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昔から世の中で恐ろしいものとされるものに、『地震、雷、火事、親父』という言葉があります。これは世の中の恐ろしいもの、敵わないものを順に並べた表現ですが、1種の比喩的な表現であると捉えておく方が良いのかもしれません。地震は古語では『なゐ(ない)』と言い、地震によって大地が揺れることを『なゐふる(ないふる)』と言ったそうです。『恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ『なゐ』なりけり』、意味は、『恐ろしいものの中でも、特に恐れなければならないものは、地震である』と、鴨長明が『方丈記』で述べているように、前触れもなく、突如として襲ってくる地震は、昔から災害の筆頭に挙げられてきました。そして地震といえば、関東大地震や阪神・淡路大地震、東日本大地震など、近年にも地震によって大きな被害が出ています。地震は、世界のどの地域でも発生するわけではなく、プレートが衝突し、沈み込みを起こす地域に発生します。日本は、この海のプレートである太平洋プレートとフィリピン海プレートの二つのプレートが、二つの陸のプレートである北米プレートとユーラシアプレートの方へ、1年あたり数センチの速度で動いており、陸のプレー トの下に沈み込んでいます。このため、日本周辺では、複数のプレートによって複雑な力がかかっており、世界でも有数の地震多発地帯となっている上に、環太平洋地震帯に属しており、そのため有史以来の日本には、度々大地震が発生していました。地震は、地下の岩盤が周囲から押される、もしくは引っ張られることによって、ある面を境として岩盤が急激にずれる現象のことをいいます。この岩盤の急激なずれによる揺れ、つまり地震波が周囲に伝わり、それが地表に達することで地面が揺れるのです。そのような大地震の例のひとつに、嘉永六年/安政元年(1854年)十一月四日、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8・4という江戸直下型の巨大地震がありました。この時には、全壊と焼失した家屋は1万4千戸余りに上り、死者は7千人以上と推定されています。しかもこの地震の32時間後に、南海に大地震が連続して発生して大被害を与えたため、元号を嘉永から安政に改めているのです。朝廷にも、『安らかなれ』、との祈りがあったのかもしれません。 地震については、世界各地で、『世界を支えている動物』がおり、その動物が動くと大地震が起こるという信仰があったそうです。アジアでは、地底にすむ巨大な蛇が身動きをするのが地震であるという『世界蛇』、またそれが魚であるという『世界魚』といった信仰が共通して存在していたそうです。日本でも『世界蛇』がいると考えられていました。江戸時代初期までは、『竜の形をした蛇』が日本列島を取り巻いており、その頭と尾の位置する所が茨城県にある鹿島神宮であり、千葉県にある香取神宮だと言われるようになり、この二つの神宮が頭と尾のそれぞれを、『巨大な岩』で押さえて地震を鎮めているとされました。しかし江戸時代後期になると、民間信仰からこの竜蛇がナマズとなり、巨大なナマズが地中深くにいて、そのナマズが暴れると地震が起きるという考えが主流になったようです。では、ナマズ本来の姿はどうでしょうか。 ナマズの外観は、大きく扁平な頭と幅広い口、および長い口ヒゲによって特徴付けられます。体は黒っぽい色で鱗がなく、体の表面は、ぬるぬるとした粘液で覆われています。上あごと下あごにある長いヒゲには、『味蕾(みらい)』という味を感じる器官があります。味蕾は、他の生き物が発する微細な電気を感じ取ることができるそうです。地震は、発生する直前に地殻がずれ、地電流というものが発生することがわかっています。そこでナマズに電気の通った魚の切り身のエサと、電気の通ってない普通のものとを与えると、なんとナマズは電気の通ったエサに近づいていくというのです。そしてこのことが、ナマズが地震を予知するといわれる事に深く関わっているらしいのです。そして小さな背ビレが、ナマズの大きな特徴です。