり、 国内外の美術館などにその多くが収蔵されているが、その中には、研究者によって雪村筆かどうか、論争となっている作品も少なくない。そのためもあって、雪村の全作品を列挙するのは難しい。しかも県内に残されている雪村の作品も、多くない。次に列挙する。なお、東京国立博物館に所蔵されている『松鷹図』の二幅うちの一幅の掛軸が、1974年の国際文通週間の記念切手となっている。 奔馬図 福島県 三春歴史民俗資料館 達磨 三春町福聚寺 山水 三春町福聚寺 龍画(伝雪村筆) 三春町福聚寺 三十六歌仙絵 三春町田村大元神社(所在不明) 竹に鳩 福島県立博物館 野菜(瓜・茄子・ ) 福島県立博物館 山水 福島県立博物館 風雨山水 福島県立博物館 叭々鳥 福島県立博物館 四季山水図屏風 郡山市立美術館 山水 六曲一叟 会津若松市金剛寺 遊魚 会津若松市金剛寺 白衣観音 二本松市大隣寺 菁図 郡山市西田町 今泉家蔵 2016年8月、三春の福聚寺を訪れた際、玄侑宗久師に雪村の『龍画』を見せて頂いた。時折見せて頂いていた伝・雪村作の『達磨画』とは大きく違い、極彩色のその画風に驚かされた。話によると、岩手県の寺より、「これは三春に置かれるべき画である」として、無償で頂いたものだという。これは寺の、そして三春の宝になると思われる。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.06.21
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郡山という地名のはじめ 大宝元年(701)、中央政府は『大宝律令』を制定しました。その行政区画は、天皇の権力の及ぶ範囲、畿内(大和・摂津・河内(後、和泉が分立)・山城)と七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)に分け、その下に66国と壱岐、対馬が置かれたのです。このような行政区画以外にも、坂東と陸奥・出羽がありました。この諸国の下に郡と里を置く『国郡里制』という地方行政の仕組みが出来たのです。しかし霊亀元年(715)には里を郷に改めて、『国郡郷制』に変更されました。これを現代に当てはめると、国(都道府県)~郡(市町村)~郷(市町村の大字)の関係にあたります。国には『国府』、郡には『郡衙(ぐんが)』と呼ばれる役所が設置され、国府には中央の上級役人が国司として派遣され、郡衙には地元の有力豪族がその任につきました。 当時の福島県は『陸奥国』に属し、その中でも現在の郡山市・二本松市・田村市・田村郡は、『安積郡』に含まれ、陸奥国府は現在の宮城県多賀城市に、安積郡衙は郡山市清水台に設置されたことが遺跡等の調査でわかっています。郡山市史は、『郡山の地名のおこり』として、郡衙のあった所が郡山と呼ばれていたことからつけられたのではないかという説を挙げています。 では、いつの頃から郡山という地名が使われるようになったのでしょうか? もともとこの地で使われていた大字や小字などに郡山という地名が無かったので、それから流用・転用したとは考えられません。そこで気が付いたのが、鎌倉時代にまとめられた吾妻鏡です。『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承四年(1180)から文永三年(1266)までの幕府の事績を編年体で記されたものです。 源頼朝は、平泉の藤原氏と阿津賀志山(現・伊達郡国見町)戦っているのですが、その際、頼朝軍は白河を経て阿津賀志山に着き、ここで藤原氏を破っています。そこで吾妻鏡に郡山という地名が出ているのではないかと思い、調べてみました。しかしそこに、郡山という文字はありませんでした。頼朝軍が白河に入ったところの記述の次は郡山を飛ばし、一挙に阿津賀志山での記述になっていたのです。 これ以前の時代についても随分と注意をして来たのですが、どうにも郡山という地名が出て来ません。ところが天保十二年(1841)に完成した二本松藩の地誌・相生集の『村邑類』の項に、次の一文があったのです。 永享年中(1429年頃)、保土主伊東氏横塚ヨリココニウツリテ郡山トアラタム其證ハ今横塚ニ芳賀池トイフアル是成。舊事記ニ伊東氏ノ始大和國郡山ヲ領ス。 文治五年(1189)、藤原泰衡亡ビテ伊東氏ニ安積郡ヲ給ハリシ故本國ノ郷名ヲトリテ郡山ヲ號ストイフ。 