三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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1960年、ホノルル・ワイキキの海岸。 参 考 文 献一八七一 三春藩士人名辞典 福島県立図書館蔵一八八五 明治見聞実記 大槻友仙一八八九 福島管内職員録 福島県立図書館蔵一九一八 日本一周 田山花袋 博文館一九二五 甘藷のしぼり滓 勝沼富造 日布時事社一九二八 重教七十年の旅(前編)加藤木重教 電気之友社一九三二 加藤木三老兄弟 湯野尻初太郎 電気之友社一九三七 東京帝国大学医学部病理学教室五十年史 東京帝国大学医学部病理学教室五十周年記念会 戊辰戦争殉難名簿 福島県立図書館蔵一九四三 日本布哇交流史 山下草園 大東出版社一九五〇・九・一二 布哇タイムス(新聞)一九五〇・九・一四 布哇タイムス(新聞)一九五三 移民の父・勝沼富造伝 高橋莞治 ホノルル須田文吉 福島県史 福島県 三春町史 三春町一九五四 明治大事件史 石田文四郎 錦正社一九五六 太平洋戦争 ロバート・シャーロッド 中野五郎 光文社一九五八 福島移民史 高橋莞治 福島ハワイ会一九六四 ハワイ日本人移民史 ハワイ日本人移民史刊行委員会 凸版印刷一九六五 関東軍 島田俊彦 中央公論社一九六六 福島県出身海外移住者名簿 福島県 ガリ版印刷 日韓併合小史 山辺健太郎 岩波書店一九七〇 幸福の探求 ロバート・マレン サイマル出版会一九七六 日系アメリカ人 鶴木眞 凸版印刷一九七八 ハワイ移民の歴史 島岡宏 図書刊行会 福島県移民の記録 第一号 菊池義昭 福島県移民史研究会一九七九 福島県移民の記録 第二号 菊池義昭 福島県移民史研究会 ポーツマスの旗 吉村昭 新潮社 系図文献資料総覧 丸山浩一 緑陰書房一九八〇 河野広中小伝 高橋哲夫 福島民友新聞社 回復された真理 末日聖徒イエス・キリスト教会 菱重出版一九八一 台湾総督府 黄昭堂 教育社一九八二 日露戦争 古屋哲夫 中央公論社一九八五 聖公会宣教八十年 幼稚園創立三十年小史 笹森伸兒 郡山聖ペテロ聖パウロ教会付属セントポール幼稚園一九八六 米国初期の日本語新聞 田村紀雄・白水繁彦 勁草書房一九八七 アメリカ西部開拓博物誌 鶴谷寿 PMC出版 ロスアンゼルスのリトルトウキョウで見た短歌 ハワイ報知創刊七十五周年記念誌 ハワイ報知新聞社一九八八 三百藩家臣人名事典 家臣人名事典編纂委員会 新人物往来社一九八九 アメリカに生きた日本人移民 村山裕三 東洋経済新報社一九九一 The一世・パイオニアの肖像 アイリーン スナダ サラソーン 読売新聞社一九九二 一世・黎明期アメリカ移民の物語り ユウジ イチオカ 刀水書房 日本人出稼ぎ移民 鈴木譲二 平凡社 Encyclopedia of Mormonizm Vol3 Daniel H Ladlow publishing company一九九三 ハワイ・さまよえる楽園 中島弓子 東京書籍一九九四 日本の移民研究・動向と目録 移民研究会 紀伊国屋一九九六 日本末日聖徒史 ウィリアム・マッキンタイヤ 高木信二 ビーハイブ出版 ハリウッドとマッカーシズム 陸井三郎 社会思想社一九九八 江戸から東京へ・明治の東京 近藤和吉 人文社二〇〇〇 アメリカがまだ貧しかったころ ジャック・ラーキン 青土社 Tomizo and Tokujiro:The First Japanese Mormons Shunji Takagi Brigham Young University Studies二〇〇四・六 JCCNC NEWS 野本一平 北加日本商工会議所 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.17
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あ と が き 取材のためとは言い、二度までも渡米することになるとは思いもしなかった。 私が六十二歳で実質的なリタイアをしたとき、何故かペンを握っていた。文学についての素質も経験も、何もかもなかった私がである。それでも私は、若いときに我が家のルーツを調べ書いたことがあった。しかしそれは単なる素人の調査であり、自分のノートに書いただけであるから、人の目に触れることはなかったのである。それなのに、こんな大仰なことを書きはじめたのは、こういうことが原点にあったからかも知れない。 私は自分の生まれた土地をテーマにして歴史のものを書こうとしたとき、あのルーツ調べの手順が参考になった。そして書きはじめてからそう長くはない時間の中で、私はいくつかのものを書き上げた。鎌倉時代、南北朝時代、戦国時代、江戸時代、そして戊辰戦争。これらのことを自分の感覚で、そしてこの地方から見直してみたものである。 ところでこの小説の主人公・勝沼富造を知ったのは自分のルーツを調べていたときであったから、大分以前のことである。それにもかかわらず本格的に彼を調べはじめたのは、二年ほど前のことであった。当時の古い紳士録の「三春」の項に、「福島県移民の父・勝沼富造」とあったのを思い出したからである。私は自分の「地方の歴史」というテーマの中で、彼が幕末から昭和にかけての歴史の証人であるということを、感覚として確認していた。 そこで調べはじめてみると、「福島県移民の父・勝沼富造」と紹介されていた人物にもかかわらず、資料は皆無という状況であった。辛うじて若干の資料が、富造の姉の嫁ぎ先である三春の湊家に残されていたのみであった。そしてその中に書かれていたたったの一行、「彼が日本人最初の末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であった」という記述を見つけて、郡山にある教会に行ってみたことから調査の突破口が開けた。敬虔な教会員である高橋亮氏が、積極的に協力してくれたのである。 そのような中でハワイに行くことになったのは、富造の娘の清水(きよみ)さんが一〇二歳でご存命であったことを知ったからである。入院中のこともあって面会は叶わなかったが、富造の孫に当たる Thomas Katsunuma 氏やGeorge Suzuki 氏と会うことができた。そして高橋氏のご紹介により、ブリガムヤング大学ハワイ校教授のGreg Gubler氏やハワイ大学ヒロ校教授の本田正文氏、さらには私のお会いした翌年の二〇〇三年に亡くなられたハワイ島移民資料館長の大久保清氏などのご指導を頂き、多くの資料を得ることができた。 富造の出身地である福島県や三春にまったく残されていなかった資料が、英文ではあったが、ここハワイに数多く残されていたことが感激であり、私の創作意欲を刺激することになった。「マウナケアの雪」、それがこの小説の題となった。富士山より高いハワイの高山、マウナケアに雪が降るということに、私は驚いたからである。東北は雪国である。三春にもまた、雪が積もる。そこで富造夫妻の望郷の念を、マウナケアに降る雪になぞらえてみたのである。なおケアはハワイ語で雪を、マウナは山を意味するそうである。 それから二年後の今年、私はユタ州ソルトレークやサンフランシスコ、そして再びハワイを訪れた。前回行かなかったアメリカ本土で取材の補強と富造の足跡(そくせき)を追い、その景色を見てみたいと思ったからである。ソルトレーク、ローガン、オグデン、プロボ、そしてサンフランシスコを歩いた。ローガンではコナンさんやニッキさんの尽力で富造の滞在していたアムッセン氏の末裔に会い、当時の写真を手に入れることができた。またハワイでは、この本に昔の勝沼家の家族の写真を掲載することの了承を得た。そして多くの方々の大きなご協力のお陰で、無事取材を終えることが出来たのである。 最後にお世話になった皆様方のお名前を書き添えさせて頂き、私の感謝の気持ちとさせて頂きます。 皆さん、本当にありがとうございました。(上 ホノルル・ヌアヌ霊園。 左下 勝沼富造 右下 ミネ夫妻の墓) お世話になった方々 (敬称略・順不同) 湊耕一郎 富造の親戚 福島県三春町 Thomas Katsunuma. 富造の孫 Hilo. Hawaii George Suzuki. 富造の孫 Honolulu.Oahu Hawaii Committee of Atomic Bomb Survivors 高橋亮 高崎健康福祉大学専任講師 埼玉県熊谷市 佐久間真・藤井典子 三春町歴史民俗資料館 福島県三春町 山口篤二 茨城県古河市 故・大久保清 Hilo. Hawaii Hawaii-Shima Japanese Immigrant Museum. 本田正文 University Of Hawaii. Hilo Campus Hilo. Hawaii Greg Gubler, Ph.D. Laie. Oahu Brigham Young University. Hawaii Campus. Norman D, Shumway. Directors of Hosting. Salt Lake city, Conan P. Grames. Lawyer, Salt Lake city. Chad A. Grange. Lawyer, Salt Lake city. Nikki Davis Lawyer Salt Lake city, Tab A. M.Thompson. Family History Library, Salt Lake city. Van C Gessel Dean,College of Humanities Professor of Japanese Provo. Utah Colleen Amussen Carl Amussenの曾孫 Logan, Utah Masato Sugiura San Francisco ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.16
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そしてこの死亡記事の載ったハワイタイムスの第一面トップが、次の記事であった。 大統領の裁可拒否を覆すことが出来る ウォルター議員が豫言 明後日再通過動議を提出せん ワシントン(國際)九月十二日發 米・布在住の米国歸化権を 與える法案に對するツルーマン大統領の裁可拒否を無効にするた め、同案を再通過させようと云ふ準備が下院に於いて進められて ゐる大統領は同歸化法案を共産主義取締の附帯条件が着いてゐる 理由で、署名を拒否し、か丶る附帯条件は不注意や無智のため知 らずして共産主義團体に關係した者から再び市民権を剥奪する口 實を與え、彼等の言論や集會の自由を束縛し、絶えず脅威にさら される「第二級市民」をつくるものだとの理由を提示し、下院に 對し、この附帯条件を撤廢するよう要請してゐる 三分の二の投票が必要 併しながら、この歸化法案の起草者フランシス・ウォルター下 院議員(下院司法委員會移民歸化文科委員長)はその附帯条件が ついた侭再通過させ大統領の拒否を覆す案を本日發表して再通過 に必要な三分の二の大多数投票を下院で獲得することが出来ると 豫言、また上院も同様の措置をとる自信ありと聲明し、その再通 過の動議を木曜日下院本會議に出すと云ってゐる (九月十二日付 ハワイタイムス) 二日の後の十三日午後三時、富造の葬儀が、ペレタニア街末日聖徒イエス・キリスト教会ワイイキキ側礼拝堂で荘厳に執り行われた。 そして九月十四日のハワイタイムスに、次の記事が掲載された。 故勝沼富造氏の盛大なる葬儀 去る十一日、八十六歳の高齢をもって多彩な一生を閉じた馬笑 庵主人、ドクトル勝沼富造氏の葬儀は昨十三日午後三時よりペレ タニア街のモルモン寺院ワイキキ側禮拝堂で同宗儀式により荘厳 に執行されたが参列者は内、外人約三百名で杖にすがる毛利老ド クドルや外に日本人古老たちの顔も多数見えて名誉棺側者にはロ ータリー倶楽部元會長フレージア、中国人元老シー・ケー・アイ 氏もあり盛儀であった 各團体及び知己より贈られた弔意の花輪、デスプレイは聖壇前 に安置された棺を埋めんばかりで、一同着席後以下のプログラム で式が進められた △司式者 クリソルド會長 △開會の歌 聖歌隊 △開式の祈り 與梠兄弟 △賛美歌「神汝と共に在らん」 聖歌隊 △オルガン獨奏 △三人合唱 △弔辞(英語) 築山長松 △弔辞(日本語) 相賀安太郎 △説教 池上兄弟 △謝辞 親族代表 綿元茂 △閉會の祈り 竹内兄弟 築山上院議長は弔辞に中で英語を知った人の少なかった初期日 本人社會で英語に堪能な同ドクトルが社交界に活躍して日米人の くさびとなった功績なども舉げた 相賀氏の弔辞は文章として朗讀された、以上終って葬列はヌア ヌ記念公園に向ひ同所に埋葬され、一同記念撮影あって散會した そしてこの富造の葬儀の十三日の将に当日、首都ワシントンでは、ウォルター・マッカラン混合新移民帰化法案がアメリカ議会下院で三分の二以上の賛成票を得たことによって、トルーマン大統領の署名拒否をくつがえして成立した。そしてこの葬儀の記事の載った十四日付のハワイタイムスの第一面トップが、次の記事であった。 ウォルター歸化案 けふ下院を再通過 大統領の裁可覆へさる 上院で同様の措置をとれば立法化 ワシントン(合同)九月十四日發 下院は本日三百七對十四票 を以て、共産主義排除の厳重な規定を持つウォルター歸化法案を 通過しツルーマン大統領の同法案裁可拒否を覆した、これは裁可 拒否を覆すに必要な三分の二の票数を九十三票も凌いで居る、若 し上院が、同じく三分の二の評決を以て拒否を覆せば同法案は法 律となる (九月十四日付 ハワイタイムス) ミネは、富造が晩年よく読書をしていたベランダの椅子に座ると、たしかに日本に続いている筈の目の前の太平洋を見ていた。そして富造の言葉を思い出していた。「アメリカにはいろんな人種がいる。そのいろんな人種でアメリカの社会ができている。多民族、多文化の国家こそがアメリカなのだ」 しばらくして座っていた椅子からミネは立ち上がった。その顔は、深い寂寥感に満ちた望郷の思いに沈んでいた。「あなた。あなたが長い間主張していた市民権の獲得が、ウォルター・マッカラン混合新移民帰化法案として、十三日にやっと下院を通過しましたよ。これで私たち日本人もそして日本の文化も、アメリカの社会に受け入れられることになりました。あと二日、せめてあと二日生きて、この法案が下院を通過するところを、そしてトルーマン大統領の署名拒否をくつがえすところを、あなたに見ていて欲しかった」 海の青さの中で、珊瑚礁に砕ける輝く白い波は、故郷の雪を思い起こさせていた。「ああ、日本に帰りたい、あなたと一緒に、三春に戻りたい」 (末日聖徒イエス・キリスト教会ワイイキキ側礼拝堂 (完) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.15
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富造は、よくミネに話しかけていた。「なあミネ。アメリカは強いだけに独善的な方向に進むことがあるが、必ず正当な方向へ戻す力がある。だから俺は、いずれアメリカはアメリカ自身による人種差別を克服する時期が必ず来ると信じている。俺はこのアメリカという素晴らしい国に住めたことを、心から感謝している」 やがて富造は老衰も加わり、ホノルルのクアキニ病院に入院した。「えっ? あなた、なんですか?」 ミネは富造のベットに覆いかぶさるようにして、耳を近づけた。子どもや孫達が集まっていた。「『二つの祖国とはなんだったのか・・・』ですって。そんなこと急に言われても私にはね・・・。返事のしようがないわ」 ミネは苦笑した。 また何かを、懸命に話そうとしていた。「『そのうち、マウナケアに雪を見に行こう』と言っているわ」 そう周囲に言ってミネは、第二次世界大戦がはじまってしまって行けなくなったときの約束を思い出した。思わず、「そんな・・・、今はまだ九月ですよ。雪の降る訳がないでしょう?」と言いかけて、ふと言いよどんだ。 しばらく、沈黙が続いていた。富造の意識が混濁してきたと思ったからである。ミネは富造の手を強く握りしめていた。「あなた頑張って、私たちのためにも頑張らなくては駄目……」 ミネにとって死を含む言葉はおぞましく、「あなた死なないで」という言葉を口にすることできなかった。富造が、近づけたミネの耳元にやっと届くような小さな声で言った。「ミネ。お前のお陰でいい人生だった。ありがとう」 ミネの目からどっと涙があふれ、嗚咽がもれた。そしてようやく、ようやくの思いで富造にそっと声をかけた。「あなた、安達太良山にも雪が降りましたよ。間もなく三春にも降るかも知れませんね」 今度は富造の顔が、かすかに微笑んだように思えた。 ミネは気丈にも富造の死に水をとった。そのミネの頬を、涙が伝っていた。「あなた、長い間ご苦労様でした。お陰で私も子どもたちも幸せでした」 しかしその先の言葉が、続かなかった。集まっていた家族の嗚咽が、病室でくぐもっていた。そして富造の傍らでは、牧師の祈りの声が静かに流れていた。 一九五〇年九月十一日、富造はついにその生涯を閉じた。享年八十六歳、天寿を全うした大往生であった。 ミネは屏風を逆さにして立て、富造を北枕にすると顔を晒布で覆い、日本刀をその胸元に置いた。勿論これら一連の行為は、末日聖徒イエス・キリスト教にはないものである。しかもその胸元の日本刀は、富造が離日に際していまは亡き父の直親から贈られ、大事にしていたものであった。 (雪のマウナケア) 翌日、内外の新聞は一斉に富造の死去を伝え、筆を揃えて彼の生前の功績を讃えた。 九月十二日付 ハワイタイムス ハワイ同胞の草分け 馬笑庵勝沼富造翁逝く きのふ八十六歳の高齢で ハワイ同胞界の古老で、戦前、日本人社會の公共事業に貢献し てゐた「馬笑庵」こと勝沼富造翁が、きのふ午後三時二十三分ク アキニ病院で八十六歳の高齢をもって昇天した。 故勝沼翁は、一八六三年十一月十一日、福島県三春の藩士故加 藤木直親氏の三男として出生した。 多彩な一生 故勝沼ドクドルは、非常に世話好きで、第二次世界大戦が勃發 して引退する迄、公私共によくつとめ多数の知己を有し、多彩な 生涯を送った。翁の生涯左の如し △一八六三年福島縣三春に出生 △郷里の小學校を終へ東京の大學豫備校から駒場の獣醫科を卒 業後渡米 △ユタ農科大學で獣醫科を専攻、卒業後同州ローガン・シチ ー及びシカゴで獣醫を開業△ 更にユタ農科大學の助手を勤む 日本人初のモルモン受洗者△ ユタ在住中、日本人として初めてモルモン宗のバブテスマを受く △ローガン・シチー在住中米国に歸化を許さる △有名な民主党大統領候補ウィリアム・ゼニンクス・ブライア ン氏が立候補した時、最初の投票を行ふ△ 一八九八年、ハワイ移民會社の招聘を受けて来布して当地に落着く。戦前永らく 日本人慈善會伏見宮記念奨學會その他多数の公共團体に奉 仕。ホノルル・ロータリー倶楽部會員にも推薦され、布哇タイ ムス社の副社長も勤めてゐた△筆まめで「馬笑庵」のペンネームで戦前、日布時事に「日記の 七徳」を連載する外「甘蔗のしぼりかす」など著書もある △晩年は現住所メトカーフ街二三〇四に静かな餘生を送り数年前 より病床にあり、二ケ月前病勢悪化しクアキニ病院に入院中で あった あす告別式 勝沼家では今晩八時よりヌアヌ記念公園葬儀所に於いて(この 間の十二字が判読不能)家次男宇土朗直親氏、長女エワの鈴木恵 次氏夫人キヨミさん、次女羅府の齋藤徹夫人靖さん、三女桑港の ヘンリー・トム夫人ヨシ子さん、それに孫が八人ある 棺側者氏名 故勝沼ドクトル葬儀の棺側者として左の人々が選ばれた △名誉棺側者 相賀安太郎 奥村多喜衛 毛利伊賀 シー・ケー・アイ 泰 虎雄 渡邊次郎 熊田儀助 牧野金三郎 勝木市太郎 岡崎 星史朗 王安梅 チャールス・アール・フレージア △棺側者 岸敏郎 安藤要助 松尾達朗 鈴木ジョージ 泰忠雄 相賀 重雄 写真は故勝沼翁 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.14