ナマズは、川の中流域から下流域に住む夜行性の魚です。昼の間は流れの緩やかな場所にいて、水の底の岩や水草の陰などに身を潜めていますが、夜になると発達した口ヒゲでエサを探します。エサになるのは主にドジョウやタナゴなどの小魚、甲殻類、カエルなどの小動物です。そして、5月から6月にかけての雨上がりの夜、普段は川や沼に棲むナマズが、続々と田んぼの用水路にやってきます。卵が小さいため、魚に食べられないように、わざわざ田んぼなどの浅い場所にやってきて産卵するという習性がついたようです。そして高い段差もなんのその、まるでコイの滝登りといった具合で土手を這い登って田んぼに入っていきます。ナマズは一回の産卵で、実に10万個以上の卵が産み落とすそうです。ナマズの平均寿命は15年ほどと言われていますが、なかには20年以上生きる個体もいるらしいのです。実はナマズは、世界に2千種類もいるそうです。また、海外に生息する世界最大のナマズ、『メコンオオナマズ』は、寿命がなんと60年と言われています。 日本では中世以降、ナマズ地震と関連付けられ、地震を予知する魚と言われてきました。特に、地震を起こすという大ナマズの話が広まったのは、安政元年の大地震によって、江戸を中心に甚大な被害が広がった時からです。この安政の大地震の前にもナマズが騒いでいたという記録も残されており、昔からナマズは地震と関係の深いものと考えられていたようです。江戸時代は人口が急激に増えた時期でしたので、地震が起こると被害も大きくなりました。そのため、地震に対する関心も高かったと考えられ、地震に関する記録が、各地に多数残されています。『安政見聞誌』などにも、地震に先行してナマズが暴れたことが記述されているそうです。大きな被害が広がったのにも関わらず実態が捉えられないでいる地震を、ナマズの所為にしていたのです。安政の大地震は、人々の生活に打撃を与え苦しめた一方で、地震が起きて間もない時期から、江戸の町の復興などによって経済的な潤いをもたらすことになりした。この地震があった後に刷られた多くの瓦版には、地震を意味するナマズが印刷され、その他にも、ナマズを題材にした絵は人気を博したそうです。売りに出されたナマズの絵は、『地震よけのお守り』として欲しがる人もいましたが、災害復興の景気を見て、『ナマズは世直しをしてくれるありがたい存在』という肯定的な側面を持つことにより、大流行したのです。江戸の人々は、地震とナマズとの拘わりあいをこのように考えており、地震を起こす原因はナマズにあると素朴に信じていたことが分かります。またナマズは、地域によっては神の使い、弁財天様の使いともされ、厄害を避けてくれる無病息災の縁起物とも言われました。『安定、癒し、安眠、責任感、くじけない心』が石言葉でした。 ナマズは、古代から食用魚として、漁の対象とされました。身は柔らかく、きれいな白身で、小骨などもなく、すんなりと食べられるそうです。地方によっては、ナマズを『川フグ』と呼び、生のまま刺身で食べることもあるといいます。江戸時代の料理書にあるナマズの料理は、蒲焼のほか、汁・蒲鉾・なべ焼・杉板焼などがあります。 室町時代の『宗吾大草紙』には、『蒲鉾はナマズ也。 蒲(がま)の穂に似せたる物なり』とあり、蒲鉾の原料の最初は、ナマズだったようです。姿が異様であったので、摺り身にしたとも思われています。 ナマズは神経質でデリケートな性格なので、暴れたり飛び跳ねることも多いそうです。地球の仕組みが解明されていなかった頃、地震などの災害は、動物や神様などの仕業と考えられてきたのですが、そのナマズと地震を関連づけた民間信仰が、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮にあります。それは、地震は地下に住む大ナマズのせいであるから、ナマズを『要となる石・要石(かなめいし)』で押さえ付けておこうという信仰です。鹿島神宮は、延喜式の神名帳に記載されている式内社(しきないしゃ)、常陸国一宮、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社となっており、宮中の四方拝で遥拝される神社です。