按ズルニ工藤祐経ノ子犬房丸後に大和守祐時と名ノル。又太平記ニ安積伊東ハ大和守ノ前司トアリ實ニ伊藤氏始大和ノ郡山ヲモ領シシナラン。然ラバ伊藤祐長稲荷館ニ移りてより此の地を郡山ト称シ氏ニモ称セシナラン。 (郡山の地名・郡山市教育委員会より) なお、相生集とは、二本松藩士・大鐘義鳴によって収録され、天保12(1727)年に完成された二本松地誌として唯一の資料です。(二本松市史914P) 『街こおりやま 2016年3月号』の柳田和久氏の論文によりますと、応永十一年(1404)に結ばれた『国人一揆契状』(地方における動乱への対応,および領主権確保を目的とし,契状を取り結んで地域的に連合した形態)の中に伊東下野(しもつけ)七郎・藤原祐時(すけとき)という名があるのですが、居住する所の地名の記載がないそうです、しかし氏は、この時祐の居住地を郡山村と考えておられます。理由として、『国人一揆契状』にある伊東下野七郎・藤原祐時(三春町史には祐時)の名の右に佐々川・藤原満祐、祐時の左に窪田・修理亮祐守であることから推定されているとのことです。 またこの年頃に結ばれた『石河一族等傘連判(からかされんばん)』(傘連判=対等の権利・義務を持つ署名者によって結ばれた国人一揆契状で署判の序列を廃すために編みだされ,円形になるように放射状に署名した)に神山・沙弥祐金の署名があるのですが、高橋明氏はこの神山について、郡山の誤記と考えておられますので、これらが郡山という呼称の最初かと思われます。しかしこれらには、『郡山』という具体的な地名の記載がされていないことから、推測の域にあるようにも思われます。 正確に『郡山』という文字が出て来るのは、永享十一年(1439)の『安積郡南・中・北郷三郷田地注文』のようです。 天文十五年(1546)、三春の領主・田村隆顕が、名倉の地を郡山又五郎に与えたという証文が残されています。この天文十五年は、『三郷田地注文』が書かれた永享十一年から100年以上も後のことになります。しかしこの時点で、『郡山』という姓が使われたということは、『郡山』という地名が確定してからのことと考えられます。 これらから私は、『郡山』という最初の地名の使用は、文字としての記述が残されておりませんが、柳田和久氏の言われる応永年中ではなかったかと推測しています。どなたか郡山という地名がいつから文字として使いはじめられたのか、ご存知の方のご教示をお願いします。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.06.11
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朝鮮通信使史 朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、永和元(1375)年、足利義満により派遣された使者と国書に対する朝鮮王朝からの返礼として、朝鮮から信を通わす使者、つまり通信使として来日したのがはじまりです。しかしその慣行となる第1回目の朝鮮通信使の派遣は、53年後の正長元(1428)年になるまで待たなければなりませんでした。その後も11年後となる永享十一(1439)年、さらにはそれから、15年後の嘉吉三(1443)年に訪れていますが、時期の間隔が大分空いていました。ともあれ室町時代の朝鮮通信使には、日本の国情視察の目的も密かに含まれていました。例えば正長元(1428)年に来日した使節に同行した書記官の申叔舟が著した『海東諸国紀』によると、倭寇禁圧要請と併せて倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、有力国人、土豪との関係、都市部の発展状況や通貨政策など日本の国力状況の観察、さらには仏教の展開状況をはじめ15項目の調査内容があったといわれます。 この朝鮮通信使を、広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すのですが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は、狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多いのです。