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六月、マッカーサー連合国軍最高司令官は、アメリカ政府の意を受けて日本共産党中央委員会の追放を指令した。いわゆるレッドパージである。そのような中で、アチソン国務長官は、「米国の防衛線は、アリューシャン、日本、沖縄、フィリピンにある」と演説、共産主義の浸透を恐れていた日本に喜びの声が上がった。韓国ではこの演説から共産主義者に侵略されてもアメリカは助けに来ないと感じて、失望と批判の声が高まった。それには、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相が「一九五〇年こそ祖国統一の年」との声明を発表し、不穏な動きになっていたこともあった。 間もなく韓国国防部長は、「北朝鮮軍が三十八度線に兵力を集中させている」とコメントし、李承晩韓国大統領も、「北辺に危機が迫っている。五~六月には、何が起こるか分からない」と記者会見で発言した。それらは、新たな戦争を予感させていた。「こんな騒ぎで折角のマッカラン・ウォルター法案は、どうなるのかな? 年のせいか気が揉めて仕方がない」 富造がそう言うのをミネは慰めようとしたが、それは出来なかった。夫にそう言われれば、ミネもまた気ぜわしさを感じたからである。「しかしあなた。いくら気を揉んでも私たちにはそう時間はありません。この運動を続けることは時間との競争だけで、もう意味がないのではありませんか?」「何を言うかミネ! もし俺たちの世代が死んでも、これから移民してくる人たちは一世になる。それら後から来る人たちに対しても、頑張らなければならない。これはわれらの移民の世代から、次世代移民へのまたとない贈り物になる筈だ。それにそれ以上の理由は、これが国会を通過することで、日米親善が本物になるということだ」 新たな戦争の予感の中で対日講和条約が締結に向かって動きはじめた。日本国内は、単独講和か全面講和かを巡って紛糾していた。 そしてこの月、美空ひばりがアメリカ軍の招待を受けて、ハワイ公演が開かれた。この一般公開には、日本の文化に飢えていた多くの日系人が熱狂的に歓迎し、押し寄せた。戦争に負けたという感覚が、この一事をもって消え去ってしまったかのような騒ぎであった。富造はラジオ放送で美空ひばりの歌を楽しんだ。「りんご追分など、津軽の歌がいいな。なにか寒さや雪に郷愁を感じる」「そうですわね。私は特にあの歌の間のモノローグがいいわ。三春の言葉を思い出しますもの」「やはり同じ東北なのだろう。北端の津軽と南端の福島だが、発音にどこか似たところがある」 二十五日、突如、北朝鮮軍が韓国に攻め入った。十分に鍛え上げられ、ソ連や中国の兵器で身を固めた北朝鮮軍は、発足まもない韓国軍と少数の在韓米軍に襲いかかった。不意打ちを食った米韓軍は敗退を重ね、翌々日には首都を水原に移転する事態となり、六月二十八日にはソウル、仁川、それに首都を移したばかりの水原が陥落し、さらに首都を大邱に移転した。 この朝鮮での戦況激化のなかで、対日講話条約を結ぶ動きが具体性を帯びてきた。この条約を結ぶ目的は、アメリカの兵力を日本に置くことと、日本をアメリカの政策に取り込むことにあった。しかし国防総省筋には、そうすることはかえって日本が危急に追い込まれたときに、アメリカが七万九〇〇〇キロメートルの供給線を超えて防衛の義務を負うことになり、一方に大戦争を遂行しつつこうした義務を果たすことには耐えられないだろうという意見もあった。「また戦争か。いずれ人は必ず死ぬのに、同じ時に生まれてきた若い者同士が何故戦わねばならぬのか? 殺し合うことに何の意味があるというのか?」 富造はミネを相手に、議論をふっかけていた。 そして平和の使者のように飛んできた雲雀(ひばり)は、戦いのはじまった極東へ帰っていった。 アメリカでは共産主義者取締法が成立し、対北朝鮮戦への意識が強まった。 七月五日 烏山陥落。 六日 平沢陥落。 八日 天安陥落。と戦況は悪化する一方であった。このような事態を受けてマッカーサー連合国軍最高司令官は吉田茂総理大臣に書簡を送り、在日米軍の韓国移動に伴う日本の治安維持のためとの理由で警察予備隊七万五〇〇〇名の創設を求めた。アメリカは日本が友人であり、同盟国であることを必要としていた。 二十日 太田、群山、光州陥落。 二十四日 木浦、宝城、麗水陥落。 二十五日 河東陥落 八月、創設を求められてから一ケ月後という短期間で警察予備隊が発足した。応募した多くが旧軍関係者であった。 二十日 韓国は首都を釜山に移転。「このままでは国連軍が日本へ撤退し、日本が戦場になるのではないか?」 病床から動けなくなっていた富造は、ミネにそう言って心配した。「そんなあなた、世界中から集まった国際連合軍が戦っているのですよ。大丈夫、負けるはずがないでしょう。今になってそんな弱気吐いちゃ駄目でしょう」「そう言われても・・・、人間はどんな人でも、弱気になることがある。弱気を隠して虚勢で生きることもあるんだ」 富造は小さな声で呟いた。 この頃、門司港に米兵の遺体が着くようになった。日本の港湾労働者たちは二人組で遺体の両手両足を持ち、これらの陸揚げをした。遺体は、白人より黒人が多かった。白人の遺体は粗末ではあっても棺に入れられてくるものがあったが、黒人はほとんどがドンゴロスと呼ばれる麻袋に入っていた。「死んでからもこんなに差別されるのか」腹立たしさがわいた。 (朝日新聞二〇〇三・七・二九 六面) 九月五日 北朝鮮軍、永川に突入 在韓米軍の日本への引揚説や、韓国政府が済州島に移り第二の台湾となる噂などが囁かれていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.13
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一九四九(昭和二十四)年四月、北大西洋条約機構が成立し、九月、ソ連は原爆の保有を公表した。十月には中華人民共和国が成立して中華民国は台湾へ撤退、中華人民共和国軍は台湾を望む海岸に展開して台湾解放の姿勢を示していた。戦争の火種は、世界中に散っていた。 ハワイでもアメリカナイゼーションについての問題意識を持っていたキモトやコージ・アリヨシらによって、共産主義運動が広がった。ハワイの白人が言うアメリカナイゼーションとはヨーロピアナイゼーションを意味し、非白人的な習慣や制度を改めるホワイタイゼーション(白人化)を指向していたのに対し、彼らはアメリカンデモクラシーの理念を言葉通りに捉え、白人以外にも適応されるべき真の民主化を目指していた。それはまた白人の既成権力に対抗して、弱き者の立場で自由と正義の闘士たらんとする日系人のヒロイズムが、濃厚に表れていた。「時代は変わった。いつの間にか若い者が成長した」 そう言って病床で喜ぶ富造の意志に反して、アメリカ議会は共産主義者取締法を成立させ、赤狩りがはじまった。戦前、戦中、戦後のこの次期までの十年間を通じて、非米活動委員会は反ファッシストという当初の設置目的とは反対に、南部出身者の多い超保守派、白人至上主義者、反ニューディラーと反リベラル、反ユダヤ主義者、人種差別主義者、親ナチ、親フランコ分子などの結集の場となり、悪名高い数々の逸脱行為をやり、とくに赤狩りとニューディール反対では悪名を轟かせていた。そしてこの下院非米活動委員会はもとより、やがて上院でもつくられて同種の思想警察的な調査活動をやることになるマッカラン委員会(国内治安委員会)やマッカーシー委員会(政府活動調査委員会)などでも、議員たちに劣らず大きな役割を果たすことになる委員会の主任調査委員や調査スタッフのほぼ全員が、FBI(連邦調査局)の元捜査員という経歴をもっていた。 日独伊という枢軸国が敗れた結果、世界各地に軍事的空白が生じた。そしてアジアから中近東にかけて多くの植民地が独立していった。しかしその多くがソ連の共産主義に傾倒していった。それが米ソの冷戦に拍車をかけていた。 この冷戦下で起こったこのような事態は、アメリカに共産主義者への締め付けを強めさせていた。再びジャッド議員が、一九四七年に提案し否決された法案の改正案を、国会に提出した。この改正案は、一九二四年にアメリカ政府が排日移民法を実施して以来、移民及び一世のアメリカ国籍取得を禁じてきたことに対する改正法であった。アメリカは憲法により、自国で生まれた全ての人々に市民権を与えていた。そのため二世は自動的に市民権を得ることができたが、一世にはその機会がなかったのである。ジャッド議員は、そこのところを突いていた。「アメリカに永住している約九万の帰化不能の日本人に帰化権を与える。次いで朝鮮人、その他の帰化不能のアジア人に対し、すでに中国人、フィリピン人、インド人などに与えられているような移民割り当てを適用する」 しかしこの年にアメリカ国会に提出されたこの法案は、下院にて圧倒的多数で可決されたものの、上院で南部を代表する議員の反対にあい、棚上げとされてしまっていた。 富造は、看病をしているミネを相手に言った。もはやあれほどまでに力を入れていた社会活動が、出来なくなっていた。「一世の市民権獲得の一番盛り上がっているこの時期に、何もできないということは、切ないな……、辛い……」「大丈夫です、あなた。身体さえ元に戻れば、また活動はできます。昔からの皆さんも、待っていますよ」「それにしても、ようやく自分たちのアイデンテティが認められるかも知れないと分かった今、われわれ日本人たちが本当の意味でのアメリカ化の意味が理解でき、そして実行できるような気がする」 富造はそう言った。「しかしアメリカに帰化するということは、アメリカに同化するということではない。むしろ国籍のような外的要因とは関係なく、日系アメリカ人といった文化的な面でアイデンティティを確認する努力も必要だ」 そうも言っていた。「とにかく理由はなんであれ、日本人移民に市民権を与えるというこの法律を通すチャンスは生かさなければならない。いつまでも一世は竹(一世も竹も決して押しつぶされても折れることがない)、二世はバナナ(中は白いが表は黄色)、三世は蜂(白と黄色の花の間を飛ぶ)、四世は卵(外は白いが中は黄色)などと言わせたくない。そうだろう? ミネ」「そうですね。それこそが人種偏見そのものですものね」「確かにわれわれ日本人移民は、アメリカという大国と日本という大国の狭間で翻弄されてきた。しかし考えてみると、この二つの大国に本当に翻弄されたのは、この島の主人であったハワイ人だった。つい自分たちばかりにかまけてしまったが、これは決して忘れてはならないことだな」 そう言いながら富造は考えていた。 ──極言すれば、独立国家であったハワイ王国を滅亡に追い込んだのは日本とアメリカであったのかも知れない。東洋(日本)と西洋(アメリカ)の確執が、太平洋の真ん中(ハワイ)で衝突したのだ。先住民抜きで扱われてきた歴史は、いずれ修復されなければならない 一九五〇(昭和二十五)年、ハワイではもう一つの大問題が進行していた。ハワイ立州案である。ハワイ立州法案に反対する勢力にとって、ハワイの共産主義者の勢力拡大の運動は格好の攻撃材料となった。ハワイ立州法案が下院では通過しても上院で否定され続けた背景には、アメリカ本土の赤狩り旋風があった。東西冷戦の激化で共産主義に対する警戒が強まっていたアメリカでは、「ハワイをアメリカの一州として認めると太平洋の中央に共産主義の要塞を合法的に築くことになり、アメリカ議会にも共産主義者の侵入を許すことになる」と言って反対した。さらに共産主義に限らず、異質なイデオロギーは排除され、反黒人、反ユダヤ人、反カトリック、反社会主義、KKKの活動も最盛期を迎えていた。 これらアメリカの共産主義的なもの、そして外来的なものへ強い反発を示す排外ムードの中で、アメリカの原点たる建国期のアメリカ人の思想に回帰する保守的心境が強まっていた。それはすなわちWASP的価値観を中心(伝統)とするアメリカニズムであり、そのための客観的真理の追求であった。それらは単にプロテスタントの伝統という立場からだけではなく、カトリック教徒はローマのヴァチカン宮殿に第一の忠誠をささげる者、共産主義者はモスクワのクレムリン宮殿に第一の忠誠をささげる者という疑念はそのまま日系人にもあてはめ、日系人は東京の天皇に第一の忠誠をささげる者という具合に排斥運動の思想的枠組みは利用されたのである。この客観的真理を追究するという作業の中から、結果としてアメリカの欲する一元的価値への収斂が期待されることになった。そのために、これに合わない各種多様な文化は淘汰される、という事実が発生した。つまりこのことは、アメリカにおいてはWASPの文化を中心として、そこで認められる範囲での文化が許容されるに過ぎない、ということになってしまったのである。 そしてこのことはまた、戦前戦中の大日本帝国にも当てはまることであった。神国的価値観を中心に据えた大日本帝国は、帝国の主張するところの客観的真理に合わぬ日本人を隔離し、外国人を排斥した。アメリカと同じように、日本帝国の欲する一元的価値への収斂を期待したからである。 ──ハワイ王国が存立を否定されるのに、如何に多くの影響を海外から受け、日米確執の大きな余波をまともに受けたか? このことはまた富造の心の中に、ハワイに対して何も出来なかったという意味において、深く残念なこととして刻み込まれていた。 マッカーシー議員は、国務省職員の中にいる共産党員二〇五名の名簿を入手したと爆弾発言をし、上院でその問題を繰り返えし主張していた。日本を自由陣営に留めておく必要を感じたアメリカは、共産主義者の取締りと日本人一世にアメリカ帰化権を与えるということをセットとして上程したのである。それがマッカラン・ウォルター法であった。この上程はまた、当時アジアへの共産主義の浸透を恐れたアメリカが、日本をその防波堤にしようとする目論見が見え隠れしていたことになる。そのためアメリカの社会では、賛否両論の伯仲していた問題の法案でもあった。しかしこの法案が含む共産主義者の取締りはともかくとして、帰化権が得られるということから、日本人一世には大歓迎されていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.12
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マ ウ ナ ケ ア の 雪 教会は二つの祖国の間に揺れる富造の心の支えであり、日系人の交流とまとまりの場であった。 何か日本に問題があるたび、日系人たちは祖国と共に非難にさらされた。「いろんなことがあり過ぎた。日本人学校をつくったのは、祖国を忘れさせないためであった。それが本来、国家と個人は別な筈なのに、結果としてそれらを一体化しようとしてしまったことになった」「相賀、そう自分を責めるな。俺だってあの大本営発表の嘘を見抜けなかった。日本が負けてはじめて、その本質を知ったんだ」「しかし此処こそが、われわれにとって祖国になるわけだ」「うん。それはわれわればかりでなく、子々孫々永久にわが祖国であるということだな。それに一世に市民権が与えられれば、完全に法的根拠も得ることになる」 戦後の日本から困窮のニュースが流れてきた。富造らは、もう止めようと思いながらも、また日本救済の義捐金募集の運動をはじめた。「これが最後のご奉公かな。しかしこの言葉も死語になった筈だ」 そう独り言を言うと思わず苦笑した。彼はこのときすでに病気が進み、全財産も投げ出していた。「それにしても相賀。日本では、植民地の相次ぐ独立は日本のお陰だ、などという者もいるそうだ」「それは見当違いも甚だしい。確かに植民地から独立した国は多い。しかしそれは日本が起こした戦争という意志からではなく、日本の敗戦による結果論に過ぎない。現にそれらの独立はアジアにとどまらず、中近東からヨーロッパにまで及んでいる」「日清、日露、日中など勝ち進んでいるうちは気付かなかったが、それにしても負けてはじめてこの戦争の意味を考えたとき、せめて国のために戦死したと思いたい日本の戦没兵士の家族や戦災被害を受けた人たちの気持ちは分かるが・・・」 アメリカ議会は日系アメリカ人立ち退き補償請求法を成立させ、強制立ち退きにより被った経済的損失の一部を取り戻す法案を成立させた。これにより三八〇〇万ドルが支払われたが実際の損失からは程遠く、効果の見えぬ金額であった。「しかし金額はともかく、アメリカはアメリカ自身でその非を認めた。こういうことこそがアメリカをアメリカたらしめている。やはりアメリカは素晴らしい国だ」 富造は、家にいる時間が長くなった。長期に亙った人種差別への抵抗、そしてあの日本救済の義捐金募集の運動の激務が、彼の身体を更に蝕んでいたのである。日本に続く海の見える家のベランダで、新聞や読書に費やす時間が長くなっていた。新聞は大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の成立、ベルリン封鎖を伝えていた。そしてイスラエルの建国は、中東戦争を勃発させた。 ──戦争が拡大しなければいいが。 富造はそう思った。 そして新聞は、オアフ島に戦死した兵士を祀る国立共同墓地(パンチボウル)の開設を知らせていた。 ──戦場で死んでいった若者たちはふるさとを夢に見、妻や恋人のもとに帰る日を待ちわびていたろうに。われわれは常に彼らを思い起こさなければならない。もし彼らが世界に忘れ去られることがあったら、彼らは本当に無駄死にをしたことになる。 そう思いながらも白い十字架が整然と並ぶ国立共同墓地を見て、富造は違和感を感じていた。 ──キリスト教徒ばかりではなく、仏教徒や他の宗教の戦死者もいるのに。 そう思っていた。(パンチボウル国立墓地・現在は宗教色を払拭するため十字架は外され、鋳鉄製のネームプレートのみが整然と並んでいる。またここには宇宙船事故で亡くなったオニツカ氏も祀られている) 富造の開いた新聞に、極東軍事裁判判決の執行が記載されていた。「A級戦犯 東条英機ら刑死」 そしてあの沖縄戦での悲しいエピソードが伝えられてきた。海軍沖縄方面根拠地司令官の太田実海軍中将が、自決に際して発した電文である。「県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、なお砲爆撃や風雨にさらされつつ、乏しき生活に甘んじありたり。しかも若き婦人は、率先、軍に身を捧げ、看護婦炊事婦はもとより砲弾を運び挺身斬込隊にすら申し出る者あり。一木一草焼土と化し、糧食六月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」「これは辛い話だ。それなのに沖縄県は琉球として日本から切り離され、アメリカ軍の軍事基地となっている。将来はアメリカのテリトリーになるのではないだろうか。あの血を吐くような太田司令官の遺志は、生かされるのであろうか?」 このころ富造は病床にあり、ミネを話し相手にすることが多くなっていた。「ドイツ、ベトナムに続いて朝鮮が三十八度線で分断された。本来なら日本が分断されるところでなかったのではないか。あの分断は、日本の身代わりであったのではないかと思う。アメリカによる原爆投下が日本占領にソ連を加えず、朝鮮分断という譲歩を引き出したのではないかと思う」。 富造はそう言った。「それにしても、あの原爆とはなんであったのだろう。原爆製造に成功したあのとき、アメリカはソ連の参戦を不要と感じたのではあるまいか。自ら持ち出した参戦の要請を、原爆を落として見せることでソ連に手を引かせようと思ったのではあるまいか。 そうも話していた。しかしアメリカの新聞論調は別であった。「宣戦布告なしで戦争を仕掛けた日本が受けた自業自得」「原爆は早く戦争を終わらせ、アメリカ兵士をはじめ多くの人を戦禍から救った」 そう主張されれば、それは無理にでも納得せざるを得なかった。「しかし原爆を落とした兵士とすれば、そしてそれのことを追認せざるを得なかったアメリカ国民とすれば、そう主張しなければ勝利がアンフェアであったという意見に加担することになる。つまり、勝利を否定することになる」 アメリカは原爆を兵器つまり科学技術としてこれを捉えようとし日本は被害者たちの無念という情感でこれを捉えていた。被害者(日本・敗者)と加害者(アメリカ・勝者)では、自ずと視点が違っていた。 アメリカ政府による原爆被災の実情の隠蔽は、戦後七年にも及んでいる。そのためアメリカでは、原爆は単なる巨大な爆弾と思われていた。それであるから放射能の後遺症などということは知る由もなく、その一瞬の死者数は、日本上陸作戦の際のアメリカ兵の死者数と比較して考えられることになった。 ──戦争は誰をも敗者にする。勝者などどこにもいない。それにしても日本にとってこの戦争は、どんな意味があったのであろうか? 日本が負けてはじめて問う、富造の疑問であった。 この年、日本国会の衆議院本会議において、自由党の松田竹千代議員の説明により、在米州在留同胞に対する感謝決議案が満場一致で可決された。 この記事を読んだとき、富造は心の底から喜んだ。「ミネ。これでわれわれ日本人の存在が、ようやく母国に認められたぞ」 富造が嬉しそうな顔をして言うのを、ミネは久しぶりに見せた笑顔だと思った。「あなた、よかったですわね。あなたたちの努力が少しは報われましたわね」「いやいや、まだまだだよ。われわれ一世の移民たちが、アメリカの市民権を得られるようになるまでは終わらないよ。現に南部の諸州では、いまだに学校やレストラン、バスの座席に至るまで黒人と白人を峻別する法律が生きているんだ。この差別が無くならない限り、日本人も駄目かも知れぬ」 そう言いながらも、富造は日本という国に対して矛盾を感じていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.11