鹿島神宮は、日本建国、そして武道の神様である『武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)』をご祭神とし、神武天皇元年創祀という由緒ある神社です。全国にある鹿島神社の総本社であり、千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市息栖(いきす)の息栖神社とともに東国三社の一社で、古くから信仰を集めてきました。関東以北の人は、伊勢に参宮したのちに禊ぎの『下三宮巡り』と称してこの三社を参拝ます。この鹿島神宮奥宮の裏手には、武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)が巨大なナマズの頭を剣で抑えている石碑があります。これは、鹿島神宮にしたといい伝わる神話によるものですが、武甕槌大神と経津主神(ふつぬしのかみ)が、『要石』を大地に打ち立てることにより、大ナマズを鎮めたというものです。これは大ナマズ、つまり動くものと『要石』、つまり不動のものを統合することで、秩序をもたらしたことを意味するのだそうです。このことを現実の世界に置き換えてみれば、混沌とした世の中が統一された、という見方ができるそうです。また『地震太平記』には、各地の地震ナマズが鹿島大明神にわびを入れている様子が描かれ、その右では、民衆が要石に手を合わせて拝んでいます。文字の部分には、『年寄』『大工』『新造』『瀬戸物屋』『芸人』『医師』などそれぞれの立場の人々の願い事が面白おかしく書かれているそうです。この他にも、沢山の漫画チックなナマズ絵が発行され、ブームとなりました。なお、地中深くまで埋まる『要石』が、地震を起こすナマズの頭を抑えていると古くから伝えられていることに対して、水戸藩第二代藩主の徳川光圀は、要石がどこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩にわたって掘らせたものの、いつまで経っても辿り着くことができなかったばかりか、怪我人が続出したために掘ることを諦めたという話が、『黄門仁徳録』に記されているそうです。
2024.11.20
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平賀源内は、どこで三春駒を知ったか?③ 落札した三春駒が手元に届くと、私はよく観察してみました。植物でできたとされる『たてがみ』や尻尾はほとんど残っていませんでしたが、その香炉の胸部には、五島美術館の図録と同じく、『奥州・三春大明神・子育之馬』とあり、腹部には『安永三年・正月元旦・平賀鳩渓・謹摹(も)造』とありました。私はここの『謹摹造』に注目しました。『謹』は恐れ敬っての意味であり、摹という字はなかなか見つかりませんでしたが、『摹造』は手本どおりに造る、の意味だったのです。とするとこの香炉は、源内(鳩渓)の指導によって造られたということになります。ですから、私の手元にあるものを含めて複数あることについて不思議はないのですが、よく見ると図録にあった香炉の写真と私の手持ちの香炉とに若干の形に違いがありました。これは、源内の皿などは主に型取りで製作されているようですが、三春駒の香炉に限って言えば、板状にした粘土を成形して形を作る『板作り』によって作られたと思われることから、一体ずつ形に差が出たと考えられます。私はそれを持って、『さくらカフェ』に行ってみました。「ああ、これが本物なのね」 オーナーの浜崎明美さんが、繁々とそれを見ていました。私がこれを持って、「これから資料館に行ってみる」と言うと、いかにも残念そうに、「店が休みだったら一緒に行ってみたい」と言っていたのです。 資料館では、所蔵していた『三春駒の香炉』を出して、私を待っていてくれました。そこで早速、資料館のそれと比較してみたのです。資料館の『三春駒の香炉』は、たてがみや尻尾も残っていて、私のものより少し大きく、特に首の長さに差異がみられました。残念ながら私が手に入れた香炉や資料館にある香炉は、弟子の誰が作ったかまでは確認することができませんでした。