その江戸時代の天正十八(1590)年から文化八(1811)年にかけて、朝鮮通信使は12回訪れています。この「朝鮮通信使」という表現は研究者によって造作された学術用語で、史料上では「信使」・「朝鮮信使」として現れます。また徳川幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節と同じように「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「朝鮮聘礼使」などと称し、一般でもそのように呼ばれていました。 正長元(1428)年、日本に来た朴端生が、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作らせたり、銀メッキ、造紙、朱紅、軽粉などの製造法を本国に報告しています。また調査は、日本の貨幣経済の実態にも及び、それが各種の技術にまで言及していたのは、渡航前に朝鮮王から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからだとされています。水車はこの時点から百年以上も前の「徒然草(第 五十一段)」にも記されていることから、すでに農民達の手で取り付けられていたと考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられています。また朝鮮では物々交換の時代であったため貨幣や商業を知らなかったので、「日本の乞食は銭を乞う」と驚きをもって記録しているそうです。しかし室町時代の末期になると、日朝・日明貿易が盛んに行われるようになり、その実権が各地の大名に移ることになりました。そのために大名たちに力を蓄えさせることになり、足利幕府の支配力が薄れる結果となったのです。 朝鮮通信使は、室町時代に3度来日した他に、長禄三(1459)年や文明十一(1479)年にもその計画があったのですが、実現はしませんでした。また正使が任じられたものの計画自体が中止とされたことが応永二十(1413)年と文明七(1475)年の2度ありました。これは朝鮮側からの使者の予定者が死亡したことや、嵐による渡航の危険が理由とされたのですが、日朝貿易の不振によって必要性が減少したため、と説明されることもあります。その後豊臣政権まで約150年間にわたって、相互の交流は中断されました。 このように、しばらく途絶えていた朝鮮通信使ですが、天正十八(1590)年になって、日本に派遣されてきた朝鮮通信使は、名目上は豊臣秀吉の日本統一を祝賀が目的でしたが、実際は、秀吉による朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣された通信使でした。このとき正使と副使は対立関係にあり、そのような中で朝鮮王に、正使は「侵攻の意思あり」と報告したのですが、副使は「侵攻の意思なし」と報告し、結果として朝鮮王に近い副使側の意見が採られました。ところが文禄元(1592)年、日本の各大名は、豊臣秀吉の命令により朝鮮に出兵しました。この文禄の役の際、日本軍が一気に平壌まで侵攻したのは、この副使の報告に従って、なんら戦いの準備をしていなかったからとされています。さらにこのとき、朝鮮の民衆は腐敗していた朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したのです。このため日本軍は容易に北上を重ね、特に加藤清正の率いた二番隊は、朝鮮北部から満州にかけて住んでいて朝鮮民族と敵対していた満州族を攻撃したので、解放軍と期待されたのです。 三代将軍徳川家光は、日光東照宮の社殿のすべてを建て替えました。この大事業は『寛永の大造替え』と言われ、漆や金箔をふんだんに使い、極彩色の彫刻で飾られた社殿にはオランダ商館から贈られたシャンデリアが飾られ、その境内には外国や諸大名からの献灯が立ち並んでいました。寛永二十(1645)年には第5回の朝鮮通信使が徳川家綱誕生祝いと、日光東照宮落成祝賀を兼ねて訪れています。 文化八(1811)年の朝鮮通信使が、対馬までで差し止められたのを不服とし、その交流は断絶してしまいました。そのために、徳川幕府からの返礼使として対馬藩が代行したのですが、軍事上の理由により、ソウルまで上る事を拒否され、釜山に貿易目的で設立されていた対馬藩の倭館で返礼の儀式が行われていました。