三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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◎丹羽寛次郎宗源 文政八(一八二五)年~文久三(一八六三)年 蝦夷地派遣 軍事奉行・丹羽織之丞能教の孫 表御用人書簡役 京都守護職の松平容保に随行、京都にて病没。 丹羽五郎 寛次郎宗源の養子 嘉永五(一八五二)年~昭和三(一九二八)年 城後は斗南藩には行かず巡査となり、西南戦争に参加。その後、猪苗代周辺の農民を連れて北海道開拓に従事し、丹羽村を起こして能教寺を勧請した。現在の北海道『せたな町』である。◎有賀織之助 嘉永六(一八五三)年~慶応四(一八六八)年 北蝦夷地派遣 有賀権左衛門満幸の次男 有賀権左衛門満幸は、元治元年七月十九日、番頭・一瀬要人隆智の目付として蛤御門を守り戦死した。その次男織之助は白虎士中二番隊に入って出陣。母いく子は「君のために殉じた武士の子どもだということを忘れず、生きて家名を汚すことがあってはなりません」と戒めたといわれる。飯森山で自決。母は、同じく北蝦夷地派遣に派遣された高木小十郎の妹である。◎ 篠田儀三郎 嘉永五(一八五二)年~慶応四(一八六八)年 北方警備に派遣された篠田兵助隆置の孫 儀三郎は白虎士中二番隊に入って出陣した。儀三郎は最後にあたって日頃愛誦していた漢詩を朗々と吟じた。「人生古より誰か死無からん。丹心を留取して汗青を照らさん」これを合図に隊士は次々に自刃し倒れた。◎ 山寺貢 天保八(一八三七)年?~慶応四(一八六八)年百石 目付。北蝦夷地派遣御目付 山寺貢の子息か? 六月十二日、白河・古天神で戦死。享年三十一歳。◎横山数馬 文政十(一八二七)年?~慶応四(一八六八)年 北蝦夷地派遣道中奉行・横山数馬の子息か?軍事奉行添役として、若松甲賀町通(会津戸ノ口原とも)で戦死。享年四十一歳。◎ 大河原臣教 天明元(一七八一)年~天保三(一八三二)年 北蝦夷地派遣 文政元(一八二八)年九月十八日、藩祖正之の事績を四冊に編纂し、『千歳の松』 と名づけて之を納めた。東京の国史研究会に保存されている。 いま北海道内の各地に、北方警備の道半ばに斃れた藩士たちの十五基の墓碑が建立されている。 たんぽぽや会津藩士の墓はここ この慰霊の句を記した記念碑が一九七七年六月、稚内市宗谷地区に再建された。また二〇〇六年八月三十日、利尻島には黒御影石で高さ二・八メートル、幅一・一メートル、台座が磐梯石の会津藩顕彰碑が建立され、今も静かに藩士の霊を見守っている。 稚内市宗谷 宗谷岬(会津陣屋跡) 三基 (原田嘉重郎記里) (要久右衛門) (平田八十八保実) 利尻郡利尻町沓形字種富町 二基 (諏訪幾之進光尚) (山田重佐久) 利尻郡利尻富士町鴛泊 慈教寺 三基 (遠山登僕利助) (関場友吉春温) (白石又右衛門僕宇兵衛・河沼郡駒板村所出) 利尻郡利尻富士町字栄町 本浄寺 三基 (樋口源太光徳僕孫吉) (渡部左右秀俊) (丹羽織之丞僕茂右衛門) 苫前郡羽幌町焼尻島 二基 (小原円近忠貫) (山内一学豊忠) 増毛郡増毛町 増毛海岸 二基 (下司昌武) (百崎重信) なお会津出軍記によれば、『死亡之者合五拾人』とある。残る十五人の墓地は作られなかったのであろうか、それとも見つけられていないのであろうか。 (終) ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.07.30
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◎関場春武 文化四(一八〇七)年~慶応四(一八六八)年 利尻島派遣 関場友吉春温の長男 父の友吉が利尻島で病死したため、春武は二歳で家督相続をし た。戊辰戦争のときは六十二歳となっており、老齢のため軍役を 許されなかったが再三嘆願して敢死隊差図役となり、城下の西で 戦死した。敢死隊は鶴ヶ城が包囲された慶応四年八月に藩下の町 民を募って作られた義勇隊である。享年六十二歳。◎ 山内俊温 (やまうち としあつ)生没年不明 佐渡派遣 文化四年暮れ、諸隊士を唐太(樺太)へ派遣することになり、 その準備中に家伝の陣中秘薬と題する一書を献上して、陣中の参 考に供し、さらに役料三十石を加えられた。翌五年には伊北郷か ら旧臣の子孫を集めて小川庄(新潟県東蒲原郡)に派遣し、準備 させた。そこの津川港から唐太へは海路が通じるので、国境警備 の意であった。また許しを得て湯治の名を借りて佐渡へ行き、海 岸を巡視し、防衛の意見を述べた。◎ 山川兵衛重英 天明三(一七八三)年~明治二(一八六九)年 宗谷派遣 兵衛は会津に戻った後の文政三(一八二〇)年に勘定奉行、天 保三(一八三二)年に若年寄、同十年には家老に昇進した。慶応 四年の戊辰戦争においては顧問に任じられ、八十五歳の年齢で登 城した。会津藩の降伏後、耶麻郡水谷地村(喜多方市)で病身を 養っていたが明治二年病死した。当時、北方警備唯一の経験者と 思われる。享年八十六歳。 山川常守 生没年不詳 山川兵衛重英の四男 戊辰戦争白河口の戦闘で戦死した。 山川浩(大蔵) 弘化二(一八四五)年~明治三十一(一八九八)年 山川常守の甥 会津藩家老 十八歳で物頭となり、文久三(一八六三)年には守護職として 京にある藩主容保の君側に奏者番として侍した。慶応二(一八六 六)年、幕府の樺太境界議定団に随行してロシアに渡航。祖父の 関わった樺太に、深く関与することになった。鳥羽伏見の戦闘で は敗兵を収容し、戊辰戦争では日光口を守備、籠城中には防衛総 督を務めた。開城後は斗南藩大参事。五十三歳で死去。なお浩の 次男に明治・大正期の教育者の男爵・山川健次郎。三女に山川捨 松(咲子)がいる。◎ 梶原平馬景雄 天保十三(一八四二)年~明治二十二(一八八九)年 北蝦夷地派遣・普請奉行 梶原佐右衛門の養嗣子 内藤介右衛門信頼の次男であるが梶原佐右衛門の養嗣子となっ た。兄にのちの家老・介右衛門信節、弟に彰義隊員で獄死した武 川三彦信臣がいる。平馬はアーネスト・サトウ」とも交友があり、 鳥羽伏見の敗戦後横浜でエドワード・スネル(弟)から武器弾薬 を購入、船に積んでヘンリー・スネル(兄)や河井継之助ととも に新潟港から陸揚げした。しかし新潟港を占領され、長岡城と二 本松城を失うと会津に帰り、鶴ヶ城に籠城した。開城後は会津藩 幹部として東京・因州因幡藩邸池田屋敷に幽閉されたが赦免、斗 南藩に移住し上市川村に住む。その後青森県庁に庶務課長として 勤め、明治五年辞職、北海道函館へ渡る。明治十五年函館から根 室へ移住し根室県庁庶務課に勤める。四十七歳で死去。(墓は根室の市営西浜町墓地)◎北原きよ 文化二(一八〇五)年?~慶応四(一八六八)年 利尻島派遣・家老陣将 北原采女光裕の息子の嫁で采女光美の母 慶応四年八月二十三日、若松城下西郷勇左衛門邸で自刃した。享年六十三歳。会津鶴ヶ城落城に際しての一五〇人に及ぶ婦女子の自刃は、江戸時代を通じて前例がなく、史上にも稀な事件とされている。 北原軍太夫(采女光美の兄弟か?)五百石 朱雀士中三番上田隊半隊頭となり、七月一日、白河・羽太先で戦死。 北原四郎 軍太夫の弟 朱雀寄合二番田中隊に所属 八月二十九日、若松長命寺にて戦死、享年二十一歳。◎日向内記 文政九(一八二六)年~明治十八(一八八五)年 北蝦夷地派遣・番頭 日向三郎右衛門の長男 禁門の変に番頭組の組頭として参加。慶応四年三月の兵制改革で朱雀士中二番隊頭となり、その後砲兵隊長として日光口に赴いた。四月十八日、藩主護衛の任にあった白虎士中二番隊頭に任命され、籠城戦に移った八月二十七日頃、城内において白虎士中一、二番隊の生存者を中核として白虎合同隊が編成されてその隊長となった。また援軍の郡上八幡・青山藩の凌霜隊もその指揮下におかれ西出丸の防衛に当たった。 八月二十二日、白虎士中二番隊を指揮し、先発・後発と隊を分けて戸ノ口原へ出陣。その夜、隊を離れる。切腹しながらも唯一生き残った飯沼貞雄(貞吉)の証言によれば『食糧調達』と言う。その間に白虎隊の悲劇が起こった。明治三年の冬、斗南藩(青森県)へ移住。しかし明治六年に会津へ戻り、喜多方に居を構える。喜多方では定職につかず、明治十八年十一月十四日、裏切り者、卑怯者の謗(そし)りを弁解することもなく、不遇のまま六十歳でこの世を去った。墓は喜多方市北町の万福寺にある。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.07.25
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資 料 函館図書館のサイトより田中三郎兵衛玄宰(たなか さぶろべえ はるなか) 寛延元(一七四八)年~文化五(一八〇八)年 会津藩筆頭家老 明和四(一七六七)年 破綻寸前の財政再建を任されていた井深主 水がその不備を謝し、出奔。 安永六(一七七七)年 玄宰は二十九歳で番頭を経て奉行となった。 天明元(一七八一)年二月 三十四歳で若年寄に、またその十二月 に家老に就任。 天明四(一七八四)年 病もあって一時家老を辞した。 天明五(一七八五)年 再び家老に復帰。 天明七(一七八七)年 『天明の改革』を発表した。 寛政二(一七九〇)年 京都より招聘した工人により、金粉・金箔 の製法が伝授された 塗師を問屋の下に置いてその育成に当たり、 会津漆器の名を国に知らしめた。 寛政三(一七九一)年 藩政に役立つ家臣団の育成を図った。 寛政五(一七九三)年 町奉行に産業振興の専任官を置き、江戸の 中橋に会津藩産物会所を創設し、江戸で国 産品の多くを販売して多くの利益を得た。 幕府の勘定奉行に請い、長崎在留の清国人 やオランダ人と貿易を試みている。 享和三(一八〇三)年 藩校・日新館を創設し、文武を大いに奨励 した。 文化四(一八〇七)年 漆問屋、株仲間、黒目漆器問屋など株仲間 の再編を行った。この藩政改革は成功を収 め、藩政も比較的安定化した。 文化四(一八〇七)年 通商を口実として南下するロシアの脅威に 備えるため、幕府は会津藩と仙台藩に蝦 夷・北蝦夷警備を命じた。玄宰は自ら出兵 の依頼を申し出たと伝えられる。 文化五(一八〇八)年八月 没。六十一歳。 遺言により小田山頂に葬られた。◎高津平蔵(たかつ へいぞう) 天明五(一七八五)年~慶応元(一八六五)年 三五〇石 北蝦夷地派遣 佐藤覚左衛門信庸の第四子。幼字は学、後に平蔵と称し名は泰、 字平甫、溜川と号した。後、高津伝吾成良の養継子に入った。は じめ徂徠学を専修したが、藩命により安部井帽山、牧原半陶等と 共に昌平校へ入学し、林述斎、古賀精里に師事して朱子学に切り替えさせられた。文化年間に韓国通信使が来日したとき、幕府の代表として師の古賀精里に随行して対馬へ行き、応接した。このときの『対州日記』の著書がある。文化年中、蝦夷地警備の任をもって該地に遣わされ、滞在九ヶ月、その勢況を撰して「終北録」、一名戍唐太日記を著した。藩の唐太出兵の唯一の記録である。また『新編会津風土記』の編集に参加して功があった。その他『溜陽詩史』や詩文集、雑記など著述があったが、戊辰戦争でほとんど失われた。 学は博く経史を究め詩文にも通じていた。藩主容衆、容敬の侍 講をつとめた。世禄は三百五十石だったが、儒者見習、旗奉行、 大組物頭、学校奉行供番を歴任して終始藩校日新館の世話をした。 事あるときは幕府の日光廟に藩主の代参をすることもあっ た。 嘉永三年十二月、平蔵は藩主容敬の特命で芦名の三忠臣の撰文 をし、書家山内晋が唐の額眞郷の書跡を集めて、磐梯山麓の摺上 ヶ原(猪苗代町)に有名な『三忠碑』を建てた。慶応元年十月二 日に病気のため死去した。行年八十一歳。儒礼をもって飯盛山下 に埋葬された。◎高津仲三郎 文政十(一八二七)年~明治十(一八七七)年 『終北禄』の著者・高津平蔵の三男 鳥羽伏見の戦いのおり、左胸の下に銃弾を受けて重傷を負った。 大阪へ後送され、更に江戸へと護送されて芝の会津藩邸で治療を 受けた。このとき徳川慶喜が傷病兵の見舞いに訪れたが仲三郎は 一礼するや隣室までも響くような声を張り上げて、『一言述べさ せて頂きたい。何故お逃げになったのか。旗本はほとんど戦わず 我等会津の兵のみが血を流し、そして敗れた。大軍を残して逃げ られた事で戦局は一変。どう言う思し召しにござる!』慶喜は青 くなったまま何も語らなかったと言う。 戊辰戦争では長岡城攻防戦に遊撃隊長として参加、籠城中は城 外で戦い、開城後は城下に残って戦死者の埋葬に尽力した。戦後 は過酷な圧政をした越前藩士・久保村文四郎を襲って捕らえられ たが脱走、思案橋事件に参加して再び捕らえられ、明治十(一八 七七)年二月七日、市ヶ谷囚獄署で斬首刑に処せられた。 享年五十一歳。◎関場友吉春温(せきば ともきち) ~文化五(一八〇八)年 祖先の関場太右衛門某は伊賀の人で、蒲生氏郷に仕え、禄百三 十石で伊賀衆といわれた勇士の一人であった。蒲生家が滅んだ後 は、その子孫が会津藩に仕えていた。文化五年に会津藩がロシア 兵の南下を防止するため唐太(樺太)出兵をしたとき、番頭梶原 平馬景保の配下として出陣し、利尻島を守った。四月に利尻島に つき、百日余滞在後、七月に船で帰途につく寸前、風土病にかか って倒れ没した。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.07.20
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あ と が き 今になると、何故、私が『終北録』の存在に気がついたのかを忘れてしまった。しかしネットサーフィンをしていて函館図書館のサイトにたどりつき、『終北録』の原文を手に入れたのがこの話を書くきっかけとなった。それはともかく、この文書は私にとって手の付けられぬ代物であった。会津図書館に行けば現代語訳があるかも知れぬと思って行ってみたが、会津出身で、当時の樺太大泊女学校の校長であった方により一部分が訳されたものはあったが、全文というものはなかった。こうなれば誰かに頼んで訳して貰う他はない。知り合いに持ち込んだが思うにまかせず、これを訳して頂ける大久保甚一氏に出会うのに、さらに一年以上を要した。 大久保氏からキチッと製本された訳文を頂いたのは、二〇〇六年のことであった。それから二年、ようやくまとまってきたが、どうしても知りたいことがあって再び会津図書館を訪れた。ところが司書の坂内香代子さんが持ってきてくれた本に、あの『終北録』の全訳文が載っていたのである。驚いて奥付を見た私の目に飛び込んできたのは、この本の出版が二〇〇六年とあったことである。この二〇〇六年とは、大久保氏があんなに苦労をして訳しておられた時期にあたる。つまりまったく同じ頃、会津若松市も訳していたことになる。それであるから先の時点で、会津図書館が「ない」と言っていたのも、無理からぬことと思った。 そこで念のため、私は会津図書館に所蔵されていた『終北録』の原文と、私が函館図書館から取得した原文をチェックしたのであるが、大変なミスをしてしまっていたのに気がついた。私が函館図書館のHPから取得した原文に、数枚の取りこぼしのあったことを見つけ出したのである。 当然ながら、私はこれらの事実を大久保氏に告げるのに実にきまりの悪い思いをした。一つは『終北録』の欠落についてであり、もう一つは会津図書館に『終北録』の訳文があるのを知っていながら翻訳の依頼をしたと思われるのではないかと心配したからである。とにかく大久保氏には、私のミスのため、重ねて大変なご苦労をお掛けしたことを心からお詫びいたします。 さて本文にも書いたが、会津藩が北方警備に派兵されたのは、文化五年の一月であった。ロシアと戦争にこそならなかったが、帰国の途中で嵐に遭い、難破して船を捨て、徒歩で箱館に向かい、さらに徒歩で同じ年の九月に会津若松に到着した。この年の干支は、戊辰であった。 それから幾星霜。 幕府の施策と藩の思惑。 世界と日本という国の流れに巻き込まれていく会津藩。 北方警備のあった文化五年から六〇年後の慶応四年の戊辰の年の一月、鳥羽伏見の戦いで、会津藩は薩長軍と戦争状態に入った。そして九月、会津に利あらずして鶴ヶ城が落城した。いみじくもこの一月から九月は、北方警備に従事していた期間とまったく同じであった。この戊辰戦争で、北方警備に参加した藩士の多くの子や孫が命を落とすことになった。いずれにしても会津藩は、幕府、つまりは国のために北方警備に従事し、そして戊辰戦争を戦ったのである。これは会津藩にとって、まさに運命の皮肉としか、言いようがないのではあるまいか。 寛延元戊辰(一七四八)年=田中三郎兵衛玄宰が生まれる 文化五戊辰(一八〇八)年=北方警備 筆頭家老・田中三郎兵衛玄宰死去 慶応四戊辰(一八六八)年=戊辰戦争 昭和三戊辰(一九二八)年=松平勢津子が秩父宮雍仁親王へ入輿 私はこの寛延元年、文化五年、慶応四年、昭和三年という戊辰の年すべてが、会津にとって大きなインパクトのあった年であったことに驚いている。 特に慶応四(明治元)年の戊辰戦争において、多くの者は会津藩の再生を願って斗南(青森県)へ移り、さらには新天地・北海道の開拓に従事していった者がいる。北海道は前の世代が、辛酸をなめつくした土地である。だが彼らの生も決して明るいものばかりではなかった。その暗の象徴を日向三郎右衛門の長男の日向内記に、しかし一縷の明るさを山川兵衛重英の孫の山川兄妹に、そしてその労苦を丹羽織之丞能教の孫の丹羽五郎に見ることが出来る。なお、私の知り得た範囲において、北方警備に参加した人々の子や孫の消息を『資料』として後述する。これら短い説明文に、戊辰戦争の哀しみが読み取れよう。 そして最近、利尻町立博物館に、ある調査を依頼をした。博物館の西谷榮治氏からの懇切な説明や資料とともに、次のような手紙が入っていた。『実は今年は、北方警備から丁度二〇〇年目の節目の年になります。利尻でもイベントの準備をしています』 戊辰という年にばかり気を取られていた私は、二〇〇年目という年にまったく気がつかなかった。自分としてこの話の締め切りを決めていた訳ではなかったが、このような縁のある年に、『北方警備』に関する本の出版へ漕ぎつけていたということに、不思議な縁(えにし)を感じている。 なお出版に際して、福島民報社出版部長の尾形徳之氏には大変お世話になりました。もし氏が居られなかったなら、出版は覚束なかったと思います。そして最後になりますが、次の方々のお世話になりました。お名前を添えてご報告し、御礼の形を表したいと思います。ありがとうございました。 大久保甚一 佐藤兵一 鈴木八十吉 西谷榮治 坂内香代子 氷室利彦 星美智子 (五十音順・敬称略) ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.07.15
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文久元(一八六一)年、ロシアは、サンクトペテルブルクにおもむいた幕府の代表団に対し、北緯四八度線で北蝦夷地を分割領有するとの提案をした。日本側はそれに妥協をせずに帰国した。「しかしロシアの武力は大きい。幕府としてもいろいろ苦悩するところであろう」「御家老様。そう言ってばかりはおられません。私は北蝦夷地全島がわが領土と考えております。北方警備に参加した身として、幕府には協力に折衝してもらいたいと思っております。しかるにロシアは罪人などを北蝦夷地に送り込み、その警備という言い訳で兵士を派遣しています。そうして実効支配を強めた上で北緯四八度線を主張しているのでしょうが、このようにしたたかなロシア外交に対して、わが国としてどう対処していくべきか、考えさせられます。それに今度はニコライ・カサートキンという者が箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任し、布教をはじめております。宗教を利用して蝦夷地までもが取られるのではないかと考えると、気が滅入るばかりでございます」 文久二(一八六二)年、松平容保は正四位下・京都守護職に任ぜられた。この年、蝦夷地で病死した田中鉄之丞に代わり、藩の儒者南摩綱紀が藩領の代官として藩兵を率いて斜里の本陣に移り、余暇あるごとに領内を巡視して開拓を奨励するかたわらアイヌ人を集めて人倫を説き、『孝経』をアイヌ語に訳して教科の資料にしていた。この年には『坂下門外の変』や『生麦事件』が起きた。その十二月九日、容保は京都守護職として藩兵千名とともに江戸を出発、京都へ向かった。 ──わしの考えが、杞憂であってくれればよいが。 戦火は、間違いなく近づいていたのである。 文久三(一八六三)年、『薩英戦争』が起きた。「もはや一藩や二藩の問題ではありません。国を挙げて考えねばならぬのに、薩摩も血気に逸りました」 それを訊く采女の口は、さらに重くなっていた。そして十月、容保は『七卿落ち』などの政変で、孝明天皇に功を嘉賞された。 元治元(一八六四)年二月十五日、幕府は松平春嶽に京都守護職を命じ、松平容保は軍事総裁職に就任した。しかし四月六日、孝明天皇は幕府に勅を下し、信頼している松平容保を改めて京都守護職に復職させた。 七月十九日、北方警備に参加し、今また容保に従って京都に滞在していた有賀権左衛門満幸は、番頭一瀬要人隆智の目付として蛤御門を守っていたが、『蛤御門の変』で戦死をした。 「御家老様。北方警備の生き残りは私ども二人と、御家老の山川兵衛重英様の三人になってしまいました。淋しいことでございます」「うむ。それにつけても、あのときの筆頭家老、亡くなられた田中三郎兵衛玄宰様のことが思い出される。田中様のご努力により成長したわが会津藩の経済力には驚くものがあった。あの当時に田中様は、長崎在留の清国人やオランダ人との貿易を試みるなど先見の明があられた」「左様でございました。もし田中様がおられなかったら、現在のわが藩の行動力は大いに損なわれていたでございましょう。しかも、わが藩のみならずお国のお役に立てる経済力の基礎を六十年以上も前から作られていたことに、只、驚愕するのみでございます」「うむ。しかし単に経済力とはいっても、これは毎年の生産力の拡大と継続による。たしかに天候に恵まれ、うまく運営できれば枯渇することはないであろう。しかし一寸舵を間違えると、大変な負債を抱えることになる」「まことに。とは申されましても今次の京都での殿の大役、また伊豆の大島や壱岐の対馬を諸外国から護り、国土を保全するためには大きな覚悟と準備が必要だと思います。これらの出費を考えれば、わが藩の経済的先行きは決して明るくないのでしょうが、それにつけても田中様には、感謝の言葉を申し上げるのみでございます」 そして平蔵は、采女の前に深々と平伏して言った。「私個人としても、わが最北の僻地の警備に参加出来たことを、わが身の、いえ、わが家の末代までの誉れと考えております」 この年には四国連合艦隊に下関が砲撃され、長州藩が敗退した。その上『第一回長州征伐』などにより、会津藩は幕末の状勢に深く関わりはじめていた。 ──わが国の軍備はまだ成っておらぬ。ついに杞憂が、本当になってしまったか。 激動の中、翌・慶応元(一八六五)年十月二日、高津平蔵は病気のため亡くなった。八十一歳であった。そしてそれからほぼ二年後の慶応四(一八六八)年一月、鳥羽伏見の戦いが会津を巻き込んだ戊辰戦争に発展する。蝦夷地分担警備に就いていた藩士たちに対しても帰国命令が出された。この年の七月までに全員が蝦夷地から引き上げたと言われている。彼らの帰国もまた苛酷なものであった。正にそれは、あの北方警備の行われた文化五年の戊辰年から再び巡ってきた六十年目の戊辰の年であった。 (終) ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.07.10
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安政元(一八五四)年、幕府とロシアは日露和親条約を締結した。ところがこの条約が結ばれたにもかかわらずロシア兵が北蝦夷地のクシュンコタンを占拠し、和人を追い出して在番の松前藩士を幽閉してしまった。松前藩は直ちに救援の一隊を北蝦夷地に出向させ、さらに閏七月初、藩士五十名を後続隊として北蝦夷地へ向かわせた。しかし松前藩からは、「ロシアの南下侵攻は激しく、放置すれば松前一藩では護りきれないので他藩の協力を得たい」という依頼が幕府に届けられていた。「このままでは、北蝦夷地はロシアに取られてしまいます」 平蔵は、歯ぎしりをする思いであった。彼の脳裏には、あの清国の阿片戦争が悪夢のようによぎっていたのである。「諸外国は、われら東洋の武力を弱いとあなどり、力に任せて好き勝手をしています。日本も軍事力を持たねばなりません」 平蔵は苦しげな顔をする采女を見て、自分との考え方に差があることに気付きはじめていた。 間もなく松前藩任せの防衛では無理との判断した幕府は、蝦夷地の直轄を決めた上で津軽藩、南部藩、仙台藩、秋田藩、松前藩の五藩に分担警備させ蝦夷地防衛の強化を図りながらアイヌ人の本格的な和風同化政策を始め、和人の蝦夷地への入植を奨励した。「御家老様。喜ばしいことです。幕府もようやく、その気になったようです」 そう言う平蔵と、采女は久しぶりにゆっくりと話し合いをした。この秋、容保は前会津藩主の松平容敬の娘・敏姫と結ばれることになったのである。 安政四(一八五七年)年の十月、清国と英仏連合軍との間で戦争がはじまった。「なんでも、イギリス船籍を名乗る清国船アロー号に対して清国の官憲が臨検を行い、清国人船員十二名を海賊の容疑で逮捕したことからはじめられたそうです」 平蔵は采女にそう言った。「実際には、事件当時、既にアロー号の船籍登録は期限が過ぎていて清国籍になっていたから、清国官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であったと言うではないか?」「そのようでございます。とにかく阿片戦争と言い今度の戦争と言い、西洋のやり口は力ずくのごり押しのようです。わが国としましても清国の轍を踏まぬよう、心せねばなりません。外国の縄張り争いの、犠牲になってはなりません」 それを聞いた采女の顔は、一瞬ゆがんだように思えた。 安政五(一八五八)年にはプチャーチンが再び長崎に来航して、新たに日露修好通商条約が締結された。これにより、下田・箱館・長崎の三港が開かれ、日露の国境は千島列島の択捉島とウルップ島の間とし、唐太はこれまで通り雑居地として日露の正式な国交が開始された。そして翌年、すでに出兵していた津軽、南部、仙台、秋田藩に加え、荘内藩と会津藩も蝦夷地分担警備を命じられた。「高津。また北方警備のお鉢が回ってきた。しかし前回と違うのは、わが会津藩の分領を守るということだ。前筆頭家老であられた田中様のご遺志が生きた、ということになるな」「はい。たしかにわが藩領となったのは、蝦夷地の士別から紋別、斜里、知床、標津の広大な地域です。その地に和人が少ないため、その悪影響に害されず、アイヌ人の協力が得やすいと考えていた所でした。私も先代筆頭家老の田中様の先見の明にただただ恐れ入るばかりでございます」「うむ。結局蝦夷地に分領を得たのは、北方警備に派兵したわが藩をはじめ仙台・秋田・庄内・南部・津軽・松前藩のみであった」 安政七(一八六〇)年、英仏連合軍は北京を占領し、ロシア公使ニコライ・イグナチェフの調停の下に北京条約が締結された。この条約により清国は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航はイギリスによる許可が必要であることなどを認めさせられることになった。「この戦争の調停に入ったロシアは、それまで清露両国の雑居地であった沿海州を正式に獲得することになった。それにアメリカとロシアは戦争には加わらないまま、条約改正には参加したという。まるで漁夫の利だな」「はい。それにロシアの東シベリア総督ムラビヨフ・アムールスキーが来日し、北蝦夷地を日本との雑居地と決めながらそのすべての領有を主張しているそうです。その上でロシアは軍艦ポサードニク号を、またイギリスもアクチオン号を派遣して対馬の租借を要求しているそうです」「それでは清国の香港や九竜のようになってしまうではないか」「そうです。これでは昨年に調印した日露修好通商条約が、なんのためであったか分かりません。それにアメリカは、伊豆大島の租借を要請したそうです」「伊豆大島と言ったら、江戸とは目の前ではないか。そんな要求までしたのか」「どうもそのようです。ロシアに限らず西洋の国は、自分たちの国益のためなら、どんな無茶でも主張してくるようです」 険しい顔をして、采女は話題を変えた。「ところで蝦夷地へ派遣した藩士は毎年交代勤務とし、今年の二月には、田中鉄之丞が藩士二〇〇名を連れて会津を出立、三月には箱館に着いた。そして五月には東蝦夷地を経て分担領内に入り、斜里に本陣、紋別と標津には出張陣屋(代官駐在)を置き、標津、斜里、紋別を巡回して藩兵を督励していた。しかし六月に入って鉄之丞は病になり、その帰国の途中の七月三十日に東蝦夷地の勇払で病没してしまった」「左様でございました。藩では民間から大船を借用して新潟港に止め、往航には藩士の生活必需品などを送り、復航には、知床硫黄山ではじめられた採掘事業による硫黄や、その他、蝦夷地の水産物などを底荷として運んでおりました」「うむ。そのまま過ごせればよかったのだが、あれから『桜田門外の変』が起きた。わが殿・容保様は急遽、江戸詰めとなられ、そして十二月十二日には、左近衛権中将に任ぜられた」「殿は、『桜田門外の変』では水戸藩討伐に反対なされておられましたが」「そうであった。しかし井伊様暗殺直後に一橋慶喜様や、政事総裁職となられなった福井藩主・松平慶永様らに推され、わが殿が京都守護職に推された。元々ご病弱な体質でこの頃も風邪をひき病臥しておられるが。はて、どうなることか」 そう言って采女は腕を組んだ。やはりこの話になった、と思ったのである。「まことに。わが藩が蝦夷地や江戸湾防備の大任ばかりでなく、今度は京都の警備までを命じられるとなると、これは一大事でございます」「ところで高津、今の風潮をどう思う?」「いや、確かに難しい時代となりました。それも分からぬ訳ではありませんが、時代の変化も考えねばならないと思います。あの北方警備さえ昔になってしまった今、外国の脅威がこんなに大きくなるとは考えもしませんでした」「うむ。しかしわしは、神君家康公以来の祖法を守るべきと考えている。徳川幕府開闢以来のこの泰平の歴史を思えば、当然ではないか?」「しかし御家老様。お言葉を返すようですが、時代の変化という理由のみで開国を主張している訳ではありません。開国する前に、ロシアやイギリスに負けないだけの軍備を持っていなければならないと思います。さもなければ、この国は成り立ちません」ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.07.05