それにいまは見つかってはいませんが、もし源内が作った見本的な『三春駒の香炉』が見つかれば、これら『三春駒の香炉』の原型となる筈です。弟子たちが文字列まで正確に『摹造』しているのですから、原型には『奥州・三春大明神・子育之馬』とあったと思われます。いずれにしても、『源内焼』として多くの陶器を残した源内が、その出所を明らかにするこのような文字を刻んだ陶器は、これ1点のようなのです。源内は、なぜこのような文字を刻んだのでしょうか。それを考えると、源内が『三春駒の香炉』を作った前提として、どこかで三春駒を見たと推測できます。しかも本物の三春駒には、『子育之馬』とは書いてありません。『子育之馬』とは、当時の商標として普及していたのでしょうか。もしそうであったとしても、『三春大明神』となれば、そのような神社があることを知らなければ書けない筈です。 さてここからは私の想像です。奥州秋田の角館へ行った源内は、先祖から伝えられていた話を思い出したのではないでしょうか。例えば、源内の遠祖となる平賀三郎国綱が伊達政宗に仕えており、その政宗の正室が三春出身の愛姫であり、愛姫の家系は田村麻呂の末裔であるとのこと、そしてそれに付随する田村麻呂と三春駒の伝説。その伝説とは、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦十四年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたとされるのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。翌日、高柴村で、村人の杵阿弥(きねあみ)という者が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したというのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。 そして同じような話を、源内が仕えていた博物好きの高松藩主・松平頼恭(よりたか)から聞いていたと思われます。頼恭(よりたか)は正徳元年(1711年)五月二十日に、陸奥国守山藩主・松平頼貞の5男として誕生しました。その守山藩領には、田村麻呂の生誕に関わる伝説もあったのです。高松藩の第4代藩主・松平頼桓(よりたけ)の養子となった元文四年(1739年)に、頼桓(よりたけ)が死去したため、頼恭(よりたか)は29歳での高松藩の家督を継ぎ、第5代の高松藩主となっていたのです。源内は、自身の先祖から伝えられてきた話と、高松藩主の頼恭(よりたか)から聞く話とを融合できたことなどから、自分の仕える松平頼恭(よりたか)の出里である守山を経て江戸に戻ろうとしたのではないでしょうか。そして守山の北にある三春に入って町を見聞したときに聞いていた三春駒というものに遭遇、その謂われを聞いて土産に購入し、その姿を『奥州・三春大明神・子育之馬』という来歴とともに焼いたのではないかと考えています。このように来歴を記した作品は、数多くある源内焼のなかでも、これ一個と思われるのです。ともかく異常なほど多くの事物に関心を持っていた源内ですから、考えられないことでもないと思っています。 そもそも地元にある三春駒には、『奥州・三春大明神・子育之馬』などとは書かれていません。それなのに、源内が『三春駒の香炉』の胸に『三春大明神』と刻み、さらに『子育之馬』と刻んでいるのです。これは三春に『大明神』があり、町では三春駒を『子育之馬』と言っているのを知ったからではないかと私は思っています。なぜなら源内と言いども、これらのことを、江戸や四国に居ては知ることができなかったと思われるからです。つまりこの文字こそが、源内が三春に来て、町の佇まいや三春駒を見て知って書いたということを示唆する証拠ではないかと思えるのです。ちなみに、元禄二年(1689年)に、3代三春藩主の秋田輝季が、三春の貝山字岩田より神明宮として現在の神垣山に遷し、以来、三春ではシンメイサマと呼ばれるようになりました。これは神明宮の通称ですが、尊んで言う称号が『大明神』なのです。源内はこの称号である『三春大明神』と刻んだものと推測できるのですが、この文字こそが、源内が三春に来たということを示唆するものと思っています。