唯一の例外は寛永六(1629)年にソウルに送られた僧を中心とした対馬藩の使節ですが、これは後金(17世紀前半に満洲に興った満洲人の国家で『清国』の前身)の度重なる侵入に苦しむ朝鮮側が日本の後ろ盾があるように見せかけたかったためであるとされています。倭館には貿易のための対馬藩士が、常駐していたのです。 その後、朝鮮通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際しての祝賀使節として、計12回も派遣されていました。その人数は毎回三百人から五百人という大使節団でした。その中心には朝鮮国が選び抜いた優秀な官僚たちが並び、それに美しく着飾った小童、楽隊、絵師、武官、医者、通訳などで編成されていたのです。一方、受け入れ側の日本では、幕府老中、寺社奉行を中心に『來聘御用掛』を組織し、『人馬の手配、街道、宿泊の準備とそれら一切の警備』などをしたのです。 これら朝鮮通信使は、釜山から海路にて対馬に寄港し、下関を経て瀬戸内海を航行、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川をさかのぼり、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)とで行列を連ね、陸路京都を経て江戸に向かうルートを取りました。近江国では、関ヶ原合戦で勝利した後に徳川家康が通った道の通行が認められていました。この野洲市より彦根市への道は、現在でも朝鮮人街道と呼ばれている道であり、大名行列の往来は許されなかったという街道です。このルートを選定したことは、朝鮮通信使一行に対する敬意を示しているという見方とともに、徳川家の天下統一の軌跡をたどることでその武威を示す意図があったのではないかとする見方もあります。 例として適切かどうかはわかりませんが、将軍・徳川吉宗の時代にも象が日本に来ています。通常、天皇は、外国人や外交使節、そして無位無官の者とは会わないのが例なのですが、この時は中御門上皇と霊元天皇は象を見ております。象は政治とは距離が離れていたから見ることができたのでしょうが、その時の象には、なんと「従四位広南白象」という位が与えられたのです。これはその辺の大名よりも格が上で、昇殿が許される殿上人と同じ位にしたということです。その時の天皇の、御製も伝わっています。 ときしあれは他の国なるけだものを けふここのへに見るぞうれしき 室町期朝鮮通信使履歴第 1回 正 長 元(1428)年 通信使正使 朴瑞生 副使 李芸 書状官 金克柔 将軍就任祝賀,前将軍致祭 足利義教の引見 第 2回 永享十一(1439)年 通信使正使 高得宗 副使 尹仁甫 書状官 金礼蒙旧交 足利義教の引見第 3回 嘉吉三 (1443)年 通信使正使 卞孝文 副使 尹仁甫 書状官 申淑舟 将軍就任祝賀 前将軍致祭 足利義教の引見 豊臣秀吉朝鮮通信使履歴第 1回 天正十八(1590)年 通信使。第 2回 慶長元 (1596)年 通信使。 江戸時代の朝鮮通信使履歴第 1回 慶長十二(1607)年 回答兼刷還使 徳川秀忠 日朝国交回復 捕虜返還。第 2回 元和三 (1617)年 回答兼刷還使 徳川秀忠 大坂の役による 国内平定祝賀 捕虜返還。第 3回 寛永元 (1624)年 回答兼刷還使 徳川家光襲封祝賀、捕虜返還。第 4回 寛永十三(1636)年 朝鮮通信使 徳川家光。第 5回 寛永二十(1645)年 朝鮮通信使 徳川家光 家綱誕生祝賀。 日光東照宮落成祝賀。第 6回 明暦元 (1655)年 朝鮮通信使 徳川家綱襲封祝賀。第 7回 天和二 (1682)年 朝鮮通信使 徳川綱吉襲封祝賀。第 8回 正徳元 (1711)年 朝鮮通信使 徳川家宣襲封祝賀。第 9回 享保四 (1719)年 朝鮮通信使 徳川吉宗襲封祝賀。第10回 寛延元 (1748)年 朝鮮通信使 徳川家重襲封祝賀。第11回 宝暦十四(1764)年 朝鮮通信使 徳川家治襲封祝賀。第12回 文化八 (1811)年 朝鮮通信使 徳川家斉襲封祝賀 (対馬に差し止め)ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.06.01
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