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感状が授与されたのち一人の二世兵士が言った。「私たちが日本人の子孫であることは、思考の外に投げ出しても構わないものだろうか。人種と祖先は問題にしないとアメリカは言った。その積もりで戦線の人となった。然しこの際敵がドイツ兵であったことは何よりの幸いであった。若し日本人と戦っていたら更に惨虐に、更に敵意を沸き立たせて降伏してくる者まで撃ち殺していたのかも知れないのだ。真珠湾の暴挙を忘れているのではなかった。あの時燃え立たせた憤りの思いも、記憶の外に抛り出して了った訳ではない。許しておけないと思ったのだ。それは極めて自然だった。そう考えるのには、何の躊躇もいらなかった。われわれは日本人ではなかったのだ。・・・バンザイを叫んだのは決して偶然ではなかったのだ。私たちの血の中に流れていたものが、させた業である。そう思いたかった。無理にもそうだと納得させなければならなかった。今になって、日本人になって了ったのか。それは残酷というものであろう。意志を持て、意志が救って呉れるではないか。然しそれも無理な注文であった」 アメリカ連邦議会は、公聴会を開いてハワイ領土を正式な一州とするかどうかの再検討をはじめた。それに合わせたように、日系人の動きは積極的であった。ハワイ領土下院議員選挙において、ミツユキ・キドを当選させた。それには労働組合を強力な味方とし、日系二世の帰還兵たちに支持されたことは大きかった。「ようやく日本との戦争が終わったような気がするな」 富造はミネに同意を求めるかのように言った。 戦中から、移民官事務所は開店休業であった。移民がいないのであるからそれは当然とも言えた。ある日、富造が移民官事務所で書類の整理をしていると、緊張した顔で一人の男が入ってきた。「どうした」 富造が日本語で声を掛けると男の顔が緩み、みるみる涙が溢れてきた。事務机の横の椅子に座らせて「なにか困ったことでも起きたのか?」と訊いた。男は「マウイ島から逃げてきた」と言うと、堰を切ったように話しはじめた。 マウイ島へ渡っていたその男は、アメリカの砂糖会社カミコウシナ・カンパニーの砂糖農場で働いた。畑に水を引くための仕事、そして工場内での仕事や除草薬の撒布、運搬のための鉄道線路引き等の仕事をした。それから砂糖会社に山から水を持ってくるため、発破をかけてトンネルを作った。そんなときダイナマイトの爆発で怪我人が出るが医者はいない。するとその怪我人を谷間に投げ捨ててしまう。白人は自分の気に会わない人は殺してしまう。砂糖会社に反対する人、体が弱い人もそうなる。沖縄県から来たある青年は、英語が分からず仕事できない。すると二ヶ月ぐらい経ってから、石油かけて焼き殺してしまった。「日本の総領事がいるのはマウイ島じゃなくてオアフ島です。だからマウイの労働者が訴える場所がありません。砂糖を入れる樽の中に隠れて、砂糖会社の貨物船に乗って訴えに来たのです」「そうか、分かった。これは俺一人の手には負えない。一緒に領事館に行こう」 男の顔がパッと明るくなった。 このころは日本の総領事館はなく、スウェーデンの総領事が監理代行していた。 ──スウェーデン人相手では難しいかも知れない。しかし二世部隊が命を捨てて守ったものを生かさなければ、多くの失われた命が無意味になる。 富造は疲れを押して、男を連れて外に出た。 五月、日本では憲法が公布され、それと同時に極東軍事裁判(東京裁判)が始まった。しかし世界の方向は、平和へばかり向いてはいなかった。インドシナで戦争がはじまり、ビキニ環礁では原爆実験が行われたのである。「ビキニは、ジョンストン島のすぐ西の環礁だ。するとここにも、放射能の雨が降るのではないか? 漁船にも悪影響が出るのではないか?」「私もそう恐れているが、敗戦国日本の生まれを考えれば、政府へ批判がましいことは口にも出せないな」「それに日本からのニュースによると、満州で捕虜となった日本兵がシベリアに抑留され、強制労働をさせられているらしい。そのための死亡者も多いらしい」「そのことだが勝沼。ソ連は日本人をシベリアに抑留し、強制労働をさせることによって日露戦争やシベリア出兵、関東軍特別演習の仕返しをしている積りかも知れないな」「えっ、本当か? 相賀」「いや、これは私の推定だよ、推定」 富造は無口になっていた。彼の気持ちは、日本(天皇)とアメリカ(民主主義・日系人の地位向上)との間で大きく揺れていた。それはまた移民たちの心の揺れと同じであった。それでも今までは揺れていたからこそ指導する意味もあったし、生きる目的があった。しかしこれからはアメリカだけである。人種偏見を含んだ民主主義の中で、祖国というアイデンテティを失ったまま生きなければならないのである。日本を捨てなければならない寂寥感が、彼を無口にしていた。しかし一方でこの年、ハワイ最初のエスニックによるストライキが起き、労働者は自分たちではじめて賃上げを勝ち取った。 七月、トルーマン大統領はホワイトハウスに第四四二歩兵連隊を呼び、アメリカ軍史上最多の勲章を授けると同時に次の賛辞を付け加えた。「諸君は敵と戦っただけでなく、偏見とも戦い勝ったのです。今後も諸君は、勝ち続けるであろう」 称賛は受けたが、多くの二世たちの生活は強制収容所から解放された家族と一から出直しであった。「戦って祖国に帰ってきたのに『日本人は出て行け』の横断幕が張られ、ショーウィンドーには『日本人には売らない』と書いてあった。われわれはドイツで白人を助けるために命をかけたのに、祖国では白人の誰もが私の家族を守ってくれなかった」 それでも帰還した日系二世兵の多くがGIビルの恩恵を受け、ハワイ大学や本土の大学で勉強を再開した。そして彼らの多くが高学位を取得し、医師、弁護士という職を得つつあった。このように社会で高い地位を得たいと望んでいた二世帰還兵のなかに、変革のための近道は政治に携わることだと考える者も出た。それが四四二部隊で右腕を失ったダニエル・イノウエやダン・アオキらであった。 (注 GIビル、G.I.Bill of Rights Servicemenユs Readjustment Act of 1944 戦争帰還兵に、教育を受 けるための財政的援助やその他の恩恵を与えることを定 めた連邦法) 連合国軍総司令部は国際郵便業務の限定的再開を許可し、一個あたり十一ポンド(約五キログラム)を超えないと言う条件で、外国居住者が食糧、衣類、石鹸、医薬品などの救援物資の入った小包を送ることが可能になった。これを受けアメリカの教会員たちは教会福祉制度を通し、住所が確認された日本人教会員に救援物資を送りはじめた。この他にも在米の全日系人が、ララという組織で援助物資を送りはじめた。 モスクワの外相会議(米英仏ソ)が決裂し、中国で国共(国民党対共産党)内戦が先鋭化した。アメリカは即座に国府(国民党政府)軍に武器の援助をはじめ、共産主義諸国の封じ込め政策を発表した。米ソ間の冷戦が戦火となった。アメリカはフィリピン独立させ、イギリスはインド、パキスタンの独立を認めた。「あの世界を巻き込んだ第二次世界大戦が終わってたった二年、また戦争がはじまるのか? すると平和とは、本当に束の間のものに過ぎないな」 ハワイの中国人移民も二派に分かれ、それぞれが各々の意見を主張していた。「つい二年前までの日系人社会と同じだな」 富造は、やるせない思いに苛立っていた。「ところで相賀、一九三六年に通過した「東洋人在郷軍人帰化権付与法」だけでは不備だとして、ウォルター・ジャッド議員が「日本人一世に市民権を与えよ」との提案を国会に提出したと言うことだが、知っているか?」「うん知っている。それにしても否決されたとは残念だった。ジャッド議員は、二世部隊の奮闘を知ったことがこの法案提出の大きな理由であったそうだが、それにしても、われわれも積極的に動くべきだったと反省している」「いや、それは難しい。日系人がこれに応じて団体行動をすると、そのこと自体が共産主義とみなされそうだし、かってのように排日運動にもなりかねない。それにしても東洋人在郷軍人帰化権付与法成立から十年も経つんだな、息の長い話だ。われわれも生きている間に、この法律の通るのを見ることができるかな?」「なんだ勝沼、気の弱いことを言うな!」 前年にトルーマン大統領がハワイ立州化を強く支持し、議会に承認を求めるよう訴えていたこともあって、ハワイ立州案がファーリントン議員により提案された。しかし八月、この立州案はアメリカ下院を通過したが、上院では否決されてしまった。ハワイ立州案が提出された裏には、ハワイにおける共産主義の成長にもその一因があった。領土政府という間接的な統治ではなく、州という直接的な統治に変えなければという危機感も強まっていたからである。 国際労働者同盟が結成され、波止場地区の労働者や工場労働者、それに砂糖キビやパイナップル農園の労働者も組織化されていった。また国際労働者同盟による指導ではじめられたパイナップル産業のストライキは期間こそ一週間と短かったが、暴動に発展した。急進的な運動は他の産業にも波及し、組合労働者勢力の拡大はハワイの社会や政治経済を大きく揺さぶっていた。アメリカ政府は共産主義の進出を恐れていた。そしてストライキは共産主義者の策動と見られていた。日系人社会は戦争が終わっても、すぐに一本化されることはなかったのである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.10
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ハワイで勝ち組と言われた人々は帝国海軍の軍艦が日本人を助けに真珠湾にやってくると信じ、ハーバーを見おろせるアイエア・ハイツに上っては来るはずのない軍艦を待ち続けていた。「自分の国・日本が敗けるなど信じられない。アメリカは嘘をついている」これこそが勝ち組の真実であった。この勝ち組を説得しようとして、家族の分裂が起きた家もあった。 富造は新聞で、天皇がマッカーサー元帥を訪問したときの二人の写真を見て驚いた。燕尾服で正装のエンペラー・ヒロヒトの前で、ネクタイもせずジャンパーシャツの軍服姿のマッカーサーが両手を腰に当ててリラックスした姿であったのである。天皇はその脇に、小柄な身体で立っていた。 ──天皇はこんなにも背が低かったのか! 今まで神聖にして侵されざる現人神とされていたことで、偉丈夫と思い込まされていたのかも知れない。 富造はそう思った。 戦後ハワイの中央太平洋伝道部に派遣されてきたアメリカ人宣教師は、戦争の結果として生じた反日感情とも戦わなければならなかった。一九四三年に死亡したジェンセンに代わり、再び伝道部長となっていたロバートソンが教会員たちに語った。「その宣教師は、祖国のために兵役を終えたばかりであった。彼は日本人に対して憎しみと不信以外の何ものも持っておらず、自分が何故日本伝道に行くように召されたか理解できませんでした。(略)私は送別聖餐会で話しましたが、そこで人々に『彼が伝道の働きをするとき、そこにいる人を愛さないのならば、彼自身が過失を犯していることになる』と言いました」 戦争終結により、末日聖徒イエス・キリスト教会でも多くの帰還宣教師が復員していた。それらのなかで、日本再々伝道がはじめられようとしていたのである。富造は何も言えずに、感謝をもってその言葉を受け入れるだけであった。それには、負けた側の人間、という思いもあった。アメリカのために動いたことが日本のためにならないという事実。富造は強い虚無感の中にあった。 十月、国際連合が成立した。 私は生きて懐かしいハワイに帰ってきた。限りなく嬉しくも亦 恋しいことであった。イタリーの山野で行動を共にした戦友たち が、一人残らず帰還して欲しかった。不可能なこととは知りなが ら、私たちは心からそれを念願していた。・・・唯一発の腹部貫 通銃創で仆れた戦友、片足をもぎ取られ鮮血に染まって死んでい った戦友。当時の出来ごとが悲しくも思い出されてくるのであっ た。私たちはアメリカの領土に生まれ、アメリカの教育を受けた。 アメリカの教育を一言に尽くせば、個人個人独立した思考力を与 えるにあると解してよかろう。勿論、私たちの体内には日本人の 血が流れているし、極めて不充分ながらも、日本語教育の背景も 持っているので、日本に対して全然無関心ではあり得ない。しか し、大きな問題にぶっつかった時、私たちは体内に流れている日 本人の血という理由だけで、物事を解決しようとは決して思わな い。アメリカの教育は私たち個人個人が、充分に考え得るだけの 素地を作っていてくれるので、冷静にもっと大きな視野から、解 決の鍵を探し求めようとする。・・・死んだ戦友たちの白い十字 架の列が(その後この十字架の墓標は全部取り除かれて、埋め込 みの墓石に代えられた)粛然として、いくつもいくつも並んでい るこの丘から、私たちが生きている十字軍は、世界の平和への行 進を起こさねばならない。 (大原譲二・ブリエアの解放者たちより) 世界に多大の災禍をもたらした戦争の終わったこの年、新たな戦争が芽生えていた。いわく、東西ドイツ、南北朝鮮の分裂、インドシナ戦争、そして中国で国民党対共産党の対立が深刻となっていった。 一九四六(昭和二十一)年、一月、現人神であった昭和天皇は、人間であると宣言した。天皇は、神であることをやめたのである。人間天皇宣言と言われた。富造はこれを知ったとき、よかったと思った。いままで日本の運命は軍の指導者の手にあった。彼らは天皇に対してのみ責任を有し、その天皇は神聖にして侵すべからずとされていた。日本の国民は、天皇のために死ぬのは名誉なことであると繰り返し教育されていた。「ようやく日本も当たり前の国になるのかな」 富造が相賀にそう言って笑った。しかし相賀は、その笑いに往年の迫力が欠けているのに気付いていた。病魔に冒されはじめていたのである。 間もなく天皇は日本国内の行幸をはじめた。爆撃で破壊された街々、そして炭坑の切り羽にまでその足を運んだ。日本国民は、あげてその天皇を歓迎した。 ──天子様の方から出向かれるとは・・・、日本の変化に戸惑うばかりだ。 富造はそう思うと同時に、ハワイ王朝の転覆と王国の終焉、そして今後の日本の姿を考えていた。 ──ハワイ王国は最後の女王・リリウオカラニの退位とともに瓦解した。しかし日本では天皇制が存続した。戦争を放棄する新憲法を持った日本は、この戦禍の中から必ず平和な日本として立ち直るのだろう。 三月、イギリスのウェストン・チャーチル首相がミズーリ州フルトンでの演説で、ソ連と共産主義諸国を一括して、鉄のカーテンと称した。米ソの対立が鮮明になっていった。 四月アメリカ政府は、数々の功績をあげ、アメリカの軍事史上最も多くの勲章を受けた日系人部隊に、次の感状を授与した。 感 状 第四四二連隊 ワシントン陸軍省 一九四六年四月十日 左記の部隊は合衆国大統領の名において、その名誉と功績を国 家的に確証するために、陸軍によって列記された。全文左の如し。 第四四二連隊(五二二野砲大隊を除く)は、左記の部隊よ り成る第四四二歩兵連隊 第二三二戦闘工兵中隊 右の部隊はイタリアのセラヴュザ、カララ、フォスディノーヴ ォ付近の、一九四五年四月五日より十四日に至る期間内の戦闘中 における抜群の功績によって列記された。 第五軍攻勢が、第四四二連隊をともなう第九十二歩兵師団のイ タリア、リグアン海岸の牽制攻撃によって火ぶたを切った時、第 四四二歩兵連隊に攻撃の任務が課せられた。部隊は恐るべきゴシ ック線の西端の敵陣地に対して、側面より巧妙、且つ大胆なる攻 撃を加えてこの任務を達成した。友軍五ケ月の攻撃を持ちこたえ た堅陣を四日間の攻撃で、粉砕したのである。しかも攻撃軍と、 ほぼ同数の兵力を有する巧妙なる敵、少なくとも、五カ月の間に 陣地を改善した敵に対して、この偉業を成就したのである。 第四四二連隊は、大損害にも拘わらず進撃した。敵に休養、ま たは再編成の暇を与えず同連隊はカララ市を解放して、更に先方 の高地を占領し、重要道路の交差点、ラースベチャ港、及びジュ ノアへの進出を開始した。このことによって、リグリアン海岸の 牽制攻撃は、完全に奏効し、第五軍のボローニヤ及びポー渓谷へ の突入を助けた。この任務を完全に成就したがために、牽制作戦 が全面的攻勢となり、イタリアに在るドイツ軍の終局的破壊に重 要役割を演じた。恐るべき敵に対して、発揮された第四四二連隊 将兵の勇敢さと旺盛なる士気は、合衆国陸軍の赫々たる伝統を発 揮した。 参謀長 ドワイト・D・アイゼンハワー ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.09
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ダディ、マミー。僕は休日に三春へ行って来たよ。ダディの言 うように、郡山からは近かった。町の様子は昔のままで、ダディ やマミーのいた頃とそう変わりがないそうです。そう言われてみ ると、その辺を、丁髷に刀を差したおじいちゃんが歩いていても 不思議ではないような気がします。そんな感じのする古い町並み です。遠藤家や加藤木家、そして湊家の人たちが『何もないが』 と言って歓迎会を開いてくれた。行ってみたら本当に言葉通りに、 There is nothing だった。食糧は東京より少しは良いかと思い ましたが、それでもみんなが『かぼちゃばかり食べていて指先が 黄色になった』と言って見せてくれました。東京の食糧事情を知 っていたので、缶詰を土産に持っていきました。みんなが喜んで くれた。それからみなさんの案内で城山に登ってみました。しか しマミーが言う安達太良山がどれなのか、重畳と重なり合う山々 で分からなかった。それからおじいちゃんの記念碑と、亡くなっ た重教伯父さんの詩を彫った歌碑とを見てきました。神社の境内 の階段をジープで登ったのですが、珍しいのか子どもたちが集ま ってきて大騒ぎでした。重教伯父さんの記念碑の詩は、次のよう なものです。 八十路来て 知得の旅を 重ぬれど 滝の桜に まさる花を見つ こういう碑が残されているなんて、わが勝沼家は、(いや加藤 木家かな?)素晴らしい家系なんだね。それからもう一つ。三春 のエレメンタリー・スクールでは、卒業時の最優秀者には秋田賞、 これは三春の殿様の名。そして何と準賞には加藤木賞が与えられ るそうです。これは、重教伯父さんを顕彰したものだそうです。 僕はすごく誇りを感じた。三春に来てよかった。 ところで四四二連隊の第二信。四四二連隊の兵士たちはダッハ ウで目撃したことを誰にも語ろうとしなかったのは、あの光景を 忘れようと努めていたからだそうです。そしてその後にも知らさ れたナチス・ドイツのアウシュビッツやその他の強制収容所にお けるホロコースト。そして一様に彼らが思い出したことは、自分 たちの家族がアメリカの強制収容所に勾留されているのを知って いながらも、あんなひどい扱いを受けたユダヤ人たちのことを話 すのは辛すぎたから、話さなかったそうです。 そしてもう一つ、白人の指揮官が、『私たちが司令官に話をす るまで黙っていろ』と言ったそうです。このとき白人の第四二歩 兵連隊が、あまりの激情に駆られて多数のドイツSSを虐殺した 事実があり、それを隠したかったそうです。それと、何らかの理 由で四四二連隊を解放者にしたくなかったとも言われています。 それらもあってか強制収容所経験者に、『私たちはユダヤ人ほど ひどい虐待を受けた訳ではなかった、だから声高に体験談を語る べきではないと思ったのです。戦時中にはるかに苦しんだ人のい ることを知ったことが、われわれに我慢させたのです』と言わせ ているのかも知れません。 それからもう一つ、この戦争の末期に、アメリカ軍の日本本土 上陸に備えた防衛軍 として、大日本帝国陸軍 第七十二師団 第一五五連隊 伝部隊 の本部が三春にあり、平まで兵を展開していたそうです。もし戦 争が続いていて、僕らが福島県の磐城の浜に敵前上陸をし、三春 で戦うことにならなくて、ロマリンダ大学を卒業した辰口信夫の ように煩悶して死ぬようなことにならなくて良かった。戦争が終 わって、本当に良かったと親戚のみんなの笑顔を見て思っていま す。 ではまた。愛を込めて。(左上 富造の父・直親の顕彰碑除幕式・右より2人目が富造。左下 同じ顕彰碑の前で。富造の孫・ジョージ スズキ氏家族と左端筆者 三春大神宮境内。右 重教の歌碑・三春北野神社境内)「日本が負けたということは辛いことだが、戦争が終わったということで、何か気持ちが解放されたような気がする」 そう言いながら富造は、息子からの手紙を傍らで待っていたミネに手渡した。「滝桜か・・・。一生のうちに、もう一度見てみたい。懐かしいな。それにしても親父は以前に三春大神宮の境内に顕彰碑を建ててもらい、その写真が送られてきていた。その上重ちゃんも記念碑を建ててもらったというのだから、人徳があったんだな」 富造は独り言のように言いながら考えていた。 ──つまりあの日本人の強制収容は、日本がアメリカ本土に攻め込んでくるのではないか? という恐怖感の裏返しであったのかも知れない。歴史は荒廃の後に必ず生き返ることを見続けて来た。日本も、そしてわれわれも必ず生き返る。 富造はこの頃、一寸したことでも疲れを感じるようになっていた。そんなときは、家のベランダから太平洋の青い海に目をやり、本を持って休んでいた。 第二次大戦の二世の出血の犠牲は大きかった。「二世の若者たちが生まれたこの国に命を捧げていた間にも、いままで指導者面をしていたわれら年配者が立ちすくんでいたというこの体たらく・・・。辛いな勝沼。」 この考えが、富造や相賀の世代に深く突き刺さっていた。「俺は日本人だ。戦争になったとき、これは困ったことになったと思った。しかしアメリカ政府の移民官として働いたし、日本人移民を受け入れたアメリカに恩義もある。それなのにその子どもの二世たちが日本語を使ってアメリカ軍の助けになり、兵士として戦って戦争に勝とうとは‥‥。夢にも思わなかった。その犠牲は、余りにも大きすぎた」「うん。結局日本は、中国やインドなどアジアの各地で萌芽が見られていた民族自決、国民国家というテーゼを読み切れなかった」「そうかも知れない。国際連盟の設立の際、日本はウィルソン大統領が提案した民族自決に賛成し人種差別反対を国際社会に打ち出した。そうしていながら他民族を尊重しなかった。相賀、俺は日本が敗れた原因はここにあったと思う」 移民社会は、「勝ち組」と「負け組」に分裂した。しかし本当のところは、負けたと思いたくないという意識が「勝ち組」を構成していた。「大体勝つとか負けるとか、考えもしなかった。だから日本が負けるとは、全然予想もしなかった。だから天皇陛下のお言葉がラジオから流れたとき(十四日の夕方四時)、聞き漏らさないようにしなければなんて聞いていたのですが、大事なところで雑音が入ったりして‥‥。それでも日本が負けたんではないって言って頑張っていたんです。陛下は負けたなんて言わなかったなんて言って喧嘩もあった。日本人精神がものすごく強くて、いきり立っているもんだから、余計なことは言えなかった。街を歩くのも隠れるようにして、それが日本人同士だとお互いに間の悪いような顔をして・・・」「私のおじいさん、日本が負けたとは信じなかった。泣いたよ」「私の妻の父親は、日本が戦争に勝ったと思っていた。そう言ってまわっていた。まあ、妻の弟がアメリカ軍に参加してイタリアで戦っていたから、近所の人も大目に見ていたが・・・」 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.08
