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物見台と桃見台 現在は桜木町や並木とその町名が変わってしまいましたが、以前ここは、『茶臼館』という地名でした。おそらく『館』という地名から言って、ここに館があったのではないかと想像できます。しかもそれを示唆するかのように、この周辺には、今は使われなくなってしまった『幕の内』、それから現存する『西の内』などの地名があります。私は『幕の内』とは、館の内側を示し、『西の内』とは『幕の内』の西側部分を意味していたと考えたのです。しかもこの地域内の逢瀬川に架かる橋に、『幕の外』橋という橋が現存しているのです。『幕の外』とは、茶臼館の外側を意味していた地名であったものが、いつの間にか消え、橋の名だけに残ったものと考えられます。これらのことから、『幕の内』・『西の内』・『幕の外』などの名は、茶臼館の城地の内外を意味するものであったのではないかと思っています。 この茶臼館の北には逢瀬川、そして狭くはありますが東に夜討川、西に水無川と三方が川で囲まれていました。その佇まいから想像して、『茶臼館』とは、思った以上に大きな館跡であったと思われます。しかし生憎、この館の中央部分が切り通しとなり、通称『うねめ通り』という広い道路(片側二車線に歩道、植栽付きの分離帯)が作られ、この道の周辺は大きな市街地となってしまいました。それが先ほどの桜木町や並木です。しかし郡山市文化財調査研究センターの柳田和久氏は、「茶臼館跡を発掘調査した際、館であれば有る筈の遺物がまったく見付からなかったので、ここには館が無かったのではないか」と説明しておられます。 それにも関わらず、私がここに館があったのではないかと思う理由の一つに、この『西の内』地内に三島神社が祀られていることです。この神社は、平泉の奥州合戦で勲功を挙げた伊東祐経が源頼朝に郡山の地を与えられ、その次男の伊東祐長がこの地に来た時に、伊東氏の本拠地であった伊豆の地から勧請したものと考えられること、それに先ほど説明した三つの川があります。つまりそれらの川が、茶臼館の防御ラインになっていたのではないかと想像したからです。もしそうであるとすると、気になるのは、川がないため防御に弱いのではないかと思われる南側の部分です。どうも素人の私が見た範囲では、夜討川と水無川の間に、空堀などの防御の施設跡がないように思えるのです。ただし不思議と、南側にあたる咲田町あたりに、急激に下がった地形があるのですが、その深さはともかく、距離が短く、しかも位置的に当たらないのではないかと思われるのです。そのためこれを空堀跡と見るのは、早計かも知れません。現在、夜討川の一部は暗渠化しており、また水無川は全面的に暗渠化していますから、表面的には川があったことが分かりません。ちなみに夜討川の一部は、『せせらぎ小径』として、水辺を生かした市の公園となっています。 このことから現場を歩いて気が付いたのは、『茶臼館』の南側にある『桃見台』という町名でした。私はここに、見張りや防御施設としての『物見台』があったのではないかと想像したのです。しかしこれは、単なる私の想像に過ぎませんでした。ところがあるとき、陸軍第二仙台師団参謀本部が試作した福島県中通りの地図の郡山の中に、『モノミ台』とあるのを見付けのたでのす。位置は、今の桃見台です。私は鬼の首を取ったような気分だったのですが、ある史家にこう言われました。「あのころの地図には、間違えて書かれている地名が多いのです」 そう言われて考えました。昔使われていた地名を、後世の人たちが語呂や文字を変えて使った例は、市内にも多く見られます。ちょうど桜木町や並木のように。そしてこの明治時代に作らた地図の例から、少なくとも明治の初期まで、地元の人が今の『桃見台』を『モノミ台』と呼んでいたことが想像されます。やはり『桃見台』は、『モノミ台』から変化したものではないでしょうか。 この想像、皆さんはどう思われますか?ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.07.20