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ところがある日、近江国の文人として名高く、かつ医術に秀でている大岡子栗が訪ねて来た。彼はこの戍唐太日記を一見した後にこう言った。「これは天下の奇書です。先生! 文章が上手くないから焼き捨てて欲しいとは何事ですか。広く海外のことを人のために話し、伝えることが重要です」 そう子栗に教えられたことで、平蔵は長く疑問に思っていたことを口にした。「ロシアはわが国との通商を要望したが果たせず、漂流民などを送還しながら通商を期待していた。しかしそれでも認められないからと言って怒り、蝦夷地の各地に侵攻した。ところが会津藩が北蝦夷地防衛に行ったとき、ロシア兵は攻めて来なかった。ここのところの事情が、どうにも理解できない」 すると子栗が言った。「私が学問修行のため箱館へ行ったとき、松前人の中川五郎治という者と会いました。彼は、『以前に日本は、択捉島をロシアの領土として取られたことがありましたが、これはロシア皇帝の意思ではなく船長個人の考えでした。船長は、日本との通商条約が結べなかったことを苦にして、自殺しようとしたのです。そのとき副官がこれを止めてこう言ったそうです。「われらはあの後、恥を雪ぐことも、日本に対して報復もしていません。むしろそれをやってから死んでも遅くはありません」と。それを聞いた船長は、報復として自分の部隊を蝦夷地に侵攻させたのです。しかし戦果を上げ得なかった船長は、ロシアに着く前に毒を飲んで自殺したそうです。その事件の後、ロシア船は再び日本からの漂流民を送り返しながら罪を謝して立ち去ったそうです。すなわちこのようなことは、ロシア皇帝は善意の持ち主と考えてもよいのではありますまいか』と言っていました」 重ねて平蔵は尋ねた。「ロシアとの悶着は。ここ一〇〇年ほど続いている。仮に中川らがそう言ったとしても、ロシア人が日本をわがものにしようとする本質は変わるまい。わが藩も北方警備に出掛けたが、その後もロシアは来航していない。ところがわが民が漂流する度に必ずこれを戻しに来ている。これはどういう考えなのであろうか?」 子栗はそれに、こう答えた。「たしかに先生の言われるように、会津藩はロシアと戦争にはなりませんでした。しかしそれは、たまたま幸運であったということに過ぎないのではないでしょうか。もし戦争になっていたらどんなことになっていたか、それは想像もつかないことです。その幸運とは、フランスのナポレオン戦争にあったと思います」「ナポレオン戦争?」「はい。当時、第三次対仏大同盟に参加していたロシアは、ナポレオンの侵攻を受けていました。一八〇七年、つまり文化四年のことですが、この年にロシアはフリートラントの戦で敗れてティルジット条約を結び、逆にナポレオンに与することになったのです。このような状況の中で、ロシアはこの日本の一角に力を回す余裕はなかったのではないかと思います」「すると蝦夷地にロシアの侵攻がなかったということは、ロシアが西洋で戦争をしていたからということか?」「恐らくそう考えて、間違いがないと思います。またそれに関連しますが、先生が出征中の文化五年八月十五日、長崎でフェートン号事件というものがありました。ナポレオンがオランダを占領したため世界各地にあったオランダの植民地は、すべてナポレオンの影響下におかれることになりました。イギリスは敗れたオランダのウィレム五世の依頼によって、オランダの海外植民地の接収とオランダ船拿捕を目的として軍艦フェートン号を派遣しました。」「おお、あの事件はそういうことが原因であったのか。しかし接収と拿捕。それではイギリスはおかしい行動をとったことになるな?」「はい、これが諸外国の言う弱肉強食なのでしょう。この日、フェートン号は国籍を偽り、オランダ国旗を掲げて長崎へ入港したのです。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館員が出迎えのため船に乗り込んだところ、全員が拿捕されました。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、挙げ句の果てに薪水や食料の提供を要求したのです。自衛力のない長崎奉行はやむなく要求を入れて食料や飲料水を供給し、オランダ商館でも豚と牛を贈りました。それでようやくイギリス船はオランダ人全員を釈放し、て翌十七日に港外に退去したのです」「うーむ。では、会津藩はナポレオンに救われたということになるのか? そうなると会津藩は、世界の動きと連動していたことになる。不思議な巡り合わせだな」 弘化二(一八四五)年、会津藩は再び江戸湾沿岸の警備を命ぜられた。今度は竹ヶ岡と富津(千葉県)の警備を忍藩(埼玉県)から引き継いだのである。この交代に、平蔵は不安を感じていた。以前より軍備が増強されたとは言っても、はかばかしいものではなかったからである。 弘化三(一八四六)年十二月十六日、美濃国高須藩主・松平義建の六男の松平鮭(金偏)之丞が従四位下に任じられて会津藩八代藩主松平容敬の養子となり、容保と改名して会津藩の後継者になった。そして嘉永四(一八五一)年五月、容保は江戸を出てはじめて会津に入った。平蔵は、すでに老齢と言われても仕方のない六十七歳となっていた。 嘉永五(一八五二)年二月七日、容保は会津藩相続を許されたが二日後の十日、養父である容敬が四十七歳で病没してしまった。そのため閏二月二十五日、容保は十八歳で会津藩九代藩主となり肥後守となって十二月には左近衛権少将に任ぜられた。 嘉永六(一八五三)年、アメリカのペリーが軍艦四隻で浦賀に来航した。会津藩も竹ヶ岡と富津の基地から船を出して警備態勢についた。「しかしこんなその場限りの対策でよいのでしょうか」 平蔵は、采女に鬱憤を漏らしていた。 この年から翌・嘉永七(安政元・一八五四)年にかけて行われた勘定奉行川路聖謨とロシア使節プチャーチンによる日露国境策定交渉において、唐太の国境はこれまで同様に画定せず、嘉永五年までに和人(大和民族やアイヌ民族等)が居住した土地は日本領であるとの玉虫色の協定が結ばれた。平蔵としては、日本としてあの北方警備の実績があるにもかかわらず、日本領と明確にされなかったこの協定に、不満を感じていた。ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.06.30
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文化十三(一八一六)年、イギリス軍艦が琉球に来航した。 ──北ばかりではなく南、それに江戸までもとなると、これは日本全土の問題だ。このまま外国の跋扈(ばっこ)を許していると、あの蝦夷地のアイヌ人たちのように、日本もなくなってしまうのではないか? 何とかしなければ。 文政元(一八一八)年、イギリス人ゴルドンが浦賀に来航した。このとき会津藩は七〇〇石積一艘、一三〇石積二艘、押送船五〇艘、番舟二一四艘を出して警戒した。海岸には酒樽に墨を塗ったものを置いて、大筒に見せかけたという話が伝えられた。「こんな一時しのぎでは駄目です。わが藩も外国と同じような鉄製の大筒を持つべきです。十年前の北方警備の際にも、ロシアは鉄の大筒でした」 平蔵は北方警備での直属の上司であった家老の北原采女に、強硬に申し入れた。「あのときの経験を生かすべきです」 文政三(一八二〇)年、会津藩は約十年にも及んだ相模の沿岸警備を免除された。「御家老様。北方警備がなく、沿岸警備を免除された今こそ、使わないで済む資金を有効に活用して、軍備全般を増強すべきでございます」「高津。その方はそう言うが、二つもの大仕事をした後ではその始末だけでも容易ではない。今の借財の多さについては、その方も知っておろう」 そう資金のことを言われてしまうと、平蔵には返す言葉がなかった。 文政四(一八二一)年、幕府は、蝦夷地一円を松前家へ還付することを決定した。藩主松前章広は江戸城へ登城を命じられ、老中水野忠成からこのことを言い渡された。 ──このことはロシアからの脅威が無くなったということなのであろうか。いや、そんなことはあるまい。 そう心配する平蔵の手元に、菅茶山から戍唐太日記が戻されてきた。このようなときこそ戍唐太日記をまとめなければと考える平蔵から、今度は蝦夷に関する記録を集めるとの理由で、会津藩が日記を持って行ってしまったのである。 ──これでは書けないではないか。 平蔵は書くことへの意欲が、急速に萎えていくのを感じていた。 文政七(一八二四)年、イギリス人が常陸の大津浜(北茨城市)に上陸した。常陸は会津から見て、そう遠い距離ではない。平蔵はひしひしと迫ってくる外国の軍事力に、強い不安を感じていた。 天保二(一八三一)年、戍唐太日記がようやく藩から戻されてきた。あれから二十年も過ぎてしまったことになる。しかし平蔵は藩の要職に就いていたこともあり、家族のこともあって公私ともに多忙であったから、書くことを続ける時間がなく、いつの間にか多くの書類の下になってしまっていた。 天保十一(一八四〇)年、清国で阿片戦争が勃発した。強力なイギリス艦隊との戦いに敗れた清国に、イギリスは香港割譲などの要求を出した。「清国が敗れた」 この敗戦は、清国の商人によっていち早く伝えられた。「あの大国が」 平蔵もまた、大きな衝撃を受けていた。以前より海外事情を学んでいた平蔵は、いち早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせていたのである。 天保十三(一八四二)年、南京の揚子江に停泊したイギリス海軍戦艦コーンウォリス艦上で、イギリス全権代表ポッティンジャーと清国全権代表の耆英によって条約が締結され、正式に阿片戦争が終結した。「しかし清国の支払った代償は、香港島の割譲、銀二一〇〇万両に及ぶ賠償金などと大きかったようだ」 情報を聞いて走り込んできた平蔵に、そう采女が言った。「はい。それにこの条約の付属協定として、『五口通商章程』で広州・福州・アモイ・寧波・上海の五港の開港、『虎門条約』で領事裁判権の承認、関税自主権の放棄、片務的最恵国待遇、イギリス海軍の清国港湾への常駐、開港場における土地租借の承認が締結され、領事裁判権、一方的最恵国待遇などがイギリスに付与されたそうでございます」「うむ。イギリスは実に不平等な条約を清国に押し付けたものだ。大体このようなことは西洋の国の常識なのであろうか」「いいえ、私はそうは思いません。国境を接している彼らは、お互いにもう少し平等な条約を結んでいると思います。彼の国が裕福と思われる経済力は、これら植民地とした国からの収奪によるものと考えています。下手をすると、植民地自体が、自分自身から収奪させるための資金を提供しているということになるのかも知れません。わが藩も軍備を増強する必要があります」 采女は黙ってしまった。「御家老様。資金のことでございますか?」「・・・」「御家老様。これはわが藩一藩の問題ではありません。資金不足ともあれば他藩にも働きかけ、国を挙げて対抗しなければ清国の二の舞となってしまいます」 家に戻った平蔵は、書類の下になったままの戍唐太日記を取り出した。阿片戦争の結果が、平蔵の書くという気持ちに火を付けたのである。すでに北方警備から三十五年という長い間が過ぎていた。 ──若かった者たちも老い、同行者の半数以上はいなくなってしまった。私もまた年老い、五十五歳にもなってしまった。それでも若い好事者に当時のことを質問されることがある。 平蔵は再び筆をとった。啓蒙の書としたいと考えたこともあった。しかし覚え書きが残されているとは言っても記憶は薄れていたし、その内容と文章の拙さを考えると、果たしてこの書を残す意味があるのかという心配もあった。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.06.25
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ロ シ ア、南 下 を 策 す 高津平蔵は北方警備から戻ると、直ちに密命の復命書を書きはじめた。それには詳細につけていた日記が、大いに役立った。それでも一ヶ月はかかったであろうか、平蔵は書き上げた復命書を、北蝦夷地での直属の上司であった北原采女光裕の私邸に持参した。「私がここで御家老様から命令を受け取りましてから、ほぼ一年になります。この部屋でこうしていると、あの北蝦夷地でのことがまるで嘘のように思われます」「そうだな、おそらく誰もが、北蝦夷地へもう一度行ってみたいなどとは思わないであろう」 采女はそう言うと小さく笑った。その手の上には、平蔵の復命書があった。黙読していた采女はそれを閉じると平蔵に言った。「よく書けておる」「ははっ」「ただな、平蔵。書いたその方が気付いておろうが、この書が役に立つかどうかは、これからの世の流れにもよる」 采女はそう言うと、背後の床の間の隅にそれを納めた。「この度、津軽藩は五万石から十万石に、南部藩は十万石から二十万石に格上げされた。田中様の先見の明には驚くべきものがあったな」「すると御家老様。わが藩も頂けるのでしょうか?」「まあいい、それは口にするな。もしそういうことがあれば、それこそ、その方の書が役立つときになる」 そう言われて平蔵は感激した。采女が認めてくれたと感じたのである。 平蔵は深く頭を下げた。 この翌年の文化六(一八〇九)年、平蔵が北方警備に出発する以前より編纂に参加していた『新編会津風土記 一二〇巻』が完成した。そしてこの年、あの間宮林蔵が単独で北蝦夷地に渡って海峡地帯を踏破し、北蝦夷地が島であることを確認したことを知った。 ──間宮殿は大した仕事をなされた。ここが島であることは、わが国にとって大きな利益をもたらすに違いない。 平蔵はそう思った。そしてあの蝦夷地でのことを書き留めてみたいと思った。平蔵は藩校・日新館で教え、また新編会津風土記の編纂にも関連したように、ものを書くことには慣れていた。仮の表題は終北録、副題として戍唐太日記(じゅからふとにっき)とすることにした。戍は守、護の意である。藩の仕事の合間に、この平蔵の戍唐太日記は少しずつ進んでいた。ところがまだ脱稿しないうちに、備後福山藩の菅茶山翁の訪問を受けた。菅茶山は儒官で備後福山藩校・弘道館および誠之館の教授をしていた。「高津殿。これは立派な書だ。会津藩が北方警備から戻ってきたことを知ってここまで訪ねて来たが、遠い道を厭わなかった自分に感謝している。どうであろう高津殿。この書をお借りできないであろうか」「いやぁ茶山殿。これはご覧の通り未成でございます。それをお貸しするなどとは、とてもとても」「そうは申されても、今までに書かれたことは頭にある筈。お借りをしている間にもその先を続けられれば、良いではありませぬか?」 手を横に振る平蔵に「時間はかけませぬ。勉強のために是非」と言って粘っていた。平蔵はついに折れた。そう時間をかけないことを、条件としたのである。平蔵としては、藩での仕事が多忙になることの予感もあったからであった。 新編会津風土記の編纂を終えた翌・文化七(一八一〇)年、会津、白河の両藩が相模と房州の沿岸警備を命ぜられた。そのうち会津藩には三浦半島の突端の三崎から浦賀、走水沿岸を、さらには観音崎、浦賀白根山、城ヶ島安房崎の御台場を担当することになった。相次ぐ遠征に、藩は総力を挙げていた。 文化八(一八一一)年、十一代将軍家斉の襲職を祝って第十二回朝鮮通信使三三六人が訪れてきた。平蔵は師の古賀精里に随伴して対馬で応対した。これが最後の通信使となったが、そのときの朝鮮の書記官・金善臣、李文哲に日新館の文詩を贈り、時の実情を筆述して対遊日記を著した。このような多忙に紛れ、手元に戍唐太日記がないこともあって、平蔵は自然にそれを忘れるようになっていた。 注 平蔵は対遊日記の他にも溜陽詩史、詩文集などの文書を残 したが、戊辰の兵火に失われた。なお一緒に対馬に行った 佐賀藩の草場佩川の著した津島日記は、現在佐賀大学に残 されている。 この年、オホーツク海沿岸を測量調査中のロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン以下八名が国後島のトマリで幕吏に逮捕され、松前に幽閉された、という知らせが入った。 ──国後島と言えば仙台藩の管轄だな。 仙台藩も大変なことだと思いながらも、会津藩がお役御免となっていることに安堵はしていた。しかし相模の沿岸警備に出兵しているからと言って、再び会津藩にも北方警備が下命されないという保証はなかった。『高田屋嘉兵衛が国後島近海でロシアの軍艦に捕らえられ、カムチャツカへ連行された』という知らせが入ったのは翌年のことであった。平蔵としては北方警備の経験から、蝦夷地からの情報には重いものを感じていた。 文化 十(一八一三)年、ロシアに捕らえられていた高田屋嘉兵衛や中川五郎治が松前に戻り、ロシアの情勢を報告した。「ロシア皇帝は、ホオシトフがわれわれを拿捕したことを知らない。それにロシアに戻ったこれらの指導的軍人は既に皆死んでいて、国民にも知らされていない。しかしながら箱館鎮台がゴローニンらを捕らえたままにしているのは問題であると思う。そこで幕府の役人の印璽書をとって来て無罪を証明させて釈放し、彼らをロシアに帰還させ、ロシア皇帝に会見させて平和を図らせてはどうか」 間もなく高田屋嘉兵衛の仲介もあり、幕府がロシア政府の陳謝の意を認める形でゴローニンらが箱館より帰国した。しかしそれらのことを聞いても、平蔵は安心できぬと考えていた。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.06.20
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平蔵も、計り知れない衝撃を受けていた。会津に戻ったら玄宰にこの蝦夷地での経験を話し、藩の軍事力強化の提言をする積もりであったからである。ロシアの砲撃により破壊された集落や集会所。上陸して来たロシア兵の戦法と兵器の力を聞いて、彼らの力をひしひしと感じさせられた。おそらくこの後、相次いで日本に来るであろう、外国に対抗できる力を会津藩としても持つべきだと考えていた。 ──御家老なら実行してくれる筈。 平蔵はそう考えていた。アイヌ人たちのチャシに対する、血を吐くような思いを聞いていた。もし会津藩が、仮に戦いによるものではないにしても、城を失うことがあれば藩そのものの存在を否定されることであろうし、自分たち藩士の立場をアイヌ人に重ね合わせることもできた。そうならぬためにも、会津藩の軍事力の近代化と拡張は、どうしても必要なものと考えていた。チャシが抹殺されたように自分たちも城を失うなどということは、絶対にあってはならぬことである。 八月二十六日、青森を出発、巖城(青森県岩木山・一六二五m)を左方に見た。巖城は津軽の名山で、南部の巖鷲とともに並び称される。郷土の諸山とその高低を比較すると、飯豊山と磐梯山の間になる。その晩は黒石に泊まった。 九月七日、遠くに鳥海山を望む。すでに純白であった。三年前の六月四日の夜九ツ時、この山が大鳴動を起こし、七日間も鳴り続けたという。この日、噴火とともに大地震が発生し、二日間にわたって震動して山麓一帯に広く大きな被害をあたえた。この地方の被害は「潰れ家二百戸、死者一八二名。」とあり、又、別の記録によれば「矢島藩御領分仁賀保にては、潰れ家十二軒、半潰れ十三軒、濁川村にては、潰れ家五軒、半潰れ二軒、熊の子沢に潰れ家一軒、長保田に半潰れ一軒、百宅村に半潰れ一軒、仁賀保御分家御領分には怪我人多数、死馬二十七頭」と伝えられている。小野を通過。古い伝説では小野小町の出生の地で、小町手植えの芍薬がある。院内に泊まる。 九月十四日、綱木嶺(米沢市)を登る。この南で奥・羽の境となる。この道筋に、高山、峻嶺がまた多いが、いままででもっとも大きかったのが国見(福島県伊達郡国見町)であった。次がこの嶺で、また次が箭立(青森と秋田県境)である。国見はこの嶺とともに山勢が緩やかで長い。ただ箭立は最も嶄絶(ざんぜつ)している。仙台の南北は平野で豊かであり、盛岡以北は大半がみな山、不毛で蝦夷と異ならない。会津と津軽は地勢に例えると長蛇の首が会津、尾が津軽となる。首と尾を西に向け、腹に羽州を抱えて重山(奥羽山脈)で区切ると、この二国は気候の境界線となる。 最後の峠・桧原峠を下り、桧原村に泊まった。ここは昔、伊達政宗が会津藩に攻め入ってきたとき、ここを守っていた領主の穴沢氏が、断固守り抜いた土地であり、藩領である。心なしか皆の顔がほころんで見える。「まもなく故郷だ」 九月十五日、若松を前にして、平蔵の想いが走馬燈のように頭をよぎっていた。若松で平穏に暮らしていた自分が、蝦夷地で和人によるアイヌ人への圧迫とロシアによる攻勢を知った。異国同士の対立や抗争の予想もできたが、これからはそのような異国からこの国を守る時代となる・・・。想いを巡らす中で、その晩は塩川に泊まった。藩侯の使番・原則賢が町外れまで出迎えて労ってくれた。 九月十六日、ついに若松に入った。出迎えの町の人たちの顔が、優しげに見えた。「ここは会津だ。故郷の若松だ」 それは思い起こすのも苦痛な、長道中であった。 十月十日、後軍が松前から帰った。 十一月二十八日、中軍が宗谷から戻った。 十二月十五日、幕府は内藤信周、北原光裕に衣服をそれぞれ五着、丹羽能教、日向次明、梶原景保、三宅忠良に各々三着を贈ってたたえた。会津藩の北方警備の派兵は、これをもって正式に終了した。 会津藩では北方警備で、遭難者以外にも多くの病死者を出している。その多くは蝦夷地の風土病『水腫病』によるものであった。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.06.15
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それを聞いた平蔵は友の死を悲しみ、会津で帰りを待っている友吉の妻の心中を思い、まだ満一歳に満たぬ子の春武を考えて目が涙で曇った。友吉に再会したら話してやろうと思っていたこれまでの出来事が、不意に空虚なもののように思えた。 ──友吉。お前、会津を出るとき心細いことを言っていた。もしかしてこうなることを、予感していたのではあるまいな。 八月十六日、蝦夷地は険阻であったが、ここまで来ると陣将も騎乗する必要がなくなり、通常の旅となった。海岸を回り、箱館に着いた。この地は西の松前から二十五里、南は海を隔てて南部藩の佐井と正面に相対している。海水が湾に入り、屈曲して東は一大湾となり、海口を扼する山がある。鎮府は山を背にして湾に面している。湾に突き出た山が海中に浸って波が静かであり、商船が集中して高い帆柱が林立している。松前の海は暗礁が多く停泊に向かず、外国船の多くは箱館に停泊する。この蝦夷地は千里茫々と物寂しげな所ではあるが、箱館の街に限っては弦歌が溢れていた。自然の景色に埋没し、保護色のように溶け込んだ人たちの暮らしから突然和人の町が現れ、そこの人びとがまぶしく見えて、ようやく夷狄の生臭さを綺麗に洗い流した気分になった。この日、仙台の国境守備隊長・柴田兵庫様より酒を贈られた。兵庫様より「本日は蝦夷の正月である」と聞いた。「そうか、正月というものもあったんだ」 そう言って酒を酌み交わした。「それにしても国元の正月と比べると、随分時季外れだな」 そう言いながらも、その内地を目前にしてはしゃいでいた。平蔵も嬉しかったが、まさか襲われるとは思わなかったあの嵐のことを思い起こしていた。結局は、その『まさか』のために陸路をとることになった自分たちが一番苦労したかも知れないが、逆に一番蝦夷地の様子を知ることになった、とも思っていた。 夕泊チャシ(HPより) 平蔵は箱館での余暇を利用して、蝦夷地十二館の最東端の志濃里館跡(シノリタテ・函館空港の南)を見学に出かけた。城郭としてアイヌ人から学ぶべきものがあるのではないか、と考えたからである。 志濃里館は中世の和人豪族が築いた館跡である。四方に土塁が巡らされた短形で、沢地形を利用した空壕が掘られていた。土塁で囲まれた郭内は、東西四〇間~四五間、南北三〇~四七間ほどの平坦地である。北側の土塁は二間ほど、南側は一間ほどの高さであった。また北側と西側の空壕は幅三間から五間、深さ最大二間で、特に西側は土橋を挟んで二重壕が掘られていた。コシャマインの乱において蝦夷地十二館のうちこの志濃里館や宇須岸館(函館市元町)などの十館が落とされた。残されたのは茂別館(函館市上磯町矢不来)と花沢館(檜山郡上ノ国町勝山)の二館のみとなってしまったという。なお宇須岸とはこの地の古名で、アイヌ語でウショロケシ(湾の端の意)がウスケシに転じて宇須岸の字を用いたという。 この志濃里館の手前の半里ほどにチャシ(函館市湯川町)があり、その先半里ほどにもチャシ(函館市新湊)があった。さらにその北、一里ほどの所にもチャシ(函館市庵原町)があったことを知った。現在チャシのほとんどは取壊令によって壊されており、皆無であるという。チャシはアイヌ人の心の拠りどころであった。彼らはそれを、彼らの歴史とともに抹殺されたのである。平蔵は思った。「われわれとても、もし城を失うことがあったら、心の拠りところを失うこととなろう。古い時代から、われわれは蝦夷の地を自分たちの土地と考えてきた節がある。しかしそれは、そこに住んでいたアイヌ人が、認めたことの上であったのであろうか。自分がこうして見聞してきた範囲では、決してそうであったとは思えない」 そう考えると、アイヌ人と和人との抗争の歴史が忍ばれた。 八月十九日の夜、いよいよ箱館から知内に向けて出航した。あとは青森に行く予定と聞かされた。船の中で身体は横にしたものの嬉しさがこみ上げてきて、とても眠れる状況ではなかった。 八月二十日辰(午前八時)、知内に至ったが西風に遭って退き、箱館に戻った。しかしその後、また風は東に変わったため箱館を出、知内を過ぎて吉岡に至った。夜中に三険を通り抜け三厩を過ぎた。そして二十一日の未刻(午後二時)、ようやく青森の港に到着した。箱館と青森の間はそう遠くはないが、海流が激しく海の横断が大変である。そのためやや西に位置する松前近くから舟を出し、潮流に従って下ると、巧く青森に到達するということであった。 わが藩の使番の井深重休が青森へ来ることで、あの嵐で行き方知らずになっていた大黒丸の消息が知らされた。「大黒丸に乗っていた組頭田中鉄次郎、多賀谷左膳らの計六三名は、方々を漂流しながら三厩に漂着し、八月一日に三厩を出発した」 八月一日と言えば一ヶ月も前のことである。恐らくすでに、若松に着いたと想像された。よかったという感覚が、万感の想いでどっと胸に押し寄せてきた。 そしてそのとき、筆頭家老の死を知らされた。田中玄宰、性格は度量寛大で大人(たいじん)の風格があった。貞昭侯および今上藩侯のため三十年藩政を執り、その感化で善政が行われるようになった。賢相と称された国人の死を聞いて全軍みなこれに驚き、涙を流さない者はいなかった。田中玄宰は六十一歳の死に臨んで、「わが骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と遺言し、それらの見渡せる小田山の山頂に葬られたという。ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.06.10