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祖 国 と 母 国 宇土朗は、アメリカの占領軍の一員として日本へ進駐した。 ダディ、マミー。爆撃で破壊された横浜に上陸して、東京まで トラックで行きました。話に聞いてはいましたが、この大都会は 瓦礫の山でした。新しい任地の決定前に、亡くなった重教伯父さ んの家に行ってみました。家族は全員無事でした。しかし銀座の 鉄筋コンクリート五階建の会社兼住宅は残っていましたが、無惨 にも焼けただれた外壁とまったく家具のない二階に住んでいまし た。伯母さんは、『戦争中三春に疎開していて命だけは助かりま した』と言って笑っていました。ダディ。ここで悪いニュースを 伝えます。この年の一月六日に、周太郎伯父さんが樺太で亡くな ったそうです。それでも敗戦直前であったため、遺骨はどうにか 日本に持ち帰れたということでした。 また書きます。愛を込めて。「兄貴・・・」 富造は、絶句した。最初の兄弟との消息が訃報であったのである。しばらくして次の手紙が届いた。 ダディ、マミー。いま僕は一六〇〇人の兵士とともに郡山に派 遣されています。驚いたでしょう。郡山は六万人の人口ですが空 襲を受けて街も工場も廃墟となっています。多くの軍需工場と軍 の施設があったそうです。僕たちは日本陸軍の富田基地(いまの 希望ケ丘)に駐留しています。このほかに郡山には海軍第一、第 二、第三航空隊の飛行場があって、そちらにも分遣隊が行ってい ます。そこで僕は警備をしていた日本兵に聞いてみました。『君 は僕がアメリカ軍にいるのをどう思う?』すると彼は、アメリカ 軍、仕方ないさ』そう言っていました。そこで『君は戦争に負け たことを知ったときどう思ったか?』と聞いたら、しばらく躊躇 していたようでしたが、『茫然自失し、自決も考えました。しか し上官に諭されて思いとどまりました』と言っていました。僕も 自決と言われていろいろ考え、返事もできませんでした。それに しても僕は日本兵士の礼儀正しさには驚きました。まるでダディ の世代を見ているようです。何故この人たちが鬼畜米英などと言 ってあの戦争をはじめたのか、不思議な思いがします。 ところで風の便りで、ヨーロッパ戦線で戦った第四四二歩兵連 隊の活躍を知りました。イタリアに上陸しイタリアが降伏した後 南フランスに再上陸した第四四二歩兵連隊は、フランス北東部の ボージュ山地のリフォンテン村で、二七〇名のテキサス大隊救出 作戦に投入されたそうです。この作戦で日本を見たこともない二 世兵士たちは『バンザイ』と叫んで突撃し、瀕死の重傷の中で『お 母さん、助けて』と日本語で呻いていたそうです。僕ももしその 場にいたら、日本語で『お母さん、助けて』と言ったかも知れま せん。それでも四四二連隊は、八〇〇名の戦死者と多くの負傷者 をだしながら救出に成功しました。僕は戦死した八〇〇名と助け られた二七〇名の気持ちを考えると、切なく辛いものを感じます。 この第五軍団のマイケル・クラーク将軍は、四四二連隊の兵士 に対し、『君たち日系アメリカ人は自らを誇る権利がある。諸君 は故郷を遠く離れ、家族と別れてこの戦場に赴いた。そして敵を 撃破し、われわれが何よりも尊重するアメリカ的精神と自由を守 った。諸君はアメリカ軍人として高い水準に達している。第五軍 団とアメリカの誇りである』という賛辞を贈ったそうです。しか し皮肉なことに、日系アメリカ兵は死んではじめて差別から解放 されたそうです。だけど死んでからでは遅すぎるよね、ダディ。 この話を聞いて、僕は涙が止まらなかった。 そしてその後、四四二連隊の一部である五二二野戦砲兵大隊は、 ダッハウに進撃したそうです。彼らはそこでナチスの強制収容所 を発見しましたが、最初はそれが何か分からなかったそうです。 白と黒の縦縞の服を着、髪が短く痩せている人を見、その傍らに 積み上げられた膨大な死体を見ても、それが何の施設なのか見当 もつかなかったそうです。そこでは五万人ものユダヤ人が生きて 発見されたそうです。 ところでダディ、マミー。ここでは街にも、雪が積もりました。 そして雪って滑るのですね。僕にはとても珍しい景色で、とても 面白い経験です、 愛を込めて。「おお、郡山に雪が。恐らく三春にも積もったのだろうな」 富造は宇土朗からの手紙を読んで新聞に注意をしていたが、テキサス大隊やダッハウに関する記事は特になかった。 また宇土朗から手紙が届いた。 ダディ、マミー。日本でも学童疎開があり、学徒の勤労動員が あったそうです。郡山の空襲のときには、軍需工場に動員されて いた安積中学や安積高女、それに白河や相馬の中学生たちが多く の市民と一緒に死んだそうです。ダディが先生をしていた田村中 学は、日立の軍需工場に動員されていましたので空襲には会いま せんでしたが、艦砲射撃を避けて逃げまどっていたそうです。そ れにしても驚いたのは、国内の道路のほとんどが舗装されていな いことでした。都市の、それも中心部だけなのです。こんなに貧 しい日本が、なぜ世界を相手に戦争をしたのでしょうかね? ダディ、マミー。日本は正義のために戦ったと言っていますが アメリカもそうでした。正義とは、戦争とは何だったのでしょう ね。結局犠牲になったのは一般市民、つまりわれわれですものね。 そしてダディ、単一民族のため無いと思っていた人種差別が日本 にもありました。アイヌ人、朝鮮人、台湾人、そして短い期間で はあったけど占領された多くの国の人々・・・。人類にとって戦 争と人種差別が不可分のものかと思うと、暗澹とします。ダディ のアメリカにおける人種差別撤廃の努力が成功することを、遠い 日本から祈っています。 愛を込めて。(B29の空爆を受ける郡山市の日東紡冨久山工場・軍需工場として使われていた。郡山歴史資料館蔵)「いまはどうか分からぬが、われわれ士族も日本にいたころは農工商の人たちを平民、さらにはその下の穢多非人などと呼んで、あからさまではないがどこかで下位に見ていた。あれも考えてみれば、日本人内部での差別であったのかも知れない」 ミネは返事をせずに、黙ってうなずいていた。「そうか、女でもそうだったのか?・・・ まぁそういう社会で時代だったのだから当然と言えば当然だろうが、考えてみれば、人種差別とは根の深い問題だ」 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.07
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七月、アメリカはグアム島を奪還した。 十月、爆弾を抱え、身を挺して突っ込んでくる神風特別攻撃隊に、アメリカは恐怖の声を上げた。最終的にはこの方式の攻撃で、アメリカ船三十六隻が沈没、三六八隻が損傷を受け、失われた命は五〇〇〇人に上ることになる。「この自爆攻撃は、精神の国・日本においてのみ見られることなのかも知れない。それにしても、婦人たちに竹槍訓練をはじめたという。これはいったい、どういうことなのか? 日本は、天皇は、そして戦争指導者は国民をどこへ連れていこうとしているのか?」(1944年11月25日12時56分、空母エセックスに突入直前の山口大尉機。艦上爆撃機・彗星33型。Wikipediaより) 十一月サイパン島から日本本土各地への空襲が開始された。このときアメリカ第五空軍のカンニガム大佐が、コメントを出した。「日本の全人口が、第一義的軍事目標となった。いまや日本には非戦闘員は存在しない。われわれはその場所男女を問わず、最短期間に最大多数の敵を殲滅せんとするものである」 富造はこの新聞記事に目を通しながら、呆然としていた。それを不当なこととして抗議できる立場にないことが、無性に悲しかった。「戦争とは非道なものと覚悟はしていたが、これでは日本にいる兄弟たちや幼い甥や姪までも戦闘員とみなされて、空爆や攻撃の対象になるということなのか?」 それはまた、血を吐くような悲痛な叫びであった。「あなた、そういうことは言わないで。私には、どうしたらよいか分からなくなるわ} そう言うとミネは耳をふさいだ。 日系人の間でも、ひそやかに議論が闘わされていた。「戦争が続けば多くの市民が死ぬ。爆撃されているのは慣れ親しんだ東京の街だ。市民を殺せば犯罪だ」「しかたがない、これは東条のせいだ。たとえ日本人に犠牲者が出ても叩くべきだ」「いや、これはアメリカのせいだ。一般市民の巻き添えを平気でするアメリカのせいだ。日本人が死ぬのを喜ぶな!」「俺は喜んでなんかいない。もし空爆で早く戦争が終われば、犠牲者はいなくなる」「家族が犠牲になってもいいのか」「しかたがない。東条を倒すためだ」 議論は、堂々めぐりをしていた。 一九四五(昭和二十)年一月二日、多くの例外を残して強制収容が廃止された。ところが八日、ようやく強制収容所からカルフォルニア州プレーサー・カウンティに戻った日系アメリカ人のドイ家の物置が放火され、住宅にはダイナマイトが仕掛けられた上銃弾が撃ち込まれた。一月から六月にかけて、三十件も同様の事件が日系アメリカ人たちを襲っていた。強制収容所が廃止されても、対日戦争は続いていた。一般のアメリカ人にとって、日系人は敵であったのである。 第二次世界大戦が連合国の勝利に終わる展望がすでに見えてきた一月、非米活動委員会の設立目的も失われつつあった。しかし委員会はミシシッピー州選出のジョン・E・ランキンを委員長とする下院の常設委員会となり、逆にその役割を一段と強化した。すでにアメリカは、ソ連の共産主義との戦いを開始していた。 二月、アメリカ軍はフィリピンのマニラを陥とし、硫黄島を占領した。以後ここを足場に日本本土爆撃が熾烈となり、三月九日の東京大空襲では、一夜で八万以上の命を奪った。 四月、アメリカ軍は沖縄に上陸した。そしてこの十二日、ルーズベルト大統領が脳出血で急死した。副大統領から大統領に昇格したトルーマンは、ラジオで放送した。「最後の抵抗が終わるまで、アメリカは自由のため断固戦う」 六月、沖縄戦が終わった。この戦いで、日本軍兵士七万、民間人十万が命を落とし、アメリカ軍兵士六万七千の死傷者を出した。アメリカ軍部はトルーマン大統領に対し、「もし日本本土上陸作戦をすれば、さらに二十五万のアメリカ兵を失う」と警告した。「日本国民は騙されている。日本を破滅の淵に追い込んだ軍国主義の道を進むか、理性の道を進むかの決定を下さなければならない」 これ以上の戦死者数の増大を恐れたアメリカは、日本に対する諜報戦に力を入れていた。 七月、連合国はポツダム宣言を発し、日本に無条件降伏の最後通牒を突きつけた。しかし二十九日、日本はこれを拒絶した。あくまでも天皇制護持にこだわっていたのである。その間にドイツが降伏し、日本は独り戦場にとり残された。 八月六日、広島に原爆が落とされ、二日後にはソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、対日宣戦を布告した。そして九日、長崎に二発目の原爆が投下された。この原爆による未曾有の戦禍は、日米両国民、いや全世界の目から隠された。落としたのは、単なる大型爆弾であると説明したのである。連合国は日本に無条件降伏を迫り、トルーマン大統領は談話を発表した。「われわれは真珠湾を奇襲した敵に原子爆弾を使いました。これは日本を降伏させる最後の手段です。今後の使用を止められるのは、日本の降伏だけです」 八月十五日、日本は敗れた。戦争の終結に世界は沸いた。「日本は負けたんだ」 そうは理屈では思っても、感情がなかなか納得しなかった。ほっとした感情と、錯綜していた。 九月二日、アメリカ戦艦ミズーリ号艦上にて日本は降伏文書に署名し、マッカーサー総司令官はコメントを読み上げた。「今、再び世界に平和は戻りぬ。神よ、この平和を守り給らんことを」 しかし世界は、一つの大きな疑問を日本に投げかけていた。「日本敗戦に際しての武装解除は、ほとんど混乱もなく行われた。それほどの権威を持つ天皇が、日中戦争をはじめとする、そして特に太平洋戦争開戦の際指導力を発揮しなかったということは、あり得ないのではないか?」 九月六日、ロンドン ディリー エキスプレスの原子病という大スクープが、世界を駆けめぐった。「原爆が街を壊滅させてから三十日が経過しても、広島では人々が原因不明のまま次々と恐ろしい死を迎えている。原子病としか表現できない。原爆の未知の何かが原因なのであろう。私は世界への警告となるようできるだけ冷静にこの事実を報告する」そしてその記事の最後は、こう結ばれていた。「ノーモア・ヒロシマ」 その翌日、間髪を入れずに、原爆製造計画ナンバー2のトーマス・ファレル将軍は、緊急声明を発表した。「ヒロシマ・ナガサキで原爆によって死ぬべき者は既に死んでしまっている。九月上旬現在、放射能に苦しんでいる者は皆無である。」 それ以後、新聞の論調が急変した。 九月十日、ニューヨークタイムス「広島の廃墟に放射能はない」 九月十三日、ワシントンポスト「放射能による死者は広島にはいない。原爆投下によって数十万のアメリカ兵の命が救われた」 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.06
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五月末、ナショナルガードを除隊させられていた二世やVVVの学生たち一三〇六名で、ハワイ暫定部隊が編成された。日本軍がミッドウェー島に迫っている戦況に鑑みて、ハワイの防衛を想定していた。 六月五日、私たち一四〇〇名の日系兵を乗せた軍用船マウイ号 は、ホノルルの港を離れた。別れを惜しむ匂やかな花々のレイも なければ、哀愁に満ちたアロハ・オエの調べもない戦時版的淋し い船出であった。私は一本でもいいからレイが欲しかった。港を 出るとき海に流したレイが渚に打ち揚げられると、旅人は必ず還 ってくるというハワイの言い伝えを信じたかったのだ。しかし戦 時下ではそんなロマンチック夢を追うことは許されなかった。一 四〇〇名の生命は一団となって甲板に立ったまま身動きもせず、 アロハ・タワーがすっかり見えなくなるまで誰一人として口をき くものもなかった。オアフの島影すら見えなくなると急に侘びし さが胸一杯にひろがり、首をうなだれて、船室への階段を下りて 行く私たちだった。 (ハワイ日本人移民史) その船が出航するのを富造らは、港の見える丘から手を振ることもなく、万歳の声を上げることもなく、そして星条旗を振ることもなく、ひっそりと見送った。 ──武運長久。 そう祈ったが、それはどの神に対してであったのか、富造には確としたものがなかった。敵味方の関係なく若い者の命が助かるものならば、日本の神でも構わないと思った。第一〇〇歩兵大隊と命名されたこの部隊は、戦闘訓練のためウィスコンシン州キャンプ・マッコイに送られた。この第一〇〇大隊の日系兵士は、自らをワン・プカ・プカ(One Puka Puka)と呼んだ。プカとはハワイ語で穴を意味し、ゼロをプカと言ったのである。穴はまた、塹壕をも意味していた。 ホノルルは、出撃前の兵士たちの休暇を楽しむ場所になっていた。若い彼らが歓声を上げて海と戯れる姿は、これから血なまぐさい戦場に出て行く姿とどうしても一致しなかった。 カンザスの大学に行っていた宇土朗から、アメリカ陸軍への入隊が決まったという手紙が届いた。突然の予期せぬ便りに、ミネは半狂乱になっていた。「こんな大事なことを、宇土朗はどうして相談もせずに・・・」 しかし富造はその様子を見ながらも、努めて平静を装っていた。ミネには言わなかったが、富造は宇土朗からの手紙を読んでいたのである。『今、僕たちは学校へは行かず、「超・空の要塞」と言われるB29を作っています。全く新設のボーイング社の工場での生産現場は、まるで修羅場です。僅かな開発期間での大増産です。ここからでも志願して戦地へ行く学生も多いのです』 それは後に『カンザスの戦い』と呼ばれた壮絶な戦場であった。その戦場となったのはカンザス州であった。 (B29の製造ライン) 第一〇〇大隊や第四四二歩兵連隊の兵士となっていく若者は、ここハワイからだけでも多かった。これからの戦況を考えれば、宇土朗も決して安泰でないことは充分に察せられた。戊辰戦争のとき、三春に入ってきた新政府軍のことを思い出していた。宇土朗も戦場に行ったときには同じように、現地の日本人たちに恐れられるのではないかと考えていた。富造は宇土朗に、返事を書き送った。「何をやってもいい。ただし家に恥を持ち帰るな。やりたいことはやり遂げろ。お前の幸運を祈っている」 それは表面的には平静さを装いながらも、血を吐くような父の思いでもあった。 九月十九日、忠誠心調査をもとにして、忠誠と認められた者は他の収容所に、不忠誠と判断された者はトゥール・レイク強制収容所に送られた。 十一月四日、そのトゥール・レイク強制収容所で暴動が発生、鎮静まで一ケ月かかった。 一世たちを強制収容所に残したまま出征し、訓練を終えた二世たちはヨーロッパ戦線に派遣された。多くの激戦地を体験したがドイツ戦線では、二一一名のテキサス大隊救出作戦を敢行した。その作戦で、四四二連隊の犠牲者は八〇〇名にも及んだのである。 中部太平洋では、タラワ島の日本軍が全滅した。またも玉砕であった。 アメリカは戦費をまかなうため国債を発行し、消化のための宣伝歌も発表された。 みんなで国債を買おう。 祖国に勝利をもたらす国債を。 そして石油は配給となり、金属や紙まで節約を要請された。 十一月五日、日本の国会議事堂で、日本、満州、中国、フィリピン、タイ、ビルマ、インドの首脳が集まって、大東亜会議が開かれた。日本敗戦が色濃くなったこの時期、占領諸国の離反を防ぎ戦争協力を目的にしたものであった。各民族の独立尊重、互恵提携がうたわれた大東亜共同宣言が採択、内外に発表された。「相賀。日本はいまごろアジア地域の共存共栄をぶちあげているが、まったくの時期遅れのような気がする」「私もそう思う。こんな空疎な話をしても各民族の協力を得られないし、民族闘争の高まりを食い止めるなどということは、出来得ないことだろう」 第一〇〇大隊は第四四二連隊に併合され、ヨーロッパ戦線での激戦地に投入された。二世兵士は、ゴー・フォー・ブローク(あたってくだけろ!) の合言葉のもと、命を投げ出して果敢に戦い、数々の功績をあげた。 GO FOR BROKE One Two Three FourFour-Forty-Second InfantryWe are boys from Hawaii Nei,Fighting for you and the red-white and blue,Weユre going to the frontAnd back to HonoluluFighting for dear old Uncle Sam.Go for broke. we donユt give a damn!Weユve got the Hums on the runAt the point of the gunAnd victory will be ours.戦争による反日感情の高まりに抗しきれず、末日聖徒イエス・キリスト教会日本伝道部は中央太平洋伝道部に名を変えた。もはや何が起きようと、日本人たちは何も言える状況にはなかった。富造は折があれば教会に通い、ひざまずいて祈っていた。教会は、唯一富造の心休まる場所となっていた。やがて、イタリアが降伏した。 一九四四(昭和十九)年、連合軍はノルマンディーに上陸し、ヨーロッパでも転機が訪れていた。 六月、サイパン島を守備する第四十三師団長・陸軍中将斉藤義次は最後の電報を大本営に打電し、総攻撃を敢行した。民間人を巻き込んだこの戦いは、日本軍の玉砕をもって終結した。新聞には岩から海へ身を踊らせる婦人の写真とともに、戦いの記事が掲載されていた。「日本人は兵士も民間人も、自らを撃ったり海に飛び込んだりして死んでいった」 この連続する日本軍の玉砕に、富造は考えていた。 ──なぜ日本人はこうも死に急ぐのか。せめて婦女子だけでも投降させれば、彼らにもまた生きる道もあろうものに。 アメリカの一母親が、新聞に投書をした。「私たちが十八年かけて育てた息子を、海兵隊は十八ケ月で死なせてしまいました。私たちに残されたのは、息子が自由のために死んだと書かれた証明書だけ、どう考えても、この交換は悲し過ぎます」 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.05
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十一月十四日、ポストン強制収容所で密告者として知られていた男が襲われた事件で、人望を集めていた二人の収容者が逮捕されたことから集団ストライキが発生した。 十二月五日、マンザナー収容所で、フレッド・タケヤマが収容者のグループに襲われ重傷を負った。人望のあったハリー・ウエノが逮捕されると、それに抗議して暴動が発生した。収容所側は、発砲してこれらを押さえた。 十二月十日、これらの事件を経験として、ユタ州モアブに、反抗的収容者のみを拘置する刑務所が設立され、先鋭的とされる日本人が集められた。これら日系の強制収容者は、一〇万人を超えていた。「日本人はこんなにも警戒されて・・・。日本人はアメリカ社会から完全に疎外されてしまったようだ」「しかし相賀、なぜ日本人だけが強制収容所に入れられ、ドイツ人やイタリア人は普通に暮らしていられるんだ? 俺には不思議でしかたがない」「・・・」 一九四三(昭和十八)年一月、アメリカ陸軍省は第一〇〇歩兵大隊の他に、日系二世のみ三〇〇〇名の戦闘部隊・第四四二歩兵連隊結成の計画を発表した。なぜアメリカは嫌っていた日本人に国を守らせようとしたのか? 戦後、次の文章が発見された。「日本軍の東南アジアにおけるプロパガンダは、この戦争を人種的偏見から出た人種戦争であり、日本人はすでに日本人強制収容の事実を宣伝に使っている。日系人部隊を組織すれば、アメリカが東南アジアに有効な宣伝の逆利用の手段として使えます」 このような裏話にもかかわらず、ハワイからは一五〇〇名の枠に対して約九五〇七名が応募した。しかし本土からは、一二〇〇名しか志願しなかった。その理由は、収容所内で徴兵を開始した日系市民協会がアメリカ政府べったりの組織であったため評判が良くなかったことがあった。しかし最大の理由は、「アメリカの市民権を剥奪されて収容されたままアメリカの軍役につかせるのは不当である、アメリカの市民権を回復してから志願させるべきである」とする強い意見があったのである。 一月二十九日、アメリカ国防省は、新兵募集と再定住検査の手続きをすると発表した。しかしこの手続きの中の二十七項(アメリカ軍への入隊の意志)と二十八項(天皇への忠誠の放棄)が、収容者たちにいらぬ軋轢をもたらした。「監獄に入れたまま忠誠を求めるのはおかしい」「強制収容所から民主主義を守る戦いに出るのは皮肉である」「忠誠を拒否すれば無国籍になる」「軍隊に入ったら、自分の親戚と戦うようになるのではないか」「爆撃を受けている日本の家族が心配だ」 この反対に対して、日系市民協会は兵役拒否罪で対応した。そして若者たちは、考えていた。「戦場で功績を上げれば、日系人がアメリカ社会に受け入れられるかも知れない。しかし自分たちの自由や権利を踏みにじった国のために命をかけることには、とまどいを感じる」「私たちは志願するしかない。もししなければ、そのまま収容され続けることになる。私たちは志願することで、アメリカのために喜んで戦うということを証明しなければならない」「せめてわれわれは、自由のために、愛するものたちのために戦っていると思いたい」 その後、日系市民協会が強圧的態度を止めたため、収容所内からの志願兵も増え、第四四二歩兵連隊を結成してミシッシピー州のキャンプ・シェルピーで訓練に入った。第四四二歩兵連隊は上級将校を除き、ハワイとアメリカ本土の二世だけで編成された部隊であった。「僕は日本人の血を引いているが生まれながらのアメリカ人だ。でも僕のことをジャップと呼ぶ人たちがいる。なぜ彼らは僕たちをそんな目で見るのか? 第一次世界大戦でドイツ系アメリカ人はドイツと戦った。第四四二歩兵連隊は日本軍と戦って、愛国心を見せてやりたい」 そう言う者もいた。しかし日系人の下級将校の中には、こう言う者もいたのである。「よその国の人々を解放するという理想のために戦っている一方で、国内ではまだその理想が実現されていない。私は彼ら日系兵士に、強制収容をなんと説明すればよいのか?」 (NHK・カラーで記録した第二次世界大戦) 四月十一日、六十三歳のジェームス・ハツキ・ワカサがトパーズ強制収容所で監視兵に射殺された。のちに監視兵は軍法会議にかけられたが、無罪となった。 五月二十四日、ショウイチ・ジェームス・オカモトが、トゥール・レイク強制収容所で射殺された。射殺した監視兵は、罰金一ドルで釈放となった。 この四月、歴史上はじめて外国に奪われた領土、アリューシャン列島のアッツ、キスカ島をアメリカは威信をかけて奪い返すため、アッツ島に上陸作戦を敢行した。アメリカ軍は四〇〇名の戦死者を出したが、日本軍は二六三八名全員が玉砕した。このとき日本軍々医・辰口信男の日誌が発見され、新聞に公開された。降伏を罪と思い、自決を選ぶことで戦争マシーンと思われていた日本軍人の家族、わが子への人間的な思いに、全アメリカが感動した。その日記から抜粋する。 (NHK・霧の日記より) 五月十七日、一八・〇〇、夜暗を利用して洞窟を出づ。行けど も行けども道路に出る能わず霧中に失われゆく思ひして、焦燥の 感に堪へず三〇歩毎に腰を下ろし、眠り、夢を見また醒む。 五月二十一日、ある患者の手を切断中機銃掃射を受ける。敵機 はマーチンである。 (英文で:隊長の神経ははなはだ脆弱である。すでに将校、下士 官らを前に最後の言葉を告げ身辺整理まではじめた。これでは前 線の兵の士気が乱れてしまう。軽率な男である) 五月二十九日、夜二〇時、地区隊本部前に集合せり。野戦病院 も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せ しめらる。僅かに三十三年の命にして私は将に死せんとす。但し 何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。生死を受け賜りて精神の平常な るは我が喜びとするところなり。一八・〇〇、全ての患者に手榴 弾を手渡して注意を与える。私の愛し、そして最後まで私を愛せ し耐子(妻)よ。さようなら。どうかまた会う日まで幸福に暮ら して下さい。美佐子様(娘)やっと四歳になったばかりだが、す くすくと育って呉れ。睦子様貴女は今年二月生まれたばかりで父 の顔も知らないで気の毒です。 さようなら。松江様お大事に。コーちゃん、サキちゃん、マ サちゃん、ミッちゃん、さようなら。 敵、砲兵陣地占領のため、最後の攻撃に参加する兵力は一〇〇 〇名強なり。敵は明日、われらが総攻撃を予期しあるものの如し。 五月三十日、玉砕。 ある壕の中で一冊の英文の聖書を見つけアメリカ兵は(精神的に)混乱した。「何者が英文の聖書を持っていたのか? 日本では英語を敵性語として教えていない筈だ」 所有者の名は辰口信夫、手がかりは日記のみ。日記を軍の翻訳に回した。そこにいたアメリカの軍医が、彼を知っていた。カリフォルニア州ロマリンダ大学医学部を卒業した彼と軍医は、大学で青春を共にした同級生同士で戦っていたのである アメリカ兵は攻めれば攻めるほど恐怖に陥っていた。「日本兵は降伏するどころか、いとも簡単に自決してしまう。天皇のために死んでも敵を巻き添えにすれば靖国神社に行けると信じ切っている。捕虜は最悪のものと考える彼らは戦争マシーンなのか?」 しかしその恐怖が消えたのは、辰口の日記の最後のページだった。前日に記された天皇陛下万歳、しかし日記はそれで終わっていなかった。その後急に語りかける口調で、最後の文が英文で綴られていた。まだ見ぬ娘への思いが、アメリカ兵に涙をもたらした。 この持ち帰られた日記のコピーが、いつしか全米に広がっていった。そしてその英文の聖書のあるページに、やはり英文でメモが残されていた。「死ぬことは尊い、けれども生きることはもっと尊い。自分があきらめない限り、失敗はない」それらのことを聞きながら、富造は考えていた。 ──何故日本軍は兵士に死を強制するのか? 何故アメリカ軍は兵士が生を希望しつつ戦えるのか? (アッツ島で万歳突撃を敢行、戦死した日本兵。 HP鳥飼行博研究室より) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.26
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コロラド州、カルフォルニア州。これらは富造の心の中にしまい込まれた記憶を思い出させる名であった。あのときの貨物列車の荒々しい排気とクランクの音。投げ出された荷物。ジャップキャンプと呼ばれていた飯場。 ──また人種差別が、原点に戻ってしまった……。 五月十三日、イチロウ・シモダ(四十五歳)がオクラホマ州のフォート・スティルの敵性外国人収容所から逃亡しようとして逮捕された。彼は精神に異常を来していたが、監視兵はそれを知りながら射殺した。 五月十六日、ヒコジ・タケウチ(二世)がマザンナー強制収容所で監視兵に撃たれて重傷となったが、のちに回復した。 黒人のジェーソンガース・レディング教授が、雑誌に寄稿した。「日系人のことをイエローモンキーなどと呼ぶことを私は好まない。まるで肌の色が国家の裏切りであるかのような言い方である。自由を求める戦いに、肌の色は関係ないのだ」(NHK・カラーで記録した第二次世界大戦) ついにハワイからも約一五〇〇人の日系移民一世と二世がFBIに連行され、ハワイ内部やアメリカ本土の収容所に送られた。しかしハワイにおいては、多くの住民の努力が日系人の強制本土転住を最低限に防いでいた。そればかりか、この年に設立された緊急対策委員会に、日系社会の代表を加えることができたのである。 富造たちのこの委員会の目的は、「われわれはハワイ諸島のさまざまな人種的集団の指導者との協調を目指すものである。なぜならその調和の維持こそハワイ社会の伝統であり、そのことを通してのみ銃後の統一戦線は団結を高めることができるのである」という主張に基づいていた。これらもあって、富造の家族は本土転住を免れた。これがよかったかどうかは分からないが、転住させられなかった人々のすべての家族の間に、後ろめたさが澱となって沈潜した。 日布時事は、英文のハワイタイムスに改題した。緊急対策委員会は、気のついたところからアメリカ化していた。「なにをやっても、われわれ日系人たちは責められるようで疎外される。淋しいな」 それについてはミネも感じていた。「日本の勝利が疎ましく感じられます」 六月三日、日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを爆撃し、アッツ、キスカを占領した。アラスカ州に所属する島を奪われたアメリカは、その威信にかけて奪還を目指していた。 六月、ミッドウェイ海戦で、帝国海軍は大打撃を受けて敗退した。アメリカの新聞は、日本の空母四艦全隻、巡洋艦一隻撃沈、巡洋艦一隻大破、飛行機三二二機の喪失を、そして空母、駆逐艦各一隻、飛行機五二機とアメリカ側の損害を伝えていた。 しかしこの戦いに日本は、「米空母二隻、巡洋艦一、潜水艦一撃沈、飛行機一二〇機の撃墜、これに対しわが方の損害、空母一隻喪失、巡洋艦一隻大破、未帰還機二五機と発表、「勝った勝った」と放送していた。 ──どちらが本当なのか?富造は疑問を感じていた。 (上 爆撃されたダッチハーバー。下 炎上するミッドウェイ基地) インドのガンジーが、「日本国民に告ぐ」という一文を発表していた。 私はあなた方日本人に悪意を持っている訳ではありません。あ なた方日本人は、アジア人のアジアという崇高な希望を持ってい ました。しかし今ではそれは、帝国主義の野望に過ぎません。そ してその野望を実現せずに、アジアを解体する張本人になってし まうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あ なた方日本人の野望でした。しかし中国を侵略したり、ドイツや イタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではない筈です。 あなた方はいかなる訴えにも耳を貸そうとはなさらない。ただ剣 にのみ耳を貸す民族だと聞いています。それが大きな誤解であり ますように。 あなた方の友人ガンジーより」 六月九日、ミンダナオ島陥落。 この頃、映画・リトルトウキョウUSAが、二〇世紀フォックス社から公開された。この映画のプロローグで日系アメリカ人は、「スパイ軍団」「天皇の盲目的崇拝者たち」として描写され、敵愾心を煽っていた。日本軍の進撃そのものが、日系人に重くのしかかっていた。 七月二十日、ヒラ・リバー強制収容所に、最初の収容者のグループが到着した。そして収容所内で起きた日本人同士の疑心暗鬼は、外側から来た敵(日本軍)が、内側(収容所}にも敵を作ってしまったことになった。お互いが信頼感を失い、お互いが口を閉ざしてしまったのである。 七月二十七日、農民トシロウ・コバタと漁師ヒロタ・イソムラの二人の二世が、ニュー・メキシコ州ロードスバーク敵性外国人収容所から逃亡を企てたとして監視兵に射殺された。のちの調べで、二人は到着時すでに体力が弱っていて到着駅から収容所まで歩くこともままならなかったことが分かった。この月ハワイでは、日系人の経営するホテルや商店など、すべての営業が停止させられた。「戦争は、はたして幾年続くのか? これがわれわれの今後に、どう影響するのか。実に不安だ」 重苦しい富造の声にミネがポツリと言った。「Oh my goodness(しかたがないわ)」 これは、ミネが渡布以来はじめて口にした英語だった。すでに日本語は、敵性語として禁止されていた。「ミネは、日本が負けてもしかたがないと思っているのか?」「いえ、私には日本が勝ったと言っては身がすくみ、負けたと言っては身がすくむ思いがします」 ミネはなにごとかを訴えるような眼差しで、富造を見た。「たしかにそれは……、どちらでも困るのだが」 富造も独り言のように言った。 アメリカはガダルカナル、ツラギ島に上陸して反攻に転じた。そしてヨーロッパでも、スターリングラードの攻防戦においてドイツ軍がソ連軍のために大敗北を喫していた。しかし日系人の転住は進んでいた。 八月 十日、アイダホ州ミニドカ強制収容所に最初のグループが到 着。 八月十二日、ワイオミング州ハート・マウンテン強制収容所に最初 のグループが到着。 八月二七日、コロラド州グラネダ、別名アマチ強制収容所に最初の グループが到着。 九月十一日、ユタ州セントラル・ユタ、別名トパーズ強制収容所に 最初のグループが到着。 九月十八日、アーカンソー州ローワー強制収容所に最初のグループ が到着。 戦争の拡大と比例して多くの日系人が強制的に家を追われ、収容されていった。そして収容所もまた増設されていった。カルフォルニア州トゥール・レーク、アリゾナ州のポストン、ギラ、ルイジアナ州ジェローム、その他・・・。そして、アメリカ国民もまた窮乏していった。ガソリンは配給制となり、牛乳の宅配には昔ながらの馬車が使われるようになった。各家庭での菜園作りが奨励され、自給自足をはかる市民は二〇〇〇万人にも及び、徴兵により男性が不足になった農場のため、一五〇万にも及ぶ女性が都会を後にしていた。 マンザナーでは、九月の半ば過ぎに雪が降った。日系人たちはコートすら持っていなかった。収容された最初の冬は、ワイオミング州で記録的な寒さとなり、零下三十度も珍しくなかった。アメリカ政府は、「そこは収容所ではなく仮設住宅であり、彼らは囚人ではなく、疎開者である」と説明していた。「戦争が拡大して危険だからキャンプに入れると言われたが、フェンスの上が反対の内側を向いていた。外を向いていれば日本人を助けるためと思えたが、内側ではねぇ」 これらの現実の中で、アメリカ政府の説明を信じる者は誰もいなかった。そしてアメリカ人たちは、日本語しか話せない一世に大きな脅威を感じていた。そのために強制収容者は約一〇〇〇人単位でまとめられ、軍隊式に中隊と呼ばれて管理されていた。 そのようなとき、緊急手術を必要とする病人が七人、列車で運び込まれた。収容所には日本人の医師が一人だけで水道もなく、食堂のテーブルを手術台変わりとし、電気の消えた後は懐中電灯の光で手術を続ける状態であった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.25
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日本人、日系人に対する不忠誠の嫌疑はますます大きくなり、全ての日本人の血を引くアメリカ人が4ーCという最低の徴兵資格に落とされた。この資格は徴兵不可の外国人という意味で、彼らが所属していたナショナルガード第二九八、二九九部隊を強制的に除隊させられた。そのため二世は、自分の国としていたアメリカのために戦うことができなくなってしまったのである。日本語新聞は発行禁止となったが、その後すぐに日系人への連絡伝達に必要を認められ、日布時事などの新聞の再発行が認められた。「今度の戦争で、私は日本の在郷軍人となっていたためハワイの官憲からそのことを調査され、強制的に登録させられ、その他にも係官が家に来て四~五回調べられました。二世の県会議員(ハワイ準州の議員)が、ただ日の丸を持っていただけで五百弗の罰金を課せられました」 (松浦利右衛門 福島移民史) 以前から、「もし日米間で戦争が起きたら、日本の軍艦が私たちを助けに来る」と囁かれていた。しかしそんなことはあり得ないということが、開戦後の状況からすぐに納得させられた。「戦争なんて、そんな生やさしいものじゃない」 一九四二(昭和十七)年アメリカは、中国を反日抗争の友好国として禁止していた移民を解禁し、市民権の獲得を可能とした。そして夜の酒場では意味などは何もないパールハーバー・ブルースが大流行し、こんなバンド音楽で出征前の若い兵士たちがダンスに興じていた。 パールハーバー・ブルース 一九四一年十二月七日 一九四一年十二月七日 日本人は真珠湾に爆弾の雨を降らせた。 連合国は敗退を続けていた。 一月二十四日、日本軍はボルネオ島のバリクパパンに上陸。 二月、日本軍はオーストラリアのポートダーウィンを空襲し、さらにマニラやシンガポールを占領した。 当時、アイダホ州検事総長であったバート・ミラーの手記が残されている。「われわれはアメリカを白人の国として守っていきたいと考える。日本人はすべて強制収容所に入れるべきだ」(NHK・カラーで記録した第二次世界大戦) この月、ハワイ大学に在籍していた二世の学生達は、たとえ前線で戦えなくともアメリカのために死ぬべきと判断し、その決意をホノルルの司令官デロス・エモンズ陸軍中将への嘆願書にしたためた。「ハワイは我々の故郷である。アメリカ合衆国が我々の国である。我々はたった一つの忠誠心しか持たない。それは星条旗に対してである。我々は可能ないかなる方法によってでも、忠実なアメリカ人として最善を尽くす」「われわれは、アメリカのために戦って死ぬ積もりだ。命をアメリカに捧げる」「われわれはアメリカ市民である。それにも拘わらず、アメリカ政府は我々が兵役に就くことを拒んでいる。政府がわれわれを兵士としてでなく、例え勤労部隊の労働者として使うとしても、われわれは労働者としてアメリカに奉仕しよう。住む場所と食べる物が支給されるなら、俸給は求めない。危険な任務があれば、命を投げうつ用意がある」 これを読んだエモンズ司令官は、「強く心をうたれた。日系人たちがこれほどの決意でいることを我々は知らなかった」とすっかり感動し、嘆願書をホノルルの新聞各紙に渡して記事にし、日系アメリカ人からなる勤労奉仕をする歩兵大隊の編成を決定した。「これをきっかけに、ハワイでの日本人に対する態度がすっかり変わりました。それまで日本人は危険な存在だと思われ、ジャップと蔑まれ、アメリカ市民になっていても『ジャップはジャップだ』ときめつけられていました。それが新聞で司令官の日本人支持が伝えられると、人々も考え方を変え始めたのです」 これがいわゆるトリプルV(VVV・大学勝利志願部隊)で、日本語では、補助工兵部隊というのであろう。はじめは七~八十人で発足し、その後百五十人ほどに増えたが、志願者が多すぎて断らなければならないありさまであった。VVVの活躍はハワイ中に広がり、アメリカ軍のために倉庫を建設し有刺鉄線を張るなど、あらゆる銃後の仕事をやりとげた。さらに何回も献血に応じ、約二万八千弗にのぼる戦時債券を購入した。このVVVの努力を見て、エモンズ司令官は日系の志願兵をアメリカ軍に編入することを決定した。「これがハワイの人々の考えを変えさせ、敵国の人間だがハワイの日本人は信用できる、と思うようになっていったのです」 三月九日、ジャワ、日本軍に降伏。 この月にアメリカは、日系人十二万人隔離のためマンザナー強制収容所などの建設をはじめ、アメリカ本土に住む日系人の強制立ち退きが実行された。緒戦における日本軍の急進撃に脅威を感じたアメリカ陸軍の、強い要望によるものであった。最初は三十日以内にと言われた立ち退き猶予もつぎつぎに指令を出されて短くなり、しまいには二十四時間以内とむちゃくちゃな命令となった。 持っていた船や網はイタリア系の使用人に馬鹿みたいな安い値 でやってしまった。私たちが立ち退かされることを聞いて家財道 具を安く叩いて買おうと多くの白人がやってきた。私の所にもい い応接セットとグランドピアノがありユダヤ人が買いに来た。私 はあまりにも言い値が安すぎるので、しゃくにさわってグランド ピアノを燃やしてしまった。他の人たちも燃やした方がましだと 言って家財道具に火をつけていた。考えてみれば、自分たちは随 分前から狙われていた。例えば漁に行って帰って来ると沿岸警備 艇から沖で『日本の潜水艦と連絡を取っていなかったか?』とし つっこく尋問された。その理由は私の船にドラム缶が二つ積んで あるからだと言う。一つは燃料用、一つは[こませ](撒き餌に 使う小魚)用なのに『日本の潜水艦に燃料を補給するためだろ う』と疑われた。 「二万五〇〇〇弗で建てた建物を一五〇〇弗で叩き売った。辛か ったねぇ」 アメリカにもゲシュタボがやって来たのであろうか? ユダヤ 人に対するヒトラーの虐待に怒りを覚えたはずの我が国が、日系 人に同様の仕打ちを与えるとは・・・」 (NHK・ジェームス・オームラの日記)(アメリカ軍により発せられた強制立ち退き令を報じる羅府日報 Wikipediaより) ハワイでも夜の八時から翌朝の六時までは外出禁止令が出され、自宅周辺から八キロメートル以上遠くに行くときは必ず許可を必要とした。 ワシントン、オレゴン、カルフォルニアの太平洋三州に居住する日系人十一万余人の強制立ち退きがはじまった。こうして集められた収容者たちがマンザナーに着いたのは暑くて埃っぽい日であった。バスを下りた人々はそれぞれの群に分けられた。家族は配慮されなかった。スーツケースを部屋に置いたら今度は別の場所に集められ、長い袋を支給された。「それに藁を詰めてマットレスとして使え」と命じられた。 四月九日、フィリピンのバターン半島が陥落した。ここでの戦いの後、飢えてまったく無力なアメリカ兵の捕虜を、収容所まで一四〇キロメートルの長途を行進させた。多くの捕虜が、その途中で死んでいった。そのためこの行進は、死の行進として報道され、全アメリカを激昂させた。 しかしこれら日本軍の勝報は、移民にとって必ずしも心温まる話ではなかった。その上東京では、アメリカ空軍の空襲がはじまっていた。むしろその両方とも、困った事態であったのである。 四月十八日、日本近海のアメリカ航空母艦から飛び立った爆撃機十六機が、東京を空襲して中国の基地へ飛び去った。 五月六日、日本軍、コレヒドールを占領。五月八日、コロラド・リバー、別名ポストン強制収容所に、最初の自主的退去者とされた人々が、カルフォルニア州インペリアル・バレーから到着した。ここでは、最終的に七四五〇人を収容することになる。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.24