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残 城 録 安土桃山時代には3,000近くもあったといわれる城郭のうち、天守を有するものとしては、現在、以下の12城にまで激減している。これらはいずれも、文化財保護法に基づいて国宝か重要文化財に指定され保存されている古建築であって、『国宝五城』、『重文七城』と呼ばれている。(国宝城郭都市観光協議会による名称) 弘前城 重要文化財 青森県弘前市 松本城 国宝 長野県松本市 丸岡城 重要文化財 福井県坂井市 犬山城 国宝 愛知県犬山市 彦根城 国宝 滋賀県彦根市 姫路城 世界遺産・国宝 兵庫県姫路市 松江城 国宝、 島根県松江市 備中松山城 重要文化財 岡山県高梁市 丸亀城 重要文化財 香川県丸亀市 宇和島城 重要文化財 愛媛県宇和島市 松山城 重要文化財 愛媛県松山市 高知城 重要文化財 高知県高知市 このうち姫路城が世界遺産で国宝、松本城・犬山城・彦根城・松江城が国宝であり、残りが重要文化財となっている。 この3,000もあった城が、12城となるまでには幾つかの事情があった。その一つが、元和元年(1615)閏6月13日に江戸幕府が制定した一国一城令である。その内容は、一国(この場合の『国』は令制国でもあり、大名の領国・後の藩のこと)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものであった。しかし一つの令制国を複数の大名で分割して領有している場合には各大名ごとに一城とし、一つの大名家が複数の令制国に跨がって領有している場合は各令制国ごとに一城とした。しかしこの法制は画一的に実施されたわけではなく、現実には複数の城を維持している例も見られ、かなり弾力的に運用されていた。例えば猪苗代城は会津領の重要拠点として存続が認められ、家中の有力家臣が城代として派遣されていた。それにしても、幕末においては300藩(つまり約300城)と言われていたのであるから、約1割まで一挙に減ったことになる。 次にやってきた減少の危機は、明治六年(1873)の太政官からの達(たっし)により、陸軍省および大蔵省に対して発せられた廃城令にあった。それまでにあった全国の城郭の土地建物は陸軍省の財産とされ、陸軍が軍用財産として使用する部分については存城処分、つまり引き続き陸軍省の財産とするが、それ以外については廃城処分、すなわち大蔵省の普通財産にすることになった。この廃城処分は、明治四年、各地で旧藩主の東京移住に反対して騒擾事件が起きたことに鑑み、明治政府が、旧城を拠り所にして、不平士族による反政府叛乱の拠点になるのを恐れたから、という説が強い。 この場合の存城処分とは、現在の概念である『文化財』として土地や建造物を保存しようとしたものではなく、陸軍の兵営地等として使用するものとした。そのため、陸軍の兵営地とする目的で城郭建造物がすべて取り壊された会津若松城の例がある一方、一部の建造物が取り壊されて陸軍施設が設置されたが、天守等の主要な建造物やほとんどの遺構が現存し、国宝、特別史跡になっている姫路城の例がある。ただし例外的に存城処分として陸軍用地となった城郭であっても、彦根城のように、明治政府の特例政策として保存され、国宝や特別史跡となっているものもある。この廃城処分とは、陸軍省から大蔵省の普通財産に所管換えし、地方団体や学校敷地としたもので、このため全国のほとんどの城郭陣屋の建造物が取り壊され、土地は払い下げられた。ただし犬山城や松本城のように、建造物が売却や取壊しの対象になったが、それぞれの理由により現存し、国宝、史跡になっているものもある。 明治二十三年(1890)、陸軍省用地としたものの不用になった城郭や土地を、元藩主や地方団体に限り、公売によらず相当対価をもって払い下げられたことがあった。『旧城主は祖先以来数百年間伝来の縁故により、これを払い渡し、旧形を保存し、後世に伝えるなら歴史上の沿革を示す一端となり好都合である』ことをその理由とした。『史跡としての文化財保護』のさきがけとも言えるが、史跡の法的な保護制度は、大正八年(1919)制定の史蹟名勝天然記念物保存法を待たなければならなかった。いずれにせよ、この明治期に多くの城が失われたが、確たる数字の資料はない。 そしてその悲劇の最後は、第二次大戦にあった。アメリカ軍の空爆により破壊され、焼失した。しかもそのほとんどが、国宝、もしくは重要文化財に指定されていた城であった。しかし現存する12城と、第二次大戦中にアメリカ軍の空爆により破壊焼失した8城を加えると、丁度20城になると想定できる。つまりは幕末期の約300城が、さらには20城、1割以下に減ってしまったことになる。しかもそのほとんどが、国宝、もしくは重要文化財に指定されていた城であった。以下、被災順に記す。 