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八月十一日、有珠を出発、病人と荷物は、すべて舟に乗せた。全員陸行。道に沿って山坂の峻険な所に休憩所がある。参政が辺境を巡ったときに設けられたものだという。禮歩牟計(レブウンケップ・虻田郡礼文華=水などを掻(か)い出すの意)の手前の岬の先端に、カムイチャシコツがあった。このチャシの南、東、西は断崖絶壁になっており、まさに要害の地である。砦であったのであろう。その晩は、アイヌ人三十軒ほどの集落があり、出張会所のある礼文華に泊まった。 八月十二日午(正午)、礼文華を出発。保呂奈伊(ポロナイ・幌内=大きな川の意)・場所不詳)嶺を登る。東南に海を隔てて佐原山(場所地名とも不詳)を見た。嶺を降りると道に近い所に大蜂の巣があり、刺されないように枝を折って両手で払いながら進もうとした。しかし数人が通ったところで蜂に襲われ、やむを得ず林を迂回して通った。ともかく蝦夷地はろくな道がない。民家もないところもあるので道がある所はまだましであった。このため中途で日が暮れ、月明かりの中を進んだ。下働きの光輔が先行して宿舎に着き、数人の者を迎えに来させた。馬を引き、水壺や夕食を持ち、光輔もまた出迎えに来てくれた。陣将は騎行していた。その馬を引いてきた者が教えてくれた。「自分はもと山越内のアイヌ人であったが東蝦夷が開かれたときに帰化した」と。 彼は髪を結い、髭を剃って衣は右前に合わせ、名は清吉と呼ばれるのを希望した。住居はアイヌ人のままであったが、言語や衣服は中国人のようであった。 八月十三日、陣将は疲れが酷く、昼過ぎに馬で出発した。他の藩士たちは先行して山越内に入ったが、ここには関所があった。関所は蝦夷、北蝦夷地ともはじめてであった。関所の門内に入ると役人たちが出てきて歓迎してくれた。もちろん、通行手形などの監察はなかった。「大義」「ご苦労」などの声が飛び、その中を通る藩士は、誇らしさとともに、温かさを感じていた。 その晩は山越内に泊まったが、陣将は途中の志良利加川(シラリカ・二海郡八雲町=波が磯を越える状態の意)近くに宿泊した。夜中、大河原臣教と両城信八が、酒を持ってきてくれた。 八雲集落は和人の町から半里ほど離れた、遊楽部川が海に出る所である。オットセイ狩りが盛んな所で、オットセイが波に浮かんで昼寝しているあたりにはオロロン鳥や鴎がたくさん群れているので、静かに船を漕ぎ進めて銛(もり)を投げて捕るという。舟のへさきには、木幣(もくへい)で包んだ狐の頭を守り神として乗せ、嵐に遭ったり霧にまかれたりすると、「しっかり舟を守らないとお前さんも海に沈んでしまうよ」と言って安全に協力させ、また鴎神にも頼むと、鴎がかわるがわる舟の先に立って陸に導いてくれるという。 八月十四日、藩士が舟で出発した後、巳刻(午前十時)になって陣将は山越内に着いた。ここは中国人やアイヌ人との分界の地である。山越内はアイヌ語でヤムが栗、クシタヤナイは沢を意味する。この周辺には栗の多いせいであろう。蝦夷の地名は中国化するに従い漢字化されたが、そのために本来の意味を失うことになった。松前、弘前、秋田なども皆この例による。 またあるとき、ここの近くに住んでいた幕府下役人の秋山左仲が公務により箱館へ出掛けたが、風波が強く途中で舟が転覆して溺死した。殉職であったため、その子に襲官させたという話が残っている。 藩士たちは陣将の到着を待ち出発を延期した。陣将は舟で乃娜於伊(ノナオマイ・二海郡八雲町野田生=ウニの多い所の意)を出発した。はじめ舟頭は「天候が良くない」と言って出発を嫌がったが、後では良いと言うことになり、石倉(茅部郡森町石倉)に着いた。しかしその後、舟頭が言った通り風波が強くなったため、舟を捨てて陸行、鷲木(茅部郡森町鷲ノ木)に着いた。 八月十五日、海を行き、大小二つの嶺を過ぎた。その大嶺の上方、遙か南方の海中に一山が突起し平地が続いて蓮の茎のように見えた。これが箱館であった。嶺の下の山や谷の四方が開拓されたが、湿原はさらに広大であった。荒れた茅野の中に、田畑が見られた。前の箱館奉行の羽太安芸守正養が、奥羽の民を募って開墾させた所であるが、惜しいことに稲は実らない。 この日、舟人は荷物を舟に積み、牧場の人は馬を連れて陣将を迎えに来た。陣将は騎乗し、大野(北斗市大野)に泊まった。蝦夷には果物がないが、大野ではじめて梨を食べた。箱館産という。「うまい」誰もがそう言った。 三宅忠良孫兵衛隊長は、祐筆の安恵重庸を事務室に招いた。ここではじめて大黒丸を失い、利尻島に漂着した観勢丸の状況が知らされた。 十一の日、あの嵐の中で船頭が、「これでは船が転覆する」と 言った。西川重光、龍造寺隆虎が「われわれは船で松前に到達す るという義務を果たしていない」と言ったので、全員が全力を挙 げて嵐から船を守ることを誓って持ち場を守った。また重光は、 「今、わが責務を果たせず、また兵の心配も取り去れず、尚かつ 船を失うなどということはできない」などと口には出さずに考え ていると俄に船が大岩に打ち付けられ、船体が二つに割れた。そ れでも帆柱が倒れて岸に掛かったのを幸い、これを伝って全員上 陸し、一人の死傷者も出なかった。皆、これは神助かと喜んだ。 着いたのは利尻島であった。ここを守備していた梶原平馬隊の救 助を受けた。 宗谷出港の予定日を知らされていた梶原隊は、船団がこの嵐を どこかで避けているものと思っていたが、それでも万が一をおも んばかって、嵐の海上の監視を強めていた。それもあって大船が 一艘、大波に揉まれて島に近づいているのを早くから見つけ、そ のために救助活動が円滑に進み、上陸に際して犠牲者を出すこと がなかった。また山岡監軍や丹羽能教によると、その後、利尻島 に三艘の救援船が仕立てられて新潟港と酒田港へ向かったが再び 大風に遭遇した。千四百五十石積みの大栄丸は利尻島ヲツチ(鴛 泊=岬の根本の入江の意)に避難したがその後再出港、佐渡赤泊 に漂着した後自力で新潟へ入港した。九百石積みの宝神丸は利尻 島トノトマリ(本泊)を再出港、飛島(山形県)に漂着後酒田港 へ入った。そして全真丸(五百石積)は佐渡島小木に漂着後、出 雲崎港へ到着し、病人と重傷者については別の船で松前に送られ たという。 関場友吉は、船で帰途につく寸前、風土病にかかって倒れ没し ている。兵舎の傍の硬い土を掘って、懇ろに葬った。藩兵の一人 は二度とこの島に来ることはないだろうと思い、せめてと髪を切 って懐に入れ、こう呟いたという。 「寒い所に一人で淋しいだろうが、お前の髪はわしが故郷へ連れ て行くぞ」 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.06.05
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八月九日、知利便都(チリベツ・室蘭市鷲別=鳥のいる川)に着いたとき、アイヌの子どもたちが谷川の脇で遊んでいるのを見た。顔立ちが特に優れている子がいたので平蔵は案内人に聞いてみた。「和人とアイヌの婦人と結婚して生まれた子どもです」 この日、陣将は、馬に乗って山を越え、海路、毛呂良牟(モエルラン・緩やかな下り坂・室蘭)に至り泊まった。 八月十日、道沿い(伊達市館山町)のチャシが、やはり台地の上にあった。二重の環濠のある豪壮なものである、その北方に後方羊蹄山を望んだ。往路、宗谷への船旅で海上でも望んだものである。今その正面、その側面を見るに、形が若干違うとは言っても同じ円錐形の山である。名山の多くは富士山のような形である。故郷会津の磐梯山も同じ範疇に属する。富士山だけが特別ではないということをはじめて知った。 注・磐梯山は、明治の大噴火によって山容を大きくえぐられる 以前は、富士山に似た形をしていた。 この辺りから、木戸を作り柵を結った牧場が、散見されるようになった。当然、和人による経営である。虻田では、アイヌの老婆が悲しい唄を歌ってくれた。虻田からモーベツ(伊達市)まで、大豆と小豆を舟で運ぶように言いつかった夫婦が、子どもを家に残して出かけた帰り、お乳がはって苦しみながら歌ったという悲しみの唄であった。「またか」、そう思うと平蔵は声もなかった。各地で、悲しみの歌を多く聞いてきたが、その悲しみの裏も彼らから学んできた。 ──彼らは和人が来る以前の長い間、生活と自然の保護再生のため、特定種に偏らないよう注意し、動植物魚介類の多くの種類を狩猟採集し、漁労をしてきた。しかるにわれら和人が蝦夷に来て商品経済を持ち込むに及んで彼らもそれに習い、現在では商品としての鮭漁にその重点を移したため生産物が鮭に偏向、競って捕らえるため商品としての価格が下落し、かえって貧困に沈む結果となっている。これからは単に彼らから富を収奪するという形ではなく、彼らともに生きる手段を考えるべきであろう。現地に住んでいる人々の悲しみを消して味方に付けなければ、ロシアの脅威と戦うことはできまい。 平蔵はそう考えていた。 和人の経営する多くの牧場を通った。牧場の面積は数町もあり、木柵を巡らして逃亡を防いでいた。蝦夷地には従来牛馬はなく、箱館奉行戸川筑前守安倫が馬五十余匹を輸入し、これを放牧したことに始まるという。ここより於志耶麻牟便(オシャマンベ・山越郡長万部町=カレイのいる所)に至る間に、平野、岡田、富川の三ヶ所に和人の牧場があった。「広いな」と想った。何故か今まで旅をしながら見てきた広大な原野とは、また違った意味での広さを感じさせられていた。この道に沿った人工の柵の長さが、その広さを際立たせていたのかも知れない。アイヌ人たちが、これほどの広大な地から締め出され、和人の論理に振り回され、生活の場を失ったのであるから、彼らの反感が高まっていたことは、十分に考えられることであった。 道の途中でコブシの枝をかついでくるアイヌ人に出会った。額になにかの膏薬を貼っていたその男は「箱館へ行くならコブシを持って行け」と言って私にくれた。「ここでもこの木をオプケニと言うのか?」と私が聞くと、「そうだ昔のわれわれは随分いい匂いの屁(オプケ)をしたもんだな」と言って笑った。 天真爛漫な笑い顔であった。 ──このような人たちだ。こちらにも誠意があれば、うまく付き合える筈だ。 そう思いながら平蔵は、その笑顔に誘われた。 宇須(ウシ=伊達市有珠=湾の意)に着いた。前は海湾に臨み後ろには有珠岳を背負い、山々が丸く渚を抱え込みうっとりと綾錦のように綺麗で一幅の絵のようである。平蔵はあまりにも美しいので、景色を小さくしてわが家の庭に取り入れたらいいなとも思ったが、そうするには広大な楼閣を建てねばならないことになる。厳島や松島以上の美しさがある。しかし今から四〇年ほど前の明和六(一七六九)年に有珠山が大噴火を起こし、有珠山の西に小有珠という山を生成したという。恐ろしい力である。有珠には六十ほどのアイヌ人の集落があり、昆布、鯡、鱈、かすぺ、帆立貝が獲れ、畑作は日本の地と同様である。 ──ここからの地は、耕作に向くな。 平蔵はそう考えていた。 幕府は政令で、一般の和人がここより東へ入るのを禁じている。先年参政の堅田侯堀田正敦が北辺を巡った際にも、ここから引き返している。以前はここに、中国人とアイヌ人が雑居していたという。ここで初めて、近年、幕府が江戸の寛永寺に隷属する善光寺の名で創建したという寺を見、ここで物故した同輩の霊に拝礼した。この晩、有珠に泊まった。 有珠にアワビがいないのは、昔オオバンヒザラ貝とアワビとが喧嘩してアワビが負けたので西海岸に行ってしまったからだという話が伝えられている。そのあと今は、草も生えていない。平蔵は『昔この海岸に寄鯨が漂着したとき、虻田の人たちが先に発見してひとりじめにしようとしたので、有珠集落の者たちが漂着した所が有珠領であることを主張し、互いに酋長同士が自分の主張が正しいと議論し合った。虻田方は自分の領内でなかったので言葉に詰まって負けになったが、これを見ていた神が苦々しく思って二人の酋長と寄鯨とを一緒にして岩にしてしまった』という伝説を聞いた。いずれ有珠岳の噴火によって噴出した岩であろうが、その形や配置がいかにもこの物語にぴったりしているのに驚かされた。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.05.31
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アイヌの一般人は豊かではない。例えば鳥かごや獣檻さえ持たない。もっとも貴重とされるのは鶴である。アイヌ語でこれを加毛伊知由歩加(カモイチユホカ・カモイは神の意)と言う。丁度中国で言う神鳥と同じ意味で、この鳥ははじめて男女に交接の道を教えたと伝えられる。わが国でミミズクやセキレイを貴んで神鳥と言うようなものであろう。「最上徳内によると、この鳥は幕府に献上されたことがあったがあまり喜ばれなかった。形状や毛色に特に変わったところはなかったからであろうと言う」ある人がそう言った。 陣将は鶴を買い求め、藩公への土産とした。 八月六日、男女数人が鶴を持って見送りに来た。この鳥の真似をしながら酒を飲み、そして酌み交わしながら別れを惜しみ、涙を流し、泣きながら立ち去った。久しく飼った家禽(かきん)を一旦知り合った人に渡すことで、悲しみの情を表すのだという。人に心の限りを尽くすという、これこそが彼らの人情なのであろう。 一行は勇払川を出発した。林の中の平坦な砂道を通り抜けた。一方で陣将は僅かな水の谷川に舟を浮かべ、東湖に入った。東湖の名は比比(ペッペッ・苫小牧市美美のウトナイ湖=川また川の意)である。これも周辺の地名からとった。東湖は西湖に比べて小さい。四面は皆、ヨシキリ、コモ、ガマに覆われ、溢れた東湖の水は勇払川の下流に流れ出る。 このあたりから、はじめて銭の使われているのを知った。またこのあたりのアイヌ人は巧みに模様を彫刻し、金銀を散りばめて玩具や粥器物を製作する。この日、勇払川で捕れたという、変わった鼠を手に入れた。千歳川が出所だと言うが、どうも北蝦夷地から来たものだと言う。これより道を登ると里程標があった。勇払川の河口に泊まった。 注・東湖、西湖はどこを指していうのかよく分からない。『終 北録』の文脈から東湖にウトナイ湖、西湖に丹治沼を比定 した。 八月七日、海岸に沿って進行する。見渡す限りの西の人家は、皆、葦で屋根を葺いていた。アイヌ人たちはここに常には住まず、寄せ場人足として住んでいるという。正午、古伊刀伊別(コイトイベツ・苫小牧市小糸魚=波が入る川の意)に着いた。ここでは粟、稗(ひえ)、菜、大根が少々作られていた。 やがて海の向こうの西南に、内地の山を望見した。「おーい、あれは南部の山ではないか?」「そうだな、この方角では蝦夷地ではないな。間違いなく南部藩だ」 もう誰もが、内地に戻ったかのように歓声をあげた。志良於伊(シラウオイ・白老郡白老町=アブの多い所の意)に入った。ここでは鰊、海参(いりこ)、鱒、鮭が獲れ、大根、煙草などを作っていた。ここの三十軒ほどの集落にもチャシがあった。 志良於伊チャシ(HPより) ここに泊まる予定で時間の余裕があったので、平蔵はチャシへ行ってみた。南側から伸びている高さ二十間ほどの舌状の台地の先端に、それはあった。残念ながら遺構に類するものは見つからなかった。ここで戦われたシャクシャインの乱で、和人の犠牲者が九人、幌別でも二十三人、その他『鷹師、金掘の者百人都合二百十二人相果候事』であったと知った。その上ここで、密かに和人を呪詛する歌が歌い継がれていることも知った。 くされ シャモ奴 私を 騙して 一尋の 布切れも くれずに 逃げてしまっ た。 するべきではない 神の ところでも 人間の ところでも 女は 神への祈り をば。 呪(かし)りを 言うと 海の上に 大風が起こって くされ シャモ奴 乗った 船と一緒に 沈んで しまった。 (アイヌと日本人より) 八月八日、海岸から山に入り、嶺を越えて再び海辺に出た。 カムイエカシ・チャシ、名のついたはじめてのチャシである。このチャシはポンアヨロ川河口左岸の、海に面した要害の地であった。場所から言って、漁や航海の安全を見守る見張台としても使われたのではないか、と思えた。さらにこの川の対岸の段丘上には、カムイミンタル・チャシ跡があった。 日暮れになって先行していた両城信八、平二の兄弟が迎えに来たのに会った。保呂便都(ポロベツ・登別市幌別=親の川の意)に泊まる。兄弟の話によると、幾吉丸は積丹に漂着したとのこと、また利尻島に難破した観勢丸は沈んだものの帆柱を伝って島に上陸したので死傷者は出なかったことが分かったが、大黒丸については依然その行方が分からないという。幾吉丸や観勢丸についてはよかったと思う半面、大黒丸についてはただ粛然とするのみであった。しかしまた、いい知らせもあった。「殿軍としてクシュンコタンに残っていた丹羽織之丞隊は七月二十三日に千三百五十石積の政徳丸で出航、すでに松前に無事到着した」 それを聞いて歓声が上がった。幸と不幸の知らせが一挙にもたらされていた。 この幌別とは村の脇に川があるための名であろうか、アイヌ語で大水という意味だそうである。蝦夷には松がない。ここに来てはじめて黄色の茅、白色の葦の中に、青緑色に高く古人のように立つただ一株の落葉松を見つけた。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.05.25
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八月二日、舟で石狩川を下った。川は濁って深く、下流では三十尋(ひろ)もあるという。蝦夷地最長の川である。川の両側の地は荒れていて草が密生していたが、点在するアイヌ人の住居も見られた。そのうちの一つ、利備多利(リビタリ=場所不祥)の集落に泊まった。ここでも蚊が多かった。アイヌの案内人によると、この川の西、約二里の所にポンチャシというものがあると言う。「チャシとはアイヌ語で『柵』とか『柵囲い』を意味する言葉で、ポンとは小さいという意味です」 チャシは、砦、祭式場、談判場所、鮭漁などに関連した見張り場などに使われたものであると言う。平蔵は見てみたいとは思ったがなにしろ舟旅でもあり、残念ながら諦めざるを得なかった。 八月三日、この日は秋分の三日にあたる。流れに沿って舟で下り、石狩川を横断して江別太に泊まった。ここにはアイヌ人の家が三軒ほどあり、番屋は川の左にあった。ここは石狩の持前で、番人が石狩から来て賄いをしてくれた。この江別太で、石狩川は南から流れてくる江別太川(夕張川)と合流する。 八月四日、夜明けに江別太から石狩の平野を通り、少し上流に戻った恵便都(エベット・江別市江別=胆汁のような川の意)の集落に入った。やはり江別でも、南から志古都川(シコツ・千歳川=大きな谷の意)が石狩川に合流していた。シコツという音は、日本語で死骨にあたることから、後に千歳に変えたという。 ここの支笏湖に伝説があった。 国造神(コタンカラカムイ)がこの島を作ったとき、支笏湖も つくって、どれくらい深くなったかと入ってみたら、海に入って も膝ッ小僧の濡れることのないのに、とてもとても深くて、睾丸 まで濡らしてしまったので、怒った神さまは、せっかく湖に放し た魚を皆つかんで海に投げ返してしまったが、たった一尾アメマ スの雌魚だけが残っていたので、アメマスだけが住んでいる。 ──なるほど、ここでは淡水魚が捕れるということだな。 平蔵はそう思った。 千歳川沿いは紫葡萄が豊富で、蔓が樹枝にからまっていた。実は累々と川波の上に落ちて、押し合いをしているかのようにも見えた。摘んで食べてみると、すこぶる美味かった。 ──ここでは、果物が育つかも知れぬ。これもいい兆候だ。しかしこの大木の森では伐採ではなく、焼畑が有効かも知れぬ。作物としては馬鈴薯、菜種、蕎麦、大豆、小豆、碗豆、南瓜がいいのではあるまいか。それにしても蝦夷地へ入植するとすれば、直後の食糧自給は難しい。当初は米麦の援助が必要となろう。平蔵は丹念に観察して歩いていた。 千歳の川幅は広く、はじめのうち湿地は半町くらいであったのに、千歳川を遡るに従って湿地が広がっていった。石狩川と競う大河である。石狩川は深かったが、千歳川は遠浅であった。それでも猛々しい早瀬に遭うごとに、アイヌの案内人に舟を牽かせた。千歳川の中流では一尺進んで一尋退くような苦しい舟行であった。 この辺りには、川の西に沿って並んでいるいくつかのチャシが見られた。最初のチャシは低い段丘となっており、次のチャシは比較的平坦な場所にあった。弧状の壕があるという。第三のチャシは千歳川と支流の小さな川に挟まれた段丘の上にあった。内陸部には、川から見えるこれらのチャシ以外にも、多くのチャシがあるという。東からの攻撃に対して、三つのチャシが連携して防衛に当たったのであろう。 日が暮れ、夜半には力が尽きてしばらく舟を左岸の柳樹に繋いだ。上流を見るとアイヌ人の住居の光が波に輝いて、キラキラ光っていた。陣将は飢えに苦しんでいる藩士たちを見かね、酒一壺を贈ってくれた。それを皆で飲み合って飢えを防いだ。その後もアイヌ人は夜も休まず櫂を動かし、恵志耶利布刀(エシヤリフト=不詳)に着くことが出来た。 八月五日の早朝、前の宿場より弁当が届けられた。引き続く行軍で腹をこわした陣将はこれを他に譲り、自分は食べなかった。全軍も前日より飯を食べず、これが最初の食事であった。飯が終わってすぐに兵は陸路をとり、体力の弱った陣将は数人の従者と共に舟で西湖を出発した。 西湖の名は於左都(オサツ・千歳市長都=川尻の乾いている川の意)であるが本来は名がなく、周辺の地名をその名としたものである。ここより東蝦夷・勇払の所轄となり、ここには勇払からの出張会所があった。粟、豆、大根、煙草の類が耕作されていた。湖は周囲四里ほどでそれほど深くはないという。舟は棹で漕いだ。東には平山が並んでいたが三方には地平線が見えるのみで、ただ西北には群嶺が嶄然(ざんぜん)と濃い霧の中に頭角を現していた。陣将は眺望し、久しく感嘆をしていた。湖を過ぎ、また川を遡って益母草(やくもそう)と葦の繁茂した谷に入っていった。 黄昏、暗くなって由宇歩都川(ユウフツ・苫小牧市勇払川=内陸への入り口の意)に入った。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.05.20
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遥 か な り、 ふ る さ と 七月二十二日、病人や歩行が困難である者については、結局、留萌に残して船の来るのを待たせることとし、いよいよ多くのの藩士は、徒歩で箱館へ向かった。阿分からの道は石狩川を遡り、恵便都布刀(エベツフト・江別市江別太)に至る道である。まず阿分から東に折れて水量の多い信砂川を渡った。この周辺には、粟、豆、大根などの畑があった。そこから山道に入った。山上は平らで、高くはなかった。遠くには海が、また足元には渚が見えた。八、九町山を降りてから、また信砂川の上流を渡った。さらに数里、渓谷を行き、羊腸とした坂の新道を登った。山楡、竹木の根株がまだ全部は除かれてはおらず、加えて泥濘のため歩行は甚だ困難を極め数度木の根に腰を下ろして休憩した。先の下道は、最も峻険に折れ曲がっていた。この日はじめて、爾世婆留麻(ニセパルマ・峡谷の口の意=場所不詳)で蝉の声を聞いた。夜、ここに宿泊した。 七月二十三日、渓谷を通って一つの険しい嶺を越えた。谷の水はみなこの嶺から分流しており、分水嶺という名が実感された。下って、柳の林に入った。数十人で水を汲み、再び山道に入った。山はほとんどが平らで、谷川が並んでいた。恵多伊便都川(エタイベツ・恵岱別川)に沿って下った。更に進んで恵岱別の集落に泊まった。この辺りになると川幅も広く、舟がないと対岸に渡ることができない所である。 七月二十四日、渡河しようとしたが舟が集まらなかった。その上まだ中途にある前隊の進行を待つため、ここに数日駐屯することになった。夜寝る毎に蚊やブヨが顔面を覆うほど集まってきた。それを追い払ってもまたすぐ集まり、皆を驚かせた。不寝番を立てて交代で追い払ったが、それは夜ばかりではなかった。 平蔵はアイヌ人の案内人を通訳として、集落の人たちと話を交わした。言いにくそうではあったが、ここでも和人の尊大ぶりを聞くことができた。火を囲んで、小さな声で唄ってくれた。 『山の神様 クスエプ ドトイタ (山鳩が畑をつくり) フチ ワッカタ (婆ちゃんが水汲み) カッケマツ シュケ (かあちゃんが飯を炊き) ポントノ エベ (役人が食べた)』 (アイヌと日本人より) 余程思い切って教えてくれたのであろうこの哀しい唄を、平蔵は黙って聞いていた。こんなことは長く続けられることではない。和人がすべきは、彼らには悲しみを与えることではなく、この不慣れな気候の中で生活する上で彼らからの経験を学ぶべきことであろう。われら和人に協力をしてくれるようにしなければならないと考えていた。 旅の山道はこれからもそうであろうが、藪を分け入っての行進であった。密生する身の丈ほどのクマザサを刈りながら歩いたが、緑の葉の裏はダニで真っ赤であった。夕方になると蚊やブヨの大群が襲って来るので生の松の葉を燃やし、前が見えなくなるほどいぶさねばならなかった。 八月一日、恵岱別を出発した。日の光が通らないほどの深い林が数里も続いた。それでも土地の人に聞くと「大木を切り倒し、道を造って雪中でも往来できるようになり、便利になった」という。 この森の道の途中、大木を削って白くなっているのが見られた。アイヌ人に訊くと、雪中歩行の際の目印にするのだと言う。冬季には高さが一丈余、葉の大きさが傘を広げたように大きくなる植物があると聞いて驚いた。また普通の大きさの倍もある『薩』という名の大根を見た。長さは三,四尺もあり、一頭の馬でわずか二本しか運べないということであった。いままで平蔵は、こんなに大きな大根を見たことがなかった。 この辺りの峠道から下を見ると、地平線が広がっていて山はまったく見えない。一面が鬱蒼とした原始林に覆われているので、まるで空に蓋をして見えないような状況である。よほど肥沃な土地に違いないと思われた。アイヌの案内人に確認したところ、蝦夷地全土がこのような状態であるという。この辺りには柳樹が多い。於志良利加(オシラリカ=雨竜郡雨竜町尾白利加)に泊まる。ここは増毛の持前(もちまえ。管轄)にあるとされ、増毛の番人が来て賄いをしてくれた。長距離を行軍した後、準備をしないで温かい食事を頂けるのは、本当にありがたいことであった。 秋分や どこまでも碧 蝦夷の空 (終北録より。高津平蔵の作か?) ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.05.15