なお現在の三春大神宮は、明治に入ってからの改称です。ともあれ、『三春駒の香炉』が作られたのは、今からほぼ180年前になります。そんな古い時代に、平賀源内はどこで三春駒を知ったのでしょうか? 私はこれらのことから、平賀源内は三春へ来たと想像していますが、皆さんはどう思われますか。 ところで、平賀源内の時代から約100年後の天保九年(1838年)に書かれた臼杵藩(大分県)の江戸藩邸日記に、『秋田様御国ニて出来候由三春木馬、此度左衛門尉様御手ニ入候由、右ハ左衛門尉様より御奥様ヘ差シ上ゲ候』とあります。ここに出てくる左衛門尉は、中津藩(大分県)の前藩主の奥平昌高のことで、臼杵藩主の稲葉幾通の正室の父親になります。この記録から、父親が娘に三春木馬、つまり三春駒を贈ったことから、その頃には三春駒が江戸で販売されるなどしていたであろうことがうかがえ、同時にそれが贈答品として意識されていたことが知られます。この頃には、三春駒は全国的に知られるようになっていたのかもしれません。
2024.11.10
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平賀源内の各地の美術展② 『源内の指導』とはどのようなことを言うのかは不明ですが、源内が指導して三彩の交趾(こうち)風の陶器を開発したことが明らかにされはじめているそうです。交趾とは安南・サイゴン地方で、いまのベトナムのことですが、一般に交趾焼と称しているものは、中国南部の広東などで焼かれたもので、土は柔らかく暗色を帯び、緑・黄・紫色のいわゆる『三彩の交趾釉』がほどこされています。源内焼の特徴的意匠のひとつは地図皿です。日本で初めて地図を意匠に取り入れた焼き物で、ユーラシア・アフリカ大陸、南北アメリカ大陸、日本列島のものなどもあります。日本地図の皿はとても精緻で、幅広い階層の知識欲を満たしてくれるものでした。ただ箱書きなどから、これらが天明2年(1782年)以前から存在していたことが推定されています。ちなみに現在、香川県さぬき市志度の平賀源内記念館には、テレビの『なんでも鑑定団』の中島誠之助さんが、「1,000万円の価値がある!」と判定されたのが、南北アメリカ大陸を描いた『二彩万国地図皿』です。この絵皿には南北アメリカ大陸がドンと描かれていますが、大陸の上には「亜墨利加」などの様々な漢字が半島の先まで細かい漢字で、また太平洋の波も細かく浮き出ています。「お皿を見て楽しんでもらう」ために源内は源内焼を考案したと言われています。その他の器種としては、硯のそばに立てて塵やほこりなどを防ぐ小さな衝立(ついたて)である硯屏(けんびょう)鉢・蓋付き碗・銚子・盃・水滴・香炉・鈴などが見られます皿や鉢などに比べて目立って少ないのが香炉であり、この少ない香炉の中のひとつが、『三春駒の香炉』だったのです。 当時、源内が天草代官に提出した陳情書、『陶器工夫書』によれば、オランダにはじまる東インド会社のアジア進出で開かれた航路によって、中国製の珍しい陶磁器がヨーロッパに向けて盛んに運ばれていたのですが、その中国の清が、1757年、制限貿易を開始したのです。当時、清には大量の銀が存在していました。乾隆帝は制限貿易によって銀の国外流出を防ごうとし、貿易港を広州一港に限定し、さらに公行と呼ばれる特権商人を設置し、貿易を特権商人たちに独占させました。銀の国外流出を防ぐとともに 貿易による利益を清朝が独占したのです。そのため中国での陶磁器の生産が減り、代わりに日本へ中国写しの陶器の注文がもたらされたのです。それを知った源内は、陶土を産出する天草の土に着目し、「日本での製陶の技術向上をはかり、陶工を増やして器の形、模様の指図をする人さえ得られれば、日本刀や蒔絵のように万国に勝る立派な陶器が出来る。それによって輸出が増え、外国産の陶器に日本人が大金を使う必要もなく、永代に亘って我が国の国益に貢献する。」と話していたそうです。 源内の陶器は技術的に優れていたこともあって、その見事な陶器で、幕府老中の田沼意次をはじめ、諸国の大名たちや豪商を魅了したと伝えられています。