昭和20年5月14日 名古屋城天守および本丸御殿 戦災により焼失 昭和20年6月29日 岡山城天守 戦災により焼失 昭和20年7月9日 和歌山城天守 戦災により焼失 昭和20年7月10日 仙台城大手門・隅櫓 戦災により焼失 昭和20年7月12日 宇和島城大手門 戦災により焼失 昭和20年7月29日 大垣城天守 戦災により焼失 昭和20年8月6日 広島城天守 原爆投下により 破壊される 昭和20年8月8日 福山城天守 戦災により焼失 昭和20年 首里城正殿 沖縄戦により 破壊される この他にも存在する天守には、復元天守、復興天守、模擬天守などがある。そのうちの木造による復元天守は、5城ある。これは木造で忠実に復元したもので、これには実質上の天守とされていた三重櫓、天守やそれに類似する象徴的なものとして認識されていた事実のある建築も含まれている。(復元年度順) 白河小峰城三重櫓 福島県白河市 1991年 掛川城天守 静岡県掛川市 1994年 白石城大櫓 宮城県白石市 1995年 新発田城三階櫓 新潟県新発田市 2004年 大洲城天守 愛媛県大洲市 2004年 また鉄筋鉄骨コンクリートなどで外観のみをほぼ以前の姿に復した外観復元天守は、9城ある。 名古屋城 愛知県名古屋市 1957年 大垣城 岐阜県大垣市 1958年 広島城 広島県広島市 1958年 和歌山城 和歌山県和歌山市 1958年 松前城 北海道松前郡松前町 1960年 熊本城 熊本県熊本市 1960年 会津若松城 福島県会津若松市 1965年 岡山城 岡山県岡山市 1966年 福知山城 京都府福知山市 1986年 復興天守とは、天守は存在したが構造や装飾が明らかでなく、一部または大部分を想像で作った天守であるため造りに推定部分があったりして、完全な復元でない天守のことである。中には忠実に復元が可能ではあったが見栄えをよくするため、破風などを加えた天守(例、小倉城)などがある。復興天守は、14城が数えられる。 大坂城 大阪市 1931年 岸和田城 大阪府岸和田市 1954年 岐阜城 岐阜県岐阜市 1956年 岡崎城 愛知県岡崎市 1959年 小倉城 福岡県北九州市 1959年 小田原城 神奈川県小田原市 1960年 岩国城 山口県岩国市 1962年 島原城 長崎県島原市 1964年 福山城 広島県福山市 1966年 越前大野城 福井県大野市 1968年 高島城 長野県諏訪市 1970年 長浜城 滋賀県長浜市 1985年 忍城 埼玉県行田市 1988年 高田城 新潟県上越市 1994年 摸擬天守とは、もともと天守が存在しなかったり、存在が不明の城に建てられた天守のことであるが、その数は51城にも及ぶ。余りにも数が多いので、福島県にある2城、霞ヶ城(二本松市)と常盤城(田村市常葉町)のみを紹介するに留める。 なお、アメリカ合衆国ハワイ州のオアフ島ホノルル市ペンサコラ通りにあるプロテスタント教会が、高知城天守を模している。1932年、ハワイへ移住した奥村多喜衛によって開かれたものであるが、海外にある日本式の城郭的建築は、ここのみと思われる。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.07.11
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鋳物の町・日和田 郡山地方は、古墳時代から奈良・平安時代にかけて各所に金工所が作られていました。大槻町中柵遺跡では鋳造跡が発見され,鋳造された紡錘車も見つかっています.またうねめ団地造成工事中に見つかった鋳造跡からは、鉄滓が出土しているのです。ここでは古墳時代の剣や鉄鍬が出土しています。また大槻町のほかにも、三穂田町・富田町・開成町・赤木町・咲田町・小原田町などでも見つかっています。 鋳物とは、加熱して溶かした金属を型に流し込み、冷えて固まった後、型から取り出して作った金属製品です。古代では自然界に純粋な形で産出する金及び精錬が容易な銀、銅が主に用いられました。鉄の精錬はかなり難しいものでしたが、武器としての性質も優れていたので、永らく金より高価であったといわれます。 天保十二年(1841)に編纂された二本松藩の地誌『相生集』によりますと、聖武天皇(724〜749)の時代、奈良東大寺の梵鐘が、なんとこの日和田で作られたと記述されているのです。それから約600年後の南北朝時代(1336〜1302)になると日和田の鋳物師は、ほとんど寺社用のものを作るようになりました。これは、信仰に根ざしたものと考えられています。