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夜、留萌に着き運上屋作吉の家に泊まった。その建物は八間に二十間もあり、肴蔵に入ってみるとその広大なこと驚くばかりであった。河口も舟が二~三〇〇は入ろうという港で、留萌は増毛、石狩と並んで、三大湊と言われているという。 七月十四日、日向三郎右衛門の部下の二人の与力が留萌に来て、はじめて天社丸が増毛に漂着したことを知った。天社丸では船内で病没した隊員の葬儀をすませ、天候の回復を待っていたが、すでに松前に向けて海路出発していた。二人は日向隊長の命令により、宗谷に行って漂流船の行方を捜してくるのだという。 平蔵は、陣将・北原采女に呼ばれた。ここであえて船待ちをせず、陸行するというのである。「ここに多くの者が、何時とも分からぬまま滞在することは、この地に迷惑をかけることになる。陸行すれば、その方の役目のためにもなろう」そう言って北原采女は道案内のためにアイヌ人の一人を道案内として割き、与力二人と一緒に先発させた。 七月十五日、隊の出立に際して番家と運上家が供を申し出てきたがこれを断った。彼らは、これからの旅について貴重な提案を行った。「これから先はアイヌ人の集落を道しるべにして歩くようになります。一挙に多くの和人が歩くということはアイヌ人を刺激しますし、人数の多さから宿泊にも事欠くようになるでしょう」 聞くとその道程は、唐太で間宮林蔵から聞いた、松平忠明が探査した道と一致していた。蝦夷地の沿岸部の探査は進んでいたが、内陸部については、この道しか知られていないという。 そこで陣将は前・後隊の二隊に分け、前隊を先に出発させることにした。しかし調役と前途軍行について相談事が出来たので、臨機の処置として前隊をここに留め、後隊を先に進行させることとなった。平蔵ら後隊は阿布牟(アフン=増毛町阿分)を経て能部志耶川(ノブシヤ=増毛町信砂川)を渡った。間もなく道の脇に、宗谷に行った与力が言っていたように、下司昌武と百崎重信両人の墓を見つけた。日向隊長の部下の墓であったが、周囲は岩の崖のみで土がなく、石の割れ目に埋葬し、砕石が充填してあった。いわゆる四元(地水火風)を象(かたど)っていたが、はじめて石葬というものを見た。それにしても悲しいことであった。皆で経を唱えたが、男子たる者の業は家を辞去して戦いに従うことである。故に本願は戦死である。深く悼むのには隊員だけでは不十分であったろうが、勇壮な墓で良いと平蔵は思った。その晩は増毛に泊まったが、シャクシャインの乱のとき和人が古平で十八人、増毛で二十三人、その他合計で『百四十三人相果(あいはてる)』という話を聞いた。 七月十六日、留萌の支配人の文右衛門が、「海岸は道としては難阻なので、最近新たに阿分から恵岱別に出る山道を開いたから、病気や歩けない者の外はこの新道がよい」と主張していたが、たしかに増毛から先には海沿いの道はなく、山を迂回する他に道はないことが分かった。 また、「これから先にろくな道がなく、アイヌ人の集落を伝わって行く旅にカネはあまり役に立ちません。彼らは物々交換に慣れているから、何かの代償としては医療品が一番いいと思います」と言われたこともあり、増毛で医療品を買い揃えた。「彼らは医薬を知らず、ただ祈り、おはらいがあるだけである。もし重い病気になれば山中に捨てておいて死ねば土葬とし、柳枝の末を削って細く柔らかにしたものを刺して墓標とするのが習慣である」とも聞いていたからである。 七月十七日、はじめて鮭を食べた。西蝦夷沿岸の諸河川は皆これを産するが、石狩川が最も盛んである。土地の人は網で採る。塩漬けあるいは干し肉にして内地に舟で送る。鰊は二番目であるが、この他にも貨物は多い。 七月二十日、留萌と増毛にいた全員が、阿分に集結した。ここから山道に入ることとなったからである。そして二十一日、宗谷に行っていた与力たちが、阿分に戻ってきた。宗谷までの往復に、八日を費やしたことになる。彼らの報告によると、「祥瑞丸は焼尻島に避難、天候の回復を待って松前に出航。観勢丸は利尻島に漂着したが大破、利尻島警備の梶原隊に救出された。しかし大黒丸と幾吉丸については行方知らずである」という。これを聞いて、平蔵の気持ちは複雑であった。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.05.10
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甲板では船縁の手すりの一部を破壊し、船頭らの他に手伝える藩士全員が集まり、船の傾斜を睨んだ舟長の命令一下、一度に綱を切って大筒を海に落とした。大筒は一瞬にして大波の間に消えていった。しかし最後の一門のとき綱を切る時を計り違えたか、とまどったかのような動きを見せたが、幸い反対側の手すりを突き破って自ら海へ飛び込んでいった。平蔵にはその転がる鉄の塊が、大筒の最後のあがきにも思えた。 それでも船は、海にもてあそばれていた。突き上げられたように大波の上に乗ったと思うと、直ぐ海の底に引きずり込まれたように波の底になった。荒れ狂う海の底から、波の高みに乗った瞬間、その広がった視界に、仲間の船の一艘も見ることができなかった。 夕暮れになって、ようやく嵐が収まり、波も静まってきた。船頭が叫んだ。「陸が見えるぞ! 東に陸が見える」 皆が甲板に上り、それぞれに指をさして喜び合った。「これで助かった」「いやぁ、よかったよかった」 しかし船に海水が溜まり、うねりもある中での傾いたままの航行で、不安が消えることがなかった。これにちなんで平蔵が思い出したのは、唐の猛郊に峡を出るときの言葉、「この広い天の下、地から出て地に入るような深い峡谷」という詩のことである。また宋の徐競の高麗録には「その舟を天に昇らせ、その高い波の上で傾ける」とあった。そこでは、「空の太陽のみが見え、前後の水勢に追われて波の底になると空が見えなくなってしまう」と言っていた。実にこの時の景色と全く同じであった。古人の観察眼に驚くと同時に、誰もが自分の親には、このようなひどい目に会わせたくないと思うであろう、と思った。 波が静まってきたとき、われわれと一緒に出港した筈の船のすべてが、どこへ行ってしまったのか影も形もなかった。 七月十二日、船頭たちの努力でようやく海岸に近づいたが、舵が壊れていた舟は座礁して船底が破れてしまった。それでも、これで苦海の航行が終わると全員が欣喜雀躍した。上陸したとき放心状態にあった仲間を何人か見て、ほとほと海は恐ろしいと平蔵は思った。 這々の体(ほうほうのてい)で上陸して地名を聞くと、於爾志加(オニシカ・留萌郡小平町鬼鹿=森林の中を流れる川の意)であるという。鬼鹿は南の松前まで百五十余里、蝦夷地の西海岸であるという。さいわい一人も失わず、兵器などの荷物、歩行かなわぬ病人等を船を待つために残し、ここより隊を二つに分けて陸行することとなった。北蝦夷地には雀、蜻蛉、なめくじ、大根、茄子が絶えてなかったがここに来てこれらを見、目の前が明るくなったように感じた。ここのアイヌ人は、中国語も操っていた。 全てを失い、着の身着のままであった藩士たちは、六里ほど南にある留留毛都覇(ルルケツハ・留萌=潮汐の静かな水面の意)を目指すよう教えられた。 一夜あけた十三日、まだ風は強かったが全員徒歩で出発した。しかし途中には道がない、というくらい険しく、右に海、左は天にまで届くのではないかと思うような岸肌が続いていた。嵐は去ったがその余波で、波が盛り上がってきて岩に当たって立ち上がり、砕け落ちる音が雷のように響いていた。歩く足元には丸い大きな岩や石が重なり、それが海水の飛沫で濡れて滑るので筵が数枚あればよかったのに、と思った。それにもし大筒も運んでいたら、この道は通れず、山回りの道を迂回せねばならなかったであろうと考えていた。平蔵は思わず、チラリと陣将・北原采女の顔を窺った。大筒を海に落としたときのことを思い出したからである。 この日平蔵は陣将と臣教とで行軍の最後尾についた。時季外れで空き家となっていた刀伊良都計(トウェラツケ・不詳))の鰊番屋で休息をとり、午後になってから再び出発した。正午からは炎熱となった。北蝦夷地の気候とは、まるで違っていた。 途中で熊の檻を見た。十一月にアイヌの風習としてイオマンテを行う。イオマンテとは蝦夷の送り儀礼のことである。言葉としては「イ(ものを)」+「オマンテ(送る)」という意味であり、単にイオマンテという場合、 熊のイオマンテを指すことが多い。本来はカムイであればどんなカムイでも構わず、一部の地域では シマフクロウのイオマンテを重視する。イオマンテのときには檻を開いて熊を放し、輪になって七十本の矢で射る。そして泡を吹いて死んだ熊の肉を煮て客をもてなし、魂を祀って神とするという。アイヌ人の弓矢の腕はいいが、木弓、木矢のため皮膚の硬い動物を遠くから射倒すことが難しい。ただ、よく矢尻に毒を塗る。しかし北夷人は毒を使わない。シュシュヤでの動物の白骨を思い出した。北蝦夷地の人たちは橋を架けることを知らない。そのために濫觴(らんしょう)とは言え舟と櫂(かい)が必須である。ここへ来て、はじめて橋を渡った。 注・濫觴=盃があふれること。揚子江のような大河でも、その 水源は盃にあふれる程のささやかな水滴にはじまっている という意。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.05.05
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七月九日、宗谷に着いた。海中に蜂の形をした岩があるため、アイヌ人はこの岩を蜂岩と言う。この岩が湾の喉元を扼することで良港であるこの宗谷の名は、この理由によるものである。陣将は組頭・香坂宗光を上陸させて軍の様子を報告させた。「軍中には一人の病人も罪を犯すものもなく、精一杯力を合わせることが出来た。去年の冬、津軽藩の北蝦夷守備兵が冬季に死者七十余人を出したというが、いまわが藩士は冬夏の異常気象にもかかわらず誰一人損なわなかった」 また宗谷から片峰勝典を来させて、その様子の報告を受けた。「内藤軍将の若党・忠治という者が三両の公金を盗み、逃走して港の船に隠れたところを船頭に捕らえられて引き渡された。忠治は見せしめとして斬首された」 それを聞いた平蔵は、おそらく忠治はカネそのものが目的ではなく、家に帰り着きたい気持ちから盗んだのではないかと想像し、辛い気持ちになった。今回派遣された藩士には藩から特別の恩賞が与えられるはずであった。忠治とてこれを知らなかった訳ではあるまいが、何故こんなことをしたのであろうか。加賀山盛正・雲省またの名・渭陽という従軍している名医官も派遣されていた。藩士の健康を心配したからである。 例えばあるとき、第一隊長の山田直保配下の兵が瘴毒に当たり数十人が発病した。腿が青黒い色に腫れ、後に全身に浮腫が出て治らなかった。渭陽が次のように言った。「これは医宗金艦で見ると、いわゆる青腿牙疳之症(壊血病のこと。下肢の青色の腫塊を伴う)とは少し異なるが病根を抜き去るしかない。のぼせ病は黒いところを治療しなければならない。つまりそこが病根となるからである」そこで渭陽は病人の黒いところに針を刺し、悪血を出して薬を服用させたところ皆快癒した。渭陽は名医であった。利尻島、宗谷、松前で、平蔵らとは別の隊の合わせて五十人が病死しているが、これらは皆同じ病気であった。もし腕利きの渭陽がいなかったら、平蔵の隊からも死者が出たかも知れない。そんなにも藩は、藩兵たちを気遣っていたのである。 ──それにもかかわらず忠治は・・・。 北蝦夷地は酷寒の気候のため竹が生えない。しかしここ宗谷では山に竹藪が満ちあふれ、人家は皆竹の葉で屋根を葺いている。 ──景色が少し、会津に似てきた。 平蔵はそう思った。国元の景色の和やかさが思い出された。 この日藩兵たちはイルカを捕獲してきた。イルカは舟に引き上げられても目をむき、悶えて暴れ回っていた。 七月九日の申刻(午後四時)過ぎ、宗谷を出発した。薄暗かったが、遙か遠くに禮布牟志利島(レフンシリ・礼文島=沖の島の意)が見えた。中国語では洋島という。この島は利尻島の西北に隣り合った島である。 七月十日、空が陰って波が高くなってきた。未刻(午後二時)、麻志計(マシケ・増毛郡増毛町=カモメの多い処の意)の沖に入ったころから船頭も驚くほど東風が強く、大雨となった。兵庫の船頭たちの心配していたことが、現実となったのである。慌てた船頭は風力を避けるために帆を下ろそうとしたが、風が強くて収容できなかった。黒風濁波の中を一昼夜漂流した。 不安な一夜を過ごした七月十一日。朝になると雨は止んだが風の勢いは昨日の倍も激しく、危険に感じられた。甲板に積み込まれ、ゆわえつけられていた大筒が波の動きとともに軋み、綱からの解放を叫んで咆哮しているかのような音を立てていた。「波は大きいが松前までの半分まで来た。もう少しの辛抱だ」 船頭たちの励ましの声を聞いて、平蔵は弱気を隠すかのように周囲を眺め回した。皆目を大きく見開き、不安と戦っている様子が、ありありと見えた。 また大筒の綱が呻いた。 午後になると大雨とともに東から怒声を上げて風が吹き、船は倒れるかのように揺れてきた。大筒を押さえ込んでいる綱の音はギーギーと悲鳴に変わり、擦り切れるのではないかという心配も出てきた。船頭は帆を下ろそうとしたが風が強く、作業がなかなかはかどらなかった。それらを見て、誰かが息も絶え絶えになりながら船頭に嵐の状況を尋ねた。船頭が答えた。「大丈夫です皆さん。憂えることは百に一つもありません」 平蔵はそれを聞きながら、船頭は皆が意気消沈するのを恐れてそう言っているのだろうと思った。風波の音が激しく、足下の船が砕けるのではないかとの不安が一杯で神仏に祈り、故郷の妻子を思っていた。 ──俺は必ず帰ると約束した。大丈夫だ。 平蔵も必死に神に祈っていた。 遂に船頭たちは全員髷(まげ)を落とし、ざんばら髪となって物にすがりつき、ひれ伏すようにして神に祈っていた。その姿を見てさらに不安になる藩士に叫んだ。「人事は尽くしたが力は尽きた。あとは神に祈るのみ。皆で神助を祈ってくれ!」 その言葉も終わらないうち、一声、メリメリバリバリと帆柱が折れて波にさらわれた。ところが帆綱は切れなかったので帆柱に船が引っ張られ、幾度も横倒しになりそうになった。船頭が漕ぎ手に命じて、ようやく綱を切ることが出来た。帆柱が流れ去ってやや安定はしたが、怒濤は舟を揺さぶり高く吹き上げ、藩士の乗るところに安定はなかった。千六百石積みの正徳丸が、まるで一枚の葉のようであった。 嵐から逃れるためには、船の積荷を投げ捨てても船を軽くする必要があった。あらゆる積荷や個人の物まで、惜しげもなく投げ捨てられた。それでも舟長は、陣将で家老の北原采女に迫っていた。「全員の命を救うため、大筒と弾薬を捨ててくれ!」「駄目だ。これは殿からの預かり物。わしの一存で投棄などできぬ!」「見ての通り帆柱さえも折る嵐、大筒を押さえている綱が切れたら、怪我人どころか死人も出かねぬ。沈没でもしたら大筒どころではあるまい。それにもしこのままロシアにまで流されて捕らえられたら、大筒を見て攻めてきたと勘違いされ、難しい事態になることも考えられる!」 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.04.30
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海 の 嵐 八月(旧暦)になると、北蝦夷地では早くも雪が降るという。一度雪になれば視界も悪く、波も荒れて航海が出来ない。冬の日には海水が氷結して厚さが一丈余となり、アイヌ人であっても冬に海を渡れば凍死は免れないほどだという。そのような時期に入る前に、幕府から撤退せよとの命令が出された。この日陣将は軍を二分して丹羽能教織之丞隊を殿軍(しんがりぐん)とし、それ以外の全員に撤退を命じたのである。 迎えの船団六隻のうち五隻は兵庫から、一隻は仙台から徴発したものであった。この兵庫の五隻のうち一隻は常に一般の客を乗せ、官の御用はしていなかったという。また兵庫の船頭たちは常々仙台の者たちに協力していた。船団は宗谷から先で二手に分かれることになった。一手は酒田行きの正徳丸、祥端丸、観勢丸であり、もう一手は新潟行きの天社丸、幾吉丸、大黒丸とされた。平蔵は、正徳丸に乗船することになった。 この月の十二日は二百十日に当たった。台風期に際し、兵庫の五隻はいったんクシュンコタンに留まり、この危険な日が過ぎてからの出航を主張した。しかし仙台の舟師はこれに従わず、単船でも出航すると主張した。「帆待ちの間にもロシア船が攻めて来るかも知れない。海はわれらにとって慣れた所ではあるが、ここにいて戦いに巻き込まれるのは御免だ」 そう言われて仙台の船一隻のみを出航させるわけにもいかず、この主張に引きずられた格好で、結局全船が、近くの宗谷に向けて出航することになった。それを知って、アイヌの酋長が別れの挨拶にやってきた。通詞の甲崎富蔵に様子を聞いたところ、アイヌ人たちは会津隊の撤退を悲しみ、せめて交代の兵が来るまで駐留してくれるよう懇願したとのことであった。彼らが一番恐れていたのは、この空白の時期にロシア兵が攻めてくるのではないかということであった。もしロシア兵が来たら、「自分たちだけではどうしようもない」と言っていたという。しかし撤兵の命令が出たことを知った兵たちの故郷への想いは、募るばかりであった。心はすでに会津に飛んでいたのである。 七月七日、殿軍として残ることになった軍事奉行の指揮する丹羽織之丞隊一一八名の見送りを受けて、宗谷へ向かった。 天社丸 千二百石積 番頭・御目付有賀権左衛門 日向三郎右衛門 高木小十郎 以下一一四名 大黒丸 六百石積 日向隊組頭 田中鉄次郎 多賀谷左膳 以下 六一名 幾吉丸 九百八十石積 日向隊組頭 篠田七郎兵衛 以下 八六名 観勢丸 千七百石積 北原隊組頭 西川治左衛門 以下 九三名 正徳丸 千六百石積 陣将 家老 北原采女・大岩嘉蔵 以下 一四〇名 祥端丸 千六百五十石積 北原隊組頭 北原軍大夫 大岩鉄太郎 物頭白井織之進 以下 一三三名 七月八日の辰(午前八時)の刻、六船は一斉に海に出、経由地のシラヌシを目指した。 利尻島が南に見えた。 ──利尻島にもロシア船侵攻の報せはなかった。だったら、あいつも帰れる筈だ。今度会ったら、間宮林蔵の話でもしてやるか。いやしかし。あいつも新しい話を仕込んだかも知れないな。 平蔵は利尻島に派遣されていた友吉を思い出して、楽しくなった。 この日の朝は濃霧であったが、それが消えるとアニワ湾を取り囲む北知床岬と能登呂岬が、遥かな先端をはっきりと眺望できる程に大気が透明となり、空と海が青さを競い合うように感じるほどの晴天となった。船頭に聞くと、「このような好天は珍しい」と言う。随伴している画家の宗馮に頼んで、本物を写したような絵を描かせた。しかし船は急流する潮にあって進むことができなくなり、大洋中に停泊して碇を降ろした。夜には昼と打って変わって雷雨となった。普段、北の海の雷は少なく、雷鳴も低いという。水平線を厳しく見張った。この雷は陽気が寒冷になってきたことによるものと舟頭が言った。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.04.24
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このノテトという集落は、北蝦夷地の最南端のシラヌシからは、江戸と津軽以上も離れているという。聞きしにまさるその広大なこと、驚くばかりであった。ノテトの集落の首長の名はニブヒと言った。ニブヒによると、それから先へ行くには冬を待ち、凍結した海の上を歩いて行く他にはないという。その二日後、ノテトからさらに北のナニオー(いまのロシア名でルポロボ村)という地に着いた。ここは和人が今までに行った北蝦夷地での最北の地であって、現地人の家がわずかに二、三軒という所であったが、この陸地はまだまだ北に続いていた。 ナニオーは、ノテトよりここまでの間で北蝦夷地と東韃地(アジア大陸)とが相対する一番狭い所である。波は静かで、小さなサンタン舟でも十分に海を渡れそうに思えた。しかしここより北の地に行くとまた北海が開けて潮水が北に流れ、怒涛大に激起するので舟での航行は無理と判断、山を越えて東岸に出ようと計画した。しかし案内のアイヌ人が反対したため、やむを得ず船を返し、ノテトに帰り着いた。舟がだめなら陸路でとも考えたが、陸路も湿地が多く道らしき道もない地域であるというから、残念ながら進むことが出来なかった。その時期、ナニオーから北では、まだ流氷が残っている箇所があるとのことであった。 このナニオー一帯には蚊が非常に多く、内地の薮蚊より一回り大きな手強い蚊であった。実は小用をするために前をはだけると、この蚊がいっせいに男のナニをめがけて襲ってくる。聞くところによると、この蚊にさされた痕は、一~二日後から腫れてくるという。『此処蜉蝣、蚊の多き事、実に糖粃を散ずるが如し。人の面、目、手足に集附して厭べきに堪たり。然れども、昼の内のみにして夜陰其所在をしらず』(東韃地方紀行巻の上) 間宮林蔵らはナニオーで東楞哩(とうりょり)という清人に会った。北蝦夷地が大陸に連なる半島か、はたまた島かの視認はできなかったが、東楞哩は「島だ」と言っていたという。また土地の酋長が海峡を渡り、黒竜江の支流の デレンにまで足を伸ばしていることから、島であることが確認できたとしている。しかしこの先の北蝦夷地の東北の端は、山海の危険地帯が終わりなく続くところであって、僅かな人が住んでいるだけであり、実際のところはよく分からないという。 閏六月二十四日、二人はノテト湾を出発し、山々を目当てに方角を測り、略図ながら地図を作りながら南下、クシュンコタンに着いたという。 二人の見聞によると、北蝦夷地の北部にはギリヤーク、中部にオロッコ、南部にアイヌとされる人が住んでおり、ギリヤーク(自称はニブフ)の肌の色は和人並みであるが毛が濃く、主として漁労に従事しているという。アイヌ人は知っての通り多毛で顔の彫りが深い。そのほかにもサンタン人がいるが、彼らは、黒竜江下流に住むオルチャ(ウリチ)人で、比較的肌の色は浅黒く、のっぺりした一重のつり上がった目をしているという。サンタンというのは、ギリヤークの言う「ジャンタン」をアイヌ人が訛ったものであると言う。サンタン人は、アイヌ人に対しては横暴であるそうである。 北蝦夷地の冬は吹雪の日が多い。冬には海に厚い氷が張るので、徒歩で海を渡って韃靼国などと交易をしているという。しかも間宮林蔵らはアイヌ人らが氷から氷に飛び移ってアシカやアザラシなどを生け捕る様子を見、その敏捷な動作に感嘆したという。ここに夏はなく、六月だけはやや春のようで百花がことごとく開花する。晴天の日が最も多いのは秋であるが、この時期は台風の多い季節でもある。また年間を通じ最も寒い二月の平均気温はマイナス一五~マイナス一七度、最も暑い八月でも北部は一〇度、南部で一六度程度であるという。 この間宮林蔵と松田伝十郎がクシュンコタン滞在中に話す冒険談は、平蔵らの血を湧かせた。しかもこの旅の間、一人のロシア人とも会わなかったという。そのことから、もし唐太が島であれば、ロシアと境界で揉めることはあるまいと思った。 次いで会津藩士は間宮林蔵らの指導で台場の再構築を始めた。つまり大筒をもっと後方に下げ、防護の盛り土を高くしたのである。彼らは、よくロシア船の戦法を知っていたから、彼らの意見を採り入れた。そして閏六月二十日、二人はシラヌシを経て宗谷に旅立って行った。 会津藩士は、その後も厳しい戦闘訓練に明け暮れていた。この寒い任地にとどまること約三カ月、心配していたロシア船も現れなかった。間もなく海を氷らせる寒い冬がやってくるので、その前に本国への撤退命令がもたらされた。 七月二日、命令によりルオタカから撤収した原捷重が、部隊を率いてクシュンコタンに帰還した。残りの兵は、残務を整理した後、日向三郎右衛門が連れてくる予定であった。十五日、間宮林蔵がクシュンコタンに戻って来た。あの松田伝十郎は、江戸へ戻って行ったという。「松前を往復するには随分早いではないか」 驚いて聞く平蔵らに、間宮林蔵はたまたま宗谷を訪れていた松前奉行・河尻肥後守に再度の探検の許可を受け、松前まで行かずに十三日に宗谷を出発して来たと言う。これからトッショまで北進すると言う間宮林蔵の舟を、大歓声を上げて全員で見送った。「これから言語を絶するほどの寒さの中に、日本の領土確定のためにアイヌ人を供にしてはいるものの、たった一人で出発するとは」 間宮林蔵の乗った舟は、鼠色の空と海の間に小さくなって消えていった。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.04.20
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平蔵は許可を得てクシュンコタンを出発、左のシュシュヤ山と名も無き山の間を通ってさらに北上してみた。富蔵に、「クシュンコタン以上の良港になる浜がある」と聞いたからである。山中を通ったとき、多数の獣の白骨を見つけた。「これはアイヌ人が、大雪などで食物が不足したとき、飼育していた熊や犬などを殺して食い、祀った跡です。彼らはその動物たちが、神になると信じています」 富蔵がそう教えてくれた。 さらに行くと平野の中に小さな集落があった。様子を聞くと、「このまま北へ行くと右手に大きな湖があり間もなく海になる」という。その海辺には、トンナイチャ(富内)という集落があった。湖はひょうたんの口のように海に接し、波のない湾のようになっていた。内陸に引込まれたような湾であるので、波が穏やかである。「なるほど。ここに港を開けば、クシュンコタン以上の良港になるな」 平蔵がそう言うと、富蔵は「そうでしょう?」言って嬉しそうに笑った。 ──ロシアがここから上陸して、われらを背後から襲うことがあったら、これは問題だ。しかし奴らとて船の大筒を外してまで攻撃すまいから、白兵戦となればこっちのもんだ。 そうは思ったが、富蔵の前で平蔵は、その思いを胸に押さえ込んでいた。 閏六月の下旬、シラヌシより『船一艘』の狼煙が上がった。「敵襲か!」 クシュンコタンの本営内は色めき立った。アイヌ人たちを奥地に避難させ、今までの訓練に従って兵員の半数が配置についた。ロシア船がどの辺りにいるのを発見されたかまでは分からなかったが、早ければシラヌシから半日で現れると考えられた。砲口は予定通り海岸線をにらみ、それぞれに身を隠した。極度の緊張から武者震いをする者もいた。今まで見たことも会ったこともない赤蝦夷(ロシア人)という恐ろしげな者との戦いであるのであるから、それもむべなるかな、である。残りの半数は遊撃隊として兵営に残って英気を養いながら、ロシア船出現のとき配置につく準備を整え、全隊が臨戦態勢に入った。「敵さんお出であれ。今までの訓練の程を目にもの見せてくれるわ!」 夕方遅く小さな舟が一艘、クシュンコタンに近づいてきた。「えっ、なんだあれは! あれはロシア船ではあるまい?」「たしかに。ロシア船にしては小さすぎし一艘だ。サンタン舟ではないのか?」「ロシア船が来襲するというのに、のんびりした舟だ!」 しかしシラヌシから、その後の狼煙はなかったので、『船一艘』の情報はこの舟であることが分かり、緊張が一瞬にして解けた。 サンタン舟とは、北唐太から黒龍江一帯の少数民族サンタン族が使用していた川舟であり、帆は約三〇〇枚の鮭の川をなめして張り合わせ、後部には竹で編んだ篷(とま)が付けられていた。この舟は満州のコルデッケと言う者の造作であって、アイヌ人に造れる者はいないと言う。またこの舟は海上に浮かぶと大変安定しており、一間程度の波を受けても特に不安な状態ではなく、大変よく考えられた木造船であった。松田伝十郎と間宮林蔵らがこの舟にアイヌの案内人を従え、ここへ帰還してきたのである。復元されたサンタン船は稚内市間宮林蔵顕彰会会長田上俊三氏が私費を投じて復原を行ったもので、製作は稚内市の造船会社(株)一条造船鉄工社長一条木氏が担当した。 奥地から帰ってきた間宮林蔵らの話によると、彼らは会津隊の出発する七日ほど前に松前を出発し、会津隊が宗谷に到着する四日ほど前、北蝦夷地のシラヌシに着いた。そこには会所があって支配人や番人が詰め、アイヌ人の家も四~五軒あった。さっそく二人は、彼らに奥地の様子を聞いたがさっぱり埒があかなかった。そこで間宮は東海岸を、松田は西海岸を別れて北上することにした。もし松前藩が言うように、北蝦夷地が島であれば、北端で会う筈であるから、かえって万遍なく探査できると考えたのである。 四月十七日、間宮林蔵はアイヌ人の漕ぐ丸木舟(デジプ)でシラヌシを出発、クシュンコタンの沖を通った。それは会津隊到着の二日ほど前のことであった。間宮はそのままトンナイ湖を横断して北上タライカ湖を経、五月二十一日、シレトコ岬の付け根にあるシャッコタンに着いた。そこから山を越えて、オホーツク海岸に出たが潮流が激しく、その上風波が強く、丸木舟に食料その他を積んで舟行するのは不可能と判断された。そこで松田との約束に従って西海岸に出るため、三十日、マーヌイに戻った。ここから山道を抜けてクシュンナイに着いた。そこで松田の様子を尋ねると、彼は奥地に向かったと言う。直ちに後を追って北上、六月二十日、ノテト湾に入った。 一方、松田は間宮に遅れること半月の六月二日、シラヌシを舟で出発、途中仮小屋を作っては野宿し、二十五日ホロコタン(ピレオ。北緯五〇度線のやや北)に着いた。さらに北上して六月九日、ノテト湾に着いた。これまでに通ってきた集落はギリヤーク人の小屋三~四軒であったが、ここも山丹人の家三軒という寂しい入り江であった。住民に聞くとここから先は住む人もなく飲む水もないということなので、ここに仮小屋を作り、十日ほど滞在した。行ける所まで行ってみようと決心して入江を渡り、ナッコという岬へ行きさらに陸路でラッカに達した。しかしその奥は陸地が見分けられないほど海藻が繁茂していて歩行も困難であった。そこから見渡すと対岸の山丹地は極めて近く、四里ほどの距離でマッコ(黒龍江)の河口もはっきり見分けられた。そこで松田は北蝦夷地が島であると判断し、この海峡を日本の国境と見極めてノテト湾に戻った。 間宮は以上の話をノテト湾で聞いたが自分の目で確かめたいというので、六月二十二日、二人はアイヌ人の案内を得て再びラッカへ到達した。このとき松田は、「これより奥へ行き得たら、それは貴殿の手柄である。試みられたらよい」と言ってノテト湾に戻ってしまったという。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.04.15