このようなこともあって、源内焼の作品には、寒山寺図や山水図、蓬莱山図・遊船図など中国を意識したものが多いのですが、日本の『三彩・天ノ橋立図』などの長皿や鉢なども残されています。このような源内の弟子のひとりに、自身の甥である堺屋源吾がいました。特に源吾の手に成る陶器が多く残されており、それらには『志度舜民』『舜民』『民』などの銘の物があります。また判明しているもうひとりの弟子は、やはり志度浦生まれの赤松光信で、源内に交趾焼を学んで大阪や長崎などでその製品を販売し、好評を得ています。彼はのちに志度浦に戻り、志度焼を起こしています。 安永2年(1773年)、源内が45歳の春、いまの埼玉県秩父市の中津川村の付近で金の採掘に挑戦し、その後、その山での、鉄山の開発願が幕府代官の前沢藤十郎あてに差し出しています。中津川の集落には、源内自身が設計したという非公開ですが、『源内居』という建物が残されています。ところでその年の7月、源内は、鉱山採掘の技術指導のために秋田の角館を訪れていますが、そのとき、小田野直武と会っています。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んで会い、西洋画の陰影法や遠近法を教えたというのです。その後源内は、小田野直武を江戸に呼び寄せました。そしてその縁によって、小田野直武は、杉田玄白や前野良沢の解体新書の挿絵を任されています。直武は源内に西洋画を学んだのちに、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成しています。蘭画とはオランダの絵のことです。また源内の薬品展示会で親しくなった蘭学者・杉田玄白は、彼の著書の『蘭学事始』の中で、源内を『天性の才人』と讃えています。この『解体新書』の出版は、日本国内に蘭学が広まる大きなきっかけとなったのです。 前述の五島美術館で開かれた『源内焼〜平賀源内のまなざし展』での図録『源内焼』によると、『この三春駒の香炉は個人蔵』とあり、これと『同じものでやや小型のものが他に1点ある』とありました。掲載されていた三春駒の写真の胸には『奥州・三春大明神・子育之馬』とあり、腹部には『安永3年(1846年)正月元旦・平賀鳩溪・謹摹造』とありました。さらに調べていたら、令和元年、兵庫県宝塚市の鉄斎美術館で『富岡鉄斎と平賀源内展』が開かれており、そのパンフレットには、こうあったのです。『富岡鉄斎(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)〜1924年(大正13年)12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者で日本最後の文人と謳われる。鉄斎美術館は、近代文人画の巨匠・富岡鉄斎と交友を結んだ清荒神(きよしこうじん)清澄寺(せいちょうじ)の第37世法主・坂本光浄の『宗美一体』の理念とその遺志を継承して、約1世紀にわたって蒐集されてきた鉄斎作品を広く公開展示しています。鉄斎が愛蔵していた品に、色あざやかな三彩を施した源内焼の『子育馬香炉』があります。源内焼は江戸時代中期、発明家・平賀源内(鳩渓)の指導によって讃岐国志度(香川県さぬき市)で製作されました。胸部に「三春大明神」と彫られていることから、福島県三春地方に伝わる三春駒を象ったものであることがわかります。はじめ平賀源内が製作し、のちに工芸品として普及したようです。使用した形跡があるので、富岡家でも使われていたのでしょうか。鉄斎による箱書きも遺っています。』 鉄斎をも魅了した『三春駒の香炉』。私は時を経ずして、これがヤフオクに出品されているのを知りました。しかしそう安い物ではありません。買うかどうか迷いました。そこで私は、三春歴史民俗資料館に、もし源内焼の『三春駒の香炉』の所蔵がなかったら、買って寄付をしたいとメールをしたのです。ところが資料館から、『実はすでにそれを所蔵している』との返事があったのです。寄付をしようとした気持はしぼみましたが、逆にどうしても欲しくなりました。そこで、意を決っしてヤフオクで落札をしたのです。
2024.11.01
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