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あの攻撃を受けた真珠湾軍港では、アリゾナをはじめ八隻の戦艦が港内の浅瀬に沈み、横倒しとなりながらもその主砲は虚空を睨んでいた。そして街では日系人同士で顔が合っても、互いに挨拶も交わさず、互いに笑顔もなく通り過ぎていた。なにか自分がやった訳でもないのに、妙に後ろめたい、それでいて切ない、なんとも言葉では言い表せない辛さに、苛まれていた。 ──大丈夫、神は人間に解決の出来ない問題を与えはしないから。 そう考えて富造は祈っていた。日本のために、アメリカのために、そして移民のために。 その後二世たちは爆撃で破壊された軍港の機能回復のため働き、ワイキキ以外の海岸線にも鉄条網を張って努力したが作業が全部終わると司令官が戒厳令を出し、二世からすべての武器を取り上げてしまった。「敵性人として見られたことが、とても残念でした。それにどこへ行っても、反日宣伝に出会いました。一世は日本語しか話せなかったのに、公の場で日本語を話すのを禁じられました。老齢に近くなっていた一世にとってはさほどのことはありませんでしたが、若い二世たちの苦労は並大抵ではありませんでした。アメリカに生まれて市民権を持ちながら、その市民権を認めてもらえなかったのですから」 のちに何人かの学生たちが、そう証言している。 二十三日、日本軍、ウェーク島を占領。 二十五日、日本軍、香港を占領。「ウェーク島やギルバート諸島のマキン、タラワ島が占領された。日本軍はまもなくミッドウェイ島を占領し、そこから島伝えにホノルルに侵攻してくるという噂だ」「それに日本軍は、ハワイを足がかりにしてアメリカ本土を攻撃するそうだ」 近づいてくる日本軍の足音に、ハワイでは恐慌状態になっていた。 アメリカの新聞は日本における新聞記事の抜粋として、「サンフランシスコ・ニューヨークではわが空軍飛来の虚報におびえて灯火管制をし、ホワイトハウスではバリケードを築き機関銃をならべている由」などということを報道していた。 新聞では、[Sneaky and Surprise Attack(ずる賢い奇襲だ)]と報道していた。またタイム誌は、友好的中国人と戦闘的ジャップの違いについてこう書いた。「中国人はゆったりと歩く。表現の仕方はより優しく、穏やかで開放的だ。それに比べて日本人は、積極的でドグマ的かつ横暴だ」 このようなときに、アイダホ州の知事が、排日的コメントを発表した。「ジャップは鼠のように生き、子を産み育て、行動する。われわれは奴らなどいらない」 富造は身の縮む思いをしていた。確かにアメリカ人は、日本人を過小評価していた。その理由の一つは、人種的蔑視にあった。 ──文化の交流が差別をなくす。 そう信じ努力してきた一切が、消えて無くなってしまったのである。こんな遠いところまで日本が攻めて来られる筈がなかった。それなのに日本軍は攻撃してきたのである。そしてこのとき起きたリメンバー・パールハーバーの合言葉は、富造に米西戦争の際のリメンバー・メインを思い起こさせていた。あのときの戦争への熱気以上の熱気を、強く感じさせられていた。 ──アメリカは本気だ。 富造はそう考えていた。 日本軍がハワイに攻めてくると恐れていたアメリカは、日本軍の上陸に備えてワイキキの浜辺に鉄条網を張り巡らせた。富造のみならずハワイの日系人たちは、それらを悲しい思いで見ていた。いずれ日本軍は、オーストラリアとハワイ列島、そしてカルフォルニア州から首都ワシントンまでも攻撃する意図であると一般的に広く憶測されていた。そのためカルフォルニア州などの西部では、日系市民がこの陰謀計画に荷担している嫌疑をかけられ、ロッキー山脈地帯の諸州の奥地へ強制移住をさせられた。アメリカ人による疑心暗鬼が、これらの事態を招いていた。 ──ロッキーの向こう側か‥‥。 富造は、鉄道を建設していた頃を思い出したが、懐かしむ感覚になれないでいた。あの日本人たちの受けた、人種差別を思い出していた。 (VVVによる塹壕堀り) ロバートソン伝道部長の後任となったジェンセンは、宣教師に訴えた。 真珠湾で起こったことのために、あなたがたは日本人を憎んで はいけない。(略)彼らは善良な人々であり、彼らの指導者の行 いに対して責任を負っていない。そして将来、福音は力をもって 日本に戻って行くであろう。あなたがたは、ここハワイの日系人 を愛するように彼らを愛し、一日に充分の時間がないように働か なければならない。 (日本末日聖徒史) 教会で祈り、それらの説教を聞いても、気は休まらなかった。富造は今までの自分たちの平和への努力が、水泡に帰しつつあることを悟っていた。「日本人漁師が真珠湾に機雷を敷いている」「日本人がトンネルを破壊しようとしている」「日本人が水道に毒を流している」「日系人の所有地から大量の爆弾が見つかった」 これら根も葉もない噂が、日系人を苦しめていた。その一方で日系人たちは、日本軍が再び爆撃に来ると恐れていた。 ──ドイツもヨーロッパで、都市に無差別爆撃をやっている。もし日本軍の空襲がホノルルの市街地に及べば、どうなるのか? 爆弾には、日系人を見分けることが出来ない。 そう考えることは、すでに恐怖であった。 間もなく、「太平洋沿岸の三千人を逮捕する」というラジオ放送があり、その晩のうちにハワイでも多くの日系人が逮捕された。「命がけで、『つまらないことをするな』と抵抗したらピストルを突きつけられ、『電灯を消さないと撃つ』と言われた」(ハワイ日本人移民史) ハワイの軍部や官憲は日本軍による夜間爆撃を恐れていた。しかし富造は、KFI(ロスアンジェルス)でルーズベルトが放送したのを聞いていたので、家族にも状況を話して覚悟をしていた。それは緊張もあってか、身震いをするような肌寒い夜であった。「わが家はすでに日本を離れて五十年。子どもたちもいる。われわれ一世とは違い、子どもたちはアメリカの市民権を持っている。今はアメリカ政府の命令に従い、無用の行動を起こさぬこと。それにミネ。いくら戦争とは言え、アメリカは無抵抗のわれわれの命までは取るまい。忠実なアメリカ市民として行動すればよい」「でもあなた、あなたや子どもたちは市民権があるからいいとしても、市民権のない私はどうなるのですか?」 富造はこのミネの質問にまごついた。回答の準備がなされていなかった、いや、回答するための資料がなかったのである。 学校では二世の子供たちが犠牲になっていた。授業で教師が、「真珠湾が日本の騙し討ちにあった」と何度も言うたび、他の子どもたちが一斉に二世たちを振り返った。授業が終わると、「やい、スネーキー・ジャップ」などと小突く者もいた。まるで日本人は、すべてがずる賢い人間というイメージであった。 日本人の寺院、神社、日本語学校は強制的に閉鎖され、柔道や剣道など武道の類も全部中止させられた。各個人は、家に飾っておいた天皇皇后両陛下の御真影、刀、着物、日本語の本、家族の系図、その他日本に関連するすべてを焼いた。その他にも、短波ラジオ、望遠鏡、カメラなどは警察に提出させられ、日本語は禁止されて英語の使用を義務づけられた。結果として大日本帝国のためにやった筈の真珠湾攻撃は、ハワイに限らずアメリカ以外の各国にも移民したすべての日系人の人権を、大日本帝国そのものが踏みにじってしまったことになってしまった。 踏みにじった祖国からハワイ諸島に生きる人々を守るためには、アメリカ軍に協力することが日系移民の最良の判断とされた。日本人は一世や二世の区別なく、ハワイに生きる者としてのアメリカへの義務を果たすべきであるとされた。しかし日本人、日系人のアメリカに対する忠誠心を疑う人々は多く、日系人を理由に、いままで以上の差別行為も起こっていたのである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.23
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(アメリカのハワイは、海で日本と国境を接していた) 真 珠 湾 十二月七日(日本時間十二月八日)の早朝六時頃、所属不明の小型潜航艇が真珠湾内で撃沈された。それから間もない七時四〇分頃から約三〇分間、そして約四〇分の間隔をおいて約一時間、真珠湾が爆撃された。飛行機の翼には、はっきりと日の丸が見てとれた。太平洋戦争が開始されたのである。 わたしがヌアヌ(街)をやってる時分に、真珠湾やられたんだ から。あれは七日でしたねえ、日本じや八日だから。ちょうどそ の七日の朝ねェ、日曜でしたよ。日曜はわたしも忙しいんだから、 朝早ァく起きてパイをつくる、シチューをこしらえる、ねェ、そ してほとんどみんなもういい具合にできたころにィ、どうも、コ ウ、ドンガラドンガラ音ォするもんねェ。「どうしたんかァ」っ て言いながら、気がつかんでおったですよォ。それから裏にちょ っと小便しに出たところがァ、なに、ひどいのォ、ほんとの音ォ するもん。そしてよく見たところが、真逆様に飛行機が、コウ、 落ちよるじやないの。「ハァーッ、こりやァ真珠湾の方で大きな 大演習やっとるわい。明日の新聞、見ものだぞィ、こりやァ」な んちゅってねえ。「実戦さながらだ、なんて出るぞォ、こりやァ」 なんちやって、そのつもりで自分はケチンで仕事しよった。そし たらわたしの兄の子、金吉兄の子がここに来とったから、三郎ち うのがツラッカー(トラック)で商売しよったですよ、荷を持ち 歩きする仕事ねェ、そいつがァ、「アンクル(オジさん)、日本の なに、兵隊来てェ、戦争だい」って言ってからに、やって来たの よ。「なァに言うかァ」ってな調子よねえ、わしも。そんなこと になるなんて、予期してなかったですよ、わしは。だから、一九 二五年ごろからの演習はね、あれやるころから、もう、日本人排 斥のォ気配はあったんだからね。そして日本がどんどんどんどん 良くなってくるから・・・、もうこっちが嫉妬するのが当り前ェ ー。でも、まさか日本がアメリカさァ、アメリカまでやって来る とは夢にも思わんだったねえ。 「どうするかァ」 「どうするもこうするもない。ダウンタウンにおったんじや危い から、とにかく寝道具みんなもって、家へ行こうやァ」 ちうて、ちょうど甥坊が第七大通りに住んでおったから、家も大 きかったから、じやァそっちに寝してくれェちうて、甥坊ツラッ カーもっとるから、それにみんな乗って、そっちに行ったのよ。 日曜の朝でェ、コックの準備たァくさんしとったでしょうがァ、 それをみんなアイスポックスにぶち込んでェ、行きよったのよ。 そうしたところがねェ、兵隊のツラッカーがどんどん、あのベレ タニア(街)をあの死骸、人間よ、兵隊の死んだやつ。あれをツ ラックさ大根積んだように山盛りに積み上げて、火葬場さ持って 行くのよォ。そォれ、見ましたでェ。アアーア、あの足、積み上 げた人間の足ィ、ハハ、ちょうどね、大根よ、ちょうど。そうや って、ヌアヌ(街)からベレタニア(街)を上っていくの、見ま したで。 ほんとォ、あれには魂消たねェ。どうしていいやら、 わしらァ見当つかなんだった。自分は敵国人、子供らは市民、ど うしていいやら、もう、・・・もう、なるようになれェ、てな考 えよねえ、わしィ。店は閉めちまったァ。どうしようもないと思 って、甥坊の家に一週間ほどおったよ。そうしたらレェディオで え、放送しよったですよ。「ビジネスもったものは早く戻って、 とにかく仕事をスターチしてくれェ」ちうて。セービスだから、 ね。早くやってくれんと困るから。その代り、食糧のチャンスや るから、品物購うんでもなんでも、てねェ。それじや、戻ってや ろう、仕方ない、遊んでるわけにやいかんから、ちて。一週間の 間、子供みんな連れて甥坊のとこさ行って、とても外さ出られん、 二ュースもろくろく聞かれん、ねえ。新聞もストップ。どうもこ うもならん。ハァ、盲滅法よォ。暗闇よォ。閉じこもっておりま したァ。英語の分るのは、〔家に〕おりましたよ、むろん。でも、 英語の分る奴は、日本語が解せんのだからァ、ハハハ、日本語に 直せんェ。こっちは日本語が分っても、英語に直せんのだから、 ハハ、困った・・・、レェディオのニュース、英語でァ聞いとり ました。ほんとォ、あの当時は、どうしたらいいかと、迷ったよ。 でも、とにかくわたしが店ェもっとったために、店へ行ってや りだしたのよ、ねェ。行って見りゃ、ハー、アイスボックスのな かァ、みんな腐りおる、ねェ。ハハハーッ。みんなやり直しで、 やりおったよ。 でも、割合とわたしらはァ、安気だったねェ。わしらには、日 本人の頭に立つなんてことは何もないんだから。ね。あの当時は、 新聞社から、お寺から、宿屋からなにから、日本人の頭に立って るものは一晩にみんな移民局に引張られっちやったんだから。ほ とんとがねェ。わしらはなんにも調べられなかったァ、ええ。偉 くないんだから。ケチンの油虫と、ほんと、ひとつこったっけ、 ヘヘヘ。あれだけァ安心だったよ。 弟にワヒアワの店、わしィやってきたからね、その弟は調べら れたそうだ、FBIから。みな、家の中、家捜しされたそうな。 わしは、ナニ、店の裏に寝とったんだから。店が表で、裏にぶっ 壊れ屋をこしらえてそこに寝とったんだから、だァれも知らんの よ。ハハハ、アイ・ティン、巡査もなにも知らんのよ。 パールハーバーが日本軍に爆撃されているとき、私はちょうど 助手席に乗って、ハーバーを見おろせる高台を走っていた。はじ めはドリル(Drill 訓練)と思ったんだが、あまりにすざまし いので変だと思った。はじめはどこの飛行機か分からなかったが、 山の上に来たとき、飛行機に日の丸が見えたんです。それを見て、 馬鹿なことをしてくれた、アメリカはリッチな国だから、勝てる 筈がない、と思ったのです。 (ハワイ日本人移民史) 奇襲直後、ハワイ大学の予備役将校訓練部隊には即座にライフル銃を支給され、セント ルイスハイツというハワイ大学近くの高台に降下したと報告された日本落下傘部隊に応戦する命令を受け、派遣された。これは誤報であったが、七日午後、予備役将校訓練部隊はハワイ準州守備隊の指揮下に入り軍事重要地点の警備にあたることになった。この部隊には多くの日系二世が含まれていた。二世たちも銃をとり、一晩中見張りに立った。「あの若者たちは、どんな気持ちで銃をもって歩哨に立っているのだろう。悲しい気持ちだろうな」 富造がそう言うのをミネは窓から外を見ながら、もし日本軍が攻めてきたら、あの子たちの銃からも火を噴き、日本兵たちが死ぬのかと思うとなにも言えなかった。 富造はハワイのみならず、アメリカ本土からも正しいニュースを得ようとしてラジオにかじりついていた。「撃ち落とされた飛行機の日本人パイロットの持ち物から、マッキンレー・ハイスクールとハワイ大学のスクール・リングが見つかった」 (注*School Ring・マッキンレー・ハイスクールはハワイの 高等学校である。要するにハワイ出身者がハワイを攻撃 したということにして敵愾心を煽っていた)「日本軍零戦一機、ニイハウ島のブウワイ村に不時着。地元住民に射殺さる」「七日昼、日本軍ウェーク島の航空機基地を攻撃」「七日夜、帝国海軍、ハワイ列島最西端のミッドウェイ島と二つの珊瑚礁を艦砲射撃」 八日、新聞はこれらの記事を、大見出しで伝えていた。ハワイ列島は、アメリカの本土を意味していた。ルーズベルト大統領は、「この日はアメリカの恥辱の日として、アメリカの歴史に残る日であろう」と放送。アメリカ議会に対して、「どんなに時間がかかろうともこの侵略者たちを打ち負かし、正義の力によって完全な勝利を手にするのです」と演説をして対日宣戦布告を可決した。反対する議員は、一名に過ぎなかった。 十日、日本軍は日本の委任統治領の中央にあるアメリカ領グアム島を占領した。同日、フィリピン・マニラ湾のキャヴィテ軍港が壊滅させられた。 ついにアメリカ領そのものが戦場となったのである。シンガポール方面では、イギリス新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋艦レパルスが帝国海軍航空隊の餌食となっていた。そして十一日、ヒットラーは、アメリカに宣戦布告をした。アメリカは。両正面作戦に引きずり出されてしまったことになった。「アメリカは、避けていた戦争からもう逃れることはできないな」 そう独り言のように言う富造の顔を、ミネは不安気に凝視していた。すべての在米日系人が、否応なしに日本人であることを意識せざるを得なくなっていた。「十二月三日の朝刊に掲載された日本人経営の洋装店の広告が、真珠湾攻撃に最適の時間と真珠湾に停泊中の船舶名を教えていた」「日本の爆撃機が目標に飛んで行きやすいようにと、砂糖キビ畑では真珠湾向きの矢印の形にキビが切り取られている」 このような話が、まことしやかに囁かれた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.22
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一九四一(昭和十六)年三月、ヨーロッパの戦線で苦況に立っているイギリスやフランスを見たアメリカは、この両国に対して武器貸与法案を成立させた。しかし、まだヨーロッパの戦争とは一線を画していた。四月、日ソ中立条約が締結された。ドイツとソ連の不可侵条約に、対応した動きであった。この条約でとりあえず北面の敵を制した日本は、七月、銀輪部隊(自転車部隊)で南仏印に進出した。日本は仏領インドシナを占領した。これを見て日本が南進政策に転じたとして警戒感を高めたアメリカは、国内の日本資産を凍結し、A(アメリカ)B(ブリティッシュ)C(チャイナ)D(ダッチ・オランダ)の包囲網を築いて石油、機械類、鉄屑、鉄鋼の禁輸に踏み切った。日本はその報復措置として、その支配の及ぶ地域のすべてのアメリカ資産を凍結した。日米貿易は、事実上完全に停止した。 ──日独伊防共協定の拡大として日独伊三国軍事同盟が結ばれているのに、日ソ不可侵条約を成立させるということに、なにか不自然さを感じる。日本は米英と戦う積もりなのではあるまいか。もしそうだとすると、日本に統治が委任されている南洋諸島はここからは近い。ハワイも危ないのではないか? 戦争になって欲しくはないが、なる可能性も否定できない。 富造はそう思っていた。 ところがそのドイツは、独ソ不可侵条約を一方的に破棄するとソ連に侵攻した。そのあおりを食って、近衛内閣は瓦解した。その後に成立したのが東条内閣である。そこで関東軍は満州で大演習を行い、ドイツと戦うソ連を背後から牽制した。そのためソ連は日ソ不可侵条約がありながら、シベリア軍団をヨーロッパ戦線に回せなかった。日本が、日ソ不可侵条約を破棄する恐れを捨てきれなかったのである。日本では生活規制が強まった。ハワイでは戦争の足音のためパイナップルの輸出量が極端に減り、大暴落により再起不能の人もでていた。 ──ひょっとすると日本は、日ソ中立条約を破棄して、ドイツに呼応してソ連に侵攻するのではあるまいか? できれば日本がソ連とは戦っても、アメリカと戦って欲しくはないな。 富造はそう思っていた。しかしドイツによるヨーロッパの負け戦(いくさ)、イギリスの子どもたちのアメリカへの疎開、さらに一夜にして市民三〇〇〇の命を奪ったロンドンへのドイツ空軍の無差別大空襲、そしてドイツ海軍のUボートによるアメリカからの援助物資輸送船の相次ぐ撃沈が、アメリカの参戦を予感させていた。 戦後分かったことによると、この八月十八日、ミシガン州選出のジョン・ディンゲル下院議員がルーズベルト大統領宛の手紙の中で、「一万人のハワイの日系アメリカ人を人質として強制収容し、日本のよい態度を引き出すよう」との提案をしていたという。 十月、輸送船団護衛のアメリカ海軍の駆逐艦・カーニィは、アイスランド沖でUボートの攻撃を受け、十一人が戦死した。これはドイツ軍による最初のアメリカ軍兵士犠牲者となった。さらに三日後、アメリカ海軍の駆逐艦・ルーベンジョーンズが撃沈されて一一五人が戦死し、参戦の世論が高まっていたが、アメリカ政府はまだ沈黙を守っていた。 十一月十二日、ロスアンゼルスのリトルトウキョウで、実業家やコミュニティ・リーダーら十五人の日系アメリカ人がFBIの急襲を受けて逮捕された。逮捕された十五人は当局に協力を表明するとともに「私たちはアメリカの基本原則と誇り高いアメリカン・デモクラシーを教えてきた、私たちは平和と調和の下にここで暮らしたい。私たちは一〇〇%忠節である」とのコメントを発表した。 十一月二十日、日本から派遣された外交団は、アメリカに対し、次の要求を突きつけていた。1 日本資産の凍結解除。2 日本が必要とするだけの原油の供給。3 中国に対するすべての支援の中止。「どうも無理な要求だな・・・」 相賀も言った。「これでは、アメリカが納得すまい」 相賀の言葉に、富造は黙ってうなずいた。 しばらくして富造が言った。「俺はもともと、東北とは日本の近代化のために栄養を吸い上げられた堆肥みたいなものであったと考えてきた。そのためすべての栄養分を吸い上げられて移民先に放り出された東北の移民たちは、その労力のみで生き延びてきたことになる。それなのに日米双方が、それぞれの立場でわれわれを利用してきた。だからもし日米が戦争ともなれば、またわれわれは双方の側から利用されることになる。そうなるとわれわれは、そこから逃げられないのではないか?」「なんだ勝沼。随分と運命論者だな」 この相賀の冗談めいた答えにもかかわらず、二人からは笑いが漏れなかった。ただ押し黙っていただけであった。 巷間「日米戦争はない」と言われていたが、あまりにも多くのアメリカの軍艦が真珠湾に集結して来ていた。それはそれで、気になることであった。「日本はアメリカと戦争をするつもりなのだろうか?」 家に戻った富造は、ミネにそう言った。「だって、日本とアメリカはずいぶん離れていますよ」「そうは言っても、ハワイと日本の南洋諸島は近いぞ」「じゃあなたは、日本が南洋諸島からハワイに攻めて来ると?」 富造と同じく、日系人社会は沈黙の中にあった。そしてハワイは、いつもより寒い冬の季節の中にあった。「めったに降らぬハワイ島のフアラライ山にも雪が降ったそうだ。青い海原から霞んで見えるマウナケアやマウナロアそしてフアラライの三つの山の頂上に、くっきりとした白い雪が、素晴らしい眺めだそうだ」「まあ、それは見てみたいですね。私も子どもの頃、秋の深まったお城山に登って遊び、雪で白くなった岳山(安達太良山)を見て、『ああ、間もなく町にも雪が降るわ』などと言っていたことを思い出します。ああ、それにあなた、子どものころ頬張った雪の味を覚えていまして? マウナケアの雪も同じ味なのでしょうか」「そう言えばそんなこともあったな。それに雪合戦などした後、雪を手で丸めて食うと微かに雪の匂いがしたな」「まあ、匂いですか? そんなものがあったでしょうか?」「あれっ、そうか? マウナケアの雪にも匂いや味があるかどうかは分からないが、三春の雪では気がつかなかったか? それにしても雪の話をすると郷愁を誘われる。多分今ごろ、三春は雪の中に埋もれているのだろうな・・・。そうだ、ミネ! ビックアイランドに雪を見に行かないか?」「まあ、ハワイ島までマウナケアの雪を見に連れて行ってくださるのですか?」 富造は、久しぶりにミネのはしゃぐ顔を見たような気がした。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.21