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六月二十四日、北原陣将は富五郎と源七を呼び出し、一昨年のロシア船来襲の様子を訊いたが、そのとき平蔵が陪席した。「私らは文化三年九月にロシア船に捕らえられ、便刀呂婆宇留志古伊(ペトロパウロスコイ)に拉致されました。昨年の正月になって加牟左都加(カムチャツカ)半島のペドロパブロフスクに呼び出され。酒を出されて歓待されましたが、彼らは再び日本に行く積もりであることを、中国語の筆談で分かりました。それによると彼らの首領の名は弥加良伊左牟多良伊知(ヤカライサムタライッチ)で、われらを通訳として長崎へ行くということでした。」 それを聞きながら、平蔵は想像していた。 ──ヤカライサムタライッチとはカムチャツカの東海岸の便刀呂婆宇留須(ペトロパウルス)のことであり、首領の尓古良伊安礼伎左牟刀呂伊知(ニコライアレクサンドロイッチ)とは、別名保於志刀布(ホオシトフ)ではあるまいか。ただ前者は一般人としての名、後者は役職名と考えられる。「彼らはわが国の事情を訊いてきましたので、私たちも何故彼らが日本に行くのかを問いました。すると『以前にわが国王は日本の漂流民を哀れみ、わが高官が送還するため連れて行って通商を依願したが許可されなかった。どうにかならないかと頼んだところ、今後ロシア人は来てはならない。もし来ることがあれば撃ち果たす。そうすればどこかの国に漂流することになろう。まして通商などとんでもないと言って断られた。このようなことではわが国としても困る。そこでわが国王は自分を日本に派遣し、日本の言うところを確認されようとしている』と言いました」「うーん」「そこで私たちは、『公文書を以て理由を明らかにしないまま、このようにして彼らが辺疆を荒らせば、単なる盗賊と変わりがない』と強く抗議しました。するとその頭目はロシア語で書類を作って読み、源七に日本語に翻訳させて書類にしました」「うむ。しかしロシア人を相手によく頑張ったな」「はい。私たちもこれを言うと殺されるかと思い、必死でした。そしてその四月、私たちは知由歩加諸島(シユホカ・千島列島)を通ってカラフトに入りましたが、その途中で日本の商船を襲い、島々の集落を襲って財貨や食糧を略奪しました」「うムん。何故ロシア人はそのように手荒なことをするのか。その方らに、何か心当たりはないか」「はい。恐らく彼らは食糧などの積載量が少なく、現地調達の方法があのような略奪を生んでいるのかと思われます」「ロシアは五洲中の一大帝国である。それにも拘わらずこのようなことをするとは・・・まったく信用が出来ない国だ。それでどうした?」「はい。六月になって、利尻島に着きました。しかしここに来るまで略奪や調査をしながらですから、二ヶ月もかかりました。私たちは以前に源七の書いた書類を持たされて海岸に置き去りにされましたが、そのとき彼らはこう言いました。『来年再び来る。われらをカラフトかウルップ島、もしくは択捉島のどこかで待ち受けよ。もし返答がなければ、わが国の役所をカラフトに置く』と」「うむ。随分高飛車な言い分だな」 緒方外記の西域聞見録などを見るとロシアの軍事力は極めて強く、各国を呑み込むことを常としている。ロシアは中国・明の時代は東西一万余里に過ぎなかったが、清の乾隆に至るたかだか百余年の間に東西二万余里、南北三千余里を有するに至った。現時点においての様子はよく分からないが、東方は海に至っている。理由もないロシアの強欲に、呆れるほどである。わが国が拒絶してもこれを無視するロシアは悪い。これは討つべきである。そう平蔵は思った。 六月二十六日、平蔵は妙な鼠を捕った。普通の鼠より体が大きく、全身黄色に近く白い斑点があり、尾端にも毛があった。通常は樹上に生活し、性質は穏和で人を恐れることを知らないという。ある人が『まだらねずみ』であると言う。また利古牟加武伊(リコムカムイ)には犬に似て尾がない珍しい家畜がいる。狐の類かと思われた。海には昆布が産出し、女が水中で刺して採っていた。 閏六月四日、小雨、寒い。火を焚いてあたる。アイヌ人の持っていたロシアの銀貨とメダルを見た。銭には縁に山があって穴がなかった。縁は紅色の小環十三で囲まれ、目が深く縮れ毛で気高い顔立ちで生きているような人面が刻まれ、背面にも浮き彫りがある。外国文字も精巧でなんとも言い表せない美しい感じである。メダルは丁度わが六両銀のようで、王の顔を銀で鋳造してあった。その武功を讃えたものであろう。ロシアの虜囚がシレトコにいたとき、彼らが災禍にあってその事変を記したものと一緒にアイヌ人に与えられたものであるという。アイヌ人は気が弱くしかも武備がなく、ロシア兵が来ても抵抗することができないでいた。それをいいことにロシア兵はアイヌの子どもを利用して行動し、銭や絹織物を施して懐柔しようとする。この邪な謀略は憎らしいほどである。 閏六月九日、軍事訓練を兼ね、兎狩りをした。その際北原陣将が兵舎に来て、眼病の白井胤固に真珠を贈った。真珠は古くから高貴薬として、御典医などが眼病、熱病、不眠症、婦人病、赤痢、百日ぜき、はしか、遺尿症などの治療に用いてきたものである。また事故、傷病者には士卒、下級者にも必ず副官を遣わし、患者の家族に見舞として銭一千文を贈った。人々はその温かさに感激した。 閏六月十六、十九両日に閲兵され、二十日鎮台から労いの酒が振る舞われた。 閏六月二十八日、兵営のある南の山上に、以前にロシア船に放火された旧跡より二〇〇歩ばかり海岸から遠ざかった所に守り神としての弁財天廟が完成した。もともとそこにはロシアの銅板が掲げられていた場所であったが、どういう訳かその銅板には文字がなかったという。今回舟人たちが帰国の安穏を祈るために、その再建を請うていたものであった。北原陣将は松前からの雇い人の萩平近禮に木を削らせ、『妙音宮』と三文字で題を入れて扁額とした。社が引き締まって、強く見えた。この日、多賀谷高知、田中玄徳らが雅楽を奏して落成を祝い、荒井保恵はお祝いの酒肴を贈った。本場の中国で隋唐の古い音楽は亡びているのに、わが国でこのような形で存続しているのは面白い。いわんや今、これを北方の雑草が地を覆う荒野で演奏をすることになろうとは。 このとき、平蔵はアイヌ人が奏するトンコリという楽器を見た。これはアイヌ人に伝わる唯一の弦楽器で、胴が細長く平べったくできている。弦は五本であるが開放弦のため音を変えることができず、五つの音の打楽器のような音を出す。原材料はエゾマツやイチイを使い、弦は鹿の足の腱やイラクサを細かくよったもので作られている不思議な音の楽器である。この他にもムックリと言って、口で奏する小さな楽器もあった。これらの楽器のもの悲しい音が、故郷への思いを誘っていた。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.04.10
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五月十五日、寒気。薄氷が張って雪が降り、大風となった。 五月十六日、今日も雪が降っている。陣将はアイヌ救助のため、アイヌ人からの鰊一束(三五〇本)と会津藩の米二升、縫い針四本、煙草一玉、染切三尺とを交換した。 五月十七日、今日は雪が止んだが、汲みおいた飲料水に薄氷が張っていた。会津では考えられないことであった。 五月十八日、野火が発生、兵営に迫ったため全員が出てこれを防いだ。天候のせいもあるのか、アイヌ人が、「野火は時折発生している」と教えてくれた。兵営には倉庫がなかったため火薬を海岸に運び、災害を避けた。北蝦夷地は広大で人は少ない。そのため材木として用いることもないから山は樹木に覆われて薄暗く連なっていた。それであるからもし大火事ともなれば数十里にも広がり、消火する手立てもないため消すことができない。それに仮に消したとしても、火は地中を潜行し、とんでもない所でまた火勢は盛んになる。もっとも恐ろしいのは野火であるからと、隊内に火気厳禁が布告された。 この日、龍王丸(一二〇〇石積)千年丸(一四〇〇石積)幸福丸(一二五〇石積)の三艘が相次いで入港したが.火災のため荷揚を中止した。翌日、荷役をしたが、その内一艘は会津藩の雇い船であり、二艘は公儀から支給された生活物資を運んできた。 五月二十四日、ルオタカ本営の工事が開始されたことが知らされた。 五月三十日、クシュンコタンに於呂古(オロコ)人が来た。その様子を見ていると、オロコ人は祭祀用の鷹羽、蟒緞、青玉、獣皮などを、アイヌ人の斧、針、酒、煙草、その他と交易して帰って行った。いずれアイヌ人のそれは、和人からの交易で得たものであろう。オロコ人の国はクシュンコタンの東北にあると言い、和人の未踏の地であるという。彼らは海辺と山中の二ヶ所に集落があり、どちらも於利加多(オリカタ)と称するというのであるが、その距離の遠近、場所は不明である。 オロコ人たちはアイヌ人とは別種の言語で風俗も異なり、髭を剃り髪を整え、綿入れの服を着て革靴を履き、やや清潔である。また帽子はかぶらない。彼らは鹿を犬のように使うという。『東華録』に、「清国との境界の東では、鹿を使い、犬のように使う」とあるのは、このことかも知れない。そこでは酋長が死ぬと内臓を引き出し、これを乾燥して腹中に戻してから埋葬するという。また西北、須米禮牟久留(スメレムクル)人の風俗とオロコ人は、大同小異である。 ある年に、海を越えた所に住む左牟多无(サムタム)人がシラヌシに来て交易をしたという。漢国の物産を持ち込んだところを見ると、満州国の属国のためなのであろうか。ともかくこの三国には暦がなく、書籍を知らない。ただしサムタム人は、狡猾で商売が実に巧いと言われる。 北蝦夷地の三方は海に囲まれているが、その北がどうなっているかはまだ知られていない。この年、幕府は間宮林蔵に調査をさせたが、確認をすることが出来ないままに終わったという。 昔より北蝦夷地を調査したのは五度、六人である。天明六年、幕府ははじめてその地に大石逸平を差し向け、調査をさせた。寛政二年には、松前藩の使者・高橋某に命じ、シラヌシから左岸を北上、北の古多牟刀留(コタムトル)から戻り、東の知床に至らせた。同四年、幕府は最上徳内を左岸の久志由牟奈伊布都(クシュムナイフツ)に至らせ、横断して刀宇布都(トウフツ)を踏査させ、高橋一宅を志與宇夜(シヨウヤ)に向かわせた。 北蝦夷地の東北の端は、山が険しく海に張り出し、どのような所か調査に入った誰もが知ることができなかった。ただしロシアと満州の境のマムキ川は西北より流れて来て海に注いでいるため、地形が中州のようにも見えるという。このためアイヌ人は、黒竜江に合流するマムキ川を黒竜江と混同し、島と誤認しているのではあるまいかという。 ││ということは、清国の勢力がこの地にまで及んでいるということになる。いずれかの時期どこかで、清国と国境策定の交渉を持つことになるのであろう。 平蔵はそう考えていた。 六月十五日、最初の大規模な軍事訓練が山岡景風の監察、荒井保恵調役と最上徳内の下で行われた。鎧を着け鉾(ほこ)を水平にして陣を固め、鐘・太鼓に従って全員が兵法通りの行動をした。終わってから労りの酒が振る舞われた。さらに軍事訓練はこの月の二十一日、閏月の九日、同じ月の二十八日と四回にわたって行われた。「ロシア人も、甲冑を着けて攻撃してくるのだろうか」「いや。ロシア兵は甲冑なしで、軽装で攻めてくるそうだ」 訓練後の雑談で、それを聞いた平蔵が言った。「そう。私が江戸や神奈川で見聞したことからすると、甲冑なしが正しいだろう。鉄砲で戦うには、軽装の方が適っていると思われる」「しかし甲冑がないと、心許ないな」 六月十八日には、幕府からの薬品を、各人の体調に合わせて賜った。 六月十九日、前日までの兵舎建築や陣地造営に協力したアイヌ人八〇人の労に報いるため、招待して贈り物を贈った。彼らは酒を酌み交わし、大きな声で歌い、踊って喜んだ。今までは労働に対して食事を与えたのみであったが、この日は特例としたのである、このような宴会を、アイヌ語では武志耶(ムシヤ)と言った。 六月二十日、高熱を発する病人が出てきた。アイヌ人に対応を訊くと、「酒を呑み、大根を食えばなおる」というので、特別な日を除いて禁止されていた酒が解禁となり、今日より一人、一合当て配られることになった。しかし大根は採れないので、たまたま到着した商船に頼んで譲って貰い、丁度中国の朝鮮人参のように大事にして食べた。 六月二十一日、平蔵は北原陣将に従って外出した折、アイヌ人が舟を犬に曳かせるのを見た。ひとりが舟に立ち、口笛で犬を呼び集めた一人が五~七匹を舟につなぎ、別に三匹ほどの雌犬を放して先導とした。その先導犬を導くアイヌ人の指示に従い、犬は海岸の曲折にあわせ、時に全身海水に濡れながらも岩石に接触しないようにして曳いた。実に上手いものである。終わってから魚肉を与えられたが、尾を振り声を上げて食する様は、その作業を喜んでいるかのように思えた。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.04.05
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五月十一日、平蔵たちはクシュンコタンの本営に戻った。早速、本営で通路、山川の険易、陸路の不通の状態などを報告し、図面を提出した。それを見ながら最上徳内が言った。「国土をしっかり守るのには、常駐するに越したことはない。ここに来ていて、つくづくそれを感じる」 こうして各地を巡ってみると、アイヌ人はロシア人を恐れているようであった。たしかに略奪暴行が重ねられていたのであるから、会津藩士たちに期待するものが大きいと感じられた。最上徳内の言は当然と思って聞いていた。 作られた事務室には、自分を教えた大河原臣教がいたので、平蔵はしばしば行き来をした。臣教は「軍隊が出発する日、友人の下平次致に菜種一袋を贈られた。植えてみたが駄目であった。下平が『育てやすいものに蕪(かぶら)がありますが、これを植えて生育すれば大いに役立ちます』と言っていたので。ここへ来てそうしてみたがどうにもならなかった」と言っていた。 平蔵も土地の様子を観察してみたら、人が掘る土の下の数寸は未だ凍結して盛り上がっていた。これでは駄目だと思った。北蝦夷地の五、六月は故郷の九、十月に当たるようで、正午頃でもまだ融けない。水も長く立っていられないほど冷たい。夜は夜衣を重ねないと寝られないが、アイヌ人は暑さに耐えず、外で砂上に寝るという。ときには足を水に浸し、石を枕にして寝る。夜出掛けてはじめて見たとき、平蔵は死人と思って大いに驚いた。いずれ、和人がここへ移住するのであろうが、そうすれば漁労を中心とせざるを得なく、米が採れないという致命的欠陥をどう克服すべきか、ともかく大変なところだとの想像ができた。 五月十二日、ロシア兵に破壊された集会所と同じ規模の建物が、クシュンコタン近くの山上に建てられた。これをわれわれの兵舎とした。はじめてトドマツの皮で葺いた屋根の下に入った。しかし兵舎は出来たもののその不自由なこと、言葉を失うようであった。風の入るのを防ぐため荷物を寄せて四方を囲み下には油単を敷き、服は綿入れを二つまたは三つも着た上、背には布団を掛けて狭い小屋にて押し合いへし合い、難儀を窮めた。 やがて海崖を扼(やく)するこの要地に大筒を並べたが、これを据え付けるのに、結局、三十日もかかってしまった。その砲口は遠い海にではなく、ロシア船の大筒の飛距離と破壊力から考慮して対等に撃ち合いが不能と考えて、海岸近くに向けられた。彼らは和人がいないと思って上陸してくるはずであるから、ロシア兵を水際での防衛戦に持ち込む。そうすればロシア船がこちらの大筒の発射を知ったとき、ロシア兵は水際か上陸間もない地点にあることになる。そこで彼らが大筒を発射すれば、味方(ロシア)の同士打ちになる。そうすればわが方に大筒を撃てなくなる。そのような作戦であった。「さあ来い。来るなら来てみろ」 台場の完成で意気は上がったが、五月に入ってからも寒い日々に、故郷を懐かしく思う気持ちが高まっていた。会津は雪国である。しかしこれほどまでは寒くない。このような所でロシアと戦いながら何年もいるようになるのではないかという恐れが、皆の不安をかき立てていた。 五月十三日、後隊が組頭の北原光豊、物頭の白井胤固軍団長の引率で、松前から到着した。応援隊の到着に、基地は大いに沸いた。船の数が少ないため、まだ三分の一が松前に残っているという。彼らの船が宗谷に寄港した際、利尻島の友吉からの長い手紙も運んできてくれた。 利尻島古地図。北海道利尻町立博物館蔵。 『利尻島のアイヌ人戸口は九軒、三十七人で、酋長の名はテシウ ンクル、小使はヒエタンケという者である。集落は、トノトマリ (鴛泊)だけである利尻での本陣は鴛泊近くの本泊に、また沖合 にあるポンモシリ(小さな島の意)に遠見番所を置いた。もしロ シア船が来ても早く見つけることが出来、本陣にも近く舟での連 絡がよいことによる。なお、ここの運上屋(場所請負人)の支配 人は島の漁場経営のために『介抱』と称してアイヌ人と交易を行 うと共に彼を使役し、その労働に対して一定の給料そして手当と して介抱米を支給している。 また年中行事の際にも酒、諸味、煙草、衣類などを支給し、そ れによって、アイヌ人の生活が成り立っている。ところが昨・文 化四年夏にロシア人が利尻島を侵攻すると支配人や番人達が早々 に島から逃げ出し、その結果島のアイヌ人への介抱手当が行き届 かなくなって彼らの生活が困窮した。そのため、宗谷詰の箱舘奉 行配下の役人深山宇平太が利尻島・礼文島のアイヌ人を宗谷と天 塩に呼び寄せて介抱を行ない、漁業をさせ、食糧を与えて救済す るということがあった。 蝦夷地におけるアイヌ人口減少の主要原因は疱瘡(天然痘)や 麻疹(はしか)など疫病の流行があげられる。アイヌの古老シユ ラニの話によると、文化二年に長崎から帰航中の赤人(ロシア人) の船内に疱瘡にかかった船員が居て、野寒布岬沖に碇泊した際そ の船を訪れたアイヌ人に伝染し、さらに、宗谷地方及び利尻島に まで広がり、多くの死者を出したという。 利尻島は、利尻山を中心とした火山島である。利尻山の山容は とても美しく高い。これに登れば唐狄山丹(とうてきさんたん)み な目前に見えるという。よし、それならば登ってみようと準備を していると、「この山に登る者はみな、往々にして山霊の怒りに 触れ災難に会う。必ず往くな」と現地のアイヌ人に止められた。 「なに大丈夫、畏れるような山霊などいるか」そう思って出発し たが、山麓に着いたところで陰霧が発生し、前方が見えなくなっ てしまったので遂に登らずに帰った。明くる日、天色清明、昨日 の所まで行ったがまた霧が発生、やむを得ず引き返した。 またその翌日、朝から明日天色ますます清朗なので、今日こそ 必ずわが志酬(むく)わるべしとまた登山したが、ようやく中腹 に至ったところでまたも大霧。ままよ、とそのまま歩を進めたが 今度は驟雨(しゅうう)と飆風(ひょうふう)とに会い、ついに 引き返した。現地のアイヌ人の言は、信ずべきであると思った』 ──ははぁ、あ奴め。勉強をはじめたな。 平蔵は手紙を読みながら、真面目そうな友吉の顔を思い出しニヤッとした。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。
2009.03.31
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漆黒の夜が来ると、何とも言えない寂しさに襲われた。空を探すと、会津では山の端に見える四三の星(北斗七星)が頭の真上に見えた。それを見て涙こそ出なかったが、朝が来るのが待ち遠しかった。その朝を待って、再びルオタカに向けて出発した。この海辺を行くと、海と空がつながったような感じがする大きな湾に出た。この湾口は東に向いていた。広さは一里に過ぎないがアイヌ人は舟で湾口を往来していて、未だ陸を究めた者はいないという。 陣将の指示に従い、陸路で通れるかどうかを明らかにするため、徒歩で海岸を行動した。茶や栗色の小卷貝がどの石にもびっしりとついていて、踏まれる度に潰れる音がした。ひどく歩きにくかったが、そのうち巨石の乱立する広い磯に出た。閉塞的な洞穴の感じがある湾内と打って変わって、広々としていた。浅い水たまりや岩陰に、何かヒゲみたいなもので下の岩にくっついているものがいた。湾を巡り林草地に入ったがその先は皆、湿地帯であった。湿地帯に入ったところで急に霧が深くなり、大風が吹いて帰る道を見失うところであった。心細く思っていたとき、突然、葦の間に獣の足跡を発見した。大きさは盆のようであった。熊の足跡と思い、互いに顔を見合わせて色を失った。富蔵が、前方に赤色の大熊がいるのを見つけた。「あれはヒグマです。大きさは一丈余りでしょう。ヒグマはよく馬をも襲います」 富蔵の説明によると危険なので、ここから引き返すことにした。 五月九日、再び出直した。徒歩で一里ほど行った所に、海に流れ入る大きな川があった。道案内のアイヌ人が近くの丘に上がり様子を見ていたが、右手を高く上げて三本の指を曲げて見せた。これは信号語で、川が深くて歩いては渡れないという意味である。それでも平蔵と俊文は歩いて渡ってみようと考え、防水服を着けて川に入ってみた。川は泥で足がとられたが、そう深くはなかった。しかし中程まで行ったとき急に底が深くなって渡れないため引き返した。やむを得ず皆で舟に乗り、湾口にある布良於牟奈伊(フラオンナイ)の集落に着いた。そこに家はあったが空き家であった。 案内のアイヌ人が言った。「私たちは、斧や鑿(のみ)を知りませんでした。ですから家屋を作るのに蔦や蔓草を束にして周囲を囲います、部屋は一つしかありません。屋根は木の皮か茅で覆っています。広さは方丈に過ぎず菅で編んだものを地に敷き、冬は穴居となります。地面に穴を掘り梁木が少ないため天井を土で覆って作るので、外から見ると丘か塚のように見えます。父子兄弟が雑居して寝食を共にしています」 富蔵が後を続けた。「ここにはこのような穴居が二つありました。穴居には二つの穴があり、一つは必ず南向きにして陽光を家の中に通し、もう一つには木をえぐ抉って階段として人の出入りに使います。アイヌ人の生活は昔より全く変わっていません」「そうか。いずれ生活の程度が向上すればいいが」 また海を左に見ながら前進した。平地が続いた。途中、沼地があり、見ると小魚がいたので獲って炙(あぶ)って食うと、はなはだ旨かった。ルオタカの手前の海に注ぐ大きな川の対岸に到着した。以前にロシアがここも掠奪したとみえ、アイヌ人の集会所が破壊されたままになっていた。しかも、まだ周囲の草の間や砂上のあちこちに、破れ釜や飯の干からびたものが見られた。「六,七月になると、この川では、鱒が海から入り江まで一杯になるほど集まります。そのため網を使わずに素手で獲ることができ、遠くからも多くの人が集まって来て大釜で油炒めにして皆で食べます」。 平蔵たちは川を渡った。先に派遣され作業をしていた基地設営隊が、われわれを歓迎してくれた。松林の中に作られた駐屯部隊の兵営に行き、ルオタカの守将・日向三郎右衛門に陸路の状況を報告した。ただしフラオンナイとシュシュヤの間の湾は沼地で小さな川が多く、陸路のみでの通行が不能のため必ず小舟を準備するよう連絡をした。 五月十日、クシュンコタンに引き返すことになった。話し合いの結果、俊文は舟で、平蔵は徒歩で進み、フラオンナイの湾のところで出会うことにした。富蔵はルオタカより船出の用意をし、平蔵は道案内のアイヌ人と陸路、出発した。 ところが俊文は、ルオタカを出発して保都布古志(ホツフコシ=場所不詳)を経て半道を過ぎたところで舟が泥に擦り、引き潮であったため動けなくなってしまった。まだ平蔵との出会いの予定日にはならなかったが、日は既に暮れ泊まろうとしても人家がなかった。そこで海に入って舟を前進後進させ、どうにか海に戻してようやくフラオンナイに到着した。 そこで合流したが、それから先の陸路の安全性は確認していたので、全員が舟で帰ることにした。ところが人数が多いために安全を考え、海岸近くを航行したため、また泥に乗り上げてしまった。その深さを測ったところ膝を没しない程度の深さであったので、シュシュヤまで舟に乗らずに押して行った。男たちは不在であったが、女たちが子どもと一緒に共同生活をしながら家を守っていた人家があり、そこに泊めて貰うことにした。 彼らの生活を観察してみると、あまり男女の別が無く、上下の差もないようである。しかし酋長と思える者に対しては、地にひざまづいて拝む態度を示した。アイヌの風俗では男女を見分けるのは難しい。婦人の性質は穏和で、一人で数婦を抱える男もいるが嫉妬したり争ったりすることはない。女郎はいない。その日常生活では風呂などは知らず、ましてや白粉、黛などをして身を飾ることもしない。そのため塵と垢とで臭く、そして汚い。まるで馬と一緒にいるようなもので嫌だと平蔵は感じていた。 アイヌ人は見るところ、きわめて酒好きである。そして彼らの雇い主たちは、酒の代金が賃金を上回らないかぎり、ためらうことなく提供する。しかし、彼らが特別な場合を除き、生活の中では酔っぱらっている姿を一度も見かけなかった。彼らは、酒が強いのであろうか。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。
2009.03.25