このように、もともと鋳造が盛んな土地でしたが、南北朝時代に下野国宇都宮の秦(はた)氏などが出職(でしょく)(よそに出かけて仕事をする)としてこの地に進出してから、本格的に鋳造業が発達したようです。この秦氏とは、百済から渡来した技術者集団とされています。この南北朝の争乱に続く室町幕府の崩壊とそれに伴う兵火が、当時の作品を焼きつくしたため、現在に残されているものは、ほとんどありません。それでも、最古とされるものが、現在、西田町鬼生田にある広渡寺の銅鐘(県指定重要文化財)で、銘に、『大工秦景重(はたかげしげ) 永徳二年(1382)十一月八日』とあります。このことから、秦景重は、宇都宮から来た秦氏の一族とも考えられています。 この時代、日和田での鋳造品は銅鐘のみならず、半鐘や生活雑器なども作っていました。それらの一部は重要文化財として指定されています。また、田村市船引町の大鏑矢神社に国重要美術品の鉄鉢があるのですが、これの銘に、『文明十九年(1487)六月一日 於日谷田(日和田)根岸(八丁目)大工秀次』とあります。鋳物師を、大工と言ったのでしょうか。これらの作品には、日和田在住の鋳物師が携わっていたと考えられます。ここでは数多くの梵鐘などが作られたのですが、残念ながら、それらの大半が第二次世界大戦中に供出されて兵器などに転用されたため、残されているのは僅かです。それでも作られた梵鐘や銅器などのデータ(日和田の鋳物)によると、梵鐘だけでも42個に及んでいます。Å では何故日和田に鋳物師が集まったのでしょうか。それには秦氏一族が日和田に来たためと思われるのですが、それでは何故、秦氏一族が日和田に来たのかという疑問となります。一番考えられることは、この地が鋳物の生産に適した条件が揃っていたことではないでしょうか? ではその条件とは、なんだったのでしょうか。実は日和田には、鋳物に必要な適度の粒度および耐火度のある砂と粘土が豊富にあったというのです。 次に、原料となる砂鉄が潤沢であったというのです。ではそれらの砂鉄を、どこから採取したのでしょうか。砂鉄が多い所と言えば川、ということになると思いますがその川はどこの川であったのでしょうか。そこで、一番日和田に近い藤田川ではないかと想定してみましたが、どうも水量の点で納得しかねたし、その鉄分が流れてきるもとはどこか、ということになってしまったのです。そこで砂鉄について調べてみると、『主に岩石中に含まれる磁鉄鉱、チタン鉄鉱などが、風化の過程で母岩から分離し、運搬過程で淘汰集積したもので、川岸など平坦地に堆積したもの』とありました。なるほど、理屈は分かりました。しかしその、砂鉄の揺りかごが分かりません。そして考えていて、安達太良山に鉄山という山があるのに気付きました。「あっ、この鉄山!」と思った時、この鉄山の近くに『くろがね小屋』という山小屋あるのに気が付きました。『くろがね』とは、鉄の古語です。鉄山と『くろがね小屋』とを合わせて考えた時、砂鉄の揺りかごはここではないか、と思ったのです。それに加えて極め付けの推測は、安達太良山そのものにありました。製鉄に関係する『たたら』という用語は、「多々良」などと表記されており、「古事記」や「日本書紀」にその使用例があるのです。つまり、ア・タタラではないかという推測です。 もう少し調べてみました。すると、『昔の日本の鉄は、山砂鉄から作っていた。山砂鉄とは、火成岩中に1~2%含まれている鉄鉱物が,岩石の風化によって分離し,現地で多少濃集するか,もしくは河川などによって運ばれ集積したもの。火成岩とは、火山から噴出したマグマが冷えて固まった岩石で、鉄やマグネシウムに富んでいる』とあったのです。すると鉄山やくろがね小屋に固執せず、火山である安達太良山そのものが火成岩でできていると考えても良いのではないか、と思ったのです。すると藤田川の蓋然性が高くなると思ったのです。それともう一つ。Wikiによると、熱海町の高玉金山から、金・銀・銅・鉄・アンチモンが室町時代より発掘されており、昭和五十一年の日本鉱業(株)の閉山まで続いていました。つまりこの鉱山からも、鉄鉱が採掘されたのではないかと思われます。 ところでこのWikiの『日本の鉱山の一覧』によると、日和田町高倉に赤沼という鉱山があり、鉄、マグネシウム、クロムが主成分の鉱物を産出していたと記されていました。赤は、酸化した鉄の色でもあるのです。現在は閉山となっているのでその詳細は不明ですが、このような鉱山があったとすれば、ここからも砂鉄が流れ出ていたとは考えられないでしょうか。 次の問題は、燃料としての木炭が、どう供給されていたかです。