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三月、羅府(ロスアンゼルス)新報は英語版の社説において、次のように主張した。「日本との絆を断ち切れ! いまや多くの日系人は日本を見たこともないし将来も見ることはない。日本への支援と疑われるようなことは、するべきではない。われわれは心底アメリカ人であるべきだ。アメリカが故郷と思い定めるべきだ」 ところがそれに引き替え同日の日本語版社説は、日本を強く支援する論調であった。この乖離がアメリカ人の間に、日系人に対する不信をさらに広げることになった。 ホノルルでは三つある日系日曜学校の出席者はそれぞれ一〇〇人、合計で三〇〇人にも及んでいた。その上マウイ島やカウアイ島でも、日系人に対する末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道がはじめられていた。この伝道の成功を見たロバートソン伝道部長は、四月、富造ら教会関係者の見送りを受けて、龍田丸で日本へ向かった。「日本での伝道が成功し、平和への祈りと福音が伝えられますように・・・」 そしてこの富造らの平和への祈りを無視するかのように、ノモンハン事件が発生した。しかしソ連軍に破れたこの戦争の結果は、日本で報じられることはなかった。戦争が事件にすり替えられてしまったのである。そしてこのような中での日本における強い反米感情から、末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道は長期にわたるものとはならなかった。 なんとか日本を中国から撤兵させようとしていたアメリカは、日米通商条約を破棄し、石油と鉄を供給しないと脅していた。その一方でアメリカは、ヨーロッパやアフリカでの戦いに対して中立を宣言した。それを見透かしたかのようにドイツはソ連と不可侵条約を締結し、ポーランドを占領してしまった。日独伊防共協定を結んでいた日本としては、この独ソ不可侵条約を結んだドイツの動きに混乱していた。ヨーロッパの政治情勢の変化は、凄(すざまし)いものであった。 富造はアメリカと日本の新聞とを読み比べていた。どうも報道の内容が違っていた。あの羅府新報の報道姿勢が気になっていた。「われわれ日系移民はアメリカ人とは隣人として生活している。彼らとは普通に付き合いたい。日布時事は正確な報道姿勢に徹したい」「確かにそうだが相賀。しかしこうなってくると、われわれ自身が人質としてアメリカに取られているようなものではないか。嫌いだけど愛する日本。この矛盾した感覚。愛憎半ばする感情・・・」「うん、これではまるで、われわれ移民は風にそよぐ葦のようだ。風のまにまにというところかな?」「風のまにまにか・・・。われわれの意思は、無いに等しいということか・・・」 それでも富造一家は、つかの間の平和な生活を楽しんでいた。庭では兄の丈夫が一番下の娘の淑子に小さな馬車の乗り方を教えていたし、小さな孫たちのお気に入りの遊びは大きく湾曲した家の階段の手すりを二階から滑り下りることであった。またそこでは富造の飼っていたオウムが「ポリーは、クラッカーが欲しい!」と人の口まねをして、食べ物を催促していた。世界情勢は変転していたが、勝沼家は平和の中にあった。 一九四〇(昭和十五)年、ドイツ軍は破竹の勢いでデンマーク、ノルウェーに侵入し、さらにはオランダ、ルクセンブルグ、ベルギーに侵攻した。イギリス、フランスなどがこれを阻止しようとしたが、失敗した。そしてドイツは、イギリス、フランスに真っ向から戦いを挑んだ。六月にはフランスが降伏し、イギリスの降伏も時間の問題と思える状態となった。 このころ日本は、ドイツ側につくのが有利だと計算していた。ドイツと手を結べば、今までオランダやフランス、そしてイギリスの植民地だったアジアの国々と、ボルネオやスマトラの石油資源を一挙に自分のものにすることができると考えられたからである。アメリカの経済封鎖は、域内での資源確保を至上命令としてしまった。そしてそのような考えにある人々にとってドイツは希望の光であり、ドイツと同盟さえ結べば日本が抱えている問題の一切が解決するなどと夢想していたのである。 日本は世界に対し、公然と「新たな体制を造る」との宣言を発した。日本の政界、軍部内で、にわかに東南アジアへの注目度が高まった。仏印(ベトナム・カンボジア)はフランスの植民地、蘭印(インドネシア)はオランダの植民地であった。いまそれら植民地の宗主国は、ドイツに圧倒されていた。いまのうちに、日本はそれらの植民地に手を伸ばしておく必要があった。日本は北部仏印に進駐を開始し、日独伊防共協定は日独伊三国軍事同盟となってその連携を強化した。(「仲良し三国」1938年の日本のプロパガンダ葉書はドイツ、イタリアとの日独伊三国防共協定を宣伝している。Wikipedia より)「日本の言う東亜新秩序とは、結局日本が都合のいいようにやるということではないのか?」 富造は相賀に疑問を提示した。「私も日本は大東亜共栄圏という建て前で、フランス、オランダ、そして間もなくイギリスもドイツに降伏して空き家となる筈の東南アジアの国々を、ドイツやイタリアがやってくる前に日本が占領して既成事実を作り上げておく、そういう思惑なのではないかと思う」「しかし、日本の思うようになるのだろうか?」「それは分からないが、ドイツは確かに強い。だがドイツが強いことと日本が強いことは同意語ではあるまい? 日本は中国戦線では強いようだが、アメリカが相手となるとそうはいかないと思う」 ハワイはアメリカと日本との戦争を望んでいなかった。しかし太平洋艦隊を日本に近づけることで日本への強いメッセージ送れると思ったアメリカは、その艦隊を前哨基地としてのハワイ、特に真珠湾に集結させ、オアフ島防衛のための諜報網を築いていた。急速なこの基地の整備増強のため、日系人に限らず、多くの移民の労働力があてにされた。しかし反面、アメリカ側はこれら移民のストライキや特に日系人の政治的反逆を恐れていた。そのため日系二世のアメリカへの忠誠度を疑い、ナショナルガード(地方レベルの軍隊で非常時には正規軍に編入される国民軍)への入隊を禁止していた。「ミネ、困ったな。日本は何か悪い勘違いをしているようだ」「ハワイも戦争になるのでしょうか?」「いや、そんなことはあるまいと思うが」 富造はそうは言ったが、自信がある訳ではなかった。 しかしこの時点で、帝国海軍の軍艦保有量が八四万トンだったのに対してアメリカは三〇〇万トンを有し、飛行機は日本が二三〇〇機保有していたのに対して一万五〇〇〇機も保有していたのである。さらに石油の自給率はわずか一割で、そのほとんどをアメリカに頼っていた。 次兄・重教の死去が知らされたのは、この頃であった。 ──重ちゃん。こんな不穏な空気では、お葬式にも出席できない。ごめんね。他国の人がわれわれを変な目で見ているのではないかと思うと、怖くて家からも出られない有り様なんだよ。 重教は、八十三歳での死去であった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.20
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アメリカ西海岸から白人のアメリカ共産党メンバーがハワイにやってきたことによって、白人と日系人を中心とした共産党組織が形成されはじめた。労働者階級は人種を問わず、資本家の搾取から自由な新しい世界が築けると信じて労働組合を組織した。 また日華事変勃発にともなって、愛国献金、愛国機献納、皇国慰問袋募集などの運動が日系人の間で進められていた。さらに日本で挙行された皇紀二千六百年式典に参加した日系人有力者もあった。彼らはアメリカに戻った後、日本の大政翼賛会米国支部を設けようと提案したほどであった。 日本では国家総動員法が施行され、戦争への体制作りが進むなかで、ソ連と張鼓峰で衝突した。そこで日本は東亜新秩序を叫び、日満支三国提携を主張していた。この戦争への危険な情勢は、アジア最初の開催となる予定であった東京オリンピックを中止に追い込んでしまっていた。「日本が主張するアジアにおける日本の優位性を、西欧も納得すると思っているのであろうか?」 これは富造にとっても、大いなる疑問であった。相賀が言った。「日本は日独伊という小さな枠組みに依拠して、世界の体制から孤立化して行くかのように見えるが」 ドイツがオーストリアを併合した。この国際情勢の変化に対して、アメリカはダイナミック対応した。 ルーズベルト大統領の「侵略者を隔離せよ」という演説のなされた翌年のこの年、アメリカ国内での日本を含む仮想敵国、とくにナチ・ドイツの宣伝スパイ活動を主として調査するという名目で、非米活動委員会がテキサス選出マーティン・ダイス下院議員を委員長とする暫定委員会として設置された。この委員会の思想抑圧的役割は、この設立頭書からきわめて歴然としていた。 このようななかで奈知江常が死去した。七十歳でホノルルに来てハワイ島にも伝道を広げ、その意志の通りに生きた彼女は、八十二歳になっていた。 ──奈知江さん。言葉が悪いかも知れないが、あなたがいま亡くなったのは、幸せかも知れません。今後日本が、アメリカが、そして世界がどう変わるか、まったく先が見えません。私も七十五歳になりました。いい日本やいいアメリカを見て死にたいものです。 二月二十六日、平和への強い努力を続けていた元駐米日本大使の斎藤博は、心労もあってかワシントンで死去した。斎藤に傾倒していた時のルーズベルト大統領は、国賓として彼の遺骨をアメリカ海軍・重巡洋艦アストリア号に乗せて日本に運び、外国人として最高の栄誉を与えた。それはまた、ヨーロッパとアジアの両面作戦を避けたいという、アメリカから日本への強いメッセージでもあった。 しかし日本側はそうは考えなかった。「遺体を運ぶのに、なぜ軍艦を使うのか!」 すでにボタンの掛け違いが始まっていた。 (アストリア号 Wikipedia より) 二月、羅府新報の報道。 滞羅中の古賀政男氏「二世行進曲」作曲~募集歌詞に適当 のものなく~歌詞も同氏が作る 日系市民協会ではシェラマドレ滞在中の古賀政男氏に第二世行 進曲の作曲を依頼し一般より歌詞募集中のところ文句はいいが唄 ふのに適するのが少ないので、古河氏の作詞作曲になったものを 来る三月廿六日夜大和ホールで演奏、その収入を市民協会の基金 とすることになった。二世行進曲並に二世嬢の唄「薔薇の夜明け」 は左の通り。 第二世行進曲 一、祖国を遥か うみ涛海越えて ここアメリカの大陸に 正義とあい愛国に奮い立つ 日本は生みの親にして 育ての親はアメリカぞ 我らは尽くす親善の 使命に燃ゆる第二世 二、自由の蒼空に平等の 輝くそら朝暈望みつつ 希望の丘に佇めば オレンジみの熟るうた詩の国 夜空に薫る星の花 他山の石になるとても 異境の土を拓くべし 三、掲げて交せ日米旗 平和の風に親善の 歓喜は満てり朝ぼらけ 正義に燃へて進み行く 烈火の意気ぞ同胞よ 努めよ励め朝夕に 理想の峰は君を呼ぶ 第二世女性の歌 一、薔薇のよあけみどりの地平 愛の光にて掌も取り合ふて 拓け大陸希望の扉 胸に正義の血は躍る ランラ正義の血は躍る 二、進め吾等は第二の母よ 強く雄々しい日本女性 大和撫子と清らに咲いて 薫る貞節国の華 ランラ貞節国の華 三、土地は豊かにオレンジ熟る 靡く平和のあの日米旗 観よや広漠北アメリカの 父母がひら開墾きしこの天地 ランラ開墾きしこの天地 四、尽せ親善在米同胞 愛の小鳩の翼の音に 自由平等仲良くとも協力に 築く未来の金字塔 ランラ未来の金字塔 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.18
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突如イタリアはエチオピア併合を宣言、日本はロンドン軍縮会議を脱退した。それらのニュースを見ながら、富造は相賀に言った。「国際連盟を脱退し、今度はロンドン軍縮会議から脱退した。アメリカは日本をどう考えるのであろうか?」「これは日本にとって困難な事態になるのだろう。自分から脱退して出来る無条約の時代は、日本の孤立化を意味するなにものでもないのではないか。どこの国が日本に協力してくれるのか? それを考えると頭が痛くなる」 その危惧の念が、現実となりはじめていた。二月二十六日早朝、歩兵第一、第三連隊、近衛歩兵第三連隊が反乱を起こしたのである。 これらの部隊は首相をはじめとする各相の私官邸、警視庁、朝日新聞社などを襲い、内大臣、蔵相、教育総監などを殺害し侍従長に重傷を負わせた。さらに反乱部隊は首相官邸、国会議事堂、陸軍省、参謀本部を含む永田町一帯を占拠した。この事件の成否は三日間にわたって不明であったが天皇の反乱軍の撤兵を命ずる奉勅命令により、あっけなく幕を閉じた。この反乱軍の将校自体も天皇に忠誠を誓っていたから、いざ反乱軍と規定されるとたちまちよりどころを失い、自殺、あるいは投降した。つまり尊皇討奸を叫ぶ彼らが、逆に反乱軍として討伐の勅命を受けるという、皮肉な結果となったのである。その後のニュースで、岡田首相は殺害を免れたということが報道された。「なあ小野目。今度の事件を見てると、戊辰戦争を想起させられる。あのときも錦の御旗を前にした同盟軍は、分解して瓦解していった」「戊辰戦争か・・・。お互い東北出身だと、どうもそこにこだわりがあるな。それに今回も天皇陛下の一言で事が治まった。ただこの決着がよかったかどうかは別問題だが」「しかしこの頃、俺には天皇陛下とは何なのか、が分からなくなってきた。」 富造はそう言いながら周囲を見回した。天皇を話題にすることはタブーだった。それであるから、誰かが聞いていないかと気を回したのである。富造は声をひそめた。「どう考えてみても、この世に神の生きている訳がない。現人神というのは、まやかしではないのか?」 しかしそう言いながらも富造は、「ついに、口にしてしまったか」という悔悟の念に襲われていた。 ──小野目のことだ、きっとこの話を内密にしてくれる筈だ。 そしてスペインでは、フランコ将軍を首領とするファッシストの反乱が起こった。正規軍を中心とする反乱軍は、世界各地からの義勇軍に対して独伊両国の公然たる軍事援助を受けた。この戦争において、ドイツはスペインに自己の持てる新鋭武器を提供することで、その実験場としていた。スペインのゲルニカがドイツ空軍の無差別の戦略爆撃に曝され、やがてスペイン王室は海外に亡命していった。ピカソがゲルニカを画き、「独裁政治の続いている間は帰国しない」と宣言したのは、この後のことであった。「ヨーロッパに広がりつつある国民戦線(ファッシズム)と人民戦線との対抗の渦中で、日本はファッシズムの道を進むのではなかろうか?」「こうなると、われわれ一世は帰るに昔の日本が無く、いま自分の住むアメリカからも疎外されることになるのではないか?」 あの「日本人除隊兵に市民権を与えよ」との運動は、「東洋人在郷軍人帰化権付与法」としてアメリカ国会を通過、大統領も署名して発効した。「しかし折角通過した法案だったが、市民権を得られるのは戦争に参加し命を全うした者だけだからな。やはり片手落ちの法律だ」 富造らは、そう言って心配していた。 そのようなときヒットラーの率いるドイツの首都・ベルリンでは、オリンピック大会が開かれた。ラジオから流れる「マエハタ ガンバレ」の絶叫は、世界中に散った日系人の興奮を呼んでいた。ドイツはこのオリンピックまでを、自己の政治的宣伝の場としていた。そして十一月、ベルリンで日独防共協定が調印された。 この協定は、コミンテルンの活動について情報を交換しあい、相互に反共措置について協議するというものであった。特に外務省は調印の日に、「これはコミンテルンよりの防衛を目的とする以外のなにものでもなく、ソ連、その他いかなる特定国をも目標とするものではない」と声明した。日本の外務省は、「日独防共協定は他国の加入を希望する」との声明を発したが、額面通りに受け取る国はどこもなかった。「なんともいい加減で矛盾に満ちた声明だな。日独防共協定や日伊エチオピア協定を結んだ日本は、アメリカの好まぬファッシストとの連携を強めていることを隠し切れないでいるようだ」 相賀安太郎は、そう心配して言った。「それでなくても悪化するこのアメリカの反日感情の中で、われわれは行き場を失ってしまうのではないか?」 富造も心配をしていた。またあの排日運動の再来を恐れていたのである。 一九三七(昭和十二)年、末日聖徒イエス・キリスト教会のロバートソンが、日本伝道部再開のためホノルルに着いた。 ロバートソン伝道部長が着任したとき、ハワイには十七人の日系人教会員がいたが、最初の日曜には、トミゾー・カツヌマ、奈知江常、池上吉太郎を含む三十五人の日系人教会員、求道者が集会に出席した。 (日本末日聖徒史)このようなとき、富造は神に救いを求めていたのである。 日華事変が発生した。ハワイには日本の練習艦隊が、時折寄港していた。「学校の友だちで行きたい人が、みんなで一緒に港へ行ったんですよ。日本語の稽古にもなりましたしね。日華事変のときには、私は慰問袋を作ったんですよ。千人針などもやりました」 世界も、そして日本にも、間違いなく戦争が近づいていると思われた。その一方で、中国爆撃で死んだ子供の写真のプラカードを持って、数十人の人たちがホノルル市内で反戦デモをやっていた。政府が動かなくても、市民レベルでの日本ボイコットが起きそうだった。十月二十六日の羅府新報日本語の社説では、「欧米勢力を駆逐し極東地域のタクトを日本が振る。日系人により献金や慰問袋が組織的に作られ日本の陸海軍省や中国で戦う兵士に贈られた」と日本を擁護していた。ところがその一方、英文の記事では「日系人の商店の多くが不買運動などで廃業に追い込まれた」「日本の絹を使わない会や絹の靴下を履かない会が出来た(不買運動)]などと、日本に対するアメリカ社会の不当を責めていた。 日系人の多くは、日本からの報道を正しいものと信じていた。しかしその半面、アメリカでは中国での戦争や爆撃の結果、中国側民間人の被災人数まで報道されていたため、日本は人道の敵と非難されていた。「よく日本では本音と建て前と言っていたが、これはアメリカ流に言えば、ダブルスタンダードということだな」 富造のもとに、日本から菅原伝の死去の通知が届いた。思わず富造は自分の年を数えた。 ──菅原は俺より一歳上だ。彼には随分世話になったが、亡くなったとは・・・。それにしても七十三~四歳とは、俺ももうそんな年になったんだな・・・。長いあいだ親しくつきあった友の死に、強い精神的ショックを受けていた。ついに、日独伊防共協定が成立した。 ──もし菅原がこれを聞いたら、どう思ったであろうか? 十二月、揚子江を航行中のアメリカ砲艦パネー号と商船三隻が、帝国海軍機六機の攻撃を受け撃沈された。アメリカの世論は激昂し、日米開戦を唱える声も出た。駐米大使斎藤博はラジオを通じて全米に詫びの言葉を述べ、補償も約束した。いわば無警告のまま一方的に日本が先制攻撃を仕掛けた形となったパネー号事件に対し、ルーズベルトは慎重に対応していた。 この間に、南京大虐殺が報道された。アメリカは国家の意志として、初めて日本を非難した。ルーズベルト大統領は日独伊のファッシズムの台頭に対決するため、「侵略者を隔離せよ」との演説をシカゴで行い、アメリカがファッシスト枢軸反対の旗幟を鮮明に打ち出したのである。(パネー号事件はアメリカで大々的に報道され、対日感情悪化のきっかけとなった) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.18
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風 の ま に ま に アリゾナ州フェニックスで、農業用水路の破壊、家屋の爆破、放火そして発砲など、多くの日系人が犠牲となる事件が発生した。満州事変への反感、そして日系人個人の努力の結果としての成功への嫉妬がその底流にあり、それがまた日米間の外交問題に発展しようとしていた。日本の強腰が移民に犠牲を強いていた。いままでとは、話が逆になっていた。 サンフランシスコの日系市民連盟が、日本人除隊兵の市民権獲得運動をはじめ、各種のアメリカの団体に協力を求めた。対外戦従軍除隊兵団体が、「日本人除隊兵に市民権を与えよ」との国会請願を、その総会で決議した。 一方ハワイでの一世たちは、自然発生的にアメリカでの身の処し方を憶えていた。人種に関わりなく、この地でみんなが一緒に生きて行くしかないということを学んでいたからである。 事を荒立てることを嫌い、話し合いで片をつける。 社会のルールには忠実に従い、控えめで自分の出来る範囲で全力 を尽くす。 力のない時は、「仕方がない」と諦め、他のやり方を探して次善 の策を考える。 富造は、宗教活動にも力を入れていた。日本末日聖徒史に、次の文章が残されている。「末日聖徒イエス・キリスト教会の在ハワイ日本伝道部のキャッスル・H・マーフィー伝道部長は、前年ユタから引越してきた池上吉太郎(当時・非教会員)の要請に応じ、奈知江常、トミゾー・カツヌマ、エドワード・L・クリソルド、エルウッド・L・クリステンセン(日本からの帰還宣教師)たちの意見を取り入れ、クリソルド、クリステンセン両兄弟の指揮の下に、ホノルルのカリヒ支部に日本語の日曜学校を設けることを決定しました」 そのようなとき、一八九八年の最初の移民募集で最初に応募した伊達崎村(だんざきむら)出身の親友、岡崎音治が永眠した。二人は生前、どちらが先に死んでも死後をみることを約束していた。富造は追悼文を日布時事に掲載、音治の郷里の霊山(福島県伊達郡)からわざわざ石を運ばせて墓碑を建立した。約束に違えず立派なものであった。そしてその墓碑の裏には、建立に協力した富造らの名が彫られている。(岡崎音治の墓・側面に福島県伊達郡伊達崎村とある) 岡崎音治の死とともに、富造は二つの祖国を強く意識するようになっていた。最初はアメリカ人たらんとし、そののちは日本に忠誠であろうとした。しかしその愛する日本の様子が異常であると思われた。 ──いったい日本は、どうなってしまうのか? 今まで日本に強い愛着の念を持っていただけに、富造にとっては耐えきれない苦しみとなって襲っていた。しかし富造には、こういうときだからこそ日本とアメリカの架け橋に、という願いが沸々と沸いていた。 ハワイでは、準州から州に格上げになる案が話題となりはじめていた。 ところで日本はロンドン軍縮会議に参加したが、それは日本の意志に沿うものとはならなかった。そしてこのようなとき、軍縮に水を注すような事件が発生した。ドイツが、再軍備を宣言したのである。 ──ヨーロッパもアジアもきな臭くなった。ただアジアでの騒動の原因が日本であることが、残念だ。 そう思っていた矢先、富造を探検家の菅野力男(郡山市出身)が訪ねてきた。菅野は、郡山の安積中学を中退した後、頭山満の書生となった男である。頭山満はカリスマ的右翼の頭領でありながら、犬養木堂らと孫文の中国革命を支援したり、当時アメリカ領のフィリピンやイギリス領インドの独立運動にも力をかしていた。またこの頃は、アメリカ排日移民制度に反対していた。そしてこの頭山の命令で、菅野力男は孫文の中国革命運動支援の工作員として蒙古に渡って裏面工作を担当、革命後、東南アジア、アフリカ、チベット、ペルーなど三〇余国の秘境を探検した身長一八〇センチを超す巨漢で、生前自ら「世界探勝居士」の戒名をつけていた男であった。二人は、世界や日本の現況について話し合ったが、交友がそれ以上のことに進展することはなかった。 アメリカで激化する排日運動に対抗するかのように、日本でも反米運動が高まっていた。しかしその感覚は、アメリカへの「あこがれ」に対して、裏切られた思いだったのかも知れない。末日聖徒イエス・キリスト教会ではハワイにおける日系人支部の成功を受け、グランド大管長はホノルル支部に日本伝道部を再開することを決めた。日本伝道をあきらめた訳ではなかったのである。 官約移民五十年祭が執り行われた。こういうときだからこそ、平和のためのアピールが必要と思われたのである。富造も役員として活躍した。 官約日本人移民第一回船組が東京市号でハワイに到着してから 満五十年目の二月十七日、在留日系人によりハワイ各地で官約移 民五十年祭を盛大に挙行された。ホノルルおよびオアフ島主催の 祝典会場はヌアヌ街の帝国総領事館で開かれ、正門では来賓を、 一般入り口は海手側から受け入れた。その入り口は、緑の葉と日 米両国旗で飾ら れた。 午前十時に近づく頃には、広い会場はギッシリ人々で埋められ その数一万とも称された。開会五分前の九時五十五分、第一回船 および第二回船で来着した五十年在住者が晴れ着を着て、日本着 の美装をした第二世嬢宇野の接待員に導かれて式壇に上がり、其 処に並べられた椅子に着席し、同時に接待嬢達から赤いカーネー ションのレイを首に掛けられる間に、式壇の海手側に陣取ってい たハワイ音楽隊は旧国歌(ハワイ・ポノイ)の奏楽を開始し、会 衆の心を浮き立たせた。式は滞りなく進み、アメリカ合衆国万歳、 大日本帝国万歳を唱和し、国歌吹奏(アメリカ国歌と君が代)を して終了した。 (ハワイ日本人移民史) 移民たちは、どちらの国も祖国としようとしていたのである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.17