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五月八日辛卯、平蔵らは迎えに来たアイヌの七人のうち一人を道案内とし、出発した。食糧、重い鎧などはアイヌ人に運ばせた。甲崎富蔵を通訳とした一行十三人は、渚の砂地を回って行った。それは砥石のように平らな海岸であった。小河川が海に入る所ごとに、遡上した鰊が死んで水底に隙間無く沈んでいるのを踏みしめながら行った。風波が激しいからか腹が破れ、また卵が出て堆積したところを歩いて行くため、踵や、ときには膝までがその中に没した。「魚がこんなになって腐っているということは考えられなかった。それにこの腐った嫌な匂いでは、頭が痛くなる」 富蔵が苦笑しながら言った。「旦那様、この時期ここでは、何処へ行ってもこうです」。 途中の集落で架台に鰊が干してあるのが見え、その架台が林立しているのを見た。そばに寄って見るとその魚体は細長く、体長は七、八寸から一尺程度で背側は青黒色で腹側は銀白色であった。「春になると、産卵のために北蝦夷地の各地の沿岸に現れます」 腹を割いていっぱいの卵を取り出し、薄く切り細長く伸ばして干してあった。「嫁取りなどのお祝いの席には必ず出して多産を願うのです」 通常アイヌ人は鰊の干肉を食べているが食事の時間は一定せず、腹が減れば食うという生活である。しかしそれも干肉を三、四本食べるのみであるという。 アイヌの男たちは山では熊を、海ではアザラシを、また川ではサケなどを獲っている。「サケを獲るのは九月から十一月にかけてで、この時期、サケは産卵のために川をのぼって来ますが野放図に獲る訳ではありません。九月と十月はその日に食べる分だけで、保存用に多くを獲るのは十一月になってからです。この頃になると産卵も終わって、脂っ気がなくなり、保存しやすいということもありますが、なによりも産卵した後ですから、いくら獲ってもサケの減る心配がない。アイヌ人は、サケの数が減らないように、考えて獲っているのです」 肉類は生で食べる場合もあるが、多くは焼いて食べているという。「それに女たちも山で山菜やキノコを採ったりしますが、全部採ってしまうことはしません。根こそぎ採ってしまえば、次の年はそこで採ることができなくなってしまうからです」「なるほど、よく考えているな」「アイヌ人たちは穀物なども畑で作ってはいますが、自然の幸を求めて移動もします。しかし大雪その他の自然的災害で、餓死する者も少なくありません」 そして熊送りなどの行事は、男も女も、子どもたちも総出で行うという。「鰊は呆れるほど採れます」「うーん。呆れるほどか」 辞書に鰊は『鯉に似る』とある。しかし平蔵は似ているとは思えなかった。鰊の字を考えてみた。たとえば赤鯛は周防に産するので魚に周と書くという。それと同じく、俗に東海に生まれるというので魚に東に似た柬と書くのであろうか? 多分、そうなのかも知れない。ただし『東医宝鑑』には青魚とある。会津にも、鰊鉢(酢と山椒で鰊を漬け込んだもの)や鰊蕎麦がある。このようにして獲られた鰊が会津まで行くのであろうか。平蔵は故郷に思いを馳せ、懐かしんだ。 この海辺を行くと、山が開け川の流れる海浜ごとにアイヌ人の集落があった。アイヌ人は五穀の生産ができず魚猟で生計を立てるため、落ちぶれた生活をしている。 富蔵が言った。「しかしここには租税もなく、賦役もありません。また戸長がいてもアイヌ人全体を統率する者もいません」「ほお、それでこの社会が成り立つのか?」「そこで幕府は松前藩統治外の地、つまりこの辺りに来る和人の商人を役人とし、アイヌ人を監督させています」 野村が訊いた。「監督? それでなにを監督しているのか? この北蝦夷地全部をか?」「いいえ、全部ではありません。商人たちは十里から二十里をその範囲として商売をしていますから、彼らの監督の範囲もそれに限られます。監督には支配人という正と番人と言われる副の二人が当たり、彼らの居所が役所となっています。しかし役人であると言いましても、姓もなく、刀も持っていません」「ふーむ。それで役人の仕事ができるのか?」「はい高津様。それが問題なのでございます。アイヌ人は漁は上手いのですが漁網を作ることが出来ません。そのため番人は漁具を貸し、獲物の多くを貰います。また、米、塩、酒、煙草、また鍋、釜、針、糸など一切の日用生活品を売り、その代価として彼らの財産を騙し取っています。例えば針一本に対して鮭七十匹を交換しているのですから。あとは推して知るべしでございます。このため無税とは言ってもその収入の実質は少なく、結局彼らは子どものころから貧しさに据え置かれることになっています」 野村が呻いた。「しかし高津様、酷いもんですね」「うーん。このような役人では旧来の悪習がなくなることはないようだな。わが国元にも、これほどの貧乏人はおるまい」 この日の藩士たちの行動をアイヌ人たちが見ていたが、男子が犬の皮を着、女、子どもはアザラシの皮で服を作っていた。鮭の皮を綴り連ねたものを服としている者までいた。「彼らは着る物のため毛の長い犬を飼い、冬になればそれを殺して肉を食べ、皮を剥いで着物とします」 殺して食糧とした熊や犬の頭は、山へ埋葬するという。 昼、志由志由耶(シュシュヤ・戦前の日本名、新場か。いまのロシア名、オビルトスカヤか)の集落に着いたが飲用水がないため、アイヌ人に山に入らせて水を汲ませ、飯を炊いた。 富蔵は全員が出発した後この場に留まった。北蝦夷地には鳥類が多く、ここに来るのは鷺やミサゴが多い。富蔵は銃で鷺を獲ってきた。樹木に巣を作り群がっていて、人を見ても恐れない。「鉄砲という物を知らないためでしょう」富蔵がそう説明をした。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.03.20
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臨 戦 態 勢 基地設営のためアイヌ人を雇おうとしたが、夏の三ヶ月の間は鮭の大群が押し寄せ、産卵に遡上してくるのを獲るため思うように人が集まらず、最上徳内の「ロシア船からアイヌ人を守る」という説得でようやくその協力を得ることができた。彼らに煙草を与えると大いに喜び木で拵(こしら)えた煙管で吸い回した。また握り飯を与えれば家に持ち帰って子どもに与えているようであった。 われわれはそれらアイヌ人ともに木を伐採し、山を切り開いて兵舎を造ろうとしたのであるが、土地の草刈りをしてみると、予想外に凹凸で平坦にするには手間が掛かったりした。兵舎の建設と平行して、砲台を作りはじめた。その間に陣将は軍監とともに自ら山野に分け入り、泥水をすすって土地の状況を視察した。第二砲台の適地を探していたのである。この辺りの森は海岸にまで迫り、小さな沼が点在していた。五〇間も滑空するエゾモモンガに驚かされたり、湿原の神などと呼ばれる美しい丹頂鶴を見たりした。「彼の国とて山はあるであろうから、きっと藤つるもあるべし。その藤つるを編んで海に敷き詰めれば、ロシアの船とて通ることは出来ますまい」 これは会津を出発する前に考えられていた対応策ではあったが、来てみると北蝦夷地の山には藤つるなどどこにも見当たらないという事実と、もしあったにしても猪苗代湖などはるかに及ばない広い海と高い波に敷きつめるなどということは、とてもできない相談だということに愕然としていた。とにかく今、自分たちの持つ武器のみが唯一わが身を守るものとなったということを悟らざるを得なかったのである。 この近辺には平地が少なく、あっても湿地である。その上一面に棘が繁茂して土地が凹凸しており、仮小屋を建てるにも苦労をした。波打ち際からは十間程で山に続く。しかも波打ち際はロシア船から見える場所なので、やむを得ず先年ロシア船に焼き払われた場所の灰燼を取り除き仮営地とした。各隊毎に縄を張り山から伐採した材木や持ってきた油単を使ってようやく雨露を凌ぐことができるようになった。丸木小屋に荷物を置き琉球筵を敷いて武具を置きそれぞれ手配をしてロシア船が渡来しても備えに差し支えないようにしていた。 海岸近くの木立はアイヌ人が伐採しているのでロシア船からの見通しがよいと思われ、このようなところは不安である。いろいろ考えてみたが岩の露出した波打ち際では接近戦に向かない。ロシア船が容易に近づけない所を選び、海岸より引っ込んだ後は山に続き左右は谷に臨み、両方に水の手があり海岸の方に木立があり海からの見通しが悪い所を選んだ。戦いのとき人数の繰り出しに都合が良いと思われたが土地に凹凸があり、平らにするのが大変であった。 四月二十日、ようやく小屋がけが出来た。中央に北原陣将の本営、その西に丹羽軍監の陣営、東には日向隊長の陣営で構成することにした。 雨露を凌げるようになったので、炊事のための時間が割り振られた。朝は六ッ時(六時)過ぎ、午後は八ッ時(二時)頃より混雑したり互いの不作法のないよう足軽二人ずつ出て拍子木を打ち、差配をすることになった。薪については三日ごとに各隊別に山へ伐採、収集に行くことになったが、不足の場合は許可を得れば拾いに行けるとされた。ただしアイヌ人が伐採したり積んで置くものは、持ってきてはならぬ、とされた。「当所の固めは会津家がはじめである。これ以前にお固めはなかった。心してアイヌ人と接するように」 陣将は、このように訓示した。 四月二十八日、アイヌ人が萱を刈って持参、屋根を葺いてくれた。陣将が礼を兼ねて米を振る舞った。アイヌ人たちは大喜びし、アイヌの女が踊りを踊った。「なにやら面白くおかしい踊りだな」そう言いながらも、見よう見まねで手拍子をとった。「それにしても、あの女たちの唇の入れ墨には、どうも馴染めないな」誰かがそういうと笑い声が起こった。 四月二十九日、寒く雪が降った。「国元の十月の末のようだな」 身震いしながら普請場に行ったところ多数のアイヌ人が集まり、大釜で鯨を煮ていた。昨晩小舟で海岸から五~六丁の所で弓で射たという。言葉は分からぬが身振り手振りで理解した。「それにしてもあのデカいのを、よく獲ったもんだ」 藩士たちは皆感心した。 この工事中にもノトロ岬(干潮の時現れる磯の意)のシラヌシと北蝦夷地の東南端、シレトコ岬の先端、アニュアに見張所を置くことにした。位置はクシュンコタンを中心として、その両翼とも言える場所で、この湾に侵入する以前に敵の動きを看視できる場所であった。また別にもう一つの守備隊を第二砲台とした留於多加(ルオタカ・道が浜辺に続く所の意。戦前の日本名、ルタカ。いまのロシア名、アンパ)に駐屯させるため、大物組頭の原捷重、物頭の伊東祐備、龍造寺隆虎らを中心にして基地の設営隊を派遣した。このように基地や見張りの部署を決め、狼煙を巡らし、昼夜を分かたず監視して予期せぬロシア船の攻撃に備えることにした。 ルオタカはクシュンコタンの本営より五里ほどの距離であったが、ここには、大組物頭の原平太夫を隊長として九八名が警備することになった。ただ一旦ロシア船が攻めて来れば舟での急行が不可能となる。応援を差し向ける際の陸路がどうであるか、平蔵は野村俊文と様子を見に行くよう命じられた。 五月五日、大雪が降った。端午の節句の祝いにアイヌ人たちに酒を振る舞った。酔った彼らは踊りを踊り、相撲を取るなど寒さをものともしなかった。それを見ながら、それぞれが故郷の子どものことを思っていた。「爺様や婆様、それに女房たちがうまくやってくれているさ」 そんな話に目を潤ませている者もいた。日が暮れて迎えに来た女や子どもに手を引かれて帰って行く姿は、もう、ふらふらであった。「酔っぱらうとは、あんなものなんだな」 自戒を込めたかのように、しんみりと言う者もいた。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.03.15
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翌日の朝早く、われわれはアイヌ人との打ち合わせの通り船の上に多くの旗を立てて飾り、敵意のないことと接岸の意志を表した。幕府の命を受けて会津藩雇いの最上徳内常矩が先に着いており、打ち合わせに加わっていた。これから船が入ろうとしている久志由牟古多牟(クシュンコタン)は、北蝦夷地の南の玄関口に当たる天然の湊であった。 翌四月十九日辰刻(午前八時)、最上徳内の指図を受けたアイヌ人が数百人、荷上げその他御用向きを務めた。去年五月十六日、ロシア兵が来襲してここを焼き払っていたため、彼らは会津藩の船を見て山へ逃げ出したそうである。「徳内殿がなだめておいてくれたそうだ」そう聞かされて、皆が感謝していた。 陣将は軍師とともに自ら山谷を監察した。森が海岸にまで迫り小さな沼が点在する。『湿原の神』と称される丹頂鶴がよく見られた。そして藩士と全ての武具や食料を降ろすと、乗せてきた八船全部が引き上げていった。それを見た平蔵には、この辺地に取り残されたような寂寞感が急に身に迫ってきた。遠方から見て、農家と良く耕された土地のある農場だと思っていたものが、実際には雑草とシダの繁った不毛の荒れ地であることに気がついた。家は平屋建てで、しかも小屋がけのように簡単なものであった。 軍の上陸を聞きつけたアイヌ人が、女までが黒い蟻のように浜辺へ群がってきた。平蔵らを珍しがったこれらの穏和な人たちをロシア船が襲い、脅し、火をかけて焼き払い、集会所や倉庫をすっかりなくなってしまった。それでもアイヌの民家の十数戸が被害から逃れたという。その異様な光景は、まるで羅刹鬼国(らせつきこく)観音経に出てくる喰人鬼の住む国)に来たようであった。やむを得ずわれわれは風雨を避けるために油単を間に合わせの屋根にして、海岸で露営をした。曇った日が続いた上、砂を巻き上げるほど風が強く、この砂が弱々しい間に合わせの家に入り込んで、終日苦しめた。それに常に濃い霧が一面に広がっていて油単(ゆたん・家具を屋外移動する時に覆った防雨用のシート)の屋根からは水分が滴り落ち、また地面からは湿気が這い上がって艱難を極めた。 夜になると気温が一気に下がった。「舟に乗って楽をして来たからではあるが、四月も末なのにこの有様では、真冬の寒さは尋常なものではないな」「そうですね。若松も冬は寒いですが、ここの寒さから比べれば、暮らしやすいです」「うん。箱館にいたときに土地の者に聞いたが、寒中には『寒い』とは言わずに『縛れる』と言うそうだ。寒すぎて身体が縮こまり、縛られたように動きが鈍くなるからだそうだ}「しかしこのような所でロシアと戦いながら、何年もいるようになるのでしょうか?」「何だ! もう弱音か?」 陣将は訓示した。「幕府はいまから二十二年前の天明六(一七八六)年、この地に青島俊造や最上徳内常矩の幕府調査隊を派遣して調査を行い、十八年前の寛政二(一七九〇)年には、松前に役人を置いて管理している。これらのことを考えれば、この地はもともとわが国の領土である。今更ロシアに引き渡す理由は何もない」 この地がアイヌ語交じりのカラフトから北蝦夷國と正式に改められたのは、今年に入ってからである。この地を高麗地であると言う者がいるが、それは間違いである。この地に来襲するであろうロシア船に備え、クシュンコタンに本営を造ることとなった。 この北蝦夷地には、おおよそ二十一の集落があるという。産物としては青玉、羽、蟒緞、雑絵、綏帛などがあるとされるが、これらは漢の物であって、韃靼地方から来るものである。幸いにも和人の役人もここまでは手が伸びぬと見えて、現地のアイヌ人は藩士に対しても友好的な態度である。聞けば北蝦夷地の人口は増えているとのことなので、ホッとするものがあった、 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.03.12
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しかし、それに水をさすような出来事が起こった。水腫病(壊血病)の発生である。生鮮野菜の欠乏は、蝦夷地の風土病といわれる水腫病を誘発していった。 頑健な体の持ち主で、よく食べ、よく働いていた一藩士が、発病以後にわかに食欲がなくなり、胸部、腹部、背、手足がことごとく腫れあがって苦痛は日増しに激しくなり、「苦しい、苦しい」とうめきつづけていた。ミカンやりんご、梨など夢にまで見るようになったという。それから何日も経たぬうちにさらに二名の患者が発生、身体が水ぶくれになり、顔がむくみ、腹が太鼓のようになって苦しんで死んでいった。 ──この水腫病という奇病は、寒気よりくるとか、野菜の欠乏からくるとかいわれるから、対策は重要である。 三人もの病死に、平蔵は衝撃を受けていた。 ──戦いによる死ではなく、残念に思ったであろう。 内藤源助信周以下三七〇名が宗谷詰として残り、全軍を統治することになった。また一朝事有る場合は、利尻島と北蝦夷地双方への応援可能な遊撃隊と位置づけられた。そして利尻島へは梶原平馬以下二五二名が、北蝦夷地へは北原光裕采女以下三二二名が向かい、ここで分かれることになった。平蔵は北蝦夷地、友吉は利尻島派遣となったのである。この利尻島派遣隊が、先発することになった。 一夕、友吉が平蔵に別れを告げに来た。「高津先輩、いろいろありがとうございました。いよいよ利尻島に行きますが途中で勉強をさせて頂いたことに感謝しています。道中お伺いした田村麻呂公、藤原三代、そして柱状摂理の話など面白うございました」「とんでもない。こちらこそ勉強させて貰った」「いやいや先輩、先輩の博学ぶりには感心させられました。またいずれお会いするわけですから、それまで私も勉強を怠らないようにします」「こら、友吉。勉強もいいが本来の任務は警備だぞ。忘れるな!」「分かってますよ先輩」「それにしても元気でな。また会おう」「高津先輩も」 友吉の出発に際して万感の思いはあったが、二人にこれ以上の言葉は出なかった。そしてこれが友吉との永遠の別れになるとは、平蔵には思いもよらぬことであった。 平蔵は友吉を乗せた利尻島への船が、野寒布岬を回り込んで見えなくなるまで見送っていた。 翌四月十八日、北蝦夷詰の陣将・北原光裕采女以下三二二名の一人として、平蔵も北蝦夷への船に乗った。右側に志連刀古(シレトコ=宗谷岬)、左に野寒布岬が見えた。シレトコはアイヌ語で地の果てを意味する。間もなく加良布刀海(カラフト海=宗谷海峡)に出た。ここの海水は東に流れ、船は潮勢にしたが随ってどうしても右へと逸れる。北海には鯨が多く、この辺りでもよく見ることができるという。 そばにいた野村俊文が心配そうに言った。「雨のように潮を吹くという鯨に誤って触れると船が沈没するかも知れぬ。そうなったら大変だから、思い切って船頭たちに言わなければ・・・」「いや、そんなことは言わずとも船頭たちはよく知っている。心配するな」 平蔵が笑いながら言った。しかしそれでも、野村は不安げな顔をして海面を見ていた。鴎も群を成して飛び交っていた。 この宗谷の北に相対する北蝦夷地の西南に位置する志良奴志(シラヌシ・白主=平磯のある処の意)の半島までは、わずか十八里の距離にしか過ぎない。北蝦夷地の旧名は、加良布刀(カラフト)である。和人はカラを唐つまり外国とし、フトはアイヌ語で河口を言う。つまりカラフトとは、日本語とアイヌ語を組み合わせたものである。フトとは、ここへ流れ出ている麻牟期川(マムキ川)の河口を意味したものと思われる。 夕暮れ、雲のように見え隠れする一山を見た。船頭はそれを指し示して、「シレトコ」と言った。知床は北蝦夷地の東南の隅である。 ──シレトコとは『地の果て』という意味か。なるほど、それでそちこちにシレトコという同じ地名があるのか。この荒涼とした景色から見ていると、蝦夷地とはすべてが地の果てなのかも知れぬな。 平蔵はそう思った。 深い霧の中を、船はシレトコとシラヌシに挟まれた大きな湾に入り、さらにその中の小さな湾に入った。波は静かであった。夜に入るとすべての船は灯を灯し、小さな燈火で互いに合図をし合った。使者にあたる者が、小舟を下ろしてアイヌ人三、四戸の集落に出掛けていった。その先の集落には、数軒のみすぼらしい小屋に囲まれた一軒の大きな木造の家(番屋)が見えた。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.03.04
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四月十六日、伊志加利別(イシカリベツ・蛇行を繰り返す河川の意=石狩)の沖、すなわち石狩川が海に入るところを右に見、やがて最後の難所、雄冬岬を過ぎた。ここからようやく波が静かになった。この日は順風に恵まれて疾い船足であった。波の静かな船の上では、海に向かって鉄砲隊の射撃練習がはじめられた。舷側に出てはじめてアザラシを見た。日暮れになって二つの島が並んでいるのを望見したが、このまま過ぎれば平和なものだと思った。そのとき舟頭が大きな声で怒鳴った。「南、弖於利島(テオリ=天売島)北、耶牟計志利島(ヤムケシリ=焼尻島)」 船から見る分には、まるで粟粒のように小さな島であった。 四月十七日の夜明け、この二島を過ぎるときに望遠鏡で観察した。古びた人家とアイヌ六人が数えられた。船を見て喜んだらしく、一人が木舟で漕いで来て両手を額まで上げ、われわれに挨拶して戻って行った。 天売島はアイヌ語のテウレシリ(右足の島)に由来するという。島ではアワビを多く産出する。アイヌ人たちがテオリと称したのは島が富み人口が多かったからであったが、以前に多く往来した商船が痘瘡をもたらした。しかし人々は医薬を知らず、手を拱(こまね)いて斃(たお)れるにまかせたため死に絶えて、一時は僅かに十三人になったという。最近はアワビや鰊(にしん)などの豊富な資源に目をつけて、和人も住みはじめた。焼尻島は天売島より小さく、アイヌ語のヤンゲシリから出たもので、蝦夷地から近い島の意である。草木の鬱蒼とした島である。少々のアイヌ人が住んでいるという。 午後には濃霧が四回も発生し、航行が大いに鈍った。しかしその後には霧が散失して青空となり、風が出てきたので船は飛ぶようにして利伊志利島(リイシリ・高山を意味する。利尻島)を過ぎ、能都志耶牟(ノトシヤム=稚内市納寒布)に至った。夕暮れにまた霧が起こったので、海中に碇を下ろして岸に近づかず停船した。なお利尻はアイヌの言葉で、高山を意味するようである。その島は宗谷の西南十八里にあるが、大洋中に聳え立ち、まるで富士山のようである。険しいが秀麗である。 ヤムワッカナイ(冷たい水の川の意=稚内)に上陸したが風が強く、海岸の乾いた砂が飛んできてわれわれの頬を打った。時期としては春なのに、かえって寒くなってきていた。しかも着いてみると、和人は荒くれた男ばかりで、女はほとんどいなかった。もちろん遠い地であり、生活が不便なこともあろうが、すくなくとも家族を連れてくるような所ではないようである。この宗谷におけるアイヌ人に対しての和人の虐使には、目を覆うものがあった。夫婦も別にされて奴隷のように使役され、その惨状を見るに、和人であることが恥ずかしいほどである。そのためもあって子どもも生まれず、人口は激減しているという。「松前とは大分様子が違う。実に聞くも忍びがたく、憤慨に耐えぬものがある」 そう言う平蔵の話を、友吉も痛恨の面持ちで聞いていた。「それについて、こんな唄があるのを聞いてきた。 『私の大事な恋人が どこか遠いところにやられた あなたは今どこにいるのか 鳥になりたい 風になりたい 風よ 憎い風よ お前は自由な風だから お前だけは私の恋人の まわりをまわり さわっても歩けるだ ろうが 私は人間だから 行くことができないのだ ヤイサマネナ 仕方ない風にでも鳥にでもなって 飛んで行ったら 恋人にさわれるだろうか ちょっとでも姿を見れないだろうか ヤイサマネナ』」 注*「アイヌと日本人」より。 アイヌの家族 二人は神妙な顔をしていた。「すると先輩。われらはそんな奴らのために命を的にするのですか?」「うむ。しかしそのアイヌ人もいる」 平蔵が話題を変えた。「友吉。どうも聞いてみたら、松前からここまでの距離は、会津から三厩までの距離に匹敵するそうだ。蝦夷地には松前藩一藩しかないのに、この他に北蝦夷地も松前藩だと言うんだから、この広大さには恐れ入ったな」 平蔵の気持ちを知ってか、友吉も明るく応じた。「そうですね。それなのに松前藩は三万石。寒いから仕方がないと言われればそれまでですが、やりようによっては、それ以上の石数になるでしょうね」「うむ。しかしここでの稲作は不可能。それ故、三万石とは言っても海産物のみ。それなりに大変なことであろう。それにしてもこの遠距離、ほぼ五日でここに着いた。会津から三厩までほぼ三ヶ月もかかったことを考えれば、船とは早いものだな」「それにですよ、大筒などの大荷物を、一押しもしないで運んでくれたのですから、お船様々です」「あれっ、友吉。船酔いのときお前、二度と船には乗りたくない、と言っていたではないか?」「いや、こう楽が出来るのであれば、何のこれしきです」「何だ。喉元過ぎれば熱さ忘るるか? ところでわれらが松前を出航した四月十三日に、間宮林蔵が松田伝十郎と共にこの地を立って北蝦夷地に向かったそうだ」「そのようですね。間宮林蔵はすでに何度も蝦夷地や国後島、それにウルップ島などを調査した方、お会いしてみたかったですね」「ただわれわれも、松前でも宗谷でも出発準備で忙しかった。残念だがやむを得ないな」「しかし。その間宮林蔵も北蝦夷地は今回がはじめてだそうです」「うむ、当然地理も分からず、粗暴なサンタン人が大陸側から交易のために往来しているという土地だそうだ。それにしてもあの小人数で、北蝦夷地が大陸からの半島なのか島なのかを調査するというのだから、凄い意欲だな。だが、もし大陸の一部だとしたら、その国境はどう決める積もりなのかな?」「北蝦夷地はわれらが警備に行く土地。もしそこがロシアの一部だったら、彼らも捕らえられる恐れがありますね」「そうだ、われらは彼らを守る意味においても、しっかりと警備をしないとな」 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.02.25