これについても、竹之内・高玉・石筵あたりや、田村地方から舟で木炭が日和田の多くの鋳物師の現場に場に運び込まれて、町中に市が立ったかのように賑やかであったといわれます。 日和田で行われていた、たたら製鉄は、鉄原料として砂鉄を用い、木炭の燃焼熱によって砂鉄を還元し、鉄を得る方法です。また日和田に伝わる俗謡の中に、『歌にうたう 日和田はここぞ 女郎衆を 鍋吹く顔も 色の黒さよ』。そして、『風の福原 鍋吹く日和田 日和田おなごは 何故色黒い 鍋を吹くため 色黒い』。という歌が残されており、また郡山の俗謡に『風の福原 早過ぎて 川坂瓦の 牛ヶ池 鍋吹く日和田の 蛇骨地蔵』とあったそうですが、これらの唄の文句の文字数が微妙に違うのです。しかしメロディーは、似たようなものであったのかも知れません。これらは、女たちが炉に風を送る踏鞴(たたら・大型のふいご)を踏む姿を歌ったもので、労働歌としても歌われたのかも知れません。さてこのように、鋳物の生産の条件は揃ったことになり、日和田は、鋳物の町として大きく成長することになったのです。 江戸時代の末期、日和田では、鍋・釜など実用的なものも生産していました.特に享保年間の二本松藩では、財政再建のため鋳物師の地位をあげることで,鋳物の生産に力を入れています。幕末の二本松藩は軍事力を高めるため積極的に鋳物技術者を育成しようとして、技術的に進んだ江戸に鋳物師を派遣し,技術向上を図っています。そして幕末の安政五年(1858)六月、二本松藩は、幕府より上総国富津(千葉県富津市)海岸砲台の警備を命じられると、日和田の鋳物師は藩命により、大砲・小砲・砲弾などの兵器製造に関わっていましたが、その後も、二本松藩より大砲五門、三春藩より大砲二門と五貫目弾を受注、納入したようです。 明治の日和田の鋳物師たちは、各地の生活雑器の販売先の店を割り振り、過当競争を防いでいました。明治三年の時点では、次のような販売店に卸していることから、当時の取引の範囲や各町村の規模などを想像することができます。 (資料は山野井村郷土誌より) 福島 7 三春 5 本宮 4 郡山 4 二本松 3 居村 3 八軒 3 川俣 2 針道 2 須賀川 2 小浜 2 正法寺 1 湯の村 1 谷田川 1 長橋 1 百目木 1 瀬の上 1 長沼 1 牛ヶ池 1 片平 1 川田 1 切払 1 大谷 1 明治三十五年(1902)、日和田の鋳物師たちの共同経営で、株式会社日和田鉄工場が設立されました、日露戦争の時は、陸軍砲兵工廠から12インチ砲の信管製造を依頼されるほどでしたが、明治四十三年(1910)には業界の大手に押され、解散してしまいました。 そこで山野井村郷土誌から見つけ出し、昭和六十三年(1988)まで日和田で藤崎鋳工場を経営していた藤崎一夫さんを訪ねてみました。藤崎一夫さんは、祖父の藤崎辰五郎さん、父の辰雄さんと続いていた最後の鋳物師でしたが、鋳物の道具などの一切は古物商に売却してしまい、「今は何も残っていない」と言われました。しかしそこで、改めて聞いたのは、「阿武隈川や藤田川より砂鉄を採取していた」とのことでした。やはり私の推測は、正しかったようです。ただし時代が下がるにつれ、「阿武隈川を利用して、岩手県の南部鉄を原料として運び込んでいた」とも言っていました。 ただ私には、もう一つの疑問が残っていました。それは、今知られているだけでも42ヶほど残っている銅鐘です。銅鐘ともなると、原料が銅でなければなりません。半鐘ならともかく、砂鉄ではダメなのです。半鐘は鉄製のため音が甲高く、梵鐘は銅製のため音が低く響くのです。そこで、原料の銅がどこから持ち込まれたかについて藤崎一夫さんに聞いたところ、「鉱石が近くの八幡神社から運ばれ、自分は行ったことはないが、坑道が残っていると聞いたことがある」と言うのです、私は、丘の上の八幡神社へ行ってみました。探してみましたが、どうもそれらしきものが見当たりません。しかし丘の北側の裾に、人為的に崩したような岩場があったのです。残念ながら鉱石に縁のなかった私には、その岩石に銅が含まれているかは分かりません。止むを得ず、ひょっとして、八幡神社の岩場が銅鉱であったのではないかとの期待を込めて写真だけは撮ってきました。 現在では工場なども取り壊され、粘土のあった土地なども整理や改良がなされ,当時の面影などを見ることはできなくなりました。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.07.01
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