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九月十二日の真夜中、ハワイではアラモアナ事件が発生した。 この事件は、パールハーバー軍港所属潜航艇将校トーマス・H・マッシー中尉の新妻で二十歳のタリアが、「ダンスの疲れと酔いを醒ますためアラモアナの海岸を散歩中、五名の悪漢に襲われ暴行された」という申し立てから発覚した。 警察はジョセフ・カハハワイ、ベンニー・アハクエロ(以上ハワイ人)、ヘンリー・チャン(中国人)、ホーレス・井田、デヴィット・高井(以上日系二世)の五人を逮捕したが、裁判の結果は証拠不充分で無罪となった。 この裁判の結果に怒った海軍潜航艇司令官は、「計画的な無罪である」と公然と非難する事態となった。そのためこの裁判の結果をきっかけに、海軍側と市民側の反目対立が激化することになった。 やがて、ホーレス・井田が水兵に連れ去られて殴打される事件が発生した。そして間もなく、警察は一台の怪しい車を捕まえた。その自動車の中からカハハワイの惨殺死体が発見されたのである。運転者はマッシー夫人の実母のフォテキス夫人で、同乗者はマッシー中尉と水兵であった。もちろんこれらは、マッシー中尉らの報復のリンチであった。この事件は全米とハワイで一大センセーションを巻き起こし、白人側の新聞や雑誌はこの事件を正当防衛、名誉の殺人と大々的に報道した。 この事件に対して裁判所は、三人の白人の水兵被告それぞれに十年の実刑判決を言い渡した。ところが全米の轟々たる非難にジャット準州知事は減刑処置を施し、全員をたった一時間の拘束をもって終了とし、市民としての全ての権利を回復してしまったのである。この事件の結果から導き出された白色人種の絶対的優越感は、白人によるリンチを是認することとなり、リンチは名誉の殺人感となり、これを引き金にしてアメリカ本土にも人種差別によるリンチの炎が燃え上ることとなってしまったのである。 ハワイ王家の血を引くカワナナコア王女はこれを知って言った。「ジャット準州知事の行動は、ハワイに二組の正義の使い分けがあることを教えた。一つは白人特権階級のものであり、他の一つはそれ以外の一般民衆に対するものである」 それはハワイ人や被差別者を代表する王女の、アメリカ人によるダブルスタンダードに対する悲痛な抗議の叫びであった。そしてそれはまた、アメリカ人がその建国の理想とした自由と平等は白人自身に対してのみであり、原住民や後に移ってきた移民たちには適用しないという矛盾を露呈したものであったからである。富造は鉄道建設工事にたずさわっていたころを考えていた。ボオッと汽笛を鳴らした貨物列車の荒々しい排気とクランクの音が通り過ぎる途端、貨車から投げ出された荷物。自分たちは、単なるあの荷物にすぎないのであろうか? ──差別する側は、単に自分の所属する社会の平均的基準で主義主張をしているだけだと思い込んでおり、そのためそれが差別になっていることに、まったく気がついていない。だから差別する側は差別の存在を否定する理由として、往々にして少数派である被差別側の理解不足を主張するのである。そこから両者の間には、対立しか生まれない。だが、それではいけないのではないか。差別される側の少数派が差別されたと主張する場合、差別する側の多数派は謙虚にこれを聞く必要がある。そうは思う。しかしそのためには、差別する側の度量をただ待つだけでいいのだろうか? 九月十八日の夜、何者かの手で、奉天北郊の柳条溝で、満州鉄道の線路が爆破された。関東軍の鉄道守備隊はこれを中国軍の挑発であるとして奉天北大営の中国軍を攻撃、満鉄沿線の主な都市でも一斉に軍事行動を起こし、臨戦態勢に入った。 中国政府は、この事件は日本の計画的挑発行動であるとして国際連盟に提訴した。帝国政府は、日本の自衛措置であり、皇軍は逐次、満鉄の付属地に撤収しつつあると報告した。 日本のマスコミには、次のような見出しが踊っていた。「酷寒の野に闘ふ皇軍兵士」「守れ満蒙、帝国の生命線」「満蒙の権益を民衆へ」「五族協和・王道楽土」 十月二十四日、国際連盟は帝国政府に対し、満州よりの撤兵を勧告した。しかし政府の国際的思惑とは別に、軍部はこれを無視していた。 一九三二(昭和七)年、満州事変の戦火は上海にも広がった。しかし上海に権益をもつ列強の非難を恐れた日本は直ちに停戦を声明、英、米、仏、伊の公使をオブザーバーにして停戦協定を成立させ、陸軍は早々に撤退した。そして三月、日本は清朝の廃帝溥儀を執政とし、満州国を成立させた。日本は国際社会に対し、アメリカに劣らぬそのダブルスタンダードの姿勢を、強硬に打ち出したのである。 五月十五日、青年将校を中心とした五・一五事件が発生した。政党や財閥のありかたに不満を持ったものであった。政友会本部、警視庁、日銀を襲い、首相官邸で犬養首相を殺害したこの事件により、軍部の進出が決定的となった。 そのようなときに、満州撤兵の勧告を無視する日本に国際連盟は不快感を示した。満蒙の実体を調査するため調査委員会の設置を決め、イギリスのリットン卿を団長に任命したのである。リットン調査団は日本、中国、そして建国間もない満州国を視察した。この調査は、さらなる日本のアジア進出を恐れた列強が打とうとした楔であった。 しかし日本が先手を打って実行した満州建国は、国際連盟が満州国を認めない限り、一切の解決策を拒否するという強硬な態度であった。この結果、日本は国際連盟により、「不戦条約並びに九カ国条約の最初の違反国」とみなされることとなった。そしてそれにも増して重要なことは、この年以後、日本は理論的思考を止めてしまったということである。物事を解決するに軍事力をもってし、しかもその決定を感性で決めるようになったという危険な思想である。 ──日本は東アジアと太平洋をコントロールしようとして、国際社会から孤立する危険な道を歩みはじめようとしているのではないか。 これは、ハワイのリーダーたちに共通する危機感となっていた。「平和こそ正義、力は正義にあらず。正義にあらざる戦いは、恨みを増幅するのみ」 富造は、国家間で人形を贈り合った平和の時代の感覚を懐かしんでいた。 アメリカはニューデール政策を発表し、不況対策に躍起となっていた。そして国際連盟と対立していた日本は中国の熱河省も満州国のものとして攻撃をかけ、さらに連盟を刺激していた。このように連盟を無視した日本の態度にも拘わらず、なんらの制裁も行えない連盟に、経済制裁を要求する声が高まった。しかし連盟は、満州国不承認を決議しただけであった。連盟参加国の弱腰の対応に対し、日本は瀬戸際外交に走った。国際連盟の総会に於いて対日勧告案が四二対一で採択されると、松岡洋右代表は席を蹴って退場した。間もなく帝国政府は、「東洋平和確立の根本方針に付き連盟と全然その所信を異にする」として、正式に連盟を脱退した。そして翌年の三月、執政溥儀を皇帝として満州帝国が成立したのである。 (大満州帝国と大満州国国旗 Wikipedia より) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.16
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孤 立 化 へ の 道 この年から翌年にかけて、日本は三次に亙る山東出兵を開始した。それらの情報を聞きながら、ハワイの日本人同士が囁きあっていた。「日本は日露戦争に勝ち、その上シベリアに出兵をしたが、その後は常にソ連から報復の戦いを挑まれると心配しているのではあるまいか。その恐れが、日本の目を中国東北部やソ連に向けさせているのかも知れない」 このような時期に、富造は昭和天皇即位式に合わせて帰国した。時代とともに、そして帰る度に日本は変わっていた。周太郎は富造と再会するために、樺太から東京の重教の家に戻っていた。「日本はどんどん変わる、この後はどう変化していくのであろうか? 日本はこのままでいいのか? 本当にそう思うよ」 周太郎は富造に、心配そうにそう言った。「兄貴。樺太から見ていてもそう思いますか? ハワイから見ていても、なにか世界の動きが急で、追いかけるだけでも容易じゃないですね。で樺太での事業はどうですか?」「うん。時間はかかったが、樺太の酪農もどうにか軌道に乗ってきた。まあまあだな。それより重教の事業の発展には驚くばかりだ」 周太郎は笑いながら言った。 重教も言った。「まあ、兄弟がそれぞれの場所で、それなりの仕事に生き甲斐を感じている。いいことだよ。ただ姉さんが亡くなってしまったのは残念だが・・・」「うん。その姉さんだが、もし生きていたら七十八歳になる。年をとるのは早いね」「いやまったくだ。俺も数えてみれば七十四歳、姉の亡くなった年齢を越えてしまった。姉の亡くなった齢を越えられるかなと思ったこともあったが、光陰矢のごとしとはよく言ったものだ」 周太郎は誰にとはなしに言った。 パリで不戦条約が調印された。コロンビア大学のショットウェル教授が、平和を保証する道は軍縮より戦争の放棄であると主張した。米仏がこれに応じ、アメリカのケロッグ国務長官が他の諸国にも提案した。日英独伊などが応じ、ケロッグ・ブリアン不戦条約として十五カ国が調印した。しかし日本ではこの条約の第一条にあった「人民の名において」という一句が、天皇の統帥権干犯であるとして枢密院で問題になった。政府は「この一句は日本には適用されない」との留保条件を付すことで、ようやく切り抜けた。 注:パリ不戦条約は「国家の政策の手段としての戦争を放棄 し」国際間の一切の紛争は「平和的手段によるのほか、 処理・解決を求めないことを約し」たもの。ただし防御 のための戦争には及ばないと考えられたばかりでなく、 この条約に何らの制裁ないしは履行強制の規定がなかっ た。「どうも俺はこの天皇の統帥権というのが気になるな。これでは天皇の下に軍隊と議会が並立することになるのではないか?」「うん、勝沼。私も君の言う通りだと思うよ。下手をすると議会は軍部にコントロールされかねない。それがいいかどうかはわからないが」 顔をしかめて相賀が言った。その顔を見ながら富造は、相賀も良いことだとは考えていないなと思った。「ところで相賀。アムステルダムの第九回オリンピックで、織田幹雄がはじめて日の丸を揚げた。これは明るい話題だな」「まったくだ。こういうことでの日本万歳ならいいのだが」 翌年の六月四日、京奉線鉄橋が爆破されて急行列車が転覆し、一五〇名近い死傷者を出した。張作霖の爆死事件である。十二日、帝国陸軍は犯人について、「南方便衣隊なること疑いなし」と発表した。新聞は、満州某重大事件としか発表しなかった。しかしこれらの状況の中で、中華民国が成立した。 アメリカの新聞は一斉に日本の非を報じた。日本が常任理事国となっているあの国際連盟も民族自決の趣旨に反するとして、日本を糾弾していた。世界中からはもちろん、帝国政府内からも陸軍の満州への増兵の口実のための謀略ではないかと疑われていた。「やはりな。どうもわれわれが心配したように、日本は悪い方向に独走するような気がする」 相賀が心配そうな顔つきで言った。「うん、相賀。実は兄貴から『今後は朝鮮、満州が大いに発展すると考えられる。調査のために大陸に行く』という手紙が届いたんだ。どう思う?」「うーん。君の兄さんが何を考えているかは分からないが、これは難しいな。ただ言えることは、いま世界はニューヨークの株式大暴落にはじまる大恐慌に入っているということだ。こんな時期には動かないで、少し様子を見た方がいいとは思うが・・・」 相賀は言葉を濁した。 アメリカは不況克服のためフーバーダムの建設に着工をしたり、失業救済委員会を設置して対策に腐心していた。またイギリスの提案でロンドン海軍軍縮会議が開かれ、補助艦保有比率をアメリカ一〇、イギリス一〇、日本六、九七と定められた。戦力の均衡のみを考えて財政負担を考えなかった日本軍部に対抗するため、政府は国内に向けて減税のための軍縮を標榜したが結局軍部に押し切られ、海軍の補充計画にあてられて減税は形だけで済まされてしまった。 ハワイの移民の間にも、ようやく民主自由主義の観念と道徳が長い過程を経て確立されてきた。しかし同時に、彼らの保持する日本的伝統と日本の国体に関する極めて保守的な観念を持つ者は、数において一世の三~四割程度となっていた。彼らは物質生活においてアメリカの標準を維持するばかりではなく、ハワイの法律のよき遵法者でありながら、なおかつ日本的固定観念をもち続ける矛盾した存在となっていたのである。それには国際政治の場において発言する帝国政府の強い姿勢が、影響を与えていたことは否めない。 朝鮮に行っていた周太郎は、樺太へ戻って行った。「樺太に骨を埋める積もりだ」 この周太郎からの手紙に、富造は折り返して激励の手紙を書き送った。「ハワイから見ていても中国大陸は危険です。なんらかの戦争の火種になるとも考えられます。その点樺太は日本です。国内で頑張った方がいいと思います」 (樺太にて、後方に周大郎夫妻。ジョージ・スズキ氏所蔵) 昭和六(一九三一)年、ハワイにも不況と人種差別からくる不安がつのっていた。人種差別には強弱の波があったが、止むことはなかった。その中で日系二世たちは、まだ見ぬ日本にあこがれた。ハワイで教育を受けた二世たちは、日本は強く、いい国だと思い込んでいた。それもあって一世の親たちは、なんとかしてカネを貯めると、子どもたちを日本の学校に入れるのを目的として日本へ送り出していたのである。 そんなとき三男の宇土朗が言った。「ダディ。僕は高校を卒業したら、兄さんの通ったカンザス州立大に行こうと思うのですが」「そうか、しかし丈夫も言っていたが、本土の人種差別は大分厳しいらしいぞ」「しかしダディ。それは考えてみれば、程度の差こそあれハワイだって同じでしょう? やはり卒業後を考えれば、本土の大学を出ておくべきだと思います」「まあその意見も分からんでもないが再来年のことだ。よく考えてからにすればいい」 富造はそう答えたが、何人かの上の兄姉のように、日本で教育したいとも思っていた。しかし「それでは日本の教育はアメリカよりいいのか?」と問われれば、それはまた返答に窮することでもあった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.15
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第四章 束 の 間 の 平 和 青 い 目 の 人 形 奈知江常は、日本に一時帰国をした。そして身辺整理を終えると、老齢にもかかわらず再びハワイに戻ってきた。彼女はその身を末日聖徒イエス・キリスト教会に捧げ、この地に骨を埋める覚悟であった。彼女もまた、日米の架け橋たらんとしていた。 これらの努力にもかかわらず、高まる日米関係の悪化を憂慮したアメリカ人宣教師のシドニー・ギューリックは、「日本文化や日本人を理解してもらおう」との主旨でアメリカの人形を日本に贈ることを思い立ち、市民カンパをはじめた。主旨に賛同した多くの市民のカンパにより約一万三〇〇〇体の人形が出来上がり、それに洋服を着せて名を付け、パスポートを付して日本に送った。日本側は外務省の依頼により、渋沢栄一が窓口となって翌年三月、全国の小学校に贈呈した。 昭和二(一九二七)年、日本は金融恐慌の中にあった。この不況の中で、ハワイでも左派の刊行物が一斉に登場した。沖縄県出身のギンジロウ・アラシロ、山口県出身のジャック・キモト、そして福島県出身者の経営する本屋が、その販売の舞台となった。これら定期刊行物の寿命は短かったが、いずれも対象を知識人に限らず、分かり易い文体で労働者階級の国際的連帯を強調していた。 日本では大正天皇の御大葬もあって暗いムードに覆われていたが、このギューリックによる青い目の人形の贈呈運動は一服の清涼剤となった。 野口雨情が作詞し、本居長世が作曲した青い目の人形の歌は、この運動に関連して爆発的に流行した。 青い目の人形 青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセールロイド 日本の港に着いたとき いっぱい涙を浮かべてた 私は言葉が分からない 迷子になったらなんとしょう 優しい日本の嬢ちゃんや 仲よく遊んでやーとくれ 仲よく遊んでやーとくれ このシドニー・ギューリックの好意に対して日本側も市民カンパを行い、六大都市名、一道三府四十三県名、樺太、台湾、朝鮮それに皇室の名にミスを冠し、約五十体の日本人形をアメリカに贈った。市民レベルでの友好関係が一挙に高まった。 この日本人形はまだ準州であったハワイには贈られなかったが、アメリカという国に贈られたということで、日系人小学生たちが歓迎のためこの歌を歌う会が開かれた。そのとき、この歌の流れる会場から、すすり泣きの声が漏れた。ハワイに住んでいる自分たちの身に重ね合わせ、郷愁の情が溢れ出たのである。富造は歌う会の主催者の一人として舞台の上に居たが、自分が子供のときに通った三春小学校にも一体、贈られたことを知っていた。感情の高ぶりを押さえようもなかった。富造は大きな声で、おいおいと泣きだしたのである。もはや誰もが、自分の感情を押さえることができなかった。会場は感激の嗚咽で満たされていた。「日本とアメリカは仲よくなった。われわれもここの社会にとけ込める。日本はアメリカに受け入れられた。これは素晴らしいことだ」 その思いが会場を包んでいた。(福島県立博物館企画展にて。左 バーニス・マスカーチン[郡山市立守山小学校所蔵]右 福島絹子[アメリカを代表する日本人形研究家 アラン・ペイト氏所蔵]) 一九二二年三月二十六日、ホノルル市ワイキキ塩湯の勇公方において草分け同胞の親睦会を催したことがあったが、結局その後、この会合は開かれないでいた。しかし青い目の人形の親善ムードがきっかけとなって、元年者の偉業をたたえる「明治元年渡航者之碑」が五年後のこの年に、ホノルル市マキキ墓地内の小高い地に建立されることになった。相賀安太郎によると、この碑が建立されるに至ったいきさつには、次のような事情があった。ハワイ日本人移民史より転載する。 元年者及びそれに続く第一回船同胞のハワイに渡来して以来、 各島耕地及びホノルルの墓地には、年月を経ると共に、いつとな く誰訪う人もなき無縁塚が多くなってきた。せめて元年渡航者の 記念碑を建立し、二世以下の子孫のため、後世に伝えたいとの希 望が有志の間に起こっていた。 元年者の一人である吉田勝三郎翁が一九二五年十二月に死去し、 その一周忌の前後から、右の記念碑の建立が実現のはこびとなり、 そのための委員会が発足することになった。委員には、喜多鶴松、 喜多捨松、本庄大二、三樹七之輔、黒田重三郎、勝沼富造、古川 茂生、相賀安太郎の各氏が選ばれた。これらの諸氏は、一九二七 年二月に日布時事社に集まって碑の建立についての打ち合せ会を 開きその設立にとりかかった。こうした有志の働きは各方面から 多大の賛同を寄せられ、ついに元年者の遣業をたたえる「明治元 年渡航者之碑」の完成をみたのである。 一九二七年(昭和二年)五月八日午前十時、およそ六十名の参 加者を得て、記念碑の除幕式を厳粛のうちにも盛大に行なわれた。 式の模様を相賀安太郎氏は、初めに司会者たる筆者(注、相賀安 太郎)の挨拶と報告に続き、当日特に列席せる元年者中の生存者 九十四歳の石井仙太郎翁(注、明治元年以前の渡航著で本当の元 年者ではない)と、八十九歳の棚川半造翁両人の手にて除幕式を 行い、出雲大社宮司宮王、三上両氏の祭式、一同の玉くし捧呈を 終り、勝沼ドクトル、桑島総額事、原田博士の所感談後、石井、 棚川両翁へ各コァ製ステッキを贈呈し、石井翁より感慨無量なる 謝辞があり、式終って参列者一同碑前にて記念の撮影を為した。 この記念碑は約一トンもある自然石で、オアフ島ハレイワ大正学校内より掘り出されたものを譲り受けたという。碑面の文字「明治元年渡航者之碑」は総領事桑島主計の筆によるものであった。また碑の台石には日本語の碑文が銅版に刻まれており、碑銘のすぐ下には英語による碑文が同じく銅板に彫刻されてはめ込まれた。碑文は相賀安太郎の手になるもので、その英訳は日布時事英文編集長であった丸山信治が任に当たった。相賀氏の起草による碑文は次のとおりである。 明治元年渡航者之碑 今より約六十年の前明治元年即ち西暦一八六八年に、日本人百 五十余名が母国より布哇へ渡航して来た。それより以前にも時々 日本からの漂流民があったが、一団となって渡航したのは、此の 時が最初であった。此の一団は「元年者」と称せられ、その内一 部の者が帰国したのみで、多くは既に布哇の土と化し、最近数年 間にも其の生存者の中吉田勝三郎翁(七十九歳)は一九二五年十 二月ホノルルにて死亡し、佐久間米吉翁(八十八歳)は、本年三 月加哇島リフユにて永眠し、現存者は石井仙太郎翁(九十四歳)、 棚田半造翁(八十九歳)の二名に遇ぎない。此等元年者の渡航以 来、布哇と日本の関係は極めて密接となり、今日に於て日本人の 人口約十三万に達せんとしている。亦以て共の一班を察するに足 る。我等在留民有志が茲に此の碑を建設する所以のもの、全く是 れ布哇同胞の草分けである元年者諸氏を永久に記念すると共に、 長く此の地の日系市民の為、其の父祖及び先進の努力の跡を偲ば しめ、同時に亦布哇の国土に対する報恩の念を忘れしめぬ為であ る。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.14
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