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四月十四日の早朝、江差沖を航行していたが北東からの風に変わったため、熊石で帆待ちをした。熊石には元禄四(一六九一)年に番所が設置され、和人にとっての最北端とされていた。そこからは乙部岳が見えた。別称は九郎岳で、九郎義経公の名にちなんでいる高峰である。気のせいか、その景色はうら寂しく見えた。昼からは東南の風になったので再び出帆、於古志利島(オコシリ・向こうの島の意=奥尻島)を過ぎた。奥尻島には住民はなく、その山はそれほど高くない。しかしその周辺では、アワビが多く捕れるという。 断崖絶壁にそびえる太田山(山岳霊場・太田神社のある太田崎)を過ぎ、世多奈伊(セタナイ・犬の泳ぎ渡る川の意=久遠郡せたな町)の沖を通った。船から見る海水は青黒く、急に強まった風で波が高くなり、船に乗った多くの人は立っていられなかった。ここは蝦夷三険岬(神威岬、雄冬岬)の一つとして恐れられた所である。 船頭が言うには、「せたなの川の水が海に入る所のため波が湧き上がり、これまでの南の海のような訳にはいかない」とのことであった。 それから北、船から見る茂津多岬(モツタ=せたな町)は、狩場山の稜線が西に延びて海に急に落ち込んだ急峻な断崖で、それがしばらく続いていた。いわゆる中茂津多岬で、水の冷たい所である。このモツタはアイヌ語で、大崖続きの間に小さな浜があってモ・オタ(小・砂浜)と呼ばれていたからというものと、小さな斧をモッタと言うことからそれに因んだ名であるというのがあって、定かではない。 シュプキベツ(芽の多い川の意=寿都郡寿都町)という所に弁慶岬があり、その先イワオ・ナイ(硫黄の流れる沢の意=岩内郡岩内町)には弁慶が刀を掛けたという刀掛岬がある。この辺り、かなり船が揺れた。船頭にも「これより先は波濤が荒れ、しばらくは静かな航海はできない」と言われ、『火の用心』を言い渡された。そのため夜になれば喫煙が許されず、藩士からも火の監視人を決めるなど厳重な警戒が要請された。 四月十五日、見渡す限りの山の残雪は未だ消えていなかった。東の方を見ると、雲が後方羊蹄山(しべりしようていざん)一面にその麓まで覆い、僅かにその頂上が見えた。富士山に似たその姿から、蝦夷富士とも称される。アイヌ語名のシリベツ(山に沿って下る川)に由来するという。 平蔵が言った。「史書によると斉明天皇の五年、阿部比羅夫は秋田・能代のアイヌ二四一人とその虜三一人、津軽のアイヌ一一二人とその虜四人に加えて、膽振(いぶり)のアイヌ二〇人をも一ヶ所に集め、大いに饗して禄を与え、さらに船一隻と五色の綏帛(すいはく・絹で作られたロープ)でその地の神を祭った。そして肉入籠(ししりこ・秋田県北秋田郡鷹巣町綴子・ししりこ)というところまで行った時に、アイヌ二人が後方羊諦を政所にすべきだというので、郡領をおいて帰ったとされる」「斉明天皇ですか?」「うん。斉明天皇は第九十七代、今上天皇(光格天皇)は第一一九代であらせられる。ということは大分、昔のことだな」 友吉は驚きの声を発した。「いやあ、そんな昔から蝦夷地に目を向けていたのですか」「それにな、おもしろい話がある。文禄朝鮮之役で加藤清正が兀良哈(おらんかい朝鮮東北部、中国東部との説も。豆満江の北岸)に攻め入り、その帰途、山東省青州で逢った松前の人が言ったと言うのだ。『天気晴朗の日は、松前から富士を見ることができる』 その話を聞いて、林子平が言った。『もともと蝦夷は遠いところである。どうして蝦夷で本当の富士山を見ることができるであろうか。つまりこの利尻島の山を富士とするのは、大変な間違いである』とな」 この晩、積丹半島(シャクは夏、コタンは村を表す)の加毛伊崎(カモイ=神威岬)を過ぎる。神威岩、メノコ岩などの岩礁が海面にごそごそと突き出していて海岸に近づけず、その中で一つ、高さ十四、五丈も立ち上がった岩の形態は、まるで衣冠を付けた人が手を合わせて立っているように見えた。アイヌ人たちは、これをカモイと呼ぶ。カモイはアイヌ語で神の意味である。古くはオカムイ岬とも呼ばれた。この付近は古くから海上交通の難所として知られており、神罰を恐れて女人禁制とされていた地である。そこで船毎に各々まじないの小舟を造り、干し草を結んでこれを海に投げ入れて祈った。この風の祭りのためか急に船足が早くなり、逆に船酔いに苦しむ者が急増した。 平蔵が友吉に話しかけた。「義経公の蝦夷地での最後の足跡はここ神威岬だ。伝説とは言え、随分遠くまで来たものだな」「あれっ、先輩。そのようなことを、どこで調べられたのですか?」「いやいや、それは『蛇の道は蛇』でな。松前にいたときにそれらを聞いた。ただのう、伝説と知った上で追いかけるのも面白いのではないか? それに江差追分の話もある」「江差追分?」「うむ。この江差追分に『蝦夷地海路の お神威様はネ~ なぜに女の 足とめる』とあるのだが、この女人禁制の目的は、松前藩がアイヌの人に重労働を課したり厳しい収奪を繰り返していたことを、人の目から隠すためであったとも言われている。つまりは和人の往来が、それだけ激しくなっていたということであろうし、また義経公の伝説を利用することで秘境とし、関所の役割を与えたのかも知れぬ」「それも松前で聞かれたのですか?」「む。いろいろと教えてくれる人がいてな。ともかく地元のことは地元に聞くのが一番。まあ、節は定かではないが、文句はこのようなものであった」 (前 唄)松前江差の 津花の浜で ヤンサノェー すいた同志の なき別れ ついていく気は やまやまなれどネ~ 女通さぬ 場所がある (本 唄)忍路高島(小樽市高島岬) およびもないが せめて歌棄(寿都郡寿都町) 磯谷(寿都町)まで (後 唄)蝦夷地海路の お神威様(積丹半島・神威岬)はネ~ なぜに女の 足とめる ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.02.20
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「ところでこの蝦夷地には、三種類のアイヌ人が住んでいるそうだ」 平蔵が言った。「と言うことは、アイヌ人とは一種類の民族ではなかったのですか?」「それにその他の島々が碁石を並べたように散らばって数え切れないほどで、その島々にもまた別のアイヌ人がいるそうだ」「そうですか。しかし私には、誰もが同じに見えますが」「うむ。それにそれらの島々は数が多いので千島と総称するのだそうだ。さらにその千島の奥には、加牟左都加(カムチャツカ)、旧名では久留志伊恵伊(クルシイエイ)、またロシア名では左牟多牟(サンタン)などというところもあるそうだ」「いやー、それにしても、蝦夷地とはとんでもなく広く、寒いところですね。しかもこういうところに人が住んでいるというのが不思議なようです」「それにしても友吉。『蝦夷地とはとんでもなく広い』と言うが、どうも北蝦夷地は半島か島かさえ定かではないそうだ」「そうですか。しかしもし北蝦夷地がロシアからの半島だとすると、どこまでがわが領土になるのでしょうか? これは難しい問題になりそうですね」「それもあって今年の二月、間宮林蔵と松田伝十郎と申す者が、北蝦夷地探検を命じられたそうだ」「二月と言えば、われらより一ケ月遅れの江戸出発ですね」「うむ、それが今、ここ松前におるそうだ」「えーっ、それはずいぶん到着が早い!」「うむ、江戸での準備もあり、出立はわれらよりもっと遅かったらしいが、何せ幕府のご用船。われらより若干早く着いたらしい」「で、北蝦夷地へは、われらと同じ船になるのでしょうか?」「いや、明日にでも曾宇耶(ソウヤ・峰の巣の意=宗谷)に向けて出航するらしい」「そうですか。そのお話ですと間宮様は大分、奥地に入られるようですね」 四月八日、法憧寺の僧は龍華会を設けた。藩士たちも武運の長久を祈って、それに参加した。龍華会とは、毎年四月八日に釈迦の誕生を祝う灌仏会の別称であって、釈迦が四月八日に生まれたという伝承に基づくものである。降誕会、仏生会、花会式のことであって、花祭の別名もある。 一般的な言い伝えによると、立春後八十八日には必ず暴風があると言う。そのためこの日、舟人は皆、陸地にあがって厄を避けていた。ところが今日は天気がよく青空で、海にも風や波浪もなかった。宗谷への航海が、いよいよ実行されることになった。 四月十日、平蔵の叔父の佐藤信友が来て陣将に会見した。これからの防御陣地の場所設定と、人員配置についての話し合いがあり、猪苗代城代を務めたことのある三宅忠良孫兵衛以下二六六名が最初の予定通り松前詰として残ることとなった。宗谷や北蝦夷を良く知り、地理やアイヌ語に通じている松前人の甲崎富蔵に数度交渉をし、一行の案内人として雇った。 松前から北蝦夷地へは、さらに大きな船が配されていた。自在丸(千三百石積)、日吉丸(千三百石積)、正徳丸(千六百石積)、天社丸(千四百石積)、永宝丸(千四百石積)である。 四月十三日、全員に乗船命令が下された。「達者でな」「や。いずれわれらも後を追いますので」「そのときを楽しみにしているぞ」 行く者と松前に残る者とが、互いに別れの挨拶を交わした。 ようやく気温が上がって海の氷は解けていたが、海賊船が出没するという。乗船して間もなく命令が下された。「海の氷が解けたため、海賊船がいつ出没するか予測が不明である。各自に弓、鉄砲、鎗を準備せよ!」 各自に注意が促され、弓箭、鉄砲、矛鎗など海賊に襲われた場合の戦闘準備の命が下った。五艘の千石積の船に分乗した際、敵襲には太鼓を打ち鳴らし、法螺貝を吹いて合図とすることになった。「いやーこんなに大船が集まると、流石に壮観ですね。この船構えを見たら、海賊の方が逃げ出すでしょう」 ここに残った者や見送りに集まった人びとの歓声を聞きながら、友吉が言った。「この様子を、故郷の皆に見せてやりたいようです」 二人は会津を出立したときとは、また違った高揚感に包まれていた。 ほどよく東南の風が到来し、海洋に乗り出すと間もなく左側に渡島小島(松前町)が見え、二つの瘤のような山が連なっていた。この辺りでは、ラッコのような海獣が密漁されているという。ラッコの毛は黒く常に横になって眠る習性があり、岩礁の上で遊んでいるのが見えた。人の声を聞けば警戒してただちに水に潜るため、これを捕獲するためには熟睡しているところに息を潜めて静かに歩いてきて、急に襲う以外に方法がないが、その肉は甚だ美味しいという。平蔵は食べてみたいものだと思った。 日暮れになって渡島大島(松前町)辺りや江差山が北に見えた。渡島大島は小島より大きく、寛保元(一七四一)年には大噴火を起こした。その際引き起こされた津波はこれから行く渡島半島の熊石から松前までの沿岸を襲い、一四六七人の犠牲者を出した。また松前藩の記録によると江差地方には火山灰が降り注ぎ、昼間でも灯りが必要なほどであった。今から十七年前の寛政三(一七九一)年まで噴火を繰り返していたが、その後は静かになった。この島の海岸にはほとんど平地がなく、山頂の江良岳から、斜面が一気に海中に滑り込むように断崖が続いている。エサシは昆布の意である。そのたワカメ採取の海女漁で季節的な居住者があるが、常には無人の島だという。 夜になると月の光で波が金色に輝き、見飽きぬようであった。平蔵は船縁でこの波を見ていて、松前で聞いた哀愁あふれる江差追分を思い出した。これより先は、昼夜を分かたず航行した。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.02.15
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北 の 大 地弁才船:千石船と呼べば米千石を積載できる菱垣廻船や北前船などの「弁才船」を指したと考えて差支えありません。(HP「海事博物館ボランティアあれこれ」より) 三月二十九日、この日たまたま風は穏やかで波は静かになり、今までの荒れた海のようではなかった。卯刻(朝五時半)、三厩の港に集合した平蔵らが船を見ていると、傍らに来た船長が言った。「こんな穏やかな日は珍しい。この天気は北蝦夷地に着くまでもちましょう」 われわれは伝馬船に分乗して沖の元船へ向かった。 通達丸 八百石積 船頭 箱館 次左衛門 太平丸 三百五十石積 船頭 酒田 権次郎 大神丸 三百石積 船頭 多吉 渡海丸 三百石積 船頭 箱館 徳蔵 さすがに海の船は大きいと驚いたが、船に乗ってみると、そうはいかなかった。船内は一坪三~四人の振り合いで野宿同然、しかも波の動きは山国育ちの彼らには険難なことは思った以上で、ただ船に振り動き揺すられているだけで、吐き、目眩(めまい)を起こして転倒したりした。物に掴まらないで身体を保持できた者は、十八、九名しかいなかった。友吉も唸りながら言った。「船長の嘘つきめ! これで帰りもこんなに揺られるかと思うと気が重い。二度と船には乗りたくない」 平蔵も青い顔をして言った。「船乗りにとっては、これでも静かな方なのかも知れぬ」 夕方になって、ようやく松前に到着した。船から伝馬船に乗り移り、松前に上陸はしたものの、下りてもまだ身体が揺られ、身体がふらつくような感覚であった。 堀を巡らせてはいたが、天守閣のない松前城は、鶴ヶ城を見慣れた身にとっては、いささか侘びしいものがあった。一行は、城の北にある松前侯の菩提寺・香火院法憧寺に泊まった。この他にも龍雲院、法源寺などの寺があった。松前は渡島(おしま)の地にあり、平安京からは四百十六里、江戸からは二百九十里、東の山越(二海郡八雲町)から西の熊石(同町)の間である。この間の七十里に和人が住み、それ以外は蝦夷となる。日本最北の町である。 注*松前城の三重櫓の天守閣は、安政元(一八五四)年に落成 したもので、本邦旧式築城の最後のものである。 早速、船より荷揚げが開始されたが、松前では光善寺、法道寺、寿養寺、専念寺、龍雲寺、それに松前左膳明の屋敷に分宿した。滞在中の食事は自炊とされた。 松前は家中屋敷や町屋敷、約三千軒の町である。大松前、小松前、馬門、袋町、池妻、転知名、湯殿沢、西舘町、寺町、上泊り町、大町、駒形町、倉川、川東町、中河原町、横町、とゞめき町、神明町、荒町、小舘町、足軽町、唐津町、所泊り町、中町、枝力崎町など多くの町で賑わい、女の風俗は江戸と変わらなかった。港には江戸、大坂をはじめ、筑前、筑後、越後の大船が集まり繁忙の港である。ただし品物は高値である。 この蝦夷地では、本土とは違った緊張感があった。特に松前大館、箱館を中心に蝦夷地十二館というものがあり、古くはアイヌ人の襲撃に備えたものであったが、むしろ現在は和人の前進基地としての意味合いの方が強いという。そしてそれらは、ロシアからの防御施設として増強されていた。 四月一日、松前にもようやく春が来たのであろう、はじめて梅が咲いているのを見た。多くの通行人の中で、はじめてアイヌ人の男女を見た。アイヌ人は顔を髪で覆い髭を長くし、厚地で単衣、筒袖に奇妙な柄の着物を左前に着てこの寒いのに裸足、奇妙な感じもしたが、耳に穴を開けて銀環を通した姿は、なかなか堂々としたものであった。彼らが貴人に謁見するときには必ず数人が手をつなぎ、身を屈める。その姿は海老のようでもある。アイヌ人の目は鋭く、全身毛深く、そのため毛人とも言われる。記録に描かれている絵では両眉が続いているが、それは伝聞の誤りであろう。蝦夷地に於ける和人とアイヌ人の境界は山越内(ヤムクシュナイ-=栗の採れる沢の意=二海郡八雲町山越)と熊石(魚を干す竿のある所の意=八雲町熊石)を結ぶ線である。松前から山を越して熊石に至るが、その間七十里(約二八〇キロメートル)、この間に和人も住むがアイヌ人が多いという。 近年、このアイヌ人の上流階級の者は、交易によって得た蟒緞 (もうだん・爬虫類の皮で作られた厚手の織物)綾緞(りょうだん・厚手のあやぎぬ)厚子(あつし)など他人種の衣服を着用し、頸に大刀を懸け、金塗銀鏤(ぎんる)をもって飾り、帯には紅緑の組紐を用いている。その中でも山旦(山丹=サンタン)交易によってもたらされた蝦夷錦は、すでに江戸でも有名であった。蝦夷錦とは紺や黄の地布に金糸銀糸を用いて竜青海波それに七宝などが刺繍され、アイヌ人は重要な宗教儀礼の際、これを着た。 一般の者は獣皮を主としているが、その他にもラブリ(鳥毛衣)、アクミまたはカブリ(魚皮衣)、ケラ(草衣)を多く用いている。婦人は髪を結んで髻とし、耳に銀連鐶を下げ、唇には口草という青草汁を用いているが、それが何であるかは不明である。なんとも奇妙な風習である。 この風俗は蝦夷地ばかりでなく、国後島、ウルップ島、そしてこれから行く北蝦夷地なども同様であると言われるから、アイヌ人全般に相通ずるものなのかも知れない。これはわれわれとどちらが優れているかということではなく、寒さに対応するための服装である。平蔵はつくづく文化の違いを感じさせられた。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.02.10
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「御家老様、田中様の言われる地位の向上とは、どのようなことでございますか?」 平蔵は采女の目を凝視した。「うむ。実はこの派兵を受けたについては裏があってな。幕府内で、蝦夷地に派兵した南部藩に十万石の加増があるという噂があるそうなのだ。もしかするとこのことも、田中様の脳裏にはあられたのかも知れぬ」「十万石の加増でございますか?」「それに此度の派兵は、単なる物見遊山ではない。ロシア兵と戦いとなるかも知れぬことも考慮された上で田中様は陣立てを考えられておられる。総大将で宗谷詰めに家老の内藤源助信周殿、利尻島詰めに藩相の梶原平馬殿、松前詰めに番頭の三宅孫兵衛、それに北蝦夷詰めの陣将としてわしが行く。人数は、およそ一六〇〇名ほどになるかも知れぬ。「一六〇〇名でございますか? これは大層なご人数」 平蔵の声は、思わず上ずった。「これ、大きな声を出すな。それにこの蝦夷地はな。その方も知っての通り寒冷の地ながら広大な面積がある。それに今の太平の世の中、領地の拡大は蝦夷地に求めるしかない。いま無主の地であるここに広い開拓地を持つということは、将来の藩の発展、ひいては領民のためにもなること、派兵はそのための布石ともなろう。わが藩百年の大計を考え、目の前の損得に心を奪われてはならぬ。そこでお主の出番となった」「は?」「もし加増があるとすれば、わが藩の南の『お蔵入り(幕領南会津)』が最も望ましい。しかし蝦夷地が分領として与えられる可能性も十分にある。くどいようだがその折に備えて、蝦夷地の現況を知っておく必要がある。それに蝦夷地までの道中にある各藩の状況も知っておきたい』「それで御家老様、私に何をせよと?」「うむ。第一にロシア船の兵備と戦法をよく調査して貰いたい。それから、ここからは大きな声では言えぬが、もしわが藩が蝦夷地拝領となった場合に備え、入植可能地の検討とその方法を調べてもらいたい。わしはその役割にお主が最適任と睨(にら)んだ」「・・・」「このこと、承知して貰いたい。いずれ出発の際はわしの部隊、つまり最北の地に駐留する北蝦夷地派遣軍に受け入れることにする」 そう言って采女は、出軍名簿を開いた。 『文化五戊辰年 松前蝦夷地御固御人数』 正月十一日出記 上下弐拾弐人 陣将 北原采女 三人介添 倅 岩太郎 佐藤学 上遠野弥生 壱人 騎士 六人 馬廻 乗馬壱疋 九人 小もの 上下弐人 与力 原半平 注 佐藤学は、平蔵が高津家へ養子になる前の名である。「これは、ご命令でございますか?」「左様、今更の変更はならぬ。それと今の話、家族といえども他言は無用。加増の話でも漏れれば、とんでもないことになる」 平蔵が采女の屋敷を辞して門の外へ出たとき、思い出したように汗が吹き出てきた。その汗を拭きながら、平蔵は采女が今言った言葉を考えていた。 ──幕府は間宮林蔵などの報告から、北蝦夷地が大陸から突き出た半島ではなく、島であると考えている。もし北蝦夷地が島であれば、仮にわが藩がここに領地を得たとしても、国境策定の一戦をロシアとはしないで済むということになる。それは運がいいということなのであろうか。 帰途、蝉の声は、蜩(ひぐらし)のそれに変わっていた。もう秋に入っていたのである。 それから間もなく、三ヶ月という短い期間ではあったが、最新の蝦夷事情の情報収集のために平蔵は江戸へ派遣された。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.02.05
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「平蔵! 事はそう簡単なものではないぞ。新潟港近くから阿賀野川をさかのぼると、間もなく会津藩領津川の川港となる。我が帆船とは異なり、小型のロシアの黒船ならば、そこから上陸も可能。南部藩ほどの警戒の必要はないとは思われるが、それでも田中様は物見・連絡のため、新潟港と佐渡島に一隊を派遣の検討をなされておる」「なるほど、それなら御家老様もご存知と思いますが、寛政七(一七九五)年、ロシア軍艦は日本の商船の貨物を蝦夷地近海で略奪したあげく択捉島へ強行上陸しておりますし、またイギリス船プロビデンス号が室蘭に来航して上陸しております。そうなるとイギリス艦隊の動きも見張る必要があるのかも知れません。新潟港は重要なのかも知れません」「それらもあって十年ほど前、幕府は近藤重蔵を首領とした総勢一八〇名余の大調査団を蝦夷地に派遣した。その後幕府は、蝦夷地東部から千島列島までを松前藩から召し上げて幕府の直轄領とし、箱館に奉行を置いて南部藩、津軽藩、秋田藩、庄内藩に蝦夷地防衛のための出兵を命じた。南部藩からは五〇〇人が出兵、その主な駐屯地は箱館、室蘭、根室、国後島、択捉島などの広い範囲にわたったという。それに日本の領地としての実効を上げるため、最初の大規模農業移住が実施され、八王子から農家の二,三男約一八〇人(八王子千人同心)を苫小牧沿岸や勇払沿岸に移住させた」「そのことについては存じておりましたが。後手に回っていた蝦夷地の所領権がわが国にあるということを、明確にしようというお考えに基づくものなのでございましょうか?」「うむ。ここはわが国にとって、裏庭のような場所であるからな」「私も左様思います。しかるに近年、北蝦夷地や千島の各地で和人とロシア人との衝突が頻発するようになりました。その上、文化元(一八〇四)年には、ロシアのレザノフという者が長崎へ来航、翌年、松前藩は防衛能力無しとして奥州の梁川(福島県伊達市)への転封を命じられました」 采女は身を乗り出して言った。「それにロシアのレザノフは昨年にも北蝦夷地のクシュンコタンを侵し,今年には択捉島を襲って沙都会所などを焼き,ついで利尻島で幕府の官船を焼き払った。『択捉島事件』というのだが、これには幕府も黙ってはおれず、再び津軽、南部、秋田、庄内各藩に出兵を命じた」 平蔵の声も、思わず強くなった。「はい、それに御家老様。ロシアという国は、恐ろしく力のある国のようでございます。今年の春、ロシアはアラスカの領有を宣言、ここを足がかりに、つい先年建国したばかりのアメリカ国の西部・常夏のカリフォルニアのフォート・ロスに城壁を作り、農業入植地の建設して。わがものとした上で、それでも飽きたらぬのか通商使節のレザノフは実力で日本との通商を図ろうとして北蝦夷や千島列島を襲撃しているのでございますから」「うむ。このような経験もあって、幕府は蝦夷地の防衛強化策を打ち出した。そのような地へのわが藩への派兵要請であるから、家老会議は揉めた。『断固拒否すべし』との意見もあったがこれは幕府の要請、むげに拒む訳にも参らぬ」 そう言われて黙ってしまった平蔵に、采女が続けた。「だがその議論は、田中様が幕府に対して逆に派兵を依願されたことを話されたことで、皆黙ってしまった。そのとき田中様がこう言われた。『長い間わが藩が、不作などで苦しんでいたあの財政難。その再建のため、完全に成ったとは言えぬまでも幕府には一方ならぬご配慮を賜った。幕府に蝦夷地防衛の強い意志があり、寒冷地のため奥羽の兵をというご考慮から庄内藩や仙台藩の追加派兵の内定のあることを知って、わしは断ることが出来ぬと思った。無論お国のためという遠大な理想もあるが、むしろこの派兵をわが藩の実績として、わが藩の地位向上に役立てるべきであると考えた』とな」 そう言われた平蔵は、藩の過去を考えていた。 当時の会津藩は、度重なる不作と百姓一揆、城下の大火や江戸上屋敷の火災、さらには山形城在番を命じられるなど財政は破綻寸前となっていた。藩は年貢の引下げにより農村の安定をはかり、また藩士俸禄の借上げ(借知)も行ったが財政は悪化の一途をたどった。累積した借金は五十七万両にものぼり、(一両=一石)会津藩の石高の二倍以上の巨額の借金となっていた。このようなとき、田中三郎兵衛玄宰は家老に任じられ、藩政改革を推し進めていた。玄宰は倹約令や華美な風俗を取り締まり、特産品の売買奨励や教育の普及などを図り、さらには京都から招聘(しょうへい)した工人により金粉・金箔の生産し、会津漆器の名を全国に知らしめた。 寛政五(一七九三)年には江戸中橋に会津藩産物会所を創設し、会津の品を販売して多くの利益を得、さらには長崎在留の清国やオランダと貿易を試みた。これらのことにより、財政再建が成されていった。享和三年(一八〇三)年には藩校・日新館を創設した。ついで玄宰は薬用人参の栽培、酒造、陶磁器、そして絵ろうそくの改良など、産業の振興を進めた。この藩政改革は大いなる成功を収め、藩政も比較的安定化した。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.01.31
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密 命 高津平蔵が会津藩家老の北原采女光裕の私邸への呼び出しを受けたのは、唐太へ出兵する前年の初秋のことであった。一人で通された客間で待つ間、残暑の中を鳴く蝉の声が五月蠅く聞こえていた。「待たせたな」 そう言いながら采女が部屋に入ってきたのは、それから間もなくのことであった。深く一礼をし、挨拶の口上を申し上げようと顔を上げた平蔵を手で制した采女は、「近う」と声をかけた。 軽く一礼をして、平蔵は一膝前へにじり出た。「その方、以前、藩命により江戸へ出て、学者の古賀精里先生に学んだ。帰郷後は藩主・容衆(かたひろ)様の侍講をつとめ、藩校・日新館で儒学を教え、博く経史を究め詩文にも通じている。そうだな?」」 いままた『新編会津風土記』の編纂にも参加している平蔵は、そうたたみこむように言われて肯定も致しかね、黙っていた。「実はな。そのようなお主を見込んで、筆頭家老の田中三郎兵衛玄宰様から密命があった」 そう言うと采女は、声をひそめた。「そうなったについて、まず最初に話さなければならぬのは、今般幕府の令により、わが藩は蝦夷地ばかりか、北蝦夷地へ派兵することになったということだ」 思いもかけぬ話の展開に、平蔵の耳には、庭の蝉の声が小さくなったように感じられた。「蝦夷? 北蝦夷、でございますか?」 床の間を背にして有無を言わさぬ話し方に、平蔵は圧迫感を強く感じた。「左様。それでつい先日、幕府の蝦夷調査団にわが藩の野村忠太郎を同行させておったがこれが戻って来た。その報告もあって、わしはその北蝦夷警備の陣将を受け賜わることになった」 平蔵は絶句した。そんな話があったのを、全く知らなかったからである。平蔵にしても、江戸留学中に海外の様子も学んでいた。「すでに一〇〇年ほど前、赤穂浪士の討ち入りのあった元禄十五(一七〇二)年、ロシアの勢力はカムチャツカ(火の国の意)半島にまで達し、さらには千島列島最北端のシムシュ島および第二島のパラムシル島に上陸、アイヌ人との苛烈な戦いの末、住民にサヤーク(毛皮税)を献納させてロシアの支配を認めさせております。しかるに松前藩は幕府へ提出した上申書の中で、『蝦夷地・北蝦夷地・カムチャツカは松前藩領で自分が統治している』と報告していたそうです」。「ほお、ロシアとは、そんな昔から動いておったのか。それにしては松前藩も、随分と大風呂敷を広げたものだな」「はい。ちょっと広げ過ぎたようでございます。それから六〇年ほど前の元文四(一七三九)年に、ロシアのシパンベルクという者が房総沖に到来、その帰りに色丹島および蝦夷地の野付半島に上陸、さらには延享四(一七四七)年、修道司祭のイオアサフが千島列島に渡って先住民の布教に当り、シムシュ島とパラムシル島のアイヌ二〇八人をロシア正教に改宗させたそうです」「まあそれにしても、松前藩も手の届かぬ北の島であろう?」「とは申しましても、その後の宝暦九(一七五九)年、根室半島の納沙布アイヌ人二〇〇〇から三〇〇〇人が宗谷アイヌ人を襲撃して内乱状態となったときに、松前藩の湊覚之進が調停のため厚岸に行ったそうですが、その三年前に一〇〇人ほどのロシア人が厚岸に来航したことを知らされたそうです」「うむ」 そう言われて、知らなかった采女は黙ってしまった。「それから明和三(一七六六)年頃から天明元(一七八一)年頃にかけて、ロシアの軍艦がウルップ島や択捉島に、また霧多布や根室、国後島付近に出没して物産を掠(かす)め取ることがしばしばあったそうです」「そうか。白河藩主・松平定信様の要請もあって蝦夷地調査の一隊が派遣されたのは、そのような理由があったからなのか」「恐らく左様でございましょう。しかしそれでも蝦夷地への攻勢が著しく、寛政四(一七九二)年にはロシア使節のラクスマンらが、漂流した伊勢の大黒屋幸太夫を送還する名目で根室に来航、通商を求めました。これらのことから松前藩の非力を知った幕府は、その翌年、南部藩に松前藩応援の出兵を命じられました。南部藩は藩兵三八三名を根室に派遣して蝦夷地東部から択捉、国後島まで散開、その警備に当たったのですが、その一方でロシアからの報復攻撃を恐れて取据番所を志利屋村の尻屋崎(東通村)、大畑陣屋(大畑村)、黒岩(佐井村)、牛滝(同)などに増設いたしました。つい十六年ほど前のことでございます」「うむ。それについては、わしも聞いておる。ただ杞憂と思うかも知れぬが、わが藩としても、ロシアに直接の報復攻撃をされることも考えておかねばならぬのかも知れぬ。わが藩は内陸部にあるからと言っても安心はできぬ」「まさかそのようなことは・・・」と平蔵は思ったが、半面、「さもありなん」と考え、その心の内は交錯していた。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.01.27
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蝦夷への海は荒れていた。否応なく青森で帆待ちをせざるを得なかった。そのためようやく青森を出発したのは、三月も十六日であった。すでに一ヶ月という期間を浪費していた。松前街道を通り、油川宿(青森市)、蓬田宿(蓬田村)を過ぎて蟹田宿(外ヶ浜町)に泊まった。松前街道は青森から竜飛崎に至る街道で、蝦夷地の松前藩が参勤交代に利用したことからこの名がついたという。「もう三月も半ばなのに、この寒さは耐え難いな」 平蔵は、黙々と一緒に大筒の橇を押している友吉に、独り言のように話しかけた。 三月十八日、狗穴巖(いぬあないわ)をくぐり峻険な道を過ぎる。鉛色の空と海が合わさったような狭いこの道に、狗の名を付けたのであろう。ここでもまた美しい石が産出した。今別に宿る。 三月二十四日、松前奉行の川尻肥後守春之様が、蝦夷地警備に赴く藩士を迎えに来た。陣将が部下を率い、お迎えをした。 三月二十九日、全隊がついに三厩宿(外ヶ浜町)に到着した。ここの海辺には奇岩が峙(そばだ)ち、奥の方の巌にそれぞれ数人が入れるほどの三つの洞窟があった。俗に源義経が馬を繋いだ所と伝えられる。三個の厩、つまり三厩の港の名はここからきたものであるという。 源頼朝公に追われた義経公はここより蝦夷に渡ろうとして津軽海峡の荒波に阻まれた。しかし義経公が岩に座り、守り神の小さな観音様を祀って三日三晩祈ったところ、夢枕に白髪の翁が現れて「三頭の龍馬を与える」と告げた。目覚めると岩屋に三頭の馬が繋がれており、海は凪(な)いで無事蝦夷に逃れたという。近くの義経公が座ったという浜の高台には、円空が義経公の観音仏を見つけ、それに自らが彫った仏像を一緒に納めたという義経寺が立つ。それ以来土地の人々は、この岩を厩石、この地を三厩と呼ぶようになったという。「そもそも、義経公の蝦夷渡海説は、林羅山・鵞峯父子が幕府の命令で編纂した『本朝通鑑』(一六七〇年)の義経の条に、『衣河ノ役、義経死セズ、逃レテ蝦夷ケ島ニ至ル、其ノ遺種今ニ存ス』云々と記した辺りに端を発しているらしい」「林羅山がですか?」「うん。その後も徳川光圀公が、『大日本史』に異説として義経渡海説を載せている」「はあ」「これについては金史の別本でも伝えられていると言われたが、新井白石は、これは単なる判官贔屓(はんがんびいき)の無知蒙昧(むちもうまい)な話に過ぎないと言っている」「金史の別本?」「うむ。金史とは中国の金代の歴史書であるがこれには本来『別本』などなかった。ところが偽系図作りの名人、沢田源内なる者が承応二(一六五三)年に江戸へ向かい、『金史』の『別本・列将伝』という中国の書物に義経の息子で義鎮という者が大陸に渡って、金の将軍になったという記述があると言って水戸頼房卿に売りこんだ。もっとも、偽系図作りで名をはせた正体が露見しそうになり、退去し、仕官はかなわなかった。けれど、『金史別伝』は疑わしきものとしてではあっても、『大日本史』に、載るところとなってしまった」「はあ。左様で」「しかし今では、それが沢田源内の作ったいい加減な話とされている。しかもこの男、科学者の平賀源内先生の名を騙っているようで、なおさら胡散臭い。俺も、もし義経公が生きて捲土重来を期すとしたら、もともと和人の少ない蝦夷で、戦いのための日本人を徴募できると考えたであろうかと思う。まさかアイヌ人を部下にして鎌倉に攻め上るなどと考慮の外だ。そのために義経公がここより蝦夷へ渡海したということについては、大いなる疑問を感ずる。これはもしかして、義経公自身がではなく、残された家来たちが逃げ渡ったということではあるまいか?」「なるほど」 三厩では、米が一升、八十六文もしていた。「それは高値だ!」 竜飛崎(ママ)は津軽半島最北端の地である。眼下は断崖絶壁で巾十間(十九・五メートル)と狭いがかえってそのために激しい潮流と風の吹く難所となっていた。そして前方には、蝦夷地の箱館山やその向こうに連なる山々を一望することができた。 ここより松前までの海中に、竜飛、中潮、白神と三ヶ所の難所がある。ここでの海流は西北より流れているが、この難所は数十里にわたって隠れている。この三ヶ所の危険なことは阿波の鳴門以上であるといわれる。昔からここで遭難する客舟は少なくない。天が栄える日本と蝦夷との境界としたかのように思える。「いよいよ海を渡る。覚悟せねばなりませぬな」 友吉が神妙な顔をして言った。 ──友吉は荒れた海を心配しているのか、それとも戦うことを覚悟しているのか。 平蔵も神妙な顔をして考えていた。「さすがに荒れた海は、猪苗代湖の比ではないな」「はい。海とは猪苗代湖よりちょっと大きいだけと思い込んでおりましたが、とんでもなく恐ろしい所でございます」「うむ、これでは藤つるなど編んでも、波で流されてしまうわな」 二人は、海鳴りの響くその先に目を投じていた。そして目の前の海は、降る雪に煙って見えていた。 その夜は波浪の音に揺れるかのような最後の宿泊地、解発に泊まった。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.01.24
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いつ出るか分からない出発命令を待ちながらも、いよいよ本土から離れるのが近いという感覚が故郷への思いを募らせていた。「会津を出発してから一ヶ月にもなる。遙かに来たものだ」「はい、ここには雪はありますが、会津は春が近いでしょうね」 友吉のこの言葉が、二人に話の接ぎ穂を失わせていた。「ところで先輩。仙台藩が北方警備に出るのは奥羽最大の藩であるから当然とも思えるのですが、何故わが会津藩も出なければならなかったのですか? 仙台藩だけでは足りなかったのでしょうか? そこのところがよく分かりません」「うーん、その理由になるかどうかは分からぬが、いま北方警備に出ている藩は南部、津軽、秋田、庄内、仙台、それにわが会津藩だ。そのわが藩は仙台に次いで奥羽第二の大藩、それが理由の一つではないか?」 しかし友吉は、驚くようなことを口にした。「それにしても先輩。筆頭家老は、こちらから幕府に派兵を申し入れたと聞いたのですが、本当でしょうか?」「うっ、お主もそれを聞いておったか?」「はい。しかし筆頭家老は、なぜこのような貧乏籤(くじ)を自分から引かれたのでしょうか? 会津藩としても決して楽な財政状況ではなかった筈」「確かに。あの苦しい財政をどうにか立て直してきたのが筆頭家老であったのであるから、北方警備が藩にとっての負になることは十分にご存知であった筈」 しばらくして平蔵が言った。「よくは知らんが、もしかして会津が鬼門であったからではないか?」「えっ、キモン?」「うむ、わが藩は蒲生氏郷公以来、都を安寧ならしめるべく、この鬼門の地に置かれてきたという。田中様は『わが藩がロシアの暴虐から日本を守る、つまり江戸を守るべき時が来た』と考えられたのではあるまいか」「そうか、その鬼門か」 友吉は口を一文字に結ぶと納得したのか、小刻みに頷いていた。 海の天候は荒れていた。このため会津隊は、ここでほぼ一ヶ月の帆待ちを余儀なくされることとなった。「こう足止めが長いと、気が揉めるな」「左様で、何か先輩、こう自分の足腰が萎えてくるような気がします」「それは困る。むしろこれからが大変だ。せっかくわれわれが藩の重役方に強硬な申し入れをして先鋒隊を承ったのに、戦う前にそれでは困るぞ」「いや、大丈夫ですよ。いざとなったら、奴らに目にもの見せてくれます」 ここ北部の二藩は、他の藩とは比較にならぬほど緊張していた。それは六年前の寛政五(一七九三)年、津軽藩は盛岡、八戸藩とともに北方警備に派兵していたからであった。 また三年ほど前に起きた択捉島事件で痛い目にあった南部藩では、古くからの海防施設の拡充に力を入れていた。海に面している南部藩は、ロシアの直接の攻撃を恐れていたのである。田名部代官所(青森県むつ市)管内の尻屋岡上(下北郡東通村尻屋)、あおべさき(東通村尻労)、大間崎(下北郡大間町大間崎)、おきな(むつ市脇野沢町)の四ヶ所や大畑村(むつ市大畑)の焼山崎、宿野辺村(むつ市宿野辺)の品の木崎の番所などがそれである。 平蔵はこの状況を見て、直属の上司である日向三郎右衛門に急いで会津へ報告する許可をとった。「これを単に杞憂と笑ってはいられない。海から離れていても、会津がロシアからの報復攻撃を受けないという保証はない」と心配したからである。 会津藩では、通常、先鋒、左右翼、殿(しんがり)を一年交代で順番に役目を果たす『四陣の制』を用いていた。ところがここにきて、先鋒を希望する隊の要請が強く、やむを得ず配置先をクジで決定したのである。三番手で松前駐在となる筈の三宅孫兵衛隊が最前線の北蝦夷地行きを当ててしまったため、会津を出るとき決められていた梶原・日向隊の両隊から不満の声が上がった。『四陣の制』は、もともと次のように構成されており、一年目に先鋒についた軍は二年目には殿、三年目は左右翼、四年目で一巡することとなっていた。また陣将は千石以上の家老で、番頭隊の番頭は八百石級、新番頭隊の新番頭は五百石級の者が充てられていた。 先 鋒 陣将隊 一 隊 約 四〇〇名 番頭隊 一~三番隊 各約 四〇〇名 左右翼 陣将隊 一 隊 約 四〇〇名 番頭隊 一~三番隊 各約 四〇〇名 中 軍 藩主本陣 約一〇〇〇名 輜重隊 約 四〇〇名 殿 陣将隊 一 隊 約 四〇〇名 番頭隊 一~二番隊 各約 四〇〇名 新番頭隊 一 隊 約 四〇〇名 御留守備 約 五〇〇名 猪苗代御留守 約 一五〇名 梶原隊と日向隊からの猛烈な抗議行動に、総大将の内藤信周がこれを白紙にし、改めて『四陣の制』に戻すことになった。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.01.19
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正月十四日、本宮を出発した。本宮から先は、一路北へ続く奥州街道であった。南杉田宿(二本松市)、北杉田宿(二本松市)を過ぎた。雪はさらに浅くなって橇を使えなくなり、大筒を運ぶのに甚だ(はなはだ)苦労をした。そのため二本松藩は、応援の人足の助力を出してくれた。これ以後多くの藩がこれを知り、各藩とも同様に助力をしてくれるようなった。「苦労をかける。済まぬ」 気さくに声を掛ける平蔵に、こちらの様子を窺っていたらしい人足の一人が言った。「お侍様方もご苦労様です」「うむ、ところで話に聞いてはいたが、有名な安達ヶ原はここからは遠いのか?」 そう問いかけられた人足は、嬉しそうな顔をして言った。「あれ、安達ヶ原の鬼婆の話を、知っておられやしたか? ここからはさほどではございやせんが、お侍様。あそこの岩屋には今でも人を切った包丁とか、人を煮た釜などが残っておりやす」「ふーむ、するとあれは作り話と思っていたが、実際の話だったのか?」 呆れた顔をして聞き返す平蔵に、人足は「ほんとの話です」と言うとふくれっ面をして黙り込んでしまった。それを見た平蔵は、笑いを噛み殺すのに苦労していた。しかし飢饉のときなど死人を食った百姓の話などを考えると、鬼婆が妊娠していた実の娘を食ったとの話はともかく、実際に人肉を食うということもあったかも知れぬとも思われ、「笑い飛ばして済まぬことをしたな」などと考えていた。 やがて二本柳宿(二本松市)、八丁目宿(福島市)を過ぎて清水町宿(福島市)に入った。ここは福島城下への峠の下り坂になる石那坂である。ここで福島藩差し回しの人足と交代した。 二本松城下を通るときにも感じたが、やはり他藩の城を見ながら行軍するということはある種の緊張を伴った。福島城が、奇異の目で群がって見ている町人たちの後の町並みの間に見え隠れしていた。福島城は阿武隈川の傍らにある平屋の城で、天守閣はなかった。その晩は、福島に泊まった。ここでは白米が六十六文、酒が一合十二文であった。この福島の西近くに、これから行く蝦夷松前から移封された梁川藩がある。 ││この度の出兵について、当藩より梁川藩へ、ご挨拶にまかり越したであろうな? 平蔵はちょっと心配になった。そして城中での派兵に関しての具体的な検討内容について、若干漏れ聞いていたことを思い出していた。 それは前年、文化四年のことであった。 城中では、派兵に関しての具体的な検討が続けられていた。一六〇〇名という大部隊の北蝦夷地までの旅費と軍資金の捻出、携行武器の準備、近くの宿場を組み合わせることによる分宿施設の確保、そして最大の問題のロシア軍との戦闘体制やへいたん兵站についてであった。そのほかにも、少数兵力となる藩の体制維持や残される家族についてなど、問題は山積していた。 その会議の席で、ある重役が提言した。「彼の国とて山はあるであろうから、きっと藤つるもあるべし。その藤つるを編んで海に敷き詰めれば、ロシアの船とて通ることは出来ますまい」 居並ぶ重役たちもこれにはハタと膝を打って、「これは名案!」と感心した。 しかしまた別の問題もあった。連絡係に任命された馬術に長じた三人の藩士たちが、田中玄宰に異議を申し立てたのである。「仲間が戦っている最中に戦場を離脱して連絡する役などとんでもない、誰か他の者と代えて頂きたい」 それに対して、玄宰が厳命した。「敵と戦うのはたやすいことである。しかし緊急連絡のため早馬で国元に知らせに走ることも、重要なことである。先頃もロシア兵上陸の緊急事態を蝦夷の松前から江戸への連絡業務に三人の使者が出発したが、二人は途中で亡くなり一人だけがようやくたどり着いたという例もある。早馬での連絡は命がけの仕事、戦うのと同じことなのだ。心して当たれ」 藩内では、「誰が行くのか、どの隊が行くのか、わが子はどうなるのか」。家族も不安に巻き込まれていた。やがて派兵の名簿が発表されると、本格的な軍事訓練がはじめられた。それは四ヶ月にわたっての厳しい訓練となった。 会津を出発してからほぼ一ヶ月後の二月十日、野辺地宿(青森県)を出発した会津隊の前に、津軽藩と南部藩の境界に作られた塚が見えてきた。高さが十二尺(三・六メートル)ほどの、こんもりと盛り上げられた土が、二股川を挟んだ両側に二個ずつ計四個が築かれていた。通称、四ツ森という。ここから西北の、津軽への道をとった。左が山、右が海であった。しかしここに来るまで一ヶ月以上かかったということは、この旅が必ずしも円滑に進んだものではなかったことになる。ここでは人夫が不足したため、全員で大筒を車で運んだ。 二月十一日、海岸に続く険しい野内路に入った。この日は風が強く横なぐりの雪になり、寄せ来る波は大きく轟き、その上に雷鳴が鳴り響いて恐ろしい様相ではあったが、奇巌が多く、その絶景には素晴らしいものがあった。それはまた、冬だからこそ見られる景色であったのかも知れなかった。 野内宿より西路に入るあたりから道は平坦になった。夕方青森に着いた。今日の行程は大雪の上特に寒く、今日ほど恐ろしいと思ったことはなかった。昨日の人夫不足を聞きつけた津軽藩から多くの応援人夫が出てくれたが、それでも荷物の半分が届かなかった。のである。 青森の地は雪が最も多い土地柄で人家も埋没し、わずかにその屋根を雪の上に露出しており、人は雪に穴を掘って出入りしている。飼われている犬は、屋根の上で遊んでいた。船が出られないため、われわれは雪の収まるのを待った。津軽藩は酒を届けてねぎらってくれた。これより西の浜は外海に接しているため外浜と言うが、合浜とも言うそうである。美しい石を数多く産出しているので、好事家は記念としてこれを拾った。 青森に泊まった。しかし雪で海路が不通のため、青森に留まって状況の変化を待つことになった。この地では米が一升三十八文であった。 ││会津よりはるかに安い。これは江戸や大阪から青森港への廻米のためであろうか? それにしても遠くに運んで尚かつ安いとは、どのようなからくりなのであろうか。平蔵は疑問を感じていた。 三月十六日、青森を出発して蟹田に泊まった。 注 終北録での記述が、二月十一日から三月十六日に一ヶ 月以上一挙に飛んでいる。帆待ちの日にちとも考えら れるが、まったく記述が欠けているのが不思議である。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.01.16
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平蔵は、一緒に歩いていた後輩の関場友吉春温に声をかけた。「友吉、お前のところの生まれたばかりの春武は元気か? つかまり立ちでもはじめたか?」「うん、まあお陰様でどうにか。ところで先輩のところはどうですか?」「ああ、家のはようやく一番下が一歳になったばかりなのだが、これの夜泣きがひどくて少しも寝せてくれぬ。かえって家を出ることで泣き声を聞かないで済むと思うと、せいせいするな」「アハハ、そんなものですか?」「そんなものさ」 二人は別れてきた子供に話が及ぶと、急に黙り込んでしまった。多くの人数が旅に出るという華やいだ気分は、一切なかった。出征する誰もが、北蝦夷地とは遠い所という想像はついてはいたが、実際にどれほどの距離なのかの感覚は、まったく掴(つか)めていなかった。 平蔵は、昨夜のことを考えていた。平蔵夫婦に気を遣ってくれた父母が子どもたちを自分の部屋に引き取り、寝かしつけてくれていた。「明日は出発であるから」 そう言って早めに床について待っていたにもかかわらず、妻はその夜に限って厨に長くいた。待ちくたびれて、うとうととしたころ、枕元の行灯の薄明かりの中に、長襦袢姿の妻が指をついた。「旦那様、どうぞ何があってもお帰り下さいませ。ここには新しいあなたの『やや』も宿っております」 平蔵は急に妻に手を引かれて現実に戻され、戸惑ったままその腹に手を導かれた。そして導かれるままに、妻の腹に耳を乗せた。その平蔵の顔に、妻の涙がこぼれ落ちた。「大丈夫。安心して待っていてくれ。お前を置いたままにして帰らぬなどいうことは絶対にせぬ。約束する」 それを聞いた妻は、淑やかに平蔵に抱きついてきた。平蔵にしてみれば、「これが今生(こんじょう)の別れになるかも知れぬ」という思いもあった。妻への言葉とは裏腹に、生への危険を感じていたのである。平蔵は火照った身体の妻を、強く抱きしめた。彼女は、されるがままになっていた。 猪苗代は会津鶴ヶ城の支城の亀ヶ城のある町である。そしてここは、雪国である会津でも特に雪の深い町であった。一階部分に降った雪と、屋根から落とされた雪ですっぽり覆われた町屋では、二階から人が出入りをしていた。雪のない軽装の日なら半日で着く所ではあったが、この行軍には、さすがに丸一日を費やした。それでも猪苗代は『わが領内』という感覚があって気の休まる宿営ではあったが、誰かが言う「明日は二本松領だ」、という言葉が平蔵の心を締め付けていた。 ──そうか、これでいよいよ故郷ともお別れだな。 平蔵の頭の中で、妻や子どもたちの顔が次々とよぎり、ガンジキを着けた足が妙に重くなるのを感じた。 その晩、陣将の北原光裕采女が出陣の安寧を祈願するため、猪苗代城下にある徳川秀忠の四男・藩祖保科正之公の廟で鏑矢(かぶらや)二本を放って鳴らした。藩公の命で別れの挨拶に来た参政・井深重隆は全隊員に、「幼い藩公は埋門(うずみもん)から出陣していくお前らを、鼓門(つづみもん)内で見送って下さった」と知らせてくれた。それを聞かされて、涙ぐむ隊員もいた。 翌正月十二日、会津隊は猪苗代の町を出発した。雪の中の川桁、関戸を過ぎ壺下(つぼーろし)へ近づいていた。やがて隊列の前方が猪苗代の湖畔に着いたのであろう、前の方から歓声が上がった。背後を振り返って見ると、雪晴れの中に磐梯山が真っ白に輝いていた。隊員たちの中には、海とは猪苗代湖より少し大きい位のもの、との認識しかない者が少なくなかった。それであるから、北蝦夷地までは大した距離ではない、と思う者がいたとしても、決して不思議なことではなかった。平蔵らもその湖畔の道に入った。道はせいぜい半里(二キロメートル)を切っていたが、一望千里の湖の右手には、鶴ヶ城があるはずであった。「対岸の雪山が、まるで巨大な氷の塊のように見えるな。北蝦夷地もこうなのかな」「いやあ北蝦夷地もさることながら、この湖(うみ)の向こうにある会津に何時帰ることができるのでしょうかね?」「何を言っている友吉。まだ旅は、はじまったばかりだぞ」 平蔵は強く言った。それはまた自分に喝を入れようとする焦りにも似た気持ちからでもあった。 志田浜で湖から離れると壺下の集落に入った。ここは会津領最後の集落である。ここから平坦な道をしばらく行くと楊枝峠(ようじとうげ)となる。この峠は、二本松藩との境界となっており、曲折を重ねた長い坂道であった。峠に差しかかると、第一隊、第二隊が踏み固めて行ったせいもあって、滑って行軍が出来ぬので道の端の雪上に筵を敷き、道の中央は橇を通すため雪のままにして登った。峠道の安全を祈ったのであろう、林の中には雪をかぶり優しい顔をした地蔵が一つ立っていた。その他にも道の傍らには湯殿山碑や一里塚などがあった。 荷物を牽いての登り道も大変であったが、下り道もまた容易ではなかった。大筒など重い荷物を積んだ橇が自らの重みで滑り出すのを、後から引き戻しながら前進するのである。それでも余りにも滑り過ぎるので、雪上に藁を敷いては進んだ。その行動での合図は、すべて、法螺貝を鳴らすことで徹底された。 ──しかしよく見てみると、峠の登り下りはさほどでもなかったが、とにかく遠かった。それにあの下りの坂の長さを考えれば、猪苗代湖とは高いところにあるのだな。 平蔵は一人で納得していた。 その晩は二本松領最初の集落、中山宿の宿場に一泊した。ここでの米は、一升につき四十七文であった。 注*楊枝峠=明治十八(一八八五)年の中山峠開削以前。いま の猪苗代町壺下から郡山市中山宿の間の二本松街道にあっ た峠。現在の中山峠の北に位置する。 正月十三日の早朝、中山宿を出発した。峠を下ったせいか、道の雪が少なくなっていた。「驚いたな友吉、こうして見ると猪苗代湖というのは、随分高い所にあったのだな」「そうですね、普通水は低い所にあるとばかり思っていたから、何か不思議なような気がします」「それに、いつの間にか川は東に流れている。峠までは西に向かっていたのであるから、楊枝峠は分水嶺でもあったのだな」 やがて熱海に着いた。ここは温泉場でもある。何も知らぬ農閑期を利用した自炊の湯治客たちは、何日にもわたって陸続と連なる会津藩兵の大行軍を物珍しげに見ていた。「会津藩がまた行った」「いくつも大筒を引いて、戦争でもあんのかね」「戦争? どこで」「えっ? そんなの知るか! 何も聞いてないぞ」 熱海を過ぎると平坦地が続いていた。横川、苗代田、岩根本郷と進むにつれ、山にも道にも雪がますます少なくなっていった。さらには雪が溶けて土が見える所さえ出てきたのである。「会津の雪が、まるで嘘のようだな。これでは橇の運転にも十分に注意せねばならぬ」 そう言って平蔵は笑った。「まったくですね。しかし大筒を運ぶのに雪がない、というのも困ります。その上会津と違って、空の色まで明るい」 そう言うと、今度は友吉が笑った。ここでは白米が六十文、酒一盃三十文、草鞋一足十二文であった。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.01.10
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会 津 藩、ロ シ ア に 対 峙 す 唐 太 出 兵 いままで陰っていた陽が、すーっと明るくなった。身じろぎもせず立っていた高津平蔵は、思わず上目遣いに空を見上げた。濃淡まだらな雪雲が、風に流されていた。様子を窺っていると、間もなく陽は雲の濃い部分にかかるように思われた。平蔵がそのまま目線を下げてくると、そこには、鶴ヶ城の天守閣が見えた。その幾重にも重なった屋根には、この冬以来降った雪が重く積もっていた。文化五(一八〇八)年の元旦、その鶴ヶ城で、蝦夷地御固めのため御用とされた平蔵ら多くの藩士が出陣に際して殿にお目見えをし、年賀のお流れを頂戴していた。天守閣前の広場の固まった雪の上には、会津藩士おおよそ一六〇〇名がしわぶきひとつさせず、整列していた。いまや蝦夷地へ向けて出発しようとしている各隊の先頭には大筒と太鼓が置かれ、全員が完全武装し、足元は藁靴で固められていた。 当時、相次いで藩主の不幸に見舞われていた会津藩は、わずか四歳で封を継いだ容衆(かたひろ)が藩主として六歳となったばかりの年であった。 ──この幼い主君を盛り立てなければならない。 これは藩全体を覆う意志となっていた。 筆頭家老・田中三郎兵衛玄宰(はるなか)の激励の辞は、終わりに近づいていた。「昔、この会津からも、国を守るために遠く筑紫国まで防人(さきもり)として出征していった人々がいた。お前たちは 、今様の防人である。防人とは藩のためにだけ派遣されるものではない。幕府のため、ひいては国のために派遣されるものである。心して当たれ」 田中玄宰は手に持った指揮棒を掲げると、大音声で命令を発した。「強者共(つわものども)、行けい!」「おう、おう、おう」 一六〇〇名もの藩士の声が、大きなうねりとなって木霊していった。 その声の余韻の残る中を第一隊が先遣準備部隊として銃を担い、太鼓の音とともに行進を始めた。それはお屠蘇気分の抜けない、そしてまだ春には浅い、正月二日(いまの一月二十九日)のことであった。隊は五隊に分けられ、平蔵は荷駄隊を含む第三隊に属した。この第三隊の出発は、十一日に予定されていた。長い行程と途中での宿泊施設を考慮したとき、一六〇〇名余による一度の行軍は無理、と判断されていたためである。なお会津若松市史『会津藩政の改革』によると、蝦夷地派遣軍の人員は次の通りであった。ただしこの派遣人員については数説ある。 宗谷詰 軍将家老 内藤源助信周 以下 三七〇名 利尻島詰 番 頭 梶原平馬 以下 二五二名 松前詰 同 三宅忠良孫兵衛 以下 二六六名 小計 八八八名 北蝦夷派遣軍 陣将家老 北原采女光裕 以下 三二二名 同 番 頭 日向三郎右衛門 以下 二六七名 同 軍事奉行 丹羽織之丞 同 御目付 山寺貢 以下 八一名 同 道中奉行 横山数馬 同 普請奉行 梶原佐右衛門 同 武具奉行 遠山三太夫 以下 七五名 小計 七四五名 総合計一六三三名 正月十一日、平蔵ら第三隊も鶴ヶ城に集まり、再び田中玄宰の激励を受けた。しかしロシアとの間で戦争になるかも知れないという憶測が、晴れがましいはずの出陣に緊迫感を漂わせていたが、藩士たちはそれを見せまいと努めて明るいかお貌をしようとしていた。郭内の道の両側には、出征する藩士の家族たちが群れを成して見送っていた。しかし平蔵には、これから北蝦夷地へ行くということが、まるで信じられなかった。 一瞬、行軍する平蔵の目に、人込みの中で家族が見送ってくれているのが見えた。父母や弟、それに妻が平蔵に見せようとしたのであろう、幼子を自分より高く抱き上げているのが見えた。しかし平蔵は振り返ったり、確認しようとはしなかった。勿論したいとは思った。がそれは武士として、未練を残すよくない行為であると思えた。それはまた、他の藩士たちにとっても同じことであった。彼らは前面のみを凝視し、隊伍堂々と行軍していた。引導する太鼓の音が藩士たちの本心とは異なって、気分を高揚させるかのように強く鳴っていた。 郭内から本一之町に出ると、左折し直ぐに右折して大町通りに入った。見送りの顔ぶれは、町役人や町人のそれと変わっていた。彼らも、誇らしげな顔をして行軍を見送っていた。平蔵は、妻子と目を合わせなかったことを悔やんでいた。後ろ髪を引かれるような思いであったのである。 ──ああ、この町並みも見納めになるかも知れぬ。 その思いが、家族との別れを実感させていた。それに平蔵の二人の兄お従軍していた。さらに伯父の樋口光貫は左翼軍、さらには叔父の佐藤信友も殿軍に属していた。 明日には第四隊が出発する予定である。会津藩兵による蝦夷地までの長い行軍は、ようやくその緒についたばかりであった。 会津は山国である。城下から外に出るには、必ず峠を通らなければならなかった。当時、侍でさえ海を見た者は多くなかった。これからその海を、二度も渡って行くのである。 今日、最初の目的地の猪苗代の町へは、大寺経由の二本松下(しも)街道を行軍した。二本松下街道は、磐梯山の広大な裾を遠回りする道であった。二本松上(かみ)街道は猪苗代の湖畔を通る近道ではあったが、今日のように寒く雪が多い場合は湖からの烈風が地吹雪を引き起こし、寒気と視界不良から歩行困難で動けなくなることさえある道であった。橇(そり)に載せて馬に牽かせているとは言っても、大筒をはじめ多くの物資を運びながらの行軍となると、遠回りではあってもそれは確実な選択と思えた。すでに城下を出た行軍は隊伍を崩し、多くの小さな群れとなって歩いていた。左手には、磐梯山の山頂が雪に煙って見えていた。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.01.06
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